「隊長さん、無事で良かったね」
結界樹の前に残るロッシュと別れ、里の中へと戻ってきたレイニーとマルコは、人目に付かぬように忍び歩きながら密やかに声を交わした。サテュロス族ばかりが住むこの里では、人間であるそれだけで注目と排斥の対象となる。本来の住人と大きく異なる姿を隠すためには、頭部から足先までをすっぽりと多い隠さねばならず、そんな格好をすれば人間でなくとも不審者であると喧伝しているに等しい。それ故出来るだけ里の者の目を避けながら、彼らは敢えて普段の旅装のままで里の中を忍び歩いていた。
「そうだね。思ったより元気そうだったし、ラウル中将に伝えたら喜ぶよ」
「うん、隊長さんのこと凄く心配してたもんね。でも、協力してもらえなかったのは、がっかりされちゃうかもしれないけど」
「今は仕方ないね、怪我もまだ治りきってないだろうし」
また次の機会もあると自らに言い聞かせ、下降する気持ちを奮い立たせるマルコに対して、レイニーの表情は暗いままだ。マルコの言葉にも直ぐに反応を返さず、一瞬視線を揺らがせ、勝ち気に見える整った顔立ちを悲しげに歪ませる。
「……でも、身体が治った時、本当に戻ってくれるかな?」
そして、ぽつりと零された疑念に、マルコも眉を顰めて口を閉じた。先程目にしたロッシュの、以前の彼を考えれば信じられぬほど覇気を無くした姿が、彼らの目に強く焼き付いている。ロッシュ隊が壊滅したあの戦い、それが彼の心に大きな傷を与えているのだろう。優しくも勇猛な戦士であった彼の闘争心は陰を潜めてしまい、ここに居るのは立ち上がることの出来ない手負いの獣だけだ。
「どうだろうね。……ロッシュ隊長が戻ってくれれば、軍の士気も上がるし、ラウル中将も大分楽になると思うんだけど」
ロッシュとストック、若獅子と呼ばれた二人の若い士官は、軍内でも市民の間でも高い人望を誇っていた。脱走兵として指名手配された後でも、権力者の目の届かぬところでは彼らの無事を祈る声の多くあったことを、マルコはよく知っている。その二人が生きて戻り、再びアリステルのために武器を取るとなれば、乱れた国の中に輝く大きな希望となるだろう。
考えつつ呟くマルコをちらりと見て、レイニーは拳を胸元に押し当てた。
「うん、それは分かるよ。でも……」
語尾を濁すレイニーの思うことは、マルコにも何となくは分かる。身体以上に大きな傷を精神に負い、軍人でありながら戦う道を選びきれないロッシュの姿を見れば、それを立ち上がらせることに躊躇いを覚えるのは当然だ。特にレイニーは優しい女性だ、傭兵という厳しい稼業を経験していながら、奇跡的と言える程の慈愛を持っている彼女だからきっと尚更辛い筈である。
「決めるのは、ロッシュ隊長だよ。彼が、自分が戦うべきだと思ったら、またアリステルに戻ってくれるさ」
だがマルコは彼女ほど優しく、もしくは甘くなれない。ロッシュ個人の感情も大切だが、それよりも重要なのはアリステル、マルコが今与して戦っている陣営の勝利だ。しかし戦意というのは強引に掻き立てられるものでないのもまた事実で、彼のそれを如何にして呼び起こすか、口ではレイニーを宥めながら頭の中ではそんなことばかりを考えている。
「まあロッシュ隊長のことはともかく、まずはストックを探さないとね。里の中に居るのは、間違いないみたいだから」
明るい声でそう言えば、レイニーの表情も多少は浮き立ったものに変化した。彼女は本当に分かりやすい、豊かな感情をいつでも真っ直ぐに発露させてくれる、それが彼女の魅力でもあるのだ。
「そうだね、何処に居るのかな。バノッサさんからは、ロッシュさんのところに居ることが多いってしか聞いてないけど」
「うん、セレスティアも結構広いからね。当てもなく探すよりは、この辺りで待つのが一番早いかもね」
彼らを里に招き入れたバノッサの情報によれば、ストックは里に居る間頻繁にロッシュの元に顔を出しているのだという。自由に動き回れない状態で里の中を探し回るより、出没する可能性の高い場所で待ち伏せる方が、効率は良いだろう。
