炎が燃えている。
全てを覆う闇の中、人々が持てる僅かな光の発生源として、そこかしこで炎が燃やされていた。用意出来るのは松明と焚き火くらいのものだが、数多くが狭い箇所に集まれば、ある程度の明るさとなる。それに縋るようにして北の民達は夜を過ごし、安定せぬ状況でも容赦なく、眠りを貪っていた。
ミズガルド北部、全てが終わるまで戻れるまいと思っていた故郷に、今シグムンド達は立っている。最後にこの地を見たのは、巨神達に追われて巨神達に追われてライン河を渡った時のことだ。それ以来どれほどの時が経ったのか、連続した戦いの中で、既に時間の感覚など麻痺してしまっている。再び戻れるとも思っていなかった故郷の光景は、戦士たるシグムンドにとってすら、心が震えるほど懐かしいものだ。だがその感慨を追い求める暇など無い、戦い半ばにして道を戻った代償は、望郷の念など消し飛ばす勢いで彼らの身に降り懸かっていた。北の地は今や彼らの故郷ではなく、完全なる敵地となってしまっている。点在する集落には当然ながら人の気配などなく、かつての喧噪を思い起こすことすら難しい、半ば崩された廃墟の群となってしまていた。狩人達が走っていた森には、そもそも動物の姿が見当たらず、闊歩するのは死霊と巨神という有様だ。予想していたこととはいえ、記憶の中のそれとあまりに異なる姿に、民達は大きく衝撃を受けているようだった。
松明の灯り、直ぐ傍らは明るいが遠くを透かすにはあまりに頼りない光を掲げて、シグムンドは闇の中を見据える。夜襲を行わない巨神族とは異なり、死霊共は太陽の所在など知らぬふりで、いつ何時でも構わず襲ってきた。夜襲に対抗するために人々は不寝番を立て、寝所と定めた場所の周辺を、夜通し見回っている必要がある。安心して休めない夜は、回復し切らぬ体力以上に、彼らの精神を少しずつ消耗させていた。
「フレイ。死霊の気配はあるか」
だがそれでも、シグムンドと彼が率いる民が進み続けられるのは、こうして共に立ってくれる神が居るからだ。如何なる力によるものか、闇の中でも微かに光る鎧を身に付けたフレイが、シグムンドの問いに答えて首を横に振る。人間のことを考えるのであれば、少しでも戦力の多いブルグントに残って軍を率いるべきなのだが、それでも彼は北の民と行動を共にしてくれていた。理由は分からない、だが当たり前のように北へと向かってくれたフレイに、シグムンド達はどれだけ勇気づけられたことだろう。神のために戦えと教え込まれたミズガルドの戦士にとって、自らと共にある神の姿は何よりも大きな祝福であり、力を生み出す誇りとなった。
そして彼らが持つ光は、それだけではない。今はここに無い双神の片割れ、女神フレイヤの向かう先こそ、人類に残された最後の希望だった。彼女は今、人の軍とも神の軍とも別れ、ただ一人冥界の底へと向かっている。そこに居るという死霊を操る巨神、ニブルヘイムの王ヘルを倒すことが出来れば、地上は再び生ある者の世界となるのだ。
フレイが語るその話は、圧倒的な数の死霊に怯える民達に対して、劇的な効果をもたらした。人は希望を持たねば生きていけない、如何に勇敢な戦士でも、闇を見詰め続けていてはいずれその力は尽きてしまう。果てのない戦いの末に命を落とし、自らも死霊として彷徨うだけの運命など、正常な精神で耐えられる筈も無いのだ。
「ヴェルンド達も、無事だと良いが」
北を目指した戦友達もきっと、未来に光を見出すことが出来なかったのだろう。大国の総力を集めた戦線は崩れ、ようやく倒した巨神の代わりに現れたのは、無限とも思われる死霊の群れだ。生き延びるのは不可能と判断し、せめて自分の納得できる死を選びたいと考えるのも、不思議ではない。
シグムンドにヴェルンドやヘルギを責める気はなかった、彼らと自分の間に、大きな差など無い。あるいはフレイよりも先にヴェルンドと話していたならば、シグムンドもまた故郷での死を選んでいたかもしれないのだ。だが現実はそうならなかった、同じだけ起こり得た未来を分けたのは、ほんの僅かな差異だ。美しき女神がもたらす希望を、知ることが出来たか否か、本当にそれだけの差なのだ。
