里が、ざわめいている。

ソニアは、産まれてからずっと、戦争のある場所で生きてきた。アリステルは軍事国家だ、本格的な交戦が始まったのはこの数年だが、それ以前から小競り合いは恒常的に存在していた。軍の力も大きく、戦果を立てた者達が英雄として讃えられる中で、多くのアリステル国民はグランオルグと戦争状態にあるものと認識していただろう。
彼らは皆、戦争のために生きてきた。働いて税を納めることで軍を養い、時には自ら志願兵となって戦場に立ち、戦えない者でもソニアのように軍属の技師として働いて。成り立ちの時点からグランオルグと対立していたアリステルに産まれた人間にとって、それはあまりにも日常的で、疑うことすら思いつかないような自然な現実だった。
だが、セレスティアは違う。ここは穏やかな土地だ。結界と森で人目を阻み、同胞以外に出入りする者はなく、俗世の争いとは完全に隔絶されている。住人同士のささやかな諍いがあったとしても、血で血を洗う争いにはけして発展せず、他の者達によって平和的な解決へと導かれていくのが常だ。ただ、静かで柔らかな時間がゆっくりと過ぎてゆく、ここはそんな場所だった。
ソニアはセレスティアに来て初めて、戦いのない日常を知った。ここでは、戦場に赴く兵士を見送ることも、死に到る怪我を負った者を、無駄と知って尚手当する必要も無い。敗戦の知らせに心を痛めることも、首都に迫る敵の恐怖に覚えることも無く――そして何より、大切な者達の死に怯える必要も無かった。
ここでは、ストックもロッシュも兵士ではなく、一介の住人に過ぎない。ストックは護衛として里の外に出ていたが、それでも殺し合いを前提としての戦いと比べれば、危険は随分と少なかった。ロッシュに到っては、この里に来てから今まで、戦いに関わることなく平和な日々を送っている。彼らが戦いに行かない、死の報に怯えながら帰りを待つ必要が無い。それはソニアにとってあまりに新鮮で、そしてとても幸せな、抗いがたい魅力を持った日常だった。
だから、気付けなかった。
いや、気付かないふりをしていた。
穏やかに暮らしている筈の彼らが、少しずつ歪んでいることに。
平穏な日々など、最初から、何処にも無かったということに。


――――――


「――分かりました、有り難うございます」
そう言ってソニアが頭を下げると、作業所の者達は快活な笑顔で、気にするなと応じてくれた。仕事を中断されたにも拘わらず、気の良い彼らの態度に、ソニアも柔らかな笑みで応える。
彼女がここを訪れたのは、ロッシュを探してのことだった。自らの仕事が終わってから、共に部屋に戻ろうと、彼が働いている作業所まで足を運んだのだ。しかし当のロッシュは、割り当てを終わらせると同時に姿を消してしまったようで、残念ながらすれ違いになってしまっていた。こんなに早く仕事から上がるなど、勤勉なロッシュにしては珍しいことだと、同僚のサテュロス族たちは首を傾げている。ソニアは何も言おうとしない、だが実際のところソニアにとっては、さほど不思議とも思われないことだった。ここ数日、ロッシュは随分と沈み込んでいる。言葉数が少なくなり、話しかけても己の思考に捕らわれて、答えが返らないこともあった。聞けばソニアが相手の時だけではなく、他の者達にも同じ態度を取っているらしい。作業所の者達も、普段と様子の違っているロッシュのことを、随分と心配してくれていた。
ソニアとて、勿論ロッシュのことは心配だ。だが、今の自分では何も出来ないこともまた、残念ながらよく分かっていた。原因ははっきりしている、数日前に訪れた、アリステルとグランオルグの代表が、彼の心を乱している理由だろう。それを気にしているのは、ロッシュだけではない。この閉ざされた里に外の者の来訪、それも国を代表しての正式な訪問があるなど、久しく無かったのだと聞いた。かなりの老人でなければ経験すら無い事態に、人々は常の冷静さを無くし、里の未来について密やかに話し合っている。里全体が浮き足立った雰囲気に包まれているのだが、その中でもロッシュは特に、顕著な反応を見せてその口を閉ざしていた。
