それが罪であると、知っていた。

知っていて、それでも尚、彼に生きて欲しかった。


――――――


世界が滅びるらしい、と大人達が騒いでいる。遠い国の王女様が世界を守る儀式に失敗し、大陸が壊れてしまうのだという。おとぎ話のようなそれは、だがきっと作りごとではない。確かに大地の声は乱れて、様々な命が苦しんでいることが、アトには感じられていた。シャーマンのアト程では無いにしろ、サテュロス族は皆、同じことを感じ取っているのだろう。唱えられる破滅を疑う者はおらず、族長ベロニカの元、団結して大陸脱出のための準備を進めている。
そして子供達も当然のように、それに巻き込まれ、重要な手として使われていた。物心も付かぬ幼児はともかくとして、動ける子らにはそれぞれ役割が割り振られ、指示に従って旅支度を手伝っている。だが船を造り、それに乗って海に出るというのがどういうことかは、子供達の誰も本当には分かってはいないだろう。大人達からは、もうすぐ里を離れて二度と帰れなくなるのだと、漠然とした説明だけが為されていた。そんな話だけで正しい認識が生まれる筈もないが、それでも逆らってはいけないのだということを、皆は幼心に感じていた。子供の思考は論理ではなく動くが、それ故より敏感に、周囲の空気を読みとる。父母の必死な姿を見て、この運命が避けられないものであることを、サテュロスの子達はぼんやりとと悟っていた。
そして両親が居ないアトもまた、他の子供達と同じだった。祖父の厳しい顔、親しくしているバノッサ達の不在、そして里に出入りする見知らぬ人々。それまでのセレスティアには無かった光景を見るにつけ、アトの鋭い感性は、大人が口にしない真実を感じ取っていった。暖かな日常が壊れ、苦難をもたらす異常が始まったことを、彼女ははっきりと理解している。幼い頃から祖父が聞かせてくれた、物語のような未来が、今現実として彼女の前に迫ってきていると。そのことを肌で感じながら、しかしアトは、僅かにも恐れることはなかった。
こんな日が訪れるのを、彼女は待っていたから。ずっと、願っていたからだ。
アトは知っていた、彼が儀式に必要な存在だということを。彼が居なくては、儀式は行えないということを。そして儀式を行えば、世界を救えば、彼が居なくなってしまうということを――アトは、知っていた。
「ストック?」
アトは彼が、ストックが好きだった。綺麗な顔も、静かな声の響きも、たまに見せる微かな笑みも。冷たいように見えて、本当はとても暖かい心も、ストックの全部が大好きだった。少しだけ怖いこともある、だけどそれは皆を守るための牙で、彼の腕の中に居る限りそれがアトに向けられることはない。
彼の優しさと、そして強さが、アトは好きだった。あるいは彼女がもう少しだけ歳を重ねていれば、その感情を愛と称しただろう。いや、言葉を知らずともアトは、彼を愛していた。そして彼女は幼く、幼さ故に愛に忠実だった。
「ストックは、どこ?」
彼女はシャーマンだ、人の魂とは、人それ自身よりも親しい。だからストックがニエであることに、アトは出会った当初から気付いていた。身体と異なる魂、一度死に、再び蘇らされた証。産まれて初めて見たその存在を、祖父から聞いた知識と結びつけた瞬間の衝撃を、今でもアトはよく覚えている。彼がニエであるなら、その行く末は既に決まっている。大好きなストックは、そう遠くない未来に世界の礎となり、平和と引き替えにその存在を消してしまう。そんなことは嫌だった、ストックばかりが犠牲になるなど、許せなかった。
だがアトには何も出来ない、大陸の理を変えることも、彼の心を動かすことも。彼女はただの無力な子供で、許されるのは傍らに居て優しさを乞い、時が来れば世界のために去る彼を見送ることだけだ。未来は既定で、やがていつかがやってくれば、ストックはアトの前を去ってしまう。どれほどの涙を流しても、それを変えることはできない。
その筈だった、だが絶対と思われた運命は、いつの間にか大きく変わってしまっていたのだ。
「どこにいるの、ストック」
