その地に入り込んだ瞬間、あまりにも豊かな緑に息が詰まった。
エルーカが住んでいたグランオルグは、砂漠化している地域にほど近い。まだグランオルグ自体は砂に呑まれていないが、それでも大地と空の中には、何処か不自然な乾きが感じられていた。
それが、セレスティアには全く無い。深い森が放つ生命の気配が満ち、呼吸を通して指先まで充満してゆく気がする。丘から細く伸びた道、両脇が断崖のそれから先に現れた顕著な変化に、エルーカはしばし言葉を発することが出来なかった。
「セレスティアは、初めてですか?」
先導するバノッサの言葉に我を取り戻し、慌てて歩みを再開する。様子を窺うラウルに、大丈夫だと笑みを向けて見せ、身体を正面に戻した。
「はい。本当に、見事な緑が残っているものですね」
「そうですね、砂漠化の中心からは遠い土地ですから」
バノッサは微笑して、周囲をぐるりと見渡した。
「我らサテュロス族は、大地と共に生きる種族です。マナが失われた土地で生きることは出来ません」
「……そう、ですね」
バノッサの言葉に、エルーカは一時の感動から引き戻され、胸を突かれて言葉を詰まらせる。
「申し訳ありません……私の力が及ばぬばかりに」
グランオルグ王家の責務、世界のマナを安定させるための儀式は、エルーカの代になってから全く行えていない。ニエの協力が必要なものは勿論だが、エルーカ一人で行える小規模な儀式ですら、義母プロテアの妨害により行うことが出来なくなっていた。世界が砂と化している原因、それは自分の非力にあるのだと、幾度と無く感じていた事実を新たに実感する。
無力を噛み締め肩を落とす、エルーカの気配に気付いたのか、ラウルがそっと前に出てエルーカを庇う姿勢を見せた。
「謝罪よりも、今は行動でしょう。王女に王位を取り戻し、儀式を行って頂けば、現在の砂漠化は止めることが出来るわけですから」
ラウルの言葉に、バノッサも大きく頷く。彼も別段、エルーカを責める気は無かったのだろう、彼女に向ける目は優しいものだ。
「その通りです、過去を悔やむのは止しましょう。この大陸には、まだ未来があります」
「ラウル中将、バノッサ様」
「それに、砂漠化はエルーカ王女だけの責任ではありません。我々サテュロス族が、危機が迫ろうとも何の動きも取らずに、ただ己の身を守り続けていた結果でもあるのです」
バノッサの言葉に救われた心地になるが、しかし彼のような思想の持ち主は、サテュロス族の中では少数派なのだろう。セレスティアに住む多くの者達が、砂漠化を防ぐのはただ人のみの責務と考え、それを果たせずにいることに悪感情を持っているはずだ。そんな中に飛び込み、そして戦争への参加を承諾させることなど、出来るのだろうか。
「ほかの方も、バノッサ殿のように考えてくださると良いのですが」
「確かに、サテュロス族は人間に対して、あまり良い印象を持っていません。ですがそれ以上に、この大陸への愛情も強いのです」
バノッサが頷き、頭上に覆い被さる梢を見上げる。マナの溢れる森、かつてはグランオルグの周辺も、ここと同じように豊かな土地だったのだろうか。そしてそれは取り戻せるのだろうか、かつて兄が目指した理想の通りに。
「この大陸を滅びさせないためにも、きっと立ち上がってくれる筈です。私は、そう信じますよ」
「そうですね。そして、それを分かって貰うために、僕がここに居るんですから」
そう言ってラウルが笑う、アリステルからの強行軍に随分疲れている様子の彼だが、それを表に出さぬだけの強さはあるようだった。エルーカが様子を窺うと、安心させるように、力強い笑みで頷いてみせる。彼とは国を追われた者同士、共闘を目指して連絡を取っていたが、実際に行動に共にするのはこれが初めてだ。不思議な男だとエルーカは思う、一国を統べる立場にあるのに、父や義母の側近達にあった強烈な権力欲が感じられない。アリステルの利益だけを考えれば、ヒューゴが死んだ時点でエルーカを切り捨てても構わないのに、それをせず今も彼女のために便宜を図ってくれている。それだけではない、彼女の言葉を信じて危険な橋を渡り、戦争の早期決着を目指してくれさえいた。
「王女も、あまり気負わずにいらっしゃってください。交渉は僕の領分です、任せて頂いて結構ですよ」
あるいは戦後を考え、時期女王へ恩義を着せておこうという腹なのかもしれないが、それでも有り難いことに違いは無い。味方の少ないエルーカにとって、彼の助けは相当に大きな力た。彼と彼の部下が動いてくれたおかげで、セレスティアへの訪問も叶った。サテュロス族の力を借り、グランオルグを打ち倒すことが出来れば、今度こそ儀式を行えるようになるのだ。
例え、それが不完全なものであろうとも。使えるのがエルーカ一人の力のみでも、何ひとつ対策を取らずに居るよりは、砂漠化の速度は抑えられるはずだ。そうして時間を稼げば、儀式に依らず世界を救う手立ても、見付けられるかもしれない。
「有り難うございます、ラウル中将」
エルーカの心からの礼に、ラウルはへらりと笑って、軽く手を振ってみせた。
「何、僕に出来るのは口仕事だけですからね。せめてそれくらいはやらないと、頑張ってくれた部下に顔向けできませんよ」
ねえ、と振り向いた先に居るのは、彼の部下だという男女二人組だ。この会談を設けるにあたっての最大の功労者達は、だが何故か浮かぬ表情で、互いに顔を見合わせている。
「僕たちは、何もしていませんよ。これからが、本番じゃないですか」
「……まあ、ね。正念場、ってところかな」
小柄な、確かマルコという名の青年の言葉に、ラウルは表情を引き締めて頷いた。これから彼らは結界の内に入り、ベロニカ族長を始めとしたセレスティアの中心人物達と会合を行う。そこでこちらの要求を通し、それで初めて、目的が成ったと言えるのだ。今この時、勝負はまだ、始まってすら居ない。
