ロッシュの結婚式から、十数日が経つ。本来ならば未だ祝福の余韻に包まれている筈の里は、同日に起こった謎の地震のせいで、再び落ち着かぬ不安に揺れてしまっていた。あれは一体何だったのか、セレスティアは自身が頻繁な地域ではない、単なる自然現象と片づけるのは難しい。稀有と呼べるほど大きな揺れを、大地に発生した異常と判断するのは、森と共に生きるサテュロス族にとって当然の帰結のようだった。何が起こったのか、人々は落ち着かなげに噂を交わし、親しい者同士で集まっては推測やら大陸の未来やらについてを話し合っている。生活だけは普段のものに戻っているが、その実安定とは程遠い状態に、この地は置かれていた。
それだけなら単に皆が浮き足立っているというだけなのだが、そんな中で新婚のロッシュとソニアまでが里の不安定に引き摺られているようなのが、ストックの気にかかっている。長い想いを結実させて夫婦となった親友達が、最も幸福に浸るべき時期を不安の中で過ごさねばならないのは、ストックにとって非常な不満だ。ただの地震だとしても、それ以外の要因があったとしても、早く真実を見つけだしたい。そうすれば少なくとも、正体の見えぬ不安に怯える日々から、ロッシュを開放させることが出来る。
サテュロス達も勿論、何も分からず震えるままで居るわけではない。外界で何か異常が起きたのではないか調べるため、地震の直後から、バノッサ達一座が里の外へと偵察に出てくれていた。住人達を代表して危険を背負ってくれた者達は、幸いにも二日前に帰還し、今は宿で身体を休めている。
「話し合い、いつまで続くんだろうな」
共に作業をしていたロッシュが、ふと呟いた。二日前、結界をくぐり抜けたのは、一座の者達だけではない。彼らは、遠く西の地に住むというブルート族の一団を、この地に伴ってきていた。サテュロス族と同じく里を閉ざし、外界との接触を断っていたという一族が何故セレスティアにやってきたのか、それはまだ知らされていない。住人達には何の説明もされぬまま、彼らは族長を始めとした里の代表者との話し合いに入っていた。
「さあな……さすがに、今日明日には終わるだろうが」
「皆、不安がってるからな。さっさと説明があると良いんだが」
「そうだな」
ロッシュの呟きに、ストックも同意を示す。里の者達も、ロッシュもソニアも、正体の分からぬ恐怖に怯えて日々を過ごしている。来訪者達はそれに何らかの答えを与えてくれる可能性が高い。もたらされるのが朗報でなくとも、宙づりのまま放置されるよりは、まだしも良いだろう。
しかし待ち望んでいる情報は、中々発表されてくれなかった。混乱を呼ばぬよう情報を整理するため、先ずは纏め役同士が話し合っているのだろうが、それが二日経った今でも終わっていない。求めているものを目の前にぶらさげられつつ、それを与えられずにいる状態は、何も知らぬ頃より更に飢餓を煽るものだ。
あるいはストックがバノッサ達に同行できていれば、正式な発表を待つ前に、ロッシュだけにでも情報を与えることもできたのだが。今まで一座の護衛を務めてきたストックだが、何故か今回の旅には、同行を許されていなかった。理由は分からない、ベロニカには何か考えがあるのだろうが、ストックへの説明は為されていない。ただストックの側でも、この異常な状況の中でロッシュ達から離れたくない気持ちもあり、逆らうことなくその指示を受け入れていた。
「俺が行けてりゃあな……」
しかしそう言って嘆息するロッシュには、親友の気持ちなど何も伝わっていないようで、ストックは堪らず苦笑を零す。彼はあの地震の後、偵察へと出発する一座に同行したいと、ベロニカに申し出ていたらしい。結婚を期にソニアを守りたいという気概が生じたのだろうか、だがその希望は、当然ながら許されることは無かった。いくら本人が強く望もうとも、まともに戦えるかも分からない隻腕の者を護衛に付けるほど、サテュロス族も無謀ではない。ベロニカに断固として退けられ、結局は彼もストックと共に、里の人々と共に長達の命を待つこととなっていた。
「焦るな。話し合いにさほど時間がかかるとも思えない、もし長期化するとしても、先に何らかの知らせはある」
ストックがそう言っても、ロッシュの憂いが晴れる様子は無い。勘の鋭い男だ、具体的な知らせは無くとも、何かが起こっていることに無意識の部分で気付いているのだろう。もっともそれはストックとて同じことで、ロッシュと共に居るからさしたる動揺も表さずにいられるが、内心はどうにも落ち着かぬものを抱えていた。
一体、何が起こったのだろう。解の返らぬ疑問が頭の中から去らず、ストックは低く息を吐いた。大地の異常といって真っ先に思いつくのは砂漠化だが、それがセレスティアに至るのは、まだ遠い未来のはずだ。エルーカは十年以内に大陸が砂に変わると言った、それが正しいのなら砂漠化の中心地から遠いここでは、影響が出るまで少なくとも後数年の猶予があると考えられる。それともあの地震は、砂漠化とは何の関係もない、単なる自然現象なのだろうか。そうであれば良い、だがストックの何処かは、それが思考の逃げであることを主張している。あれを契機として大地のマナは随分と不安定になっている、ただの揺れであれば、そんなことは起こらない。サテュロス族程ではないが、多少の魔法を使うストックには、その違和感が薄らと感じ取れていた。
