今までのところは、概ね上手くいっていると言っていい。
グランオルグもアリステルも、互いに喰らい合うことに忙しく、セレスティアに手を伸ばす気配はみられない。特にグランオルグは、戦線を維持するのに精一杯で、態々遠いセレスティアにまで戦火を広げる余裕を完全に失っている。アリステルの、いやラウルの沈黙は不気味だが、彼が目指しているのは結局のところアリステルの勝利だ。慎重な彼のことだ、自力で勝てる見込みがあるうちは、危険を伴う強硬な手段は取らないと予測できる。安全策として繋ぎを取っておこうとはするかもしれないが、一人や二人の間者なら、ストックや自警団の手で始末することが十分に可能だ。それこそ大人数の、隠しきれない規模でもって亡命を求められるのではないかぎり、存在を公にされることはないだろう。不安が無いわけではないが、今出来る対策は全て行っている、後は天命がこれ以上の残酷にならないの祈るばかりだ。それが通じているとも思えないが、幸いにして今のところ、彼の平穏は破られずに続いてくれていた。セレスティアは平和だ、戦争は何処か遠い世界の出来事で、結界に護られた人々は未だ穏やかな安寧に微睡み続けることが許されている。
まだ油断はできない、だがそれでも、概ね上手くいっていると言っていい。何よりロッシュがここに留まることを承知してくれたのだから、最大の障害は乗り越えたと言えるだろう。今になって彼の心が目覚めたのは完全に予想外だった、以前はあれほど手を尽くしても叶わなかったことだが、それを望まぬようになってから起こるとは不思議なものだ。やはり彼の魂は戦士のそれなのだろう、例えストックが手を貸さずとも、立ち直るだけの時間を置けば戦場へと戻るように方向付けられているのだ。そのこと自体が嬉しくないわけではない、むしろ親友として共に戦いたいと願ってくれていたのには、心が震える程の喜びを覚える。やはり彼らは親友なのだ、ストックの側でもロッシュと共に戦えればと、考えないわけはない。以前のように背を預け合えればどれほど幸せだろう、だが今となっては、それを許すことは出来ないのだ。ロッシュの命は未だ危険に晒されている、ヒューゴを殺したところで死の運命を完全に回避出来たとは思えず、戦場に立たせればまた死が彼を捉えてしまう可能性が高い。一時の感情に流され、その結果としてロッシュの命を失ってしまったら、今度こそストックは自分で自分を許せなくなる。時を遡ればいいという話ではない、どの歴史のロッシュも護りたい、それがストックの願いなのだ。だから、如何にロッシュが望んでくれても、またストック自身がそれを切望しているとしても、ロッシュを自分の隣に立たせるわけにはいかない。少なくとも、周囲から戦いを排し、ストックが戦場から去るまでは。
思考を巡らせながら、ストックは結界樹を見上げる。セレスティアに来た頃、ロッシュが何かを思い立ち尽くしていた場所に、今立っているのはストック一人だ。このところ、ロッシュが結界樹の前に佇むことは殆ど無くなっていた。考え込む暇も無く動き回っているのだろうか、そうならば良い傾向だ、暗い思考に支配される時間など少ないに越したことはない。絶望が満ちた過去など捨て、この里で新たな人生を築いていってくれるのならば、それが一番だ。
もっともロッシュの側でも、ストックに対して同じようなことを思っているのかもしれないが。里に漂う噂によればロッシュは、どうやらストックをバノッサ達の護衛任務から外すために、方々に働きかけてくれているらしい。何故唐突にそんなことを始めたのか、その意図ならば容易に察することが出来る。ロッシュは先日、ストックが里を護るために、暗殺という手段を用いていることを知った。それが理由だろう、ストックが情報部に所属していることすら否定的だったのに、暗殺など危険で後ろ暗い行為を許せる筈がない。その場で否定しなかったのは優しさだろうが、だからといって彼がそれを受け入れたなどとは、ストックとて思っていなかった。態々思い出すまでもない、分かれた歴史の根本で彼は、情報部に居るストックを心配して自分の隊へと引き抜いてくれている。直接の否定をぶつける前に、間接的な手を伸べて共に戦おうとしてくれる、彼はそういう男だ。優しい、男なのだ。
