けたたましい鳴き声が、深い森の中で交わされる。彼らの間においてそれは会話として成り立っているのだろうが、部外者であるガフカ達からすれば、耳障りな異音に過ぎない。何を訴えているのか、しきりに喚きたてる戦士風のゴブリンを弾きとばし、ガフカは雄叫びを上げた。
「後少しだ、蹴散らすぞ!」
森中に響きわたるのではないかという大音声に、サテュロス族の者達からも応が返る。彼らの士気は高い、ガフカとストックが共に戦っているのも、その理由の一つだろう。直接戦闘の腕では里で一、二を争う二人、それと魔法に長けるサテュロス族が共闘しているのだ、例え群れであろうとゴブリン程度敵ではない。
それは間違いのない事実だ、しかし、その慢心が油断を呼ぶのもまた、残念ながら必然のことだった。意気を上げてゴブリン達に襲いかかる自警団員達の前面、逃げに転じかけているゴブリンの中から、ふいに嫌な気配が膨れ上がる。
「……!」
気づいたガフカが声を上げるより速く、生じた眠りの霧が、団員の一人を包み込んだ。魔力の高いサテュロス族といえど、油断していたところに直撃をくらっては、誘発される眠気に抵抗し切れるものではない。走り出した勢いのままつんのめるように膝を突く、それにより乱された隊列に、喜々としてゴブリン達が襲いかかった。
「むっ」
危機の気配に唸り声が漏れる、ガフカは押し寄せる敵を防ごうと身体を捻ったが、突出しすぎた彼の位置からは直接拳を叩き込むことが出来ない。ならばと瞬時に気を練るが、どうやらそれも一瞬遅い、身体を巡る気が放出されるのを待たずしてゴブリン達は武器を振り上げた。
神経を逆撫でされる鳴き声、恐らくは歓喜を示すのであろうそれに、しかしサテュロス族の断末魔が重なることはなかった。血液とは違う赤さが視界に生じる、人とは思えぬ俊足で滑り込んできたストックが、警備団員達とゴブリンの間に立ち塞がっていた。鳴き声が止まった、と思ったのは瞬きにも満たぬ僅かな間のみで、直ぐにそれまでに倍した凄まじい叫びが上がった。その身体にはストックが刻みつけた深い傷が開き、そこからどす黒い血が溢れだしている。振り抜いた剣が再び翻されると、また一匹、ゴブリンが奇声を上げてのたうち始めた。
「はぁっ!」
浮き足だったゴブリン達を、ようやく準備の整ったガフカの気が、纏めて薙ぎ払う。それにより一気に足並みを崩した群に、逆に態勢を立て直した自警団が、改めて襲いかかった。敗軍の兵が発する、耳を聾するけたたましい叫びが響くが、そんな形無き妨害程度で里を護る戦士達を止められはしない。ガフカも、巨体からは考えられぬ瞬発力で手近なゴブリンの直近に詰め寄ると、その勢いのまま拳を叩き込んだ。ちゃちな防具などもろともに吹き飛ばしてしまう程のすさまじい突きが、人間の少年程しかない小さな身体を軽々と吹き飛ばし、宙を舞ったそれはやがてぐしゃりと地面に叩きつけられる。濃厚に漂う血の臭いに、ゴブリン達も敗北を察したのか、迷うことなく逃げの態勢に入った。
「深追いするな、全滅させる必要はない!」
背後から声をかけられ、ガフカは身体を回して視線を遣る。逃亡するゴブリン達を追いかけて団員達が駆け出していく、その背に声をかけるストック自身に、追撃に加わる気はないようだった。
「ガフカ。周りに危険は」
「大きな気配は感じられないな、しかしあまり分散はしない方が良い。一度集合させよう」
「ああ。……皆、一旦戻れ! 状況を確認する!」
ストックの声に、追跡を始めかけていた団員達が足を止めて、彼らの方に向き直る。周囲には魔物の屍が累々と積み重なっている、それらの数を見るに、行き合った群の大半は倒せているだろう。ストックの言う通りだ、群れを全滅させる必要はない、力の差を見せつけられた相手に対して報復を考えるのは人間だけだ。むしろ危険を伝える数体を残した方が、里から遠ざける役には立つ。
「全員揃ったな。怪我人は居るか」
