魔物の雄叫びに重なるようにして、ガフカの咆哮が響く。バノッサや一座の者達を庇い、魔物達の攻撃を一手に引き受けている彼の身体は、既に無数の傷に覆われていた。後方に下がったサテュロス族の民が、繰り返し回復魔法をかけてはいるが、仕掛けられる猛攻の前に追いつくものではない。宙を飛ぶようにして飛びかかる蛭に向かいバノッサは魔法を放った、光を歪める程急激に上昇した大気の温度が、襲いかかる生物の肉を焼きその命を絶つ。同時にガフカが間近に迫ったトカゲへと拳を叩き込んだ、骨と肉が潰れる嫌な音は、直後響いた絶命の叫びに掻き消されて聴覚には届かない。
「ガフカ殿、どうでしょう?」
「むうっ……ワシ一人ならどうとでもなるのだがな。お主達が逃げるとなると、ちと厳しいかもしれん」
険しい顔で唸るガフカの斜め前で、地を潜り近づこうとしていた凶暴な蔦が、トラップに絡め取られて炎上した。周囲を取り巻く魔物は確実に数を減らしているが、それらの間をすり抜けて走るには、未だ危険が大きすぎる。優れた脚力を持つサテュロス族といえど、何処から襲ってくるか分からない魔物達に取り巻かれながらの逃走劇に踏み切るのは、さすがに躊躇われた。
「運が良ければ、走り抜けられるかもしれませんが」
しかし、このままでは徐々に押され続け、消耗を強いられるだけだ。強靱な肉体と戦闘能力を持つガフカと言えど、永遠に戦い続けられるわけではない、それは勿論高い魔力を有するサテュロス族の者達とて同様だ。彼らが限界を迎えるか、それとも先に魔物を一掃出来るか、後者の可能性も皆無とは言えないが分の悪い賭であるのは確かだ。
「……危険ではあるが、な。しかしこのまま耐え続けるよりは望みもあるか」
奇声と共に突進する鶏を、手も触れずにガフカが弾き飛ばす。その流れのまま体内の気を練り上げ、一気に膨れ上がらせた。
「今から道を作る、走り抜けろ!」
叫びと共に空気が震える、放った気が物理的な力を持って大気を揺らし、低く広がり響くような音を生じた。周囲の者の耳朶を打ったその音は、しかし本来の目的の副次的な効果でしかない、狙った的は勿論彼らを取り巻く魔物達である。短い鳴き声が複数重なり、彼らの正面に居た魔物達が次々と吹き飛んで、その軌跡に真っ直ぐな道が出来た。
「走りますよ!」
バノッサの合図と共に、サテュロス族達が大地を蹴る。ガフカの奥義から魔物が立ち直れぬ隙に、丘陵を抜けぬまでも、集まった魔物の群から少しでも遠くに離れてしまわねばならない。サテュロス族はその獣の脚により、人間よりも遙かに素早く走ることが出来るから、攻撃の手さえ止まっていれば逃げ切ることは十分に可能である――障害が、何もなければ。
魔物が密集している地帯を抜け、そのまま安全な遠方まで走り抜けられると、皆の心に希望が兆したその瞬間。
「……待てっ、止まれ!」
後ろから追随していたガフカの声が、彼らの鼓膜を叩いた。語尾に被せるようにして不吉な叫び声が響き、木々の枝が折れる鈍い音と共に、恐るべき巨体が森の陰から姿を現す。フォレストベア、普通ならば森の奥地に生息するこの魔物は、比較的温厚で彼らの領域に入り込まねば襲ってくることなど無い。しかし今その眼は血走り、狂気じみた闘争本能に支配されてしまっている。
明らかな異常、だがそれはこの熊のみに生じたことではない。この丘陵全体、いやシグナスやグランオルグ領も含めて、各地の魔物が本来の生態からかけ離れた行動を取り始めている。生息地を離れて人里近くに現れ、普段ならば考えられぬほど凶暴化して旅人達を襲っているのだ。世界に何かが起こっている、バノッサの胸に冷たい塊が伸し掛かる――だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
走る獲物達に向けて降り下ろされた拳を、バノッサは寸前で跳び退いて避ける。着地しながら発動した魔法が、尚も攻撃を続けようとする熊の鼻先を凍り付かせた。耳が痛くなるような咆哮と共に手足を振り回す、その直撃を受けぬよう一座の者達も素早く身を退かせる。
「皆、このまま行け! ここはワシが引き受ける」
