砂が零れる音が聞こえる。

さらさらと、静かに、だが絶え間無く。周囲全てを取り巻くようにして、砂が零れる音が響いている。
昔、ここは森だった。
いや、昔というほど時間を遡る必要はない。ほんの一年か二年前までここは、そしてこの大陸の半ば以上は、豊かな緑を有して人の営みを育む肥沃な大地だったのだ。
だがその面影を残しているのは、今彼らが居る場所の周囲のみだ。大陸に残された最後の緑、孤独にそびえ立つ巨木を中心とした僅かな面積の中にのみ、植物とそれが護るほんの少しの命が存在していた。
だが――それももうすぐ、消えてしまうのだろう。
「静かだな」
ストックの言葉に、ロッシュは頷いて、結界樹を見上げる。ここに居るのは二人だけだ、大陸に残ったのはロッシュ達だけでは無いが、皆ここではない何処かに去っていってしまった。彼らもきっと、各々が最期を迎えるべき場所へと向かったのだろう。それが自宅なのか、他に思い入れのある土地なのか、そこまでは知る由もないが。
「ここでいいのか?」
ロッシュにとってのそれは、神聖な大木が聳える広場であった。故国を追われ、全てを失ったと思いこんだ日々に、ただ立ち尽くしていた場所。終わりが始まったこの場所こそ、己の最期に相応しいだろうと、ロッシュは思う。
そしてストックも、その選択に不満は無いようだった。ロッシュが振り向くと、彼はロッシュから視線を逸らさぬまま、神妙に頷いている。その表情が不思議と満たされたものに感じられて、ロッシュは寂しげな笑みを零した。
「……どうした?」
悲しみの気配に気付いたのか、ストックが首を傾げる。一瞬にして不安を混じらせた瞳に、ロッシュは慌てて表情を繕い、ストックの肩を叩いた。
「何でもねえよ。……座ろうぜ」
世界が終わるこの時も、ストックはロッシュだけを見ている。彼は幸せなのだろう、世界を敵に回しても貫きたかった願いを、最後まで手放さずに居られるのだ。ロッシュは再び歪みそうになった表情を、意志の力で抑えつけ、柔らかな下生えの上に腰を下ろす。その隣にストックが座り込んだ、だがロッシュはふと思いつき、己の身体をストックの後ろに移動させた。
「……どうした?」
「いや、何となくな」
背を会わせる形で座ってしまえば、ストックからロッシュの表情を伺うことができない。悲嘆が表に滲んでしまっても、これならばストックに気付かれずに済む。ロッシュが幸せであればストックもまた幸せでいてくれる、例えそれが表層のみで取り繕われたものであっても、気づかせなければ同じことだ。
明らかな欺瞞、だがそれを改める気は、ロッシュには既に無かった。背を合わせたストックからは、穏やかな幸福が伝わってくる。絶望しか残らない大陸の中でそれはあまりに異質な、しかしだからこそ侵しがたい、光のような感情だった。
「静かだな」
ストックの声が聞こえる、空気と、そして触れ合った身体から振動が伝わる。聞き慣れたそれは、こんな時であっても平坦で、感情の揺れを感じさせないものだ。だが親友であるロッシュには、そこに込められた想いを、はっきりと感じ取ることができる。
「……そうだな」
だからこそ。彼の心が分かるからこそ、語るべき言葉を見つけれず、ロッシュは端的な肯定のみを応えとした。長くを語って余計なことに踏み込み、親友の安寧を崩してしまうことを、ロッシュは恐れていた。ストックはとても幸せなのだ、これから先を変えられないとしても、彼が抱える幸福を乱したくはない。
「皆、無事だと良いんだがな」
「大丈夫だ。きっと元気に、航海を続けているさ」
旅立っていった者達の顔が思い浮かぶ、短い間だが共に過ごしたサテュロス族達と、そしてロッシュにとって誰より大切な女性。未来のことは分からないが、きっと無事でいてくれることを、ロッシュは信じていた。あるいはそれは望みであり、祈りでしかないのかもしれない。だが去っていく船が海に沈む光景は、何故か不思議と、ロッシュの脳に浮かんでこなかった。
ストックと違って彼らには未来がある、だが待っているのは苦難の日々で、その先に希望があると言い切ることはできない。ここで終わる彼と、一体どちらが幸せなのだろうかと、ロッシュはぼんやり考える。死が救いなどとは思わない、死は罪に対する報いであり、世界から下されるべき罰でしかない。だがそれでも、生きるものは何処かで涙し、死に向かう男はこうして笑っている。それもまた、一つの罪なのだろうか。
あるいは罰を求めるなら、親友の傲慢な幸福を破り、絶望と共に砂とならせるべきなのかもしれない。ロッシュにはそれが出来る、その内心をぶちまけて、彼が護りたがっていた平穏が偽りであることを知らしめてやるだけで済む。それが正解なのだろうか、ストックに己の過ちを自覚させることが、世界の意に添う行動なのだろうか。
ロッシュは考え続ける。――ストックは、ロッシュの想いなど何も知らず、ただ穏やかな幸福にまどろむばかりだ。

