バノッサに礼を述べ、一座が休む宿屋を辞した後、ロッシュはぼんやりと思考を巡らせながら里の中を歩き始めた。心を落ち着けたい時、考えごとがある時は結界樹の前で佇むのが彼の常が、今そこに行くわけにはいかない。バノッサが戻ると同時に里に戻ってきたストックは、きっとロッシュを探しているだろう。いつも時間を過ごしている場所に居ては直ぐストックに見付かってしまう。親友から逃げるような行為は躊躇われるが、ロッシュ自身の思いが落ち着くまでもう少し、彼と話すわけにはいかない。バノッサに聞いた外の情報は、予想していたことではあったが、ロッシュの中に戸惑いと混乱を引き起こしていた。結界の内に生きるサテュロス族と違い、外で活動するのが任のバノッサは、さすがに把握している情勢の精度が違う。求めていた情報もそれ以外も、問うがままに様々なことを教えてくれた、恐らくはそれがロッシュにどんな影響を与えるかも分かった上で。
すれ違ったサテュロス族が、険しい表情で前を見据えるロッシュに不思議そうな目を向ける。しかしロッシュは、それにすら気づかぬ程、ひたすら己の考えに没頭していた。新たに知った外の状況、それは今まで親友が伝えてくれていた姿とは、随分と姿を異にしている。未だに戦争は続いている、しかしアリステル国内はヒューゴ亡き後、軍を率いるラウルの手によってほぼ完全に落ち着きを取り戻しているというのだ。
『見事な手並みです、トップが交代したばかりとは思えない』
つい先程聞いた言葉が、頭の中を過る。アリステル軍は未だ混乱を残しており、ロッシュが戻るのは危険だと、ストックはそう主張していたのに。時間が過ぎて情勢が変わった? そうかもしれない、だがそうだとしても、それをロッシュに告げないのは何故か。アリステルに戻ればガントレットが修理できるかもしれないと、ストックも承知している筈なのに、それでも尚ロッシュをセレスティアから動かそうとしないとは。――そして、バノッサが告げた、思いもかけぬ情報。
「……どういう、つもりなんだよ」
おかしいことは、もう大分前から感じていた。何がと具体的に示すことはできない、だが親友の様子が以前と変わってしまったのを、ロッシュの感覚はずっと訴え続けている。彼が今ロッシュに注ぐ視線、それは共に戦場を駆けていた頃と、はっきり異なってしまっているようだった。背を預けた戦友に対するものでは有り得ない、あまりに柔らかく遠すぎる感触が、常にロッシュを包み込んでいる。何より不自然に感じられるのは、ストックが、ロッシュが戦いに意識を向けるのを喜ばないことだった。それに類する内容を口にする度、表には出さないが微かな動揺を示している。鉄面皮に浮かんだ感情が何であるか、見定めることまでは難しいが、少なくとも好意的なものでないことだけははっきりしている。
ロッシュにアリステルの様子を伝えないのも、あるいはそれが理由なのかもしれない。アリステルに戻り、ガントレットが直れば、ロッシュは必ず戦場に立つ。仇であるヒューゴはもう居ないが、だからこそせめて隊員達の思いを継がねばならぬと心に定め、アリステルの勝利のため再びグランオルグとの戦いに挑む。ストックはそれを防ぎたいのだとすれば、それまでの態度も根拠をつけられるだろう。勿論全てロッシュの想像だ、だがストックの行動でロッシュが戦場から遠ざけられているのは、間違いのない事実だ。
そしてストックがそうする理由も、推測することができる。隊が壊滅した直後、ロッシュが見せた無様な姿。周囲の悲しみも知らず、己ばかりが辛い思いをしているかのような顔をして、戦うどころか命を賭してくれたストックに当たり散らして。その、あまりにも醜い様はきっと、親友の信を失うに十分なものだったに違いない。かつてロッシュはストックと共に戦場を駆けたけれど今のロッシュにその力は無い、背を預けるには足りないと、彼は考えているのだろう。そうされても仕方がない、それだけの咎が、ロッシュには有る。
自己嫌悪の波が押し寄せ、ロッシュはこみ上げる溜息を飲み込んだ。己を責める気持ちは際限無く湧きだしてくる、しかし今はそれに溺れている場合ではない。ストックはまだ戦っているのだ、たった一人で、里と彼らを守って。どれほど情けない姿を晒そうと、ストックはロッシュのことを見捨てず、戦う力を失ったロッシュを護り続けてくれた。そして今もロッシュのことを親友だと言ってくれている、ストック一人を危険に晒して己は安穏と生きる卑怯な男を、それでも友であると認識してくれているのだ。その想いに甘え続けるわけにはいかない、親友を一人戦わせるなど、絶対に許されない。
隊が壊滅し、ガントレットすら動かなくなって、もう自分には何もないと思っていた。傍らに立ち続けてくれた親友の姿を目に入れようともせず、ただ絶望に浸ることしかしてこなかった。今となってはそれがどれほど残酷なことだったか分かる、もう一度信じてくれと言っても難しいのかもしれない、だが。
それでも、ロッシュは。
「……よし」
