人々が集う中心では、赤々と燃える炎が、夜闇を明るく照らし出していた。濃厚な脂と酒の匂いが、煤と男達の体臭に混じって周囲に充満している。ブルグント城の前庭には、本来の住人とは大きく容相を異にする北の民達が集まり、我が物顔で騒いでいた。明日に控えた出陣を前にしての景気付けの宴だが、もはやそんな建前は何処かに吹き飛び、ただひたすらに享楽を貪るばかりのものとなってしまっている。供宴の主役として用意された肉の山は、その殆どを消費されて、既に骨が積み重なるばかりになっていた。酒樽も底を見せ始め、月は既に天の中央を過ぎているのに、それでも尚騒ぎは収束に向かう気配を見せない。
皆、立ち去り難いのだろう。気持ちはシグムンドにもよく分かる、これが終わって夜が明ければ、待っているのは果てしない戦いの連続なのだ。今日の宴を最後として、明日の朝には、人間達はブルグント城を発つことになっていた。誰もが経験したことのない北と南の合同戦線が始まる、だが緊張の源は、そこではない。皆を酒に走らせているのは、彼らの目的地――ユラン平原の中央、そしてそこに落ちたロキの封印だった。ミズガルドに落ちた最強の巨神、その封印を解かせぬため、人々はユラン平原に集結して最後の陣を張る。人類の総力を尽くして張られる防衛線、この戦いが世界にとってどれほど重いかを思い知らされるものだが、勿論それは人に対してだけ言える話ではない。己達にとって最大の力を取り戻すため、巨神族もまた全戦力を投入してくることは、用意に予想できた。いざ戦いが始まれば、巨神も人も死力を尽くし合い、彼らの想像も及ばぬ程の激戦となるだろう。それは故郷を去って以来、巨神族との交戦を続けてきた北の民にとっても、経験したことのない規模の戦いであるに違いなかった。負けるつもりはない、だが誰も死なずにすむ戦いでは無いことは、全員が理解している。
ミズガルドに住む者達にとって、戦場での死は人生最後の、そして最高の名誉だ。勇敢に戦って死ねば、戦乙女によってヴァルハラに導かれ、神の兵としてオーディンの指揮の元戦うことができる。そう言い聞かされ、男達は誰もが名誉ある死を望み、鍛錬を続けてきた。それは巨神が攻めてきた今でも変わりはない、特に狩りに生きる北の民にとって、臆病は最も忌避すべきものだ。どれ程恐るべき大きさであろうとも、実際に巨神を目の前にすれば皆、恐怖に打ち勝ち剣を取って戦ってくれることだろう。だがそれは戦いが始まり、敵を目の前にした時の話だ。戦場に至る直前、死の気配を濃厚に感じながらも倒すべき敵が前に無い今は、勇敢な北の民達にとっても辛い時間だった。
「――どうした、シグムンド」
ふいにかけられた声に、シグムンドは物思いを止め、顔を上げた。暗闇の中でも浮かび上がる白い姿、巨神に立ち向かう人類を導く豊穣神の片割れが、整った顔に微かな笑みを浮かべてシグムンドを見下ろしている。安全な城の中庭ですら武装したままのフレイを、シグムンドはじっと見詰めて、だが明確な答えは返さず視線を炎に戻した。
この宴の席を設けてくれたのは、意外なことにブルグント王グンターだった。自らも武人であり、数万からなる大群を率いる国王として、戦士の士気を高めるには何が必要かを正しく理解しているのだろう。用意されたのは美味い酒、そして北の民の好みに合わせて獣の肉を山ほど、その選択の正しさには皮肉屋のヴェルンドですら舌を巻いたものだ。根が単純な北の民達はそれだけで喝采を上げ、来るべき戦いへの恐怖など忘れた態で、高揚した一夜を過ごしている。これで肉が食えない鬱屈も晴れ、明日からは誰より勇敢な戦士として、巨神に立ち向かってくれることだろう。
勿論この恩恵に与っているのは、北の民だけではない筈だ。主戦力であるブルグント兵達にも、彼らが望む食べ物や嗜好品――こんな時でも彼らは粥を食べるのか、シグムンドには分からなかったが――を与えられ、死へ向けて走り出す準備をしているのだろう。彼らの居場所はシグムンド達と隔てられていたので、実際ブルグント軍がどんな楽しみを享受しているか、北の民に知る術は無かったが。