「皆さん、よろしいでしょうか」
緊張の走った一行に向け、バノッサが声をかける。立ち止まった彼の前、道は真っ直ぐに続いているが、よく目を凝らせば微かに光景が歪んで見えていた。セレスティアを覆う結界、その境界に辿り着いたのだ。
「この先には、エルーカ王女とラウル中将、お二人のみが入って頂きます」
その宣言に、周囲を囲む護衛の兵から、ざわりと声が上がる。
「バノッサさん、それはちょっと」
「いや、大丈夫だ」
抗議の声を上げたマルコを、ラウルが制する。投げられた問いかけの視線に、エルーカも頷き、同意を示した。
「私達は戦争への荷担を促しに来ているのです、警戒されて当然でしょう」
「その不信を解くために、こうして王女自ら足を運んで頂いているのだからね。信を得たければ、まずはこちらが相手を信じないと」
「ふむ、さすがですね。並々ならぬ覚悟がお有りのようだ」
きっぱりと言い切った二人に、バノッサが感嘆の声を上げる。
「勿論我々とて、あなた方に手を出すことの危険性は分かっております。身の安全は保証しますよ」
案内人の言葉のみで兵士達が納得したとは思えないが、さりとてそれに逆らい、強引に付いていく手段があるわけでもない。セレスティアの外周は結界で囲まれ、目の前のそれを越えるためには、バノッサのようなサテュロス族の協力が必要なのだ。マルコもレイニーもそれが分かっているのだろう、不承不承といった顔をしながら、それでも大人しく同意を示している。
「……分かりました。僕達はここで待機させてもらいます」
「申し訳在りません、里の住人の中には、未だ人間に対して敵意を抱いているものも多いのです。武装した人間が踏み込めば、交渉自体が拒否される可能性もあります」
「いえ、分かってます。こっちがお願いする立場なんですから、我が儘言えないですよね――バノッサさん」
マルコの隣に立つレイニーは真剣な顔でバノッサを見詰めて、そして深く頭を下げた。
「中将さんと王女様のこと、よろしくお願いします。アリステルの、ううん、世界の未来のために、必要な人達なんです」
その、必死とすら形容できる声音に、エルーカの心臓が強く締め付けられた。バノッサも、穏やかな顔立ちを堅く引き締め、真っ直ぐ彼女に向かい合う。
「勿論。よく、承知しております」
そして、彼女を安心させるように大きく、頷いてみせた。レイニーがそれに応えると、改めて一行へと向き直り、片腕で行く先を示してみせる。
「では、準備が出来ましたらお知らせください。――セレスティアに、ご案内します」
ここは入り口だ、セレスティアへの、そして戦場への。武力に依らぬ戦いが、この先には待っている。エルーカは大きく呼吸をし、そしてラウルを見た。彼の顔も緊張に強張っている、だがエルーカの視線に気付くと、にこやかな笑みを浮かべてくれる。
「大丈夫ですよ、エルーカ王女。僕に任せて、大きく構えていてください」
感じる重圧は同じだろうに、彼はそれをエルーカに負わせようとしない。あくまで、表に立つのは己だと主張し、少女に掛かる負担を可能な限り減らそうと尽力してくれている。
「……はい。よろしく、お願いいたします」
その優しさに、そして強さに、エルーカもまた応えなければならない。胸に刻まれた己の使命と役割に潰されぬよう、己が身に力を込める。
そして、ラウルと共に、エルーカは一歩を踏み出した。
――――――
用意された部屋へと足を踏み入れた瞬間、視線が突き刺さるのを感じる。会談の相手、里を動かす者達が、一斉に彼らを見ていた。エルーカも相手を見返し部屋の様子を探る、入って正面に居る年経た翁、恐らく彼が族長のベロニカだ。その周囲には数人のサテュロス族、そして驚いたことに、人間が一人。
「……――!」
その姿を認めた途端、稲妻のような衝撃がエルーカを撃った。何故人間がここに居るのか、そんな当たり前の疑問を抱く余地すらない。記憶に残る面影によく似た顔立ち、そして何より懐かしいその気配が、彼女の心臓を強く揺さぶる。同じ血を持ち、そして同じ魂を分けた、世界でたった一人の人物がそこには居た。
「初めまして、サテュロス族の皆様」
エルーカの動揺に気付いているのかどうか、ラウルが口火を切り、正式な作法で一礼した。反射的にエルーカも動作を合わせるが、心は半ば以上までその男へと移ってしまっている。彼は確かに兄だ、エルーカには分かる、自ら魂を分け与えた存在を見間違う筈は無い。しかしエルーカを見ても、兄は何ひとつ反応を示さず、里の一員として腰を下ろしている。彼女が妹だと気付いていないのか、それとも何か考えがあっての行動なのか。
「――では、お二人とも、こちらへ」
控えていた若いサテュロス族の声に、エルーカははっと意識を戻した。兄がどんな事情でここに居るのかは分からない、だが今はとにかく、交渉に集中すべきだ。顔が酷く強張っているのを自覚しながら、出来る限り自然に見えるようにと、示された椅子に腰掛ける。
「お会いできて光栄です、ベロニカ様。今回は無理を聞いて頂き、感謝の限りです」
「ふむ。バノッサの頼みでなければ、アリステルの人間をこの地に入れるなど、里の民が許さなかったじゃろうがな」
「……我が国がセレスティアに対して働いた暴挙については、本当に、お詫びのしようもありません。サテュロスの民が我々を排斥しようとなさっても、仕方がないことだと思っております」
かつてアリステルを牛耳っていたヒューゴが、戦備拡張のためにセレスティアに攻め込んだというのは、情報として聞かされていた。それはラウルが国を動かし始める前のことだが、指揮した者が居なくなったからといって蹂躙された恨みを消せる程、人の心は単純なものではない。