ひとつ息を吐き、右の拳を握り締める。成さねばならないことが、ようやく見えた気がした。喪失の記憶が生み出す恐怖は消えない、戦場への恐れはロッシュの中に確かに存在する、だがこれ以上それに捕らわれるわけにはいかない。多くを失ったロッシュだが、まだするべきこと、出来ることはある。残された大切なもの、戦い続ける親友の隣に立ち再び彼と向き合える存在になるため、これ以上逃げることは許されないのだ。ロッシュの右手が、凍り付いたままの左腕を撫でた。この腕が、もう一度動けば。戦うための左腕を取り戻し、立ち直った彼の姿を見せてやれば、ストックもきっと。
ロッシュの脳裏に、彼を見詰める親友の顔が浮かぶ。注がれる視線が生み出すのは、置いて行かれたが故の悲しみだけではない。それと同時に感じ取っていたのは、ストックが孕む違和感、あるいはもっとはっきりとした異常だ。ストックの目に垣間見えるのは、認めたくはないが、狂気とも呼べる存在だった。彼が何を望み、何処に向かっているのかは分からない。だが止めなくては、焦りにも似た思いが、ロッシュを突き動かしている。
訳も分からぬまま心臓を焦がすそれは、彼が持つ戦士の勘が告げる、明らかな危機感だった。


――――――



その足でロッシュが向かったのは、ソニアが手伝いをする里の診療所だった。
「――おう、ソニア」
ストックは任務から戻った後、大抵真っ先にソニアか自分の元へと顔を出してくれる。だから先ずは、居場所がはっきりしているソニアのところを目指してみたのだが。
「ロッシュ。どうしたんですか?」
そこに居たのはソニアのみで、目当てとしていた男の姿は見当たらない。念のためにと室内を見渡すが、どうやら今は患者も居らず、ソニア一人が留守番しているようだった。扉を開けたというのに中に入ろうとせず、入り口で立ったまま視線を走らせるロッシュに、ソニアが不思議そうに首を傾げる。
「珍しいですね、こんな時間に診療所に顔を出すなんて」
「ああ……いや、ストックを探してるんだ。外から戻ってる筈なんだが」
「あら、間が悪いですね。今出ていったばかりですよ、つい先程までここに居たんですけど」
ソニアの言葉に、ロッシュは苦笑して頭を掻いた。どうやら見事に入れ違いになってしまったらしい。
「ストックも、あなたのことを探していたんですよ。すれ違いですね」
そう言ってソニアが笑う、予想通り、ストックはロッシュの元に顔を出そうとしてくれていた。いつもそうだ、彼は外から戻ってきた後どれほど疲れていようと、必ずロッシュとソニアに会ってから休息をとる。それは紛れもない親愛の表現だ、向けられる想いを自覚したロッシュの胸に、じわりと痛みに似た何かが広がった。
「いつもの場所で待っていたら、会えるんじゃないですか?」
「……ああ、そうだな」
そんな心の動きは知らぬソニアが、柔らかな笑みと共に提案する。妥当な案だ、ストックもロッシュを探しているのなら、双方で動き回る必要は無い。ロッシュが訪れる場所は限られている、その中の何処かに腰を据えていれば、ストックの方が見付けてくれる筈だ。
「じゃあ、悪いがまたストックが来たら、俺は結界樹の前に居ると――」
そう言付けて去ろうとした、ロッシュの動きが、ふと止まった。中途で切られた言葉に、ソニアが訝しげな表情を浮かべる。
「――いや。ソニア、お前にも、話しておきたいことがある」
そして、すっとその顔を引き締めると、ロッシュは診療所の中に踏み込んだ。患者も居ない、サテュロス族の医師も居ない二人だけの室内は、扉を閉めると酷く静かに感じられる。
「……何か、あったんですか?」
ロッシュの持つ真剣な気配を、ソニアも感じ取ったのだろう。彼女もまた表情を改め、居住まいを正してロッシュと向き合った。示された椅子に腰掛け、ロッシュは数瞬考えを巡らせた後、僅かな躊躇いと共に口を開く。
「お前は……アリステルに戻る気は、無いか?」
その発言は、ソニアの明晰な頭脳を持ってすら、予想出来ないものだったようだ。意味を飲み込む空白が一拍開き、次いで彼女の瞳が、大きく丸く見開かれる。
「ロッシュ、あなた」
「以前、レイニーとマルコがセレスティアに来てな」
ソニアの口から、意味のある何かが発せられる前に、ロッシュは被せるようにして言葉を続けた。視線は逸らさない、驚きに染まった瞳を、じっと真っ直ぐに見据えている。
「その時に、言われたんだ。アリステルに行けば、専門の魔動工学者にこいつを――ガントレットを見て貰えば、もしかしたら」
「待ってください、ロッシュ」
「もしかしたら、直せるかもしれない。こいつは、まだ、動くかもしれないんだ」
言い切ったロッシュを、ソニアもまた見詰めていた。唇を震わせ、膝の上できつく手を握り締めて。
「ロッシュ。……あなたは、また、戦場に戻るんですか」
「……分からん。だが少なくとも、ガントレットをこのままにはしておけん。こいつは、隊長の形見だからな」
ロッシュにとっての恩人、ソニアにとっての兄、彼が残してくれた戦うための力。左腕を失ったロッシュが軍人としての生を続けられた理由、あの敗戦で壊れてから動かぬままだったそれが直るのであれば、危険であっても進むべきだと。