「行かないのか」
あそこに、と視線で示されたのは、炎を囲んで騒ぐ男達だ。常ならば長であるシグムンドも人々の輪に加わり、率先して声を上げて、指導者たる姿を戦士達に示しているものだが。
「いや。皆存分に騒いでいる、俺が出ていく必要も無い」
しかしシグムンドはあっさりとそう言い放ち、首を横に振った。酒の効果か彼らの勇敢さ故かか、決戦を前にしても、民の間に怯えや動揺を示す言動は見受けられない。この上なく賑やかに騒いでいる男達ならば、敢えてシグムンドが場を昂らせることもないと、その答えはシグムンドにとって十分筋の通ったものだ。
だがフレイにとっては、そうは感じられなかったようだった。僅かに俯いたその表情は、深く思考を巡らせる最中のような複雑な色を纏っている。
「……そうか」
フレイは、何事かを言いたげにしていたが、しかし実際に語ることはしなかった。しばしの沈黙の後、シグムンドに向けていた顔をそっと前に戻し、言葉は紡がぬままその場に座り込む。
辺りは夜闇に閉ざされ、月の光が朧に降り注ぐのみで、はっきりと物を見るにはいささか暗すぎる。だが明るい炎の周囲に居る人々のみは、放たれる暖色の光を受けて、視認に十分な程浮かび上がっていた。幾人もの男達がシグムンドの目に映る、だがその中でも一際輝いて見えるのは、ミズガルドに降りた髪の片割れであるフレイヤだった。フレイの妹、ミズガルドを導く数少ない神の一柱。シグムンドは人々の様子を確認しながら、見るでもなくフレイヤを眺める、いや――それは自己に対する言い訳でしかないと、彼は自分で分かっている。群れ集う人々の中で、シグムンドは最初からただ、フレイヤだけを見詰めていた。愛の女神、アスガルドで最も美しいとすら賞賛される彼女は、地上にあっても常に彼女の賛美者達に取り囲まれている。身分の上下が脆くなる酒の席ではよりそれが顕著で、当然ながら今も、入れ替わり立ち替わり現れる男達が常に傍らに侍っている状況だった。
シグムンドはその輪加わることもなく、だが意識から外すことも出来ず、ただぼんやりと彼らを眺めている。見られていると悟られぬよう視線を彷徨わせながら、何をするでもなく、することのできずに。ただ、フレイヤのことを眺め続けていた。
そんなシグムンドの真意など、フレイにはお見通しだったのだろう。しばらく妹を、そして彼女を見詰めるシグムンドを見守っていたが、やがて。
「惚れたか」
何でもないかのように発せられた言葉に、不意を突かれたシグムンドは、妙な音を立てて噴き出してしまった。きっ、と隣の男神を睨みつけるが、相手は素知らぬ顔で視線を返してくる。
「どうした」
「いや……」
「人間はこんな時、こういうのだろう」
「……そんな言葉を何処で覚えた」
「何処というわけではない。人と行動を共にしているうち、自然と学んだ……それだけだ」
少しだけ不思議そうに言う姿からは、言葉に込めるべき情念など分からず、ただ意味だけを沿わせているようにも感じられる。人より遙かに長く生きる神は、時にシグムンドには理解できない言動を為した。今もそうだ、驚かされた恨みを込めて、シグムンドは態とらしく深い嘆息を零した。
「随分と人らしくなったものだな。アスガルドに戻れば、他の神々が驚くのではないか」
美の女神の兄である彼は、彼自身も類稀な美しさを持ち、アスガルドにおいては第一の貴公子として名を馳せていると語られる。そんなフレイが、北の民が使うような乱暴な言葉を口にするとあれば、主神オーディンですら腰を抜かすかもしれない。
揶揄が半分、本気が半分のシグムンドの言い分に、フレイは一瞬憂いに似た表情を浮かべた。
「そうだな……そうかもしれん。もし、戻ることがあれば」