あの日彼に何があったのか、ソニアには分からない。訪れたのがラウル中将だとは聞いていたから、恐らくは誰にも気付かれぬまま彼と会い、何らかの言葉を交わしたのだろうと推測できる。そこで話されたのが何だったのか、そしてロッシュにどんな変化をもたらしたのか。ソニアは知らない、いや彼女だけではなく、他の誰も知り得ないことだった。
作業所から出たソニアは顔を上げ、ゆっくりと辺りを見渡した。ここに居ないのであれば、後は何処が残っているだろうか。結界樹の前は既に見て回り、姿の無いことを確認している。ストックと共に居るのかとも思うが、彼は彼でいつも何かしら動き回っているため、どこに居るとも判断がつかない。それとも今は里に居るガフカと鍛錬をしているのか、特に目的もなく辺りをぶらついているのか、どちらにしろ心当たりという程はっきりした居場所は思いつかなかった。
仕方がない、一人ごちてソニアは部屋に足を向ける。どのみちもう日が暮れる、闇に閉ざされる森を、いつまでも出歩いてはいないだろう。ロッシュを探してはいたが、見付けて何をする予定立ったわけでもなく、先に部屋に戻っていたところで何の問題もなかった。そう、用があったわけではない、ただ――ソニアもまた抱えている漠然とした不安を、恋人と共に居ることで晴らしたかっただけなのだ。
太陽の傾きかけた森を、人々が行き交っている。子供の叫びと晩餐の香り、そして仕事を終えて家路につく大人達の話し声が入り混じって、森に響いていた。ソニアの立てる音もまたその一部となって、あてがわれた住居に戻り、大切な人たちと共に一日を終える。穏やかな土地、幸せな日々。しかしそこに、一筋の暗い影が差していることを、ソニアは気付いていた。
この暮らしはいつまでも続くものではない、閉ざされた里にも様々な禍は忍びより、人々を巻き込もうと気配を伺っている。期限の切られた幸福、それをストックは分かっているのだろうか、そしてロッシュは。
いや、そもそも彼らは、これを幸せだと思っていたのだろうか。あるいは最初から、全てに目を背けて逃げていたのは、ソニアだけだったのかもしれない。
「ただいま……あら」
ぼんやりと考えごとをしながら、ソニアは扉を開き、そしてふと首を傾げた。扉が抵抗無く開くのは問題ない、セレスティアではアリステルと違い、外出時にも鍵をかける必要がない。ただ、室内に人の姿があったのは、ソニアの予想を外れていた。
「ロッシュ?」
扉が開いた音につられてか、ロッシュは目を開いてソニアの方に視線を向けている。驚いた様子だが、ソニアが感じた驚愕は、恐らくその比ではない。一瞬息を飲み込み、声も発せぬまま、ロッシュのその姿を凝視する。
「ソニア」
彼の側でも、ソニアが今入ってきたのは、予想外だったのだろう。彼女と顔を合わせる、心の準備が整っていないのがよく分かる様子で、瞳を揺らした後にそっと顔を逸らした。
二人の視線が、同じ一点に注がれる――すなわち、ロッシュの左腕へと。
「ロッシュ……それは、一体」
そこには、何もなかった。今までずっと、彼の片腕となってそこに在ったガントレットは、部品全てを取り外されて机の上に横たわっている。何もない、虚ろとなった空間を、ソニアは呆然と見詰めた。
「あー……まあ、何だ」
困ったように笑うロッシュの右腕が、左腕があった部分を撫でる。何があったのだろう、とソニアは人事のように考えた。確かに今、彼のガントレットは動いていない。ずっと、敗戦以来力を失ったままで、その存在は身体にとって負担以外の何物でもなくなってしまている。だがそれでも、ロッシュはガントレットの存在に固執し、けして外そうとしなかったのに。いつか戦いに戻るための決意なのだと、ソニアがそう感じていた鉄の腕を、何故か今彼は身に着けていなかった。