一体何が理由だったのか、アトには分からない。気付いた時には既に、世界にとって大切な何かが、決定的に狂ってしまっていたようだった。去っていく筈だったストックは、時を過ごしてもセレスティアから動こうとせず、己の時を刻み続けている。砂漠化は止まらない、だが彼がそれを止める日は、いつまでたってもやってこなかった。
ストックは大陸の平和に背を向け、人という種にすら牙をむき、閉ざされた里の平穏だけを目的として戦い続けている。言葉を好まない彼は、何より雄弁に、その姿で己を語った。世界の行く末などどうでもいいと、セレスティアに留まり続ける彼は、全身で叫びを上げている。故国を捨て、世界すらも捨て、彼はその剣を以て里だけを守り続けて――その様子は強く険しく、そしてどこか痛々しくも見えた。
今のストックは、きっと本来の彼ではない。出会ってから多くの時間を過ごしていないというのに、アトには何故かそれが感じられた。ストックが本当にストックであれば、セレスティアに留まることなどせず、外に居る誰かのためにこの里を出ていってしまっただろう。今の彼は何かが違う、他の誰も気付かずとも、アトには分かる。どうして彼が変わってしまったのか、世界を裏切りこの里に留まっているのか、そこまでを察することはできない。だがそんなことはどうでもいい、大切なのはストックが自ら望んでここに、セレスティアに居てくれることだ。
ニエであるストックが動かなければ大陸は滅びる、その結果として産まれ育った里は砂に飲まれるが、アトはそれでも構わなかった。ストックが、去っていくはずだったストックが、ずっと傍らに居てくれるのだ。世界にも神様にも奪われず、大陸に捧げる筈だった命を彼自身のために使って、ずっと。だからアトは幸せだった、嘆きに満ちた世界の中で彼女は、ただ一人本当に幸せだった。
「ストック、どこ……」
だが、永遠に続く幸福は存在しない。
彼女の楽園を砕いたのは、慌ただしく働く大人達が囁く、ひとつの情報だった。信じたくない、だが誰も、それを嘘だと言ってくれる人はいない。
アトはそれを事実として教えてもらったわけではない、彼女がストックを好いていたのは、里の皆が知っていることだ。少女の思慕に対してあまりにも残酷なその事実を、突きつけたい者など誰も居ないのだろう。だが決まってしまった未来は噂という形で漂い、故意に語ろうとせずとも、避けがたく耳に入ってきてしまう。
ストックを探し歩くアトに、里の皆は一様に痛ましげな表情を浮かべ、そして視線を逸らした。ストックが何処に居るか、彼らはアトに教えようとしない。それどころか、アトに話しかけるものすら、誰も居なかった。彼女とストックが会えばそこに涙が生まれることは想像に難くない、悲しみの多い世界で、彼らもこれ以上の悲劇を見たくないのだろう。誰もストックの居場所を口にしなかったが、意識を向ければ、彼らがある一カ所を避けて動いているのが簡単に見てとることができた。そこがつまりアトの目的地だ、言葉を使わず示された箇所へと、彼女は真っ直ぐに走って行き。
「ストック!」
そうしてようやく、捜し求めていた愛しい人の姿を、見付けることが出来た。護衛として森の中を哨戒していたらしいストックは、アトの声に驚いて振り向くと、慌てた様子で彼女の元へと駆け寄る。
「アト。どうした、こんなところに」
「ストック、ストック」
「ここは危ない、以前の森とは違うと、皆から聞いているだろう。一人で歩いてはいけない、戻るんだ」
「嫌なの、ストック……」
「我が儘を言うな、アト。誰か、他の奴が居るところまで送るから」
「嫌なの! ……一緒に居たいの」
首を振って抱きつくアトに、ストックは困った顔を浮かべつつ、そっと引き離そうとして肩に手を置く。だが幼い少女は、華奢な身体に入る限りの力でストックにしがみついており、促す程度で離れるつもりなどない。アトの頭上でストックのため息が聞こえ、それを聞くのが嫌で、アトは余計にストックとの距離を狭める。
「アト」
「……嫌なの」
「分かった、なら、帰れとは言わない。だから、離れてくれ……見回りができない」
苦笑混じりのストックの声が柔らかく、アトは浮かびそうな涙を必死で堪えた。ストックはいつだって優しい、だが今のそれは、理由のある優しさだ。分かりたくもないそれを明確に感じてしまい、アトの心臓が、ぎしぎしと軋む。