「まあ、今はそれに関しての席では無いからの。まずは、我々の未来についてを話し合わねばならん、過去のことはそれが片付いた後じゃ」
だがベロニカも、それを云々するために集まったわけではないことを、きちんと理解しているようだった。それ以上を言及することはせず話を前に進めようとする、その鷹揚な態度に、ラウルはまた頭を下げた。
「ご配慮頂き、有り難うございます。……では、まずご挨拶からさせてください。私はアリステルのラウル、中将として軍を動かす立場にあります」
そう言ってラウルは、何故かちらりと、エルンストの方に視線を遣った。卓の最も端に座る彼は、それに対して特に反応を返すことはなく、ただ無感動に発言者を眺めている。
「――そして彼女は、グランオルグ王国のエルーカ王女。ご存知とは思いますが……現時点で、この大陸を救える、唯一の方です」
その言葉にエルーカもまた、兄を見た。ラウルの紹介は必ずしも正しいものではない、エルーカ一人では大陸を救うことは出来ない。それが出来たら良いと思ってはいるが、一人で儀式を成功させられるという確証を得るまでには至っていない。世界の滅亡を止めるためには、悲しいことに今のところ、兄の協力が不可欠なのだ。
しかし当事者の一員である筈の兄は、ラウルの言葉にもエルーカの視線にも、やはり何の反応も示してはいない。一瞬の沈黙が生まれる、それが不自然なものとなる直前、エルーカは諦めてそっと頭を下げた。
「ご紹介に預かりました、エルーカです。様々なしがらみがあります中、こうして話し合う場を設けて頂いたこと、心より感謝しております」
「ふむ、ではこちらも、一通りだけは紹介させてもらおうかの。儂は、知っているじゃろうが族長のベロニカじゃ。そしてこやつが、儂の護衛で自警団の団長を務めるエルム」
名を呼ばれ、ベロニカの脇に控えていた女性が一礼する。見かけの印象が正しければ、まだ若い女性のようだが、この場に居るということは里にとって重要な人物なのだろう。サテュロス族は人より遙かに長命だ、この場に居るどの者達も、人の常識で考える年齢よりずっと長く生きている筈である。紹介される役職も、確かに高く考えられるものばかりだった――だが、それなら彼はどうなのだろう。
エルーカの考えに気付いてかどうか、ベロニカの紹介が、ついに兄に至った。
「そして、こやつはストック、見ての通り人間じゃ」
その瞬間、驚きに動きそうになった表情を、意思の力で押さえつける。兄の名ではない、だがそれは当然だ、彼がエルンストとして動いていたのならエルーカの耳に入らない筈が無い。偽名を用いて身を隠しているのか、あるいはあまり考えたくないが、自分の出自を覚えていない可能性もある。彼はエルーカの魂を得た後、目覚める前に姿を消した。その後何があったのかはわからない、だが彼を連れ去った誰かが正しい情報を与えなかったとすれば、王子としての記憶が失われていてもおかしくはない。
どちらにしろ、エルンストの名が出されないのは自然なことだ。エルーカの感情を乱した原因は、それではない。
「……ええ。知っています」
隣でラウルが呟く、声音が表す皮肉は、ベロニカではなくストックに対してのものだ。ストック、という名の男のことは、里に入る前にエルーカにも伝えられていた。かつてアリステルに居た凄腕の剣士にして情報部員、そして今は――セレスティアを守るため、アリステルに対して剣を向ける、敵。
彼の妨害をかい潜り、セレスティアへラウルとエルーカを送り込むために、ラウルの部下達は相当の苦労をしたのだと聞いている。兄が、そのストックだとは。
「久し振りだね、ストック。セレスティアに居るのは聞いていたけど、まさかこの席で顔を合わせるとは思わなかったよ」
彼は何を考えているのだろう。エルンストは誰より国の、そして世界の未来を考えて、走り続けていた。時を経たとしてそれが変わったとは思いたくない、だがラウルやその部下達から聞くストックの行動は、エルーカの願いを完全に裏切っていた。続く戦乱に背を向け、セレスティア一国の平和のみを願い、そのためなら誰かの命を奪いすらする。
あるいはそれも、もっと大きな目的に向けての行動なのだろうか。彼を知らないエルーカには判断がつかない、だが心を波立たせる嫌な感覚が、堪えようもなく彼女の胸に生じている。
「……雑談をしに、ここまで来たわけじゃないだろう。話をしたらどうだ」
ストックは無表情のまま、ラウルの言葉を冷たく跳ね退ける。礼儀も何も無い態度に、ラウルは表情を引き攣らせたが、それに対して言及するつもりは無いようだった。
「ストック、経緯はどうあれ、彼らは里の客人じゃ。無礼な真似は控えよ」
代わりに発せられたベロニカの叱責に、ストックは気の無い様子で肩を竦めたが、それでも大人しく口を閉じる。元はアリステルで働いていた男だとしても、今は完全にセレスティアの住人となっているということか。この場にも、中立の客分としてではなく、あくまでサテュロス族側の立場で列席しているのだろう。
「だが、こやつの言うことも一理はありましょう。ラウル殿、雑談は後にして、語るべきことを語っては如何かな」
ベロニカの言葉に、ラウルもエルーカも改めて背筋を伸ばし、表情を引き締めた。エルンスト、いやストックの考えは不明だが、先ずは目的を果たすため動かなくてはならない。
「……そうですね、その通りです。ではまず、我々がここに来た目的について、話をさせて頂きましょう。サテュロス族の皆さんもご存知の通り――」
そうして口火を切ったラウルの表情は、僅かに強張ってはいるが、極端な緊張は見られなかった。国の命運がかかった舞台だが、幾多の修羅場を潜り抜けてきた軍人である彼も、その重圧を表に出さない技量は持っているようだ。淀み無く、理路整然と語られる世界の窮状を、サテュロスの民達も真剣に聞き入っている。