「……ストックがアリステルに戻れば、ロッシュ隊長も心を決めてくれるかな」
流れる思考のままにマルコが呟く。ストックはロッシュの親友だ、彼らの絆の深さとそれが故の互いへの影響力は、余人には量り知れぬものがあった。彼から働きかけてくれれば、あるいはロッシュも戦う心を取り戻してくれるかもしれない。いや、ロッシュのことがなくとも、ストックの力は今のアリステルに喉から手が出る程欲しいものだ。彼は優秀だ、隊を指揮するのも勿論だが、彼が持つ情報部員としての能力は戦争において大きな武器となる。
「そうだね……でもどっちにしろ、またストックと戦えたら、嬉しいな」
そう微笑むレイニーの様子は、戦略を意識した思考を巡らせるマルコからすれば、いっそ無邪気とも思えるものだ。マルコも彼女のように、単純にストックとの再会を望めれば良かったのだが。いや勿論彼とて、この上無く頼れる元上司と共に戦えれば良いとは思っている、しかしそれは彼への好意というよりは戦力的な有利への期待に因るものだ。
「――そうだね」
ラウルの手駒として働く内に身に付いた政治的な視線、己の中に根付いた新たな目をほろ苦く見詰めながら、それを表に出さぬようにマルコは笑みを形作った。
言葉が途切れ、沈黙が生まれる。互いの思いに沈むレイニーとマルコの間を、梢のざわめきが流れていった。穏やかな時間が流れる、セレスティアの中は何処も静かで平和だ。目に見えぬ結界一枚を隔てた外で起こる戦乱は、里では気配すらも感じられない。葉擦れの音に小鳥のさえずりが重なり、その長閑さに誘われてか、レイニーが心地よさげに目を細めた。
と、突然その声が消えて鳥の飛び去る羽音が響き、それを追うようにして下生えを踏みしめる足音が聞こえてくる。規則正しく刻まれる調子は、かつて聞き覚えた彼のものだ、それを認識したレイニーの顔がぱっと輝いた。しかしまだ確信することは出来ない、偶々ここを訪れた里の人間である可能性も残っている。今にも飛び出しそうな相棒を無言で制し、足音の主が現れるのを待ち、そして。
「――ストック!」
木々の間を抜け、その姿が視界に入ってきた途端、耐えきれずにレイニーが駆けだした。マルコも今度は止めない、むしろ彼女の後に負けない程の勢いで、隠れていた場所から道へと飛び出していく。
「ストック! やっと見付けた!」
あるいは彼も、二人の気配には気付いていたのかもしれない。しかし潜んでいた不審者の正体までは分からなかったのだろう、剣の柄に手をかけた姿勢で、鋭い目を驚きに見開いている。
「な……」
「へへ、驚いた? ストック」
「レイニー、マルコ! どうしてここに……!」
「それを言いたいのはこっちなんだからね、もう! 出ていったっきり戻らないで、凄く探したんだから!」
顔を輝かせる二人を前にして、ストックはようやく事態を把握したようで、強張りを解いて得物から手を外した。久々に見ても相変わらずとしか言いようのない無表情だが、よくよく観察すればその目に喜びの光が宿っているのが見て取れる。微かに綻んだ口元から、ストックも彼らとの再会を望んでくれていたことが分かり、レイニーの浮かべる笑みが一層深くなった。
「……そうか。探してくれていたのか」
「当たり前じゃない! 国から逃げたって、最初に聞いた時には、何があったのかって凄く心配したんだから」
「大体の事情はラウル中将から聞いたよ。ストックも、大変だったんだね」
気遣わしげに言うマルコに対して、ストックは首を横に振る。
「いや……大したことじゃない」
「大したことだよ、大怪我した隊長さんとソニアさんを連れて国境を越えたなんて!」
レイニーが責めるような口調で叫ぶ、それも無事な姿を見て安心したが故に出来ることだった。彼が去った状況をラウルから聞いた時には、最悪の想像を脳裏から消すことが出来ず、青ざめて黙り込むしか出来なかったものだ。レイニーもマルコもストックの腕前をよく知ってはいたが、さすがの彼であっても、軍全体を敵に回して生き残るのは容易ではなかっただろう。死体が確認されないことだけが希望の種として今まで探し続けてきた、偶然とはいえこうして再会を果たすことが出来て、沈んでいたマルコさえ明るく晴れ渡るような心持ちになってくる。