そこへ追いついたガフカが、バノッサ達とフォレストベアの間に立ちはだかった。加えられた痛撃に怒りを漲らせていた熊は、目の前に現れた邪魔者へ、攻撃の焦点を合わせる。怒号と共に振り回された長い腕の一撃を、ガフカは寸前で避け、気の一撃を叩き込んだ。
「いけませんガフカ殿、いかな貴方でも一人では」
「ここで手間取っているうちにまた魔物が集まってくる。ワシ一人なら退くのも容易だ、今は一座の者を里に!」
ガフカが叫ぶが、その言葉に従って逃げに入るには、サテュロス族の矜持は高く在りすぎた。客分であるガフカが命を掛けているというのに自分の命を優先するわけにはいかない、バノッサが何も言わずともその気持ちは全員が共有している。熊と向き合うガフカを援護するために、他の者が口々に魔法を発動させ始めた。
「くっ」
ガフカもそれを感じたのだろう、表情に焦りを浮かべ、一刻も早く再び里へと走り出せるよう、全力の拳を熊へと叩きつけた。しかし獣の巨躯はそれでも尚揺らがない、怒りと苦痛の叫びをまき散らし、繰り出された報復の一撃が、避けきれずにガフカの脇を掠めた。
「があっ……」
鍛え抜かれた筋肉の壁が爪の一撃をくい止め、致命傷は免れているが、それでも傷は随分と深い。すかさず重ねられる回復魔法によって、流れ出る血は直ぐに止まったが、魔法だけで消し去るにはその傷は大きすぎた。牙を剥き消えぬ闘争心を見せつけるガフカだが、動きの鋭さが失われつつある事実は消しようがない。
「ガフカ殿、下がってください!」
バノッサの叫びは、しかし明らかにガフカの耳に届いていなかった。武を尊ぶブルート族の誇りに火が付いたのだろう、普段は穏やかな瞳に怒りの炎を浮かべ、目の前の敵へと威嚇の唸りを発している。こうなれば逃げろといっても止まるはずがない、ならば彼の命が危うくならぬうちにこの熊を殺してしまう他は無かった。一座の者達は外の世界を闊歩する関係上、普通のサテュロス族より随分と戦闘に慣れている者が殆どだが、それでもこれほど強大な敵を相手にした経験は無い。ここを乗り切り、無事里に戻ることが出来るか。バノッサの背に冷たい汗が流れる、だが逃げることが出来ない以上、戦う他は無い。
「バノッサ殿!」
「トラップが使える者はあれの周囲に仕掛けて動きを封じろ。他の者はタイミングを合わせて、同時に魔法をぶつけるんだ。被害が大きくならないよう、一気に仕留めるぞ」
「はいっ!」
バノッサの指示に応が返り、彼らが練り上げる魔法の気配に、周囲のマナがゆらりと歪んだ。その気配を感じたのか熊が咆哮を上げる、併せてガフカも雄叫びを上げ、同時に地を蹴りぶつかり合おうとした、その時。

「…………!」

赤い影が、バノッサの視界へと滑り込んできた。瞬間は色しか認識できなかったそれが、地を駆ける赤い衣を着た青年であることを、直ぐにバノッサは悟る。凄まじい早さで熊とガフカの間に駆け込んだ青年は、その勢いのまま熊の腹に剣を突き立て、深くその刃を押し込んだ。魔物の鈍い頭が起こった事象を理解せぬうち、彼は剣を抜き、熊の血をまき散らしながら後方へと退く。
「……間に合った、か」
低く零された呟きは、ようやく発せられた熊の叫びに掻き消され、直ぐ近くに接したバノッサにしか気付かれなかっただろう。バノッサが青年に視線を向けると、ガフカも突如現れた人間へと目を遣り、そして驚いたように瞳を見開いた。
「おぬし、ひょっとして、赤いのか!」
「ああ……だが、話は後だ」
見知った相手なのだろうか、怒りを一瞬だけ消して呼びかけるガフカを赤衣の青年は制し、注意を目の前の熊へと向け直した。強大な魔物は、男に与えられた傷の痛みに耐えかね、悲鳴のような慟哭を上げつつ闇雲に手足を振り回している。か弱い人間に対しては恐怖と死しかもたらさないその動きに、しかし彼は怯む様子が無かった。冷静に、相手の一撃がけして届かぬ距離を測り、そして動きが弱まった瞬間。
「はっ……!」