だからヴェルンド達にも教えてやりたかった、人類には希望があることを。生き抜いた先に光があることを、それを知れば彼らもまた、戦士の誇りを取り戻してくれる。
「きっと無事だろう。抜け出したのは少人数だ、真っ向から戦うことを選ばなければ、逆に逃げるには容易い」
「……そうだな。皆生きている、生きてこの地に辿り着いていると信じよう」
故郷で死にたいというならば、生まれ育った地に辿り着くまでは、何があろうと生き延びようとするだろう。彼らの実力ならば、生きようとする限りは、そう簡単に死にはしない筈だ。だが目的を果たしたその後にどうなるか――あまりに明らかで、それが故に考えたくはならない。
「早く、あいつらを見付けてやらなければ」
彼らが愚行に走る前に合流し、死に急ぐ必要など無いと、教える必要がある。シグムンドの呟きに、フレイは真剣な眼差しで、力強く頷いてみせた。
「ああ。安心しろ、きっと間に合う」
そう請け合うフレイの言葉に、どれだけの真実があるかは分からない。神といえど万能ではない、主神オーディンですらも、世界を見渡せるのはその玉座に居る間のみなのだ。こうして人と同じ地に立ったままで全てを見通すことなどできる筈もないのだが、それでもフレイに肯定をもらえると、不思議な安堵が心に満ちてくる。神の持つ力か、それともシグムンドが彼に預けた信頼が故なのか、それは分からないが。
「そうだ、間に合うとも。妹が冥府へ向かったのなら、私は地上に残り、人と共に戦うのが役目なのだから」
あるいはそこに、彼が持つ硬い決意が感じられたのも、理由のひとつなのかもしれない。続いた言葉は、シグムンドに向けられたというよりも、自らに言い聞かせたもののように思われた。繰り言にも聞こえる、だがそう名付けるには遙かに強い語調に、言葉を返せず口を閉じる。しかし直ぐに、シグムンドの目には力が宿り、大きく頷きを返した。
「感謝する。お前がミズガルドに残ってくれたおかげで、俺達はまだ戦っていられる」
「それが私の役目だ」
「だが、感謝する。今だけではない、最初からお前達は、人を見捨てずにいてくれた」
巨神の復讐を恐れ、アスガルドに立てこもった他の神々と袂を分かち、人と共にあることを選んでくれた。人が叫ぶ神の名も、彼ら兄妹が居てくれたからそれは、実の伴わぬ虚ろな呼びかけとならずに済んだのだ。シグムンドの真摯な、言葉を飾らぬ想いの吐露を受け、フレイの口元に微かな笑みが浮かぶ。それは謝辞に対する謙遜と同時に、奇妙な困惑を表しているようにも思われた。
「そう、言われるようなことではない。私は人と、お前達と共に在りたかった、それだけだ」
「そうか」
「お前達は強い、他の神々が考えていた以上に。私はそれを見届けたたかった」
「……ならば、その評価と決断に感謝しよう」
彼は神だ、その生きる世界も道も、シグムンドの想像が及ぶものではない。それを捨てて人と共に在るということの意味も、本当には分かっていないのかもしれなかった。だがその重さを想像することならできる、生きる世界の法に背いてまで成した選択が、どれ程の重みを持つか。だからこそ彼の姿は、シグムンド達に誇りを与えてくれるのだ。
それを裏切らぬような戦いをしたいと、改めてシグムンドはそう思う。
「そして最期の瞬間まで、お前の期待を裏切らぬ戦士で在ろう。――そのためにも、ここで死霊共にやられるわけにはいかないな」
「ああ、勿論だ。耐え抜こう、フレイヤが勝利し、ここに戻るまで」
強く語るシグムンドに向けてフレイも頷き、そして彼らはまた、視線を前に戻した。戦いはまだ続いている、いや一層激化して、シグムンド達の腕を以てしても油断すれば死に到りかねない状況だ。遠くに輝く希望に気を緩めていては、女神の帰還を待たずして、ニブルヘイムへ堕ちるのは目に見えている。一人戦うフレイヤを余所に醜態を晒すわけにはいかない、そう決意を新たにして、シグムンドは闇の向こうへ目を凝らした。松明の光で照らされた周囲はともかく、その域を越えてしまえば、狩人の目を以てしても見通すことなどできない。月明かりでほんの僅かに浮かび上がる輪郭を見ながら、その奥に死の気配が無いかと、五感を鋭くさせて探り続ける。