――そんな想いであれば、ソニアも賛同してくれるのではと思ったのだが、どうやらその見込みは甘かったようだ。薄茶色の虹彩に込められているのは、残念ながら肯定的な感情ではない。
「でも、ロッシュ。アリステルに戻って、そしてガントレットが直ったら……あなたは」
「ああ、分かってる」
「本当に分かっているんですか、そうなったらもう、軍に戻ることは避けられません。あなたがどう思っても、また、戦うことになってしまうんですよ」
「そうだろうな。……それも、覚悟の上だ」
力強く言い切ってはみたが、その内心には恐怖と、それに囚われるが故の迷いが残っている。それはロッシュ自身も自覚していた、だが本当に、戦う覚悟は出来ているのだ。国のため、死んでいった者達のため、そして親友のために、このまま立ち止まっているわけにはいけない。どれほど危険な道だろうと、進む義務がロッシュにはある。
しかし、そう考えるロッシュの中にある揺らぎを、恋人であるソニアは正確に見抜いてしまっているようだった。
「ロッシュ。まだ、戦争は続いているんです」
いくらロッシュが力を込めて語ろうとも、美しい顔に浮かんだ悲哀は消えてくれない。言葉より遙かに明確な否定を語るその表情を、ロッシュは痛みを堪えて眺めた。
「いずれ、アリステルに戻れたら良いとは、私も思います。でも……それは、今じゃなくても良いじゃないですか」
「ソニア」
「我が儘なのは分かっています、でも私はあなたに、これ以上傷ついて欲しくないんです。まだ戦争が終わらないのに、アリステルに戻ったら、またあなたは」
「ソニア。だが、俺一人だけ逃げているわけには」
「逃げているわけじゃありません、もう十分戦って、傷ついて、その結果として戦いの舞台から退いただけです。それの、何がいけないんですか」
分かっている、ソニアの言葉は全て、自分のことを思い遣ってくれるが故のものだ。分かっているが、それでも尚、胸に生じる虚無は消えない。ソニアにとっても自分はもはや、戦う姿など考えることもできない、庇護すべき存在でしかないのだ。彼女は大切な人だ、恩人の妹で想いを寄せた相手で、そして恋人で。そんな相手を護るだけの力すら、今のロッシュには存在しない。
「良いわけがないだろう。俺だけが暢気に生きて、それで他の奴らに顔向けできるか」
「そんなことは、」
「死んでいった奴らの分も、俺は戦わなきゃいけないんだ。それに隊長にも――ガントレットも動かない、戦うこともできない、こんな情けない姿を隊長が許してくれるわけがない」
「そんなことはありません!」
ソニアが叫び、ロッシュの右腕を掴んだ。痛いほどの力で、逞しい筋肉に指を食い込ませる。しかしもう一方の手は、優しい手つきで、彼の左にぶら下がったガントレットを撫でていた。感覚の無い鋼鉄の上を滑る手を、ロッシュは心の半分で眺める。
「そんなことは誰も思っていません、隊の人たちも、兄も。皆、あなたの無事を願って、そして死んでいったんです」
「ソニア、だが」
「兄があなたにガントレットを取り付けたのは、ロッシュ、あなたにまだ生きて欲しいと思っていたからです。決して、死地に送り込みたかったからじゃありません」
死ぬと決まったわけじゃない、そう言おうとして、しかしロッシュは力無く口を閉じた。一度死線を彷徨い、その後も醜態を晒していた男の言うことが、一体どれ程の意味を持てるというのか。
「……だが、それでも俺は、行かないと。ストックをこれ以上、一人で戦わせたくないんだ」
心の内側全てを吐き出したロッシュの言葉だったが、ソニアはそれを残酷な否定で跳ね退けた。
「ストックだって私と同じことを言いますよ。彼はあなたを護るために、戦っているんです」
ロッシュの心臓に、冷たい刃が突き刺さる。分かっている、そんなことはとっくの昔に理解している、だからこそ、だからこそ自分が立ち上がらなければならないのに。ロッシュの決意を、ソニアは解してくれそうにない。
「ソニア――ストックは、あいつは」
言葉が喉元までせり上がる、ソニアに全てを伝えてしまいたい、そんな衝動がロッシュを突き動かす。バノッサが教えてくれた情報、それはアリステルやグランオルグで、要人の不審な死が多発しているというものだった。そして、恐らくは暗殺と思われるそれらは全て、ストックが里を離れている間に起こっているのだと。
そこから推論を導き出すのは、あまりにも容易だ。ソニアもきっと、同じ結論に達する、そして。
そして、どうなるというのだろう。
「……いや」
ロッシュは、半ばまで発しかけていた言葉を舌の上で凍り付かせ、そしてゆっくりと飲み込んでしまった。そんなことをソニアに言って、一体何になる。彼女がストックを止めるのか、いや、その可能性は有り得ない。意志を固めたストックの頑なさはロッシュが誰より良く知っている、ああなったストックを言葉で止めることはできない。何も出来ることが無いのなら、ソニアに真実を告げたところで、要らぬ心労を増やすだけだ。