「魔物が活性化している、里に近づかないよう警戒しておかないと、皆が危ないんだ。分かるな」
暖かなストックの手が再度身体を押す、それに今度は逆らわず、アトはしぶしぶとストックから離れた。その手は未だ赤い服を離さぬままだったが、ストックは咎めることをせず、彼女を伴ったまま歩き出す。言葉の通り周辺の魔物を探しているのだろう、整った顔は真剣な色を浮かべ、木々の奥を見通そうとしていた。魔物が暴れていることは、アトも大人たちに聞いて知っているし、奥に蠢く悪意があることも肌で感じている。慣れ親しんだ森が危険きわまりない場所になってしまったことを、彼女は理性と本能で理解していた。だがそこを歩くのに不安は無い、ストックが傍に居てくれれば、きっとアトを守ってくれる。彼はいつでもアトを、そして里の皆を守ってくれていた、そんな彼にアトは全幅の信頼を置いていた。そう感じているのはアトだけではない、だから排他的なサテュロス族彼を認め、里の一員として迎え入れている。共に時を刻む相手としてストックは皆に受け入れられているのだ、これまでもこれからも、ストックが望む限りはずっと。
周囲の気配を探りながら、ゆっくりとストックが歩いていく。ざくりざくりと、足音が森に響いた。アトは大きく堅いストックの手を握り締める、彼女の細い指が発する震えに、ストックは気付いているのだろうか。彼は何も言わない、寡黙な男はこんな時でもいつもと変わらず、己らしさを貫いている。彼はいつだって少ない言葉で人々を包み、誰も知らぬ間に一人で戦い続けてきた。アトはその隣に立ちたかった、傷を負い走り続けるストックを傍らで支える、それが彼女の望みだった。
「ストック」
だけど、誰より早く大地を走るアトでも、彼に追いつくことはできない。それは彼女が子供だったからなのか、時が経って大人の女になれば、彼の進む行く末に先回りして抱きしめることも出来るのだろうか。いつか、もっとずっと先の未来がやってくれば。
「船に乗らないって、ほんとなの?」
だがそれは、もはや永遠に実現しないことが確定されてしまった。アトとストックが寄り添う未来は、いや他のどんな光景でさえも、現実になることなく終わってしまう。
問いかけたアトへと、ストックが視線を向け、そして困ったような微笑みを浮かべた。何も言わず首を傾げる、その表情が全てを物語っている。噂は本当なのだ、ストックは船に乗らず、滅びゆく大陸に残るつもりだ。そして他の多くの命と共に、砂となって消えてしまう。
「どうして!」
アトは叫ぶ、どうして、何故そんな選択をしたのか。取り乱すアトをストックが見詰めている、その静かな瞳が憎らしく、アトは必死で彼に縋りついた。
「どうして行っちゃうの……ストックは、ここを選んでくれたんじゃなかったの」
ニエとなる運命を捨て、自分自身の生を選んでくれたはずなのに。世界を滅ぼしても自らの人生を生きようとしていたのに、どうして今この時になって、死に向かう未来を選んでしまうのか。砂となる大陸に残るのでは、ニエとして命を捧げられるのと、結末は何も変わらなくなってしまう。
「ストックは、生きてていいの。生きていて欲しいの」
そんなことは許さない、例え世界に対しての罪であろうと、ストックがそれを償う必要はない。彼がここに居るのを願ったのはアトで、罰されるのであればストック自身ではなく、それを選んだアトであるべきだ。
幼い言葉で精一杯に訴える、アトの心は、ストックに伝わったのだろか。ニエであろうと罪人であろうと、彼と共に在りたいと願った少女の愛を、その相手が理解したのかどうか。
「……アト」
静かな声、そして変化の薄い淡々とした表情から、それを判断することは難しい。だが少なくともストックは、アトを引き剥がすことはせず、ただそっと頭を撫でて彼女の名を呼んでくれた。
「すまない。だが、こうしなくてはならないんだ」
そして優しい、だが残酷な頑なさを以て、ストックは己の意志を告げる。見上げるアトに向けられた目は、暖かく、何処か幸せそうな色合いすら浮かんでいた。それを理解したくなく、アトは強く首を振り、ストックの視線を振り払う。