鋭い呼気と共に、再び滑るように大地を駆け、熊の懐へと入り込む。そして先ほど与えた傷と、正確に同じ箇所へと、剣を叩き込んだ。堅い毛皮に防がれぬ場所に差し込まれた刃、肉を断ち内臓まで到達したであろうそれに、魔物は再び悲痛な叫びを上げる。一層死に近づいた熊は痛みに身悶えながらも、それを与えた敵に対する本能的な殺意に従い、恐るべき凶器である腕で目の前の空間を薙いだ。しかし敵に絶対的な死をもたらす筈のそれは間一髪のところで届かない、青年の衣が僅かに破られ血の如く布の切れ端が舞い飛んだが、彼の身には傷ひとつ付いていない。退いた獲物に今度こそ一撃を加えようと、叫び声を上げながら熊が突進する、しかしそれこそが生死を決する最後の一押しであった。後衛のサテュロス族によって仕掛けられていたトラップが、熊の存在を感知して発動し、魔法陣で区切られた空間全てを凍り付かせる勢いの冷気を獲物に向けて浴びせかける。傷ついた肉体の動きを止めるのに、それは十分な威力を持っていた。
「……終わった、か?」
誰かが呟いた言葉に押されるように、半ばまで凍り付いたフォレストベアが、朽木のように倒れ伏した。鈍い音と共に大地が揺れ、それでも魔物が身動きひとつしないのを確認すると、ようやく一座の者達に安堵の表情が浮かぶ。バノッサも、窮地を逃れた脱力に低い息を吐く、しかしこれで安全がもたらされたわけではない。
「今のうちだ、安全な場所まで走れ! ……ガフカ殿」
「ああ、大事無い」
与えられた傷の具合が心配であったが、取り敢えず走るに不都合は無いようだった。一座の者達を追って進むガフカの姿に、バノッサは胸を撫で下ろす、そしてもう一人の功労者へと視線を向けた。
「……行くぞ」
唐突に現れた彼がそのまま姿を消してしまうのではないかと案じたのだが、彼の側にそのつもりは無かったのだろう、武器を納めて他の者とともに駆け出す気配を見せている。視線を感じたのかバノッサへと顔を向けると、促すように視線を動かし、ひとつ頷いた。バノッサも首肯を返すと、しんがりを勤めて走り出す。

そしてそのまま、どれくらい走り続けただろうか。

「……そろそろ良いだろう。皆、一度止まろう」
里にだいぶ近づき、魔物の気配もようやく薄まったあたりで、ガフカが一同に声をかけた。隊列の後端近くに居た彼の声に、サテュロス族達は脚を緩め、逃走を停止して一箇所に集合する。ガフカと、その後ろについて走っていた青年も、彼らに追いつきその輪に加わった。バノッサは集まった者達の顔を確認し、そこに全員が揃っていること確認すると、ようやく身体の力を抜いた。
「全員、無事で居ますね」
「そうか、良かった。赤いの、あんたのおかげだ」
ガフカの言葉に、青年が顔を上げた。整った、まだ随分と若い顔が、ブルート族の戦士へと向けられる。
「いや。……だが、無事で良かった」
愛想など欠片も無い物言いだが、そこに込められた気遣いは伝わってくる。何より一行を守るため、彼は己の命を危険に晒して戦いに身を投じてくれたのだ。恩人となった相手に対して、バノッサは改めて頭を下げる。
「私からもお礼を言わせてください、お陰で一座の者達も皆、助かりました」
そう言って見詰めた青年の顔に、深い疲労が刻まれていることに、ふとバノッサは気付く。脚力の不利を無視して逃亡に追随したためかとも思ったが、それにしては消耗の度合いが深いようにも思われた。乱れた呼吸を整え終わっても、深い緑色の瞳に浮かんだ疲れは消えようとしない。あるいは、一座を助けるために戦闘に飛び込む前にも、その身体を酷使していたのかもしれなかった。
「私はこの一座を束ねております、バノッサと申します。ガフカ殿とお知り合いということは、セレスティアに縁が?」
青年に向けて問いかけると同時に、彼を知るらしいガフカに視線を投げると、彼は頷いて口を開く。
「少し前まで、里に居た人間だ。姿を消していたのだが、こんなところで会うとはな」
「ああ……助けてもらったのに、勝手にすまなかった。どうしても、やらなければならない事があったんだ」
青年が素直に頭を下げると、ガフカは鷹揚に首を横に振った。
「何、ワシに言うようなことでも無いさ。謝るならお主の友人達にしておけ、いきなり居なくなったお主のことを、随分と心配しておったぞ」
ガフカの言葉を聞いた青年の目に、それまでとは異なる、気遣わしげな色が宿る。
「……あいつらは、無事か?」