ロッシュはソニアを見詰めた、恩人の妹で、恋人で、誰より大切な女性。例えソニア自身が望まずとも、ロッシュは彼女を命に換えても護らなくてはならない――いや、護りたい。それなのに今まで苦労ばかりをかけてきた、これ以上の悲しみを彼女に負わせるわけにはいかないのだ。
だから、ロッシュの口は、それ以上の訴えを紡ぐことはしなかった。代わりに零れた低い溜息に、ソニアの顔が辛そうに歪む。
「ロッシュ……」
「いや……そうだな。悪かった」
何と言ったらよかったのだろう、いや、そもそも言葉で分かってもらおうということ自体が愚かな考えだったのか。一度失った信頼は簡単に戻るものではない、いくらロッシュ自身が無事を訴えたところで、彼らの脳裏にはあの瞬間のロッシュの姿が消えずに残っているのだ。死の淵に腰までを浸かり、絶望に沈んで全てを放棄していた人間が何と言おうと、信じてもらえる筈はない。
「悪かったな、妙なこと言って」
ならば、成すべきは言葉ではなく、実際の行動で示すことか。力を取り戻し、再び守護者としてソニアの前に立てれば、かつての関係に戻れるのだろうか。分からない、分からないが今は、歩き始めるしかない。座して思いを巡らせる時間はもう終わりだ。
「ロッシュ……ごめんなさい」
滑り落ちるように発せられたソニアの謝罪は、一体何に対するものだったのだろうか。ロッシュは首を振って応え、しかし言葉は何も発さぬまま、うっそりと椅子から立ち上がった。
「……ストックのとこに、顔出してくる」
外した視線を戻すことはしなかったから、出ていくその背を、ソニアがどんな顔で見送ったかを知ることは出来ない。
きっと、知らない方が良い。



――――――


診療所を出たロッシュは、真っ直ぐに里の中心へと足を向けた。目的の場所はセレスティアの深奥、サテュロス族にとって神聖な空間である、結界樹前の広場だ。ロッシュが多くの時間を過ごしたそこは、ロッシュを探そうと考えた時に、まず真っ先に訪れるであろう場所である。
果たして予想に違わず、ストックはそこに立ち尽くしていた。以前のロッシュがそうしていたように、真っ直ぐに顔を上げ、遙か高くまで届く結界樹の梢を見上げいる。ロッシュに向けられている背からは、彼がどんな思いを抱えて佇んでいるのか、察することはできない。ロッシュは彼に近づき、数歩の隔たりを介して静止すると、ゆっくりとひとつ瞬きをする。
「ストック」
下生えを踏み締める音で気づいていたのだろう、かけられた声に驚く様子もなく、ストックは振り向いてロッシュを見た。静かな、無表情にも見える顔に浮かんでいるのは、暖かな歓喜だ。
「ロッシュ」
「――おう」
困ったような笑みを浮かべたロッシュに、ストックは構わず向き直り、残されていた距離を躊躇い無く縮めた。後ほんの一歩半、手を伸ばせば互いの身体に振れられる程の位置まで近づき、ようやくその歩みを止める。
「探していた」
「ああ……ソニアに聞いた」
「そうか。行き違いだったな」
「みたいだな」
ストックは頷くと、そのまましばらく黙り込む。探している、と言った割には、何かを語ろうとするでもない。いつものことだ、別段用など無くとも、任務から帰った後はロッシュと会話を交わしたがる。セレスティアに移った当初はロッシュの身体の具合を話題にしたりもしていたが、最近ではその必要も感じていないらしい。ただ黙って、柔らかく明るい気配を漂わせている親友に、ロッシュは少しだけ笑みを零した。
「外は、どうだ?」
だが、何気ない風にロッシュが発したその言葉によって、ストックの平穏がゆらりと揺れる。無表情が僅かに崩れ、口元が厳しさを感じる形に引き締められた。しばらくの間無言が続いたが、やがてゆっくりと、閉じられていた唇が形を変える。
「……相変わらずだ」
そして返された答えは、これまで、何度も聞かされたのと同じものだった。戦争は続き国の内も乱れている、ロッシュが尋ねるたびに繰り返し語られる状況。迷いの感じられない親友の目を、ロッシュはじっと見据える。
「戦局に、動きは無いのか?」
「砂の砦を、アリステルが奪い返した。グランオルグも未だ混乱が続いている、防衛線も緩かったようだな」
「そうか。アリステルは、優勢みたいだな」
「どうだろうな……アリステルとて、未だ態勢が整っているとはいえない。直ぐに盛り返される可能性は、十分ある」
だからロッシュ達が里を出るのは危険だ、彼はそう主張したいのだろう。それは今までにも行われてきたやり取りだった、しかし以前とは違う、ロッシュは既に知ってしまっている。その言葉全てが真実ではないことを知り、親友が語らぬ部分に隠されている何かを、垣間見てしまったのだ。
ロッシュはストックを見た、深い緑色の目が、真っ直ぐロッシュへと向けられている。やはり嘘の色は見えない、そこにあるのはただ、確かな信念と親愛だけだ。胸の奥で心臓が痛んだ気がして、ロッシュは微かに眉を顰めた。その変化に気付いたのか、ストックが視線を外さぬまま、ふと首を傾げる。
「……どうした?」
「いや」
彼の思いはきっと、本物だ。本当に、ロッシュとソニアを護るためだけに、全ての力を使って戦ってくれている。そこには邪心も害意も存在しない、その強さが改めて胸を締め付けた。進まなくては、ストックをこれ以上、一人で戦わせるわけにはいかない。何よりロッシュ自身が、これ以上親友に置いていかれることに耐え切れない。
