「ですが、族長」
必死で縋るエルムの前で、ベロニカは無情に否定の意を示した。いや、彼とて安穏の上に座しているわけではない。長い時間によって刻まれた皺の内には深い苦悩が滲み、その英知を以て幾度も深慮を巡らせたのであろうことを、無言のうちに示している。それでも彼は考えを曲げようとせず、エルムの懇願にも否を以て応えるだけだった。
「ならぬ。堪えるのじゃ、エルムよ」
「しかし、あの者の危うさは、族長とてお気づきでしょう。それを里の内に置き続けるのは」
「ならぬといったら、ならぬ。……危険だからこそ、里以外の勢力に属させるわけにはいかん」
「族長……!」
深慮の果て、既にベロニカの心は決まっているのだろう、断固とした口調で語られる言葉には一片の揺るぎも感じられない。長であり絶対の信頼をおいているベロニカが断ずるという、本来ならば口を閉ざすべき場面でありながら、しかしエルムは引くことが出来なかった。その場に膝を付き、見上げる形になりながら、強い光をその目に宿してベロニカに相対している。
「おっしゃることは分かります、しかし恐れながら、もう一度だけお考えください。あの者は何処か、読み切れぬところがあります。手元に置いておけば安心できるとは、私にはどうしても思えないのです」
「……分かっておる」
不敬と謗られてもおかしくないエルムの言動だったが、ベロニカは諫めることなく、ただゆっくりと首を振った。そして大きく、深い溜息を吐く。
「エルム、お前の考えは恐らく正しい、あの者はこの里に安寧とするだけを目的とはしておらん。しかし……」
言葉を選んでいるのか、一度声を途切れさせ、再び首を振る。彼もまた迷っているのだろう、歴史の生き証人とも言える老人をして深い迷いから脱せずにいる、この問題が如何に大きく困難なものかを如実に示している態度だった。
「しかし、里に留める以外にどんな方法が考えられる?」
「あの者を、里から放逐してしまえば」
「それは出来ぬ。あれはこの里に居ることを望んでいる、それを絶ってしまえば、歪みが生じることは必至じゃ」
「……では、せめて里の外に住まわせ、里の者と関わる機会を極力減らしては如何でしょう」
「そう出来れば良いのだがな。しかしあの者も、その友らも、今となってはすっかり里に馴染んでおる。理由も無しに遠ざるのでは、里の者達こそが納得しないであろう」
「…………」
エルムは奥歯を噛み締め、床に突いた拳を握りしめた。あの男は危険だ、それを抱えたままでは里にどのような禍が及ぶか分からない、それははっきりしている。分からないのはそこから脱するための道筋だ、放逐することも距離を取ることも難しいのであれば、他に一体どんな手があるというのか。
あるいは長がその権限において命じれば、里の民の口も閉じるかもしれない。しかしベロニカにその意志は無いようだった、考えてみれば当然の話だ、サテュロス族は数百年に渡り外界との関わりを断ち、争いから背を向けて生きてきた。その長である彼が乱を呼ぶ道を避けたがるのは、道理と言えよう。
「エルムよ」
「はっ」
「お主が里のことを憂いてくれるのは、よく分かる。しかし、今は堪えてくれ」
「…………」
「まだ、きっかけが足りぬ。強引に事を動かせば禍根が残る、それは必ずや里に禍を運ぶ元となろう」
「……はい」
「あの者の持つ禍、それはワシも心に留めておく。それが里に害を及ぼさぬよう防ぐことも、族長の仕事じゃ」
重々しく言い、ベロニカはエルムから顔を逸らした。語る言葉とは裏腹に、自信を示しきれないその態度が、彼の抱えた迷いが未だ消えぬことを示していた。しかし族長として意見を示されては、エルムに逆らうことは出来ない。ぎり、と歯の噛み合う音が、口の中で鳴った。
「今は、動かぬ。話はこれまでじゃ」
「はっ。……有り難う、御座いました」
深く頭を下げ、それだけを絞り出す。族長との会話でも消しきれぬ、むしろいや増した不安が、心を満たしていた。
それ以上は何も言おうとしないベロニカを、エルムはそっと見遣る今まで一族を牽引してきた長、誰より長い生と深い経験を持つ老人の横顔は、何故か今急激に老け込んでいるように感じられた。



――――――


今日も里は平和だ。結界に守られ、外の戦争とは隔絶されて生きるサテュロス族の者達は、未来への不安もなく日々の生活を営んでいる。
いや、彼らとて世界の惨状は知っているはずだ。特に儀式の不履行によるマナの乱れは、自然と共に生きるサテュロス族の民が見ぬ振りなど出来るはずもない段階に達している。それに対しての不安を抱かぬ筈はないが、しかしそれでも彼らは自らの安全を保つことを第一にして、何らかの動きを行うことなど考えてもいないようだった。それは長であるベロニカと同じ姿勢であり、エルムもが長い間貫いてきた態度でもある。
外の争いに関わる必要などない、人間などに交わらねば里の安全は保たれる、それこそが一族の取るべき道なのだと信じて戦い続けてきた。その考えは未だ変わってはいない、しかしここしばらくで、少しばかり事情が変わってしまっていた。
「あら、エルム様」