「何が、あったんだろうな」
またロッシュが呟く、彼も不安なのだろう、よりにもよって婚礼の当日に不吉な事象が起こってしまったのだ。他の者が居る間、特にソニアの前では、不安を煽らぬためか気にした様子は見せていなかった。だが溜め込んだ感情は時が過ぎても消えるものではない、それを少しでも解消するためこうして誰かに心の内を晒すのは、ロッシュにとって必要なことなのだろう。その相手に選んでもらえたのは、親友として素直に嬉しい。状況を変えるための何かができるわけではないが、彼の心を護るため、少しでも役に立てるのは喜ばしいことだった。
「……まずは待とう。バノッサ達が、きっと何かを掴んできてくれた筈だ」
己に言い聞かせるような呟きに、ロッシュも頷き、視線を手元に戻す。ストックも、親友に向けていた顔を元に戻し、作業へと意識を向けた。多少の異常に構うことなく日常は続いている、それを壊させないためなら何でもすると、ストックは決めたのだ。例え世界が砕けるとしても、その瞬間までは、ようやく幸せを掴んだ親友達を守り続けてみせる。黙り込んだストックを、ロッシュがちらりと見遣り、そしてまた視線を逸らした。
言葉が途切れ、お互いが発する物音だけが、周囲に響く。手は動かすものの、一向に進むように思えない作業を、それでも二人は黙々と行っていった。
それが、どれだけ続いただろうか。
「おい、皆!」
作業場に駆け寄ってきた若者の声に、作業をしていた者達は手を止めて顔を上げた。
「どうした?」
「ベロニカ様からお話があるって。誰か、広場に行ってくれ」
そして続けられた言葉に、上がった顔が見合わされる。つい先程まで交わしていた会話の流れが思い出され、ストックとロッシュの表情が真剣なものに変わった。話し合いが終わり、何らかの結論が出たのだろうか、それとも。
「……じゃあ、すまんがストック。行ってきてくれ」
名指しされたストックは、抵抗することもなく頷き、腰を上げた。サテュロス族の人数が多くないとはいえ、さすがに森の中に作られた広場に入りきる程ではなく、全員が集まって話を聞くというわけにもいかない。何かがあれば代表となる者が発表の場に赴き、他の者達に聞いた話を伝えることになる。その役目に、外の情報に詳しいストックが指名されるのは、自然な流れだ。
「俺も行って良いか?」
だがその後を追うように、ロッシュが自ら名を挙げたのは、少々予想外の反応だった。顕示欲からは縁遠い男だから、単に少しでも早く情報が得たいというだけなのだろうが、それにしても随分気が急いているようだとストックは首を傾げる。だが別段断る理由は見当たらない、他のサテュロス族たちも同じことを思ったのか、皆一様に首肯を返した。
「ああ、別に構わんだろ。行ってこいよ」
「有り難うよ。……じゃ、ストック、行くか」
ロッシュは一瞬安堵の表情を浮かべ、ストックの隣について歩き出した。ストックもそれに促され、戸惑いつつも歩を進め始める。
「仕事を抜けても大丈夫か?」
「良いって言ってんだから平気だろ。何だよ、俺がついてったら不味いか?」
不満げな語調で問われれば、さすがに明確な肯定も出来ない。黙り込んだストックに、ロッシュは微かに頬を歪め、しかしそれ以上の追求はせずに口を閉じる。
彼の同行を断る理由は無い、だがその態度には少しだけ不安を覚えるのも、また確かだった。調査に随行したがったことといい、彼の積極性は、以前より随分と増しているようだ。それ自体は嘆くものでもない、かつての姿に近くなっていくと考えれば、むしろ喜ぶべきことだ。ただ、そうして力を取り戻した結果として、戦いへと向かってしまうことだけが恐ろしかった。未だ戦争は終わっていない、アリステルはまだ戦の渦中にあり、そこに彼を必要とする場は存在してしまう。
「……まあいいや、とにかく行こうぜ」
戦局はどうなっているのだろうか、セレスティアの参戦は防いだが、その後何かの動きはあるのか。ラウルは随分と焦っているようだったから、再び膠着状態に陥る可能性は少ないだろう。だが彼の努力がいつ結実するかは分からない、そもそも本当にアリステルが勝利できるかどうかも、保証されているものではない。無邪気に朗報を待つばかりでは居たくないが、かといって里の出入りが制限されている現状では、ストックの側で動けることは何も無かった。成すべきことは成して来たつもりで、何かあれば対応する自信もあるが、それでも漠然とした不安だけは消えずに残ってしまっている。
早く戦争が終わればいい、ストックは心から思った。苦しんでいる民のためでもなく、世界を救う儀式とやらを行うためでもなく、戦いに向かう一人の男が生きるためだけにそれを願う。ロッシュが歩みを取り戻すとしても、戦争さえ終わってしまえば、その先に戦がある可能性は随分と低くなる。そうすれば、今のようにロッシュの動きを制限せずとも済む、彼の望むままに歩ませられるようになるのだ。