その気持ちが嬉しくない、といえば嘘になる。彼の信義にもとる手段を選んだストックを、それでも見放すことなく護ろうとしてくれるのだから、嬉しくないなどは有り得ない。そしてその想いに応えたいという気持ちもまた、ストックの中に間違いなく存在する。今はまだ許されない、しかし彼らの上に広がる脅威を全て切り払うことができたら、それは只の夢想では無くなる筈だ。戦いを終えてストックが戦場を去れば、ロッシュやソニアと共に平和な時を刻めるようになる。ロッシュが戦場に戻らずとも、ストックが剣を置けば、再び二人で肩を並べることができるのだ。胸中に兆した希望に、ストックは一人静かな息を吐いた。新たに目指すべきことが見えた、共に過ごす日々を勝ち取るため、戦争を終わらせる。セレスティアに飛び火する争いの源を絶てば、ストックも暗躍を止め、戦いから手を引くことが出来る。勿論明確に伸ばされる悪意への警戒は常にしておかなければならないが、それ以外に大きく影響する力を消すだけでも、危険は遙かに減らせるだろう。何より暗殺などという行為を止めることができる、自分の手が汚れるなど今更どうでもいいことだが、ロッシュがそれを厭うとなれば話は別だ。彼を護ると誓った、それは生命を奪わせないという意味においてのことだが、だからといって生きてさえいれば良いわけではない。大切な親友なのだ、要らぬ心労などの無い、幸せな生を送って欲しいに決まっている。
ストックの身体に、結界樹を伝って降りる風が吹きつけた。冷たくはあるが心地よいそれに、ストックは目を細める。ここは良い場所だ、空気は澄み水は清らかで、何より争いから遠い。この平和を護ろうと、今までは両国の均衡を保つことを目的としていたが、そろそろ根本的な解決に向けて動く時期なのかもしれなかった。戦争を終わらせる、そのためにストックが取れる現実的な手段は、どうしても限られたものになってしまうのだが。ストックに出来るのは血を流すことだけだ、アリステルとグランオルグどちらかの指導者を消せば、戦局の均衡を崩して決着へと導くことができる。非難されるべき行動なのは分かっている、だがたった一人で国の趨勢に影響を与えようというのだ。馬鹿馬鹿しい程に規模の大きなその仕事を成そうと思えば、行為の善悪を考えてなどはいられない。
最も効果的なのは、人材が薄く独裁に近い編成となっているアリステル軍を叩くことだが、これは出来れば避けたい選択肢だった。現在アリステルを率いているのはラウル中将、彼はロッシュの元上司だ、そんな男が死ねばロッシュがどう感じてしまうか。ただ嘆くだけなら良いが、思い詰めた結果として、ラウルの遺志を継ぐためにアリステルへと向かいかねない。戦争を終わらせるのが目的なのではない、ロッシュを戦場から遠ざけるのが目的なのだから、如何に早道と言えどラウルの暗殺は躊躇われた。となると必然的にグランオルグが対象になる、しかし貴族制をとっているグランオルグは支配者層が厚い、一人や二人を消したところで大局に影響を与えるのは難しい。だがそれが唯一の選択肢ならば、そうする他ないだろう。
考え込むストックの頭を冷やすように、再び風が吹き付けた。冷たさを感じて微かに身を震わせる、見ればどれくらいの時が過ぎたのか、日も傾き始めていた。そろそろ戻らねばならない、何せ彼には、心配性の親友達が居るのだ。思索を止めて結界樹に背を向け、歩き出したストックの口元には、誰に見せるでもない柔らかな笑みが浮かんでいる。
