久し振りに顔を見たロッシュは、思ったより元気そうに感じられた。
ベロニカの部屋を辞したその足で結界樹の前へ赴き、予想通りそこに居たロッシュの姿を視認した瞬間の安堵が、彼の元を去った今になって胸中に染み渡っている。相変わらず怪我の具合は重い、だが他の歴史と同じくセレスティアに満ちるマナが肉体の再生力を高めているようで、運ばれた直後に見た痛々しいほどの様子から比べればその気配は遙かに力強くなっていた。さすがに怪我をする前と全く同じとはいかないが、ストックが何も言わずに姿を消したことを責める程度の元気は出てきている。怒りにまかせて思い切り叩かれた肩の痛みを思い出し、ストックは密かに苦笑を浮かべた。身体の傷は徐々に癒える、精神の方はそれほど簡単にはいかないだろうが、それでももうストックの心配が出来る程度までは余力が生じているのだ。完全に立ち直るには相当の時間がかかるだろうが、けして不可能なことではない。静かな時を続ければ、いずれは過去の痛みを乗り越え、普通の暮らしを営めるようになってくれるだろう。焦る必要はない、ゆっくりと傷を癒していくには、セレスティアは最適の土地だ。人間同士の戦いに背を向け、結界の内に守られたこの場所なら、ロッシュもきっと新たな生き方を見付けられる。その為にも、この里へ戦火が飛び火することだけは絶対に防がなくてはならない、それが今のストックに課せられた役目なのだ。
密やかな決意を新たにし、一歩を踏み出そうとしたストックの視界が、しかし突然ぐるりと回った。慌てて意識を集中し、傾ぎかけた身体を戻す。セレスティアを出てからずっと、禄に休みも取らず動き続けていたために、体力が限界にきているようだった。何しろ里を後にしたその足でアリステルに向かい、そこで目的を果たした後はバノッサ達に合流するため全力でラズヴィル丘陵まで走り、そのまま彼らを護ってガフカと共に魔物を蹴散らしてきたのだ。これだけの強行軍をこなせば、いくらストックが鍛えているといっても、何事もない顔で居られるものではない。
しかし無理を通した甲斐があり、無事にバノッサ達を助け、こうして里に戻ることが出来た。里に入るだけなら手立ては他にも考えられるが、助けを失ったことによってバノッサ達が死を迎えてしまうのは、ストックとしては出来れば避けたい流れであった。この歴史ではまだ出会ってすら居ない者達だが、関わった者の死を見るのは、やはり辛い。必要があれば諦める他無いが、助けられるものなら助けてやりたかった。
その想いが通じたのか、それとも運命が彼らの味方だったのか、それは分からない。しかし結果としてバノッサ達は魔物の暴走による危機を脱して、彼らの帰還を助けたストックは里に滞在することが許された。いや、滞在するだけではなく、正式にバノッサ達を助けることさえも依頼されている。命じた族長の真意は分からない、だがストックにとってこれは願ってもない提案だった。里のために働くことによってセレスティアの住人達に味方として認識される、そしてそれは、表だって親友達を護るための立場を得ることに繋がるのだ。これから里に腰を落ち着け、新たな生活を築く上において、大きな前進と言えた。
だがその成功も、肝心の任務に失敗し、里に戻れなくなってしまえば意味がない。隊を護って魔物と戦う、そのための体力を、出発までの間に取り戻しておかなければならなかった。ストックはぐるりと首を巡らせ、利用を許可された宿に向かおうと、足を踏み出す。
「――ストック!」
しかしその歩みは、投げかけられた声によって止められた。視界を巡らせれば、そこにあるのは駆け寄る親友の姿。余程急いできたのだろう、青ざめたソニアの息は、大きく乱れている。こちらも久方ぶりに会う彼女に、ストックの側からも歩み寄り、その傍らに立ち止まった。
「ソニア」
「ストック、あなた何処へ行って――それより怪我は! 大丈夫なんですか!」
「落ち着けソニア、大丈夫だ、怪我は無い。……心配をかけたな」
「全くです! 書き置きひとつ残していきなり居なくなるなんて、ロッシュと私がどれだけ心配したか……!」
涙ぐんで詰め寄るソニアの肩に手をやり、落ち着かせようと軽く叩く。
「……すまなかった」
その感触に少しだけ安心したのか、叫ぶ程に勢い付いていた言葉は取り敢えず静まり、代わりに小さな溜息がその唇から零れた。そして落ち着いたところで改めて向けられた医者の目が、ストックの頭からつま先までをじっくりと眺め、その身に大きな怪我が無いことを確認する。
「……良かった、本当に無事なようですね」
「そう言っただろう」
