しばらくは、誰も口を利こうとしなかった。
バノッサは、温厚な彼には珍しく沈んだ表情のまま、沈鬱な空気を纏って一行を先導している。隣を歩くエルーカは何を考えているのか、当然明るいわけもないが、さりとて悲嘆に暮れているという様子でもない。ただ真剣な表情で、視線を真っ直ぐ前に向けたまま、己の内側を探っているようだった。
ラウルに対して全てを語っていなかった彼女だが、あるいはまだ何かの情報を隠しており、その使いどころを吟味しているのかもしれない。彼女がニエの存在を秘匿したことを、ラウル自身はさほど気にしていなかった。儀式の遂行を理由として協力を求めていたのだ、それに疑問を投げかけられる材料であれば、語るのを躊躇うのは当然だろう。自己の利益のみから情報を操作したのなら不信も抱くが、彼女が大儀に背いていないことを、ラウルは疑うことなく確信していた。王位に就くだけならもっと効率の良い方法はある、危険な橋を渡って複数の国を巻き込む必要など、どこにもない。彼女自身が動き、そして真実を少しずつでも広めようとしていることが、王女の本気を示していた。
とはいえ隠していた情報が重要であること、そしてそれが最悪の時に暴露されてしまったのも、また確かだ。サテュロス族達は彼女に疑念を抱いてしまっただろう、信頼を取り戻すのは不可能ではないが、今直ぐに出来ることでもない。この戦争におけるセレスティアの参戦に限れば、可能性は完全に無くなったと言い切っても構わないだろう。王女のせい、と言えるのかもしれないし、場を動かせなかったラウルのせいとも言える。どちらにも過はあるし、何より今は、責任の所在を云々している場合ではない。セレスティアから戦力が見込めなくなった以上、直ぐに他の手を打たなければならないのだ。
状況は悪化した、だが今は絶望に浸らず、前を見据えるべき時だ。暗く沈んだ空気を浮上させるため、ラウルは明るく声を出そうと、口を開く。
「おや……?」
だがそれが形になるより先に、バノッサがふいに、その足を止めた。必然的に彼に付いていた二人も停止を余儀なくされ、互いに顔を見合わせる。
「どうやら、あなた方を見送りたい者が居るようです」
「……え?」
「人間の方々には、まだ気付けないかもしれませんね。ほら、あそこに」
そう言って指さされた方を見れば、前方の木陰に、何者かが佇んでいるのが見て取れた。物の多い森のこと、サテュロスの鋭敏な感覚が無ければ、気付くことは難しい距離だ。相手もこちらの接近に気付いているか、微妙なところだろう。
「このまま行かれますか? もし避けたいのであれば、迂回して出口までお送りしますが」
「いえ……結界の内に居るということは、暗殺者の類では無いでしょう。会っても、構わない筈です」
ラウルの言葉に、エルーカも同意を示す。それを確認すると、バノッサは頷き、再び歩を進め始めた。
予感が無かったわけではない、セレスティアに居てラウルやエルーカと会いたがる者は、けして多くはない。だから、距離が近づきその姿が明らかになった時も、生じた驚きより喜びの方が遙かに強かった。
「――ロッシュ」
機先を制して名を呼んでやると、逆に彼の方が驚いた様子で、目を見開いている。その身体は、鎧こそ身につけていないものの、記憶の中とそれと大きく変わることはなかった。最後に見たのが怪我を得て意識を失っている間だったからか、力強く己の足で立つ姿に、深い安堵を覚える。
「ラウル中将。やっぱりあなたでしたか」
そしてロッシュの側もまた、ラウルの顔を見て、胸を撫で下ろしているように見えた。一行に駆け寄り、数歩離れた位置で足を止めた顔には、緊張の混じった微笑が浮かんでいる。
「アリステルから人が来ると聞いて、もしかしたらと思ってここで待っていたんです。ご無事で、何よりでした」
「それはこっちの台詞だよ、マルコ君とレイニー君から話は聞いていたけど、何しろあの怪我だったからね。無事で生きていてくれて、本当に良かった」
ラウルの言葉に、ロッシュは何も言わず、少しだけ困ったような笑みを浮かべた。そしてちらりとエルーカを見ると、ラウルに、問いかけの視線を投げる。
「その、こちらは……」
「ああ、紹介が遅れたね。彼女はグランオルグの第一王女、エルーカ殿だ」
「――グランオルグの!」
