「黙っていたことは、すまないと思っている」
沈鬱な面持ちで嘆息を吐いたラウルを、レイニーとマルコは呆然と見詰めた。彼の話はあまりに大規模で、そして深刻なものだ。一介の軍人でしかない彼らにとって、にわかには信じることも、そもそも実感することすら難しい話だった。ラウルもそれは分かっているのだろう、理解を急かすでもなく、目の前に立つ部下二人の様子を見守っている。
普通であれば一笑に付すような話だが、それを語ったのがラウルだという事実が、彼らの態度を大きく変えていた。彼は政治家で、必要ならば幾らでも人を欺ける頭脳を持っているが、部下に対しては誠実で対等な態度を取る人間だ。共に戦った数ヶ月でそれは実感している、そのラウルがここまでの深刻さで語ることが、虚飾や欺瞞であるはずはない。荒唐無稽に感じられても、その言葉を信じないわけにはいかなかった。
「いえ……本当なら、確かに簡単に口に出せる話じゃないです」
丸い瞳を曇らせて、マルコが呟く。冷静で頭の良い彼のことだ、レイニーよりも余程深く、この事態の重みを理解しているのだろう。
「こんなことが広まったら、大混乱になりますよ。戦争どころじゃない」
「そうだね、ただでさえノアの喪失で、人々の心は崩れかけているんだ。目の前の脅威を支えにして、辛うじて国として結びついているに過ぎないのに、それ以上の問題が存在すると知ったら」
数ヶ月前に起こったヒューゴの暗殺、それをきっかけにして明るみに出たノアの死は、アリステル国民の心に大きな動揺を与えていた。ノアは建国の父であると同時に、アリステルを導く聖人だった。その彼が既に物故し、変わって国を動かしていたヒューゴが私欲にまみれた人物だったというのだから、衝撃はあまりに大きい。国自体が瓦解してもおかしくない危機、それを支えたのがグランオルグとの戦争だったのだから、皮肉と呼ぶ他無いだろう。今戦うことを放棄すればグランオルグに蹂躙されるだけだと、立ち上がったラウルの演説によってようやくその身を保っている、そんな危うい姿がこの国の現状なのである。それなにのこの話、砂漠化によって十年を待たずに大陸が滅びるなどという話が流布すれば、どうなるか。
レイニーにすら簡単に想像できる、無惨な結末が待つばかりだ。
「だから、あんなに戦争の終結を急いでたんですね」
「ああ。時間をかければ勝つことは出来る、アリステルも疲弊しつつあるが、人の数に任せて戦っているグランオルグに比べれば消耗は少ない。砂漠化が進んでいるとなれば尚のことだ、グランオルグの国力は目減りする一方なんだからね」
「でもそれじゃあ、世界が」
「そう、消耗を待っているんじゃ駄目なんだ。一気に片を付けて、可能な限り早く、エルーカ王女に儀式を行って貰わないと」
グランオルグの第一王女エルーカとは、ラウルが暗殺の標的となり、地下に潜っていた間に繋がりを持ったという。本来ならば敵対する立場の彼女は、しかし話によれば、砂漠化を止める『儀式』を行える唯一の人物らしい。彼女が王位に就く、いや最悪でもグランオルグでの行動の自由を取り戻して儀式を行えるようにしなければ、大陸の全ては砂と化して滅びる。その時間制限が、ラウルを焦らせているのだ。
「でも中将さん、それなら態々戦争で勝たなくても、エルーカ王女が名乗りを上げてグランオルグに戻れば良いんじゃない? プロテアはもう居ないんだし、彼女が王位を継ぐのは当然でしょ」
プロテアはもう居ない、国内外に悪評と恐怖を轟かせた彼女は既に命を落とし、死によって女王の座を追われたとの報が知らされていた。不慮の事故とも暗殺だとも伝えられているが、どちらにしろ王座が空位となっているのは間違いないのない事実だ。そこに、正当な王位継承者であるエルーカが戻るのは、本来ならば自然な流れである。
希望をもって発せられたレイニーの言葉に、ラウルは暗い表情のまま、首を振って否定の意を示した。
「難しいね、居なくなったのはプロテアだけで、実質的に国を動かしていた彼女の腹心たちは相当数が残っている。いや、彼らが全て命を落としたところで、周囲で利権を狙っていた他の者達が取って変わるだけだ」
「臣下であっても、王女の即位を望まないってことですか?」