ガフカとストックの前に団員達が整列する、真剣な表情で並ぶ彼らに向けて、ストックが確認の言葉を発した。本来ならば隊長が行うべき行動だが、ストックやガフカが同行する際は、彼らが纏め役として動くのが最近の通例となっていた。
「軽傷者が一人。今治療しても構わないか?」
「ああ、頼む。……他は、無事だな」
「うむ、ストック殿のおかげだ」
目線に尊敬の意を乗せて、隊長が力強く語る。誇り高く排他的なサテュロス族が、人間であるストックに対してこれ程の態度を取るなど、サテュロスの民を知る者であれば驚嘆せずにはいられない光景だ。しかもそれはけして一時のまやかしなどではなく、彼が積み重ねた、彼らの種族に対する勲功に因るものなのである。
「先程のことも、礼を言う。ストック殿が足止めをしてくれなければ、どうなっていたことか」
「……いや。だが、次からは気をつけた方が良い、戦場での油断は死に繋がる」
「ああ、勿論だ――いや、実際醜態を晒しておいて、偉そうなことは言えないな。気をつけよう、他の団員にもよく言い含めておく」
厳しい指摘にも気を悪くすることなく、むしろ神妙な面もちで、隊長が頷いている。蔑視する人間の言うことにも関わらず素直に忠告を受け入れているのは、実際に窮地を救われたという事実があるからだろう。それも今この時だけではない、セレスティアに来てからストックは、ずっと里の為に剣を振るい続けてきた。バノッサ達を護衛して人里と行き来し、自警団と共に魔物と戦い、それらの間にサテュロス族の命を救ったことなど数限りなくある。その功績に増長するでもなく、ただ淡々と里を護り続ける姿は、人間への嫌悪に固まったサテュロス族の者達をも溶かすに足るものだった。サテュロス族と人間の間にある歴史的な軋轢、それを己の働きひとつで乗り越えるなど、誰にでも出来るというものではない。
「今日はここまでにした方が良い、深追いは無意味だ」
「ああ、ワシも赤いのと同意見だ。敢えて全滅させる利点も無い、このまま放置して構わないだろう」
「労に対して得るものは少ないか」
ストックとガフカの主張に、隊長は納得した様子で頷き、隊員達を振り返った。
「そうだな、では、一旦里に戻って団長に報告しよう。皆、里に帰投するぞ!」
「はいっ!」
隊長が放つ号令の元、隊員達は列を作り、帰還の準備をする。ガフカもしんがりに陣取り、隊列の進みを見守った。先頭に立つのはやはりストックだ、戦いが終わっても彼は警戒を解かず、神経を尖らせ周囲の気配を探りつつ歩いている。その真剣な姿は、最後尾に居るガフカの位置からでも見て取れた。
ガフカはストックと同じく周りと警戒しつつ、それと同時に、ストックの様子を観察する。出発前に交わした会話、それがガフカの視界に常とは違う方向の視点を与えていた。今まではただ真摯なばかりの男だと思っていたが、そのつもりで眺めてみれば、無私の奉公と断じるには奇妙な引っかかりがある。あるいは彼の中には、里を護るという以外にも何らかの目的があるのかもしれない。裏がある行動とは思えない、偽りを抱えて戦えばそれは必ず剣に現れる。だが表面には見えぬ奥深くに、隠された何かが沈んでいる気配が、ガフカには感じられた。
ストックが、歩みを止めぬまま、背後を振り返る。思索の気配を感じ取りでもしたのだろうか、向けられた問いかけの視線に、ガフカは何事も無いことを示すため頷いて見せた。微かな安堵を見せた後にストックが前を向き直る、その合間にも気を緩めることのない姿を見ると、如何にも隊の者達を気遣っているように見えるのだが。
(友のため、か)
里を護るのも、同胞たる人間と戦うのも、全て友を護るためだと。その言葉こそが彼の心底に横たわる真意だというなら、あるいはガフカの感じる違和感も、それに由来しているのかもしれない。振るわれる刃は誰かを護るため、その事実は変わらずとも中心に置かれる対象が異なるのなら、他のものに対する感情も自ずと変わってくる。