今まさに戦端を交えている敵国の名に、ロッシュが目を剥く。事前に何の情報も得なければ、確かにこの反応は自然なものだろう。だが賢明にも、直ぐに敵意を示す――もしくはそれを行動に移すことはせず、ロッシュはじっと、彼女に視線を注いでいる。
「驚いただろうが、彼女は敵じゃない。王女も国を追われた身で、それを取り戻すために、僕らと行動を共にしてくださっているんだ」
「……敵の敵は味方、って奴ですか」
その認識は少し違っている気がしたが、ラウルは敢えて訂正することもなく、エルーカに向き直る。
「王女、彼は僕の部下――元部下で、ロッシュという男です。以前ヒューゴに命を狙われ、セレスティアに逃げ込んでいた……と、聞いています。僕も会うのは、随分と久し振りですけどね」
ラウルの極簡単な説明に、エルーカも頷き、ロッシュに向かって一礼した。
「初めまして、ロッシュ。私はエルーカ、グランオルグの第一王女です」
「……どうも。その……」
ロッシュが困惑した様子なのは、敵国の王女に相対しているからというより、高貴な相手に対してどう接したら良いか分からないからだろう。軍を離れても変わらない律儀さに、ラウルは小さく笑みを零した。
しかしその柔らかさも直ぐに引き締められ、真面目な顔に変わる。
「バノッサ殿、少し時間を頂いても?」
「勿論です、元々今夜は泊まって頂くつもりでしたから、このまま留まって頂いても何ら不都合はありません。どうぞ、心行くまでお話ください」
「有り難うございます、そう言って頂けると助かりますよ」
ラウルの真剣さを察してか、バノッサが一歩引き、話を妨げない姿勢を示してくれる。ラウルは大人しくその好意に甘え、ロッシュの方へと向き直った。
「中将……ずっと連絡できず、申し訳ありませんでした」
第一声の謝罪に、ラウルの口元にまた苦笑が浮かぶ。彼は本当に律儀だ、あれ程の絶望を経験しても、その根の部分は変わっていない。ストックが責めた通り、ロッシュ隊の壊滅は、ラウルの力不足が招いたと言って良いことである。だがロッシュはそれを責めない、いやむしろ、そんなことは考えすらしていないのかもしれない。彼が責めるのは己だけだ、本当に変わらず真っ直ぐな態度で、ラウルに向かい合ってくれている。
「そんなことは構わないよ。君も色々大変なのは分かっていたしね。生きていてくれただけでも十分だ」
「いえ、でも、俺は……」
「おっと、悪いけどそれに関しての議論は後回しにしよう。僕と旧交を暖めるために出てきてくれたってわけでもないだろう」
「……はい」
ロッシュが頷き、表情を引き締めた。やはり、彼の側でもラウルに話すべきことがあり、態々待ち伏せてまで会いにきてくれたようだ。高い位置から下ろされる視線の厳しさに、ラウルはすっと目を細め、ロッシュを見返す。
「よし。ロッシュ、現在の状況は、どこまで把握できている?」
「多分ほとんど何も、ですね。今日も、アリステルから人が来るってことくらいしか、話は回っていません」
「そうか……交渉の内容に関しては?」
「何も聞かされてないんです、俺だけじゃなくて、里の皆がですけど。ここじゃあ、外の情報を得るのは、難しいんですよ」
外界からの進入を防ぐ結界は、同時に住人が外界に向ける意識を遮断するためにも働いてしまう。長く里を閉ざし、物や情報の出入りをバノッサのような部隊のみに頼っている現状では、正しい知識が広まらないのは当然のことだ。だがロッシュに限っては、その例外となれる筈なのだが。
「ストックからは? 彼も外に出ている、彼から何かを聞いては居ないのかい」
彼が外に出て情報を集めているのに、ロッシュがそれを伝えられていないとは思えない。ラウルとしては極自然に思われる問いに、ロッシュは少しだけ表情をゆがませ、言いづらげに唇をふるわせた。
「――いえ、何も。あいつは、何も言いませんよ」
その様子に異常を察して、ラウルは眉を顰める。彼らは親友同士だ、そしてその肩書き以上に深い絆を持つことは、ラウルもよく知っていた。だが今のロッシュの口調は、同じ志を持つ友に対するものではない。
「それじゃあ、簡単にで悪いけど説明しておくよ。僕達は今日、セレスティアと同盟を結び、戦力を出してもらうためにここに来た」
