そびえ立つ結界樹の梢から、光の欠片が降り注いでいる。深い緑の作り出す清浄な空気を、ロッシュは大きく吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
親友に連れられてアリステルを出奔し、セレスティアに逃げ込んでから、もうどれくらいになるだろうか。意識が無い状態で運び込まれ、目覚めてからも酷く乱れた精神状態にあったため、正確な日数は分からない。ただ生死をさまよう傷が、ある程度の運動ならば問題なくこなせるまで回復してきたのだから、それなりの時が経ってはいるのだろう。時間というのは何より偉大な医者だ、身体の傷を直すのは勿論のこと、絶望に沈み込んでいた心も少しずつではあるが癒されてきている。一時は一人生き残ったことを嘆き、何故自分が死ななかったのかと嘆く程に下向いていた思考も、この頃ではようやく現実に目を向けられる程度まで上昇していた。見詰めた現実を受け入れるのにはまだ大きな痛みを伴うが、親友にすら心を閉ざしていた頃に比べれば、随分と以前の彼に近くなってきたと言えるだろう。
しかしそれでも、完全な回復には遥かに遠い。未だにロッシュのガントレットは動かないし、左腕が無いままでは戦場に戻ることは難しく、それが彼の心を絶望に縛り付ける最も大きな鎖となっていた。
ロッシュにとって、生きることは戦うことそのものだ。いや、少なくとも今まではそうだった、それは単に生計を立てる手段というだけではない。大切なものを護る方法も、知り合いや友人と繋がる場ですらも、彼は戦いの中に持っていたのだ。
――それが、奪われた。
ロッシュは今、戦うことが出来ない。肉体を戦場に置くことは出来るだろうが、その中で何かを成し、結果を得るための力が今の彼には存在しなかった。護ること、貫くこと、そして誰かの信頼を勝ち得ること――ロッシュの人生全てを構築してきた力は左腕と共に失われ、残ったのは何をすべきかも分からない、無意味な命がひとつだけだ。
いや、課せられた使命ならば分かっている。あの戦いで命を落とした大切な部下達、彼らの託した希望を受け取り、アリステルに潜む悪意を正して故国をあるべき姿に戻すこと。それこそが、犠牲になってしまった彼らに報いる唯一の手段なのだと、ロッシュとて分かっていた。しかしそこで立ち止まってしまうのだ、ロッシュにはそのための力が無い。彼らが信じて命を賭していった若獅子は、もはや彼の中から去ってしまっている。
何度も、何度も、考えた。自分は何をすべきか、そして何が出来るのか。答えは出ない、戦うことしか知らなかった人間から武力を奪い去れば、他の手段は残らない。ロッシュは低く息を吐き、左手に意識を送り込んだ。魔動技術で彼と繋がり、肉体の一部のように動いてくれていた機械は、やはり反応せずに沈黙したままだ。どれほど力を込めても、もはや指の一本すら動くことなく、単なる鉄塊として彼の肩にぶら下がっている。これまでは認識してすらいなかった重さが、筋肉と関節を軋ませることで存在を主張していた。戦場で敵を圧倒してきたその重量だが、動くことを止め黙り込んでしまった現状では、完全なる負荷でしかない。身体への負担を考えれば一旦取り外してしまった方が良いと、彼を看たソニアには言われていた。しかしロッシュは、どうしてもこれを手放す気にはなれない。過去に縋る愚かな行為と言われても否定はできないが、この義手に込められた想いを知る彼としては、動かぬからといって捨て去ることなど出来るはずもなかった。
もう一度、これが動いてさえくれれば。彼の恩人が与えてくれた戦うための力、それが戻ってくれさえすれば、再び戦場に立つことが出来るのに。こんな姿になっても彼を見捨てず居てくれるソニアや、彼らを護るために一人で戦い続けてくれているストックに、報いることも出来るというのに。