「その可能性は高いよ。プロテアの圧政と戦争で荒廃しているとはいえ、大国であることは間違いないんだ。王族というだけの小娘に任せるより、自分が――と、考える者は多いだろうね」
「何それ、勝手すぎる! 世界が危ないって時なのに」
「それを彼らが知っているかどうか……グランオルグ王家は、随分と秘密主義のようだからねえ」
ラウルが嘆息し、眉を顰めて首を振った。その顔には晴れることのない、深い憂いが刻まれている。
「エルーカ王女の人気は高い、やり方を間違えなければ、無血開城も可能かもしれない。だが……」
「もし失敗したら、ですよね」
「その通りだ。万が一彼女が捕らえられて処刑でもされたら、その時点で世界の滅亡は確定される」
部屋に、重い沈黙が満ちた。凍り付くような冷たさで、状況の深刻さが身に染み込んでくる。事態は相当に逼迫している、放置すれば緩慢に滅びの道を歩むばかりだが、何処かを一歩間違えても世界は終わってしまうのだ。圧し掛かる重圧に、さしものラウルも常の生彩を欠き、次の一手を考えあぐねている様子だった。
「セレスティアは、どうなんですか」
問いかけたマルコに、ラウルとレイニーの視線が向く。鋭いそれらにマルコは一瞬言葉を切り、深く息を吸ってから、改めて口を開いた。
「前にも僕ら、様子を見に行きましたよね。セレスティアが戦列に加わってくれれば、少なくとも膠着した現状は変えられるんじゃないですか」
「……ああ、その通りだ。だが」
希望を見出してレイニーの表情が明るくなる、しかしラウルはやはり眉を顰めたままだ。
「君達に忍び込んでもらって以来、セレスティアとは全く繋ぎが取れていない。知っての通り、あそこは結界に阻まれている」
「あたし達の時は、バノッサさんに手引きして貰いましたよね」
旅芸人に身をやつして諸国を回っているセレスティアの諜報員、気の良い男に見えて奥に鋭い光を宿した、その顔をレイニーは思い出す。彼は外界と隔絶したセレスティアの現状を憂いていた、再び彼に協力してもらえればセレスティアにも入るのも可能だろう。しかしレイニーの安易な期待を、ラウルがあっさりと否定した。
「そう、しかしここのところ、彼とは連絡が取れていない」
「連絡が……それは、姿を表さないってことですか?」
「いや、何度かアリステルにやってきたところを目撃されてはいる」
「それなら、やっぱり気が変わって協力してくれなくなったとか」
「……それすら、確かめられないんだ。彼と接触した部下は、悉く命を落としている」
レイニーとマルコが、目を丸くして口を閉ざした。再び、重苦しい沈黙が訪れる。視線だけがちらりと交わされ、彼ら二人が同じ想像をしていることが確かめられた――そしてマルコが、再びその沈黙を破るため口を開く。
「それは、誰かに始末されるってこと……ですよね」
「だろうね。残された死体には刀傷があった、町中で偶然そんな死に方をしたとは、とても考えられない」
ラウルも、恐らく彼らと同じことを考えているのだろう。明確に口に出すのは覚悟が要るのかもしれないが、そこに存在している推測を、マルコとレイニーは容易に察することが出きた。
「どうにかしないと」
レイニーの声は、震えてしまっていたかもしれない。恐れ、というよりは感情の昂りが、そのまま声帯に影響してしまっている。しかしそこにある想いを、ラウルもマルコも正しく読みとってくれたようだった。
「そうだ、このまま手をこまねいているわけにはいかない。セレスティアとの共闘は、現時点では最も効果の高い手だからね」
「でも、もしもう一度サテュロス族と接触したとして、説得出来る見込みはあるんですか?」
慎重派の彼らしい問いに、ラウルはしっかりと頷いて応える。
「ああ。サテュロス族は世界の仕組みについて詳しい、砂漠化の原因もその解決法も、しっかりと認識している。戦争の長期化は、誰より彼ら自身にとって致命的だと、理解している筈だ」
「でも、それは今に始まったことじゃない。それなのに彼らは、今まで沈黙してきたんですよね」
「長い間の外界と隔絶した生活で、保守的な思考が身についてしまっているんだろうね。だが、僕だけでなくエルーカ王女にも列席してもらえば、説得できる可能性は高い」