「良い話だと、いいが」
ストックの呟きに、ロッシュはちらりと目を遣ると、頷きを返してきた。その目にある色は、不安のようにも思えるし、闘う意思とも感じられる。ロッシュもストックと同じ気持ちで居るのだろうか、根にあるのは間違いなく異なる動機だが、きっとその発露する先は同じものだ。
互いに探り合う感覚が、ストックの皮膚をちりちりと焦がす。だがそれ以上は二人とも何も言わず、黙って広場を目指した。重苦しい沈黙だったが、やがて広場に近づき人々が増えるにつれ、それも薄れていく。ざわざわと、やはり不安げな気配の強い囁きを聞きながら、広場の隅に二人で腰を落ち着けた。
「どうなると思う」
「さあな……」
周囲と同質の会話を彼らもまた交わしながら、事が始まるのを待つ。
やがて人々が席を埋め尽くし、空間の雑音が不愉快な程の音量になった頃、ようやく場に動きがもたらされた。
「……皆、静かに」
広場の奥に作られた空白、この場の中心となる場に居た者達が、己を誇示するように立ち上がる。その気配と第一声で、生じていた囁きは一気に消え去り、代わりに静粛な沈黙が広場を満たした。
「これより、ベロニカ様とガルヴァ様より、重大な知らせがある」
ガルヴァというのは、バノッサがフォルガから伴ってきたうちの一人で、ブルート族の長老に当たるのだと聞いた。ベロニカよりもさらに小柄な、見た目でいえば一般的なブルート族の半分にも満たないその客人は、しかし遠くから見ても分かる程の威厳でもって満場のサテュロス族達を見回していた。鋭い視線を湛えた眼球がぐるりと動き、広場を一周し、また端に戻る。ゆっくりと規則的に動いていたそれが、ふと、途中の一点で停止した。
「……?」
鋭い刃で射抜くような視線が、己の上に注がれているように感じられ、ストックは違和感に瞼を瞬かせる。サテュロス族の中に二人混じった人間が気にかかりでもしたのか、もしくはこの多人数の中で、単に目が合った錯覚を覚えただけかもしれないが。ストックは先日初めてガルヴァの存在を知ったのだし、ガルヴァの側にいたっては、ストックという名すら聞いたことがない筈だ。だから特別視線を向けられる理由など無い、だがそれにしてはガルヴァの目は風景を見るそれではなく、奇妙な色合いが浮かんでいる気がしたのだが――
「皆の者」
しかしその真偽と意味を追う前に、声を発したベロニカへと、ストックの意識は移された。サテュロス族の長老は、常と変わらぬ威厳をもって、民達へと語りかけている。
「残念な知らせじゃ。我々にとって、そして世界にとって」
静寂の中通る声に、人々は真剣に耳を傾けた。息が詰まる沈黙が、広場に満ちる。それはあまりに重く硬く、動きすら阻害するかのように思われた。
そして、空間に渡ったそれを、叩き割るかのように。
「グランオルグで儀式が執行され……そして、失敗した」
ベロニカははっきりと、その言葉を発した。
――一瞬の完全な無音の後、怒号と悲鳴に近い音量を持つどよめきが、サテュロス達から沸き上がる。
「……儀式?」
広場の誰もが恐怖に混乱する中、だがその中でロッシュのみは彼らに付いていっておらず、呆然とその単語を復唱するばかりだ。サテュロス達にとって既知の情報でも、人間の多くはその存在すら知らないのだから、当然の反応ではある。ストックも詳しいことを知るわけではない、だが彼はここと違う歴史の中で、情報の片鱗だけは与えられている。
「世界の砂漠化を止めるために、必要なもの……らしい。それを行わないと世界が滅びる、そしてグランオルグの王家だけが行うことが出来る、と聞いたが」
それを教えてやると、ロッシュは眉を顰め、真剣に考え込んでいるようだった。断片的なものであっても、それを整理し纏めるだけの能力を、彼は十分持っている。
「それが、失敗した?」
彼とストックも共に思考を巡らせる、世界を救うために必要とされていた儀式、それが損なわれたということは。そして、周囲が示す激烈な反応の意味。
「……世界は、滅びる」
そう言ったのはストックでもロッシュでもない、彼らの傍に居たサテュロス族の一人だ。あまりに規模の大きな話に、脳が理解を拒否しようとするが、ストックの理性もまた同じ結論を導いてしまっている。
結婚式に起こった大きな地震もおそらく、儀式の失敗に関係して発生したものだったのだろう。あれ以来奇妙にマナが不安定だったのも、そう考えれば説明がつく。ならば今の異常は一時的なものではない、時間を置いてもマナの安定は戻らず、やがて全ての生命と大地は砂と化すに違いない。そうなれば世界は終わりだ、十年の後に予定されていた未来が、時を早められてやってきてしまう。
「ベロニカ様……手立ては!」
「何か手立ては無いのですか、このままでは!」
サテュロス達の声に、ベロニカは厳しい顔で頷いた。深い苦悩が、皺深い顔には浮かんでいるが、それでも彼はサテュロス族の長だ。長い生の中で培ったであろう、平静を失わぬ確固とした意志で、絶望に流されることなく老いた身体を律している。
「……滅びを回避する術は、無い」