「何で! 何でなの、ストックは何も悪くなんてないの」
「アト、だが俺は」
「ストックがニエなのは誰かが勝手に決めたことなの! そんなの知らないの、ストックばっかりが苦しむなんて駄目なの……」
ストックが不思議そうに首を傾げているのが、俯いた視界の端に見えた。あるいはアトの言いたいことは彼に伝わっていないのかもしれない、身に釣り合わぬ大きな想いを伝えるのに、少女の拙い口ではとても足りない。握ったままの手が暖かかった、だがアトにとってはそれが、今は辛く感じられる。優しい心も体温も、今この時傍らにあるだけのもので、永遠を約束されたものではない。
「違う。誰かに決められたことじゃない」
アトがどれだけ縋っても、例え涙を流したとしても、ストックの心は翻らない。皆を守って走り続けたのと同じ速さで、誰の手も届かぬうちに、彼は死に向かっていってしまう。
「俺自身が決めたことだ。俺は、ここに残るべきだと」
そうだ、彼は他者に強いられて命を投げ出す程、弱い人間ではない。ストックが何かを為す時は、必ず彼自身の意志でそれを決めている。例え己の死であろうと、彼はその強さで以て、躊躇わずに成し遂げてしまうだろう。
「それなら、アトも一緒なの!」
だからストックを止めることはできない、それを悟ったアトは、迷わず叫んでいた。彼が死にゆくのであれば、その瞬間アトも傍らに在るのだと。それは正しく愛だった、相手と共に居るために命すら投げ出す、愚かで純粋な愛情だ。盲目的な程一途にそれを向けられたストックは、ただ柔らかな苦笑だけを返して、迷いなく首を横に振ってみせる。
「駄目だ、アトは皆と共に行くんだ」
「嫌なの、ストックと一緒なの!」
「そんなことをしたら、ベロニカやバノッサや、他の皆が悲しむ。アトはサテュロス族にとって、大切な存在なんだろう」
「そんなの関係ないの、アトはストックが居れば良いの」
たった一人の血縁者も、家族のように接してくれた人々も、彼女が導くべき多くの魂も。皆のことが大好きだ、だがそれよりもストックと共に居たい。他に誰が居ようと、ストックがそこに居なければ、世界には何の意味も無い。全てを捨てても構わなかった、ストックのため、そしてアト自身のために。
「ストックを一人にしない! アトは、アトが、ストックの傍に居るの……」
揺るぎ無く貫かれた愛情は、しかし受け取る者もなく、虚しく宙に浮くばかりだ。アトの捧げた精一杯の告白にも、ストックは苦笑を崩すことなく、優しく首を横に振る。
「駄目だ。アトは生きるんだ」
「嫌なの! アトは」
「心配するな。俺は一人じゃない」
そう言って微笑むストックを、アトは呆然と見上げた。彼の美しい顔には、幸福とすら表現できる、満ち足りた笑みが浮かんでいる。服ごしに接触した身体が、急に遠く感じられて、アトの目に涙が滲んだ。
「ストック」
「例え死んでも、俺は、一人にはならない。だから、大丈夫だ……安心して、皆と行くんだ」
優しく発せられたその言葉は、あまりにも明確な拒絶だ。彼がアトに求めるのは、傍にあって時を過ごすことではない。生き延びて未来を紡ぐこと、その訴えは、アトが多くの中の一人でしかないことをはっきりと示していた。彼にとってアトは、切り捨てた世界の一部、何処とも知らぬ大地へと向けて旅立つ一団の構成員でしかない。希望と名を冠せば美しいものとなったのだろう、だがアトにとってそれは、望むべき結末などではありえなかった。
溢れ出す涙にアトは何も言えず、ただストックにしがみつく。ストックはそれを許して頭を撫でてくれた、その仕草は特別に思える程優しい。そう、これは特別なものだ、最期を前にした決別という意味での抱擁。だがそれだけだ、アトの望む意味での特別を、彼はけして許してくれない。
震えながら泣きじゃくるアトを、ストックは宥めるように受け止めていた。その動きがふと止まり、首をぐるりと回して顔の方向を変える。
「……ロッシュ?」
森の中の一点に向けられた視線、その方向から現れたのは、ストックが呼んだ名の人物だ。第三者の登場に、アトもつられて顔を上げる、同時に殆ど反射的にストックの顔を見て。
その瞬間、気付いてしまった。
彼だ。