しかしその願いが叶う気配は、残念ながら今のところ何処にも無かった。ソニアによれば故障の度合いはあまりに酷く、動くまでに修復することは難しいという。実際、ロッシュの神経に帰ってくるガントレットの沈黙は、今まで経験した駆動系の不調とは感覚を異にするものだ。ソニアの手で修理することが出来ない、その見立てに嘘は無いのだろう。しかしそれにしてもソニアが、そしてストックがその事実を語る調子は、不自然な程に強く感じられる。はっきりと口には出さないが、ソニアにもストックにも、ロッシュが戦場に戻ることに反対する気持ちがあるようだった。静かに暮らせと、新たな生き方を探せと、有形無形の想いを彼らはロッシュに注いでくれている。それは彼らの優しさそのもので、気遣いの具現ともいえるその行動は有り難くある反面、困惑を生み出すのもまた事実だ。ロッシュにとっては戦い以外の生など、考えたことすらなかったものなのである。ガントレットを失い、強制的に戦いを奪われた今でも、どう生きたら良いかなど分かっていない。それとも里での暮らしを続けていけば、いずれ彼らの望む生き方を見付けることも出来るのだろうか。ロッシュには分からない、そして例え出来たとしても、それは。
(それは本当に、正しいことなのか)
戦い続ける親友に甘え、続く戦乱に背を向け、閉ざされた里で1人生き長らえることなど、本当に許されるのだろうか。もっと別の、取るべき道があるのではないかと、何度考えても思考はそこに戻ってくる。静謐に佇む結界樹を、ロッシュはゆっくりと見上げた。セレスティアの要である巨木は、物言わぬはずなのに何故か、ロッシュの心を落ち着かせてくれる。絶望の淵に佇んだ時も、無力に打ちひしがれた時も、ここに来れば平穏を取り戻すことが出来た。里の者にとって何より神聖な場所に入り込むなど、本来は許されない行為なのだろうが、不思議と咎められたことは一度もない。その好意に甘えて、ロッシュは里に運び込まれて以来多くの時間を、この樹の前で過ごしていた。
ここは静かだ。周囲を囲む木々を通して、微かに里の喧噪が聞こえは来るが、やってくる者は滅多にいない。訪れるといえば彼の様子を見にやってくる親友くらいのもので、だからその時聞こえた足音も、最初はストックのものかと思った。
「…………?」
だが直ぐにその予想が間違っていることに気づく、何しろ足音は二つ聞こえてきたのだ。歩く調子もストックに比べて遙かに軽い、一体誰がやってきたものかと、疑問に思いながら気配を探っていると。
「ああっ、隊長さん……本当に隊長さんだ!」
「ほんとだ、ロッシュ隊長、無事だったんですね!」
耳に届いた懐かしい声、もはや二度と聞くことは無いと思っていたそれらに、ロッシュは信じられぬ思いで振り返った。そこに居たのは間違いなくレイニーとマルコ、グラン平原から逃げ去る際に敵を食い止める役を志願し、そのままはぐれてしいまった二人だった。あの激戦の中に残されて、てっきり命は無いものとばかり思っていたが、こうして無事な姿を見ることができるとは。
「お前ら、生きてっ……生きてたのか!」
「はい、この通り、僕もレイニーもちゃんと無事です。隊長達が離脱してから僕達も逃げ出して、アリステルまで戻ったんですよ」
「でもごめんなさい、他の隊員さん達は連れて帰れなかったんです。あたし達も、自分が逃げるのに精一杯で……」
申し訳なさそうにレイニーが語る、その残酷な内容にロッシュは一瞬顔を歪め、しかし直ぐに首を横に振った。
「いや、そりゃ当たり前だ、あれだけの負け戦だったからな。お前らが生きて戻ってくれただけでも、奇跡みたいなもんだ」
例え他の者達の生存を伴わぬとも、死んだと思っていた二人が生きていてくれた、その事実だけでも十分に喜ばしい。彼らはストックが特に親しくしており、里に腰を落ち着けた後も探し続けていた部下だ。無事だと知ればどれほど喜ぶだろう、いやあるいは、彼自身が見付けてこの里まで連れてきたのかもしれない。
「里には、ストックが案内したのか?」
「いえ、違います。やっぱり、ストックもセレスティアに居るんですね?」
「ああ、勿論だ。そうか、お前ら自分でここを探し当てたのか……」