「片腕ってのは、慣れんもんだな。ずっと、こいつがここにあったから……外しちまうと、身体のバランスが取れん」
おどけたような口調は、恐らくは意図的なものだ。右肩を竦めたロッシュに、ソニアも硬い笑みを、それでも何とか作ってみせる。
「筋肉が、ガントレットの重さを元に発達していますからね。急に外してしまったら、違和感があるのも無理はありません」
「そっか。まあ、そりゃそうだな」
「ロッシュ」
軽さを装って会話を交わしていたが、ソニアが扉を離れて歩み寄ろうとすると、ロッシュは僅かに身を硬くした。
「どうしたんですか、一体」
ソニアはそれを無視して、ロッシュの傍らに寄り添うと、左腕の空間に手を触れさせる。身体の一部であった鉄塊を失い、完全な隻腕となったロッシュは、何も変わらぬ筈なのにひどく不自然な姿に感じられた。彼自身もそれは分かっているのだろう、恋人の注視に対する反応は、普段以上に戸惑いに満ちている。
「どうってわけじゃあ、無いんだが」
ソニアは手を伸ばして、安置されたガントレットに触れた。冷たく硬い、彼の左腕に在った時と何ら変わらない感触。左の空間と、動かぬ鉄を交互に撫でなるソニアが、ロッシュをじっと見詰めた。
「…………すまん」
どうして謝るのだろうと、ソニアは首を傾げた。その視線をどう受け止めたのか、ロッシュがまた、辛そうに目を逸らす。ソニアは鉄の腕から手を離し、そっと恋人の頬に触れさせた。
「ロッシュ。何かあったんですか」
「……何もないんだ、本当に」
荒い肌の感触は、以前と変わらない。ただ少しだけ痩せたかもしれない、触れた下の肉は薄く、硬い骨格がそのまま指に伝わるように感じられた。彼はずっと悩んでいた、それが元々薄い肉を削ぎ落とし、彼の顔に苦しみを刻みつけてしまったのだろうか。
「ただ……外さなきゃいけないと、思ってな」
「何故です?」
聞いてはみたが、実際は答えなど必要としていなかった気がする。理由はきっと、既に知っていた。ソニアはずっとロッシュを見ていた、彼のことは、彼自身よりもよく知っている。
「もう、これに頼っちゃいけないんだ」
だが、直接、聞きたかった。その口から直接、ロッシュの言葉で語られる理由を。
「俺はずっと、ガントレットの力で戦ってきた」
「そんなことはありません」
「いいや」
ソニアの言葉を、ロッシュは言下に否定する。彼を知る者なら誰もそうは思わないだろうが、それを彼が納得することはない。今までも無かったし、これからもきっと無いのだろう。
「ガントレットが無いと戦えない、これが動いたらまた戦える、今までずっとそう思ってきた。だが、それじゃ駄目だったんだ」
ロッシュが語っている相手はソニアである筈なのに、その口調はまるで、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえる。机の上のガントレットをじっと見詰めながら、ロッシュはふと自嘲を浮かべた。
「ストックは俺たちを護ろうと、ずっと戦ってくれていた。いや、今も……あいつは、一人で戦ってる」
「……ええ」
「それだけじゃない。あいつは、俺が戦うことを拒んだ」
ソニアは今でも覚えている、ソニア達三人が里に逃げ込んで、直後ストックが姿を消したことがあった。その間何処に居て何をしていたかは知らない、だが再び戻ってきたストックは、ロッシュが戦う必要は無いと言い切ったのだ。
「……私は、ストックがあなたを戦わせると思っていたんです。ですが……」
あれ程信頼し合っている親友であれば、如何にロッシュが心を閉ざそうと、背を合わせて戦うことを望むと思っていた。だが、実際は違う。彼らが逃げ込んだ直後も、それから時間が経ち怪我も心も治った後も、ストックはロッシュを里に留め続けている。それはいっそ強引な程、そう、閉じこめると言ってすら構わないような力でだ。