エルーカは、時折補足を入れながら、じっと彼らの様子を疑った。サテュロス族は世界の成り立ちに詳しいという、ラウルが語る情報のうちいくらかは、既に彼らも知っている筈だ。進行する砂漠化を知り、それでも結界の内から出ようとしなかった彼らを動かすことが、本当に出来るのか。
「――これが、外の世界の現状です」
長い説明をラウルが締め括ると、しばらくの沈黙の後、ベロニカの口から深い溜息が吐き出された。
「成る程。以前とは随分、状況が変わっているようじゃな」
「はい、真実を知る者が増え、問題の解決に向けて動き出しています。誰も何も知らず、己の利のみのために争っていた時とは違う」
他の者達も、声こそ出さないものの、真剣な表情で互いに視線を見交わしている。先ず第一の問題、彼らの意識を向けられるかどうかに関しては、成功したと言っていいだろう。ラウルの話をどのように受け止めたかは分からないが、見る限り人々の気配に、無関心や嘲りの色は見られない。
「グランオルグ王家は今まで、操魔の儀式を秘術としておった筈だが」
「その通りです、これまでの王が民衆に、そして他国に真実を隠してきた、それは私も否定致しません。それどころかグランオルグの国内でも、儀式の真実を知らない者が殆どです」
「その結果が、今の窮状じゃと、そういうことじゃの」
「……おっしゃる通りです」
王家の血筋でなければ儀式は行うことができない、そして儀式が行われなければ大陸は砂と化す。それが知られていたのなら、王家の血を引かないプロテアが王位に就くことは無く、エルーカが国を追われることも無かった筈だ。
だからエルーカは、真実を隠すことなく、仲間に伝えていた。理想を共にするレジスタンスは勿論、国を違える者であっても、信用がおけると判断すれば同じように情報を与える。そうすることでようやく、世界のために尽力してくれる仲間を、見つけ出してきた。
「ですがエルーカ王女はその危険に気付き、広くに真実を知らしめる道を選んでくれました。彼女ならば、これまでのグランオルグを変え、大陸を救うことが出来るかもしれない」
エルーカを庇うラウルの言葉に、ベロニカも特に反論はせず、静かに頷いた。
「帝国の遺児がグランオルグを建国してから、もう長い時が経つ。儀式の遂行もままならぬ今、新しい道を選ぶ時なのかもしれん」
「族長……それでは」
彼らに肯定的とも取れる発言に、エルーカの声が上擦る。だが喜ぶのは早計だったようだ、皺に埋もれたベロニカの目には、未だ鋭い光が残っている。
「しかしそれは、人間の国同士で解決されるべきことじゃな。サテュロスの民が戦に参加しなくてはならない理由にはならん」
淡々と語られる言葉に、列席者からも、同意の声が上がっている。人の過ちを償う、そのために同胞が危険に晒されることへの反感は、どうしても克し難いものがあるのだろう。
「いえ、理由ならばあります。ご説明した通り、大陸の砂漠化はもう、直ぐに手を打たねば手遅れになる段階まで来てしまっている」
硬化しかけた態度に、ラウルが真っ向から抗弁した。荒い語調ではない、だがはっきりとよく通るその声は、耳を傾けずにはいられない強さを持っていた。
「戦争を引き起こしたのは人の愚かさです、それに関して、否定の言葉はありません。しかし問題はもはや、人間だけのものでは無くなっているのです」
「……そうじゃな。このまま大陸が砂に変われば、セレスティアとて無事では居られん」
帝国跡地から広がる砂漠化がどこまで影響するものか、本当のところは分からない。時を渡り世界の姿を見る、白示録と黒示録の持ち主であれば真実を目にしているのかもしれないが、エルーカは正式な使い手となる前にそれらを失ってしまった。だが、歴代の執行者が残した言葉と行動は、いずれ砂の大地は大陸を覆うとされている。それが嘘かどうか、実際に試してみるのは、あまりに危険だ。
「その通りです、ですから一刻も早く儀式を行うため、セレスティアの力を貸して頂きたい」
畳みかけるラウルに、ベロニカは深く頷いた。
「言い分は分かる、しかし、それで里の者達が納得するかじゃな。特に、先も言ったが、アリステルからは以前に侵攻を受けておる」
恐らく、最も触れられたくない事実に話題を向けられ、ラウルが唇を引き結ぶ。サテュロスの民を傷つけた過去、加害者側であるアリステルから、それを忘れてくれと頼むのはあまりに傲慢だ。
「勿論、その時と体制が変わっていることは、皆も分かっているじゃろう。しかし自分たちの剣を向けた相手とと共に戦うというのは、覚悟が要るものじゃ」
「おっしゃる通りです、無茶をお願いしているのは重々承知しています。しかし」
「ここで立たねば、我々の身も危なくなる、ということですな。……ふむ」
「ベロニカ族長」
彼らのやりとりに、エルーカは溜まらず割り込んだ。場にそぐわぬ可憐な声に、人々の目が集まる。
「アリステルとセレスティアの確執は、私も存じ上げております。サテュロスの方々には辛い選択を迫ることになってしまいました、ですが……ですが、この大陸を守るためには、どうしてもあなた方の力が必要なのです」
大地を守る血筋であるエルーカの言葉は、人を嫌うサテュロス達であっても、軽視できるものでは無いようだった。硬直しかけていた場の空気が、彼女を中心としたものに変わってゆく、その中でエルーカは必死で言葉を紡ぐ。
「アリステルやグランオルグの、いえ、人間のために戦ってくれなどとは申しません。この大陸のため、大陸に生きるすべての命を護るために、力をお貸しください」
そして、深々と頭を下げた。沈黙が落ちる、誰も何も発言しない中、エルーカに皆の視線が集まっているのを感じる。彼らの目に、エルーカはどう映っているのだろうか。一人では何もできない、剣を取り戦うことも政治の舞台で敵を討つこともできない、非力な十六歳の少女。そんな彼女に、己の不始末を庇うために命を投げ出してくれと言われて、不快に思わない筈は無い。
