時が流れ、季節が幾度か移り変わり、気付けばオットーがエルンストと出会ってから一年が経過していた。彼らの活動は、一年を経ても大きく変わってはいない。民衆と語り合い、それが王政に反映され、時に人に言えない探索を行う。そんな地道な活動をオットーはエルンストと共に、淡々とこなしていった。
 そして、それらの全てを経た結果として、彼らを取り巻く状況は大きく変わっていた。一年前と比べて、グランオルグ国内でのエルンストの評価は、目に見えて上昇してきている。以前から優秀な世継ぎと評されていたが、人々との距離を近しくすることで、彼の名声は益々大きなものとなっていた。今やグランオルグ城下で、エルンストへの悪評は全く聞こえてこない。それどころか、彼が英雄そのものでもあるかのように語る者すら居る。圧政を布くヴィクトールに代わってエルンストが王位を次げば、この国は見違える程良くなるのだと、彼らは考えているのだ。
 それは今のところ、大きな声ではない。だがこのままエルンストの評判が高まれば、いずれはもっと広範囲に広がっていく筈だ。それだけ、人々が抱いてきた不満は大きい。一人の英雄によって閉塞した状況が打破され、悩みや苦労が改善されることを、彼らは半ば本気で期待している。それがエルンストの目論見通りの反応なのか、オットーには判断が付かない。だが、狂信的な評価は危険なものだと、それだけは理解できる。エルンストが並外れて優秀なのは確かだが、それでも彼は、まだ十三の少年なのだ。若い故に、才能の鋭さを安全な鞘に収めることも知らない。今兆している流れが国を飲み込む大きなうねりとなった時、彼にそれを制御する事はできるのだろうか。
 被っていたフードを外したエルンストを、オットーは見詰める。変わったと言えば、エルンストの外見も、それなりに変化した。出会った時からひとつ年を重ね、その身体も少年から大人に近づきつつある。爆発的な成長ではないが、見れば分かる程に身長が伸び、骨格も少しずつ太さを増していた。子供と呼ばれるのも、もうほんの少しの間でしか無いだろう。やがて彼は成長し、成人して、一人前の男となる。
「オットー。何かあったか」
 凝視に気づいたエルンストが、オットーに視線を向け、首を傾げた。オットーは、巡らせていた思考を放棄し、誤魔化すように肩を竦める。
「いや。それより、本当に行く気か?」
 風が吹き抜け、エルンストの纏うローブを翻した。目の前には鮮やかな緑が広がり、気配を探ればそこかしこに野生の生き物が蠢いていることに気づく。グランオルグの街を覆う城壁の外、グラン平原の橋となる場所に、彼らは立っていた。こっそりと潜り抜けた城門は、既に視界から外れている。お忍びで城下に出てそのまま町を出たため、エルンストの供となるのはオットーとウィルだけだ。グラン平原には、旅人の驚異となる生物も多く生息している。彼らのような少人数では、いつゴブリンやサーベルタイガーに襲われても、不思議ではない。
「ああ。城下で出来ることもひと段落がついた、もっと行動の範囲を増やしたい」
「ちっ、簡単に言ってやがる。付き合わされるこっちの身にもなってみろってんだ」
 口では悪態を吐くオットーだが、その表情が言葉ほど嫌がっていないことに、エルンストも気付いているだろう。元来、彼は傭兵だ。知り合いに対してとはいえ、外交官の真似事をさせられるよりも、護衛任務の方が遙かに気が楽なのである。
「頼りにしているぞ、オットー、ウィル。二人とも、コルネ村に行ったことはあるか」
 エルンストの問いに、二人は顔を見合わせ、同時に首を横に振った。
「コルネ村は金持ちだからな、自前の傭兵団を持ってるんだよ。俺みたいな流れのもんは、関わる余地もねえや」
「同じく。自分は主にシグナスの商人に雇われておりましたから、近寄ったことすらありません」
「俺は、近くを通ったことならあるぜ。定期的に商人団が通ってるだけあって、分かりやすい道だ。迷うことは無いだろうよ――まあ、気にするべきはそこじゃないだろうがな」
 オットーの言葉に、エルンストは頷いて応える。
「私自身も父と共に表敬訪問をしたことがある。それに地図もある、迷う心配はしていない。問題は、魔物の襲撃だな」