確かに時折、ストックが里の者に向ける態度からは、奇妙な酷薄さを感じることがあった。居場所だと、護るべきだと認識している相手に対するにしては、少しばかり低い温度。彼の持つ、自己表現を不得手とする性質が生み出す錯覚かと思っていたが、そうではないとしたら。親友達の名を呼ぶ時に見せた表情、それこそが彼の真実だとしたら。
隊列は進んでいく。里が近づき、目には見えぬ結界の境が近付いてくる。この結界の内からストックを退けようと、エルムは必死で戦っていた。彼女もきっと、ストックの内に隠れた何かに気付いているのだろう、そしてそれが里に害を及ぼすものだと信じている。ガフカには分からない、彼の存在が何をもたらすのか、賢者ならぬガフカに分かるはずもない。彼はただの戦士だ、そして戦士は戦友を尊ぶ、だからガフカは共に戦った友としてストックのことを信じたいと思っている。しかしストックに対して奇妙な不安定さを感じるのもまた事実で、それがセレスティアを蝕むのであれば、里に居を許された者として彼を退けなくてはならないのかもしれない。
ガフカがもっとも大切にしているのは、誇りそのものだ。誇りのために拳を振るい、フォルガの里を逐われて二度と故郷に帰れぬ身となっても、それが己の道と思い迷うことなく選び取ってきた。今でもそうだ、彼の行動原理は、己が誇りに恥じぬことのみ。友を助けること、義理を果たすこと、それらはどちらも己の誇りに繋がる――だからガフカは、それらが相反するものであっても、どちらを選ぶべきかを決められずにいるのだ。
ストックの周囲が眩しく輝く、結界の内に入った彼の姿は、一瞬ガフカの視界から消え失せる。彼はまたセレスティアに戻った、その居場所は変わらない、誰かが何かを動かさぬ限り。動かせばどうなるのか、あるいは変わらず続いた先の世界が、一体どんな姿をしているのか。
「ガフカ殿?」
前を行く隊員が、歩みを止めたガフカを不思議そうに見上げた。その声にふと正気を戻すと、出口の見えぬ思考を止め、彼らに続くべく歩みを再開する。
どのみち答えは出ている、ブルート族の誇りにかけて、友を捨てることは出来ない。いや、明らかに道を踏み外しているのならばそれを正すのが真の友だが、そうすべきか否かをはっきりと断じられないのだ。道の途上に晴れない霧があることを、自覚していながらガフカは、真っ直ぐに進むことしかできない。
結界を抜ける光の中、ガフカは誰にも知られぬまま、ひっそりと嘆息を零していた。



――――――



「――ガフカ」
エルムへの報告は隊長とストックに任せ、他の隊員とも別れて、一人里を歩いていたガフカの元に、声をかける者があった。
「む、お主は」
見覚えのある姿に、ガフカの目が光る。セレスティアにおいてガフカに次いで大柄な男、しかも人間とあれば、当てはまる者は一人しかいない。
「……ごついのか」
しかしガフカは、やはりその名を思い出せず、答えるまでに一瞬の間を置いてしまう。ブルート族にとって人間の顔というのは見分けがつきづらく、ついでに名前も非常に覚えづらく発音も難しい。里に居る人間はたったの三人なのだが、その名すら満足に言えないガフカは、仕方なく彼の特徴を端的に表現した単語を呼称として用いた。あまり良いとは言えない扱いだが、ロッシュは気にした様子も無く、呼称の通り厳つい顔を微かに綻ばせる。
「ゴブリン退治の帰りだって?」
「うむ。赤いのを探しているのか」
名を覚えぬまでも、彼らが親友だということはよく知っていた。ガフカと共に戻ったはずの友を探しているのかと、そう推測した末の問いかけに、ロッシュはしかし首を横に振って応える。
「いや、そうじゃない。あんたと話がしたくてな」
「ワシと?」
「ああ。……ストックは、どうしてる?」
「警備隊長と共に、エルムに報告に行っているが」
その答えにロッシュは、安堵しつつも苦みの混じった、複雑な表情を浮かべた。
「そうか。なら……悪いが、ちょっと話に付き合ってくれないか」
「む、それは赤いののことか?」