だが、疎まれても憎まれても、成し遂げなければならないのだ。この大陸を護る儀式を行うため、そしてその先の未来を掴むために。
「頭をお上げください、エルーカ王女」
バノッサの声に、エルーカは恐るおそる伏せていた顔を上げ、自分に注がれる視線と向き合った。そこにあるのは真剣な、深い思考を巡らせるものだが、恐れていた嫌悪や侮蔑は存在しない。ベロニカの目も、鋭くはあるが、冷たさを感じさせない柔らかな光を宿している。
「王女の覚悟は、皆良く分かっております。国を追われ、自らの明日に怯えてしかるべき状況でありながら、何よりこの世界の未来を心配してくださっている。その尊さが理解できない程、サテュロス族は愚かではありません」
優しい言葉をかけられ、こみ上げてくる感情をぐっと飲み込んだ。その気配を感じてか、人とサテュロスの間を取り持つ男が、にこりと宥めるような笑顔を浮かべてみせる。
「うむ、我らも、ことの重大さはよく分かっております。もし、この戦いによって儀式が行われることが確定できるのであれば……里の者を納得させることも、不可能では無いやもしれませぬ」
「……それでは!」
考えつつ頷くベロニカの、その肯定とも取れる発言に、エルーカは表情を輝かせた。ベロニカの表情は皺と髭に阻まれて読みとりづらいが、そこに苦悩の表情が浮かんでいるのは分かる。彼も、世界の行く末と民の命を並べられ、苦しんでいるのだろう。
「エルーカ王女から里の者達を説得してもらえば、あるいは。しかし……」
ベロニカが紡ぐ言葉に、席を連ねるサテュロス族の者達も、同様に頷きを返している。彼らもまた、エルーカの言葉によって、僅かならず心を変えてくれているようだった。考え込む表情は変わらない、だがあからさまな否定の意はそこから消え去り、対等な立場で話し合う姿勢が生まれつつある。
だが、最も端の席で、ただ一人だけその流れから外れている男が居た。
「待ってくれ」
セレスティア側で唯一の人間である、エルンスト――いや、ストックが声を上げる。ただ一人、エルーカの演説にも表情を動かさなかった彼は、怜悧な瞳を真っ直ぐに人間たちに向けていた。そこに宿った、明確な敵意に、エルーカは微かに身を震わせる。
「まだ、あんた達に聞きたいことがある」
エルーカは知らないことだが、それは戦場に立った彼が纏う気配と、とてもよく似ていた。ラウルも表情を引き締め、発言者となったストックへと向き直る。
「うむ。ラウル殿、構いませんかな」
「ええ、勿論です。……ストック、一体何が聞きたいと言うのかな」
「簡単なことだ。その戦争に勝利するのに、本当にセレスティアの力は必要なのか?」
その言葉を、場の者達は一瞬、理解することが出来ないようだった。沈黙が落ち、次いで戸惑うようなざわめきが、サテュロス達の間に広がる。
「……先程、伝えさせてもらったつもりだけれどね。二国の戦力は膠着状態にある、それを破るためにはセレスティアの協力が不可欠だ、と」
「それが本当のことなのか、と聞いているんだ」
そして当然のように投げられた疑問、それが広げた波紋により、場の空気が一気に凍り付いた。ラウルの語る内容の真偽、それを疑ってしまえば、話し合いは成り立たなくなる。緊張に満ちた視線を受け、ラウルはそれでも、引き攣った笑みを浮かべてみせた。
「酷い言い掛かりもあったものだ。ここで信用を得られなければ世界が滅びる、そんな局面で嘘を吐くわけがないだろう」
「嘘、は吐いていないかもしれない。だが全てを語っているわけでも、またない」
対するストックは、緊張どころか、眉のひとつを動かすでもない。先程感じられた敵意すら収め、ただ平坦な口調で、語るべきことを語っている。
「セレスティア以外にも、共闘できる国はあるだろう」
「ふむ。ストック、お主が言いたいのは、シグナスのことか」
ベロニカに問いかけられ、ストックは頷く。
「砂漠の傭兵国家、シグナス。戦力としてはセレスティア以上だ」
「だが、彼の国はこの戦において、中立の立場を取っておる。今更、アリステルと組ませるのは難しいと思うがの」
ベロニカの言葉に、サテュロス族の誰かが頷くのが見えた。しかしラウルはそれに乗らない、エルーカもまた、沈黙を保つことしかできない。その意味が分かっているのか、ストックはじっと、彼らを見詰めている。
「中立だったのは、過去の話だ。今シグナスは、完全なる中立とは言えない立場にある」
「私がガーランド王に保護を求めたから……ですね」
人々の目が、エルーカに集まった。驚きと、そして僅かな非難が入り交じったそれに、エルーカは屈することなく背筋を伸ばす。
「ですがシグナスは、私個人を匿っていた過ぎません。ガーランド王は公正なお方故、非力な女をグランオルグに突き返すような真似はしなかった、それだけの話です」
「グランオルグはそうは思わないだろうな、お前がシグナスに隠れていた事実を知れば、シグナスをも敵と見なす。そうなればあの国も、戦火からは逃れられない」
「……助けて頂いた方に、そのような暴挙を」
「ひとつの手段、という話だ。他にもやり方はあるだろう、少なくともセレスティアを戦いに引きずり出すことだけが、唯一残された道だとは言えなくなる」
ストックの視線が、言葉が、刃のように鋭く場の空気を刻んでいく。彼らを見るサテュロス達の目は、不審というより戸惑いを孕んでいるように見えた。彼らは外の状況を伝聞でしか知らない、ストックの言うことが正当かどうか、判断できずに躊躇っているのだろう。
「そうだね、交渉に挑むことは出来る、だがそれはけして高い確率だとは言えない」