重々しく告げられる宣告はあまりに悲劇的だ、しかしベロニカの瞳には、まだ光が宿っている。そして隣に立つガルヴァもまた、未来の無い者が持つにしては強い力を有していた。彼らの姿が、サテュロスの者達を望みを失っての恐慌から救っている。場にいる誰もが、ベロニカ達に向けて、縋るような視線を送っていた。
「帝国の遺産が失われた今、我々の持つ力では、同じく帝国がもたらした禍を防ぐことは出来ぬ。この大陸は遠からず、砂に飲まれる」
それに気付かぬ訳は無いだろうが、それでもベロニカは敢えて、世界が直面した致命的な状況を並べ立てる。広場はいつしか、再びしんとした沈黙に満たされていた。今度のそれは、少し前のものよりもさらに重く、痛い。
ストックは、他のサテュロス達よりも僅かに冷めた心で、その様子を眺めていた。何も言わない、目を動かすことすらしないまま、隣に立つロッシュの体温だけを強く意識する。彼は一体どんな顔をしているのか、確かめたい、だが視線を向ける勇気は無い。
「もはや逃げ場は無い。我々は……大陸を、出ねばならん」
ベロニカが悲壮な声音で、そう宣言した時も。ロッシュの身体が強張った気配が伝わって、だがその表情を確認することは、ストックには出来なかった。ロッシュを見る代わりに、真っ直ぐ広場の中央を捕らえた視界には、決然としたベロニカとガルヴァが映っている。そして動揺に揺れるサテュロス族の姿も。
「族長……どういうことですか!」
「大陸を捨てるとは? まさか……海に」
「そのまさかじゃ。船を造り海に出る、そして我らが暮らす新たな大地を探す」
「……そんな!」
先程のような叫びが響くかと思ったが、示された反応は、思いの外静かなものだった。そこかしこで息を飲む音が響いたが、多くの者達は声を上げることすらしていない。船で大海に出るなどという、人間からすれば夢物語にも聞かないような荒唐無稽な話でも、サテュロス族にとってはさほど違和感が無いとでもいうのだろうか。あるいは、そんな選択が為されることを、多くの者が予想できていたとでも。
「セレスティアに伝えられる帝国の技があれば、海を越えることは十分可能じゃ。その先に、伝承通りに人の住む大地があるかは、賭けるしか無いがの」
「ベロニカ様、しかし我々全てが乗り込む船を造る時間があるのでしょうか? それに木材も……」
セレスティアは、確かに閉ざされた里だが、その人口は思いの外多い。それら全てが乗り込める船となると、ストックの想像を越えた大きさになってしまう。あるいは複数に分散して旅立つとしても、今度はいくつの船を造れば良いというのか、どちらにしろ里にある手ではとても足りると思えない。
「心配は要らん、労働力ならフォルガの男共が居る」
そしてその疑問に対して答えを提示したのは、ベロニカではなくガルヴァだった。閉じたままだった口をようやく開き、体格に似合わぬ重厚な声音で、サテュロスの若者へと語りかける。
「里の者総出でフォルガ周囲の森林から木材を切り出し、それを持ってこちらに向かっているところじゃ。セレスティアに残された木々を使えば、十分賄えるじゃろう」
「何と……フォルガは、既に動かれていたのですか」
「うむ、お主等らに話を通してからでは、初手が遅れてしまうでな。すまんが、わしの独断で動かせてもらったよ」
「いえ、賢明なご判断かと思います」
フォルガの男は、恵まれた体格を鍛錬で鍛え抜いた、屈強な肉体を持つと聞く。その彼らがサテュロス族と協力すれば、確かに巨大な船くらいは作れるかもしれない。海を越える船というのを未だにストックは想像できないが、セレスティアの民がそれを可能だと言うなら、信じる他に術はなかった。
「船で海に、か。何かとんでもねえ話になってきたな」
隣でロッシュが、ぼそりとそんなことを呟いた。同意を示すためにストックも頷き、そして彼の視界に自分が無い可能性に思い至って、そうだな、と小声で呟く。
「だが確かに、大陸全てが滅んでしまうなら、その外へと抜け出す他に手は無いだろう。そんなことが出来るとは、考えもしなかったが」
「ああ……サテュロス族の技術ってのは、凄いもんなんだな」
「そうだな」
今の人間達が持つ船は、港から大きく離れられない、小さなものしかない。海から離れたアリステルではそれすらも縁が無いから、ロッシュなどは下手をすれば、船というものを話にしか聞いたことが無いかもしれない。そんな知識で、船が大海を渡ると言われても、戸惑うのが当然だろう。
しかし、困惑を覚えられる立場にあるなら、まだそれは幸運なのだ。
「……だが、サテュロス族とブルート族はそれで助かるとして。人間は、どうなる?」
ふと口調を暗くしたロッシュの呟きを聞き取ってしまったのは、隣のストックだけでは無かった。付近のサテュロス族が数人、思わずと言った様子で振り返り、そして居たたまれず視線を逸らす。
セレスティアもフォルガも自国の民を救うので精一杯だ、人間を数に入れれば、船を造る木々も積み込む食料も完全に足りなくなってしまう。人間は、己達の力のみで滅びゆく大陸を脱し、未来を掴まなければならない。長引く戦に疲弊した国々に、それだけの余力はあるのだろうか。そう――人間は、存続することができるのか。