「それを言うならお前達こそ、よく……あの戦場から戻れたな」
一瞬ストックが言い淀んだのは、あの時の悲惨な状況が蘇りでもしたのだろうか。ロッシュがそうであるように、彼もまたグラン平原で殆どの部下を亡くしているのだ。
「まあね、ちょっと大変だったけど、二人だけだったからさ。うまいこと森に逃げ込んで、そのままコルネ村の方に抜けちゃったんだ」
「それでそのまま、ほとぼりが冷めるまで村に置いてもらって、旅人に紛れてアリステルまで戻ったってわけ。でも戻ってもストックは居ないし、中将さんは暗殺されかけてるし……大変だったんだから」
「そうそう、僕達今、ラウル中将の下で働いてるんだよ。っていうかそうだストック! ストックは知ってるかもしれないけど、ヒューゴが」
「……落ち着け。そう一度に話されても、困る」
苦笑しながらそう制され、マルコは口を噤んだ。彼らの狂騒を前にしてもストックは冷静だ、再会の歓喜が多少気を浮き立たせているにしても、その判断力は情報部に居た時と何ら遜色あるものではない。
「お前達、今はラウルの部下なんだな?」
「うん、さっきも言ったけど僕達がアリステルに帰った時、ラウル中将が暗殺されかけてたんだよね。で、それを助けて一緒に地下に潜って、その時から部下として働いてるんだ」
レイニーと視線を見交わし、代表としてマルコが口を開いた。説明や解説であれば、情報の収集を得手とする彼に一日の長がある。
「で、ストックは外に出ているんだから知ってるかもしれないけど……ヒューゴが、暗殺されたんだ」
言葉を切り、マルコはじっとストックの様子を伺う。感情の動きは、少なくともマルコに分かる範囲では見て取れない。ヒューゴのことは元から知っていた可能性もあるが、ラウルが暗殺されかけたことを聞いても、表情ひとつ変えないとは、彼にとっては上司だった男であるというのに少々冷たいようにも見える。もっとも、彼は元々無表情な男だ、表に出たものだけで内心を判断するのは早計というものだろうが。
「…………」
「……ああ、その話は聞いている」
口を閉じたまま黙り込んでしまったマルコに代わり、ストックが話を継ぐ。
「ヒューゴが死に、アリステルは随分乱れているらしいな」
「うん、そのどさくさで、ラウル中将も中央に戻れたんだけどね」
「…………」
「そう、それであたし達も、また軍で働くことになったんだ。っていっても、戦争に出てるわけじゃなくて、情報部時代みたいな諜報活動が主なんだけどね」
ぎこちない会話に耐えきれなくなったのか、男二人の会話にレイニーが割って入ってきた。ストックに向けて語りかける調子は、意識してかどうか、不必要な程に明るい。
「今も実は、任務でここに来てるんだよ。アリステルとセレスティアで、対グランオルグの同盟を結べないかっていう」
「……同盟!?」
常より僅かに高い声音で紡がれる話に、しかしストックは何故か、鋭い驚きを返してきた。予想もしていなかった反応の激しさに、虚を突かれたレイニーが目を瞬かせる。
「どういうことだ……ラウルは、アリステルに戻ったんだろう」
問いかけ、というよりは独白に近い呟きの内容が理解できず、マルコは微かに眉を顰めた。
「うん、ヒューゴが居なくなって纏める人が居なくなったから、今はラウル中将が軍の統括をしているよ。だから、今回みたいな無茶な案も通せたんだ」
マルコの言葉に、ストックは口元に手を当て、深く考え込んでいるようだった。明晰な頭脳にどんなことが巡っているのか、傍で見ているマルコが伺い知ることは出来ない。
「成る程、な。確かに、状況は違えど戦略を練るのは同じ男だ、セレスティアに目を付けるのは避けられないか」
「え、どういうこと?」