「暗いな」
「ああ」
「死霊は何故、この暗い中を動けるのだろうな。巨神ですら、夜には大人しくしているというのに」
警戒しつつも戯れ言が漏れるのは、油断というよりも逆に、緊張感を保つための行動だ。限界まで高めた集中は短時間しか持たない、適度に気を緩めてやらないと、限界を迎えてぷつりと途切れる。それが分かっているからか、フレイも眉を顰めることはなく、常と変わらぬ様子で言葉を返した。
「冥界ニブルヘイムは、地中にある魔物の国、スヴァルトヘイムのさらに先にある。光のない世界には慣れているのだろう」
「ふむ、成る程な」
「死者に光は必要無い、むしろ闇の中こそ、本来存在する場所だ。奴らが居るべきはこのミズガルドでも、ましてアスガルドでもないのだ」
そうして交わされる会話に、シグムンドの脳裏にはまた、否応無くひとつの姿が思い起こされてしまう。地の底よりもさらに底、光差さぬ死者の国で一人戦う、美しい女神。
「フレイヤは、無事だろうか」
闇の世界にただ一人、その細い身体で飛び込んで。たおやかな見た目にそぐわぬ強力な力を持っていることは知っているが、同時に彼女が不死でも不敗でも無いこともまた、事実として学んでいた。神とて力が尽きれば膝を折り、迫る敵の前に命を散らすこともある。その時に傍らに居れば微力を貸すことが出来るが、今フレイヤが行くのは地の底、誰一人の手も届かぬ死の国だ。命無き死霊が無限に漂う闇の中、彼女は無事、進み続けていられるのだろうか。
抑え切れぬ焦燥を浮かべるシグムンドに対して、フレイは声を乱すこともなく、淡々と答えを返す。
「信じろ。あれも神だ、見た目程に弱い存在ではない」
「それは十分知っているが」
「妹は、人を守りたいと言っていた。その決意は確かだ、きっとヘルを打ち倒し、ミズガルドへと戻ってくる」
それを信じろ、と。繰り返される言葉は、やはり何ら裏付けを持つものでは無いが、何故かフレイは奇妙な程の確信を抱いているようにも見えた。彼らは双生の神だ、あるいは事象を越えたどこかで繋がりを持っているのかもしれない。
「そうか。……そうだな」
ならばシグムンドも、それを信じたかった。それが人の希望だからというだけではなく、シグムンド自身の願いとして、彼はフレイヤの生存と勝利を願っている。いずれ死霊は消えて失せ、気味の悪い空の色も常の青に戻り、そしてその下には大地を踏みしめるフレイヤの姿があることを。
「妹は必ず戻ってくる。必ずだ」
「ああ」
「そして我々はその時まで、生き抜かねばならない」
「ああ、勿論だ」
それは儚い望みではない、例え不死ではなくとも彼女は強い。人を守り、自ら前線に出て戦う女神、そんな存在が有るとは今まで思いもしなかったが。
ふと、かつて交わした会話が記憶の縁へと浮かび上がり、シグムンドはフレイへと視線を遣る。
「フレイ。お前は以前、フレイヤは女だと言っていたな」
「ああ」
「フレイヤは女であり、それ以外の存在には成れないと。言っていたな」
もう随分と以前の話に思える、ロキの封印へと向かう前に開かれた、最後の宴での会話だ。強き力を持つ神は、その力自体に縛られ、己に与えられた性質以外のものにはけしてなれない。女そのものと定められたフレイヤは、誰の意志にも願いにも曲げられずに女でしか居られないと、フレイはそう語っていた。
だが、とシグムンドは呟く。
「女は、男を守るために戦ったりはしない」
神と人の差があるとはいえ、フレイヤが取った行動は、女がするにはとても有り得ないようなものだった。人の兵を助けるため自ら敵中に留まり、あるいはフレイやシグムンド達を守るために冥界へと向かい、どんな時でも守られることを良しとしない。シグムンドが知る女ならばそんな道は選ばない、女とは男の背に隠れ、男の振るう剣によって守られるものだ。ミズガルドの女も、語り部の伝える女神たちも、誰一人外れることなくそうだった。
