石造りの城は、夜になると一層、その冷たさを増す。堅牢な壁は、外と内を完璧に隔てているように見えて、何故か冷気だけは防げず素通ししてしまっているように感じられた。冬がきたら内側までも凍り付いてしまうのではないかと、シグムンドは密かに思っている。季節が巡るまでこの戦いが続けば、嫌でもその真偽を確かめなくてはならないだろう。それは中々ぞっとしない、そう言おうとして自分が一人であることを思いだし、シグムンドは口を噤んだ。
彼は一人だ、ヘルギもヴェルンドも、今はここに居ない。シグムンドの足音ひとつだけが、皆が寝静まった城の中で、虚ろに響いている。
夜中に起き出したことに、さしたる理由は無い。何故か眠りが遠かった、戦いの興奮が身から抜けていないのか、それとも石の城に未だ身体が慣れないのか。あるいは何某かの予感かもしれない、だが出来ればそれは当たらないで欲しいものだ、ただでさえ過酷な戦いが続いている中これ以上は森の民でも折れる者が出かねない。
戯れ言を頭の中で転がしながら、目的もなく城の中を歩き回る。夜明けに向けて寝静まっている城内は、見張りの持つ明かりが外に見える以外に、動くものとてない。冷たい空間の中には誰の気配も無く、まるで存在するのが、シグムンド一人であるような錯覚を覚える。
――だが。
「…………?」
ひとつの扉の前で、シグムンドはふと違和感を覚え、立ち止まった。確か倉庫か何かである筈の部屋から、何者かの気配がする。誰か、おそらくは複数の人間が、声や物音を発している気配だ。立ち去り難い疑念を感じて、シグムンドは中の様子を探った。薄っぺらい木材を通じて聞こえるのは、会話という程纏まった言葉ではない。単なる声、刺激と快感に高揚し、制御を失った身体が発する無意味な音声だ。苦鳴にも似たそれが何のものか、シグムンドには直ぐに分かった、そして理解したと同時に顔を歪めた。戦いは収束する気配すら見えないというのに、南の人間は随分余裕があるものだと、皮肉まじりに思う。そのまま立ち去れば良かった、だがそれをしなかったのは、聞こえてきた声に覚えがあったからだ。男の側ではない、それよりは発せられる回数が少なく、時折ほんの僅かに漏れ聞こえるだけの艶やかな声。
立ち去るべきだと思った、だが足は根が生えたように動かず、良識を裏切って室内の物音に耳を傾け続けている。やがて声が一際大きくなり、ぷつりと途切れたそれを境に、分かりやすい沈黙が訪れた。そして聞こえ始めたのは、身支度を整えているであろう物音と、今度こそ妙な意味など持たない単なる会話だ。中身までは聞き取ることが出来ない、だがそんな必要は無かったかもしれない、どのみちそれはほんの数語を交わし合うだけのものでしか無かった。
待つという程の時間も掛からずそれが途切れ、そして。
「……ひっ」
扉が開き、出てきた男は、目の前に立つシグムンドに酷く驚いたようだった。本来なら人が居る時間では無い上、常から良くないものが更に険しくなってる目付きを暗闇で見せられたのだから、当然の反応と言えるだろう。しかし驚愕が覚め、そこに居るのが悪霊ではなく蛮族の戦士だと気付くと、恐怖の代わりに気まずさがその顔に浮かぶ。悪事を見付けられた少年のような顔、しかしそこには何故か、奇妙な仲間意識が浮かんでいるようにも思われた。不快感にシグムンドが唇を引き結ぶ、だが男は直ぐに視線を外していたから、彼が浮かべた侮蔑の表情には気付いて居なかっただろう。それ以上を触れようとはせず横をすり抜け、逃げるようにして立ち去る男の足音が、彼の背の後ろで響いた。
シグムンドはそれを見ようともしない、あんな男になど興味は無い。彼はただ、開かれた扉の中を、じっと見ていた。
「シグムンド」
そこに残されていた女性、愛と美を象徴すると言われる女神フレイヤが、シグムンドの名を呼ぶ。少しだけ驚いたように目を開き、可愛らしく小首を傾げて、だがそこには羞恥も屈辱も存在しない。去っていった男とつい数分前まで交わっていた筈なのに、女神は普段と何も変わることなく、触れ難い程の高貴な美しさを保っている。
彼女はしばらく、寝台代わりに丸められた布の上に座っていたが、シグムンドが動こうとしないのを見てついと立ち上がった。