そう考えたのは無為な連想というわけではない、ロッシュの言動から、ストックの存在が彼の用事の妨げになっているのは用意に推察できる。勿論、数時間前に交わしたエルムとの会話が頭の中にあったのも、その名が出てきた理由のひとつだ。
「ああ。分かってるなら話は早いな」
「分かっている、という程でも無いがな。しかしワシのところに来るからには、あの男の外での様子を知りたいと、そんな用事しか思いつかん」
きっぱりと言い張るガフカの言い方が可笑しかったのか、ロッシュは真剣だった表情を、少しだけ笑みの形に変えた。
「まあ、それもあるんだがな。だがそれだけじゃない――ああ、歩きながら話すか」
促されてガフカは歩みを再開する、ロッシュもその隣について、歩を進める。ガフカがセレスティアに運び込んだ直後は、自力で歩けぬ程の重傷を負っていた彼だが、もう完全と言って良い程に回復しているようだった。治りきらぬ部分といったら、重力に逆らう気配も無く真下にだらりと垂らされたままで、それでも外されぬ鉄の左腕だけだ。
「何処に行くつもりだったんだ?」
「む、一旦部屋に帰るところだったのだが、構わん。それより、話があるのだろう? 赤いのがお主を探し始める前に、終わらせたいのではないか」
そう問うと、ロッシュは浮かんだ笑みに苦いものを混じらせ、ガフカから視線を逸らす。
「……まあな。いや、別にあいつが来て不味いことがあるってわけじゃないんだが」
言い訳じみた言葉を口の中でこねくり回すロッシュだったが、やがて低く息を吐くと、覚悟を決めたのか改めてガフカと目を合わせた。その瞳に宿った光は、ガフカが考えていたそれより遙かに鋭いもので、心中密かに驚きを覚える。
「とにかく、聞きたいことがあるんだ」
「うむ」
「あんたは護衛役とかで、外に出る任務に就くことが多いって聞いた。その時、人間の街に行くこともあるのか?」
問われて、ガフカが考え込む。てっきりストックについて質問してくるのかと思った、いやこの問いもストックに繋がるものなのかもしれないが。
「無いではないが、あまり多くはないな。何しろこの身体は目立つ」
「……そうか。まあ、そりゃそうだよな」
「だが最近は随分と魔物が活性化しているからな、一座が出るのに、ワシが護衛として呼ばれることも増えている。だから以前よりは人里に訪れることも多いが、それがどうかしたのか?」
「いや、街に出たことがあるんなら、アリステルの戦況が分からないかと思ったんだが」
考えつつ呟くロッシュに、ガフカは不思議そうに首を傾げた。
「外の話か、それなら赤いのに聞けばいいだろう。あれは護衛役だが情報収集もこなしている、ワシなんぞより余程詳しい」
「まあ、そりゃそうなんだが」
当然とも言えるガフカの指摘を、やはりロッシュは承知していたようだった。苦笑、というには少しばかり苦みの強いものを浮かべ、ばりばりと乱暴に頭を掻く。
「あいつ、外のことはあまり話そうとしないからな」
そして表情と同じく苦々しい口調で零すと、ついでのように大きく息を吐いた。下向いた空気に抗して空を仰ぐ、木々の切れ間から注ぐ光に照らされた顔は、やはり強い生命力に満ちているように感じられる。
ロッシュを助けたのはガフカとアトだが、その後あまり交わる機会は無かった。ガフカの主な役割は戦いで、怪我の治療をしつつ里の中のことを手伝っているロッシュとは、生活上の接点が少ない。だからガフカの中にあるロッシュの印象は、里の外で発見した直後の、死に片足を捕らわれた姿で止まっている。しかし今ガフカの前にいる男はそれと大きく異なる、確固たる意志と強さでこの地に立っているように思われた。
「だから他の奴に聞こうと思ったんだが、そもそも里の奴らが知ってる情報ってのはストックが持ってきたことだしな。できれば、他の目から見ての話を聞きたいんだよ」
「ふむ、成る程な」
思い返せば、彼が膝を折ったままだと考えていたのも、ストックの言動に因るところがあった。力を失い戦いから離れ、里の中で平和な時を過ごすことが彼の幸せだと、ストックはロッシュについて語っている。そして実際ロッシュが戦いに戻ることはなかった、それらを見た者達の中では、ロッシュの印象が力弱いものに定まっていったのは自然というものだ。