「ストック、聞いてくれ」
戦いへの恐怖を越えてロッシュを動かすその想いは、果たしてストックに、どんな形で伝わったのだろうか。
「俺は、アリステルに戻ろうと思う」
少なくとも、ロッシュの言葉が励起した表情は、とても喜びのものには感じられない。無言で目を見開いたそれは、見た目だけで判断すれば、ただひたすら驚いているように見えた。
「前にも言ったよな、アリステルの魔動研究所なら、ガントレットを直せるかもしれんと。俺は、それに賭けてみたい」
「ロッシュ……何だ、どうしていきなり、そんなことを」
「いきなりじゃない、ずっと考えてたんだ。セレスティアに居て良いのか、このまま逃げ続けていて良いのかと」
驚愕の形に固まったストックの表情に、段々と、感情の渦が生じていく。そこに浮かぶのは一体どんな想いなのか、悲しみにも見える、恐怖とも思える、あるいはもっとずっと別の何かがあるのかもしれない。
「ロッシュ、落ち着け」
「俺は落ち着いてる。お前の言いたいことは分かる、だが俺も考えたんだ」
「ロッシュ、言っただろう。情勢はまだ安定しない、戦えないお前を連れていくわけには」
何度聞かされただろう、その言葉を一体何度。真実とは明らかに異なる説明、そんなことをしてまで、ストックはロッシュをここに閉じこめておきたいのだ。恐らくは安全のため、だがそれは、ロッシュ自身が望んでのことではない。
「ストック。……バノッサさんに、話を聞いたんだ」
その、一言で。ストックの動きが、ぴたりと止まった。息が詰まるような静寂が、彼らの間を凍り付かせていく。
「確かに戦争は続いているが、アリステル国内は随分と落ち着いているらしいな。それに、今の軍を率いているのはラウル中将だ、だったら」
「待て、ロッシュ、待ってくれ」
「俺がアリステルに戻るのも、危険は無い筈だ。……何ならお前の力を借りなくても良い、俺一人だって」
「ロッシュ!」
叫びが空間を引き裂いた、血の気の引いた白い顔の中で、瞳だけが妙に煌めいて見える。
「……駄目だ、俺は反対だ。アリステルに戻ったら、お前は」
「ストック、お前も分かってるだろう、このままで良いわけないんだ。俺はまだ戦える、戦わなくちゃいけない」
「駄目だっ!」
「何でだ! 何でそこまで、俺は……俺は」
肯定してもらえるなどとは思っていなかった、ソニアがそうだったように、ストックもまたロッシュが立ち上がることを望んでいない。戦いを忘れて静かに生きろと、それこそがストックの目指す未来なのだと、何より雄弁な彼の行動が物語っていた。しかしそれを良しとするには、ロッシュは戦士で在りすぎる。
「俺はお前に護られたいわけじゃない、お前と共に戦いたいんだ!」
ただ黙って、親友の背に隠れたまま生きるなど、彼の矜持が許しはしない。ストックが戦場に立ち続けるならば、自分もまたその隣に居なくてはならないのだ。
「…………」
しかし今のストックに、その決意は届かないのだろうか。ぶつけられた心底からの叫びを前にしても、ストックは凍り付いたまま、身じろぎひとつしようとしない。
「……駄目だ、ロッシュ」
辛うじて開いた口から零れた言葉は、奇妙に平坦で、何ひとつ感情など込められていないようにも聞こえた。だがそうでないことは、震える彼の目を見ればよく分かる。
「ああ、俺だって思うさ、お前と共に戦えたら……もう一度、俺も、だがそれは」
表に出ない想いが、そこにはぐるりと巡っていた。全ての色を溶かした、深い緑色が、瞬きすら忘れてロッシュを映し出している。
「そんなことをしたら、またお前は」
「――ストック!」
ロッシュの右手が、ストックの肩を掴んだ。びくりとストックの身体が揺れる、また一歩近づいた距離の先で、整った顔が怯えにも似た形に歪められた。
「俺を見ろ。俺はまだあの時のままか、お前に助けられた時から変わっていないか」
命を半ばまで失った恐怖、大切な者達を失った絶望、随分長い間そんなものたちに捕らわれてしまっていた。そうして立ち止まっていたロッシュの姿しか、未だにストックの目には映っていないのだろう、だが時は流れる。身体の傷は癒えた、背負った絶望が消えることは無いが、歩き出す強さならば持つことができる。
「そうじゃないだろう、あの時とはもう違うんだ。身体は治った、またお前と戦うことだってできる――この、ガントレットさえ直れば」
そうして共に立てば、道を失っているストックもきっと、本来の彼を取り戻してくれる。誤った目的のために、その手を血で汚し続けることを、止めさせることができる。
「……駄目、だ」
真実、それは、ロッシュの願いだった。親友を、誰より大切で、そしてきっと彼のために歪んでしまった親友の心を、元に戻したいと。その為に再び立ち上がることを決意した、だがそれはロッシュが考えている以上に困難なことだったのだ。
「それでも、アリステルは駄目だ。あの国に戻ったら、また利用されて殺されるだけだ」
「ストック!」