 コルネ村は大きな村だ、城に収める高級野菜を算出していることもあり、既に王都との間には街道が敷かれている。だが、道といっても馬車が通れる程度に整えられたものであり、警備の兵が配置されているわけでもない。草むらよりは上等なだけで、魔物は容赦なく襲ってくる。
 グランオルグ平原は交通の要所だが、安全が保証されている場所では無いのだ。さらに言えば、魔物以外の脅威も、あの平原には存在する。
「アリステルとの国境線は、どのようになっておりますか」
「現在のところ、あの国との関係は安定している。砂の砦の手前に検問が敷かれているが、その程度だ」
「そんじゃ、軍隊同士の小競り合いに巻き込まれるって心配は無いわけだな。安心したぜ」
 隣国のアリステルとは、その成り立ちの頃からの因縁によって、常に緊張状態にある。戦いが勃発しては停戦、ということを繰り返しているが、今は停戦が成立している期間にあった。魔物も脅威だが、オットーのような傭兵稼業においては、両軍の戦闘も十分な脅威だ。どちらの兵でも無い以上、どちらから攻撃されても文句は言えないという理屈が、戦場ではまかり通るのである。その上、エルンストと共に行動するのであれば、普段とは別種の危険も伴うことになる。アリステル側に気付かれた場合は勿論、事情を知らないグランオルグ兵に見付かるのも問題だ。下手をすれば、王子誘拐の現行犯として拘束されてしまいかねない。
 戦端が開かれていないとの情報に、ほっと胸をなで下ろしたオットーに、エルンストはちらりと視線を遣った。
「致命的な危険は回避しているつもりだ。納得したなら出発するぞ、時間が無い」
「へいへい。今日中に行って帰るってなると、相当急がないとな」
 コルネ村は、グランオルグの国土の中でも、比較的首都に近い位置にある村だ。街路も整えられており、徒歩であっても、辛うじて往復は可能な距離である。だがのんびり出来る余裕が出来る程近距離なわけではない、エルンストの言葉をきっかけとして、三人はコルネ村へ向けて歩を踏み出した。

 周囲に気を配りながら、オットーは一行の先頭を歩く。首都から少し離れただけでも、周囲の容相はがらりと変わる。丈の短い草が茂る草原と、点在する木々の群生が、鮮やかな緑の対比を成していた。早朝に近い今の時間、まだ十分に残る露の匂いが、一行の鼻をくすぐってくる。オットーにとっては傭兵の仕事で何度も歩いた道だが、それでも爽やかな朝の気配は心地よいものだった。
 勿論、散歩気分で居られるわけでもない。周囲の気配と物音を探り、いつ何処から襲いかかられても構わないように身体に神経を行き渡らせつつ、オットーは歩いていく。グラン平原には危険な魔物が多い、油断していれば、忍び寄った大型獣による一撃で絶命することになるだろう。時折背後の様子を見れば、エルンストもまた、警戒しながら歩いているようだった。彼の場合は実戦経験も浅い、警戒したところで忍んだ気配を察せられるとも思えないが、無意味に文句ばかり言われるよりは遙かに楽な態度だ。実際、エルンストは良く耐えていた。遮るものもなく日差しの照りつける中、土埃と泥にまみれて歩くことなど、王子である彼にとっては初めての体験だった筈だ。しかも同行者は旅慣れたオットーとウィルで、彼らの速度に合わせて歩き続けるのは、まだ少年であるエルンストには辛いものであったに違いない。だがエルンストは一度も、弱音や愚痴の類を口にすることは無かった。それどころか休息も、他の二人が提案するまで、けして望もうとはしなかったのである。
 そこには多分に、意地も含まれていただろう。彼の名声は随分と高まってはいたが、その行為を王族の道楽と蔑むものも、未だ少なからず存在している。むしろ、オットーが関わること無い貴族社会においてこそ、そんな声は強い筈だ。エルンストはいつも、何かに挑むような、戦うような様子で様々なことを成していた。それは王子という立場、そして彼の年若さに対する反抗のように、オットーには感じられていたのだ。
 彼の戦意の源が何であるかは、オットーには、いやおそらくエルンスト自身以外の誰にも分からないことだったが。
「――そろそろ、出発するか」
 二度目の休憩を取り始めてから少しの後、エルンストがそう言って立ち上がろうとした。
「まだ早いだろ。もう少し休んどけ」