「もはや事態は一刻の猶予もならん。ブルート族に続いて我々も立とう、旅立ちの準備じゃ!」
ベロニカが時の声を上げ、サテュロス族達がそれに応える。伏せられたストックの視界に、ロッシュの拳が入り込んできた。握りしめられたそれは、微かに震えているようにも思われる。ロッシュは何を感じているのか、ついに戻れぬまま終わる故郷のことと、そこに居る人々のことを考えているのか。
進むべき道が定まったサテュロス達は、不安の霧が晴れたかのように、これからについてを話し合っている。彼らには未来がある、例えどれ程細いものであろうと、辿ることのできる希望がある。絶望の中で光を追う彼らの姿は、取り残された者達からは、あまりに遠く感じられた。


――――――


それからの日々は、目の回るような慌ただしいものとなった。
ガルヴァの言った通り、あの発表の数日後から、セレスティアへ次々とフォルガの民が到着してきた。彼らは恵まれた体格を活かして、丸太そのままの木材を、大量に運んできてくれている。フォルガもセレスティアと同じく、周囲に密林を有した、緑深い土地だったらしい。だがそんなフォルガですらも、儀式の失敗以来、端から徐々に砂と化しているのだという。砂漠化は大陸の西から進んでいるから、まだセレスティアに大きな影響は無いが、それも後もう少しの間のことだろう。
それまでに大陸を抜け出せるよう、準備を進めなくてはならない。サテュロス族とブルート族は、共に力を合わせて、巨大な船の建造に取りかかっていた。
「西方のシグナスでは、砂人病が多発していると聞いたが」
「そうか……ついに、人までが」
ストックの背後で、サテュロス族達が囁き交わしているのが聞こえてくる。ストックの役割は、造船を行う者達の警護だ。儀式の失敗による悪影響は砂漠化に限ったことではない、大地のマナが乱れることにより、森の魔物達は著しく凶暴化してしまっていた。フォルガから持ち込まれた木材だけでは船を造るに足りず、セレスティア周辺の木々を切り倒して使っているのも、魔物が暴れる要因の一つだっただろう。油断をすれば生活を壊された魔物が襲いかかってくる、居住地の近くであっても、今や完全に安全とはいえない状況だった。もっとも、働いているのは武に秀でるブルート族と、魔術に長けるサテュロス族だ。余程の大群かふいを突かれるのでもなければ、無様にやられるということは有り得ないだろうが。
「セレスティアにも、いつ砂化が及ぶか」
「急がなくてはならないな……」
作業の合間に交わされる雑談を、ストックは聞くともなしに聞いていた。船の建造が間に合うか、それとも砂漠が大陸を飲み込むのが先か、今のところは分からない。技術が伝わっているとはいえ、今まで一度も経験のない仕事だ、造船の進度は順調とはとても言えないものだった。
そもそも船が完成し、海へこぎ出すことが出来たとしても、無事目的地に辿り着けるという保証はどこにもない。船に欠陥があって沈んでしまうかもしれないし、伝わる航海技術が完全なものではなく、難破して結局この大陸に戻ってしまう可能性もある。今彼らが目指しているのは、本当に細い、それこそ糸のような光なのだ。
だがそれでも、望みが残されている限り、人々は絶望せずに居られる。だからサテュロス族達は、暗い知らせを語り合いながらも、けして作業の手を止めようとしない。彼らにとって、これは未来に生を繋ぐために最後に残された道だ。どれほど険しかろうと、歩みを止められる訳がある筈もなかった。
そんなことを徒然と考えながら警備を続けていると、突然。
「ふむ……お主がストックじゃな」
背後から声がかけられ、驚いてストックは跳び退った。足音はおろか、気配すら全く感じていなかったところから発せられた声に対して、本能が激しく警戒を訴える。だがそこに、振り向いたそこに居たのは敵ではない、ブルート族の長老であるガルヴァその人であった。
「……何の用だ」
それを確認しても緊張を解かない、いや解けないストックに、ガルヴァはにやりと笑みを浮かべる。面白がる色を隠そうとしない不躾な視線に、ストックは微かに眉を顰めた。
「用という程でも無いがな。お主には一応、話しておかねばならんと思っての」
「……何を?」
「儀式の結果じゃよ」
その言葉に、ストックは不思議そうに首を傾げる。儀式失敗したという事実は既に、ベロニカから通達されていた。改めて何を告げることがあるというのか、それもストック一人を特に選んで。疑問を乗せて投げられたストックの視線を、ガルヴァは面白そうに受け止めている。
「ふむ、成る程な。これは確かに、王女があのような行動に出るのも、仕方がないかもしれん」
「……エルーカが、どうしたんだ」
「気になるかの?」
意地悪く笑うガルヴァの顔を、ストックは強く睨み付けた。だが勿論、歳経たブルート族がその程度で怯むことなどは無く、逆に皮肉からの笑みを深くしてくる。くつくつという笑い声が喉から響き、瞳がきゅうと細められた。