だがそのことには触れず、ラウルはまず、核心の話へと切り込んでみせた。彼には悪いがあまり長居はできない、危険のある場所ではないが、これから先やるべきことが多くある。雑談で潰す時間は、持ち合わせていないのだ。
ロッシュがそれを察したかどうかは分からないが、とにかく彼も真剣な表情で、ラウルの説明に耳を傾けている。
「戦局は今、膠着状態にある。小競り合いは続いているが、どちらも決め手を欠いて攻めあぐねている状態だ」
「成る程……セレスティアの戦力を加えることで、それを破ろうってんですか」
短い説明からも正確に状況を読みとってくれる、戦場から長く離れているはずだが、彼の勘は衰えていないようだった。頷くラウルだが、ロッシュの顔には、納得と同時に疑問の色が浮かんでいる。
「ですが、セレスティアは閉ざされた国です。国交も無い状態から戦争に参加しろっていっても、難しいんじゃないですか?」
「鋭いね、その通りだ。……だから、王女に共に来てもらったんだよ」
ラウルの言葉に誘われ、ロッシュがエルーカを見た。エルーカは彼らの会話には嘴を挟まずにいたが、送られた視線を受け流すことはせず、ついと優雅な礼をしてみせる。
「……グランオルグとセレスティアは、何か関係が?」
「セレスティアと、というよりこの世界と、だね。うん……長々と話しても分かってもらえないだろうから、端的に言おう。ロッシュ、この大陸は滅びかけている」
ロッシュにとってその内容は、あまりにも予想外すぎたのだろう。一瞬の完全な無表情の後、はあ、と間抜けな声が口から零れる。しかしラウルも、その反応は予想済みだ。いくらロッシュの視点が普通の兵士より高いとはいえ、それはあくまで戦争や国家というレベルのものであり、世界全体の命運など考えているわけはない。
「ラウル中将、わたくしが説明致しましょうか」
「いえ、大丈夫です、僕から話した方が良い。ロッシュ、この大陸が徐々に砂漠化しているのは、君も知っているね」
話が己の領分に入ったのを察してか、一歩を踏み出したエルーカの提案を、ラウルは丁重に辞した。ロッシュにとって彼女は、ほんの少し前まで敵として認識していた相手だ。それよりは、多少の信頼を抱かれている自分が説明した方が話が通りやすい、そう判断したのである。
「え、ええまあ……それが何か」
「グランオルグには砂漠化を止める手段がある。それを行うためには、グランオルグ王家に連なる者が、王位に就いている必要があるんだ」
はっきりと語ったそれを聞き、ロッシュはしばし険しい顔で考え込む。無言の内で与えられた情報を整理している姿を、ラウルは敢えて何も言わずに見守った。エルーカも、この場に関してはラウルに任せることを決めてくれたようで、口は出さずにラウルの背後で佇んでいる。
「……今のグランオルグのトップは、王家の人間じゃない。だからその手段ってのが取れない、それで砂漠化を止めるためにグランオルグの現政権を潰して、そこの王女様を王位に就けなきゃいけない――こういうことですか」
そして、しばしの沈黙の後に発せられた言葉に、ラウルは大きく頷いた。
「その通りだ、もはやこの戦争はアリステルだけの問題じゃない。いや人間だけの話ですらない、この大陸に住む生き物全てに関わることとなってしまったんだ」
伝えたい情報を全て汲み取ってくれたロッシュだが、それでもその顔から疑念は消えていない。訝しげに眉を顰めるロッシュの目を、ラウルはじっと見詰める。
「信じられないのは分かる、突然、話の規模が大きくなってしまったからね。それに――エルーカ王女、彼女が虚言でアリステルを動かしているんじゃないかと、そう疑っているんだろう」
ぴしりと言い放たれ、ロッシュが僅かに眉を持ち上げた。目の前の当人を気にしてか、実際に何かを言うことはし無いが、恐らく大きく外れては居ない筈だ。背後でエルーカの気配が動く、だが身体は静止したまま、口を開く様子は無い。気丈な少女だ、それともこういった反応を、彼女もまた常に予想しているのだろうか。
「僕も、盲目的に彼女のことを信じているわけじゃない。ある程度の裏は取ってあるし、何より今回の会見で分かったんだけど、サテュロスの民は、砂漠化を止める手段――儀式についてを知っていた」
「……口から出任せじゃあ、無いってことですか」