砂の音は、止むことなく続いている。

木々の重なりがまた薄くなり、差し込む陽光が強くなった気がした。セレスティアを護っていた結界樹、それが生み出すマナに支えられた最後の生命も、こうして砂に消えつつある。もうすぐこの大陸から全ての命が消え、砂だけが静寂を聞く、鳥すら通わぬ死の大地と化すのだろう。
一体、どこで間違えたのか。自分の行動で世界が変わるなどとは思えないが、それでももっと納得できる形で、この瞬間を迎えることが出来たのではないか。そう考えずにはいられなかった。
あるいは、間違ってしまった何処かで正しい選択をできていたら、こんな悲しい終わりは迎えずに済んだのかもしれない。進むべき道を誤ったからこそ、人々の願いは実を結ぶことなく、こんな悲しい終わりになってしまったのではないかと。
分からない、考えても答えが出る筈もない。それでも心は過去を泳いでしまう、あの日々は過ちだったのか、それとも。
「ストック、覚えてるか」
「……何をだ?」
「前にも、同じことがあったな。こうやって、お前と背中をあわせて座って」
それは、ずっと以前、彼らが出会った直後の話だ。敵陣で取り残された兵達、それを庇うためにロッシュが飛び出し、追いかけてきたストックと共に戦った。今でもはっきり覚えている、感じた夜の匂いも、二人が発した呼吸の音も。初めて友と呼ばれる存在を得て、心を通わせ笑い声を上げたあの瞬間、確かにロッシュは幸福だった。血で血を洗う戦場に在って、一人ではないと感じられた夜に、安らかな充足を感じていたのだ。
出会いが間違っていたとは、だから思いたくない。あの時見上げた星すらも過ちなら、ロッシュが産まれたこと自体が罪なのだろう。ふいに夜空が見たくなったが、今天空にあるのは、砂を照らす太陽だけだ。それに照らされた空は一体どんな色をしているのかと、首を傾け上を見上げると、後頭部がストックのそれと触れ合った。点で接触した部分から、ストックが上げる低い笑いが伝わってくる。
「どうした?」
「いや……何でも、ない」
彼は今、何を思っているのだろうか。友と過ごしたこの数年は、一生の時間を思えばさして長いともいえないのかもしれない、だがロッシュにとっては大切な記憶だった。それをストックも共有してくれているのか、そうであって欲しいと、ロッシュは密かに願う。
「覚えている。あの時からずっと、お前は傍に居てくれたな」
その想いが通じたのかどうか、ストックは噛みしめるように呟いた。その、一途とも言えるほど好意的な言葉に、ロッシュは溜まらず苦笑を零す。ストックが言ってくれるほど、現実は甘いものではない。彼を支えることなどどれくらいあったか、今思い出されるのは、親友相手に情けなく膝を折る己の姿ばかりだ。
「ずっと、ってことも無いけどな。一緒の隊だったのは一年だけで、その後お前は情報部に移動しちまったし」
「だが、また同じ隊で戦った」
「そうだな、だがそれも途中までだ。お前は戦い続けていたが、俺は」
「ロッシュ」
ふいに、投げ出していたロッシュの右手に、ストックの左手が重ねられる。触れたそれが暖かく感じられたのは、ロッシュの体温が下がっているからか、それとも別の要因か。甲に当たる感触が硬い、彼が振り続けた剣によって、そこは分厚く固まってしまっているのだろう。顔に似合わぬ無骨な手だが、込められた力は酷く優しく、そして柔らかい。
「俺は、お前を護りたかった」
そして語られる言葉も、また。分かっている、それは彼の友情で、優しさで、ロッシュに向けられた疑いようもない愛情だ。分かっていて尚、その言葉は辛かった。自分が護られる存在でなければ、傍らに立って戦うことが出来れば、彼は壊れることもなかったのだろうか。分からない、だが一つ言えるのは間違いなく、戦わなかったのがロッシュの最大の過ちだったということだけだ。