ということは彼ら二人だけでストック達の居場所を探して訪ねてきたのだと、そう考えて感心したロッシュに、レイニーとマルコは一瞬言葉を切って顔を見合わせた。
「いえ、そうじゃなくてええっと……僕達実は、隊長達に会いにきたわけじゃないんです」
「へ、そうなのか?」
「はい、あたし達今、ラウル中将と一緒にアリステルで働いているんですよ」
ロッシュは息を呑む、完全に予想していなかった状況で上司の名を耳にして、その目が大きく見開かれた。グラン平原からは意識の無い状態で戻り、そして目を覚ます前にストックによって連れ出されていたから、当然ながら敗戦の後にラウルと会っては居ない。むしろ現状を推測する余裕すら無かった、だがロッシュの部隊が陰謀により壊滅させられたということは、その上司であるラウルもまた危険に曝される可能性があったのだ。それに思い至らなかった自分を、殴りつけてやりたい衝動に駆られる。
「そうだ、中将……ラウル中将は、ご無事なのか?」
「勿論です、一度暗殺されかけたんですけど」
「な、暗殺っ!?」
「ええ、でも大丈夫です、中将本人は至って元気ですよ。ただ、秘書さんが、中将を庇って……」
切られた先にある単語は、あまりに容易に推測できてしまい、ロッシュは何も言えずに顔を歪めた。常に上司の傍らに居て彼を支えていた秘書官、彼女とラウルとの絆は、一部下であるロッシュにすら感じられる程深く強いものだったのに。彼の悲嘆を思い、言葉を失っているロッシュの様子を窺いつつ、マルコがそっと話を続ける。
「それでその後、アリステルから逃げ出したんです。けど、首謀者だったヒューゴ大将が逆に暗殺されたから、中将もまた戻ることが出来て」
「……待て。何だって、ヒューゴが暗殺された、だって……!?」
「はい」
その情報が与えた衝撃はある意味で、ラウルが暗殺されかけたと知ったよりも大きかったかもしれない。アリステルを牛耳り、多くの国民を戦地へと送り込み、そして恐らくロッシュの部隊を陥れて隊員達を死へ追いやった張本人。それが、暗殺されたとは。
「本当に……いや、嘘で言えることじゃねえか……」
混乱を隠せぬロッシュに、マルコが静かに頷いた。その理知的な瞳に、ロッシュの動揺も少しだけ落ち着くのを感じる。アリステルで最も名の知られた政治家、それが命を落としたなどという分かりやす過ぎる嘘を吐くほど、彼らは愚かではない。ならば本当にヒューゴは暗殺されたのだろう、その事実がゆっくりと、ロッシュの脳裏に染み込んでくる。
「……そうか……」
アリステルを支配する腐敗を取り除き、祖国をあるべき姿に戻す。彼に託されていたはずの願いは、どうやら顔も知らぬ何処かの暗殺者によって、既に叶えられていたようだ。身体から力が抜けていくのを感じる、これで彼が戦う意味は、本当に完全に失われてしまった。
深い息を吐くロッシュの内心を知ってか知らずか、レイニーがマルコの後を引き取り、言葉を続ける。
「それで、お城に戻った中将さんが軍を統括するようになったんですけど、混乱していた時期に随分グランオルグに戦線を押し返されてて。元々は、もうすぐグランオルグを制圧できるってくらいまで優勢だったから、首都に迫られてるとかそういうことは無いんですけど」
「ただ、中将さんが言うには、戦争を長引かせたら別の危険があるらしいんです。だから、急いで勝敗を決さなきゃいけないって」
「別の危険?」
聞いたこともない話に、軍人の本能が頭をもたげる。僅かに蘇った瞳の光でレイニーとマルコを見据えるが、彼らはそれを受けても口を開かず、困ったように顔を見合わせた。
「それが、具体的に何のことかは、僕達も教えてもらっていないんです」
「中将さんが裏で連絡を取っている人から教えてもらった情報だそうですけど……戦争どころじゃない大混乱を呼びかねないから、知っている人は限られた方が良いって言って」
「……そうか」
「とにかく、そんな訳で早期に決着を付けるために、ラウル中将はセレスティアとの同盟を考えているんです」