ラウルの言葉に、マルコはしばし考えを巡らせているようだったが、やがて納得したのか大きく頷いてみせた。
「そうですね、確かに実際に儀式を行う彼女が訴えれば、信頼性はあります。本気で世界の危機を乗り越えようとしていることを、信じてもらえるかもしれない」
「そういうことさ。……だから、後は、里に入ることさえできれば」
道は開ける、と。そう言い切ったラウルがマルコとレイニーを見遣る
、妨害を退けて内密に里の者達と繋ぎを取るのは、元情報部員である彼らの領分だ。しかしそれは相当の難事だ、彼らを遮っているのは、最高の情報部員と呼ばれた男なのだ。彼を出し抜き、バノッサ、あるいは他のサテュロス族と接触することが出来るだろうか。
いや、可能不可能は問題にならない。やらなくてはいけない、さもなければ、世界が滅びる。
「――あたしが」
応えるように、レイニーが口を開いた。震えそうな両手を握り締め、ぐっと机に押し当てる。
「あたしが、ストックと話をします」
ラウルの顔に驚いた色は、無い。そう言い出すのを予想していたのか、あるいは政治家としての経験で、感情を外に出さずに押し止めたのか。
「もう一度話をします。話くらいなら……聞いてくれると、思うんです」
「レイニー」
「止めても無駄だよ、マル」
何事かを言いかけたマルコだったが、レイニーの瞳に浮かんだ真剣さに、その言葉を飲み込んでしまったようだった。彼もまた表情を厳しくして、丸い瞳を瞬かせる。
「中将さん、やらせてください。あたしがストックを話をします、だから――」
レイニーの語る内容に、勝機を見出したのかどうか。ラウルは表情を変えぬまま何事かを考えているようだったが、やがてひとつ、大きく息を吐いた。
「それしか、無いかな」
そして呟き、静かに目を伏せる。レイニーもまた瞼を閉じ、今はここに居ない影を追った。会うことがなくとも薄れることのないその姿を、もう一度心に焼き付け、そしてゆっくりと目を開く。
「レイニー」
「大丈夫」
止めなくてはならない。誰かが、いや、自分が。
止めてみせる、彼を止められるのは、自分達しか居ない。
レイニーはそう、自分に言い聞かせ続けた。固めた決意に迷いが入り込まないように、強く。
強く。


――――――


かつて見慣れた赤い服、町並みの中でそれを見出すと、レイニーは傍らに立つ情報部員にそっと頷きかけた。彼女からの合図を受け、男は影のように人混みに溶け、姿を消す。それを見届け、気配の欠片も感じられなくなったのを確認すると、レイニーはひとつ息を吸って足を踏み出した。
鉄張りの地面を叩く音が、さほど大きいものだったとは思えない。しかし相手は、レイニーが数歩を踏み出しただけで、その存在に気付いたようだった。数瞬様子をうかがう気配を見せ、そしてゆるりとこちらを振り向く。
「ストック」
目立つ筈なのに景色にとけ込む赤衣も、容易には動かぬ表情も、かつてと何も変わっていない。彼がアリステルの町並みに在る、その光景は否応無く懐かしさを喚起し、レイニーの胸を鈍い痛みが刺した。何事かを言おうとして口を開き、しかし明確な言葉を紡ぐことは出来ず、ゆるゆると唇を閉ざす。緊張と躊躇いを色濃く浮かべた彼女を、ストックはやはり黙ったまま、じっと見詰めている。
「……何か、あったのか」
長い長い沈黙、それを破ったのは、ぽつりと零されたストックの一声だった。数ヶ月ぶりに聞いた彼の声に、レイニーは一瞬目を見開き、次いで口を尖らせる。
「――もう! 一言目がそれって、どういうことさ!」
女性らしく拗ねてみせたレイニーの反応に、ストックは完全に虚を突かれたようだった。冷静な無表情があっさりと崩れ、驚きと戸惑いが、緑の瞳に浮かび上がる。
「久し振りだとか、怪我してないかとか、色々言うことあるじゃない。何でいきなり用件に入るの!」
「……すまない」
勢いのままに畳みかけてやれば、ストックは両手を上げ、あっさりと降参の姿勢を見せてくれた。元情報部一の腕利きでも、怒れる女性と正面切って戦う覚悟は無いのだろう。些か引き攣った苦笑を向けられれば、レイニーもそれ以上怒りを持続させることはなく、鼻を鳴らして攻撃の矛先を納めてやった。
「良いけどさ、ストックは前からそうだもんね。無口っていうか、余計なことは言わないっていうか」