「そういうことだ、少なくとも僕はそう判断した。今はそれを信じてくれ、としか言えない」
ラウルがそう断言すると、ロッシュは未だ信じきれぬ様子ながら、それでもはっきりと頷いてくれた。
「分かりました、中将がおっしゃるんでしたら。それに、今はそんなことをどうこう言っている段階じゃないんでしょう」
「……その通りだ」
やはり彼は鋭い、外界の状態が殆ど分からないセレスティアにおいても、逼迫した現状を正しく認識している。あるいは、与えられる情報が少ないからこそ、危険に対する嗅覚が鋭敏になっているのか。
「ともかくそんな理由で、僕達はセレスティアに来た。サテュロス族の力を借りて、この戦争を早期に終わらせるために、だが」
ラウルの声が途切れ、視線が伏せられる、その動きでロッシュも経過を察したようだった。
「交渉は決裂した、ってことですか」
「ああ、ベロニカ殿は、この戦いに関わらないことを決められた」
「……申し訳在りません、わたくしのせいで」
「いえ、王女のせいではありません。説得し切れなかったのは、僕の力が足りなかったからですよ」
苦しげに頭を下げるエルーカを、ラウルが手で制する。彼女の気持ちはよく分かるが、終わってしまった今それを言っても、仕方がないことだった。
「ともかく、現状はそんなところだ。僕達は戦争の早期終結を目指している、そしてそのためセレスティアにやってきたが、彼らの力を借りることは敵わなかった――」
「……成る程。よく、分かりました」
真剣に頷き、思考を巡らせているロッシュを、ラウルはじっと見詰める。以前受けた報告によれば、敗戦の傷によって戦う気力を無くしてしまっているとのことだったが、今の彼を見るととてもそうは感じられない。その瞳には、軍に居た時と同様の覇気が宿っているように見える。
「ロッシュ、君は」
彼はまた、戦えるのだろうか。若獅子と呼ばれ、多くの部下に慕われて戦果を挙げ続けたロッシュが戻ってきてくれれば、それはアリステルにとって大きな力となる。例え左腕が動かずとも、その人望と指揮能力は、非常に強力な武器だ。戦い続ける戦女神と並んで、ノアを失った人々の希望となってくれるだろう。
「君は――どうする」
曖昧な問いかけに、ロッシュの視線が揺れた。彼の力は大きい、しかしそれを求める権利が、今の自分にあるのかどうか。ラウルはどうしても信じきれずにいた。
「ヒューゴは死んだ、そして彼の陰謀も完全に暴かれた。君を敵と思っている者はもう誰も居ない、だから君が望めば、アリステルに戻ることは可能だ」
ロッシュはきっと今も、ラウルのことを上官として認識してくれているのだろう。彼が頼めばその手を取る可能性は高い、だからこそ、躊躇いがあった。部下達への責を全て背負い込んだ彼を、その自責に付け込んで戦いに引き出すことが、許されるのかどうか。傷は治っている筈だ、左腕も後陣に居れば大きな問題にはならない、だから残る問題はロッシュ自身の気持ち次第なのだが。
迷いながら紡いだ言葉の、その躊躇をロッシュも感じ取ったのか、困った顔で視線を俯かせた。
「俺は」
「勿論、戦いを強制することはしない――できない。君の左腕を二度まで奪った僕だ、さらにもう一度命を賭けてくれだなんて、言える筈がない」
「ああ。……ガントレットのこと、ご存知だったんですか」
ロッシュが頷き、無意識なのかどうか、右手で左腕に触れる。ラウルはそれを直視することが出来ない、微かに視線を揺らしながら、誤魔化すように剣の柄を握った。
「レイニー君とマルコ君から、報告を聞いていたからね。まあ……その時より、随分元気になっているみたいだけど」
「ええ、怪我はもうすっかり治りましたから。ただ、これが、動かないだけで」
会話の合間に生じ始めた沈黙が苦しく、ラウルはゆっくりと息を吸い込む。ロッシュは何を思っているのだろう、責める言葉を吐こうとはしないが、そこには本当に何の恨みも存在しないのか。
彼のを性格を知っていて尚、底に横たわる憎悪を警戒してしまうのは、それだけラウルに悔悟の念があるからだろう。自らの力が足りないが故に、陰謀を防ぐことが出来ず、多くの若者を死地へ赴かせてしまった。ストックが動いてくれなければ、ロッシュもまたその中の一人として名を連ねていたことになる、それを悔いているのは誰よりラウル自身だ。それが鏡のように反射されて、ロッシュの態度に、有りもしない棘を感じさせていた。