マルコはそこで話を切り、ロッシュの表情を窺う。ロッシュは微かに眉を顰めたが、大きな驚きは見せない。歴史上一度も国交を行わない国との共闘というのは、確かに驚くべき提案かもしれないが、アリステルの現状を考えれば最も効果的で現実味のある手ではあった。ラウルの頭の切れることは、部下であったロッシュであればよく知っている。普通の政治家ならばともかく、彼が選び取る手段としては、十分に納得出来るものだった。
その反応に何を思ったのかは分からないが、マルコは一度息を吸い、さらに言葉を続ける。
「それで僕達が先駆けて、ここの様子を見てくることになったんですよ」
「成る程な。しかし、よく里の中に入れたな」
セレスティアの周囲に張られた結界、あれが有る限り外の者が侵入することなど不可能なはずなのだが。ロッシュが抱いた当然の疑問に、レイニーが声を潜めて答えた。
「それは、手引きしてくれた人が居るんですよ。里の人達に知られたらその人に迷惑がかかるだろうから、他の人には言わないでくださいね」
「その人は、セレスティアがこのまま閉ざされていることに疑問を持っているそうなんです。だから出来れば、アリステルとも連絡を取って共闘出来たらって」
交互に成される説明に、ロッシュは大きく頷いた。内に向いてしっかりと纏まっているようにも思えるこの国だが、やはりその中には様々な考えを持つ者が居るのだろう。
「でもびっくりしましたよ、話を聞いたらここに隊長さん達が居るっていうんですもん。中将さんも、ずっと探していたけど見付からなかったんですから、このことを知ったらきっと喜びます」
レイニーの浮かべた無邪気な笑顔に、ロッシュが返したそれはしかし、残念ながら苦みの混じったものだった。彼女の予想はきっと間違っている、ラウルが探していたのは自分の戦いを助ける兵たるロッシュであり、戦う力を無くして身動きする事も出来ない男ではないはずだ。
「僕達二人で色々動いてきましたけど、ロッシュ隊長とストックが戻ってくれれば、ラウル中将もきっと楽になりますよ。一緒に、アリステルに帰りましょう」
「……ストックは、何て言ってた?」
「ストックですか? いえ、まだ会っていないです。先に見付かったのがロッシュ隊長だったから」
「…………」
大きく息を吐いたロッシュの様子に、レイニーとマルコも思っていた反応と異なる何かを感じたようだった。戸惑う視線を受け、ロッシュは自嘲を浮かべてそれを見返す。
「すまん。ストックは分からんが、俺は……期待に応えられそうにないな」
「え、どういうこと……?」
「俺はもう、戦えない。戦えないんだ」
「……怪我、そんなに重いんですか」
掲げた希望を裏切られたにも関わらず、暖かな気遣いを湛える彼らの、その優しさに胸が痛む。ロッシュの右手が持ち上げられ、動かぬ鉄の腕に添えられた。
「いや、身体の怪我はもう、大分良くなってる。だが、この腕が、もう」
それで彼らは、全てを察したのだろう。驚愕と、悲哀と、その他様々に複雑な感情が入り交じった二対の瞳が、ロッシュのガントレットに向けられる。
「グラン平原の戦いでな。すっかり壊れちまって、直すのは難しいんだそうだ」
「それは……ソニアさんが?」
「ああ。だから、すまんが役には立てそうにない」
「隊長さん……」
声を失うレイニーだが、それに対してマルコは、考え込みながらガントレットを見詰めている。その目に諦めの色は感じられない、注がれる視線に奇妙な居心地の悪さを感じて、ロッシュは僅かに身じろぎした。
「……本当に、もう戦うことは、出来ないんですか?」
鉄の腕を見詰めながら彼が発した声は、力強く、まるでロッシュを責めているかのようにも聞こえる。戦うという選択肢を放棄した彼を、戦い続ける立場の者が責めるように。それは恐らくロッシュ自身の罪悪感が生みだした錯覚に過ぎないのだろうが、嫌になる程の現実感を持って心の奥底に迫ってくる。
「言っただろう、もうこの腕は」
「修理できない? でもその判断は、ソニアさん一人がしたことですよね」