「お前の気持ちは嬉しい、だがお前は、あの国が何をしたのか忘れたのか? ロッシュ隊がどうなったか、あの時お前がどれほど苦しんだか」
「そんなことは問題じゃない、今、戦わなくちゃいけないんだ。お前だけを戦わせるわけには」
「そんなことは必要無い! お前が戦う必要なんて、何も無いんだ!」
「無いわけがあるか、親友なんだぞ! お前が戦っている後ろで、俺だけ何もせずに居られるか!」
「それでも! ……お前がまた傷つくなら助けなど要らない、俺一人で十分だ。例え一人でも、俺はお前を護ってみせる!」
「……お前はっ」
目の前が赤く光った、そう自覚した時には拳を振り抜いていた。手加減も何も無い全力の拳が、ストックの頬を捕らえて打ち据える。鈍い音が鳴り、ストックの身体がよろめいた。殴打の衝撃は耐えて持ちこたえる、しかし頭部を強打されたことによる目眩からか、その場にへたりと尻を付いてしまう。
ロッシュは大きく息をしながら、ストックの反撃に備えて身構えた。しかし当然為されるはずのそれは、何故かいつまで経ってもやってこない。ストックは立ち上がろうともせず、呆然としたまま、ロッシュを見上げるばかりだ。
「……っ」
殴り返すという意志など欠片も感じられない、ただ様子を伺うばかりの視線に、ロッシュの全身から力が抜けていく。
「くそっ……畜生、畜生……」
がくりと膝を突き、崩れるように座り込む。胸郭の内側を、炎のような熱が吹き荒れていた。目の前が瞬くような感情の乱れが吹き出してしまいそうで、音が鳴る程の強さで奥歯を噛み締めた。
「そんなに、俺は弱いか。もう、護る相手にしか見えないってのか」
彼らは親友同士だ、対等に向かい合い、時に反目し合って。だからこそ、殴り合うことすら、躊躇わずに出来ていたのに。今は、それが許されない。ロッシュの拳を受け止めて、ストックはそれに立ち向かうことをせず、ただ戸惑うばかりなのだ。
「殴る価値も無いっていうのか……お前にとって、俺は」
対等で在りたかった、そのために恐怖を越えて、再び戦うことを決意したというのに。当のストックにとって、自分はもはや背に隠して護るだけの存在で、立ち上がろうとする意志すら認めてもらえないのだ。
「俺は……お前の、親友で……だが、お前は」
罪ならば自覚している、自らの役目から目を背け、絶望と向かい合うことすらせず逃げ続けて。だが、それは取り戻せるものだと思っていた。武器を手にして戦場へ向かえば、再び背を合わせる力を取り戻せば、開いた距離も詰められると信じていた。しかし、その間もずっと戦うことを止めなかったストックからすれば、もはやロッシュは対等に見られる存在では無いのかもしれない。
「ロッシュ、違う。違うんだ」
俯き、身を震わせるロッシュに、ストックは途方にくれた様子の声を上げる。腰を落としたロッシュへと這うように近付き、そっと、肩に手を触れた。
「……違うんだ、俺は」
布越しに伝わるひやりとした硬い感触、しかしロッシュはそれにも反応を示せない。ストックはさらに身体を近付け、躊躇いがちに、そっとロッシュを抱き締めた。与えられた圧力に、ロッシュは逆らわず、仰け反るようにしてストックの体を受け止める。
「俺はただ、お前に死んで欲しくないんだ」
押し付けられた身体が微かに震えているのが、触れ合った部分から伝わってきた。意識を離れた部分で生じるう必死の反応、しかしそれに引き比べ、回された腕に込められた力は柔らかく緩やかに感じられた。そのささやかな強さはまるで、触れること自体を恐れているようにも見える。
「お前の強さを疑っているわけじゃない、だが……強くても、人は死ぬ」
首筋に、声と共に吐き出される吐息を感じる。近付いた髪から、土と埃と、微かな血の臭いがした。戦場の臭いだ、懐かしさすら感じるそれに、虚ろな胸の奥がぎしりと痛む。
「いくらお前が強くても、それ以上の強さで叩き潰されたら終わりだ。それが、戦争なんだ」
「……やっぱり、俺を信じられないのか」
「違う! 俺が信じていないのはあの国だ、お前を利用して殺そうとした……もう、俺はアリステルには戻らないし、お前を行かせたくもない」
「だが、帰らなきゃならん。あそこでしかガントレットは直せないんだ」
僅かに、抱き締める力が強まる。ストックは一体どんな思いで、どんな顔をして、今言葉を紡いでいるのだろうか。声の調子は一見静かにも思える、しかしそれが本当の平静では無いことが、ロッシュには分かる。
伝わる暖かな体温が、ロッシュの身にじわりと広がった。
「ストック、俺を信じてくれ。命を捨てるために戦うつもりはない、捨て駒にされるつもりもだ。絶対に、生きて、戦争を終わらせてみせる」
「……お前は」
ふっと、僅かに身体が離され、ストックの顔が視界に入り込んできた。深緑の虹彩が、至近距離でロッシュの目を捕らえる。
――そこに浮かんでいたのは、底の無い絶望。
「お前は、『あの時』のことを覚えていないから……だから、そんなことが言えるんだ」