共に戦っていた頃から、いや、それこそ初めて出会った時から、彼は寡黙な男だった。必要なだけしか言葉を発さず、ただ淡々と己に課せられた任務をこなしていくのが、かつて見ていた彼の姿勢だ。だがそれは、単に不必要な言葉を省いた結果に過ぎないと、共に戦ったレイニーには分かっている。彼は誰より仲間のことを思ってくれている、無愛想な態度に隠れた優しい心を、レイニーはよく知っていた。そしてそれに惹かれていた、ほんの数語たわいのないやり取りを交わしただけで、そのことが実感として思い出されてくる。
一瞬だけ、背を合わせて戦った昔に戻ったような錯覚を覚えて、レイニーは拳を握りしめた。
「……でも、元気そうで良かった」
誤魔化すつもりで発した言葉は、その実レイニーの本音でもある。彼が戦っていることは知っている、表に出ない分過酷なそれとたった一人で向かい合っているのだから、掛かる負担は相当なものだろう。厳しい戦いを続け、それでも大きな怪我もなく無事でいてくれるのは、レイニーにとって嬉しいことだった。戦っている相手がレイニーの同胞、アリステルの軍人達ということを考えると、手放しで喜ぶわけにもいかないのだが。
「ああ。レイニーも」
「あはは、心配してくれるんだ。ありがと」
明るく笑うレイニーに、ストックが柔らかな微笑を向ける。その表情が記憶の影と重なり、レイニーの喉が詰まった。
「……立ち止まっていては、目立つ。歩くか」
ストックに促され、連れ立って歩き出す。人通りは多くはないが、男女が二人深刻な顔で話していれば、人目を引くことは間違いない。ストックもレイニーも、目立つことは避ける習性が身についていた。
本当は、最悪の可能性を防ぐため、彼についていかないほうが良い。ストックの目的はセレスティアを守ることで、それを破ろうとする陣営に組みするレイニーは、言ってしまえば彼の敵だ。そう、最悪の場合、人目が失せた途端命を奪われることも考えられる。
「マルコはどうした?」
しかし以前と変わらない、不器用ながらも細かな優しさを差し伸べてくれる姿に、どうしても最後の警戒を抱くことができなかった。ここに姿のない相棒を気にかけてくれているストックは、アリステルを捨てた男ではなく、共に軍で戦っていた上司であるかのように感じられてしまう。あるいは本当に、彼自身は何も変わっていないのかもしれない。かつてと同じように、仲間と国を守るために戦っているだけなのではないかと。
だが、例えそうだとしても彼が選んだ道は、レイニー達と決定的に異なってしまっている。
「マルコは、別の仕事」
「そうか。……相変わらず、ラウルの下で働いているのか」
「そう……うん、そうだよ。相変わらず、ね」
ストックが発した言葉に、微かな不快感が乗せられていることに、レイニーは気付いていた。やはりストックはラウルに、そしてアリステルに、変わらぬ敵意を抱いているようだ。セレスティアでの邂逅からある程度の時間が経ったが、この国に裏切られたという想いは、未だに変わっていないのだろう。それが分かっていて、それでも。
「ねえ、ストック」
やらなければならないことがある。レイニーは深く息を吸い、真っ直ぐにストックを見詰めた。
「アリステルに、戻らない?」
ストックは答えない、眉のひとつすら動かさず、じっとレイニーを見返している。
「アリステルに戻って、またあたし達と一緒に働こうよ。軍に戻るのが嫌なら、三人で情報部を立ち上げたっていいし――ハイス様は居ないけど、あんただったら情報部長だって全然やれるよ」
感情の動きを期待して深緑の瞳をのぞき込むが、残念ながら徒労にしかならなかった。深く美しい緑色には、ただ淡々とした輝きが湛えられるばかりだ。
「言ったはずだ」
そして閉じられていた唇が薄く開き、言葉を紡ぐ。
「俺は、もうアリステルには戻らない。戦争に荷担するつもりもない、と」
それは確かに、最後に会った時に告げられた内容、そのままのものだ。国に裏切られ、戦う意味を見失い、閉ざされた里で親友と共に静かに暮らすという選択。彼はそれを貫き通している、それこそどんな手を使ってでも。
「……でも、戦争が続いたらセレスティアだって、このままじゃ居られないよ」