「あなたは、怪我をしても隠しますから。そう言われたところで、信じられるわけがありません」
心配がひと段落ついたら怒りが湧いてきたのか、今度は美しい顔立ちを厳しい色に染め、ストックを睨み付けてきた。しかし険しく吊り上げられた目元は溢れかけた涙で濡れていて、その姿は恐怖よりもむしろ強い罪悪感を呼び起こしてくる。ストックは素直に頭を下げ、彼にしては珍しく言い訳めいた調子で口を開いた。
「何も言わず出ていったことは、すまないと思っている。だが、声をかける暇が無くてな」
「それにしたって、そんなことをしたら私達が心配するのは、分かりきっているでしょう。大体今だって、こっちが行くまで会いにきてくれないなんて」
「いや、戻ったら直ぐに声をかけようと思ったんだが、見当たらなかったんだ。……ロッシュのところには、顔を出したんだが」
「ああ、あの人のところに行っていたんですか」
その説明に、ソニアがようやく少し納得した様子で頷く。
「そう、それでしたら探させてしまったかしら。私、今は里の診療所で、お手伝いをさせて頂いてるんです」
「……そうなのか」
「ええ、お世話になっているばかりでは申し訳ないですから。さっきそこにアトちゃんが来て、あなたが帰ってきたと教えてくれたんです」
ベロニカの部屋から付いてきたアトには、ロッシュに会いに行く際に席を外して貰っていたのだが、どうやら気を利かせてソニアを呼びに行ってくれていたらしい。
ソニアもすっかり里に馴染んでいるようで、ストックは微かな笑みを零す。ソニアもロッシュも人好きのする性格だ、アリステルでも双方人望を集めていたが、その調子で気難しいサテュロス族達ともうまくやっていけているのだろう。彼らを里に置いてくれるよう頼んだ時、ベロニカが快く受け入れてくれたのを思い出す、これに関してはストックが手を回すまでもないことだったようだ。
「ロッシュは何か言っていましたか? あの人も、あなたのことを凄く気にしていたんですよ」
「ああ、そのようだな。……思い切り、怒られた」
渋い顔で呟くストックに、ソニアが呆れた表情を浮かべる。
「やっぱり、そうなりましたか」
「…………」
「でも、あなたの自業自得ですからね、ロッシュも心配していたんですから。あなたが居なくなった時、探しに行くと言い出して、止めるのに苦労したんです」
「……そうだったのか」
ソニアからの情報に背筋をひやりとしたものが走る、先ほど話した時には、そんな素振りなど全くなかったのだが。だが考えてみれば彼は、元々の歴史でも、身体の自由が利かない状態で里を襲ったアリステル兵と戦おうとしていたのだ。親友であるストックが姿を消したとあれば、それくらいのことを言い出してもおかしくはない。
「ええ。その怪我で外に出たって二次遭難するだけだからと言って、ようやく納得して貰ったんです。それでも今までずっと塞いでいましたし……戻ってくれて良かった、あのままだったら、身体が治ったら直ぐに探しに行きかねなかったところでした」
「そうか……それは、すまなかった」
心底からの安堵を込めて呟く、目的に向けて足場を固めているつもりだったが、その実随分と危うい状況になっていたらしい。怪我が治りきっていなかったのが幸いして、危険に身を曝すまでには至らなかったが、可能性の先にあった未来を考えると冷たい汗が伝う。
「お前にもロッシュにも、心配をかけてしまったな」
「ええ、全くです。でも、こうして無事で帰ってきてくれたんですから、今回はそれで許してあげます」
しかし、そう言って微笑むソニアを見ると、その恐怖も柔らかく溶けて消えていく。平和な生活に馴染みつつある親友達、この姿を守るためならばどんなことでも耐えられると、そんな力が湧いてくるのだ。
「すまない、本当に。これからは、黙って居なくなることはしない――約束する」
「それはもう、絶対にそうしてください。あんなことが何度もあったら、私もロッシュも身が持ちませんから」
睨み付けるソニアの視線も、ストックの無事を確認したことで大分緩んできている。本気の怒りというよりは、拗ねるような色味を増したそれに、ストックは苦笑に近い笑みで応えた。
「悪かった、気を付ける。ただ、これからも、里を出ることは多くなりそうだ。族長に頼まれて、外と行き来する隊の護衛をすることになってな」
「え、護衛……ですか?」
途端に心配そうな表情に戻ったソニアに対して、ストックは落ち着かせるように頷いてやる。
「ああ、だが出発する時には、ちゃんと声をかけていく。黙って行くことはしないから、安心してくれ」