「いや」
レイニーの言葉を機として視線を戻したストックだったが、それに応えることはせず、僅かな声の後は黙ったまま二人を眺めている。その瞳の中には、隠そうとしても覆い切れぬ強い力が込められていた。
「……ええっと、とにかくあたし達は、その下調べにきたんだ。セレスティアの内情を探って、同盟の可能性がどれくらいあるか調べるためにね」
「そうか」
表情を崩さぬまま、吐息のように声が零される。
「ならば、ラウルには諦めるように伝えた方が良いな。セレスティアの住人は、アリステル……いや、人間という種族全体に対して強い警戒心を持っている。他国と共闘など、考えもいないだろう」
理性的な声で語るその姿は、彼らの上司として働いていた時に見慣れたものだ。つかの間、共に戦っていた時に戻ったような錯覚を覚え、マルコは奇妙に痛んだ胸を押さえつけた。
「それは……そうかもしれないけど。でも、グランオルグがアリステルに勝っちゃったら、次は絶対にセレスティアに矛先が向くよ。そうなってからじゃ遅いんだから」
「ラウルが、そう言っていたのか?」
ずばりと真実を突かれ、レイニーがぐうと喉を鳴らす。彼女を庇うように腕を伸ばし、マルコはストックを見上げた。
「まあね、でも誰が言ってたとか、関係ないんじゃないかな? グランオルグが戦争を起こしたのは、砂漠化が及んでない土地を求めてのことなんだから、これだけ緑が豊かなセレスティアを見逃すはずない」
「アリステルが勝てば問題ない。……そのために、あの男が居るんだろう」
「勝利が前提の話? ストックにしては、随分楽観的だね」
疑問を込めたマルコの視線にも、ストックが揺らぐ様子は全く見られない。これまでその強さは、過たず彼らの敵に向けられていたものだった。しかし今は、今、彼が相対しているのは。
「……説得すべきは俺じゃない、セレスティアの民だろう? そんな曖昧な根拠で、彼らを動かせるとはとても思わない」
「でも……でも、ストック」
困惑と混乱を露わにしたレイニーが、揺らぐ瞳でストックを見ている。彼女は本当にストックを信頼していたのだ、あの戦場から逃げ延びてアリステルに辿り着いた後も、ずっとストックのことを待ち続けて。そしてようやく出会えたストックの態度は、きっと考えていたものと違いすぎていたのだ。マルコとて抱えた混乱は彼女と大差ない、こんな言葉は、今までのストックならば絶対に口にしなかったであろうものである。彼はいつでも強く、例え無理に思われたとしても、それを成すのが正しければどんな困難でも排して立ち向かっていったというのに。
「でも、セレスティアの人達が協力してくれれば、この戦争を終わらせることが出来るんだよ。そうしたら、戦いに巻き込まれて苦しむ人達も居なくなるじゃない」
それは、まさしく戦いに巻き込まれて家族と故郷を失った彼女の、心からの叫びだったのだろう。しかし今のストックに対しては、その声すら届かないようだった。縋るように見詰めるレイニーを前にしても、眉一つ動かさず、冷静で理性的な無表情を崩そうとしない。
「だがそのために、里の者を危険に晒しても良いというのか? 彼らはこの戦いに関係ないのに」
そして告げられるのは、はっきりとした、拒絶。
「ここは平和だ、俺達は――俺と、ロッシュとソニアは、この里に助けてもらった。だから、この里の者達を戦場に誘うなど、許すことはできない」
吐き出すように発せられたその言葉は、続く戦乱への、あるいはアリステルという国への、完全な別離の宣言だった。強い、あまりにも強い瞳の光に、レイニーが泣きそうな表情を浮かべる。
「でも、じゃあ……」
「アリステルが勝てば問題ないんだろう? 大丈夫だ、ラウルならどうせ、同盟が成らなかった場合の策の一つや二つは考えている」
口元に刻まれた笑みの冷たさに、ふとマルコの背筋に寒気が走った。ロッシュはあの戦いで変わった、覇気を失い、かつての彼からは考えられぬ程弱々しい姿となってしまった。それと同じように、ストックもまた、変わってしまったのだろうか。厳しくはあったが、真っ直ぐ前を向いて戦っていた彼と、今目の前に立つ男の表情がどうしても重なってくれない。