暗い深い穴をのぞき込んだ時の冷たさが、ロッシュの心臓をひやりと撫でる。静かな声音、だがそれは感情が込められていないからではない、あまりにそれが深すぎて表に出せるようなものでは無いからだ。背に回されていた腕が一本外れて、ロッシュの頬に触れる。血の臭いが濃くなった気がして、ロッシュは瞼を瞬かせた。
「俺は、嫌だ。二度とお前を失いたくない、もうあんな思いをするのは御免だ」
ストックの指先が震えている。感情を表さぬ顔の代わりに、それは彼の内心を雄弁に伝えてきていた。あの時、それはグラン平原での敗戦を指すのだろうか、あるいはその後ロッシュが生死を彷徨ったことを。
「あんなことは繰り返させない、絶対に。これ以上お前を失わないためなら、俺は何でもする」
強い、けして曲げられぬ意志を乗せて語られる言葉に、ロッシュは声を失った。それは彼が知っていた親友の姿と、重なるようで決定的に異なっている。元々頑固な男ではあった、しかし今の彼を形容するのにそんな生易しい単語では到底足りない。ロッシュの声も、いや恐らく世界中の誰の声も届かぬほど強く、己の道を思い定めているように感じられる。
「……だが」
いつからそうだったのか。セレスティアに亡命してからか、それともロッシュの意識が戻らぬうちから、それは既に始まっていたというのか。そう、ロッシュが気づかぬだけで、彼はずっと前から変わってしまっていたのかもしれない。
「戦争が続けば、いずれセレスティアも戦場になるかもしれない。そうなったら俺も、引っ込んでいるわけには」
「大丈夫だ」
ストックの声がロッシュの台詞を遮る、それは奇妙な程自信に満ちていた。添えられた手は暖かいのに、背を走るのは薄らとした寒気だ。おかしい、何かがおかしいと、回らぬ思考の代わりに本能が警告を発している。
「そんなことはさせない。アリステルにもグランオルグにも、セレスティアに手出しはさせない」
二つの国の動きをストック一人で、しかも国外に籍を置きながら操るなど、まともに考えれば出来るわけがない。しかしストックの言葉には、それを虚言と断じられない何かが有った、そして何より。
「……なあ、ストック」
何よりロッシュは既に、聞いてしまっている。
「お前……外で、何をしてるんだ?」
ロッシュが問いかける、その意味が理解出来なかったのか、ストックは不思議そうに首を傾げた。純粋な疑問で満たされた目が、ロッシュを見詰めている。
「バノッサさんに聞いた。……アリステルとグランオルグで、暗殺が頻発してるって」
「ああ」
じっと、ほんの少しも逸らされることなく注がれている視線。そこに浮かんだ色をロッシュは探る、しかしあるのはただ、ロッシュに向けられる意識だけで。
「どれも、お前が、里から出ている時に、起こっているって」
「ああ」
先程まで満ちていた絶望すらも、いつの間にか消え去っていて。残ったのは気遣いと、優しさと、親愛と――ずっと、親友として向かい合っていた時から存在していた当たり前の想いが、溢れているだけだ。
「ストック。……お前が、やったのか?」
「ああ」
それだけだ、それ以上は何も無い。迷いも、怒りも、罪悪感の欠片さえも。何ひとつ特別な感情を浮かべることなく、まるで当然のような顔をして、ストックはロッシュの問いに頷きを返した。
「……セレスティアを、護るために?」
「ああ」
重ねられた問いに戸惑った表情が浮かべられる、むしろロッシュがそれを問うことこそ不可解だとでも言いたげな態度だ。ロッシュの心臓がどくどくと音を立てる、目の前の親友が発する酷い違和感が、鼓動をでたらめなものに変えてしまっている。
「それで、戦争が酷くなっても良いのか? 戦いが続いて、兵士が死んで、民衆の被害が広がっても」
「ああ。……何か、問題でもあるのか?」
一体いつから変わってしまっていたのか、彼はもはや、ロッシュが知る親友ではない。彼は一見無愛想で冷たい男に見えるが、その実誰より真っ直ぐで優しい心を持っていた。例え自らに関わらぬ人間であろうと、罪もない人々が戦禍に苦しむのを平然と見過ごせる男では、絶対に無かったのだ。いつからこれが始まっていたのか、ロッシュには分からない。ずっと己の内側を見詰めていたロッシュに、それを知ることはできない。
「ロッシュ」
黙ってしまったロッシュを、ストックは困ったように見詰めている。彼には理解できないのだろう、ロッシュが今何を感じているのか、何故何の反応も示すことができないのか。以前のストックならば苦も無く察することが出来た、人として当たり前の感情の動きが、今の彼からは遠くなってしまっている。
「ロッシュ。……俺は、お前に生きていて欲しい」
罪ならば、知ったつもりでいた。誰もが苦しんだ戦、それなのに自分一人が傷ついたような気でいて、己の苦しみに浸ることしかせずに現実から逃げ続けて。しかしその罪は、認識よりも遙かに重いものだった。ロッシュが逃げて、放り出して、まき散らした絶望。それをずっと受け止めていたのは、他ならぬストックだ。
ずっと隣に居てくれた、たった一人の親友だったのだ。
「それ以外はもう、何も望まない。お前が生きて、そして幸せでいてくれるなら、俺は何でもする」