「そんなことは当たり前です。でも、どうしてそんな風に危険なことを引き受けたりするんですか? あなただって、少し前に大怪我をしたばかりなのに」
「もう治った、戦うのに支障はない。……それに、外に出られるのは俺にとっても都合が良いからな」
ストックの言葉に、ソニアが不思議そうに首を傾げる。
「都合が良いって、ストック、あなた、外で何を――そういえば今回も、どうして外に行っていたんですか?」
それは当然発生する筈の、むしろ今まで出てこなかったのが不思議な程の疑問だった。ソニアも余程混乱していたのだろう、今更ながらとも言える問いに、ストックは表情を変えぬまま口を開く。
「アリステルに、用があったんだ」
「用、ですか?」
「ああ。レイニーとマルコを覚えているか?」
ストックの問いに、ソニアが頷く。
「ええ、勿論です。そういえば、ずっと姿が見えませんでしたが」
「……あいつらとは、グラン平原の戦いではぐれてしまってな」
「…………」
「だから、アリステルで出会えないかと思ったんだ。生きていたら、絶対にそこへ戻る筈だからな」
絶句するソニアが考えることは分かる、ストックとロッシュが生きて帰ってきたのが奇跡とも言える激しい戦い、そこから2人が生還したと考えるのはあまりに楽観的に過ぎる。だが、彼らと親しくしていたストックを前にして、その事実を指摘することは出来ない――そんなことを、思っているはずだ。
「そう、だったんですか」
絞り出すように、ソニアが呟く。彼女は優しい、ストックを傷つけない言葉を必死で探して、台詞を作っているのだろう。だがストックは知っている、2人が実際に生き延びて、そしてアリステルに戻っていることを。こことは別の歴史で、レイニーとマルコの姿を見て、知識としてその生を知っているのだ。
「ああ。だから外に出て、アリステルに行く機会があれば、またあいつらを探してやれる」
だからその言葉は、ストックが抱える心からの本音であり、けしてソニアを納得させる口実というだけのものではなかった。今回アリステルに赴いた際も、許される限りの時間を使い、レイニーとマルコを探し回っている。成すべきことがあり、出発する刻限が迫る中では十分な情報も集められなかったが、再びアリステルに行けば今度こそ彼らと出会うことが出来るかもしれない。
それは動機の半分でしか無かったが、真実の反面を語っているのは本当のことだ。だからソニアも、疑問に思うことなくストックの言葉を受け入れているように見える。
「そうですね、きっと……きっと2人とも、生きています。何処かで、また会えますよ」
そう言って微笑むソニアは、本当に優しい。微かな、存在するかどうかも分からない希望を共に信じて、仲間達の無事を祈ってくれている。この優しい親友のためにも、きっとレイニーとマルコを見付けてやらなければならない。
「有り難う、ソニア。大丈夫だ、絶対に探し出してみせる……そしてあいつらも、この里に来て共に暮らせばいい」
願いを込めて語られた言葉に、しかしふと、ソニアの表情が曇った。数瞬前までの笑顔は潜められ、困惑の混じった視線がストックに向けられる、そして。
「ストック。あなたは彼らも、セレスティアに呼ぶつもりなのですか?」
投げられた問いに、ストックの目が丸くなった。
「……当たり前だろう」
ソニアと同じような、いや彼女以上の困惑を浮かべて、ストックが呟く。レイニーもマルコも大切な仲間だ、再び戦乱が激しくなるアリステルで、無駄に命を落とさせたくはない。2人は優秀な戦士だが、その事実が生存を保証するものにはならないことを、ストックは身を以て知っていた。特に彼らは今ラウル中将の元で働いているはずだ、敵対していたヒューゴ亡き今、政敵の居なくなったアリステル中枢に彼らが戻る可能性は非常に高い。そうなれば2人は数少ない手駒として過酷な任務に曝されることになる、それによって起こる悲劇を止める手段は、今のストックには存在しなかった。
だが2人を探してセレスティアに連れてくれば、アリステルよりは戦いに関わる機会も減るし、共に戦うことで少しは危険を減らすことも出来る。何より、一度背を合わせて戦った彼らが居てくれれば、ストックも心強い味方を得ることが出来るのだ。だから2人にはセレスティアに来て、また共に働いて欲しかった。
それはストックにとってあまりに当然の願いで、ソニアがそれに対して疑問を呈するのが不思議でならない。ソニアとて彼らに悪感情は持って居なかったはずなのだが。
「お前は反対なのか? あいつらがセレスティアに来ることに」