ストックが何を考えているのか、ソニアには分からない。向けてくれる想いは以前と何も変わらない、篤い友情に満ちているように感じるのだが、それもあるいはソニアの幻想なのかもしれない。
ロッシュが苦しげな笑みを浮かべ、頭を振った。ソニアが分からずに戸惑っているのと同じことで、きっと彼も苦しんでいるのだろう。
「あいつは、戦うなと言ったよ。アリステルに愛想が尽きた、あの国のために賭ける命など無いと」
「確かに、酷い敗戦でしたから」
「ああ、だが、本当にそれだけが理由なのか……あいつは例え、俺がこの里のために戦うんでも、許しはしないんじゃないか。そう、思うんだ」
「……それはロッシュ、あなたのことが心配だから」
「ああ、分かってる。それでも」
ふと、左腕の根本が震えた。途切れたその先、肉も鉄も無くなった部分にどんな意志が込められているかは、本来であれば見た目に分かるものではない。だが何故かソニアには、そこに力が込められ、ゆっくりと持ち上がるのが見える気がした。錯覚なのは分かっている、だがかつてそこにあった何かが、ロッシュの意志を反映して動いているのだと。
「それでも、このまま居るわけにはいかない。俺は――あいつの、親友だ」
はっきりと、ソニアには感じられた。頷きと共に拳が握られる、現実に対する影響力など持たないはずなのに、不思議な力強さをもって空間に何かが浮かび上がっている。
それはきっと、ソニアの錯覚なのだろう。希望が生みだした幻影、科学者としてけして認めることはできない現象であっても、尚。
「俺が、あいつを止めなきゃならん。そのためには、ガントレットに頼ってちゃ駄目なんだ」
その『腕』は、あまりに強く、確固としたものに見えた。ソニアは数度瞬いて、左腕に頬から外した指を添える。
彼女の表情から、何を読みとったのだろうか。ロッシュは痛みを堪えるような形に顔を歪め、ソニアの柔らかな髪にそっと掌を置いた。
「すまん」
「どうして、謝るんですか」
「隊長の形見を、捨てちまって」
ソニアの兄、ロッシュにとっては上官である男が作り与えた、鋼鉄の義手。その力によって自分は戦えているのだと、ロッシュはずっと思っていたのだろう。ガントレットと共に戦果を挙げ、アリステルを勝利に導くことこそ上官への恩返しだとも、考えていた筈だ。だがそれは間違っている、少なくともソニアが知る限り、そんなことを兄は望んでいなかった。
「謝るのは、私の方です」
ガントレットは、ロッシュが立ち上がるために必要だったのかもしれない。少なくともあの時、ロッシュが再び戦場に立つためには、失った左腕の代わりとなる力が必要だった。そして戦い続けることで、彼の心は救われていた――だから、ソニアの兄が間違っていたとはけして思えない。
だが、与えられた力を尊ぶあまり、ロッシュが己への評価を曇らせてしまったのもまた事実だ。戦っているのはロッシュ自身の力なのに、それが全てガントレットによるものだと思いこんでしまっていたのだ。
「兄は、あなたを助けたかった――だけど、結局はガントレットが、あなたを縛ってしまった」
「……俺を? 何言ってるんだ、ソニア」
困惑した様子の恋人に、ソニアは悲しげに微笑んだ。ロッシュはきっと、それを分かっていない。これから先理解することも、きっと無い。それでもこうして、正しい道を選ぼうとしている、それが彼の本当の強さだ。
ガントレットを、鋼鉄の左腕を失っても、ロッシュはこうして己の足で立とうとしている。戦場に戻れるかどうか、今はまだ分からない。だがそれでも、例え軍を生きる場所としなくても、彼はきっと誰かを救うために戦うだろう。
護るべき相手が居れば、ロッシュはどこまででも強くなれる。一度はそれを失って足を止めてしまったが、道を誤った親友のために、再び歩き出そうとしている。