その雰囲気に力を得たわけでもないだろうが、ラウルは唇を湿らし、ストックを受けて立った。
「それにシグナスは遠い、アリステルから激戦区である裁きの断崖を通らなければ、行き来することもできないんだ。」
「だから共闘は難しい、と」
「少なくとも、単純な戦力比で考えられなくなるのは確かだね。地理的に近く、連携を取り易いセレスティアに力を貸してもらった方が、遙かに勝利を掴むつ確率は高くなる」
「それはアリステルの理屈だ。そのためにセレスティアの民に命を懸けろというのか」
ラウルが、卓の上で拳を握りしめるのが、エルーカの視界にも映り込んだ。必死の彼らに対してストックは、やはり面のように無感動な顔で居るばかりで、その温度差は見る者に寒気を感じさせる。
「人間が引き起こした争いは、人間同士で解決しろ。そのための手もあるんだ、何故態々サテュロス族が巻き込まれなくてはならない」
「言っただろう! これはもはや人間だけの問題じゃない」
「だが戦いに引き出されて、傷つくのは俺達だ!」
だん、とストックの拳が、卓を叩いた。顔の形は動かない、だがその瞳に宿るぞっとするほど深い闇が、彼の感情を物語っている。
「セレスティアの民は戦争に慣れていない、精々、魔物と戦うために組織された自警団があるだけだ。そんな者達が、訓練を積んだ軍隊とぶつかれば――皆殺しにされる」
それは、ラウルやエルーカからすれば極端に感じられる単語だったが、サテュロス族達には大きな恐怖を引き起こしたようだった。彼らの顔色が目に見えて悪くなり、抑えたざわめきが場に生じる。
「そうならないための共闘だろう。彼らがプロならこちらもプロだ、共同戦線を張って戦えば、一方的に蹂躙されるなどあり得ない」
「それを信じろ、と?」
一瞬の激昂を通り過ぎ、ストックの語調は、再び冷たく静かなそれに戻っている。だがそれが逆に恐ろしい、彼の目には、変わらぬ闇が揺れるままなのだ。
「信じに足る根拠がどこにある? アリステルはセレスティアを襲った、一度そんなことをしておいて次は対等に扱うなど、信じられるものか」
「……確かに、保証と言ったら、僕と王女の言葉しか無いが」
「戦場に出てしまえば、俺達に身を守る術は無い。前線で囮にされても、抗うことは出来ないだろう」
「ストック――さん! 貴方は私達を、侮辱なさりたいのですか!」
たまらずにエルーカが声を上げるが、それに反応したのは、サテュロス族達だけだ。当のストックは、僅か程にも動揺することはなく、ただすっと、エルーカにその目を向けた。
「エルーカ王女、あんたに二心は無いかもしれない。だがこの男は政治家だ、自国の利益を確保するためなら、他国を欺く程度のことは簡単にやってのける」
「そんな……」
「いやいや、全く嫌われたものだね。一時は君の上官だったこともあったっていうのに」
「そうだな、上官であるお前に、俺達の隊は見捨てられた。そして、敵の直中で全滅させられたんだ」
切りつけるのに等しい勢いで言い捨てられ、ラウルが息を飲み込んだ。隣に座るエルーカでも分かる程、はっきりとその指が震える。
「……君は、本気で、そう思って」
「グラン平原の戦いで、生き残ったのはロッシュ一人だけだ。いや、あいつも死ぬところだった、俺達が後ほんの僅かでも遅ければ殺されていただろう。今あいつが生きているのは、奇跡のようなものだ」
ぎり、と歯の鳴る音がする。明らかに、ラウルは動揺していた。この時までもけして余裕があったとは言えない、だがそれとは別種の痛みが、彼の精神を揺らしているのが分かる。
「それを招いたのは誰だ? 掛けられた陰謀の網を破ってやるべきだったのに、それを果たせず、あんな悲劇を起こしたのは」
「その事については、本当に申し訳なく思っている。だがそれと今の話とは」
「関係が無い? そんな訳はないだろう。俺達は命を賭けるんだ、信用できない相手と共には戦えない」
ストックは明らかに、ラウルのことを敵視していた。それは彼自身のしがらみであり、感情に過ぎない筈なのだが、不味いことに生じる影響は個人に留まらない。罵倒に近い言葉だが、ただの癇癪と聞き流せない真実味が、それにはあった。ストックに対するサテュロス族達の信頼もあるのだろう、姿勢を崩さぬベロニカとバノッサはともかくとして、他の出席者たちの様子は明らかに悪いものへと変化してきている。嫌な温度の呟きが彼らの口から零れ出す、中にはラウルやエルーカに対して、敵意を込めた言葉を投げつける者まで出始めた。
「同胞の平穏のために戦うことは厭わない、だが人間の盾として命を落とすのは御免だ」
「大陸のためというその言葉に、何処まで真がある? 我々だけに危険を押しつけて、己の利を保とうとしているのではないか」
「皆さん……落ち着いてください、お願いです」
危機感を覚えて声を上げるエルーカだが、王女のそれですらも、今の彼らには疑わしく感じられるようだ。先程から比べて温度を下げた視線が、彼女へと向けられている。寄せられる嫌悪混じりの疑念に、エルーカの頬から血の気が引き、白い頬がさらに青白く変わった。
「静まれ、皆の者!」
高まりかけたざわめきを、ベロニカの一喝が制する。族長の一声を受け、途端に静まり返った部屋の中を、鋭い眼差しが睥睨した。
「この席が何のために設けられたものか、忘れたか。議論にもならぬ暴言を弄ぶだけなら、早急にここから出ていってもらおう」
年からは考えられぬ力の籠もった声に、逆らうものは誰も居ない。さすがのストックも口を閉じ、肩を竦めて大人しい態度に戻っている。
「ラウル殿、エルーカ王女、大変失礼した。あれの無礼については、儂が変わって謝らせていただこう」
「いえ、ベロニカ様が頭を下げられることはありません」
数瞬の間を与えられ、落ち着きを取り戻したラウルが、ベロニカに礼を返した。エルーカも、未だ消えぬざわめきを無理に抑えつけ、そっと頭を下げる。