族長の部屋を辞して歩くエルムの姿に、里の者達が声をかけてきた。朗らかな笑みを浮かべた女性に、エルムも堅い表情を緩め、会釈を返す。
「見回りですか、お疲れさまです」
「いや、アト様を探しているのだが」
「アト様ですか?」
エルムの答えに女性は一瞬言葉を切り、視線を宙に浮かせた。しばらくの間思考が巡り。しかし女性の記憶の中に返すべき答えは無かったようで、申し訳なさそうな顔でひょいと首を捻る。
「申し訳ありません、この付近では見かけなかったと思います」
「そうか。いや、それなら構わない」
「多分、ストックさんのところにいらっしゃるんでしょう。 里にいらっしゃる時は、いつもご一緒のようですから」
代わりとばかりに女性が提供した情報、それを聞いたエルムの瞳が、途端に鋭くなる。つい先ほどまで族長と語り合っていた問題の張本人、彼女の言う通りアトはその男に酷く懐いていた。里に現れた当初は怯えた様子も見せていたが、時を重ねるにつれそれも和らぎ、今ではストックが任務で出ている時以外は必ず彼の後を追っている有様だ。子供らしく一途な思慕を隠そうともしないその姿を、里の者達も微笑ましく見守っている、その程度にあの男は里の者達に好意的な印象を植え付けていた。むしろ今となっては、エルムのように反発を抱いている者の方が圧倒的に少数である。エルムの目に宿った剣呑な光に、女性は苦笑を浮かべた。
「まあ、エルム様……まだストックさん達のことをお認めにならないのですか?」
「……いや、うむ…」
「エルム様も頑固なこと、確かに彼らは人間ですけれどね、あんなに里のために尽力してくださっているじゃありませんか。私は、彼らであれば里に永住しても良いと思いますね」
むしろ優しく、諭すような口調で語られ、エルムは眉を顰める。彼女が言う通り、ストックも彼の親友達も、今ではすっかり里に馴染んでいた。いや、実はそれ自体が問題というわけではない。外界を拒絶し続けるという態度は、裏を返せば身内に甘いということにもなる。例え多種族であってもそれは変わらない、彼らが来る以前にもブルート族であるガフカが住人として認めらた前例があり、それを考えれば今の状態はさほど不自然なものとも思われなかった。だから彼らが里の住人として認識されるのは、多少の猜疑は残れど、不安に結びつくようなことではなかった。
――問題なのは。
「それに、だからといって人間自体を認めるわけではないのですから。外の者を中に入れる等考えられません、それは変わっていませんよ」
「……そうか」
「ええ、里を開いてしまえば、私たちの安全も崩れてしまいますもの。外の国なんて野蛮なものと、関わるものじゃありませんよ」
ころころと、実に楽しげに女性が笑う。あまりに自然な閉塞に、エルムの背筋に寒気が走るのを感じた。排他と停滞はサテュロス族の持つ特性なのだが、それがここ最近、特に強くなってきたように感じられる。
元々はサテュロス族とて、完全な一枚岩というわけではない。自ら進んで外界と関わるバノッサのような者は数少ないとしても、里を閉ざし世界の危機に背を向け続ける姿勢に疑問を感じる者は、いつでも一定数存在したのだ。しかし今ではそんな声を聞くことは滅多にない、未来ある若者達でさえ、結界の中に閉じこもることを当然と考えるようになってきていた。それは表面上だけ見ればエルムの考えと近いように見える、実際里の者達は、エルムがストック達を留めることにのみ抵抗を覚えていると考えているのだろう。
「……失礼する。アト様をお探ししなくては」
「ああ、そうですね。お引き留めして申し訳ありません」
「いや、気にしないでくれ。では」
「はい、アト様にお会いしたら、よろしくお伝えください」
深々と頭を下げる女性に別れを告げると、エルムは歩みを再開した。里の現状、世界の惨状、そしてサテュロスの民を待ち受ける未来。森に包まれたセレスティアだが、今のまま砂漠化が止まらなければ、この緑も全て砂となってしまうのだ。里の者達はそれを分かっているのだろうか、サテュロス族であれば分からぬはずはないのだが、その事実を口に出す者は居ない。
柔らかな木漏れ日を顔に受け、エルムの目が細められる。いつからこうなってしまったのか、徐々に変わってきた意識の源を辿るのは難しい。しかしエルムの目にそれは、この里に人間が入り込んだ故の変化であるように感じられていた。外界の者を取り込むことでより閉塞が強まるというのも、奇妙なことに思われる。恐らく、当の人間であるストックが、外の国と交わることを強く反対しているのが、大きな原因となっているのだろう。元々アリステルに所属しており、今でもバノッサについて里の外に赴いている彼が主張する情報は、里の者の耳に重く響くのだ。
何もなければあるいはエルムも、彼の言葉を信じてその思想にに染まり、これまでの排他意識をより強めていたかもしれない。そうならなかった理由といえば、ストックに対する不信感に他ならなかった。あの男は危険だと本能が告げている、彼が導く先に進んでしまっては破滅が待つのみだと、エルムの中で叫ぶ声があった。このままではいけないという漠然な予感が、しかしそれを言葉にしたところで、今の状況を変えられるものとは思えなかった。
「……どうなるのだろうな」