「いえ、そういうわけではありません。確かにここは平和ですし、レイニーさんもマルコさんも、危ないことをせずにいられれば一番だと思います、でも」
声を途切れさせ、考え込むソニアの様子を、ストックはじっと伺う。
「……ストック。あなた、アリステルに戻りたいとは、思わないんですか?」
そして続けられた言葉に、ストックはまた目を丸くした。そんなストックを、ソニアは真っ直ぐに見据えている。聡明な彼女の視線、思考の底まで覗き込むようなそれに、ストックは柄にもなく心を乱して眉を顰めた。
「どういうことだ?」
「そのままの意味です。2人を呼び寄せて静かに暮らすだなんて、まるでアリステルに戻るつもりが無いように聞こえますよ」
「ああ……そのつもりだが」
ストックが端的な答えを返すと、ソニアは深く思考を巡らせる様子を見せる。彼女の問いかけは、ストックにとってあまりに予想外のものだった。彼女は今と端を同じくする別の歴史で、ロッシュを立ち上がらせたくない、ストックにも戦いを捨てて欲しい、と彼に訴えている。平和な生を望む気持ちは彼女の中にもある筈で、ストックがセレスティアに腰を落ち着けるのであれば、喜びこそすれ反対する理由などは無いように思われるのだが。
「……何か、不都合があるか? それともソニア、お前は、アリステルに戻りたいのか」
「いえ、そういうわけではありません。それにあんな風に出てきたのですから、簡単に戻れるわけではないことも分かっています、ですが」
また逆接の単語で台詞を切り、ソニアはストックを見詰めた。
「私、あなたはきっと、ロッシュを戦わせようとすると思っていたんです」
ずばり、と。あまりに深く真実を見抜いたソニアの言葉に、ストックは一瞬絶句する。確かに以前の彼は、戦う力を無くした親友の姿を嘆き、彼が再び立ち上がることを願っていた。歴史の中をさまよい続け、彼が力を取り戻すために必要なものを悟ってからは消えて失せた気持ちだが、何も知らぬ間は確かにソニアの言う通りの行動を取っていたのだ。
「……確かに、あいつは苦しんでいる」
意識する前に口が開き、言葉が零れる。
「小隊が全滅したこと、それなのに今の自分には何もできないこと苦しんで……だから、再び戦う力が得られれば、あいつにとっては救いになるだろう」
ロッシュは国や仲間を護る仕事を心から誇りに思っていた、その力を失って苦悩しているのは、誰より彼自身だ。何も出来ない自分に絶望し、生きる力を失っている、親友のそんな姿を見るのはストックとて辛い――しかし。
「だがガントレットが動かない以上、あいつが戦場に立つのは危険だ。片腕をもがれた状態で戦いに挑むようなものだからな」
しかしそれでも、彼を立ち上がらせるわけにはいかないのだ。戦うことでロッシュはまた命を失う、何度と無く繰り返されたその悲しい歴史を、今度こそ防がなくてはならない。
「少なくとも、ガントレットを修理する算段が付くまでは、戦争から離れてこの里に居た方が良い。アリステルに戻ること自体も危険だ、戦いが近ければ、身を省みずに飛び出していきかねないだろう」
ストックの説明に、ソニアは一応頷きを返してはいるが、心底から納得しているわけでは無いことが瞳の光から分かった。だからストックは、彼女の心を引き寄せるため、もう少しだけ本音を曝すことにする。
「それに俺は、もう、あいつに戦って欲しくはない」
嘘が混じらないというだけの綺麗事ではなく、ストックを突き動かす根元の願い。それを、淡々とソニアに語りかける。
「ロッシュはもう十分戦った、そしてあれだけの傷を負ったんだ。ガントレットも失った、これ以上、何かのためにあいつが命をかける必要など無い」
腐敗した国にも、そして彼を見捨てた世界にも、彼の命と引き替える価値などがあるはずもない。表に出さぬ想いを乗せて語られた言葉、それを受けたソニアは、静かな無表情のままストックを見ている。
彼女が何を考えているのか、それはストックには分からない。親友という立場ではあるが、遙かに怜悧な頭脳と豊かな感性を持つ彼女の思考は、ストックが量り得ぬ深みに至っているのだろう。だがそんなソニアも、根を探ればストックと同じ想いを持っているはずだ。それは、彼が経験した歴史の中で、彼女自身が証してきた事実なのである。
「ソニア。お前は、ロッシュが戦いに戻った方が良いと、そう思うのか」
その問いに、肯定を返すことなど出来ないと、分かっていて。それでも敢えて投げかけた言葉に、ソニアはやはり即答せず、小さく息を吸って言葉を飲み込んだ。
「あいつがあの身体で戦場に戻り、そして命を落とすなど許されないと……そう、思わないか」