「良いんです。ロッシュ……あなたは、あなたのままで良い」
兄の本当の望みも、それだったのだから。理解が追いつかない様子で眉を顰めるロッシュに、ソニアはゆっくりと首を振り、言葉を封じる。
「ソニア、俺は」
「良いんです。あなたは……また、戦うんでしょう」
そうならなければ良いと、願っていた。死の可能性に怯えることなく過ごせる毎日は、あまりに平穏で暖かく、抜け出す意志を持つのが難しい。柔らかな日々がずっと続けば良いと、捕らわれるようにして思ってしまっていた。
だがそれは、ただソニアだけが抱えていた願望に過ぎない。
「私はあなたに、戦って欲しくないと思っていました。けれど……それは、あなたが望むことじゃなかったんですね」
「……すまない」
「だから、謝らないでください」
ロッシュが望んでいるのが何か、ソニアには気付くことができなかった。彼は、他の者が望んだこととは真逆の、立ち上がるための力こそを求めていたのに。ソニアもストックも、それからは目を逸らして、己の希望だけをロッシュに押しつけてしまっていた。
「ソニア、俺は……」
「良いんです。私はもう、止めません」
本当はそれでも、戦って欲しくなんてない。けれど、ロッシュが立ち上がってしまった以上、留めることなどできないのは分かっていた。
ロッシュは再び戦場に戻る。ソニアがどう思おうと、そしてストックの願いが何処に有ろうと、その未来はきっと変えられない。
いや――ロッシュの意志だけではない。きっと、この先にある事は、何も変えることができない。
そんな予感が、した。
「その代わりに、ひとつだけお願いがあります」
ずっとこのままで居られないことは、はっきりと分かっている。だからもう、未来を望むことはしない。
「……お願い?」
「ええ」
先が無いなら、今この一瞬だけでも、希望の光を。ソニアが悲しげに、だが強い力で微笑むのを、ロッシュはじっと見ていた。何も言わぬまま見詰める恋人の手を、ソニアは持ち上げて、そして。
「最後の、お願いです」
硬い指に、自らの唇を触れさせた。
胸に開いた穴を覗き込みながら、そっと。


――――――


――そしてやってきたその日、空はとてもよく晴れていた。

「見事な晴れですよ」
入ってきたサテュロス族が、そう教えてくれる。言葉にせずとも、窓から覗く青い空を見れば、今日が最高の日和であることはよく分かった。そのこと自体よりも、晴れ渡った空を自らのことのように喜んでくれる相手の心が、ソニアの胸を暖かな感慨で満たしていく。
「服は大丈夫ですか、きついところは?」
今日の準備を担当してくれているその女性は、そう言いながら、衣装の具合と髪飾りを確認してくれた。サテュロス族伝統の婚礼衣装に身を包んだソニアは、それを大人しく受けながら、化粧と飾りを崩さぬようそっと頷いてみせる。
ロッシュとソニアの結婚を、里の者達は皆喜んで祝福してくれている。里が大変な時に浮ついたことを言い出してしまい、白眼視されても仕方がないと思っていたのだが、むしろ人々の反応は揃って暖かなものだった。あるいはこんな時だからこそ、幸せな行事が行われることを歓迎する気持ちがあるのかもしれない。婚礼の衣装や祭壇、そして宴の準備をする皆の顔は、訪問を迎えて以来見られなかった明るい笑顔に満ちていた。
「もうそろそろ、時間ですからね。苦しいところがあったら、早めに言っておいてください」
気分が悪くなっても式は止められませんから、と厳しい顔を作る彼女に、ソニアは微笑んで頷く。
「大丈夫、有り難う御座います。私よりむしろ、ロッシュの方が大変そうでしたし」
「何をおっしゃっているんですか、男なんてちょっときつく締めあげるくらいで良いんです。それくらいでへこたれるようなら、ソニアさんの夫になる資格なんてありませんよ」
「まあ……」
厳しいことだ、と笑うソニアに、女性も楽しげに笑みを零した。