セレスティアは。そして、世界は。植物の生命が濃く満ちる空気、その中に一筋感じる乾いた砂の気配を感じて、エルムは恐れの混じった低い息を吐いた。ひとり首を振る彼女の表情は、暗い、暗く沈んだ表情でひとり首を振る、だがその視界に捜し求めていた姿を捉えた瞬間、瞳に一筋明るい光が射した。
「アト様、こちらにいらっしゃったのですか」
「あれっ、エルムなの!」
「エルムか。どうした、族長と共に居たのではなかったか」
傍らに居るのはガフカだから、女性の予想は外れたこととなる。ブルート族の戦士であり、一般的なサテュロス族を遙かにしのぐ実力を持つ彼は、里の外に飛び出したがるアトの護衛を勤めることが多い。今日もお目付け役として働いていたのか、大きな身体で小柄な少女に付き従っていた。
「ああ、今日は会合も無いからな、護衛は要らぬということで自由に動かせてもらっている」
「エルム、アトを探してたの?」
「はい、その、そうですね……」
純粋な瞳で問いかけられ、エルムは一瞬言葉を詰まらせる。探していたのは事実だが、いざ目の前に立つと、どう話を切り出していいものか。
「どうしたの、おじいちゃまに何かあったの?」
しかし戸惑っている暇は無い、アトとガフカが揃いストックが居ないというこの状況は、滅多にない好機である。エルムは首を横に振り、アトの心配を優しく晴らしてやると、少女と目線を合わせるためその場に膝を付いた。
「いいえ、大丈夫です、族長様には何もお変わりありません。ただ……少し、アト様にお伺いしたいことがありまして」
「アトに?」
不思議そうに目を丸くするアトを、ガフカがひょいと抱き上げて、森に入り込んだところにある倒木に座らせた。短く終わらない気配を感じてのことだろう、細やかな心遣いに感謝し、エルムが軽く会釈をする。
「はい。それと、ガフカにもだな」
「む、ワシか」
唐突に矛先を向けられたガフカが目をむく、その様子が面白かったのか、アトが軽やかな笑い声を上げた。無邪気な笑顔にエルムも口元を綻ばせ、彼女の隣に腰掛ける。ガフカは、その大柄な体躯故に倒木に腰掛けることは出来ず、彼女らを護るようにして傍らに立った。
位置を決めた二人から、エルムに対して問いかける視線が注がれる。それを意識しながら、エルムはひとつ呼吸を整えると、心を決めて口を開いた。
「お聞きしたいのは、ストック……殿についてです」
発せられた名に、アトは驚きひょこりと飛び上がる。ガフカは穏やかな無表情を崩さない、それは内容を予想していたのか、それとも胆力によって己の内心を表に出さないだけか。
「赤いのか。お前があれのことを話題に出すのは、珍しいな」
「ほんとなの。エルムはいっつもストックのことを怒ってるのに、びっくりなの」
怒っているとは少し違う気がするのだが、子供の語彙では、その程度の単語しか選び取ることができないのだろう。可愛らしい顔をくしゃりと顰めてアトがエルムを睨みつける、エルムがまたストックを責めるとでも思っているのかもしれない。そしてその考えはあながち間違いではない、先程までベロニカと交わしていた会話は、アトが聞いたら間違いなく祖父とエルムに食ってかかっていたであろうものだ。
「そのようなことはありません、ただ……そういえば私は、彼について何も知らないと思って」
「ふむ、それは確かにな。今までは人間だからといって、まともに話そうともしていなかっただろう」
「……ああ、その通りだ」
ガフカの手厳しい指摘にも、エルムは怯むことなく頷き、彼の丸い瞳をじっと見返す。
「そのお前が、態々話を聞きたいとはな。何か心変わりするようなことでもあったのか?」
「いや、別に……何、というわけでもないのだが」
本音を言えば、彼らの話の中に停滞した状況を打破するためのきっかけがあればと思ったのだが、アトの前でそれを口に出すわけにはいかない。そんな内心の声に気付いたのかどうか、ガフカは優しげな目をくるりと回して、エルムを見下ろした。
「まあ、何にせよ、話を聞こうとするのは良いことだ。アトも、そう思わんか?」
「……アト、よく分かんないの。エルム、ストックを虐めるの?」
「まさか、そのようなことは致しませんよ。私はただ、彼がどういう人間か、知りたいだけです」
エルムの言葉にもアトの瞳に満ちた疑心が消えることは無かったが、彼女の心を溶かすまで待っていては時間がかかりすぎる。エルムはひとまずアトを置いて、ガフカへと向き直った。
「ガフカ、お前はストックと共に行動することが多かったな」
「うむ。戦うのがあれの仕事だからな、ワシと同じだ」
そして投げた問いに、ガフカはそれ以上意図を問うことはせず、素直に答えを返す。隣ではアトが、じっと彼らの様子を窺っていた。
「では、教えて欲しいのだが……そうだな、任務に出た時、人間と戦う機会はどれ程ある?」
「む?」
そして続いた言葉は、しかし今度こそ彼の予想と外れたものだったのか、虚を突かれた様子で目を瞬かせた。濃い顎髭を捻り上げ、軽く首を傾げて、考えつつ口を開く。