くるりと丸い、小動物めいた瞳に宿る光は、揺るぎない意思と決意を感じさせる。彼は未だに戦っているのだ、ロッシュが逃げ出し、ストックが捨てたあの国で。じくりとした痛みが、ロッシュの胸郭を蝕む。マルコは顔を上げてロッシュの目を真っ直ぐに見据え、そして口を開いた。
「ソニアさんはお医者さんです、魔動機械については専門じゃない。アリステルに戻って、もっと詳しい人達に見てもらえば、ひょっとしたら直す方法があるかもしれません」
そして発せられた言葉に、ロッシュは頭を殴られたような衝撃を覚える。もはや直らないと思っていた左腕だが、それは早計な思い込みであり、もう一度この力を取り戻し戦場に立つことが出来るのではないか。生じた希望が鼓動を速くする、ガントレットを掴む右手に、知らず力が籠もった。
「……だが」
しかし、口から零れるのは何故か、否定に繋がる単語で。
「だが、直ったところで、俺の隊はもう」
死んでいった隊員達、彼らの仇でありアリステルを乱していたヒューゴは、もう居ない。ロッシュが背負うべき希望は、何もせぬまま全く別の形で昇華されてしまった。彼が戦う理由はこれで消えた――いや。
本当は分かっている、グランオルグと戦い戦乱を終わりに導くことこそ、隊員達が残した真の望みなのだと。それを成しうる可能性があるのならば、それに賭けてアリステルに戻るべきだと、分かっているのだ。だが、選ぶべき選択肢を、迷い無く掴むことが今のロッシュには出来ない。
「ロッシュ隊長」
「……」
「確かに、皆はもう居ません。あの戦いで皆死んでしまった、でも……だからこそ、生き残った僕達が戦わないといけないんじゃないですか」
マルコの言うことは完全に正しい、ロッシュはそう考えながら奥歯を噛みしめる。しかし同時に、彼の提示する道を進むことへの恐怖が、ロッシュの中に溶けぬ氷のように居座っていた。あまりにも多くの命が失われた戦いの記憶、そして彼が武器を取ることを拒む親友と恋人の思い。戦うべきと主張する声と、それを退ける声が、ロッシュの思考を二つに切り裂いていた。大声でせめぎ合うそれらのどちらを選ぶことも出来ず、立ち尽くすロッシュの顔を、それより遙かに低い位置にあるマルコの丸い目が見上げている。逃げることを許さぬ力の込められた、それがふっと、柔らかく緩んだ。
「……でも、いきなり言っても、難しいですよね」
そう言って目を瞬かせるマルコに、横で硬直していたレイニーも動きを取り戻し、慌てた様子で彼の帽子をぽこりと叩く。
「当たり前じゃないのよ、マルったら! 隊長さん、あんなに大変な思いして、怪我だって直ったばっかりなのに」
「気にすんな、マルコの言ってることは正しい。俺はまた戦場に立つべきなんだ」
しかし言葉に反して、ロッシュの脚は動きだそうとしてくれない。結界樹の前で、根を張ったように立つロッシュの姿に、レイニーとマルコはそっと顔を見合わせる。そしてマルコが、にこりと微笑みを浮かべて、ロッシュを見上げた。
「そうですね、でもそれは今直ぐじゃなくても大丈夫です。僕らも中将さんもずっと待ってますから、覚悟が決まったら、教えてください」
「アリステルの人達も、皆ロッシュ隊長のこと心配してました、戻ってくれたらきっと安心すると思います。あたし達、これからもセレスティアに顔を出しますから、心が決まったら声をかけてください!」
「ああ。……」
優しく語るマルコと、勢い込んで拳を握るレイニーの頭に、ロッシュは右手を軽く乗せる。
「ありがとよ。すまんな、お前らに全部任せちまって」
「そんなの! 当たり前です、怪我した時くらい、誰かに任せたって良いんですからね!」
「そうですよ、ロッシュ隊長もストックも、ずっと頑張ってきたんですから。少しゆっくり休んで、それで元気が出たら、また一緒に戦いましょう」
真っ直ぐな、純粋とも言える気遣いが、ロッシュの中の痛みをより一層かき回した。ロッシュはそれを抑えて笑みを浮かべる、そんな彼に、二人は力強く笑い返し。
「それじゃあ、僕達は一度、アリステルに戻りますね。ラウル中将に、ロッシュさんは無事セレスティアで暮らしてるって、報告させてもらいますよ」