しかしストックは、ふと気づく。顔の形は確かに笑いを表すものだが、そこに浮かぶ色は、楽しげなものなどではない。むしろ鋭く厳しい、闘気にも似た気配が、ガルヴァの笑みには漂っている。
「エルーカ王女は、アリステルの力を借りてグランオルグ城に忍び込み――そして、一人で儀式を行った」
そして、彼が発する言葉を聞いた途端、何故か。ストックの頭を、殴られたかのような重い衝撃が走った。
「……一人で?」
呆然と呟くストックを、ガルヴァがじっと見詰める。寒気がするような低温の視線だが、不思議と敵意は感じられず、淡々と様子を探るような気配がそこにはある。だがストックはそれにも気付かず、ぐるりと回る思考を抑え、強く拳を握りしめた。
「そう、一人でじゃ。如何に彼の王家が魔力に秀でた血筋であろうと、ニエの力を借りずに儀式を行えば、どうなるかなどは自明であったじゃろうに」
「エルーカは……どうなった」
語られる中に耳慣れぬ単語が混じっていたことも、今のストックには分からない。焦燥に駆られたストックの問いかけに、ガルヴァは直ぐには答えず、一度口を閉じた。そして改めて、ゆっくりと首を横に振る。
「さての。儀式が失敗したことは確かじゃが、その先までは分からん。罪に怯えて逃げておるか、生き残った人類を率いておるか、それとも……」
途切れた先は、言わずとも分かった。儀式の詳細は分からないが、ベロニカやガルヴァの言葉から推測するに、本来は誰か協力者と共に成し遂げるものなのだろう。そして正しい手順で行わねば、大きな危険を伴う――エルーカはその危険を冒し、たった一人で儀式を行おうとした。失敗して当然、下手をすれば彼女の命自体が失われた可能性もある、そんな状況だったに違いない。
ストックの頭の奥が、ずきずきと嫌な痛みを主張した。何故こんなことになったのか、何処かから大声で責め立てる声が聞こえる。何故、それは勿論分かっている、ストックが己の責務を放棄したからだ。時を遡り、歴史を操り、世界を滅びから救う彼の役目。それを投げ出し、滅亡へと至る大陸を放置して、己の望みだけに生きた結果がこれなのだ。
言葉にならぬ感情の奔流が理解できず、黙って立ち尽くすストックを、ガルヴァはじっと見詰めていた。獣に似た形の、だが深い知性を宿すその視線が、真っ直ぐストックに注がれる。それは深く深く、ストック自身すら分からぬ心の内にまで達するようにすら思われた。
「……ふむ」
見据えたそこに、何を見出したのか。ガルヴァはひとつ頷くと、それ以上は何も言わずに、その場を去ろうと踵を返す。
「待て」
その背に、ストックの声が掛けられた。ガルヴァは振り向き、青ざめたストックの顔を、肩越しに眺める。感情の読めぬ飄々とした老人は、丸い目をぐるりと光らせて、笑みに近い表情を浮かべてみせた。
「……何故、それを俺に話す」
ストックが白示録の使い手であり、世界を救う使命が課せられていたことは、ストック自身の他は誰も知らない筈だ。だがガルヴァは明確な意思を持って、ストックへエルーカの情報、ストックが逃げた結果としての悲劇を伝えに来た。その目的は何なのか、彼は一体何を知っているというのか。
理由も分からず吹き荒れる絶望と哀惜、それが発する源を、あるいはこの老人が知っているのではないか。
「さてのう」
だがガルヴァは、やはり何も語るつもりは無いようだった。僅かすらにも動かぬ飄々とした色合いの瞳を、幾度か瞬かせただけで、無情に視線を前へと戻してしまう。
「お主はそれを知りたいのか? 知ったところで、今更未来は変わらぬというに」
残酷な宣告に、ストックは唇を強く奥歯を噛み締めた。そうだ、未来は変わらない、ストックが歴史を動かさない限り。そしてストックはもう動かない、動けない。親友の命を捧げて紡ぐ未来など、諦めると決めたのだから。
何も言えずに黙り込むストックの様子を、ガルヴァは背を向けたままで窺っているようだったが、それもしばらくの間だけのことだ。やがて音も立てずに、その場から立ち去っていった。ストックは黙ってそれを見送る、いや彼の視界に、もはや老人の姿は映っていない。目を開いてはいるが何も見てはいない、彼は己の内側から吹き上がる哀しみに対して、どうしたら良いか分からずに立ち尽くすばかりだ。
この歴史を選んだことを、ストックは後悔はしていない。唯一の護りたいもののために世界を裏切る、何度繰り返したとしてもこの選択肢を選ぶと、彼はそう確信している。他の何を捨てても、親友の命だけを護れればそれで良い、今でもその想いは変わっていない。未来がここで途絶えるとしても、ストックがもう歴史を繰り返すことは有り得なかった。けして揺らがぬ確信でストックは決意し、それに従って戦い続けている。間違いない、これまでもこの先も、だが。
ならばどうして、これ程心臓が痛むのか。
「……エルーカ」
命を賭して未来を繋ごうとした、グランオルグの王女。その名を呟いたストックの心臓が、切り裂かれるように痛んだ。彼女と大きな関わりがあるわけではない、別の歴史で関わりを持ったこともあったが、それは遠いいつかの出来事だ。今を紡ぐために切り捨てた過去、諦めた未来。それらに属する存在、砂となる世界に零れ落ちた破片の一つ、それが彼女なのだ。