「人間か、さほど多くはないな――いや、殆ど無いといったほうが良いか。貧しい旅芸人を襲うような盗賊などそうは居ないし、兵士は論外だ。軍人を殺したとあれば、下手したらその国の軍全体を敵に回しかねないからな、そんなことは無いようにバノッサ殿が注意しているよ」
「……成る程な」
何故そんなことを聞くのか、そう言いたげなガフカの眼差しをエルムは敢えて流し、さらに問いを重ねる。
「ではもう一つ。あの者は、里の外ではどんな様子だ?」
「様子か。また、随分と曖昧な問いだな」
「例えば、誰かと連絡を取っているだとか……一人で別行動をとるだとか」
躊躇いがちに足された言葉に、ガフカはちかりと瞳を光らせた。
「エルムよ、お前、赤いのが内通者だと疑っておるのか」
直截な質問に、即座に答えることが出来ず、エルムは黙って瞼を震わせる。
「エルム、やっぱりストックのこと嫌い?」
「いえアト様、そんなことはありません、そういった話ではありませんから」
子供は大人達の会話に敏感だ、先程よりさらに険しくなった目で睨みつけられ、エルムは慌てて首を横に振る。
「ただ、可能性は潰しておかなければと。そんな事実が無ければ、それで良いのですから」
「そうだな。うむ、一座が興業をしている時などは隊から離れているようだが」
何気ない様子でガフカが口にした内容にエルムは目を光らせた、それはまさしく、エルムが抱いている疑念の証にも繋がる行動だ。一人行動している間に何をしているかが分かれば、そしてそれが人間の勢力に荷担する行動だと明らかに出来れば、里の者達の心も動かすことが出来る。勢い込むエルムに、しかしガフカは気の無い様子で言葉を続けた。
「しかし別段、秘密とも感じられんがな。ワシが付いていくと言えば拒まぬし、やっているのは情報収集だけだ。それに……」
「いや、それはお前が居る間だけのことだろう、一人でなければ予定を変更すれば良い話だ」
「だがワシが付いていかぬ間も、情報は得てくるようだぞ?」
「他の者と接触して、情報を貰っているのかもしれない。そうして自分が役立つことを印象づけられれば、里の者達の信頼を得て、さらに行動の自由を得ることにも繋がる」
「……ふむ。随分と根深く、赤いのを疑っておるな」
語調を強めて語るエルムを眺めて、ガフカはひとつ息を吐いた。
「どうしても、あれを里から追い出さねば気が済まぬか」
「…………」
「お前の人間嫌いは知っておるが、それだけが理由か? 彼らが里に留まるのは族長の判断だ、それに表だって逆らうなど、お前らしくない」
族長とても彼の危険性に気付いているのだ、そう口にしてしまいそうになるのを、寸前で堪える。エルムとて私的な感情のみで彼らの存在を敵視しているわけではない、ガフカもそれには気付いているのだろう、だからこそその理由を問うているのだ。
「……具体的な理由があるわけでは、ないんだ」
エルムは考えつつ言葉を紡ぐ、ここではっきりと語れる明確な原因があれば楽なのだが。しかし今彼女の中にあるのは、形にすらならない漠然とした不安だけだ。
「確かにあの人間達は里のために働いている。ストックはともかく他の二人は、そもそも里から出ようとしていないしな」
「うむ、赤いのにしてたところで、バノッサ殿の護衛や近隣の警備に付いていく程度だ。疑うべき点は無い……と、皆思っているだろう」
彼らが人と関わらず、完全に里に属する存在となっている故に、排他的なサテュロス族ですら彼らを受け入れ身内として認識しつつある。むしろその姿勢に引き摺られ、元来の排他性を強めてすらいるのだ。しかしそれでも彼らを信じきらぬ者はいる、エルムやベロニカ、そしておそらくはガフカも。
「あるいは、内側から里を変えていくのが目的ということも、あるかもしれない」
ぽつりとエルムが呟く。目的を達するまでは必要が無いのだとしたら、今外部との接触が無いのも頷ける話だ。意見を求めてガフカを見るが、その顔にあるのは、相変わらず穏やかであるが故に内心の読めぬ静謐だけだ。
「ガフカよ、お前はストックと共に戦っているのだったな。あの者の剣、どう見る?」
言葉での説得は難しい、そう感じてエルムは、また別の角度からの問いを投げかけてみた。武を尊ぶブルート族に対して、謀略を云々するよりは、余程親和性のある話のはずである。
「うむ……難しい問いだな」
果たしてその狙いが当たったのかどうか、渋い顔で思考するガフカが、唸り声と共にその口を開いた。
「そうだな、余程鍛えているのだろうな、相当な腕を持っている。それに、迷いの無い、真っ直ぐな剣だ」
「つまり? あれは悪い者ではないと?」
「そうだな、邪な思いや我欲で振るわれる剣ではない。それはよく分かる、しかし」
そう言いながらも、ガフカの表情は険しいままだ。元々、戦場での印象など感覚的なものでしかなく、言語による表現に落とし込むのは容易ではない。しかしエルムの真剣な様子に、己も出来る限り誠実に答えようとしてくれているのだろう。ガフカは顔の皺をより深くして考え込みつつ、言葉を続けた。
「……里を護るためだけに戦っているのだとも、思えないのは確かだ」
「どういうことだ?」
「うむ、上手くは言えんのだがな。あれが戦うときの気迫は、普通のものではない――戦いを普通などというのも、妙なものだが」