しかし、その笑顔が在ったのは、ほんの一瞬だけだった。
「……っ」
背後、つい先ほどまで真っ直ぐに向いていたはずの方向から凍り付くような気配を感じて、ストックは瞬時に身を翻す。掻き消えた笑顔の代わりに生じた刃の鋭さが、数瞬前は確実に存在しなかった姿を刺し貫いた。
「貴様……ハイス!」
同時に抜き放たれた剣が、木漏れ日を受けてぎらりと光る。剥き出しの警戒を向けられたハイスは、何故か奇妙に嬉しげな顔で、ストックを見詰めていた。
「久しいな、ストックよ」
「……何をしに来た」
親しげに話しかけられてもストックの態度は変わらない、これが唯一の意思とばかりに武器を示してみせる。強烈な敵意の内には、しかし隠し切れぬ焦りがあった。セレスティアの結界を突破するのは、ハイスといえど不可能だと思っていたのだが、あまりに楽観的に過ぎたようだ。「そう睨むことも無いだろう。元とはいえ上司の顔だ、見られて嬉しいとは思わんのか?」
対するハイスは、剣を向けられているというのに全く動揺した様子も無く、底知れぬ笑みを浮かべるばかりだ。間合いを計りつつ距離を取るストックに、敵意の無いことを示すように、大きく手を広げてみせる。しかしストックは掲げた剣を下ろそうとしない、ぎらつく銀光をちらりと見て、しかしハイスは気にせず唇を歪めた。
「まあいい、元よりお前に愛想など求めてはおらんからな」
「何をしに来た、と聞いている。答えろ、ハイス」
ストックが知る限り、現在のアリステル中枢に、ハイスの影は無い。ヒューゴの失脚と共に姿を消した彼が、今何を目的として動いているのか、ストックには分からなかった。ただ彼は黒の力の持ち主、今まで散々ストックの道行きを妨害してきた相手だ。今回もまた同じことを繰り返そうとしているのだろうか、里の平和を乱し、ストックの望みを砕こうと。
「くくく、そう殺気立つな……」
ぐるりと巡るストックの思考など、ハイスはとうにお見通しなのだろう。宥める、というよりは揶揄する調子で紡がれる言葉は、恐らくは彼の意図通りストックの神経を逆撫でるばかりだ。
「安心しろ、ワシはお前の敵ではない」
しかしそれでも、言葉の内容ばかりは有効的で、その違和感は本能的な嫌悪感を呼び起こしすらする。引き締められた顔が、さらに険しくゆがめられるのを見て、ハイスはまた楽しげに笑い声を立てた。
「……ふざけるな。今まで貴様が何をしてきたと思っている」
歴史の中で繰り返された親友の死、それを導いてきたのは黒の力の持ち主、つまりハイスだったのだ。グラン平原でロッシュ隊が壊滅したのにも、ストックがロッシュを殺すことになってしまったのにも、全てハイスの影があった。出来ればこの場で消してしまいたかったが、彼の実力はストックのそれを越えている、容易に始末できるものではない。
「今までは、な。しかしもう良いのだ、ワシの目的は果たされた」
しかしいくらストックが戦意を誇示しようとも、ハイスは一向に応える様子を見せず、言葉通りに穏やかな気配を崩さぬままで居る。その態度に、ストックもさすがに違和感を感じて、訝しげに眉を顰めた。
「……目的?」
ハイスがロッシュ隊を害していたのは、ストックを情報部に戻すためだった筈だ。今の状態でそれが果たされているとは思えない、ストックはセレスティアに留まり、ハイスの顔など見る機会すら無い日々を送っている。
ならばハイスの言う目的とは、一体。
「お前が知る必要は無い。知らずともお前は、正しい選択をしたのだからな」
笑いながらハイスが発する、その言葉が示す真実を、今のストックが知ることは出来なかった。だがストックが如何に問いかけようと、ハイスに応える意思は無いだろう、今もただストックの顔に浮かんだ不愉快を楽しげに眺めるばかりである。