と、そこに扉を叩く音が響く。
「……入っても、大丈夫か?」
扉の向こうで発せられた低い声に、女性の笑顔がまた一段と深くなる。いそいそと開かれた扉の向こうには、果たして今回の主役の片割れであるロッシュが、男性用の礼服に身を包んで立っている。
「ロッシュ」
ソニアが呼びかけると、白い頬が赤く染まり、すっと視線が逸らされた。何も言えずその場で立ちすくむ新郎を、サテュロスの女性が苦笑して眺める。
「では、私はこれで。時間には呼びに来ます、何かあったら呼んでくださいね」
そして気を利かせてくれたのか、彼女はロッシュの横をすり抜け、部屋から出ていった。ロッシュの後ろで、勢いよく扉が閉められる。
「あー、その……何だ」
二人となった空間で、ロッシュは視線泳がせながら、口の中でもごもごと何かを呟いた。
「はい?」
「いや、その……似合ってるな」
可能な限り何気なさを装って言ったつもりなのだろうが、その努力は全く実っておらず、そして勿論ソニアにとっても聞き流せるものではない。化粧の上からでも分かる程頬を赤くしたソニアから、ロッシュはまた視線を逸らし、手持ちぶさたに右手の指を動かしている。
「有り難う、ロッシュ。あなたも、素敵です……苦しくは無いですか?」
「ああ、ちゃんとぴったりになるように作ってくれたよ。急ぎだってのに、有り難いことだ」
彼らの婚礼衣装は、セレスティアの女衆が作ったものだ。サテュロス族伝統の衣装を、人間の身体に合うように作り替えたそれは、この婚礼のために態々仕立てられたものだった。サテュロス族とかなり体格の違うロッシュにも、ぴたりと合うように丁寧に作られている。
「皆さんに、感謝しなくてはいけませんね」
「ああ。……ストックにもな」
「そうですね。ストックは今、何処に?」
「まだ外だ、族長達と最後の打ち合わせをしてる」
ストックもまた、彼らの結婚を心から喜び、惜しみない祝福を浴びせてくれていた。忙しい合間を縫って式の準備を手伝い、今日の進行も引き受けてくれて、今はそのための打ち合わせをしている最中だ。親友のことを思い浮かべたからか、ロッシュはふと口元を、苦笑に似た形に歪めた。
「本当に、随分世話になっちまったからな、あいつには」
「……そうですね」
式のことだけではない、里に居る間ずっと、いやそもそもアリステルを抜けて里にやってくる時から。ストックはずっと、彼らを見守ってくれていた。そしてそれはこれからも変わらないのだろう、少なくともストック自身は、そう考えている筈だ。
だが、ロッシュは。
「……すまん」
「もう……謝らないでください、こんな時まで」
ソニアは笑って交わそうとするが、ロッシュの表情は真剣なままだ。痛みを堪えるような顔で、それでも視線はソニアから離さず、低い息を吐き出す。
「謝らずにいられるか。……何処まで一緒に居られるかも分からんのに」
「ええ、知っています。それでも良いと言ったのは、私なんですよ」
ロッシュは最初、ソニアの願いを頑なに拒んでいた。戦いに戻ることを決めた自分が、いつまで生きていられるかも分からない身でソニアを娶ることなど許されないと、そう主張していたのだ。だがソニアも、ロッシュがそう反応するだろうということは、言い出す前から予想していた。だから何度断られてもけして譲らず、己の願いを語り続け――そして、最後はロッシュが折れてくれて、今日という日を迎えることができた。
「ロッシュ、あなたは」
ソニアがロッシュを見詰めて、口を開く。請うような視線に誘われて、ロッシュはようやく花嫁の傍らにやってきた。並べられていた椅子に座り、ソニアと目線の高さを合わせる。
「もうすぐ、行ってしまうんですね」
膝の上に置かれた手に、ロッシュの分厚い掌が重ねられた。ソニアの手など片手で一纏めに出来そうな程大きいのに、込められた力はとても優しい。
「……ああ」