「頼む。直ぐに駆けつけられなくて申し訳ないと、伝えてくれ」
「はい、確かに。大丈夫、ロッシュ隊長が生きてらっしゃったってだけで、中将さんも安心しますよ」
「……そうだな。ああ、そうだお前ら、ストックには会っていかないのか?」
「勿論、会いますよ! 里に居るのは確実みたいだから、これから探すつもりです」
元気よく答えるレイニーの気持ちは分かる、きっと彼女はストックもアリステルに戻り、共に戦ってくれると思っているのだろう。それが叶えられるかどうか、ロッシュには判断が付かない。嘗て彼はロッシュに、腐敗したアリステルで働く気は無いと告げたが、ヒューゴが暗殺された今のアリステルに対してはどのような感情を抱くのだろうか。
「そうか。……見付かると、いいな」
「はい!」
「それじゃロッシュ隊長、また――会いましょう」
それだけを言い残し、現れた時と同じく騒がしく去っていく二人を、ロッシュはじっと見送る。その背が木々に紛れ、話し声も足音も、気配すらも完全に消失したところでようやく、視線を逸らして背後を振り向いた。そこには、彼らの会話全てを見守ってそれでも尚揺らがぬ、偉大な大樹が聳えている。結界樹は何も言わない、迷いを晴らす英知も、傷を癒す慈愛も与えてはくれない。それでもロッシュはここに立ち、神木と呼ばれるその樹を見上げることを止めない。そこに何らかの答えがあるかのように、あるいは進むべき道が現れるのを待つかのように。
――そして、どれほどの時間が流れただろうか。
再び背後に気配を感じて、ロッシュは耳をそばだてた。殆ど訪れる者もない場所にやってきたのは、どうやら今度こそ、彼の予想していた人物であるらしい。下生えを踏み締める、癖のない調子で刻まれる足音は、この場所で幾度と無く聞いたものだ。
「ストックか」
ロッシュの声を受け、その音が、数歩離れた位置でぴたりと止まる。押さえた声音でロッシュの名が呼ばれた、その後に続くと思われた何らかの言葉は、しかし発せられずに途切れたままだ。しばらくの間沈黙が流れる、やがて静止した気配がゆるりと動き、距離を詰めてロッシュの隣にやってきた。
「…………」
「……座るか」
促され、ずっと立ち続けていた場所に、そのまま腰を下ろす。横で同じく座り込んだストックは、先程までロッシュがしていたのと似た姿勢で、じっと結界樹を見詰めていた。親友が孕む空気に、常とは異なる何かを感じて、ロッシュは密かな違和感を覚える。
「どうした?」
普段から雄弁とは言えない男だが、それにしてもロッシュの元を訪れた時は、少ないながらも何某かの会話を交わしているものだが。黙り込んだまま口を開こうとしないストックは、塞ぎ込んでいるようにも、何かを堪えているようにも思われた。
ロッシュは何も言わず、そんな親友にそっと寄り添う。何かを言うべきなのかもしれないが、静寂が彩る沈黙を前に、語る内容も思いつかない。それにストックが発する気配が、言葉を望んでいるとは感じられない。ただ空間を重ね合い、存在そのものを寄り添わせるような時間が、ゆっくりと流れていく。
「……先程」
十分にそれに浸った頃合いで、ようやくストックが声を発した。
「レイニーとマルコが、ここに来なかったか?」
その声が持つ奇妙に沈んだ響きに、ロッシュは首を傾げる。この問いが出るということは、ストックも彼らとの邂逅を果たしたのだろう、しかしそれにしては表情が暗い。
「ああ。あいつら、生きてたんだな」
「……そうだな」
「良かったな、生還した兵は居ないと思ってたが……あいつらだけでも戻ってくれて、本当に良かったぜ」
「……ああ」
気のない、というよりは気を落とした、と言ったほうが正しいだろうか。これほど沈み込んだストックは、セレスティアに来てから初めて見る気がする。タイミング的にレイニーとマルコとの会話が原因であることは間違いない、しかしずっと探し続けていた部下が見付かったというのに、一体何処に落ち込む理由があるというのか。
「あいつら、またアリステルで働いてるんだってな」