「いや、当初の目論見とは違ったが……しかし結果としてお前の出した結論は、ワシと同じものだった。そう、やはりワシは正しかったのだ」
ハイスの機嫌は良い、それこそ今まで一度たりとて見た覚えが無い程の上機嫌で、瞳を光らせている。それがあまりにも不気味で、ストックは手にした柄を固く握りしめた。
「だから、安心しろ。ワシはこの里にもお前の大切な親友とやらにも、けして手を出さんよ」
「……信用できるか」
「だろうな、まあ、それでも構わん。ワシはただ、ワシの意思を伝えに来ただけだ」
そして話を続けるハイスに、前動作を全く廃した滑らかな動作で、斬撃を叩き込む。必殺となるべきそれは、しかし届く寸前で目標を見失い、虚空を斬り裂くのみに留まった。斬り裂かれる筈だったハイスの身体は、一瞬視覚での認識から掻き消えた後、僅かに後退した位置に姿を現す。二度三度と繰り返しても結果は同じだ、最後には完全に視界から消える、と思った瞬間背後に気配が生じた。
「そう血に逸ることもあるまい」
慌ててストックが飛び退るが、ハイスはそのまま動かない、置かれる距離をそのままにストックを眺めている。結果として相対の位置は変わらず、ただ互いの立つ場所を交換した状態で、先程と同じように向き合って立ち尽くすこととなってしまった。ストックは呼吸を落ち着かせながらハイスの様子を観察する、どうやら本当に戦うつもりは無いらしい、だがそれならば真意は何だ。今まで散々剥いてきた牙を今更になって納める、どんな理由があるというのか。ハイスの表情は読めない、情報部に居た時から考えの読めぬ男であったが、今は尚更に真意が分からなかった。
「……そうだな。一つ、お前に問おう」
ストックの、無遠慮過ぎる注視を受けながら、ふとハイスが呟いた。顔に浮かんだ笑みに似た形と、一筋も逸らされることなく向けられる視線に、寒気を覚えて身構える。
「お前は、この世界をどう思う?」
ストックは答えない、返される無言を、しかしハイスは気にした風もない。表情を変えず、調子を変えず、ただ淡々と言葉を続ける。
「本来ならば差異など無い筈の生命、それを踏みにじることでようやく正しい姿を保つ、ここはそんな世界だ」
ストックは答えない、答えることが出来ない。ただじっとハイスの様子を伺っている、その弱さを嘲るように、ひたすらに言葉が積み重ねられる。
「この世界は歪んでいる。世界のためなどという大義名分で、ただ一人が苦しめられるなど、許して良い筈がない――そう思わんか、それともお前は」
ハイスの目が、ひたりとストックに合わせられた。醜く突き出した鼻の上、考えの読めぬ深さを持つ瞳が、ストックを飲み込もうとじっと向けられている。
「世界を存続させるためならば、人一人が犠牲になることなど当然と、そう言うのか? この世界の残酷さを知り、それでも犠牲を払って護るべきだと、そう主張できるのか?」
だがそれは錯覚だ、彼の思いは確かに強く感じる、しかしストックのそれを凌駕出来る程ではない。ストックの心は、けして揺るがぬ、迷いを知らぬ強さでここに存在する。
「…………いや」
だからストックは、僅かな躊躇いの後、ついに答えを口にした。
「そんなことは出来ない。世界のために一人を犠牲にしなければならないのなら、俺はそんな世界は要らない」
そうだ、ロッシュを犠牲にしなければ開かない扉など、開ける必要は無い。それで世界が滅びるとして一体何が問題なのだ、ロッシュの生命を捧げて、彼が居なくなった世界など何の意味も無いのに。ずっと以前に選びとった道、改めてそれをストックは見据える。これが正しいのかどうかなど知らない、だが例え間違っていたとしても、自分が選ぶべきはここなのだと。
揺るぎ無い意思で語られた言葉を、一体どう受け取ったのか、ハイスの表情が歓喜を表す形に変わった。