導いたストックの意図は分からない、あるいは彼も意識などしていないのかもしれない。彼の目には未だに、牙を抜かれ立ち上がることの出来ぬ友の姿が映っている、その可能性も否定はできなかった。
「戦争は、まだ続いているんだよな?」
「ああ。赤いのは、それもお主に伝えていないのか」
「いや……そういうわけじゃないが」
淀んだ言葉の続きを待つが、それ以上が語られることはなく、ロッシュは口を閉ざしてしまう。迷いを示して視線が泳ぐ、無意識にか持ち上げられた右手が、口元を覆い隠した。
「とにかく、戦いは終わっていない。それは間違いないんだな」
「うむ、その通りだ。ワシはあまり街には行かんが、それでも街道の様子を見れば間違いない」
「そうか。……なら、アリステルの様子なんかは、分かるか?」
「む、様子とは」
「ヒューゴが討たれた今、誰がアリステルのトップなのか、軍部はどんな動きをしているか……後は、どれくらい、あの国が纏まっているか」
自分の中でもはっきりしないな考えを、言葉にしながら纏めている、といった態だ。曖昧な質問に対して、ガフカの中にも答えが浮かばず、厳しい表情で首を横に振る。
「そこまでのことは分からんな。ワシの役目は戦いだ、バノッサ殿や赤いののように、情報を集めているわけではない。ある程度の話は、彼らから聞かされているが」
ガフカの答えはある程度予想していたのか、ロッシュは気落ちした様子もなく頷きを返す。
「自分の目で見たとは言えないか……」
「うむ。そのような話なら、それこそバノッサ殿に聞いた方が良いだろう」
知りたいのが国際情勢であれば、それを集めることを役目とした者の方が、単なる護衛のガフカより遙かに正確な情報を持っている。同じ条件はストックにも当てはまるのだが、どうやらロッシュは、彼からの情報を得たくないようだった。その真意は何処にあるのか、単一の情報源に依ることの危険性を意識しているだけなのか、それとも親友の言葉に対して何かしら思うところがあるのか。
「バノッサ、っていうと、外で活動してる一座の一員だったか」
「その、座長だな。お主は会ったことが無かったか?」
「ああ……無いな。名前だけだ、ストックとよく仕事に行ってるのは知ってるんだが」
里から出ないロッシュと、外での活動が主なバノッサでは、接触する機会がないのだろう。一応は助けた立場にあるガフカも、今この時まで二人で話すことなど無かった程だ。繋がる理由のないバノッサであれば、まず間違いなく交わることはない。
唯一考えられる接点は、共通の知り合いであるストックだが、その彼も積極的には動いていないようだった。バノッサに関わらず、彼が親友を他者に紹介する姿というのは、そういえば見た覚えが無い。
「今は任務に出ているが、戻ったら話してみると良い」
「俺が行っても大丈夫なのか?」
「勿論だ、外界で働く役目を負っているのだ。種族による偏見など無い、至って気の良い方だぞ」
人当たりの良い物腰と笑顔の内には、幾つもの経験を経た鋭い目が潜んでいるのだが、その事は敢えて伝えずにおく。問題になるのは悪意を持って彼を利用しようとした時だ、そんなことを考える相手に贈る気遣いは持ち合わせていない。もっともロッシュが相手であれば、そんなことは無用な心配だろうが。
「帰還すれば、里の者の話でそれと知れるだろう。ワシも、気付いたら教えてやる」
「そうか……有り難う」
真剣に頷くロッシュを、ガフカはじっと見詰めた。自分より高い位置からの視線に慣れていないのか、ロッシュはぎこちなく彼を振り仰ぎ、ガフカの凝視に応える。
「ごついのよ、ひとつ聞くが」
「ん、何だ?」
「お主、今の赤いのをどう思う?」
返された質問に、ロッシュは微かに眉を顰めた。直ぐには答えず、黙ったまま数度瞼を開閉させる。
「んな話が出るってことは、あんたもストックを疑ってるのか」