「……それは、」
「勿論、これは単なる俺の我が儘に過ぎない。これからどうするかは、ロッシュ自身が決めることだ」
瞳を揺らし、黙り込んでしまったソニアに、ストックは優しい眼差しを注ぐ。
「俺は、あいつの決意が定まるまで、この里を護る。それにレイニーとマルコが一緒に居てくれれば、安心も出来るし心強くもある……それだけだ」
ストックの宣言に、ソニアは溜息に似た呼吸を零し。そして、諦めたようにも見える、微かな笑みを浮かべた。
「……そうですか。それが、あなたの決断なのですね」
「ああ」
迷い無く頷くストックに、ソニアが柔らかく笑いかける。
「それなら私は、何も言いません。……でも、これだけは言わせてください、ストック。私はあなたにも、もう戦って欲しく無いんですよ」
「……」
「戦うことで命を危険に曝してきたのは、何もロッシュだけではありません。あなたにも同じことが言えるんです、だから……あまり、無茶はしないでください」
その言葉に、ストックはもう一度深く頷く。それを受けたソニアは、しかしふと不安げな様子になり、ストックの頬に手を当てた。
「分かったなら、今はちゃんと休まないと。ストック、あなた随分疲れているみたいですよ」
そう言われてストックも、先程まで感じていた身体の重さを思い出す。途端に復活した目眩と倦怠、それをソニアも感じ取ったのだろう、あっという間に医者の顔に戻ってストックを厳しく睨み付けた。
「全く、目を離すと直ぐにこうなるんですから。どうせ、一人だからといって休みもせずに動き続けたんでしょう」
「……そういうわけでは、無いが」
「嘘を言わないでください、顔を見れば分かります。とにかく、少し横になって……怪我は無いんですから、疲れですね。きちんと眠って体力を回復することです」
「いや、そんなわけにはいかない、もうすぐバノッサ――調査隊が出発する。あまりゆっくりもしていられないんだ」
「何を言っているんですか!」
ストックの言葉に、ソニアは険しい眦をさらに吊り上げて、語気を強めた。その剣幕に、さすがのストックも気圧されてしまい、無意識に一歩後ずさる。
「そんな顔色をしておいてまた直ぐに旅に出るだなんて、冗談でも言わないでください。医者として絶対に許可するわけにはいきません」
そう言い切ると、きっぱりと踵を返し、里の奥に向かって歩き出した。
「お、おい」
「その、調査隊ですか? 出発を遅らせてもらうように、族長に掛け合ってきます」
呼び止めたストックの言葉も、彼女を止めるには至らない。むしろ、こうなったソニアを止められる者は、大陸全土を探しても存在しないだろう。
「ストック、あなたは部屋に戻って、休んでいてください。少なくとも3日は大人しくしてもらいますからね」
それだけ言い残すと、もはやストックの返事すら待たずに、真っ直ぐ族長の家へと歩いていく。ストックはやや呆然とその背を見送っていたが、やがて彼女が本当に行ってしまったのを確認すると、嘆息を吐いて宿に向かうために歩きだした。結局ソニアの言葉には逆らえない、それにそろそろ身体を休めないと、本当に倒れかねない域まで来ているのも事実だ。
目眩を堪えて歩きながら、それでも鈍らぬ思考で、先程の会話について想いを巡らせる。ソニアは何故、あんなことを言ったのだろうか。彼女はストックと同じ気持ちでいると思っていた、そして実際、彼の言葉に頷いてもくれている。しかし同意の中で垣間見せた疑念、その真意は何処にあったのだろうか。人の心は複雑で、様々な想い絡み合うようにしてが唯一の本心を覆い隠している。もつれたそれらを紐解くのは、数多い可能性の中から正しい歴史を探し出すより、遥かに困難なことだ。
これからは少し、ソニアの動向にも注意した方が良いかもしれない。ロッシュに対して最も大きな影響力を持つのは、結局のところ彼女なのだ。今までは彼女が引き留めることでロッシュが立ち上がることを阻んでいたが、この歴史でそれが逆にならないと、言い切ることはできなかった。
万が一にもソニアの心が翻らぬように、彼女の感情を、今まで以上に慎重に見詰めなくてはならない。彼らの生を護るために必要なこととして、それを心に刻みつけながら、ストックはゆっくりと里の中を歩いていった。



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セキゲツ作
2011.11.23 初出

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