「どうしたのですか、こんな時間に」
着衣に乱れたところはない、部分的に着けられた鎧も含めて、戦場に立つ時と寸分違い無い姿だ。扉越しに聞いた房事の声が無ければ、あの兵士と話をしていただけだと言われても、素直に信じてしまったかもしれない。
「お前こそ。部屋に居なくて良いのか」
蛮族と呼ばれる自分達と違い、彼ら兄妹には、賓客用の部屋が宛てがわれていた筈だ。夜更けに兵舎を訪れる理由も、ましてや一介の兵士に抱かれる理由も、何ひとつとして有りはしない。
だが、フレイヤ自身はそう思わなかったのだろう。むしろシグムンドの険しさこそが不思議なようで、困ったように首を傾げ、目の前の男をじっと見詰めている。
「部屋には兄が居ます」
「ああ、お前もそこで休めば良い」
「そんな。いくら兄が相手でも、人前ですることではありません」
当然のように語られた内容を、一瞬理解することが出来ず、シグムンドは言葉を失った。シグムンド、と名を呼ばれてようやく正気を取り戻し、目の前の女神を睨みつける。
「兄の前でなければ、良いのか。あんな……誰とも分からない男と、床を共にしても」
「あの人は、それを望んでいましたから」
「……望まれ、請われれば、お前は誰にでも抱かれるのか」
金に応じて脚を開く、商売女のように。理由も分からぬ嫌悪感が沸き上がり、シグムンドは拳を握り締めた。
「それが本当に必要であれば」
「必要? そんなことが必要だなど、あるわけが無いだろう!」
押し殺した叫びが、静寂の底を揺らす。滅多なことでは動揺を見せぬ狩人の長の、珍しく剥き出しになった感情をぶつけられて、しかし女神は動ぜずに彼を見詰めていた。
「いいえ、必要なのです、シグムンド。人が皆、あなたのように強く在れるわけではありません」
「弱ければ、お前を抱いても良いと言うのか」
「善悪ではありません、それが必要である、というだけです。誰かと触れ合い、愛を交わした記憶があれば、それだけで人の心は強さを保つことができます」
「その相手を、お前が努めていると?」
「ええ」
「……それは、あの男だけの話では、無いな」
「ええ」
何事もないかのように頷かれ、シグムンドは首を横に振る。彼には理解できないことだった、戦いを拒む弱さも、それを繋ぎ止めるために身体を投げ出す女神も。
「確かに人は弱い、何かの縁が無ければ戦い続けられないのかもしれない。だが、お前がそれをするべきではない、フレイヤ」
神は人を作り、見守り、護り導く存在だ。シグムンドは幼い頃からそう教えられてきた、その信仰があるからこそ、巨神族を前にしても怯まずに戦うことが出来たのだ。神の一員であるフレイヤが、戦士達を奮い立たせるためとはいえ自らの身を人間に汚させるなど、彼にとって許せることではない。
「お前は、女神だ」
人は、神々のために戦う、誰もが信じる教えだ。だがそれは、こんな風に即物的な欲望で釣られるという意味では、断じて無い。
「だからこそです」
フレイヤは、そうは思わないのだろうか。確かに彼女の様子に、捧げられたものの悲哀は無い。奉じられ、崇められる神の持つ高貴があるばかりだ。
「神だからこそ、己の役目は、果たさねばなりません」
「役目? あんなことが、神の役目だとでも言うのか」
「ええ。勿論すべての神のではなく、わたくしの役目、ですが」
「……ああして、男に抱かれるのが、か」
「それは一つの側面に過ぎません、ですが確かにその通りです」
語られる言葉の意味を理解しようと、シグムンドは彼女を見詰めた。透明な、南の王族が身に着ける宝石よりも尚美しい瞳が、じっとシグムンドを見返している。触れ難い程気高く高潔で、だがそのくせ性的でもある、男の本能そのものに訴えかける瞳。
「……それが役目だと言うのなら」
美しい、などという言葉では生易しすぎる。確かに彼女は美しい、だがそれ以上に感じるのは、肉体に訴えかける強烈な誘惑だ。それもまた神の力なのだろうか、人を遙かに越えた美しさで、心を奪わずには済まさないという。
「もし、今俺が望めば」