「いや、分からぬでもない。単に護るための戦いではないと、そういうことか」
「敵を切るのに、それ以外の目的があるとも思えぬがな。しかし、あの者の剣には、何処か底知れぬところがある」
悪いものでは、ない筈なのだが。そう語るガフカの、厳しく顰められた相貌を、エルムはじっと見詰めた。こと戦闘に関する限り、ガフカの感覚は信用できると考えて良い。しかしその言葉、一体どう解釈したら良いものか。
「……ストックは、優しいの」
二人が黙り込み、訪れた沈黙の中、アトがぽつりと声を零した。外衣の裾をぎゅっと掴み、視線を地面に落とす。
「ストックは、皆を護ってくれてるの。優しいから、、皆のために戦ってるの。でも……」
普段は明るく輝いている顔が、今は泣きそうに歪められていた。幼く純粋な少女の、あまりにも真剣なその姿に、エルムはしばし声を失ってアトを見詰める。
「でも、ストック、変なの。今のストックは……ちょっとだけ、怖いの」
「アト様、それは一体……ストック殿が、何かを言っていたのですか?」
エルムの問いに、アトは俯いたままかぶりを振った。祖父にも誰にも言えなかったことなのだろう、溜め込んでいた思いが少女の胸を痛めていることが、傍らに寄り添うエルムにも感じられる。
「違うの、でも分かるの。ストックは、何だか怖いの」
「何が怖いとおっしゃるのですか、まさかあの者、アト様に何かを」
「違うの! ストックは優しいの、でも怖いの、ちょっとだけ……」
足りない言葉で必死で成される説明だが、そこから真実を読みとるのは中々に難しい。救いを求めてガフカを見るが、彼とてもアトの心は理解できていないようだった、困惑を浮かべて首を横に振っている。
「ストック、いつものストックじゃないの。前はもっと……怖くなかったの」
アトの主張に頷くこともできず、さりとて上手い切り替えしも思いつかず、エルムは途方に暮れてアトの頭を撫でるばかりだ。以前は、と言われたところで、エルムの目から見れば里に来た当初から今まで、変わることなく不審に感じられているのだが。
「……アトの言うこと、分からぬでもない」
ぼそりとガフカが言う、エルムが視線を向けると、ガフカは瞼を瞬かせて首を傾げた。
「あの者には底知れぬ部分がある、と言ったな。それと同じだ、あれが振るう剣は確かに歪み無く真っ直ぐだが、何処か違和感を感じるのだ」
「偽りがある、ということか?」
「そうは思えぬのが、妙なところだ。己を偽る剣ならばそれと分かる、しかし自らの心に正直でありながら、それが正しいものに感じられぬとは」
そう言って唸り声を洩らすガフカにつられて、エルムも小さく溜息を吐いた。分からない、言ってしまえばその一言に尽きる。元々は、ストックが里に害成す証拠を掴みたかっただけなのだが、今となってはそもそも彼の真意すらが分からなくなってきていた。アトもガフカも、権謀術数とは遙かに遠い存在だが、それが故に思考に因らず感じ取るものはとても鋭い。その彼らが感じるというストックの違和感、その陰には一体どんな真実が潜んでいるものか。
三人の上に重い沈黙が落ちた、口を閉ざした三者が三様に、深く考えを巡らせている。時折、アトが蹄を打ち合わせる軽やかな音が響くのみで、誰も言葉を発することのない静かな時間が過ぎていった。――そして、それを乱したのは、言葉ではなく。
「…………」
さくさくと、下生えを踏みしめる足音が、辺りに響いた。それを耳にしたエルムはびくりと身構える、蹄を持つサテュロス族が立てる音とは明らかに異なるそれは、靴を履く人間が奏でる類のものだ。そしてこの里に滞在している人間は極限られている。足音はゆっくりと、しかし確実にこちらに向けて近づいてきて、やがて直ぐ目の前の道まで辿り着き。
「――ストック!」
そして表れた姿を目にしたアトが、顔を輝かせてその名を叫んだ。話題の渦中に据えられていた人物の登場に、エルムは表情を硬直させ、鋭い視線を整った横顔に突き刺す。
「……ガフカ。アトと居たのか」
泣きそうに沈んでいた表情は何処へやら、アトは笑顔を浮かべて子猫のように駆け寄り、ストックの腰に抱き付いた。それを受け止めてやりながら、ストックはガフカに顔を向け、口元に微かな笑みを浮かべる。
「む、どうした」
「見回りだ。哨戒部隊から頼まれた、先日ゴブリンの群を見かけたから、念のためついて来て欲しいそうだ」
「おお、そうだったか。すまぬ、探させてしまったようだな」
「構わない」
静かに首を振るストックが、ふとエルムを見た。表れた瞬間から睨み付けているのだから当然だろうが、不審をその顔に浮かべ、エルムを見返してくる。
「…………」
口を開かぬストックの顔を、エルムは深く探る視線で見詰めた。それで彼の秘めたる何かが見えるわけでもない、しかし表情の推移で何某かの内心を読むことはできないかと、そんな益体もない希望を抱いているのは否定できなかった。
「エルム……ストックのこと、虐めちゃ駄目なの」
アトがストックを庇うように立ち、厳しい目で睨み付けてくる。エルムは、それに対して取り繕うことも出来ず、ただ少しだけすまなさそうに顔を歪めて頭を下げた。
「申し訳ありませんアト様。ですが……この際ですから、疑いは晴らしておかねばなりません」