そして零された言葉は、直接的な答えとは言えないものだったが、それでも彼の内心は十分に推し量れた。苦みの混じった笑みを浮かべるロッシュを見下ろし、ガフカはあくまで気負わぬ態度で話を続ける。
「疑っているというと、少し違うがな。あの者の態度……」
だが、そこで言葉を切ると、腕を組んで首を横に振った。
「いや、先入観を与えるのは良くないな。先ず、お主がどう思うかを聞かせてくれ」
重ねて促されれば、ロッシュもそれ以上答えを延ばそうとはせず、難しい顔で口を開いた。
「……以前とは違っている、と、思う」
ぎこちなく漠然としたその答えに、ガフカは当然納得できるはずもなく、無言のまま先を要求する。ロッシュもその反応は予測していたのだろう、逆らうでもなくしばらく思考を巡らせているようだったが、やがてふと低い声を零した。
「俺には、あいつが何かを隠しているように見えるんだ」
真剣な表情、それを受けるガフカもまた、厳しい空気を纏っている。ロッシュの言葉は、ガフカが漠然と抱いていた違和感を表す、ひとつの確かな形だ。警戒して距離を置くエルムにも、戦い以外の顔を知らぬガフカにも分からない深い部分を知る、親友という立場の男が発する証言は。
「それで、先程の質問か」
「ああ。ストックは、俺に外の様子を話そうとしない。いや、聞けば答えはするが」
ガフカと同じように、彼もまた己の思考を形にするのが苦手なのだろう。一つひとつ単語を拾うようにして、ロッシュは言葉を繋げていく。
「それが何か、妙な気がするんだ」
「赤いのが、お前に嘘を吐いていると?」
「それは分からん。……いや、その可能性もあるとは思っているが、確かめてみないことには何とも言えん」
そして厳しい表情のまま低く息を吐き出す、親友に疑念を向けるのは、彼にとって酷く辛い行為なのかもしれない。口にした今その時でも、ロッシュの挙動に濃い躊躇いが残っているのが、はっきりと見て取れる。
「嘘なのか、真実を告げていないのか、それは分からん。それとも、全部俺の勘違いなのかもしれないしな」
「だが、お主が自然に感じぬのも、また確かなのだろう」
ガフカの指摘に、ロッシュはまた瞳を揺らがせた。何かを言おうとして唇を開き、しかし声は発さず、そのままそれを閉じてしまう。言葉にならぬ感情の揺れが、彼の全身から漂っていた。
「ごついのよ。お主、これからどうするつもりだ」
それを過度に刺激せぬよう、ガフカは努めて穏やかな声音で、ロッシュに語りかける。
「赤いのの言葉の裏を確かめ、そして真実が分かったとして、その後はどうする?」
「真実、か」
勿論、それを考えていなかったわけがないだろうが。しかしロッシュは即答することをせず、もしくは出来ず、ゆるりと空を仰いだ。
「もし、あいつが何かを偽っているとしても……それは必ず、何か理由があるんだろう」
そして語られる言葉の中には、彼が親友に寄せる信頼の深さが、痛い程ににじみ出ていた。苦しげな、しかしそれだけではない強い光が、木々を見上げるロッシュの瞳を煌めかせている。
「それが知りたい。あいつが何でそんなことをしたのか、その理由が」
「……ふむ」
「あいつは俺の親友だ、だから……あいつが何かをしようとしているなら、一人でやらせるわけにはいかないんだ」
言いながらロッシュの右手が、鋼鉄の左腕に触れる。それは意識してのことか、それとも。
「そうか、お主は、赤いのの助けとなるつもりか」
それを見ながらガフカは呟く、そこに納得の色が無いことに気付いてか、ロッシュがちらりとガフカを見た。
「だが、もし、赤いのの目的を知れたとして。それが邪なものであれば」
穏やかなままの口調で語られる言葉に、木漏れ日に揺れる薄青い虹彩が、瞬時に鋭い色を帯びる。
「その時はどうする? それでもお主は、赤いのに手を貸すか」
反駁の言葉が無いのは、ロッシュも何処かで、その可能性を感じていたからか。数瞬視線が絡み、言葉にならぬ部分で、二人の意思が交わされる。