「そうだ、その通りだ、その通りだとも。人は誰しも生きる権利がある、世界のためだからといってそれを踏みにじるなど、許される筈が無い」
笑い出しそうに浮かれたハイスの内心は、ストックには分からない。だがハイスの言葉が彼の本心そのものであり、ストックを油断させるための虚構などでは無いことだけは、はっきりと伝わってくる。
「ワシは間違っていなかった、そうだ、お前は好きに生きるが良い。その権利があるのだ、お前にも、そしてワシにもな」
目的、それが何かは分からない、だが確かに果たされたのだろう。だから彼はストックの前に姿を現した、もう二度とストックに、そしてロッシュに手を出したりしないと態々宣言するために。勝ち誇った様子で口元を歪めるハイスに、ストックは眉を顰め、内心の不快を示してみせる。
「……ハイス。お前はこれから、どうするつもりだ」
ハイスの目的など知ったことではない、だが万が一にもこれから先、再びストックの道を遮られることがあったら。相手は黒示録の使い手であり、ストックを越える実力の持ち主だ。一介の軍人や情報部員とは訳が違う、ストックがどれほど力を尽くそうとも、真っ向からの勝負となれば防ぎきることはできないかもしれない。ならばやはりこの場で、そう考えながら指に力を込めたストックを、宥めるようにハイスが両手を上げてみせた。
「どうもしないさ。言っただろう、ワシはお前の敵ではない、とな」
「ふざけるな、そんな言葉が信じられるとでも思うのか!」
「ふむ、過去に捕らわれるなどとは、お前らしくもない。過去を捨てたからこそ、お前は今こうしてここに居るのだろうに」
その台詞には反駁出来ず、ストックは言葉を飲み込んだ。確かにストックは過去の縁を、出会って関わった人々を、彼らが住む世界を見捨ててこの里だけを護っている。
だが、その事実と目の前の男とは、関係が無い。護るものを限ったからといって敵が減るなどということはない、これまでの敵はこれからも敵であり続けるのが道理だ、だから。
「――貴様がこれから俺達を害さない保証は、何処にもない」
言い放ったストックに、ハイスは肩を竦めてみせた。その顔にはきかん気の子供を見るような、異様に穏やかな色が浮かんでおり、ストックは嫌な感覚に表情を歪ませる。
「やはり、お前は頑固な男だ。……まあいい、元より信じる信じないは問題ではない」
「待て、ハイスっ!」
にやりと笑みを浮かべ、踵を返して去ろうとするハイスに、ストックは慌てて呼びかけた。斬りかかるべきか一瞬躊躇う、その隙にハイスの姿は雷光に似た閃きを纏い、瞬時にして視界から姿を消してしまう。
「……自由に生きるが良い、呪われし同胞よ。そして世界の終わりを、その目に焼き付けるのだ」
視界に入らぬ何処かから、梢を吹き抜ける風に乗せて声が届いた。ストックは慎重に周囲を探り、完全に何の気配も感じられなくなったのを確認すると、ようやく剣を鞘に納める。ハイスの意図は分からない、彼は確かにストックに、そしてロッシュに対する害意を持たないようだった。これまで彼がしてきた行為を考えれば、あまりに極端な態度の転換と思えるが、その真意は一体何処にあるのか。分からぬ男だ、出来れば排して安全を確固たるものとしたいが、彼我の実力を思えばそう上手くはいかないだろう。ハイスが姿を隠せばストックがそれを追うのは難しい、あるいは彼に悪意があれば、追跡の間守り手の失せた里に忍び込むことは容易だ。そうなれば残された親友達は、身を護る術も無く彼の牙に晒されることとなる。
不安は残るが、刺激しないのが一番なのかもしれない。敵ではないという発言が彼の真実を表しているのならば、用心を過ごして剣を向け、その心を翻させる方が危険だ。
「……世界の終わり、か」