そう、考えてみればこれは好機だ。周囲から攻めても穴が分からないのであれば、いっそ本人を問いつめてしまえば、突破口が見えてくるかもしれない。健気にストックを慕っているアトのことを考えると、胸が痛まぬでもないが、それでも里の安全と秤にかけられるものではない。
「ストック。良い機会だ、聞いておきたいことがある」
問いかけるエルムに注がれるストックの視線は、凍るように冷たい。しかし立ち去る気配が無いのは、彼もまたエルムの抱える疑念に気付いていたのだろう。気温すら下がったかのように冷えた空気の中、エルムは僅かに唇を湿らる。
「お前は……何を考えて、この里に留まっている」
そして発せられた問いに、ストックの眉が微かに持ち上げられた。あまりに直截な言葉に驚いたのか、それとも単にエルムの真剣な姿が滑稽ででもあったのか。それ以上、表情に内心を示す動きを出すことはせず、しばしの沈黙の後に口を開いた。
「……何度も、言っている筈だ。国に愛想が尽きた、この里で静かに暮らしたい、と」
「本当に、それだけか?」
「ああ」
重ねての問いにも僅かな動揺すら見せず、ストックは淡々と答えを返す。人形ではないのだ、真っ直ぐにぶつけられた疑念に対して何らかの思いを抱いていない筈はないが、それでもエルムの目では宿る感情を読みとることはできなかった。
ストックは何も言わない、緑の虹彩に揺らぎもせぬ光を乗せたまま、エルムのことをじっと見ている。嫌な圧迫感を感じて、エルムは口元を歪めた。しかしそれで退く程、薄い覚悟で挑んだわけではない。
「そうか……だが、静かにと言いつつも、戦いには近しい暮らしを送っているようだが」
「……政治だの陰謀だの、くだらないことに利用されるのが嫌になっただけだ。必要ならば、剣を振るうことは厭わない」
荒くはない、だが刃のように鋭い語調に、アトがまた泣き出しそうな顔になってストックに抱きつく。ストックの瞳に一瞬だけ咎めるような色が浮かんだ、敵に対しては限りなく容赦のない男であっても、自分に懐いている少女は可愛いものなのだろう。
「話はそれだけか? ……見回りがある、何も無いなら行かせてもらうぞ」
「いや、待て。あとひとつ、聞いておきたいことがある」
立ち去ろうとするストックを引き留めて、エルムはひとつ息を吸い込んだ。ずっと感じていた疑念、ストックに纏わりつく嫌な重苦しい気配を今もまた強く感じ取りながら、エルムは嫌悪を乗せて言葉を叩きつけた。
「お前は、何故人間を殺している」
ストックが眉を顰め、言っている意味が分からぬとでも言いたげに首を傾げる。その腰にしがみつくアトの腕に、一層強い力がかかったように見えた。
「任務から戻ったお前は、いつも血の臭いをさせている。……人の、血だ」
「……俺の役目は護衛だ、戦いに到ることもある」
「だが、人間の兵士と戦うことは殆ど無いのだろう。先程ガフカに聞いたぞ」
ストックがちらりとガフカに視線を遣る、二人のやり取りを見守っていたブルート族の男は、それを受けてうっそりと頷いてみせた。
「うむ、そうだな。怪しまれぬように旅芸人の姿を装っておるのだ、そうそう諍いを起こしているわけがなかろう」
「それなのに、お前はいつも、血を纏っている。ああ、魔物の血などとくだらぬ言い訳はするな、その程度の見分けが付かぬ程鈍っているつもりはない」
語気荒く言い募るエルムだが、ストックはあくまで平静を崩そうとしない。ただ薄い唇の端を微かに持ち上げる、それは笑みというには印象が冷たく過ぎ、いっそ酷薄とすら表現できるようなものとなっていた。
「……必要だから、斬ったまでだ」
「必要、だと? 一体何のためにそれが必要とされていたというのだ、任務からも外れたところで戦いに耽る必要が、一体何処に」
「お前は」
エルムの言葉を遮るように、ストックが声を上げた。静かなくせによく通るそれは、聞く者の口を閉じさせる奇妙な力を持っている。エルムの喉へと言いかけた言葉が消える、その代わりのようにして、ストックの声が響く。
「里の外が……人間の戦争がどうなっているか、知っているか」
「グランオルグとアリステルの戦か。相変わらず趨勢も定まらぬままだと聞くが」
「バノッサや俺が持ち帰った情報だな、勿論、それは間違っていない」
ストックが皮肉げに呟く、結界の内に籠もるサテュロス族の民にとって、外界との繋がりは外で活動するバノッサや他の者達がもたらすものに限られている。
「そうだ、相変わらず戦いは続いている。決め手を欠いたまま、終わる気配も無く」
エルムも自警団として、見回りのために結界を出ることがある。しかし目的はあくまで警備、結界の付近を哨戒するのみだ。人間の住む街にも、合戦が起こっている現場にも、近寄ったことすらない。
「その中で、こんなことを語る者達が居る」
だから、普段の報告でバノッサやストックが語らなければ、人間の世界で何が起こっているかは知る由も無いのだ。
「――セレスティアを、戦場にしてしまおうと」
「なっ」
驚きに息を飲むエルムの反応が予想通りだったのか、ストックは片頬を持ち上げ、薄い笑いに似た表情を浮かべた。