ストックは、彼と共に行くのだ。
「ストック、アトと一緒に居たのか」
「ああ。どうした、こんなところまで……魔物は大丈夫だったのか」
「大丈夫だからここに居るんだろ。そんなヤワじゃねえから、心配すんなって」
「……威勢がいいのは結構だが、過信は禁物だぞ」
親友らしい会話を交わしているストックの目は、形ばかり険しくなっているが、その奥には隠しようもない幸せが湛えられている。アトに触れていても、彼の意識はほぼ完全に、ロッシュの側へと向けられてしまっていた。彼らの心の距離の近さを、アトははっきりと感じる。ストックを愛したアトには分かる、彼らの間に、アトが入り込む隙間は無い。
「何か用なのか?」
「いや、戻りが遅いから様子を見にきただけだ。まあ、おまえなら大丈夫だとは思ったがな」
「心配は有り難いが、それでお前が襲われたらどうする。せめて誰かと一緒に来い」
「心配すんなって、危なくなる程深部には行かないつもりだったよ。アトだって来られるくらいの場所だろ」
「今は里の近くでも危険なんだ、アトもお前も、無謀過ぎる。無事会えたから良いが……次からは絶対に、複数で来るんだ」
言葉を投げ合う男達に視線を投げられ、アトはびくりと身を縮めた。反射的にストックにしがみ付こうとしたが、躊躇いを覚えてその動きを止め、おずおずと手を退けてストックから身を離す。
「どうした? ……ストック、お前何かしたのか」
「いや……」
言い淀んだストックの表情、そして涙で塗れたアトの瞳を見て、ロッシュも何かを悟ったようだった。追求のことばを重ねることはなく、気まずそうに視線を逸らして、無意味な呻き声を上げる。
「あー……まあ、とにかく行こうぜ。他の奴がまた探しに来ちまう」
「そうだな。アトも、何も言わず出てきたんだろう、皆が心配している」
涙の意味を問わない彼らは優しい、あるいはアトの流すそれが、自分達の責であると自覚しているからかだろうか。いや、そうではない、彼らは元々優しかった。誰でもに優しい彼らは、その例を曲げずに、アトにも優しく接してくれていたのだ。それは確かに暖かいものだが、アトの望む特別とは、遙かに距離を隔てた位置にある。
アトは、特別になりたかった。ストックの特別、彼にとって世界でただ一人の存在になりたかった。だがそれは不可能だ、ストックの特別な位置は、既に埋められてしまっている。
「帰ろう、アト」
彼らは二人、大陸に残るのだろう。そこに割り込むことは叶わない、アトにも、他の誰かにも。彼らが何故、そんな哀しい道を選ぶのか、それを知ることすらアトには許されていない。彼らにとって、アトは他人だ。閉じた環の外にいて、入り込むことを許さない、ただの他人に過ぎないのだ。
「……ロッシュも。行くぞ」
言葉による拒絶よりも、さらに深く。ストックが目に宿す幸福な愛情は、彼にとって親友が唯一であることを、声高に主張していた。そして、他の誰であろうともその代わりにはなれないことを。
「ああ、行こうぜ」
彼らは行ってしまう、二人きりで。そこにアトは居られない、その事実が、何を言われずともはっきりと理解できた。
アトはそれ以上何も言えない、ストックに触れることすら、もうできない。彼女に許されているのは、ただ残された時間を共に過ごし、そして時が来たら死に向かう彼を見送ることだけだ。
小さな胸の中に溢れる悲しみが、涙となって零れないように、必死で堪える。アトは悟っていた、この愛は叶わない、受け取られぬまま砂と共に消える。愛する人の居ない未来しか、自分に選ぶことは許されない。絶望的にも思えるその事実を受け入れ、それでも生き続けなくてはならないのだと、少女の幼い心ははっきりと悟っていた。


――――――


――船が、海を滑っていく。
人々の希望を以て築き上げられた船達は、設計通りにその機能を発揮し、大陸の生き残りを乗せて未来へと漕ぎだした。大地は多くの命を吐き出して、ただ静かに佇みながら、崩れ落ちる時を待っている。