 日は高くなっているが、まだ昼時にも至らない刻限だ。道のりは順調で、この調子であれば予定の刻限までには、目的の村にたどり着けると思われた。虚勢を張ってはいるが、エルンストの疲労は相当に溜まっている筈だ。余裕があるならば今のうちに休んでおくべきと、そう主張するオットーに、ウィルも頷いて同意を示す。
「王子、あまりご無理をされませんよう。急ぐばかりでは足下を掬われます」
「コルネ村はもう直ぐ目の前だ。今ここで休むよりも、村に到着してから休んだ方が効率が良い」
 正論らしく堂々と言い放っているが、それが自分の要求を正当化しているだけの台詞だと、オットーには分かっている。不機嫌を示して眉根を寄せた、エルンストの剣呑な視線を、オットーは眉ひとつ動かさずに受け流した。
「無理して動いてる最中に、魔物に襲われたらどうする。ここは城でも町中でもない、呼べば来るような衛兵は居ないんだぜ」
「休んでいるその間に、魔物に襲われる可能性もある」
「それならそれで都合が良い。開けた場所なら、忍び寄って殺される危険は無いからな」
 今彼らが陣取っているのは、コルネ村へと向かう直線路である切り通しの前だ。崖を背にして座っていれば、視界の外から魔物に忍び寄られることもない。道を進めてしまえば死角は増え、移動中は注意力も落ちてしまう。
「焦って魔物に殺されちゃ、元も子もない。予定までにゃ着けるんだから、少しは大人しくしてろよ」
 オットーに諭され、エルンストはまだ不満な表情ながらも、渋々と腰を下ろし直した。この王子は何を焦っているのかと、オットーは内心嘆息する。だがともかくオットーの言い分を理解してくれたのは確かなようで、それ以上の文句は口にせず、黙って座っていた。
 何処かの木陰でさえずる鳥の鳴き声が、場違いな程暢気に響く。彼ら以外にも無数の生物が生きる草原では、人間が三人黙り込んだところで、完全な沈黙は生まれない。風が草を渡る音、梢が揺れるざわめきに、オットーはぼんやりと耳を傾けた。がさり、と葉の擦れる音が響く。風――いや、何某かの生物が動く音だ。それもかなり大きく、しかもこちらに向かう方向で――それを理解した瞬間、オットーは意識を張りつめさせ、腰の剣に手をかけた。
「オットー」
「ああ、分かってる」
 ほぼ同時に、ウィルも気付いたらしい。送られた目配せに、オットーは頷いて応える。エルンストは一瞬呆然としていたが、二人の様子に状況を察した様子で、厳しい顔で武器に手をやった。
 オットーが周囲の気配を探る。彼らの座る箇所を取り囲むように、五匹。身体はさほど大きくない、その上で徒党を組む程の知恵を持つといったら、この平原に住み着くゴブリンである可能性が高い。武器を操り、集団で行動する、厄介な魔物だ。こちらの数は二人、守るべき相手が一人――オットーの脳内で、素早く計算が成される。崖を背にしているおかげで、完全に取り囲まれることは防げている。弓による攻撃が面倒だが、エルンストならば木偶ではない。自分で攻撃を避けるくらいは出来るだろう。
「立つと同時に横に飛べ。良いな」
 オットーの指示に、エルンストは頷いた。ウィルも、エルンストとオットーの双方に視線を遣り、小さく頷く。じりじりと近づく気配を、ウィルもまた感じている筈だが、その顔に特段の変化は見受けられなかった。緊張の色が濃く浮かんでいるエルンストとは、大きく異なっている。それは間違いなく、実戦経験の差から顕れるものだ。オットーは声を発さず、腕を持ち上げた。二人の注目が集まる。十分に意識が向けられ、それぞれの身体に力が溜められたのを見て。
 腕を振り下ろし、大地を叩く。その勢いで身体を持ち上げ、地を蹴って横に飛んだと同時に、その場にいくつもの矢が飛来する。だがそれらが刺さるのは誰もいない空間だ。ウィルとエルンストも、撓めた筋肉を一気に弾けさせ、その場から飛び退いていた。奇声が上がり、物陰からゴブリンが襲いかかってくる。数は目算通り五匹、そのうち二匹が弓を持ち、第二波を彼らに浴びせようとしていた。させるまい、とオットーは勢いよく飛びかかり、正面の一匹を斬り払う。押す力を強くして横に薙げば、均衡を失った小さな身体は、ごろりと背後に転げて弓を構えた一匹を巻き込んだ。怒りを孕んだ叫びは、言葉が通じないのを良いことに、完全に無視する。