「うむ、勿論だ。あのごついのの怪我も随分と良くなってきた、戻ったら顔を出してやれ」
そう言われた青年は、ちらりとバノッサに視線を走らせた。彼はセレスティアを包む結界のことを知っているのだろう、この場に居るサテュロス族のリーダーであるバノッサが許可しなければ、部外者である青年は里に入れない。言外に投げられた問いかけに応えるため、バノッサは彼に向けて笑顔を浮かべた。
「ええ、里を出られた理由が何かは存じませんが、今こうして助けて頂いたのです。改めて、セレスティアにお招きさせて頂きたいですね」
セレスティアは閉ざされた国だ、外の者、特に人間との関わりを避けて結界の内に閉じこもることで、その平和を保っている。見知らぬ者を気軽に里に招けるものではないが、それでも一座の者達の命を助けてもらった恩を無にするわけにもいかない。それに、既に彼の身内が里に居るのであれば、中に入れなければ会うことが出来なくなってしまう。
バノッサの答えに、青年は安心した様子で、微かに表情を緩めた。
「……そうか。そう言ってもらえると、有り難い」
「礼を言うのはこちらの方でございます、命を助けて頂いたのですから。と、失礼ですがお名前は?」
ガフカは彼の衣装の色で呼称を決めているようだが、まさかそれを踏襲するわけにもいかない。バノッサの質問に、青年は真っ直ぐ視線を向けて、口を開いた。
「……ストック」
彼が発したその名に、バノッサの脳の奥が、ちかりと何かを訴えてくる。何処かで聞いた名前という気がする、しかし思考を巡らせてみても、記憶の中にその名を持つ知り合いなど存在しない。噂話で聞いたわけでもなし、バノッサは不思議な感覚に、そっと首を傾げた。
「さて、長居は無用だ。セレスティアに戻るとしよう」
一瞬の思考に囚われたバノッサに代わり、ガフカが一同を取りまとめるように声を上げる。その言葉に、ストックもバノッサも、同意を示して首を振った。
「そうですね、この場所とて完全に安全とは言えません。早く、結界の内側に戻らなければ」
言いながらバノッサは一座の者に合図を出す、そして一刻も早く安全な場所に辿り着くため、一同は再び脚を動かし始めた。



――――


「戻ったか、バノッサよ」
族長ベロニカは、その立場に相応しい威厳ある口調でそう言うと、一行を出迎えた。ベロニカ、ガフカに着いて入ってきたストックに、その眉が微かに持ち上げられる。
「はい。彼らのおかげで、無事辿り着くことが出来ました」
「うむ、ここ数日、魔物どもが騒いでおったからの。ガフカを迎えに出したのだが、そなたは」
深い皺の奥から、鋭い眼光がストックへと向けられた。彼はしかし怯むことなく、真っ向からそれを受け止める。
「やはり、先日の人間か」
「ああ。……礼も言わずに居なくなったことは、すまないと思っている。やらなくてはならないことがあってな」
「ふん、里を出たのであれば、そのまま姿を消してしまえば良いものを。薄汚い人間が、どういうつもりで再び顔を出した?」
ベロニカの護衛として隣に控えたエルムの蔑んだ口調にも、顔色ひとつ変えようとせず、静かに部屋の者達を見渡している。ただその視線が、ベロニカにしがみつくアトの姿を捉えた時だけ、凪のような瞳に柔らかな色合いを浮かべた。
「ストック……何処に行ってたの?」
暖かな反応に少しだけ勇気づけられたのか、アトがおずおずとストックに話しかける。そんな少女に、ストックはまた微かに表情を緩め、安心させるように笑いかけてみせた。
「用事があったんだ。……心配かけて、すまない」
「……ほんとなの! アトは、アトはとっても心配したの!」
その笑顔で緊張の糸が切れたのだろう、泣き出しそうな顔をしたアトが、祖父から離れてストックの元へと駆け寄った。戦いで得た汚れも気にせず抱き付いて赤衣へ顔を埋める、ストックは意外な程の優しさでそれを受け止め、優しくアトの頭を撫でてやっていた。
そんな孫娘の様子を横目に見ながら、ベロニカは改めて、バノッサへと視線を戻す。
「まあ、その話は後で聞くとしよう。バノッサよ、報告を」
「はい」