シグムンドの意識を越えて、言葉がこぼれ落ちる。それは今生まれ落ちたものか、それともずっと奥に存在していた欲望か。視界の奥に、逃げ去っていった男の目付きが思い浮かび、腹の底が堅く冷える。
「お前は、俺に抱かれるのか」
凍るような視線のままそう言ったシグムンドを、フレイヤは不思議そうに見詰めた。
沈黙が、流れたような気がする。だがそれは錯覚だ、フレイヤが動くまでに、それほどの時間は開いていない。彼女は答えるまでに、少しの間を置くことすらしなかった。
考える必要など無いのだろう、迷いの欠片すら挟まず、答えを選び取り。
「はい」
そう言って、はっきりと首を動かした。
――大きな、薄紫の瞳が、シグムンドを見ている。
自分の内で冷たい炎が燃えているのを、シグムンドは自覚した。
「シグムンド」
フレイヤの唇が動き、声が発せられる。誘われるまま、シグムンドは彼女の顎に手をかけた。滑らかな感触が伝わり、炎が一際大きく燃え上がる。もっと大きく、もっと深く。内腑を焼き尽くしたそれが脳に達して、理性を飲み込んで踊り続ける。身体を突き動かす衝動に、シグムンドの喉から息が吐き出された。フレイヤは彼を見ている。全てを理解し、そして受け入れる寛容で、シグムンドを見詰めている。その瞳に映る彼自身の姿が、すっと、影を大きくした。
顎を捕らえて逃げ場を無くす、いやそれをせずとも、フレイヤは拒まなかっただろうが。彼女の目に拒絶は無い、ただシグムンドを見ている。真っ直ぐに注がれる視線に吸い寄せられ、シグムンドの顔がフレイヤのそれに近付いた。熱を増す体幹に反して、指先は凍えるほどに冷たい。僅かに触れた皮膚の暖かさが、誘われているような錯覚を生みだした。
近付く。視界の焦点を失い、触れぬ皮膚までも相手の体温を感じる程に近くまで。接触を求めて、唇が重なる直前まで近付いた。女神が吐き出す柔らかな吐息が、シグムンドの唇にかかる。おそらくは逆もまた、その事実が冷えた芯を熱く燃え立たせる。
相手の顔も見えぬ程、接近し、ぼやけた世界。
失った輪郭の中を覗き込みながら、シグムンドは薄く唇を開いて。

「――見くびるな」

発した言葉を契機に、近付いた身体を離し、取り戻した焦点でフレイヤの顔を睨み付けた。顎に沿わせていた指を引き剥がすと、視界の中心で、フレイヤが不思議そうにシグムンドを見る。シグムンドはそれに、歯を剥き出した獰猛な笑みを返してやった。
「俺は狩人だ。惚れた女は、己の力で奪い取る」
そう言い放てば、フレイヤは黙ったままシグムンドを見詰め、数度瞬きをした。瞼が上下するたび、そこに映ったシグムンドの像が崩れ、美しい瞳を彩る光が揺れる。
「さすがですね、シグムンド」
そして次第に、驚きの上に喜びが広がってゆき、無邪気な笑みがその顔に浮かんだ。屈託のない少女のようなそれを、シグムンドはじっと見ている。ただ、見詰めている。
「やはり、あなたは勇士です」
素直な賞賛にも、彼は何も答えない。ただ表情を固まらせ、氷のような視線を注いでいる。フレイヤはそれを気にすることもなく、柔らかく微笑むと、その場から一歩を踏み出した。
「では、わたくしは部屋に戻ります。シグムンド、あなたもお休みなさい」
そして、シグムンドの横をすり抜け、部屋を出る。彼が何も応えない、振り向こうともしないのに少しだけ首を傾げたが、特に何も触れずにそのまま歩いていく。
「それでは、また明日」
小鳥のような声だけを残して、フレイヤは去っていった。遠ざかっていく足音を聞きながら、シグムンドは動くことも出来ず、ただその場に立ち尽くしている。
やがて、僅かな物音さえも消え去り、再び完全な静寂が戻ってきた。ただ一人残されたシグムンドは、空になった部屋の中を見詰めながら、一人何を言うでもなく。
「っ……」
一度だけ、石の壁を殴り付けた。
鈍い打音を響かせ、壁に拳を押し付けたまま、彼はただ一人。
じっと、何も言わず、立ち尽くしていた。




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セキゲツ作
2011.05.01 初出

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