「……じゃあ、じゃあ! ストックも一緒に戦おうよ、アリステルのために! それでアリステルが勝てば、セレスティアは戦争にならないで済むんだから」
必死で訴えるレイニーだが、ストックは残酷に、否定の意を示した。ゆっくりと首を横に振り、作り物のように整った無表情で、彼女を見詰める。
「俺はもう、あの国には戻らない。この里で、ロッシュとソニアと共に暮らすと、決めたんだ」
「……ストック」
不思議なことに、怒りも悲しみも、そこには見られなかった。穏やかな、静謐ともいえる凪いだ気配が、今の彼からは漂ってきている。
「レイニー、マルコ。お前達も、セレスティアに来ないか?」
そして発せられた言葉の意味を、二人は一瞬理解することが出来なかった。揃って口を閉じた彼らに向けて、ストックはゆっくりと笑いかける。
「お前達ももう、戦争に関わって命を縮める必要など無い。この里なら、戦いから離れた静かな時間を過ごすことが出来る」
浮かび上がった笑顔は、あまりにも整って、整いすぎていて――正体の分からぬ恐怖が、マルコの中に湧きあがってくる。差し伸べられた手を握りたくなる衝動に抗うため、マルコはきつく拳を握りしめた。
「セレスティアに来い、二人とも。ここには、お前達の居場所がある」
「……ストック」
小さく名を呼ぶ声に引かれるように、マルコの視線がレイニーへと向く。彼女がストックの手を取り、その胸に身を投げ出してしまうのではないかと、そんな焦燥がマルコの胸を焼いた。
レイニーが手を持ち上げる、だがそれはストックへと伸べられることなく彼女自身の胸に押し当てられた。そして彼女はゆっくりと、しかしはっきりと、首を横に振る。
「駄目だよ。アリステルはあたしの国なんだ、それを捨てて逃げるなんて、出来ないよ」
明確に示された否定の意に、慌ててマルコも追随し、ぶんぶんと首肯を繰り返す。
「そうだよ、ストック。戦争はまだ続いてるんだ、僕達だけ平和に暮らすなんて、できるわけないじゃないか」
「…………」
「ストック!」
「……だが、今のアリステルに、本当に守る価値があるのか?」
二人の抗弁を受けたストックは元の無表情に戻り、しかし瞳の光はそのままに、口を開く。
「お前達がアリステルで戦う意味は何だ? ハイスに対する恩か?」
「それは、それもあるけど」
「……あの男は、ヒューゴと組んでロッシュ隊をグランオルグに売り渡していたんだぞ」
そこから発せられた唐突な告発に、レイニーが鋭く息を飲んだ。彼女と似た、いや殆ど相似の表情を、マルコも浮かべていることだろう。ロッシュ隊を壊滅に追い込んだ陰謀、ヒューゴが黒幕であることはラウルから聞いて知っていたが、ハイスがそれに荷担していたとは。
「どう、して……どうしてストックが、そんなことを知ってるのさ」
「忘れたか? 砂の砦に向かう前、ハイスからの使いが言っていたことを。あの男は最初から、ロッシュ隊を狙っていたんだ」
「でも、それが今回の陰謀と関係してたとは、限らないじゃないか」
「いや。アリステルから抜ける前、陰謀の証拠を盗み出すためヒューゴの部屋に忍び込んだ時に、奴は俺の前に姿を現した。そして、計画書を奪うのを妨害してきたんだ」
「……」
「ハイスは今、どうしている?」
問いに答えることが出来ず、二人は揃って言葉を飲み込んだ。確かにハイスは、ヒューゴが暗殺される事件が起きて以来、姿を消してしまっている。ストックの言うことが事実ならばその理由ははっきりする、共に陰謀を巡らせていた相手が居なくなり、アリステルに留まることが危険となったということだ。黙り込んだ彼らに、ストックは柔らかな笑みを浮かべた。
「だから、お前達が恩に縛られる必要は、アリステルのために生きる必要は何もない。これ以上、あんな男のために命を賭けるのは止めて、俺と共にここで暮らそう」