いや、そこに在るのはエルーカだけではない。歴史の裏に積み重ねられた犠牲は、数え切れない程多くの欠片となり、ストックの足下に積み上がっている。国も上司も仲間も、そして失われた過去の中の、大切な誰かも。全ては砕けて、世界の裏に流れ落ちてしまっていた。だがそれでも構わない、何を犠牲にしても進み続ける、ただ一人大切な親友を無事で生かすために。そう思って、信じてきた思いは、今でも何ら変わることはない。例えこれで世界が滅びるとしても、何も後悔することはないと言い切れた。
だが、そうの一部が今、どうしようもなく叫んでいる。何故かはわからない、だが言葉にすらならない原初の叫びが、喉が裂け血を流す程の強さで吼え猛っていた。記憶に開いた虚ろな穴から、強烈な嘆きと哀しみが流れ出して、ストックの心を切り裂いてすり潰している。どうしてこれ程の絶望が在るのか、ストックには分からない。だが止められないそれは、物理的な痛みすら伴う程強いもので、ストックは耐えきれず胸を押さえてその場に座り込んだ。
「おい、どうした?」
周囲の声が歪んで聞こえる。どうして、何故、それはストックこそが聞きたいことだ。どうして、こうなった。ただ護りたかった、それだけなのに、何故。
「ストック、おい――」
だいじょうぶだ、と答える声が、遠い。ストック自身が発している筈なのに、何処かの穴蔵から響くかのようにも聞こえてくる。世界に紗がかかっているように感じられ、それなのに呼吸と心臓の音だけが、妙に煩かった。
こうするべきでは無かった、何処かで誰かがそう叫んでいる。だが他に何が出来たというのだ、全ての選択肢を奪われ、残酷な二者択一を目の前に突き出された状態で。死に晒された親友を救う、そのために取れる手段は、今に至るたった一つの道しか無かったというのに。
分かっている、後悔などしていない、だがそれを選んだことでストックが捨てたものは――
ストックは、ゆらりと立ち上がった。揺れる視界の中で周囲の者たちが慌てているのた見えたが、今のストックにとってその情報は何の意味も持たないものだ。
少し抜ける、と言った気がした。声に出ていたかどうかは分からない、それに周りが応えるのも待たず、ストックは茫漠とした意識で歩き出す。ロッシュに、会いたかった。この歴史を続ける理由、選び続けた選択肢そのものに。その存在を確かめて、今の世界が間違っていないことを、思い知りたかった。
ロッシュが居ればそれで良いと、そう思っていたのだ。過去を切り捨て、未来を砕いても、彼が無事でさえあれば構わないと。その想いは今でも変わっていない、彼を害するものは、世界でも運命でも拒んでみせる。

その結果、世界が滅ぼうと。

――誰かが、涙を流そうと。


――――――


探すという程の時間もかけず、ストックはロッシュを見付けることができた。里の男の殆どは船の建造に取りかかっている、その上ロッシュは隻腕だ、出来る仕事は限られている。心当たりを順に当たれば、そこに姿があるのは、当然の帰結だった。
そしてサテュロス達に交じらず、自分が出来る作業をこなしているロッシュの傍らには、珍しくソニアが寄り添っている。今は夫婦となった親友達の並ぶ姿に、ストックはつかの間痛みを忘れ、微笑ましい目で彼らを眺めた。
「――ストック?」
その視線が呼んだのかどうか、ロッシュはふと顔を上げ、ストックを見遣った。ストックは微かに笑って手を挙げ、彼らに近づく。
「どうしたよ、お前今日はこっちの担当じゃなかっただろ」
「ああ、いや……休憩を貰った」
「休憩?」
「ストック、あなた何だか顔色が悪いですよ」
医者であるソニアの目はさすがに鋭く、ストックの不調を見抜き、厳しい視線を送ってきた。白い指が彼の額、そして首筋に当てられ、簡易の触診が行われる。ロッシュも妻に続き、ストックの様子がおかしいことを察したようで、眉根に皺を寄せて厳しい視線を送ってきた。
「何だ、ほんとに青白い顔してんじゃねえか。大丈夫か?」
「大したことはない、少し休めば戻る」
「ソニア、どうだ?」
「震えや発汗はありませんし、熱も脈も通常通りのようです。大きな異常では無いと思いますけど……」
「そうか、それなら良いが」
妻の見立てにロッシュは安堵の色を浮かべたが、それでも目元は緩めずに、ストックを睨み付けてくる。
「風邪か何かか? 忙しいからって、無理してんじゃねえだろうな」
「……お前ではあるまいし。だからこうして休んでいるだろう、大丈夫だ」
人のことを心配している暇があるかと、憎まれ口をぶつけてやれば、ロッシュの表情が不満げに――だが少しだけ安心したように、歪んだ。お互い様の応酬に、傍で見ていたソニアが、苦笑混じりの笑みを浮かべる。
いつもと何ら変わらない、穏やかで優しい時間。大切な親友達の存在に触れて、ストックの心に開いた穴が、柔らかな幸せで塞がれていくのを感じる。そしてそこから吹き出す暗い絶望も、緩やかに勢いを減じていって。
「…………ストック?」