頬に触れていた手がするりと下がり、ロッシュの胸に触れた。身体の中央、心臓の真上でぴたりと止まり、控えめな強さで服に押し付けられる。そこから響く鼓動を感じてか、ストックの表情が、柔らかく緩められた。
「だからロッシュ、ここに居てくれ。セレスティアは安全だ、サテュロス族の結界の中なら、お前を狙う手もきっと届かない」
彼はきっと、壊れてしまっている。壊れて、進むべき道を失ったまま、ひたすらに罪を重ね続けている。だがそうさせたのは、他ならぬロッシュなのだ。
「ロッシュ。お前がこうして、生きていてくれる――それで、十分なんだ」
そう言って微笑むストックの頭を、ロッシュはそっと引き寄せた。ストックもそれに逆らわず、導かれるままロッシュの首筋に顔を預ける。距離が再び零になり、抱き合う形で身体が触れあった。
「……そうだな」
低い、聞き取ることも難しい程低い声が、ロッシュの口から零れる。
「悪かった。お前の気持ちも考えないで」
発した言葉が正しいものか、ロッシュには分からない。だが他に何を言えるというのだろうか、自らが壊した親友を前にして。
「……お前はずっと、俺を護っていてくれたんだな」
ロッシュを、ロッシュだけを、ストックは護っている。他の何もかもを犠牲にして、ただロッシュだけを。それははっきりと間違った道だ、だがそれを今、彼に指摘すればどうなる。己の非を認め、本来の彼に戻ってくれるか――そんな都合の良い奇跡など、勿論起こる筈もない。
逆なのだ。今、ロッシュが否定すれば、彼はきっと完全に壊れてしまう。
触れた皮膚から呼吸が伝わる、その間隔は穏やかで、ストックの心をそのまま映し出しているかのように思えた。壊れた人間は、壊れているが故に、壊れた世界の中でどこまでも強い。ロッシュの心臓が痛んだ、こんな姿をストック本人が望んでいるものか。見失った道を取り戻してやらねばならない、何よりストック自身のために。
それは、ロッシュの役目だ。罪に対して発生する、当然の償いなのだ。
「ロッシュ」
ストックが名を呼ぶ、他に何の語も無いただ名前だけが発せられている声のに、何故かそれはとても雄弁だ。ストックの望みが、彼が求めるものが、はっきりと伝わってくる。
「……分かった」
だから、ロッシュは頷いた。それが正しい筈もない、だが今はそれ以外を選ぶことはできない。まだ駄目だ、真実の世界を突きつければ、ストックの心を砕いてしまう。
「ここに居る。俺も、何処にも行かん」
「……ロッシュ」
ストックの声音が明るいものとなる、抱き締められる圧力が強まり、身体が強く押し付けられた。ロッシュはそれを、痛みと共に受け止める。
これが、自分の罪の結果だ。だから目を逸らすことは許されない、今度こそ逃げることなく向き合わなければならない。親友の心を開き、再び正しい姿にしてやることが、ロッシュの役目なのだ。
「すまんな、殴ったりして」
「……気にするな。大した傷じゃ、ない」
優しく強かった彼の心を、もう一度取り戻さなくてはならない。狭まった視線を、切り捨てた世界を、再び元に戻して。その結果として償うべき罪が発生するのなら、共に背負う覚悟も出来ている。
ストックのため、仲間のため、そしてロッシュ自身のために。彼の隣に、親友として立ち続けるために、成すべきことを成す。
「ストック」
――だが、もし。
もしも、それが敵わなかったら。
「俺達は、親友だよな?」
ストックにロッシュの声が届かず、壊れた心が壊れたままだったなら。そして彼が、そのまま進むことを止めなかったのなら。
「……何を言っているんだ」
その時は、止めなくてはならない。
道を正せないのなら、せめて間違った道をこれ以上進ませない。
例えそれで、どんな痛みを負おうとも。
「当たり前だろう。……ああ、親友だ」
嬉しげに応えるストックの頭を、ロッシュはゆっくりと撫でた。そうだ、親友だ。だからこそ、誤った道を選んだ彼の前に立ちはだかるのは、自分でなくてはならない。
どんな犠牲を払い、どんな痛みを得たとしても、彼らが親友だからこそ。
(あの時、こいつがそうしてくれたように)
浮かんだ思考に、ロッシュはふと違和感を感じた。『あの時』、それは一体いつのことだったか。ロッシュが道を誤り、ストックがそれを止めてくれた――そんなことが、あった気がしたのだが。
「お前が生きていてくれて、良かった」
噛み締めるように呟かれる、ストックの声。それを耳に捉えながら、ロッシュは眼前の結界樹を見上げる。
「本当に、良かった。この歴史を、選ぶことができて――」
彼の心は分からない、だが彼らは親友だ、それだけが真実と言い切れるただ一つのことだ。
だからもうこれ以上、逃げることはしない。これから先、何があったとしても、もう二度と現実から目を逸らすことはしない。それが、壊してしまった心に対して出来る、たった一つの償いだ。
ロッシュがその視線に込めた誓いを、理解などしている筈もないが。
結界樹はただ静かに、その偉容を晒し、セレスティアの空に枝葉を広げるばかりだった。



BACK / NEXT


セキゲツ作
2012.03.04 初出

RHTOP / RH-URATOP / TOP