探るようなロッシュの言葉にも、反応を示さず顔を向けることもしない。親友の横顔に宿る色の意味を考えながら、ロッシュはさらに話を続ける。
「あっちの様子とかも、色々聞かせてもらったぜ。ラウル中将も無事だってよ」
「……そうか。それは、良かった」
「お前もアリステルには行ってるんだよな。そういう話とか、聞かないのか?」
「俺は……単なる護衛だからな。それにもう、あの国に未練は無い」
視線を落としたままのストックがきっぱりと告げる、となるとやはり彼は、二人の誘いに拒絶を返したのだろう。それは容易に予想が付くが、事実に収まらぬ彼の本心が知りたくて、答えが分かっていて尚問いを投げかける。
「レイニーとマルコは、お前にアリステルに戻って欲しいようだったがな」
「そうだな。……そう、言われた」
「行かないのか? あいつらのこと、ずっと探してたんだろ」
「ああ……だが、アリステルに戻るためじゃない。戦乱の続くあの国から離れて、セレスティアで共に暮らせないかと思っていたんだ」
「……そうか」
ストックの返答に、少しだけ意を得てロッシュは頷く。拒絶されたのはレイニーとマルコだけではない、ストックの側もまた抱えていた願いをはね付けられたと、どうやらそういうことらしい。彼の纏う傷心を想い、ロッシュは何も言えずに頭上を見上げた。彼らは皆それぞれの信念を貫くために戦い、それ故にすれ違うこともある。仕方がないことではあるが、かつての仲間と道を違える苦しみは、そんな言葉では片づけられない程重いものだ。
「ロッシュ。お前は、何か言われなかったか?」
ストックからそう問い返され、ロッシュは口元に自嘲を浮かべる。
「来いと言われはしたが、この身体だからな。アリステルに戻ったところで、何の役にも立たないだろ」
「……そう、か」
その答えに、深く頷くストックの気配が、安心の色を帯びた気がした。ロッシュはストックの横顔を見遣る、結界樹を見上げるその表情に宿った感情は、ロッシュには分からない。
「だが、聞いたか? ヒューゴが、暗殺されたってな」
「…………ああ」
ロッシュの言葉にも捗々しい返答をせず、ぼんやりと視線を泳がせている親友だが、話を聞いていること感覚で分かる。もしかしたらストックは、この報も既に知っていたのではないかと、ふとロッシュは思った。ヒューゴが暗殺されたことも、ラウルがアリステルの中枢に戻っていたことも、知っていてロッシュには伝えていなかったのではないかと。
「だから、俺もお前ももう、追われちゃあいない……アリステルに帰ることも、出来るんだ」
ロッシュが力を込めて語ると、それに引き寄せられるかのように、ストックが顔を戻した。深い緑色の瞳が、不思議な光を湛えてロッシュを見る。
「……お前は、アリステルに戻りたいのか?」
見詰めながら語りかける声は、それまでの茫漠としたそれとは異なる温度をしているように、ロッシュには感じられた。力強い、いやそれだけではない、曰く言い難い熱の込められた問い。それを受けたロッシュは、一瞬目を瞬かせ、注がれた視線を受け止め返す。
「いや、……正直、よく分からん。あそこに戻っても、もう俺の部下は居ないしな、だが」
奪われたと思っていた力、それを取り戻せる可能性。それは希望か、それとも。
「アリステルに戻れば、研究所でガントレットを調べてもらえる。もしかしたら、もう一度……この腕は、動くかもしれない」
例え偽りの光だとしても、その輝きは強すぎて、どうしても無かったことには出来そうにない。迷いを残したまま、それでも強く左腕を掴むロッシュを、ストックがじっと見据えている。
「……そうか」
そして、表情を出さずに引き結ばれていたその唇が、緩やかに開かれた。
「確かにソニアは、整備が出来るといっても専門家ではないからな。研究者が見れば、また別の見解もあるか」
淡々と、感情を抑えた声音は、普段の彼と変わらなく聞こえるかもしれない。しかしそこに、何処か決定的な違いが存在することを、親友であるロッシュは聞き取ってしまっていた。無表情の奥に潜められている彼の心、それが持つ温度が、あまりに違う。