その道の、根の部分にある感情は、レイニーにも馴染み深いものだ。今までの幸せを砕かれた怒りと憎しみ、そして絶望、彼女もかつてはそんな想いに支配されたことがあった。
「ラウルは未だに、セレスティアを巻き込むことを諦めていないようだな」
「うん。だって、このままじゃあ」
「戦局は膠着しているが、アリステルにとって不利というわけでは無いんだろう。グランオルグの消耗も大きい、このまま戦い続ければむしろ、妙な手を打つよりも勝つ可能性は大きいと思うが」
冷静この上無い様子で語られ、レイニーは一瞬口を噤む。ストックは知らないのだ、それでは遅いのだということを。時間をかけて勝利しても、経過した時間の分だけ砂漠化が進み、人々の暮らしは壊されていく。それでは何の意味も無い、戦争さえ終われば良いなどという、単純な話ではなくなってしまっているのだ。
しかしレイニーの言葉では、それを上手く説明することが出来ない。世界が滅亡に瀕しているという大きな問題を、例えストックにとはいえ洩らして良いものかどうか、判断しきれないということもあった。口を噤んだ二人の間に、沈黙が落ちる。靴底が鉄を叩く音だけが、周囲に響きわたった。
「……でもさ、ほら、隊長さんとソニアさんのこともあるじゃない」
やがてレイニーが、再び口を開く。発せられた親友の名に、ストックの眉がぴくりと動いた。
「隊長さんの怪我、大丈夫なの?」
「ああ。もうすっかり治っている、普通に暮らすには何の問題もない」
「そっか、良かった。……あはは、前セレスティアで会った時は、すっごい元気が無かったからさ」
「そうだな。だが、戦える程ではない」
用心深く、僅かな言質も取らせようとしない言葉の選び方を、ストックはしていた。それもまた彼の決意なのだろう、親友を護るのだと、確かにあの時言っていた記憶が残っている。
「……分かってるよ」
ラウルやマルコがどう思っているのかは分からない、だがレイニーは本当に、ロッシュに戦って欲しいとは思っていない。その気持ちが伝わったのか、ストックの気配が、少しだけ緩んだ。
「あのさ、ストック」
敵意を感じない、穏やかな視線。その柔らかさに力を得て、レイニーは恐るおそる唇を開く。
「戦って欲しいなんて、言わないから。もう、ストックも隊長さんも、静かに暮らしてれば良いと思うから」
足を止めれば、ストックもそれに合わせて、歩みを止めてくれた。いつの間にか随分と細い通りに入り込んだようで、周囲に人の姿は見当たらない。
「アリステルに戻らない? 戦わないで、ただふつうに暮らすだけなら、アリステルに居たって良いじゃない」
街の喧噪が、遠くに聞こえた。ストックは不思議そうな目でレイニーを見詰めている、その口が何かを語る前に、レイニーは怯えたような勢いで言葉を重ねる。
「ほら、あたしもマルも、中将さんの片腕みたいな感じになってるんだ。我が儘も結構聞いてもらえるし、あたしが頼んだら、中将さんも無理に戦わせようとなんてしないよ」
「レイニー」
「それでも駄目なら、いっそあたしも軍から抜けちゃうから。軍の外だって戦争を終わらせる役には立てるもん、ね、だからさ」
必死で語り続けるのは、ストックの返答を聞くのが怖かったからだ。何が返るか分かっていても、いや分かっているからこそ、それと実際に向き合うのは恐ろしい。
「だからさ……アリステルに戻ろうよ。隊長さんもソニアさんも一緒に……私もマルも、皆で一緒に」
声が震えるのを抑えられず、レイニーは口を閉じた。声だけではない、指が微かに震えているのに気付き、胸の前で手を握る。その姿に、ストックは一体何を思ったのだろうか。
「……有り難う」
静かに微笑むストックの心を、読むことは出来ないのかと。じっと見詰めたレイニーに向けて、ストックは真っ直ぐで、そして悲しくなる程透明な視線を投げてくる。
「だが、すまない。やはりアリステルに戻るのは、無理だ」
「……軍とは、関係なくても?」
「ああ。アリステルは戦いに近すぎる、軍に所属していなくても、巻き込まれる可能性が高い」
そう言ったストックの表情が厳しく顰められていて、彼が本当に戦いを忌避していることが伝わってくる。いつから、いやそれは分かっている、全てを変えたグラン平原の戦いからだ。誰よりも強く、鋭かったストックの剣は、あの敗戦で完全に折れてしまった。