ハイスが残した最後の言葉を、ストックは繰り返した。やはりそれは来るのだろう、長い旅が始まるその場面で、不思議な双子が予言した終末。あるいは別の歴史で行動を共にした王女が語っていた、続く戦争の末路。それを防ぐためにストックの旅が在るのなら、彼が可能性の扉を開かない限り、未来に希望は有り得ない。ストックは振り向いて、結界樹を仰いだ。セレスティアは平和だ、深い緑に囲まれ、争いからも遙かに遠い。それは一体いつまで続くのだろうか、世界の全てが砂に呑まれるのならば、結界の内とて滅びから逃れる術は無い。
だが、長い悪夢の末にようやく手に入れた安寧を、ストックは手放す気になれなかった。例えいつか砕けるものだとしても、それは今ではない。少しばかりの希望を追うために、大切な命を危険に晒すことは、もう出来なかった。理解はしている、穏やかに過ぎてゆくこの時間は、けして無限に続くものではない――だからこそ、尊い。
ストックは息を吐き、瞼を閉じた。心臓が大きく脈打っている、身体を動かしたわけでもないのに勝手に高くなる鼓動に、違和感を覚えて眉を顰める。何があったと、自らの身の感覚を探ろうとして、ふとそれに覚えがあることに気付いた。
「これは……」
瞳を開き、戸惑いと共に懐に手を差し入れると、そこに潜ませていた一冊の本を取り出した。白示録、もう開くこともなくなった魔動の書が、鼓動に合わせて白い光を零している。開くべきか、瞬間躊躇ったストックの手から書がすり抜け、自律する能力を得たかのようにふわりと浮き上がった。
「っ……」
表紙が開いてひとりでに踊る頁、そこから溢れだした鮮やかな閃光が、ストックの網膜を焼く。反射的に瞼を閉ざしてそれを遮り、そして数秒の後に薄ら開いた目が映し出したのは、予想していた通りヒストリアの案内人達の姿だった。
「久し振りですね、ストック」
宙に浮かぶ白示録を挟んで立つ双子の片割れが、小さく可愛らしい口を開いた。穏やかな表情と口調、その姿だけを見れば、ストックが歴史を旅していた時と何ら変わるものではない。
「随分長い間、会っていない気がするよ」
こちらも相変わらずな、拗ねた子供のような顔をして、ティオが言葉を紡いだ。ストックもまた、以前と何ら態度を変えるでもなく、淡々とした無表情で肩を竦めた。
「そうだな。……何をしにきた?」
彼らがこちらの世界に姿を現したのはこれが初めてではない、二つの歴史が行き止まりに突き当たった時、度々案内人はヒストリアから顔を出してストックに道を示してくれていた。しかし今は進むべき道を失ってなどいない、目的は順調に遂げられ道は真っ直ぐに伸びている、その筈なのだが。
不思議そうに自分達を見詰めるストックに、ティオは子供らしからぬ老成した表情を浮かべて、じっと視線を注いだ。
「別段、何というわけでも無いよ。ただ最後に、顔くらいは見ておきたいと思ってね」
「……最後?」
「ああ、君はもうヒストリアに来る気は無いようだから」
皮肉げ、ではなく皮肉そのものなのだろう、ストックを冷たく見ながらティオが言い放つ。リプティには弟ほどの表意は見られない、しかし同様の冷たさが、彼女を取り巻く空気から感じられた。
「ストック。あなたは、この歴史が正しいと思いますか」
抱えた思いを直接的に示すには、彼女は賢く過ぎるのだろう。投げられた問いは、恐らく彼女の言いたいことそのままではない、それを契機としてストックに何かを察して欲しいのだ。
「……ああ」
ストックはそれを正しく理解している、しかし返す言葉は、彼女が望むものではない。
「俺の大切な者達が生きている、そしてこれから死ぬ恐れもない。正しい、と言っても構わないだろう」
ストックが予想した通り、彼の発した言葉に、双子ははっきりとした失望を覚えたようだった。幼い顔立ちに暗い色を浮かべ、互いに顔を見合わせ、そしてまたストックに視線を戻す。
「その結果として、世界が滅びたとしてもかい?」