「ですが」
だがそれは、やはりラウルの錯覚に過ぎない。ロッシュの目に宿る光は、ただ真っ直ぐに、前を向いて輝いている。。
「例えこのまま、これが動かなくても……俺は、戦わないといけないんです」
見詰めているのはラウルか、それとももっと別の何かか。戦場に立っていた頃と変わらぬ強さをその光に感じて、ラウルは目を瞬かせた。
「ロッシュ、それじゃあ」
「……いえ、すいません。今直ぐにご一緒するのは……」
手を差し伸べかけたラウルに、ロッシュはすまなさそうに眉を顰め、頭を下げる。やはり未だ戦いへの恐怖感があるのかと、ラウルの頭を過ったその考えを読み取ったわけではないだろうが、ロッシュがそっと弁明を付け加えた。
「何ていうか、事情が、あるんです」
「事情? それは、セレスティアに関することかい?」
「いえ、そうじゃなくて、その……中将、ストックにはお会いしましたか」
「ストックかい? ああ、会ったというか、会談の時に居たから――」
そこで唐突に出てきた名に、ラウルは首を傾げたが、次の瞬間声を途切れさせる。脳裏に閃いた可能性に、口元に手を当て、息を飲み込んだ。
先程行われたベロニカ達との話し合いの場で、列席していたストックが、どんな態度を取っていたか。そしてこの場に到るまで、彼が果たしてきた役割は。
「――彼はセレスティアの参戦に、強硬な反対を示していた」
アリステルからの密偵を悉く足止めし、時には命を奪い、里においては発言力を増して人々の意見を動かし。それらの行動はただ一つ、セレスティアの開放を防ぐことだけを目指しているように見える。
「やっぱりですか」
「ああ、ロッシュ、君が戦えないというのもそれが原因なのか?」
ストックが、目的のためなら命を奪うことも厭わないというのは、これまでの事実が示していた。だがほかの相手と違い、ロッシュはストックの親友だ。生半かなことで刃を向ける相手とは考えられないのだが。
ラウルの疑問混じりの推測に、ロッシュは応とも否とも取れる、曖昧な角度で首を振った。そして少しだけ考え込む様子を見せた後、ゆっくりと口を開く。
「ええ。ただ、多分、中将が考えていらっしゃるのとは少し理由が違うと思います」
どう説明して良いか考えているのだろう、一つひとつ選びながら述べられる言葉に、ラウルは焦ることなく耳を傾けた。
「あいつは、ストックは、俺が戦うのを望んでない。そもそも、セレスティアを戦争に巻き込ませないのも、俺を戦場に出さないためなんです」
「……どういうことですか?」
背後からエルーカ王女が声を上げる、そういえば彼女は、随分とストックのことを気にしている様子だった。意識の外からかけられた声に、ロッシュは驚いた様子を見せたが、直ぐに真顔に戻って王女に視線を向けた。
「王女はご存知ないと思いますが、俺とストックは一度戦いに負けて、セレスティアに逃げ込んできたんですよ。その時俺は死にかけていて……ストックは、それがもう一度起こらないようにしたいんです」
それは、実際の過去に対して、随相当に省略された説明だった。ロッシュ隊を襲った陰謀、それによってストックの中に生じた国や軍に対する不信、そして恐らくは彼らしか知らない出来事や心の動き――ストックの態度は、それらが綯い交ぜになって形作られている筈である。あまりにも複雑なそれは、言葉を苦手とするロッシュが、簡潔に語れるものではない。
ぎこちない説明は、殆ど事情を知らないエルーカにとって、些か不親切なものだったかもしれない。だが残念ながら、それに対して詳しい解説を入れている時間は、今の彼らには無かった。自分が理解を得たことだけで良しとし、ラウルは話を先に進めるべく口を開く。
「成る程ね……それなら、納得も出来る。いくら恩があるとはいえ、セレスティアに対する彼の献身は、異常だと思っていたんだ」
何しろ、この里を閉ざし続けるために、諜報員や要人を何人も暗殺しているのだ。単なる恩義で為すには、あまりにも行為が重すぎる。
「君やソニア君を守るためだとしたら、少しは納得がいく。それにしても、やり方が随分と乱暴ではあるけど」