促されたバノッサは、一歩前に進み出て、外の世界で得てきた情報を族長へと報告していく。グランオルグとアリステルの戦局、それに伴う人々の動き、そしてそれらから推測される水面下での政治的な駆け引き。淡々と述べられていくそれらを受け、ベロニカの口から、深い溜息が零れた。
「……そうか、外の状況は悪くなる一方か」
重々しく呟かれたそれを受け、バノッサも険しい表情で頷きを返す。
「私達は混乱極まるグランオルグから、かろうじて脱出してきましたが……あれはもはや、戦争にすらなっていない」
一座の者達と共にくぐり抜けてきた戦場を思い出し、バノッサは身を震わせた。戦意を失い、戦線を崩すグランオルグ軍に対して、容赦なく襲いかかるアリステルの兵士達。戦い、というよりは虐殺に近いそれは、否応なく人の業を思い知らされる凄惨な光景だった。
「アリステルの圧倒的武力の前にグランオルグはただ逃げの一手、このままでは」
「グランオルグは滅ぶか……」
「いや」
突然、ベロニカの言葉に被せられた声に、部屋の視線が集まった。アトを宥めていたはずのストックが、いつの間にか視線を上げ、会話している彼らを強く見据えている。
「……アリステルも、まもなく大混乱に陥る。いや、もう既に混乱は始まっている……それに乗じて、グランオルグが持ち直す可能性が高い」
「どういうことでしょう?」
唐突にもたさられた新しい情報に、バノッサはストックへと向き直った。彼が外で収集する限りでは、アリステル国内は大将であるヒューゴを中心としてほぼ盤石に固まっており、何かが起こる兆候などは全く感じられなかったのだが。しかしその考えは、ストックが続けた言葉によって、大きく打ち砕かれた。
「アリステルで、ヒューゴ大将が暗殺された」
その、あまりに衝撃的な情報に、バノッサの目が大きく見開かれる。ベロニカもさすがに言葉を失い、ストックの顔へと視線を注ぐばかりだ。口を閉ざした二人に変わり、エルムが眦を険しくし、ストックへと食ってかかる。
「貴様、何故そんなことを知っている!」
「用事があった、と言っただろう、そのためにアリステルに行っていたんだ。そこで、この情報を得た」
「……でたらめだ! バノッサ殿はそのようなこと」
「いえ、私はグランオルグ領からやってきました。ストックさんがアリステルからラズヴィル丘陵にやってきたのであれば、彼の情報の方が新しい筈です」
ストックが頷き、バノッサの言葉に同意を示す。
「ヒューゴは軍を中心として、アリステルの殆どを牛耳っていた、今のアリステル軍は混乱の極みだろう、いずれ他の者が取り纏めるだろうが、しばらくの間まともに機能させるのは難しいはずだ」
「ええ、そうでしょうね。となると……正確な現状は、アリステルに行かなければわかりませんか」
「……そうじゃな」
ベロニカが深く息を吐き、バノッサへと顔を向ける。
「バノッサよ、すまぬが急ぎアリステルへ向かってくれぬか? 現地の状況を確かめてもらいたい」
族長から下された指令に、バノッサは表情を引き締めた。厳しい旅から戻ったばかりだが、一座の者に、里のために働くのを拒む者は居ない。
「それが里の外に出ておる者の務めでしょう、お任せを」
力強いバノッサの返答に、ベロニカは頷きを返し、次いでストックへと視線を移した。
「して、ストック殿。そなた、随分と腕が立つようじゃな」
「……そうだな」
族長からの褒め言葉に対して、ストックは否定もせず静かに肯定を返す。傲岸とも思える態度だが、実際に彼の戦いぶりを目にしているバノッサからすれば、それを笑うことはとても出来ない。
「俺は、元々アリステルの情報部で働いていた。一通りの戦闘は出来るし、諜報活動も心得ている」
「ふむ、成る程な。では、その経歴を見込んで、頼みがある」
「…………」
「バノッサに同行し、情報の収集に協力して欲しい」
予想していたのだろうか、ベロニカの依頼を聞いても、ストックの表情に動きは見られない。口を噤んだままのストックに、ベロニカはさらに言葉を重ねる。
「近頃、各地で魔物が凶暴化しておる。バノッサ達も戦えぬでは無いが、彼らのみで安全を保てる状態では無くなっていることが、今日のことで分かったでな。護衛も兼ねて、アリステルに同行してやって欲しいのだ」