彼らの目的は、最初から一貫していた。ストックが白示録の力に目覚めた時に言っていたのだ、世界が滅びぬための道を探れと。だがそれは彼らの希望ことであり、ストックのそれではない。
「知ったことか。例えこの大陸が砂に呑まれるとしても、何故俺一人が抗わなくては」
言葉にした瞬間、胸の奥がぎしりと軋んだ気がした。由来の分からぬ痛みに、ストックの脳裏に何かが蘇りそうになるが、しかしそれを追い求めることはせずに首を振って追い払う。
「ならないんだ……親友を、犠牲にしてまで」
「しかしそれは、一時のことです。ロッシュは本来死ぬべき人間ではありません、正しい歴史を導けば、そこで彼は生きることが出来ます」
「そしてまた死ぬのか、歴史を正すために」
「……落ち着いてください、ストック。彼の死は運命づけられたものではありません、あなたの力で回避できる」
「だがその為に、俺はあいつを殺さなくちゃいけない!」
激情が突き上げるままに、ストックは叫んだ。血の臭い、白い顔、力無く消えてゆく声――そして感触。彼の身体に剣を突き立て、肉を裂く、けして忘れられない感触。世界のためにと、進んだ道に待っていたのは、消えない悪夢の源だった、それを再び乗り越えろなど。そして同じ道を、これからも歩み続けろなどと。
「そんなことは出来ない、あれをもう一度繰り返してまで世界を救おうとなど思わない。あいつを失わなくては救えない世界なら、そんなものは要らない」
叩きつけるようなストックの言葉に、双子はまた顔を見合わせ、視線を交わした。ストックはそれを見詰めている、激昂しながらも心が静まっているのは、彼らが何ら実際的な対抗手段を持たぬことを確信しているからだろうか。ヒストリアの案内人が出来るのは助言のみ、ストックの行動を強制することは出来ない。それは彼ら自身が語ったことだが、けして嘘ではなく真実を語っていることを、ストックは確信していた。
もし何かが出来るのならば、今この時や、これまでにストックが浪費してきた時間の間に、何らかの働きかけを行っていないはずが無いからだ。
「だが、彼は今、戦いに心を向けている。アリステルに戻り戦う力を取り戻させれば、本来とは違う形でも未来は繋がるかもしれない」
彼らに出来るのは、ストックの心を翻そうと、こうして言葉を紡ぐことだけだ。力を持たぬ子供達の精一杯の抵抗を、ストックは冷笑に近い表情で受け流した。
「そうだな、そしてまた何処かで命を落とす。戦場に居る限り、ロッシュの命は危険に晒され続けるんだ」
「……彼が再び命を落としたとしても、あなたが動くことで、救うことが出来ます」
「それでも死は死だ。どの歴史のロッシュも、ロッシュであることに変わりは無い、俺はもうあいつの死を見るのは御免だ」
例え取り戻せるものであっても、尊さが減じるわけではない。失われる命を目の前で見せられる、繰り返されたその悲劇は、ストックの心から確実に強さを奪い取っていた。目の前に耐え切れぬ悲しみが待つのを知って、それでも尚世界を救う意志を保ち続けるのは、いかにストックといえど難しいことだった。
「今まで何度、あいつは死んだ? これから何度死ねば良い? ……今ここは平和だ、俺がこのまま歴史を変えなければ、ロッシュはこれ以上死なずに済む」
「そうだね、でもこのままだと遠からず世界は滅びる、その時になったらロッシュだって無事では居ないよ」
「だが、少なくとも世界と同じだけは生きられる。世界のための犠牲にされることはない、それで十分だ」
それが、ストックの出した結論。無知故の盲目ではない、世界の現状と行く末を知った上で選び取った、己の進むべき道だった。それは双子に示されたものとは完全に異なる、むしろ真逆と言っても良いもので、だからこそ双子はそれを翻意させるべくこうして姿を現したのだろうが。