「…………駄目だよ」
再び誘いをかけるストックに応えたのは、驚いたことに今度もレイニーだった。視線を投げれば、その顔には辛そうな、痛みを堪えるような色が浮かんでいる。しかしそれでも、はっきりとストックを見据え、彼女は噛み締めた唇を開いた。
「ハイス様のことだけじゃない、アリステルに住んでいる人達、それにどっちの国とかじゃなくて戦争で苦しんでる人達を助けるために……あたしは、逃げられない」
つり上げた眦に意志の光を湛えて、レイニーは真っ直ぐにストックに相対している。ストックはそんな彼女に、何を思うのだろうか。静かに微笑む姿からは、その内に秘めた感情を読み取ることはできない。
「ストック、確かにロッシュ隊は壊滅したけど、他の兵達はまだ戦ってるんだ。それに、ビオラ准将や、ラウル中将だって居る、アリステルにはまだ護るものがあるんだよ」
ストックの心を溶かそうと、交互に言葉を重ねるレイニーとマルコだが、ストックがそれに肯定の意を示すことはなかった。ただ辛抱強く彼らに手を伸べ、そこに部下達の手のひらが重ねられることを待ち続けている。
「俺が護りたいのは、ロッシュとソニアだけだ。あいつらがここに居る以上、アリステルに戻る理由は何も無い」
意固地とも言えるほど頑なな拒絶、あるいはそれもグラン平原の戦い、多くの者を失ったあの戦で負った精神の傷が原因のものなのかもしれない。部下の殆ど全てを失い、親友の苦しむ姿を間近で見続けた彼がアリステルに対して愛想を尽かしたとしても、それはけして不思議なことではない。
「……ストックは、ロッシュさんとソニアさんを護る、そのためにセレスティアに居るんだね」
「ああ」
「セレスティアのために働いて、この里が、そしてロッシュさんが戦いに巻き込まれないようにしているって、そういうことなんだね」
マルコの呟きに、ストックは躊躇いなく頷きを返した。その迷いのなさは、いっそ喜ばしげにすら見える、いや実際彼は喜んでいるのかもしれない。全てを無くすことなく、未だ護るものをその手に出来ている現状は、彼にとって救いとも言えるのだろう。
だが、しかし。
「でも、そのためにストック、君は何をしているんだ?」
マルコは表情を引き締め、小柄な身体に力を込めて、ストックに向き直る。
「君と会う前に、ロッシュ隊長と話をしたよ。確かに彼は大怪我を負った、心も折れかけている、でも完全に戦う力を無くしたわけじゃない」
叩きつけられた台詞に、ストックの表情が凍り付いた。その口から何かが零れ出す前に、マルコは素早く言葉を重ねる。
「むしろ隊長は、戦えないことで苦しんでいるように見えた。それなら、彼のことを一番に考えるなら、やるべきことはセレスティアに留まることじゃない。彼をアリステルに連れてきて、治療とガントレットの修理を行うことじゃないか」
「……そしてまた、あいつを戦場に立たせろと?」
反論、というにはあまりに低い温度を持った、その声。彼が振るう剣にも似た鋭さを持つそれに、先程感じたのと似た恐怖が、マルコの背を這い上がるのを感じる。それでも、ここで止まるわけにはいかない。
「隊長自身がそれを望むならね。今君がしているのは、彼から選択肢を奪って、閉じこめているだけじゃないか」
「…………」
「ねえストック、あたしも、無理に戦わせるなんてとんでもないとは思う。隊長さんもあんなに元気無くしてるんだし、このままそっとしておきたいって気持ちは分かるよ。――でも、それと治療は別でしょ? あれだけの大怪我なんだから、直ったみたいに見えても不安じゃない、一度アリステルでちゃんと検査した方がいいよ」
レイニーも、マルコと違って宥めるような優しさで言葉を添えるが、それに返されるのもまた冷たい拒絶の視線だった。
「ロッシュが望むなら、そうすうることもあるだろう。しかしそれは、今じゃない」
「そんな……」
護りたいと、そう語った彼の心は、きっと本物なのだろう。命を落とした部下達を背にして走り、死の淵を彷徨う親友を見守る中で感じた唯一の願い、その強さはきっと他の者の信念など及ばぬ程硬く鋭いに違いない。