僅かに届く光に照らされた白い面、それを見詰めるシグムンドが何かを言う前に、落とされていた視線が彼の側へと戻される。
「で、惚れたか」
そしてあっさりと戻された話題に、シグムンドは今度こそ、堪えることはせず表情を歪めた。熊のような呻きを上げ、フレイからもフレイヤからも遠い空へと視線を逸らし、また低く呻く。しばしの間沈黙が流れ、だがフレイがそれ以上何も言わぬのを悟ると、諦めの混じった深いため息を吐き出した。
「きっとお前は、俺のような男を、何人となく見てきたのだろうな」
ぽつりと零されたシグムンドの言葉に、フレイはまた少しだけ、その首を傾げた。シグムンドはそれを知りながら、視線を還すことはなく、フレイヤの座る炎の近くへと視線を彷徨わせる。女神は相変わらず戦士達に囲まれ、少女らしい戸惑いと女性的な蠱惑を混じらせた微笑みを、北の男達に向けて惜しまず振りまいて。
あれ程美しいのだ、誰であろうと、彼女に心を奪われずにはいられない。その一人であることに奇妙な引け目を感じながら、シグムンドはそれでもフレイヤを見詰めている。フレイはそんなシグムンドの横顔を、じっと見詰めて。
「――そうだな」
そして小さく頷くと、彼もまたシグムンドから視線を外し、妹を視界の中心に捉えた。多くの男に囲まれ、その心を捧げられている彼女を、兄であるフレイは一体どう思ったものか。神の考えはシグムンドには分からない、彼らの絆が強いのは言葉にせずとも察せられるが、それは人の兄が妹に抱く親愛とは少しばかり異なっているようにも感じられる。
「妹は」
フレイヤを見詰める彼の雰囲気は、何も知らず無垢な妹を愛でるそれでは無い。かといってそこに嫌悪や憎しみがあるわけでもない、敢えて言うなら哀しみに似ているかもしれないが、そう言い切るのにも違和感を覚える。
「妹は、女だ」
何とも言えぬ不思議な眼差しのまま呟いたフレイに、シグムンドは疑問の色を浮かべた。何を当たり前のことをと、そう言いたげな視線を理解したのだろう。神は妹を見詰めたまま、表情ひとつ動かさぬずに、ただ淡々と言葉を繋げた。
「神はそれぞれ、象徴される属性――あるいは特性を持つ。神が持つ人より遙かに大きな力、それが方向付ける、抗えぬ流れとも言える本能とも言えるだろうか」
「……ふむ」
「老獪なるオーディンであれば知恵者、ミョルニルの行使者トールであれば戦士。白き神バルドルは無垢なる美――我らは皆己の性を持ち、そして生きている限りその枠を越えることはできない」
「何故だ?神々程の力があって、何故そのような枷に縛られねばならない」
「その問いはあまりに本質に近すぎて、ミーミルの首ですらも答えられるものではない。ただ推測することは出来る、あるいは強大な力を以て世を滅ぼさぬようにするため、それを発露する方向性が定められているのかもしれない。」
「……わかるような、分からんような、妙な話だな」
「そうかもしれないな。ただ一つ私に言えることは、我らに課せられた己の性質は、あまりに大きい。人が持つ個人の資質や性格とに似てはいるが、それより遙かに頑なで、逆らうことなど考えられぬ程のものだ」
フレイの語る言葉の意味全てが分かるわけではない、だがシグムンドは真剣な様子で、神の声に耳を傾けている。そんなシグムンドを知ってか知らずか、フレイは視線を向けることもなく語り続けた。
「我らは、己が持つ何か以外になることはできない。そして――妹は、女だ」
そうして発せられたそれは、全く同じ単語の連なりであるにも関わらず、先程とは全く異なる意味を持っていた。シグムンドは何も言えず、フレイヤとフレイを交互に見遣る。
「美と愛、包容と狭量、残酷な身勝手と無私の献身。それらはまさしく女のもので、女である妹が持つ特性に他ならない」