「襲われて死にかけたところをセレスティアに逃げ込んだ男故、外敵に対しては、我々でも驚くほど苛烈に反応することがあっての。不快な思いをさせて、申し訳ない」
一瞬、ラウルがストックを見遣った。エルーカは彼らの因縁を知らない、だがかち合ったそれが持つ複雑な感情は、知らずとも感じ取れる気がする。
しかし、発せられたベロニカの言葉に、そんな思いはちらりとも残さず吹き飛ばされた。
「じゃが、ストックの言うことはともかく。儂も、確かめねばならぬことがある。エルーカ王女」
「はい」
「儀式の遂行は、本当に可能なのですかな?」
――エルーカの背に、冷たい震えが走る。
真っ向から、言い逃れの出来ない強さで投げつけられた問いに、指先が堅くなるのを感じた。生じた衝撃に周囲の者も気づいたのだろう、ラウルとバノッサも、困惑を浮かべてエルーカを見る。
「……可能です。義母に奪われた秘宝、エーテリオンさえ取り戻せれば」
「操魔の儀の遂行は可能、ですか。しかし他の条件が揃ったとて、王女一人では、場繋ぎのものしか行えますまい」
ベロニカがストックを見遣る、やはりこの老人は、気付いているのだ。当然だろう、マナと高い親和性を持ち、儀式の成り立ちに関しても深い知識を持つとされるサテュロス族の族長なのだ。ストックと名乗り自らの里に滞在している、仮初めの魂を持つ者の正体に、気付かないわけがない。
「それでも、砂漠が広がる速度を落とすことは出来ます。何もしなければこの大陸の寿命は、持って数年でしょう」
「じゃが肝心の儀式を行う算段が付かなければ、延命を行ったところで結末は同じ。もう一度伺おう、エルーカ王女、貴女は本当に、儀式を行うことが出来るのですかな」
エルーカは答えない、いや、答えることができない。それを答えるのは本来エルーカではない、兄の役目なのだ。兄が、ニエとして命を捧げた兄が応と言えば、滞り無く儀式を行うことが出来る。しかし彼がニエたることを拒否すれば、その決定を覆す術は何処にも無い。強引に出来るのは命を奪うまで、その魂を捧げさせるには、彼自身の意志に因る以外に無かった。
「ベロニカ様、王女は疲れていらっしゃるようだ。長旅の後禄な休息も取らずこの会合に参加したのです、一度時間を取り、体を休めて頂いた方が」
「ならぬ! ラウル殿、王女を気遣うお心は分かりますが、事は大陸の未来に関わるのですぞ」
長い髪の陰から、逆らうことの許されない鋭い眼光が走った。ラウルは、さすがに気圧されこそしなかったが、顔を厳しくして立ち尽くしている。エルーカは首を振ると、そっとラウルを手で制した。
「ラウル中将、お気遣いありがとうございます。ですが私は大丈夫」
「しかし、エルーカ王女」
「……お伝えしていないことがありましたのは、お詫びさせてください。確かに儀式、大陸を守護する術を強める儀式は、本来私ともう一人で行うものです」
ラウルの目が見開いた、エルーカはいっそ堂々と、彼に向かって礼をする。
「どういうことだ。グランオルグを取り戻しても、儀式とやらは行えないということか」
混乱した様子のストックが呟く、それも偽りなのだろうか。それとも。彼はエルンストなのか、ストックなのか。
「儀式にはいくつかの種類があります。恐らく、サテュロス族の方々はご存知でしょうが」
「遙か昔――といっても我々にとっては、人間が思うほど昔ではありませんがね。ともかく昔に存在した帝国が、とある事件を起こしたせいで、この大陸のマナは酷く不安定になってしまいました」
「ああ、それは聞いたことがある」
エルーカから引き取って続けられたバノッサの説明に、ストックが頷いた。
「生物が存在するためにはマナが必要だ、そのマナが不安定になっているために、土地が砂漠化してしまっている。グランオルグ王家に伝わるマナを操る力を使い、マナを安定させることで、砂漠化の進行をを止めることができる……そうだな」
「はい。……よく、ご存知ですね」
エルーカはじっと、兄によく似た男の瞳を覗き込む。エルーカとは違う色を持つ虹彩が、光を受けて緩やかに煌めいた。
「儀式はマナを安定させるものです、それにはいくつかの種類があります。術の根本を成すものと、それを補助するものに分けられるのです。補助的なものに大きな魔力は必要ありません、私一人でも行うことが出来ます。ですが……」
「根本となる儀式。それが、王女の他にもう一人が必要なもの、ですか」
ラウルの問いにエルーカは頷く、その間も彼女の視線は、ストックに注がれたままだ。彼の表情に望んだような動きはない、完全なる平静ともまた違う、新たに与えられた情報を咀嚼する気配があるだけだ。
「そう、私と――ニエ、と呼ばれる役割の者、その二人で、儀式を行います」
エルーカがストックを見る。ベロニカも、二人の様子を伺っている。
彼は何の反応も示さない、ただひたすらに思考を巡らせている。
「儀式には多くの魔力が必要です、人一人の持つそれでは到底追いつかないほどに。ニエは執行者の力を高め、足りない魔力を補う、そんな役目を果たすのです」
「その、ニエというのは、やはり王家の者でないと成ることができないのですか?」
「はい」
彼は動かない。ただエルーカを見ている。
「今の代のニエは、私の兄でした。名を――エルンスト、と言います」
エルーカが、妹が、その名を呼んでも。彼は、兄は、エルンストは、動こうとしない。
いや、分かっている。動かないのではない、動けないのだ。彼の目に浮かんでいるのは、ただ淡々と情報を受け止め、処理している色。その全てが作られたものだとは、とても思えない。