一体どう言えば、彼の心に他の者達の想いを届けることが出来るのか、マルコは奥歯を噛み締めた。ストックはロッシュを護っているつもりでいる、事実彼が立ち働いているからこそロッシュはセレスティアで平和な時間を過ごせているのだ。しかしそれはロッシュのためになるばかりではない、彼の可能性を閉ざしてしまっているのだと、どうしたらストックに気づかせられるのだろうか。
「ストック、本当にそれで良いと思う? 確かに隊長とソニアさんは無事で居られる、でもそれでアリステルが滅びたりしたら、結局二人共凄く悲しむよ」
「うん、それにこのままずっと戦争が続いたら、そのうち隊長さんもまた戦場に引っ張り出されちゃうかもしれないじゃない。そうなる前に戦争を終わらせた方が、二人の為にもなるんじゃないかな」
「そうだよ、世界が乱れていたらいつまでも危険は残るじゃないか。そのためにもまずは戦争を終わらせて、アリステルを護らないと」
繰り返し理を説き、情に訴えても、ストックの心が揺れる気配は無かった。頑なに、凍り付いたように動かない顔で、レイニーとマルコをじっと見詰めている。
「……ああ、そうだな。アリステルも、世界も、全てを護れたら良かったんだろうな」
ぽつり、と口から零された言葉は、何故か寂しげな響きを伴って聞こえた。ずっと二人に注がれていた視線がふと外れ、地に落とされる。
「ストック」
「だが、そんなことは不可能だ」
何もない大地を見ているはずの瞳に、あるいは他のものが映ってでもいるのだろうか。無表情を保つ彼の顔には、何を示す形も浮かんでいないはずなのに、不思議と苦しげな色を纏っているように見えた。
「一人の人間が手に出来るものには、限りがある。全てを護ろうとしても、何かが溢れてしまう」
語られる言葉に、否定の語を述べることが出来なくて、マルコはぐっと口を閉じる。人は、全てを得ることなど出来ない、そんなことはマルコとてよく分かっているのだ。
「――だから俺は、本当に大切なものだけを護ることに決めたんだ。国だの世界だのを存続させるために親友の命が引き替えになるのなら、そんなものを護ろうとは思わない」
常の彼を思えば驚くほど饒舌に語られた、その決意。伝わる彼の本気に、マルコはそれ以上の反論を展開することなど出来ず、困惑と失意に染まった目をそっと伏せた。レイニーの声もすっかり途絶えてしまっている、彼女もまたストックの気迫に押され、己の意志を貫く気概を挫かれてしまっているのだろうか。
「レイニー、マルコ」
流れた沈鬱な空気を破るように、ストックが声の調子を上げた。普段よりも僅かに高い、明るくも聞こえる口調で、二人に語りかける。
「もう一度だけ、頼む。セレスティアに来てくれ」
頼む、と。その言葉の選び方に明確な意図があったのかは分からない、それが与える効果を考えての選択だったのかもしれないし、本当に心からの訴えなのかもしれない。彼は優秀すぎて、挙動の全てが作られたまやかしに見えてしまうが、その実何ひとつとして誤魔化しなど無い剥き出しの心で二人に向き合ってくれているようにも感じられる。
だが、そのどちらだとしても。マルコが、そして恐らくレイニーも、選べる答えは既に決まっているのだ。
「…………ごめん、ストック」
レイニーが、苦しげに、応えを吐き出す。それを受け取ったストックは、それ以上何も言わず、ふっと瞼を伏せた。差し伸べられた手がゆっくりと下げられ、その顔に静かな、諦めたような、そして何処か悲しげな――笑みが、浮かぶ。
「そうか」
怒るでもなく、憎むでもなく。
ただ静謐に微笑む彼の表情に、絶望の色が見えたのは、何故なのだろうか。
「……そうだろうと、思っていたよ」
独り言のように呟かれた言葉に、マルコは何を返すこともできず。ただ視線を落とし、豊かな緑を踏みしめる己の靴先を、じっと見詰めることしかできなかった。隣でレイニーが、何かを言おうとしたのか息を吸い込み、しかしそのまま吐息に変えて口の端からゆるゆると零す。静寂の中、木々の間を風が吹き抜ける軽やかな音が鳴っていた。