だがそれでも、生じた闇が完全に消えることはなかった。脳の虚ろも、響き続ける嘆きの声も、ストックの底にわだかまって存在を主張し続けている。ストックの瞳に過った苦しみの光、それに気付いたのか、ロッシュが気遣わしげに眉を顰めた。
「お前、何か」
「いたいた、お前達!」
しかしその問いかけは、形になる前に、彼らに向けた言葉で掻き消されてしまう。彼らが一斉に振り向くと、何やら書面を持ったサテュロスの男が、こちらへと近づいてくるところだった。
「ストックも居たのか、丁度良い」
「何だ、どうした?」
「何かあったのでしょうか」
「いや、な」
口々の質問に、男は真剣な表情で、手にした紙を示してみせる。
「乗船の組み合わせを決めるのに、希望を取ってるんだよ。乗るか乗らないか、乗るとしたら一緒の船に乗りたい者は居るか……」
その言葉に、ストック達三人は、一瞬瞳を見交わした。
「乗れない、ということがあるのですか?」
代表して発せられたソニアの問いに、男は首を横に振って応える。
「いや、それは大丈夫だ、我々とブルート族が全員乗れるだけの船は建造する予定になっている。だが、その」
「大陸を離れようとしない者が居る、ということか」
僅かに濁した言葉を、ストックは正確に拾い上げた。例え助かる道があるとしても、誰もがそれを選ぶとは限らない。長く暮らした大地を離れがたい者、航海への恐怖が耐えられない者、あるいはもっと他の理由のために。造られた船に乗ることを拒み、砂と化す大陸に残ろうという者も居るのだろう。航海を束ねる立場の者は、その成功率を可能な限り高めるため、実際に海を渡る人数を把握しておく必要がある。
「そういうことだ。……で、お前らは行くんだろう?」
その問いに応を返そうとして、ストックはふとその口を止めた。そして、左右に立つ親友達に、ちらりと視線を走らせる。
「……私達は人間です、それでも構わないのですか」
「ああ、勿論だ。人間といっても里の一員だしな、誰も文句は言わないよ、それに」
ソニアもロッシュも真剣な表情だ、目の前にあるのは希望の筈なのに、それを見詰める彼らの目に輝く光は見られない。果たして何を考えているのか、ロッシュは何も言うことをせず、じっと黙り込んで虚空に視線を注いでいる。
「――あるいはお前達は、この世界で最後の人間になるかもしれない。残酷かもしれないが、出来るだけ生き残って欲しいんだ」
男の言葉に、ストックは目を瞬かせた。それはストック自身も予想していた可能性だが、こうして改めて形にされると、より一層の絶望を纏って彼らに迫ってくる。ロッシュが低く息を吐き、ソニアの震える拳が、自らの唇に押し付けられた。
「で、行くんで良いんだな?」
砂と化す大陸を後にし、人という種の存続を背負って新たな大地を目指す。それは確かに希望ではないのかもしれない、だが例え絶望の中であろうとも、間違いなく未来は続いていく。
多くの犠牲を、足下にばらまいたままで――
「いや」
男がロッシュを見た。ソニアもストックも、驚いた顔でロッシュを見詰めた。ロッシュは三人の視線を受けても揺らぐ様子を見せず、何処ともしれぬ箇所を見詰めている。
「俺はこの大陸に残る」
一度瞼が伏せられ、そして開いたその目が、ストックへと向けられた。
決意を湛えた薄青い瞳を、ストックは静かな心地で覗き込む。分かっていたのかもしれない、彼がこの決断を選び取ると。
「ストック。お前もだ」
だからそう言われた時も驚きは無く、むしろ穏やかな安堵が、ストックの中へと広がっていった。そう、選べる道はひとつだけだ。過去を切り捨て、未来を壊したのならば、今と共に終わるしかない。ロッシュは分かっている。そのことがストックの胸を暖かく満たしていく。
分かっている、ロッシュも、そして自分も。ストックは、己を見詰める親友に向かって、深く頷いてみせた。
「あなた。ストック」
震えるソニアの声に、ロッシュが視線を動かした。唯一の右腕を妻に伸ばし、彼女をそっと抱き寄せる。
「……すまん、ソニア」
戦いの中で鍛えられた、逞しく無骨な手が、精一杯の優しさで華奢な身体を添えられた。柔らかな髪を、背を、慈しむように撫でる。ソニアは震える手で夫の、最愛の相手の頬に触れた。
「良いんです。分かっていましたから」
彼女もまた知っていたのだろう、ロッシュが罪を知り、世界と共に終わる道を選ぶことを。そして何を言ったところで、けしてロッシュを止められないことも、分かっているのだ。
ソニアは船に乗るだろう、きっとロッシュがそれを望む。そしてロッシュ自身は大陸に残り、ストックと、最後まで共に居てくれる。
これが終わりだ。多くの命を巻き込んで滅びゆく歴史の、穏やかな最後。
「分かって、いましたから……」
世界は終わる、その瞬間まで、ロッシュは生きている。望みは叶って、報いと共に歴史は終わりを告げる。
ソニアの声に涙が混じるのを、ストックは脳のどこかで聞いていた。口に出せぬ懺悔と、それ以上の幸福をもって、ただぼんやりと彼女の泣き声に耳を傾けていた。



BACK / NEXT


セキゲツ作
2012.06.06 初出

RHTOP / RH-URATOP / TOP