疑惑はあった、そしてそれは、確信に変わりつつある。今の彼は、エルンストではない。中途で途切れた儀式の影響、あるいは誰かの悪意によって、エルンストとしての知識や記憶が失われているのだろう。兄は、いやストックは、何も知らないのだ。儀式について、グランオルグ王家の義務について、そして自らの役割について。
「彼は今、何処に?」
「――分かりません。ニエとなった際、何者かに連れ去られた形跡があったのですが、それ以来行方が知れないままです」
ラウルも難しい顔で考え込んでいる、その情報が今後に与える影響について、考えを巡らせているのだろう。エルーカはひとつ息を吐き、思い出したように瞼を瞬かせた。
「つまり、例えグランオルグを取り戻しても、儀式を行うことはできないんだな?」
ストックが問う、他ならぬ彼の口から発せられたそれに、エルーカの胸郭がぎしりと痛んだ。
「不可能なのは、ニエと共に行うものだけです。それ以外は」
「先程ベロニカが言ったな、場繋ぎをいくら繰り返したところで、結末は変わらない。そんな曖昧な、可能性とも言えない希望のために、俺達は戦場に引き出されるのか?」
「いいえ! 曖昧などではありません、少なくともこのままでいれば大陸が滅びるのは必定です。黙って滅びを待つよりは――それに、いざとなれば、私一人で儀式を行うことだってできます」
青ざめたエルーカの頬に、熱い血の朱が掃かれた。激情に煌めく蒼がストックを射抜く、その色に何を感じたのか、ストックの表情に戸惑いの色が浮かんだ。
今はもう兄では無くなってしまった男を、エルーカは見詰める。彼はニエだ、しかしニエの犠牲に頼らぬ世界の平和こそ、兄の目指したものだった。エルーカはその遺志を引き継ぐときめたのだ、彼女の代わりに兄の命が失われた時に。
「私は、私一人の力で、儀式を行います。ですから兄が見付からずとも、関係はありません」
「エルーカ王女! それは……あまりに、危険ですぞ!」
ベロニカが恐れの混じった叫びを上げる、儀式についてを詳しく知っている彼であれば、当然だろう。しかしエルーカは老人を見もせず、決然とした意志を漲らせてそこに座っていた。
「他に術はありません。今から兄を探し、儀式の準備を整えるのでは、時間がかかりすぎます」
「……エルーカ王女」
ベロニカがエルーカを、そしてストックを見る。そこに何を読み取ったものか、彼は深く息を吐き、そして首を横に振った。
「確かに、王女のおっしゃることも分かります。じゃが、それに協力することはできませんな」
「ベロニカ様」
「選べる手段が無いとはいえ、エルーカ王女の提案は危険すぎます。失敗すればそれこそ大陸は、明日を見ずして終わってしまいますぞ」
里と一族を護る長として、そして今は数少ないすべての歴史を知るものとして、それはけして変えられない選択だったのだろう。それ以上は何の議論も受け付けないという様子で、全ての表情を皺の奥に隠し、口を閉じてしまう。
「お心が変わることは、ありませんか」
ラウルが訪ねても、黙って首を振るばかりだ。周囲の者達は、突如動いた展開に戸惑っていたが、徐々にそれが族長の決定だと認識出来たようだった。反対するものもなく、皆それを受け入れ、エルーカ達が立ち去るべきという流れを作り出している。誰が口火を切るか、数瞬の躊躇いの後、やはりというべきかバノッサがすっと立ち上がった。
「では……話し合いはこれまでということで、よろしいでしょうか」
ラウルは少しだけ、口を閉じたまま視線を彷徨わせた。終わりを前にして、それでも諦めずに活路を探しているようにも、単に労が実らなかったことへの絶望が吐露されているようにも見える。
「――はい」
それでも、彼は一国の長だ。それ以上感情を表に出すことはなく、まして不格好に追いすがることもせず、ただ平坦に頭を下げてみせた。
「お時間を取って頂き、有り難うございました」
「こちらこそ。遠路来て頂いたというのに、このような結果になってしまい、申し訳ない限りじゃ」
ベロニカも、それに応えて礼を返す。謝意を告げる言葉は、何故か不思議と、儀礼的なものには聞こえなかった。結果として交渉は決裂してしまったが、彼とて停滞を良しとしている訳ではないのだ、しかし。
「エルーカ王女」
それ以上に、儀式の失敗を危険視していると、それだけのことなのだろう。ベロニカがエルーカを、鋭い目でじっと見詰める。
「くれぐれも、先走ることのありませぬよう。王女の身に背負われました義務は、王女のみで果たされるものではないのですぞ」
その言葉の意味を正しく理解している者は、どれ程居るのだろうか。ラウルもストックも、あるいはエルーカ自身も、本当に分かってなど居ないのかもしれない。だから、エルーカは静かに微笑んで。
黙ったまま、深く頭を下げた。
「ではお二人とも……本日は、宿でお休みください。部屋を用意させております」
「いえ、お心遣いは感謝いたしますが、外に部下達を待たせておりますので。これで辞させて頂きます」
ラウルに目線で許可を求められ、エルーカも頷いた。これ以上ここに居る意味は無い、ならば一刻も早くアリステルに戻り、次の動きを模索せねばならない。
「承知致しました。では、外までお送りさせて頂きましょう」
バノッサの導きに従い、彼らは席を立ち、扉へと向かった。最後に振り向き、部屋の中を睥睨する。
誰もが、エルーカ達を見ていた。勿論ストックも、エルーカは彼の上で目を止め、真っ直ぐに視線を絡める。
「後はお任せください。――お兄様」
それだけを言うと、踵を返し、ラウルと共に外に向かった。
引き留める言葉は、無い。
静寂の中、エルーカの背後で、扉が閉まった。
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セキゲツ作
2012.04.26 初出
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