「そんなことない、あたしが護る。ストックや皆が、無事で暮らせるように、護ってみせる」
「……有り難う。だが俺やお前がいくら庇おうとも、自分の意志で戦いに赴こうとすれば、止めるのは難しい」
代わりに彼が手にしたのは、一体何なのか。語る姿に悪意は感じられない、唯一の目的を達するために全ての力を使おうとしている、愚かだが真っ直ぐな想いがあるだけだ。
「戦争が直ぐ近くで起こっていれば、ロッシュは黙って引っ込んでいてはくれないだろう。身体が本調子で無いことなど気にせず、戦いに向かってしまう……それは、避けたい」
「……ストック」
「俺はあいつを護ると決めた。だから……」
ストックにしては珍しく語尾が濁り、続く言葉は曖昧な沈黙の中に消える。迷いにか視線が揺れる、レイニーを見る目が一瞬逸らされ、そしてまた正面に戻った。
「レイニー」
彼の本質はきっと、変わってしまったわけではない。ただ進む道の先を、少しだけずらしただけなのだ。
「セレスティアに来てくれ。セレスティアでなら、皆で共に居ることができる」
その誘いが、利己的な判断からのものなら、どれほど楽だったことか。そうであればあっさりと切り捨て、互いに信じるもののために、違えた道を迷い無く進むことができる。だがレイニーを誘う彼の言葉には、間違いなく、戦い続ける部下を案ずる気持ちが存在した。死と隣り合わせる日々など捨てて、平和な時を過ごして欲しいと、本気で想っている。それが分かるからこそレイニーも辛い、胸に刺さった過去の想いを消すことが出来ず、食い込んだそれが痛みを訴え続けている。
「……でも、セレスティアが安全とは限らないよ。戦争が終わらない限り、何処に居たって、巻き込まれる危険はある」
「大丈夫だ、もう直ぐ戦争は終わる。……終わらせてみせる」
その、奇妙な自信に満ちた宣言に、レイニーは不審を覚えて首を傾げた。だがそれが形になるより早く、ストックの手が、レイニーへと伸べられる。
「だからお前も、マルコも、もう戦い続ける必要は無い。セレスティアで、穏やかに暮らせば良い」
レイニーはそれを、じっと見詰めた。誰かのために剣を振るい続けた硬い手、ずっと憧れていたそれが、真っ直ぐ彼女へと差し出されている。そしてレイニーは、ストックの顔を見た。そこにあるのは迷いのない、いや迷うことを自ら拒んだ、けして折れぬ強い芯だ。レイニーがその手を取れば、彼女もまたその腕の中に導かれ、安らぎに満ちた穏やかな日々を送ることができるのだろう。
「レイニー」
それはとても、とても甘やかな。抗いがたい、誘惑だった。
「……ストック」
だがレイニーは、両手を胸元で組んだまま、指の一本も動かすことは出来ず。ただ悲しげにストックを見て、そしてゆるりと、首を横に振った。
「ごめん。あたしは……逃げないって、決めたんだ」
自分の居場所を護るため、そして何より戦争で苦しむ人々を助けるために、戦い続ける。かつて悲劇を経験した自分だからこそ、二度と同じ涙を流させない。だから戦いに背を向けるわけにはいかない、例え想いを寄せた相手と過ごす未来が待っていようと、世界に背を向け一人だけ幸せになることなど許されないのだ。
迷いながら、揺らぎながら、それでも道を選び取ったレイニーを、ストックは何も言わず見詰め続けていた。伸べられた手がゆっくりと降り、身体の横にだらりと垂らされる。剣も持たぬ、何も無い空の両手が、何故か酷く寂しげに見えた。
レイニーは何も言えない、ストックも何も言わない、互いに無言で見詰め合っていた。潰れてしまいそうな沈黙の中、ストックの唇が、薄く開く。
「――そこまでだよ、ストック」
しかしそこから何かが発せられる前に、歩み出た彼の声が、虚ろな空間をを切り裂いた。一体いつからそこに居たのか、現れた相棒の姿に、レイニーの目が真剣なものへと変わる。
「マル」
「レイニー、よくやってくれたね」
「……マルコか」
レイニーとストックの間、彼女を庇うように立ったマルコへと、ストックが驚き混じりの鋭い視線を向ける。彼もまたストックの部下だ、しかし身に纏う空気の不穏さが、態度を硬化させているのだろう。それは正しい、実際マルコは、ストックの敵だ。