「……ええ。あいつは今、まともじゃない」
苦しげにロッシュが呟いた、ストックがその手を血で染めていることを、彼もまた知っているのだろうか。ストック自身が語ることだとは思えないが、明確に示されずとも長く傍らに居れば、気配を察してしまうものかもしれない。
「ストックは俺達を護ろうとして、その為に手段を選ばなくなっちまってます。……今、俺が軍に戻るなんて言い出したら、何をしでかすか」
「彼は今既に、相当な無茶を重ねているけどね。それ以上に強引な手を使ってくるとでも?」
「分かりません……けど、諦めて見送ってくれるってことは有り得ないと思います」
護るべき相手までを危害の対象にするとは考えづらいが、それも真っ当な思考が残っていての話だ。暗殺を繰り返し、親友にまともではないとまで言わせる精神状態の彼が、ロッシュの造反によって均衡を崩してしまうというのは十分に有りうる。
想像したくもない可能性を思い浮かべてしまい、ラウルは眉根を寄せ、腕を組んだ。
「分かった。確かに、君が今セレスティアを出るには、危険なようだ」
「……すいません」
「謝らないでくれ、ロッシュ、君のせいじゃない」
むしろ、今の状況で苦しんでいるのは、誰よりロッシュ自身だろう。彼は戦うべきだと語った、自らの為すべきことが、彼には分かっているのだ。だがストックの危険性を考えると、望むまま戦いに身を投げ出すこともできない。壊れかける世界を知りつつ、ただ黙って戦争の帰趨を見守るしか無い現状は、彼にとって非常に辛いはずである。
表情を沈ませるロッシュに、ラウルは思考を巡らせた。彼の力は確かに有用だ、だが必須というわけではない。セレスティアの加勢と同じように代替手段は存在する、だからまず優先すべきはロッシュ自身の安全だ。そうすべき義務がラウルには有る、二度傷を与えた相手を、三度まで犠牲にすることは許されない。
「そういうことなら、君が戦う必要は無い。ストックの言うことにも一理はあるしね……ガントレットを無くした君を連れだして、再び命の危険に晒すわけにはいかない」
宥めるようにラウルが言っても、ロッシュはけして笑顔を見せることはなかった。むしろ厳しさを増した表情で、唇を引き結び、静かな視線をラウルに向けている。
「有り難うございます。ですが……このままで居るわけにもいきません」
すっと、ロッシュが左腕を持ち上げた。勿論ガントレットが動いたわけではない、残された二の腕と肩の筋肉を使い、荷物を扱うようにしてガントレットを持ち上げたのだ。重力に従い力無く形を変えたそれが、鈍い金属音を奏でて、ラウルは微かに身を震わせる。
「これが動いてから戦い始めるんじゃ、遅いんです。そうなんでしょう」
余裕など完全に失われた状況で、世界を護るためには、余分に使える時間など、一刻たりとて存在しない。今知ったばかりの事実を、彼は正確に理解し、ラウルの前に突き付けてきている。
強いな、とラウルは思った。以前と同じく、いやむしろ前より遙かに、彼の心は強くなっている。軍に居たときには、強さの奥にも致命的な柔らかさが感じられたものだが、今はそれすら無い。ただひたすら、鎧のようにい強固な意志で、己を覆っているように思われる。
「ストックに、これ以上罪を重ねさせるわけにはいきません。あいつがああなったのは、俺のせいなんです」
その強さはきっと、いや間違いなく、親友のためのものなのだ。セレスティアで彼らに何があったのかは知らない、だがストックもロッシュも、変わるに十分な何かが起こっていたのだろう。底光りする青い目を、ラウルは半ば呆然として見上げた。
「今直ぐってわけにはいきません、ですがなるべく早く、セレスティアを出られるようにします」
「……ああ」
「俺なんかが居たところで、何が変わるってわけじゃあ無いかもしれませんが……」
ふっと、ロッシュの目元が緩み、困ったような形に変わった。自己卑下に近い、自分の力を信じきれぬそれはラウルがよく知る彼のもので、やはり彼の根は変わっていないのだと安堵を呼び起こしてくれる。ラウルは穏やかに笑い、自分より遙かに高い位置にある肩を、軽く叩いた。
「何を言ってるんだい。君が来てくれれば、僕は随分楽ができるようになる」
「そうですかね?」