甲板には、何人ものサテュロス族達が立ち尽くし、小さくなる故郷を見詰めていた。一族が暮らしてきた里も、それを育んできた木々も、無情な砂へと変わりつつある。大陸にはもう、人も植物も、殆ど残っていない。船から見える地平は、その大部分が平らかな砂となり、無惨な滅亡の容相をはっきりと態していた。それでも旅だった港の周りには、僅かな緑が群生し、生命の名残を留めている。そこに、大陸に残った同胞達も居るのだろう。いずれあの緑が消える時、彼らも彼らの選択によって、共に砂と化してしまうのだ。そして、動くもののなくなったヴァンクール大陸は、完全な死の世界と化す。
旅立つ者達は、その光景を見ていた。甲板には多くの者が居るというのに、発せられる音は殆ど無い。死のような静寂の中、船はゆっくりと、しかし確実に大陸から離れていく。
「アトちゃん」
かけられた声に、アトは振り返る。そこに居るのが、悲しげに微笑むソニアであることを確認すると、何も言わずに視線を前へと戻した。
ソニアもまた、言葉を発することなく、アトの横に立つ。しばらく二人は、潮風に吹かれながら、遠ざかる大陸を無言で眺めていた。
緑は、少しずつ小さくなっていく。船との距離が開いているからか、木々が砂になっているからだろうか。どちらにしろ、残された緑が保つのも、後もう少しの間だけだ。そこに居る人々の命もまた――
「消えちゃうの」
ぽつりと零されたアトの呟きに、ソニアはちらりと目を遣り、そしてまた視線を戻す。そうね、と返された言葉は小さく、ともすれば風に紛れて飛ばされてしまうのではないかと感じられた。
「ストック」
遠い緑、あの中に居る筈の名を、アトは呟く。呼んだところで届かない、もう二度と彼がアトの声に応えてくれることはない。ストックは、アトが愛した人は、彼が選んだ大切な人と二人で砂になってしまう。
ソニアの手が、そっとアトの肩に乗せられた。言葉は無くともその気持ちは伝わってくる、ソニアもまた、愛する相手に去られた一人なのだ。
「アトも、一緒に残りたかったの」
口にしてしまえば、涙は抑えきれなくなってしまう。だが、それでもアトは口を開き、己の思いを形にすることを選んだ。視界が濡れる、溢れた涙で滲む大陸を、アトは目を逸らさずに見詰め続ける。
「そうね……でも」
中途で途切れた言葉の続きを、アトは聞かずとも分かっていた。例え大陸に残ったところで、彼ら二人の間に割って入ることは出来ない。彼らは二人きりでその世界を完結してしまった、そこにアトが入り込む隙間はどこにも無いのだ。涙を零し続けるアトを、ソニアがそっと抱き締めた。彼女は一体どうやって、この哀しみを乗り越えたのだろうか。あるいは彼女も未だ、消せない哀惜に溺れて、もがき続けているのか。
「アトは、ストックと居たかったの」
叶わぬと知っていて、アトは泣かずにはいられない。眼前で消えていく大陸は、過去の思い出として胸に仕舞うには、あまりに鮮やかすぎる。
耳の奥で音が鳴った気がした、砂の流れる音、命が失われていく絶望の音が。残された生命は全て、砂となって流れ落ちてしまう。一人ではないと笑った、ストックの幸せそうな顔を思い出して、アトはぎゅっと目を瞑った。生きていて欲しかったのに、例えそれが罪であっても。だがもう届かない、アトの手も声も心も、ストックに届けることはできない。
「行かないで、ストック」
生きていて欲しかった、傍らに居たかった、ただそれだけだったのだ。だがその望みは叶わない、ストックは罪を背負い、大陸に連れられて死に向かってしまう。だが彼は幸せなのだろう、その傍らに望んだ人間が居るのだ、きっと笑って消えていける。
音が聞こえる。これは錯覚だ、大陸は遙かに遠く小さくなって、微かな物音など届く距離には無い。それでもアトには、砂の音が聞こえている。聞きたくないのに聞こえてくる、砂の流れる音――彼の命が失われる音が、耳の奥で響いている。
耐えきれなくなって、耳を塞いだ。音は止まない、いつまでも、アトの中で鳴り続けている。
「ストック……」
いつまでも。
いつまでも。



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セキゲツ作
2012.06.14 初出

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