それに被せるように、ストックの低い声が響く。
「なら、せめてこのまま、里を去ってくれ」
視線を上げれば、数瞬前の笑みは消え去り、先程までの冷たい無表情へと戻っている。拒絶を宿した視線が、敵に向けるのと大差ない力を込めて、二人へと注がれていた。
「お前達は仲間だ、例え道を違えたとしても……出来れば、剣を向けることはしたくない」
目の前に、透明な壁が見える。薄く、けれどけして破ることのできないそれを隔てて、ストックと彼らの立場は完全に分かたれてしまったのだと、誰にも言われてはいないのにはっきりとマルコは理解していた。
「ストック、でも」
「…………」
「レイニー、止めよう。今は……今は、もう何を言っても仕方ないよ」
何かを言いたげなレイニーを制止し、マルコは一歩後退る。ストックの態度は明らかになった、さらに言葉を重ねたところで、その心に届くことはないだろう。そして彼の目に入ってしまった以上、セレスティアでの諜報活動を続けられるとは思えない、今は引くことが唯一の道だ。
「……ストック、あたし」
「行ってくれ、レイニー。……お前を、斬りたくはない」
「…………!!」
決定的なその台詞に、レイニーは泣き出しそうに顔を歪めた。そして、それ以上の抵抗を諦め、マルコに付いて歩き出す。二人が道を背にして森へと入り込む、その背後からストックの視線が追いかけてくるのを感じて、マルコはふと振り返った。
視界に入った彼の中心にあるのは、彼らを見詰める深緑の瞳。何の感情も篭もらない、周囲の木々より尚深い緑色の光彩、その冷たさに、胸が強く軋んだ。
振り切るようにして顔を前に戻し、背に突き刺さる視線を無視して、里を出る方向へと歩いてゆく。
「……ストック、どうしちゃったんだろう」
追随するレイニーが、ぽつりと呟いた。寂しげな色を帯びたそれへの答えを、残念ながらマルコは持っていない。
「やっぱり、あの戦いが原因なのかな」
「……さあね、分からないよ。そうかもしれないし、僕らの知らないところでもっと他の何かがあったのかもしれない」
隊長であるロッシュも、以前と比べて大きな変化を抱えてしまっていた、だからストックが変わったところで何も不思議なことはない。それでも心が痛むのは、彼らがそれだけストックのことを信頼していていたということなのだろうか。どれほど困難な状況でも先頭に立って切り開き、未来を切り開いてきた彼の姿が、未だに二人の中からは消えていないのかもしれない。
「どっちにしても今は、アリステルに協力してくれそうにないよ」
「……うん」
「残念、だけどね」
「……そうだね」
レイニーが息を吐く、ストックに対して思慕に近い感情を抱いていた彼女だから、この裏切りに対する落胆も大きいことだろう。歩きながら隣を見上げると、その考えを裏切る強い視線で前を見据える、凛々しい姿が視界に映り込んできた。
「でも、これからまた気持ちが変わるかもしれない。……そうじゃなくてもアリステルは、隊長さんやストックが、今までずっと護ってきた国なんだから」
戦いに挑む時のような、鋭い気配を纏わせながら、レイニーが力強く頷く。全く彼女は、何処までも前向きで、そして優しい。マルコが見詰めていることに気づき、レイニーはちらりと視線を落とし、そしてふっと微笑を浮かべた。
「頑張ろうよ、ね。ストックが戻らないなら、あたし達が頑張らないと、じゃない」
「……うん!」
その言葉に、マルコは力強く頷く。冷えた心に暖かい息吹を吹き込まれた気がして、丸い童顔に明るい笑顔を浮かべると、冷えかけた手に力を入れて拳を握りしめた。



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セキゲツ作
2011.12.07 初出

RHTOP / RH-URATOP / TOP