その感触が嬉しくて、ソニアは笑みを浮かべた。
「大丈夫。待っていますから」
誰よりも愛しい恋人、そして大切な親友の帰りを、ソニアは待ち続ける。婚礼衣装は、その決意の証だ。
覚悟は出来ている、例え――彼らがもう、二度と戻ってこないとしても。
「ソニア」
何かを言おうとするロッシュの言葉を、ソニアは唇に指を当てて塞いだ。何も聞く必要は無い、言い訳も謝罪も、感謝でさえも。ただ傍に居て、限られた時を共に過ごしてくれれば、それで構わない。
言葉にしないその思いが伝わったのかどうか。ロッシュはそれ以上何も言おうとせず、ただじっと手を握ったまま、ソニアの傍らに寄り添ってくれていた。
式が始まるまでの短い時間を、ずっと。
二人を呼ぶ声が響くまで、そうして触れ合って過ごしていた。



――――――


道の両脇に群がったサテュロスの民に見守られながら、ソニアはゆっくりと歩を進めていく。空は抜けるように青く、木々の緑を鮮やかに照らし出していた。人々は厳粛に、だが喜びに満ちた沈黙を以て花嫁を迎えてくれている。
サテュロス族の子供たちに裾を持ち上げられ、花嫁は一歩、また一歩と、花婿の元へ近づいていった。距離が縮まるにつれて頬が美しく染まってゆくが、幸福なその変化はヴェールに覆い隠され、他の者が見ることは出来ない。それを目にする権利があるのは、一人だけ。祭壇で待つ彼女の恋人、そしてこれから夫になる男、ただ一人のみだ。
しん、と広がる静寂の中、ソニアが歩みを止めた。祭祀を勤めるベロニカが、そして里の人々が見守る前で、ロッシュがソニアのベールを引き上げる。
二人の視線が、真っ直ぐに絡み合った。
ソニアの視界に、ロッシュの薄青い瞳が広がる。心臓が大きく脈打っていて、他の音など何も聞こえてこない。ベロニカが何かを言い、ロッシュもそれに応えた気がするが、その意味は頭の上をすり抜けてしまっていた。
ただ、一つだけ分かっているのは。
「――誓います」
今、愛しい人と共に在るということだけ。今この時、時の流れから切り取られた一瞬間だけは、誰よりもロッシュの近くに在れるという真実だけだ。見詰めるロッシュの顔が近付き、唇に暖かいものが触れる。胸の内側が、苦しいほど何かで満たされて、耐えきれず一筋の涙がこぼれ落ちた。
「ソニア」
口付けを終えたロッシュが、困ったように微笑み、頬の涙を拭ってくれる。ソニアもそれに、泣き笑いで応えてみせた。人々の歓声が、青い空にこだまして。
幸せだった。
本当に、本当に、幸せだった。
誰もが祝福する中、世界で一番幸せな花嫁は、夫となる男の腕に抱かれて――

「…………っ!?」

その瞬間、感じたのは激しい目眩。だが直ぐにそれが間違いだと気付く、揺れているのは身体ではない、大地そのものだ。歓喜の声が途切れ、戸惑いと恐怖の叫びが取って替わった。
「じ、地震だ!」
「落ち着け、動くのは危険だ! その場に座れ!」
「ソニア!」
ロッシュの逞しい右腕がソニアを抱きかかえ、半ば引き摺るようにして歩きだした。揺れる大地に足を取られながらも、なんとか祭壇から離れて、地面に座り込む。ソニアの視界から外れた何処かで、何かが落ちて壊れる音が聞こえた。
「何だ、これは……」
「くそっ、長いぞ!」
揺れる。世界が、揺れている。地が割れるのではないかという程の勢いで、永遠に続くかのように長く。焦点も定まらぬ視界の中で、ソニアはただ、抱き竦められたロッシュの身体を感じていた。何かが失われていく、そんな気配に怯えながら、ただひたすらに。今だけは傍に居てくれる、愛しい相手の温度に、その身を委ねていた。




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セキゲツ作
2012.05.20 初出

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