「ああ、今はとにかく人が足りないんだからね、部隊の指揮から雑用まで仕事が山になってるんだよ。早く手伝って貰わないと、たまったものじゃない」
敢えて軽口を叩いてやると、ロッシュもその顔に、苦笑に近い笑みを浮かべてくれた。彼のそれも意識してのものかもしれないが、それでも笑いは笑いだ、その形を作るだけでも少しは心を軽くする効果はある。
「……とにかく、待っているよ。僕だけじゃない、レイニー君とマルコ君も、君が来てくれたら喜ぶ」
部下だった者達の名に、ロッシュは目を瞬かせると、大きく頷いた。ラウルはそれをじっと見詰める、待っているというのは適当な発言ではない、彼の帰還はアリステルにとって大きな助力になる。
「セレスティア近辺の部隊には話を回しておく。身一つでも、来てくれれば問題なく入国できるように手配するよ」
「はい。……有り難うございます」
「ラウル殿に連絡を取られる時は、私にお伝えください。仲介させて頂きます」
それまで黙って話を聞いていたバノッサが、ふいに声を上げた。突然の発言に対して、集まった視線に向けて、柔らかな礼をしてみせる。
「勿論私でなくとも、隊の者であれば、誰でも構いません。何も準備が無く飛び出すよりは、多少は話を繋げておいた方が安全ですし、事も早く運べるでしょう」
彼もまた、セレスティアが立たなかったことで、罪悪感を感じているのだろうか。一族の罪滅ぼしをするために協力を申し出たのかと、少しの間ラウルはそう考えたが、バノッサの目を見て直ぐにその考えは改まった。そこにあるのは過去ではなく未来だ、彼はただひたすらに、世界の先を憂いているように思える。サテュロス族としての参戦が成されなかった分、己に出来る働きで、力になろうとしてくれているのだろう。
「……有り難うございます、バノッサ殿」
多くの者が、世界のために動こうとしている。それは感動的にも思えるかもしれないが、それだけ危険な状況であると、そう言うこともできた。知ってはいたつもりだが、改めて突きつけられた絶望的な未来に、ラウルの背に冷たい汗が伝う。
「いざという時には、よろしくお願いいたします」
だがそれはそれとして、彼の申し出が有り難いことには、何の変わりも無い。ラウルは丁寧に頭を下げ、バノッサへの感謝を示してみせた。横ではロッシュもまた、バノッサへ頭を下げている。そんな彼らを見回し、バノッサは常と変わらぬ、柔らかな笑みを浮かべてみせた。
「ええ、お任せください。……さて、話すべき事は多いですが、そろそろ戻った方が良いでしょう」
話の区切りを示すかのように、軽く手を広げたバノッサが、ちらりとロッシュを見た。
「これ以上遅れると出立が夜になってしまいます、それに――里の話し合いも、終わる頃です」
言わんとするところを理解したのか、ロッシュも表情を引き締めて頷きを返す。
「そうですね、俺もそろそろ行かないと。中将達と話しているところをストックに見られたら、厄介なことになっちまいます」
監視でもされているかのような物言いに、ラウルは苦笑を浮かべようとしたが、それは恐らくぎこちないものだっただろう。どうにも冗談には見えないロッシュの態度に、改めてストックの異常を感じて、心臓が冷たくなる。
「では、すいませんが俺はこれで……何かあったら、バノッサさんに伝えて貰いますんで」
「ああ。連絡を待っているよ」
ラウルのその言葉に、ロッシュの目がふと和らぎ、口元に笑みが浮かんだ。
「――はい。有り難うございます」
そう言って下げられた頭の意味は、ラウルには分からない。ただ、去っていく彼の背に浮かぶ決意は、奇妙に重いものに感じられた。
彼はアリステルに、戦場に戻ってくるだろうか。今この時に戦う意志があっても、日常に戻ればそれは消え、安寧の中での生活を選ぶ可能性はある。戦いへの恐怖を消すことは難しい、あれほど過酷な敗戦を経験してしまえば、特に。
だがラウルの本能は、彼の心に戦う力が戻っていることを感じ取っていた。根拠などは無い、だが今のロッシュは、軍人だった頃とよく似た気配を纏っている。理性的な意見はともかく、感情と直感において、彼が戦場から逃げるとは思っていなかった。彼が現れないとしたら――外的な要因によって、なのだろう。
「では、お二人とも、参りましょうか」