そして、レイニーも。
「バノッサさんと、無事接触できたよ」
マルコが声を向けたのは、レイニーにか、あるいはストックにか。何処に発せられたとも分からないその言葉に、レイニーは頷き、そしてストックはひくりと眉を上げた。
「……成る程。そういうことか」
聡いかれは、それで全てを理解したようだった。レイニーが時間を稼ぎ、その間にマルコが率いる部隊がバノッサに接触し、里までの同行を承諾させる。護衛として外部からの接触を弾いているストックさえ居なくなれば、バノッサの説得は容易だと、それがレイニーの提案した作戦だった。
初めから、全て、そのつもりだったのだ。
「君の負けだよ、ストック。バノッサさんは、ラウル中将達を族長に取り次ぐことを、快く了承してくれた」
「ああ、そうだろうな」
緑色の目を細め、自分に向かって立つレイニーとマルコを見る。温度の無いそれに、彼らはびくりと身構えた。しかしストックは、別段何をするでもなく、口元を緩やかな笑みの形に変える。
「大した手際だ……立派に、やっているじゃないか」
その表情が、言葉が。
本当に、心から嬉しげなものに感じられたのは、何故だったのだろうか。
「どうする? 今までのように接触した人間を始末するかい、それとも」
「既にバノッサの身柄は確保してあるんだろう。関わった人間が多すぎる、無かったことにするのは不可能だな」
一瞬の微笑を消し、諜報員としての顔を取り戻したストックが、無感動に呟く。危うい局面の筈なのに、焦りも怒りもしない冷静な気配崩そうとしない相手に、背筋が冷たくなるのを感じた。マルコも同じだろうか、視線を下に落としてみても、レイニーに彼の顔を見ることは出来ない。
「その通りさ。これで、ラウル中将はセレスティアを訪れることができる」
ただその声は冷静で、彼もまた戦いに生きる人間なのだと、聞く者に思い知らせてくる。それを受けたストックは、何故かまた少しだけ、冷たい顔に似つかわぬ笑みを浮かべた。
「セレスティアも、この戦いからは逃げられないよ」
「……それは、どうだろうな」
追いつめた筈なのに消えない、その奇妙な余裕に、彼らの胸がざわつく。マルコの気配が微かに揺らぎ、その拳が握りしめられるのが、レイニーに感じられた。
「セレスティアがどう動くのは、決めるのはバノッサじゃない」
「サテュロス族の族長、ベロニカさんだね。だから彼を説得するために、ラウル中将と……彼らが行くんじゃないか」
アリステルを率いるラウル、そして世界の命運を握るエルーカの言葉を聞いて、それでも里を閉じ続ける程サテュロス族は愚かではないだろう。それでもストックの顔に焦りは見られない、得意の鉄面皮で内面を押し隠しているのか、それとも本当に気にする程のことではないと考えているのか。
「ベロニカさんは正しい判断をすると思うよ。ストック、君も諦めた方が良い」
「……まだ、そうと決まったわけじゃない」
かつりと、足音が響く。踏み出されたストックの歩みに、レイニーとマルコは身体を硬くし身構えた。各々の武器に手をかけた彼らの横を、ストックは何の反応も示さぬまま、極普通の調子で通り過ぎていく。
「ス……ストック?」
「現状確かなのは、会談の席が持たれることだけだ。話し合いが決裂すれば、話は振り出しに戻る」
淡々と語るストックの横顔が、レイニーの前を横切った。真っ直ぐに前を見詰める彼の視界に、もはやレイニーもマルコも映っていないのではないかと、そんな感慨がふと胸を兆した。
「……でも、君はそれに介入出来ない。後は座して待っているしか無いよ」
「そう思うか?」
それでも、マルコの声に、ストックは振り返る。かけられた言葉に対する本能的な反応なのかもしれない、それでもストックはレイニーとマルコを見て、そして少しだけの笑みを浮かべた。
「俺達が里に入ってから、どれくらい経ったと思う。いつまでも、単なる部外者ではいない」
それは確たる自信だった、普通であれば進む道を失った状況を、何度も切り拓いてきた男の持つ強さ。諦めという言葉は彼から最も遠く、どれほどの策を巡らせようとも、けして敵わないのではないかという恐怖を相対する者に抱かせる姿だ。何かを言わなければ、そう思っても言葉が出てこない。喉に張り付いた声を表に出来ず、ただ視線を投げるばかりの二人に、ストックの笑みが深くなった。