「オーディンの娘達ですらも、男を立たせ、戦場に駆り立てるのが役目だ。自ら武器を取って男の前に立つ女など、俺は知らない」
だからフレイヤは、女などという枠に縛られるものではない。熱く流れる血と心を持ち、確固たる意志で自ら戦いを選ぶ、一個の存在。誇り高く高潔で、けれど人と同じ弱さも持つ、それがシグムンドが見てきたフレイヤだった。
「フレイヤは、フレイヤだ。女であるよりも前に、フレイヤ自身なんだ」
そして彼は、そんなフレイヤを愛した。人を導き前線で剣を振るう、その強さを愛した。人の気も無い小さな村で、ただ一柱朽ちようとしていた彼女の輝きを愛した。敵うはずもない強大な力を前に、心折れる弱さを――愛した。
女だからでは、無い。神だからですら無い、シグムンドが愛したのは最初から、フレイヤという存在のみだった。
「――そうか」
語られる愛の言葉に、フレイが優しく微笑んだ。闇の中で微かな光に包まれ、確かに神と分かる美しい姿で、シグムンドへと柔らかな笑みを向けている。
「妹は幸せ者だ、そう言ってくれる男と出会えて」
同時に何処か遠くを見る視線は、死の先へと向かう妹の姿に注がれているのだろうか。幸福と寂寥の入り交じったその微笑を、シグムンドは何も言えずに見返す。彼らがアスガルドで過ごしてきた日々を、人であるシグムンドは何も知らない。語られる神話にも、双生神である筈の彼らが対となった話は殆ど無かったように思われた。彼らの絆を考えれば奇妙な話だ、あるいはそこに、人には知られぬ理由があるのかもしれないが。
「あれ程美しい神だ、俺のような男など後を絶たないだろう」
「いや、美しいからこそだ。あれの美しさは確かに男を惹きつけるが、そうして生まれる愛情は、男女の性に支配されたものに他ならない」
傍で見ていても分かるほど深く結びついた兄妹だというのに、死ぬときは一人だと言い放ち、死地に向かう際もこうして別々の場所に立っている。その、不思議な程厳しい態度にも、余人には踏み入れない理由があるのかもしれなかった。シグムンドには分からない、兄妹が神として経験してきた過去も、それを抱えた心がどんな形をしているのか。
「女ではない、フレイヤ自身を愛すると言ったのは、お前だけだ。だから――感謝しよう、シグムンド」
人の身には、いや神であったとしても、彼ら以外の誰かに分かるはずもない。今フレイが何を思い、何を描いて闇を見詰めているのかも、また。
「感謝されることなど、何もしていない」
言葉で問うことは簡単だ、だがシグムンドはそれをせず、フレイと同じ方向へと視線を定めた。そこには彼らを包んで蟠る、深い闇があるのみだ。生を脅かし死を内包する、恐らくは地中深く、そして冥府と同じ光無き空間。
「俺はただ――」
その先にフレイヤの姿を見た気がして、シグムンドは口を噤んだ。錯覚なのは分かっている、彼女が居るのは遠い地の底だ、彼らの前に姿を現す筈も無い。そこに見たのはただ、己の中の愛情が見せた幻影だと、分かりきった事実を確認してシグムンドは首を横に振る。
「そうだな」
俺はただ、その後に続く言葉は喉の奥に飲み込んだから、隣のフレイに伝わってはいないはずだ。しかしフレイは、先を促すこともせず、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。語らずとも内心など全て見通していると、そう言いたげな表情に、シグムンドは居心地悪げに剣の柄を弄る。
「まあいい。ともかく今は、戦うだけだ」
誤魔化すような呟きに、フレイも、そうだなと端的な言葉を返してきた。浮かれていられる時間など今は無い、例え神と共に在ろうと、死は常に傍らで牙を研いでいる。それを改めて意識すると、シグムンドは片手の松明を高く掲げて。
「行くぞ」
フレイを促し、見回りを続けるため、歩きだした。
二人の、そして人々の行先には、濃い闇に閉ざされている。
だがそれがいずれ晴れることを、シグムンドは祈り、そして信じていた。





BACK / NEXT


セキゲツ作
2011.08.15 初出

ZRTOP / TOP