「……俺は、部外者だ。そんな重要な役目を任せても良いのか?」
淡々と問いを返す瞳に浮かんだ色を掴みかね、バノッサは微かに眉を顰めた。多くの人間と関わり、情報を集める役割を負うバノッサが読めぬほど深く複雑な感情が、今のストックからは伝わってくる。見ればストックにしがみついたアトも、幼い顔に不安げな表情を浮かべて、彼を見上げていた。
「バノッサは、役目柄様々な者と関わっておるでの。人を見る目は出来ておる、それがこうして里に招いている以上、悪い人間では無いじゃろう」
「…………」
「勿論、無理にとは言わんが」
「いや」
ストックは首を横に振り、アトの頭に軽く手を乗せた。
「協力するのは構わない、助けてもらった恩もあるしな。だが、代わりにこちらもひとつ、頼みたいことがある」
ストックの言葉に、ベロニカは軽く眉を上げ、続きを促す。
「……この里に、俺の親友達が世話になっている。彼らを……このまま、ここに置いてやってくれないか」
真っ直ぐな、濁りも歪みも見られない真っ直ぐな目で、ストックが語ったのはそんな願いだった。その表情はあまりにも真摯で、本来ならば行為を抱くべきそれに、しかしバノッサは何故か寒気に近いものを覚える。
「ふむ、そんなことか。構わぬよ、彼らのことは既に里の者も受け入れておるでな。お主らが良いだけ、滞在していると良い」
「……そうか」
それを聞いたストックは、安心した様子で、ずっと崩れぬままだった無表情に薄らと笑みを浮かべた。
「分かった。喜んで、協力しよう」
あるいはアトも、バノッサと同じものを感じ取っているのかもしれない。懐いた筈の相手だというのに、彼を見る目には探るような気配が感じられる。
「頼んだぞ。では、バノッサ」
「はい、直ぐに支度を」
「いや……お主とガフカには少し、話したいことがある。残ってくれ」
里の者達に向けられた指示に、ストックがちらりと視線を揺らした。そしてひとつ頷くと、何かを言われる前に、自ら部屋の入り口へと身体を向ける。
「では、俺は退出させてもらおう。準備はしておく、出発の時に声をかけてくれ」
「分かりました、それでは……また、後ほど」
一同に背を向け、歩み去っていくストックを、バノッサは一礼して見送った。アトはしばしの間逡巡していたが、結局彼の後を追い、部屋から走り出ていく。ベロニカも特に制止はしない、そして2人が居なくなり、室内にはつかの間の静寂が訪れた。
「……バノッサよ」
それを破って発せられた族長の声に、バノッサは背筋を伸ばして向き直った。その表情は、意識せぬうちに厳しく引き締められている。
「あの男……どう見る?」
言いながら流される視線は、ストックが出ていった扉へと向けられていた。焦点を明確にせぬ曖昧な質問、しかしバノッサは聞き返すこともなく、それに対して回答を紡ぐために思考を巡らせる。
「……悪心は、無いように思われます」
考えながら回答するが、ベロニカがそれで納得する筈もない。無言のまま、視線でバノッサに続きを促す。
「我々に協力するのは、親友のため、でしたか。その言葉に嘘は無いようでしたが……」
言いながら、その存在について語る時の、ストックの目を思い出す。あの時の真摯な光、そこに虚飾の色は混じらぬように思えた、しかし。
「……ですが、何処か信じきれないものも、確かに感じられます」
そう、誠意のみで形作られたような彼の行動と言葉だが、そこに何故か嫌な気配が感じられるのだ。悪意ではない、虚実とも違う、だがバノッサの心胆寒からしめる何かが。
「はっきりと理由があるわけではありません。むしろ、好意的に見られる部分の方が多いのですが」
「ふむ……」
迷いを含んだバノッサの答えに、ベロニカも髭を捻って考え込む。他の者相手であれば刺々しい言葉でストックへの否定意見を述べているであろうエルムも、さすがに族長とバノッサが相手とあっては、口を出すことなく控えているだけだ。
「ですが、そうですね……丘陵で私達を助けに現れた時も、考えてみれば随分とタイミングが良かった」