「お前達は良くやった。だが……俺も、負けるわけにはいかないんだ」
それだけを言い捨て、ストックは踵を返して、再び歩き出す。もう振り向こうとはしない、靴音を響かせて去っていく彼を、レイニーもマルコも呼び止めることはせず、ただ呆然と見守ることしかできなかった。
やがて赤い色が視界から消え、靴底が床を叩く音も聞こえなくなる。残された気配が完全に消えて、それでようやく彼らは、大きく息を吐いた。
「……レイニー。よく頑張ったね」
「うん。マルも……」
マルコが振り向き、レイニーを見上げた。見慣れた丸い目に宿った優しい光に、レイニーの身体から力が抜ける。
「少しだけ、心配してたんだよ。ストックと一緒に行っちゃうんじゃないかって」
そう言われて、レイニーは苦笑を浮かべた。そしてふと気づいて、握りしめていた槍の柄を離す。
「正直言うとね、ちょっと危なかった」
想いを寄せた相手と、平和に暮らしたい。その願いは、確かに強く、彼女の中に存在する。手を伸ばせば届くところにあるその光景を、振り切ることが出来たのは、きっと共に戦ってきた彼のおかげだ。
「でも、あたしの居場所はここだからさ」
いや、彼だけではなくラウル中将、ビオラ准将、そして数多くの兵士達。彼らを背にして自分だけ安穏としては居られないと、そう思えたからこそ、ストックと共に歩む未来へと踏み出せなかった。
戦いが好きなわけではない、だからそれを捨てる道を選ばなかったことへの後悔は、確かにある。それでも、ストックの手を取ればそれ以上の苦悩が待っていると、何処かで分かっていた。背後で響く悲鳴から逃げることは出来ない、耳を塞いでも聞こえるそれに、いつか押し潰されてしまうことに気付いていたのだ。
「……ねえ、マル。ストックはこれから、どうするんだろうね」
ストックは、それが分かっているのだろうか。冷たく見えて優しい心を持っている人だ、どれほど世を憎んだとしても、全ての存在を切り捨てることなど出来ないだろう。
「分からない……セレスティアに戻って、中将とベロニカ族長の話し合いを、妨害するつもりなのかな」
「うん……」
差し出されたストックの手を思い出す、あれはレイニーとマルコを守るためではなく、彼自身が救われたくて伸べられたものだったのかもしれない。きっとストックは、自分の間違いをを理解している。それでも止まれなくて、だから誰かに肯定して欲しくて、彼らに縋ったのだ。
「世界は、どうなるのかな」
レイニーの呟きに、マルコが空を見上げた。
「さあ、どうなるのかな。何もかも上手くいくのかもしれないし、今回の作戦も失敗して、そのまま滅びてしまうのかもしれない」
「……そうだね。でも、これで戦いが終わらなくて、大陸が砂になっちゃうとしても」
レイニーもつられて、視線を上に移す。薄青い空の中に、美しくも無い灰色の雲が、疎らに浮かんでいる。一大決心を成し遂げた後だというのに冴えない光景だ、だがそんなものなのかもしれない、世の中なんて美しいだけのものじゃない。
「あたし達は、精一杯のことをやったよ」
「うん……そうだね」
美しいだけじゃない、楽しいだけじゃない、醜くて辛くてそれでも愛おしい。そんな当たり前のことを、ストックは覚えていてくれるのだろうか。今ここに彼が居てくれればいいのにと、レイニーは強く思った。いつかのように同じ光景を見続ければ、再び心を通じ合わせることも、出来るかもしれないのに。
「救われると良いね」
世界が。そして、ストックが。
レイニーの祈りに、マルコは何も言わず、静かに頷く。それきり二人は何も言わず、ただ空を見上げながら思いを巡らせていた。――そこに浮かんでいるのは、希望か絶望か。
未来はまだ、闇の中に隠されたままだ。


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セキゲツ作
2012.04.10 初出

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