「その時は」
躊躇いがちにロッシュの口が開かれる、強い意志が見えるのに、それを貫ききれぬ何かが彼の中にあるかのようだった。何かが心の内で、信じた道を進む足を絡めとってしまっている。
「止める。ストックが、あいつが道を間違えているなら、俺がそれを止める」
「友が相手でも、か」
「ああ。いや、親友だから、止めるんだ」
力強い言葉も、自信の表れというよりは、己に言い聞かせているような必死さを孕んでいた。それでも彼の纏う気配はあくまで真摯で、友であるストックのことを、心底から案じているのが感じられる。
「そんな状態で辛いのは何よりあいつ自身だ、だから、止めてやらなきゃならん。俺に……今の俺に、それが出来るのかは分からんが」
そうしてまた左腕に触れる、動かぬ鋼鉄、彼が失ったものの象徴。ガフカも、ロッシュとその部下達に降り懸かった困難については、聞き伝ではあるが知っている。だからこそ、彼が戦いを捨てたとしても無理はないと思っていたのだが、その考えは少しだけ形を変えつつあった。
「ごついのよ」
黙り込んだロッシュに呼びかける、
いつの間にか彼らは歩みを止め、道の端で真っ直ぐに向かい合っていた。通る者も居ない中、戦士が二人、強い力で視線を交わし合う。
「お主は、どうしたいのだ」
それは先程の問いと、似ているようで決定的に違う。今まで語っていたのは方向を定める漠然とした思考、ガフカが求めたのは進退を決める明確な意思だ。
「お主の望みは、取るべき道は何だ。この里で静かに暮らすことか、それとも再び戦うことか」
畳みかけられて、しかしロッシュは応えることが出来ないようで、苦しげに唇を引き結んだ。彼の中には迷いがある、友への想いを以てしても克せないそれは、彼が受けた喪失が生む無力感なのだろう。
それはガフカも否定しない。部下の殆どを奪われ、己も死の縁を彷徨い、身体の一部ともいえる義手を奪われる――一度にこれだけの難を与えられれば、そのまま立ち上がれずともおかしくはない。
しかし、それでも。
「ワシは、お主が戦う力を失ったと、赤いのに聞かされていた」
「……ストックに?」
「ああ、あれは、お主がもう戦うべきではないと言っていた。里に留まり、平和な時を過ごさせるべきだと」
ほんの数時間前のことだ、エルムによって引き出された、恐らくは彼の掛け値なしの本心。ロッシュにとっては初めて聞く話だったのかもしれない、目に見え彼の表情が変わる。鋭い眼差し、睨みつけると言ってすら構わない勢いで、彼の視線がガフカに注がれた。
「ストックが……そんなことを」
「ああ、ワシもそう思っていた、今お主と会うまでは」
ガフカもそれに応え、ロッシュの心を力強く受け止める。彼らは戦士だ、ガフカがロッシュと戦場を共にしたことは無かったが、それでも彼の持つ研ぎ澄まされた戦意は存分に伝わってきていた。一時の絶望に曇ろうと、生まれ持った性質が根本から変わったりなどしない。
「お主は既に、十分な強さを取り戻している。けして、ワシが助けたあの時の、動くこともできぬ男ではない」
自信を、相手が持てぬ分の自信までをも込めて語られる言葉に、ロッシュは複雑な笑みを浮かべた。
「……そうかな。俺はまだ、戦うことも出来ねえってのに」
「いや」
自嘲のような、嘆きのような、暗い皮肉の宿った呟きを、ガフカはきっぱりと否定する。
「確かに、お主が失ったものは多い、その左腕も未だ動かぬのだろう。だが、お主の心は力を取り戻しているように、ワシには思えるがな」
戦おうという意思、それは肉体の力よりも余程重要なことだ。どれ程身体が傷つこうとも、精神が朽ち果てなければ、いつかは立ち上がることが出来る。逆にどれ程強大な力を持っていようとも、行使する心が伴わなければ、何の意味もないものだ。
ロッシュからその想いが失われていないことは、深くを語らずとも察せられた。動かぬはずの左腕を外そうとせず、放っておけば衰えるばかりの肉体を保つことも止めない、それらは彼の心が戦場から離れ切らぬことを定かに示している。