あの時バノッサ達の危機に行き合わなければ、彼がセレスティアに戻ることは、もう少し難しくなっていただろう。バノッサの疑念に、しかしガフカが否定の意を示す。
「しかしあれらの魔物は、人が操れるようなものでは無い。あの出来事全てが赤いのの企てだと考えるのは、無理があるぞ」
彼の言う通り魔物の凶暴化は、近年起こっている大地のマナの不安定化が原因の、自然発生的なものだ。ただの人間が操れる類のものではない、だが彼への不審を自覚した今では、この出来事にも言いしれぬ疑わしさを覚えてしまう。
考え込むバノッサだが、ガフカに彼程気負っている様子は無かった。淡々と、感じたままを述べているといった態で、言葉を重ねていく。
「先ほど共に戦ったが、あの者の剣には歪んだところが無いな。真っ直ぐとした、純粋な心を持って振るわれている力だ」
「ガフカ殿」
「しかし……だからこそ、危うい」
ガフカは種族こそ違えど、その人柄と深い見識で、里の者達の深い信頼を得ていた。その彼が語る内容に、ベロニカはじっと耳を傾けている。
「清すぎる水に魚は住めん。人も同じこと……純粋すぎる心が、逆に酷い歪みをもたらすこともあるものだ」
その言葉にバノッサもようやく気付いた、ストックを見た時に覚えたうそ寒さ、それは真っ直ぐ過ぎる彼の瞳に由来するものだったのだ。美点として捉えられる特性の筈なのに、それがあまりに強いが故に、忌避感を感じ恐怖を覚えてしまう。
それだけ言うとガフカは口を閉じた、ベロニカは深く息を吐き、手にした杖の柄を握り直す。
「ふむ……お主等も、そう思うか」
「ということは、族長も?」
「うむ」
どうやらベロニカもまた、ストックの持つ。異常と紙一重の危うさを感じ取っていたようだった。彼らの意見を聞いて何を思うものか、瞼を閉じ、深く思考を巡らせている。
「しかし、ならば何故、あのような頼みを? 里に置くだけならまだしも、我々の内情に深く関わらせても良いのでしょうか」
ベロニカがストックの危険性を認めているのならば、彼を里に深く関わらせる依頼をしたのは、あまりに不自然だ。バノッサが発した当然の質問に、ベロニカは首を横に振って答えた。
「あの者の真意は分からぬ、だが少なくとも今は、この里に害意を持っているようには見えん。だとすれば……あの者が再び外の国に関わり、セレスティアと利害を分かつ立場になる方が、余程危険じゃろう」
「……成る程、分かりました」
つまり彼らを同行させることで、ストックにバノッサを護衛させる同時に、バノッサにはストックを監視させるのが目的なのだろう。族長の判断に、バノッサは納得して頷く。
「そういうことであれば、否やは有りません」
「うむ。……頼んだぞ、バノッサよ。ガフカも」
サテュロス族達のやり取りを黙って見守っていたガフカに、ベロニカは視線を向けた。
「あの者を、見ておいてくれ。お主であれば、他の者が分からぬ変化も気付くことが出来よう」
「……ふむ、構わぬよ。ワシに何処まで出来るか分からんが、な」
ガフカは武人らしい泰然とした態度で、ベロニカに頷きを返す。彼の人柄を示すかのような穏やかな様子、しかしバノッサは彼程平静では居られなかった。
「悪い人間では無い……そう見えるのですが、ね」
誰に言うともなく呟く、助けてもらった恩を除いても、彼を悪人と思うことは出来ない。会ったばかりではあるが、以前から知っていたかのような、不思議な慕わしさを感じているのも事実である。だが先程、ストックを見た時の寒気に似た落ち着かない感覚が、今になって再び背筋に蘇っていた。
ベロニカはそれ以上何も言わずにバノッサを、そして部屋に居る他の者達を、じっと見据えている。老練の英知を宿したその瞳は、一体どのような未来を写しているのか。バノッサはそれすら分からぬまま、ただ言葉に出来ぬ嫌な予感を感じて、それが現実にならぬことをひたすら祈るばかりだった。



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セキゲツ作
2011.11.06 初出

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