「二国で均衡を保っているなら、第三国を巻き込んでしまえば良いと、そういうことだ。属国にして戦力を搾り取れと言う者も居れば、正当に国交を結んで同盟国となるのを主張する者も居るが……どちらにしても、求めることはひとつだろう」
攻め込まれ侵略されれば勿論、例え対等な同盟を結んだとしても、結局セレスティアに戦禍が及ぶことは免れない。その意味が染み込むに従い、エルムの中にじわりとした寒気が広がっていく。
「それは、族長には」
「伝えてある。だが、積極的に動くことはしないだろうな」
ストックの言う通りだ、自ら攻めることを放棄して久しいサテュロス族は、禍が近づいていようともそれを避けるために戦うことを選べない。
「だが、座して待つだけでは、むざむざと蹂躙されるだけだ」
言葉にすることでその事実はいっそう身に染みて感じられる、だがエルムとて何をすべきかと言われれば、結界を強化する以外の選択肢を考えることが出来なかった。自ら攻めるのは論外だ、しかし交渉の席に着けば、多かれ少なかれサテュロス族の民を戦いに送り出すことになるだろう。最も悪い場合は、この里自体が戦場となってしまう。
「その通りだ、だから俺は」
エルムの焦りなどとうに通り越した、静かな瞳、穏やかな語調。何事もない、ただの世間話を語るかのような調子で。
「任務で人間の街に行く度、セレスティアへの侵攻を推し進めている者を、始末している」
それはあまりに、あまりに何気なく発せられたため、エルムは一瞬反応することが出来なかった。アトなど意味自体が分からなかったのかもしれない、無邪気にきょとんと目を見開いて、無邪気にストックを見上げている。
「赤いのよ、お主……姿を消している間に、そのようなことをしていたのか」
唯一ガフカだけが、事態を正確に把握することができたのだろう、穏やかな彼には珍しく険しい表情でストックを見据えた。警戒と戦意を孕んだ気配に、エルムも言葉の重さを実感し、畏怖の目でストックを見る。
二人に注視されたストックは、しかし気にした様子も無く、表情を動かさぬままひょいと肩を竦めてみせた。
「ああ。……毎回では無いがな。必要な時だけだ」
「そんな、そんな言い訳が通るか! アト様、その男から離れてください!」
血相を変えたエルムの叫びに、アトは戸惑い、救いを求めるようにストックに視線を送る。ストックは、こんな話をしているというのに奇妙な程優しい表情でアトの頭を撫で、向けられた鋭い警戒を真正面から受け止めていた。エルムがその手を払いのけてアトを抱き寄せる、アトも彼女の勢いに圧されてか、抵抗することなくされるがままにストックから引き離される。
「何故……貴様は何故、そんなことを」
「里を護るためだ」
それを追うでもなく、素直にアトから手を離したストックは、すっと傍らの樹木に背を凭れた。自然な形で腕を組み、奇妙に静かな気配を保ったまま、エルムの殺気にも似た敵意を受け流している。
「何もしなければここが戦場になる、かといって他の者は動こうとしない――ならば、自分で対処するしか無いだろう」
「だが、貴様は人間だ! サテュロス族のためにそこまでする義理など無い、一体何を考えて」
「それは違う。お前達を護っているわけじゃない」
言い募るエルムの言葉を、ストックの声が再び遮る。
「この里に居る、親友達のためだ。この里が戦いに巻き込まれれば、あいつらの平和も崩されてしまう。だから戦う、それだけだ」
何の感情も籠もっていなかった声が、その言葉を発音する時だけ、僅かに優しげな色を帯びた。嘘には聞こえない、恐らく彼は今本心そのままを語っている、サテュロス族の持つ鋭敏な感覚がそう訴えてきている。
「だから、人間……同胞を殺しても構わないというのか」
「ああ」
迷いや怒りは愚か、僅かな気負いすら感じられない平静な様子で、ストックが頷いた。魔物を倒しているのだと語るのと同じ程度に軽く語られる言葉は、その穏やかさとは裏腹に、聞く者の背を冷たくさせる。エルムはアトを強く抱き締めた、腕の中で少女は一体どんな瞳をしている者か、今はそれを確認する余裕すらない。
「俺は、あいつらを……ロッシュとソニアを護ると決めた。あいつらが生きて、そして幸せでいてくれるなら何でもする、何を犠牲にしたって構わない」
「だが! それでも、もっと他に方法があるだろう……暗殺だなど、そんな野蛮なことをせずとも」
「……方法か」
ふと、ストックの瞳が苦しげに細められた。何処か遠くを、遙か隔てられたどこかを見るような、揺れる光がその目に宿る。
「そうだな、他にあれば良かった……誰も傷つかず、何も壊れない方法が。だが」
エルムに向かってというよりは、独白とも思える調子でストックが呟き、拳を己の胸に圧し当てる。
「俺には、これしか出来ない。この道でしか、あいつを護れなかった」
苦しげ、と言ってもいいかもしれない。僅かな表情のゆがみ、それが痛いほどに彼の感情を伝えていた。
「野蛮だと言われても否定はしない。だがそれ以外に、政治の世界に介入する方法が無いのも事実だ。だから俺は、俺に出来る方法でこの里を――親友達を、護っている」
「ふむ、成る程な」