遠い女神は、彼女の兄とシグムンドが語り合うことなど知らぬまま、男達に微笑み続けている。その姿は確かに女性そのものだと、ふとそんな考えが頭に浮かんだ。シグムンドは彼女の全てを知っているわけではない、だが心の一部で、確かにその通りだと深く頷く部分があったのも事実だ。
「そして女は、男を惹きつけ、男に抱かれるものだ」
石の城の夜、扉越しに聞いた声、獣欲と不貞にも汚されぬ透き通るような美しさ。あれはまさしく、フレイが語る女そのものだ。見詰めた瞳の輝きが鮮やかに浮かび、シグムンドは密かに身を震わせる。
「女そのものである妹に、男が引き寄せられるのは自然のこと。乾いた木が燃えるように、水が高きから低きに流れるように、極当然の摂理なのだ」
思い出す、内側から沸き上がる衝動によって、伸ばされた手のことを。意志も誇りも焼き尽くすような熱は、あの時確かに己の内から燃え上がり、フレイヤに向けて広がろうとしていた。今でもその炎はシグムンドの内にあり、記憶の反駁のみで蘇りかけている。それを意識して抑えつけ、シグムンドはゆっくりと首を振った。
「お前は、それで良いのか。妹なんだろう」
「言っただろう、それが神だと」
そう語るフレイの顔は、やはり哀しみと何かの入り交じった、子細の分からぬ複雑な色合いを宿している。だがそれでも彼は、眉のひとつも動かさぬまま、冷淡とすら感じられる調子で言葉を続けていた。
「あれが女であることは、私の意志でも、お前の意志でも――妹自身の意志ですら、変えられないことだ」
「……そうか」
「だが」
しかしふと、その瞳が和らぎ、優しい色合いが浮かべられる。今までとは異なる、純粋な親愛に満ちた色に驚かされ、シグムンドは無言で瞼を瞬かせた。遠くを見詰めていたフレイの視線が動き、真っ直ぐにシグムンドへと向けられる。
「お前が助けに来てくれたと語った時、妹は、とても嬉しそうにしていた」
「……助けに?」
「ユラン平原での敗戦の後、妹が一人、朽ちかけていた時に」
言われて思い出すのは、南の小さな村で、たった一人巨神に立ち向かっていた姿だ。尽きかけた力を惜しまずに振るい、命の最後を鮮やかに燃やしていた、気高く美しい女神。
助けた、という言葉に同意していいものか、シグムンドは分からなかった。確かにあの場に行き合いこそしたが、絶望的な状況を打破したのは彼女の力そのものだ。神の力に対して、人間のそれなど子供のようなそれに過ぎない。
「最期であると覚悟をしていたが、お前が来てくれたと。共に戦い、あの場を生き残ることができたと――嬉しそうに、語っていた」
あの死線を生き抜いたのは、フレイヤ自身に他ならぬと思うのだが、それでもフレイの瞳に嘘を語る色は無い。優しい、兄として妹を慈しむ眼差しで、静かに微笑を浮かべている。シグムンドはそれを見てそれ以上何も言えず、そうか、と意味もない相槌を呟いた。
「本当に、嬉しそうだった。私ですら、今まで一度も見たことが無い程に」
視線を逸らし、未だ人々の中心に居るフレイヤを見る。彼女はやはり、笑っていた。女神の慈悲深い愛を、求める男達に、隔たり無く与え続けて。その笑顔の美しさに、シグムンドの心臓の中心が、棘でも刺さったかのように鋭く痛む。
フレイは全てを語り尽くしたとでも言うように、それ以上は何も語ることをしなかった。ただ、何も言わずに黙り込んだシグムンドをしばしの間眺めて。やがてその視線も外して、言葉は無いまま立ち上がり、そっとその場を離れていった。

宴は未だ、終わる様を見せない。
動かないシグムンドを置いたまま、戦士達は歓声を上げ続けている。
燃える炎と、沸き上がる歓声が、夜空を明るく染めていた。






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セキゲツ作
2011.07.21 初出

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