「……ストック」
それを、正したかった。自分は彼の親友で、護られるのではなく共に歩む存在なのだと、彼に思い出して欲しかった。重ねた手を振り払い、ストックが反応を返す前に、指を絡める形で再び繋ぎ直す。強く力を込めると、ストックの側からも、同じだけの力で握り返されてきた。こうしたかった、そしてこうするべきだった、包まれ見守られるのではなく力を込めて支えるべきだった。だが今となっては伝わらない、想いを込めて握りしめても、そこにある心は届かない。
だがそれでも、ストックは幸せなのだ。例え心が見えずとも、ロッシュが生きて、ここに居さえすれば。
砂の音は止まない。差し込む光は強くなり、吹き付ける風の熱は増し続けている。大陸からマナは失われ続け、広がる砂漠は、もう彼らの足下まで近づいてきていた。後ほんの僅かの時間を過ごせば、彼らが座る柔らかな草までも、暑く無慈悲な砂に変わってしまうだろう。そして恐らくは、彼ら自身も、また。
船に乗れば死の運命を避けることができた、だがそんな逃げは、きっと許されない。過ちを犯した彼らにとって、こうして世界と共に終わることこそが定められた罰なのだろうと、ロッシュは思う。自分達が死んだところで過去も未来も変わらない、だがそれでも報いは受けなくてはならない。
「ロッシュ」
ストックが、ロッシュの名を呼ぶ。何度と無く聞いたはずのその名は、そこに込められた喜びと幸福を、確かに聞く者へと伝えてきていた。重ねられた手の力が強くなり、言葉に依らず心を表してくる。ストックはずっと、こうして、ロッシュを求めていた。求めすぎるあまりに、他の全てを投げ出してしまうほどに。
「お前と出会えて、良かった」
それはきっと彼の、心の底からの叫びなのだろう。
出会えて、よかった。
友と成れて、よかった。
認め合い、共に戦えて――よかった。
ロッシュには分かる、何故ならロッシュの中にもまた、同じ心があるからだ。
だが、彼は知ってしまってもいる。
「……ああ」
出会ったことは罪ではない。だが共に過ごした時間、その中には確かに、償い切れぬ罪が存在していた。
世界は終わり、罪の報いとして彼らは砂になる。それは仕方のない、避けられないことだ、しかしそれでも心だけは。
「俺も。お前と出会えて、良かったよ」
さらりと、傍らの木々が崩れ落ちた。体重を預けた草が、端から砂になっていく。終わりが近い、大陸全てが砂に飲まれる瞬間は、もう直ぐそこまで来てしまっている。
終わりの時まで、ストックには幸せでいて欲しいと、ロッシュは願う。自分が抱える悲しみなど知らないままで、盲目の幸福だけを見詰めていて欲しい。例え彼が罪人であろうと、そうさせたのはロッシュなのだ。命は運命に引き渡そうとも、その心だけは、穏やかなままでいて欲しかった。それが罪だというなら、報いは己が受ける。絶望は全て引き受ける、自分のために壊れた親友の、偽りの平穏を護り抜いてみせる。
それ以上は何も言えず、ロッシュは天を仰いだ。日差しを遮る木々はもう殆ど残っておらず、失われた命の代わりのように、幻想的な緑の光が漂っている。それをロッシュは、ひたすらに見詰め続けた。己の、そしてストックの罪が導いた結果の全てを、その心に刻むために。


そして訪れた、最後の瞬間。

ロッシュは霞む視界の中、じっと光を見詰めていた。

己と親友の身体から抜け出した光を、最後まで逸らさずに、見詰め続けていた。




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セキゲツ作
2012.06.21 初出

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