「世界を救うためなどと、そんな目的に捕らわれるから、大切なものを取りこぼしてしまう。俺はもう間違えない、この手に入るだけのものしか護らない、そうすればこれ以上失わずに済む」
だが、背を合わせた親友その人の言葉でも変わらなかった決意が、案内人程度の言葉で覆る訳がない。迷い無く言い切ったストックの、抱える想いの堅さは、双子にも正確に伝わったようだった。その表情は何も変わらない、眉のひとつすら動かぬにも関わらず、そこにどんな感情があるのかがストックには分かる。
彼らは何故世界を救いたがるのだろう、ふとストックはそんなことを思った。そもそも彼らは何者なのか、ヒストリアという特異な場所に住み、ストックには見えぬ歴史の果てまでを見渡しているかのような奇妙な子供。彼らは全てのを語らない、そしてこれからも語ることはないだろう、少なくともストックが彼らの強いた道を降りた今となっては。
「……そうですか。残念です、ストック」
この大陸が砂に呑まれたら、彼らはどうなるのだろうか。世界が滅亡すればヒストリアもまた崩壊するのか、それとも訪れる者の無い世界で、永劫を生き続けるのか。訪ねてみたいと思ったが、そうしたところで答えてもらえる気はしない。
「君ならば、正しい道を進んでくれると思っていたんだけどね。……残念だよ」
疲れたように呟くティオの姿が、徐々に薄くなっていく。時間が過ぎたためか、それとも彼らに留まる意思が無くなったのか、どちらにしろこのままヒストリアに戻るのだろう。そして二度と会うことはない、万が一ストックの手が及ばず、この歴史のロッシュを失わない限りは。それが僅かに寂しく感じる程度には見慣れた顔だが、しかしそうさせないために何らかの働きかけを行う程に愛しいわけではない。
「ストック。……さようなら」
消え失せる寸前にリプティが発した言葉、せめてそれに応えようと開いた口から、言葉が発せられる前に。
「…………」
完全に双子は消え、後に残されたのは、未だ僅かに発光する白示録のみとなった。支えもなく浮いたそれは、ストックが手を伸ばすと、独りでに頁を閉じて掌に収まる。発光も無くなり、ただの本の様な顔をしている時を渡る書を、ストックはじっと見詰めた。もう使うことも無いであろうものだが、何故か捨てようという気にはなれない。この歴史でも起こりうる『もしも』に備えてか、それとももっと別の理由か、ストック自身にも全てを説明することはできない。
表紙を開き、頁をぱらぱらと捲る。ストックの意思が伴わない今は、ヒストリアへの扉が開かれることもなく、ただ記された道程が見えるだけだ。枝分かれするそれらが途切れた一点、今彼が居る歴史を示す位置を、ストックはそっと撫でた。
「正しい歴史、か」
本当はそんなことはどうでも良いのだ、正しかろうが間違っていようが、護るべき命がこの手の内にあれば。それが誰かにとっての悪だとしても、今更躊躇いはしない。口元に浮かんだ笑みは一体何を嘲笑っているものか、誰も分からない、ストック本人にすら理解できていない。そもそも彼は、果たして自分が笑っていることに気付いているのだろうか。誰より広い視界で世界を見詰め、己の思う通りに操るストックでも、自らの姿を把握するのは難しい。自分が今どんな顔をして、どんな行動をとっているのか、本当はストック自身も分かっていないのかもしれない。
彼は白示録の表紙を、ぱたりと閉じた。そうして閉ざされた可能性の扉を、知る者は居ない。誰も知らぬまま、誰にも止められぬまま、世界は滅亡へと向けて進み続けている。

それを導くストックの姿は、彼自身は知らぬ彼の叔父と、とてもよく似ていた。


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セキゲツ作
2012.03.17 初出

RHTOP / RH-URATOP / TOP