「困難ではあろう、だが友のためにと思う心があれば、けして進めぬ道ではない。違うか?」
淡々と、だが想いを込めて語るガフカの言葉を、ロッシュはどのように受け止めたのだろうか。ロッシュがゆっくりと息を吐く、一見すれば厳しいままの顔だが、その中で煌めく瞳に宿っている力は恐らく錯覚ではない。
「そうだな」
噛みしめるように、ロッシュが頷く。右手が左の鋼鉄から剥がされ、拳の形に握られて、胸に寄せられた。
「……少し、分かった気がするぜ」
「そうか。進むべき道は、見えたか」
「ああ、出来るかどうかは分からんがな」
険しく顰められていた目元がふと緩み、少しだけ柔らかなものに変わる。そこにあるのは、絶望を破って顔を出そうとしている、前へ進むための指向的な力だ。元来の生命力は、例え一時息を潜めたとしても、そう簡単に消えるものではない。
「あいつが何を考えているかは分からん。だが前と違うのは確かだ、これは単なる俺の勘だが、良い方には、向かっていない気がするんだ。放っておいたら不味いことになるかもしれない」
「うむ」
「……こんな身体でも、まだ、出来ることがあれば良いんだがな」
「言っただろう、大切なのは、意思だ」
霧の内に居る友を助けようという強い想い、それが事を動かす為に必要なもの、そしてガフカに足りぬものだ。意志を定め切れぬガフカは、ストックの、恐らくは歪みつつある道に踏み込むことができなかった。
だがロッシュなら、親友であり強い絆で繋がった男なら、あるいは。
「赤いのの為、出来ることをしてやれ。それは、お主にしか出来んことだ」
「ああ」
短く言い、ロッシュは力強く頷く。そこに居るのは一人の戦士だ、その真実に、ストックも気付けば良いのだが。親友は己が力を取り戻し、もはや護る必要など無いのだと。
「ありがとよ。話せて、随分すっきりしたぜ」
「む、大したことは言っておらんがな。力になれたのなら、何よりだ」
そう言うガフカに、ロッシュは言葉通りに曇りの晴れた様子で、笑みを作ってみせた。
「いや、助かったよ。一人で居ても、禄なことしか考えられなかったからな」
勿論、未だその迷いが完全に消えたとは言えない筈だ。しかしそれでも、少しばかりは、歩みを進める助けになっていれば、それはガフカにとっても喜ばしいことである。
「それなら良かったがな。しかし、ワシが何と言おうと、最後にあるのはお主の決断のみだ」
「ああ……そうだな」
それを成す意思は、彼の中で確かに育まれている。ガフカの思いこみではないのを如実に示す力強さで、ロッシュは深く頷いた。
「それじゃあ、俺は行くぜ。邪魔して悪かったな」
「邪魔などと言うことは無い、必要とあらばいつでも相手になろう。稽古の方もな」
歯を剥き出して笑うガフカに、ロッシュもちらりと笑みを見せる。それはガフカから視線を外し、自らの道を歩きだしたその時には、既に真剣なものへと変わっていた。
決然たる態度で去ってゆく、その逞しい背を見送り、ガフカもまた歩みを再開する。ロッシュが取り戻し始めた強さ、それがストックに良い影響を与えればいいと、ガフカはそっと思う。彼の中の歪み、様々な者が感じているそれを、正すだけの力となればいいのだが。それは里の為でもあるし、何よりストック自身の救いともなるだろう。
だが同時に、そう簡単にはいかないだろうと警告する声も、何故かガフカの中で消えずに響いている。他者が自然に察せるほどの深い闇、それを消すのが容易である筈もない。
希望と疑念、絡まり合いぶつかりあう二つの想いを抱えたまま、ガフカは里の中を歩く。
その背には、常には見えぬ悲しげな陰が、濃くかかっているようだった。


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セキゲツ作
2012.02.05 初出

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