虚ろな物思いはバノッサの言葉によって破られ、ラウルは意識を現実に戻すと、慌てて肯定の意を示した。
「ええ、お待たせして申し訳ありません。エルーカ王女も、失礼致しました」
「いえ、お気になさらないでください」
エルーカも優雅に一礼し、バノッサに付いて歩き始める。その美しい顔に憂いの色が浮かんでいることに、ラウルはふと気付いた。
「王女、どうかなさいましたか?」
「……いえ」
声をかけられ、エルーカは一瞬驚いた様子だったが、直ぐに真面目な顔になってラウルを見返す。少しの間、彼女はラウルを見詰めていたが、やがて閉じられていた唇をそっと開いた。
「今の方は、――ストックと、親しくていらっしゃるのでしょうか」
躊躇いがちな問いに、ラウルは僅かに返事が遅れる。彼女は会談の時から、随分ストックのことを気にかけているようだ。
「ええ。彼はストックの親友です」
迷った結果の無難な回答に、王女もまた捗々しい反応を見せるでもなく、曖昧な相槌だけが返ってくる。一介の軍人であるストックを気にするどんな理由が、彼女にあるものか。関わりなど無いように思える、しかし考えてみれば、ストックの出自も過去もラウルは知らない。
お兄様、と。
あの部屋を出る前に聞こえた呼びかけが、その答えに繋がっているのだろうか。脈絡のない内容を、聞き間違いかと流していたが、そこに幾ばくかの真実は存在するのか。
「ラウル中将」
視界の端で見詰めていたエルーカが、すっとその顔を上げた。呼びかけられて視線を向けると、何かを湛えた美しい水色が、真っ直ぐラウルへと注がれる。
「……セレスティアとの同盟は、難しくなってしまいましたね」
「ええ。残念ですが仕方がありません、長い間閉ざされていた国です、開くのに容易な力では足りなかったということでしょう」
王女の秘密には触れようとしない気遣いに、エルーカは小さく、その頭を下げた。ラウルも、余計なことは言わず、ただ静かな笑みを浮かべる。
「次の手を打たないといけませんね。最も可能性が高いのは、シグナスと同盟を組むことでしょうが」
「中将」
考えつつ話すラウルを、エルーカの言葉が遮った。
「時間が、ありません」
静かにそう言われて、ラウルは目を瞬かせる。それは分かりきったことだ、だがエルーカの酷く真剣な眼差しが、言わずもがなの指摘を躊躇わせた。
「これからシグナスに向かい、ガーランド王を説得し、二つの軍を連携させ――これでは、時間が経ちすぎてしまいます」
エルーカが言わんとすることを、ラウルの思考が探る。勿論王女の言い分は間違っていない、だがセレスティアとの同盟が成らなかった今となっては、シグナスこそが最も強い糸だ。エルーカもそれは分かっている筈で、だからこれは単なる否定ではなく、何らかの道を目指しての発言なのだろう。
ラウルの思考を受け止めるように、エルーカはじっと瞳を開いていた。そして、彼が言葉を遮らないのを確認し、再び口を開く。
「急がなくてはなりません。……ですから、わたくしにひとつ、提案があります」
前を歩くバノッサも、彼女の言葉に意識を向けているようだった。世界の命運を握る少女、儀式を行える唯一の人間の言葉が、静かに響く。
「提案、ですか」
それが何か、ラウルには分かっている気がした。彼女は大陸を救おうとしている、恐らくはたった一人で。
「はい。可能な限り早く、儀式を行うために」
ベロニカの言葉が、脳裏に思い出された。エルーカの提案、それに乗るのは、相当な危険を伴うのだろう。だが他に道はあるのか、失われた欠片を取り戻す間に、大陸は砂になっていく。急がなくてはならない、それは間違いない、そして変えられない事実だ。
迷いはあった、だが選べる道が限られている以上、それは単なる時間の浪費に過ぎない。バノッサが気遣わしげな視線で見ている、それを頬で感じつつ、ラウルはひとつ頷いて。
「――お聞きしましょう」
危険と知りつつ、提示された道を、その手で選び取った。
この大陸を、護るために。




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セキゲツ作
2012.05.13 初出

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