「だが、今アリステルに戻るのは、止めた方がいい」
その理由は、ロッシュには分からない。ストックが何を感じて何を思い、何を考えて彼を止めるのか、ロッシュには理解することが出来ない。
「……何でだ?」
「国を支配していたヒューゴが暗殺され、アリステルは今混乱のただ中にある。……それこそ、一度放逐された将が、舞い戻って実権を握れる程にな」
当たり前のようにストックが説明する、やはり彼はアリステルの現状を、かなり正確に掴んでいたようだ。彼が元情報部員であり、何度もアリステルに足を運んでいるという事実から考えれば、当然とも言えることではあるが。
「そんな中で、一般兵士に至るまでの意識統制が取れていると思うか? 未だに俺達を脱走者と認識している者も多いだろう、正確な情報を得ずして襲いかかる者が居ないとは言い切れない」
「それは……そうかもしれんが」
「勿論、俺はお前とソニアを守る。だが、どんな状況でも絶対にそれが叶うなどとは思っていない……危険があるうちは、近寄らないのが一番だ」
「…………」
ロッシュは何も言えず、ストックの瞳を見返した。彼の主張は何も間違っていない、確かにヒューゴが死んだ現状でのアリステルの混迷は相当に深いはずで、そんな中に元脱走兵が戻るなど無用な争いを呼ぶのは間違いない。何もおかしなところはない説明だ、それを語る彼に感じる、奇妙な疑念さえ無ければ。
「もう少し、待ってくれ。もっとアリステルが落ち着き、ラウルの力が軍全体に及ぶようになれば、きっと戻ることができる」
ロッシュを説得しようとするストックの表情は真摯で、嘘を吐いているようにはとても感じられない。ロッシュ以外のものであれば容易にその言葉を信じてしまうであろう。だがロッシュは彼の親友だ、戦いの中で彼の心と接し続けてきた、そのロッシュが見る今の彼は――
「……分かった、お前の言う通りだ」
ふ、とロッシュが微笑を浮かべた。そして、見詰めるストックの前で、大きく頷いてみせる。
「今のアリステルに戦う力のない俺が戻るのは、確かに危険過ぎるな。俺とソニアを護って首都に侵入するなんざ、いくらお前でもキツいだろう」
その言葉をストックは、信じたのかどうか。ロッシュがそうであるように、ストックもまたロッシュの心の深くを理解している親友なのだ、だとすれば秘められた真意すらも見抜かれているのかもしれない。
しかしそうだとしても、ストックはそれを表に出すことをしなかった。
「……すまない」
言葉と共に表情も、申し訳なさそうなものに変わる。
「お前はまだ、戦いたいんだろう?」
そして零された問いに、ロッシュは一瞬言葉を失った。
「俺は、」
戦いたいのか。当たり前だ、戦えるものなら戦いたい、そして隊員達の遺した希望を継いで、ラウルを助けて、アリステルを勝利に導いて。
いや、違う――ストックが問いたいのは、恐らくそういうことではない。ロッシュ自身が戦うことを望んでいるか否か。
それに対して、ロッシュは、即答することができない。
「…………」
そんなロッシュを見たストックの目元が、柔らかく緩められる。
「俺も、護衛でアリステルに行った時には、様子を調べておく。動きがあったら教えるから、今は大人しくしておけ」
優しいとも言える口調の親友に、ロッシュは応えて笑いかけた。しかしその心中に宿った種は、消えることなく息づき、今まで目にしていたものの色さえ変えようとしている。セレスティアに来て以来、得る知識の殆どをこの親友に依存していることに、ロッシュは今ようやく気付いた。
「ああ。……頼んだぜ」
未だ形に成り切らぬ疑念、その正体を確かめるためにも、もっと情報を集めなければならない。言葉にせぬ決意を胸に秘め、そしてそれを親友に悟らせぬようにと、ロッシュは浮かべた笑みを深くした。
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セキゲツ作
2011.11.30 初出
RHTOP / RH-URATOP / TOP