黙って、エルムとストックのやりとりを眺めていたガフカが、ふと声を上げた。そこにエルムのような恐怖と焦りは見られず、平静に近い気配を纏っている。
「友のために戦う……それがお主の信念か、赤いのよ」
「ああ」
戦士である男は、戦士であるが故に、ストックの言葉から何かを受け取ったのかもしれない。皆の視線を集める中で、ガフカはひとつ頷くと、組んでいた腕をゆるりと解いた。
「ブルート族には、昔、人間の友の為に禁を破り命を落とした者が居る。戦士にとって、友との絆は大切なものだ、戦場を共にした相手であれば尚更な」
「ガフカ」
「お主のしていることが正しいかどうか、それはワシには分からん。だが、お主がそれを信じるならば、進めば良い」
ガフカの言葉に、ストックはふっと表情を緩めて、笑みに近い形を作った。瞳に浮かんだ悲痛な色も薄れ、それまでの穏やかな静謐を取り戻している。
「……有り難う」
ぽつりと零された言葉は、やはり彼の心からのものだったのだろう。そして小さく頷くと、寄りかかっていた樹から身体を起こすと、エルムに視線を走らせる。
「話は、それだけか?」
「むっ……」
気圧されたまま答えることのできないエルムに、ふっと肩を竦めると、そのまま身体を翻した。
「無いなら、行くぞ。ガフカ」
「む、そうだな。エルム、アトを頼むぞ」
「あ、ああ……」
未だ寒気に捕らわれているのはエルムだけなのだろうか、ストックもガフカも既に日常へと戻った様子で、任務へ向かおうとしている。二人の背を、半ば呆然と見送りながら、エルムはその場に立ち尽くしていた。
「……エルム、苦しいの」
腕の中でアトが言う、その声で我に返り、慌てて腕の力を緩める。ようやく解かれた拘束から飛び出したアトが、不満げな顔でエルムに向き合った。
「申し訳ありません、アト様」
「ううん、良いの。……エルム、大丈夫?」
そして小さな手を伸ばし、エルムの手をぎゅっと握る。感じる暖かさに、エルムの冷えた心にじわりとしたぬくもりが広がった。
「……大丈夫です。申し訳ありません、ご心配をおかけしまして」
何とか笑みを作りアトに向かって頭を下げると、納得したのかどうか、アトは頷いて倒木に向かい、ひょこりと腰をかけた。少女に目線で促されるまま、エルムもアトの隣に座る。
「ストックは、やっぱり、皆を護ってたの」
脚をぶらりとさせながら、アトが呟いた。その声には満足げな気配が見え隠れしている、好意を寄せる相手の疑惑が晴れたのを、嬉しく思っているのかもしれない。勿論、少女と同じ気持ちをエルムが持てる筈もなく、彼女の表情からは陰鬱な色が消えずにいた。
「……そうですね」
「エルムは、ストックの言うこと信じてないの?」
「いえ、そういうわけではありません。あの者は本当のことを語っているのでしょう、ただ」
あの真剣な瞳、刃のように鋭い想いは、とても虚偽とは思えぬものだった。彼の言葉は全て真実を表していた、だがそれ故に。
「ただ……私はやはり、彼が恐ろしい」
耐えきれず零れ落ちた言葉は、エルムがずっと堪えていたものだった。そうだ、感じていたのは得体の知れぬものに対する恐れであり、怯えである。ストック自身と対決した後でもそれは消えずに残っている、いや、近づいたが故に一層強くなってすらいるかもしれない。
「私には分かりません、あの者は本当に、里を護っているのでしょうか。彼自身にそのつもりがなくとも、いつか……いつか、全てを壊してしまうのではないかと」
それは、アトに向けて語るのではなく、抱えることに耐えかねた心が溢れ出たようなものだったのだが。地面に視線を落とし、訥々と語るエルムをじっと見詰めていたアトが、ふいに小さな身体でエルムに抱きついてきた。
「エルム。……仕方ないの、ストックは悪くないの」
「アト様」
「ストックがそうなのは、ストックのせいじゃないの。だからストックは、ここに居てもいいの」
少女に相応くない、何かを悟った者の語調で、アトはエルムに語りかける。その意味が分からず、エルムは少女を抱き返しながら首を傾げた。
「アト様、それは一体、どういう」
「アトには分かるの。……ストックはここに居るの、そうしたら……でも、アトはストックと一緒がいいの」
少女の言葉は分からない、だが彼女が何を望んでいるのかは痛い程に分かる。
「……ストックは、何処にもいかないの。ずっとここに居るの、だからお願い」
感じる恐怖と、見えぬ未来と。里を護ると言ったストックの言葉、己の内から消えぬ不安、世界に立ちこめる暗雲――何を信じるべきか分からず、エルムは腕の中のアトを優しく抱き締めた。
きっと自分は、ストックを敵には出来ぬだろうと、そんな絶望にも似た予感を感じながら。
「エルム、ストックを、連れていかないで」
せめて、彼の持つ闇が、この少女に到らぬようにと。祈りを捧げ、そして、祈るしかない己の無力に怨嗟を抱えるばかりだった。



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セキゲツ作
2012.01.20 初出

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