 横に視線を遣れば、ウィルの側でも同じく、二匹を同時に相手取っているところだった。剣を持ったゴブリンと弓を持ったゴブリン、その中間に位置取り、流れるような連撃を叩き込んでいる。曲線的なその動きは、シグナス独特の剣技だ。見た目以上に素早いその太刀筋に、二匹のゴブリンは完全に惑わされ、攻撃の端を掴めずにいるようだ。彼の側は問題ない、そう判断してエルンストを探すと、彼もまたゴブリンの一匹を相手どっていた。さすがに二匹同時にとはいかないが、剣を持ち襲ってくる魔物を相手に、良く戦っているようだった。成長し切らぬ身体から繰り出される一撃は軽く、相手の動きを止めるまでにはいかないが、足を止める程度には十分に役立っている。先ずは直ぐに死ぬこともないだろう、そう判断してオットーも、先ずは自分の相手となった二匹を片づけることに専念した。もつれていた身体を解いて起きあがった二匹に、鋭い突きで追い打ちをかける。ゴブリンは防具を着ける知恵を持った魔物だが、残念ながらその防具を十全に活かすだけの知性までは持ち合わせていない。完全には覆われていない皮膚の一部、守りが弱い箇所を狙って、オットーの剣が繰り出される。肩を切り裂かれたゴブリンの、耳障りな叫びが耳をつんざいた。
「うるせえよ――っと」
 その間に発射された弓を、身体を翻して避けつつ、素早い斬り返しで打ち落とす。僅かに体勢が崩れたが、隙となる程ではない。返す刀で反撃を受け、片足で相手の腹を蹴り抜いた。無様に転がった歪躯に、止めの一撃を振り下ろす。粗末な兜で覆われた頭が、大地に転がった。こうなれば、残された一体に手間取ることもない。彼我の距離を考えもせず弓をつがえようとしている知能の低い魔物に対して、数歩で間合いを縮めたオットーの剣が、射手の首を切り落とす。叫びが途絶え、倒れた身体が完全に動かなくなるのを確認してから、オットーは後ろを振り返った。こちらも既に戦闘を終えたウィル、そして未だ剣を構えたままのエルンスト。服が避け、血が滲んでいるのを見て、オットーは身を翻した。エルンストを突き飛ばすようにしてゴブリンの前に立つ。新たな敵対者にいきり立つ相手に向けて剣を構え、乱れた体勢を整えるその一瞬で、同時に動いていたウィルが魔物の身体を斬り倒した。流れるような動きに、オットーは短く口笛を吹く。
「大したもんだな」
「王子、ご無事で」
 オットーの軽口には取り合わず、ウィルは倒れたエルンストに駆け寄ると、その身体を引き起こした。オットーも彼の元に向かい、その様子を確認する。数カ所に血の滲む傷が開いているようだが、どれもさほどの深さではない。とはいえ治療は必要だ、ゴブリンの武器など大概不潔なもので、傷を放置すれば膿んでしまう可能性がある。
「歩けるか?」
「大した傷じゃない」
「未熟者の自己申告があてになるか。まずはここを離れるぞ、落ち着いたら応急処置だ」
 息を荒げるエルンストの手を引き、コルネ村へと続く切り通しに身を踊らせる。隘路は危険だが、血のぶち撒けられた場所に留まるわけにはいかない。他の魔物が引き寄せられるよりも早く、この場を離れてしまわなければならなかった。
「……すまなかった。足手まといになってしまったな」
「護衛対象が何言ってんだ。むしろこっちの手落ちだろ、傭兵失格も良いとこだぜ」
「オットーの言う通りです。お守り出来ず、申し訳ありませんでした」
 足早に歩きながらウィルが頭を下げるが、エルンストはわだかまりを抱えたような、苦しげな表情のままだ。傷が痛むかとオットーが聞いても、無言で首を横に振っている。
「あんたは王子で、俺達はその護衛だ。ああいう時は、とにかく自分の身を護って、何ならそこらに隠れてりゃ良いんだよ。それを護るのが俺たちの仕事なんだからな」
「そうかもしれない。しかし」
「王子、とにかく傷の手当てを。コルネ村までまだ少しの距離があります、止血程度はしておいた方が良いでしょう」
 切り通しの中程まで来て足を止め、ウィルが荷物を下ろす。その動きに、エルンストは僅かに眉を顰めたが、自らの傷を侮るつもりも無かったようだ。逆らわずに足を止め、ウィルに向けて傷を晒す。ウィルは、旅慣れた物の手早さで、それらに応急処置を施していった。
「ここまできたら、コルネ村まで抜けた方が良い。終わったら直ぐ出発するぞ、歩けるな?」
そう言ったオットーに、エルンストの視線が向けられる。何を考えているのか険しい表情の彼が、ともかく頷いて同意を示したのを確認すると、オットーは小さく息を吐いて、周囲の警戒に神経を集中させた。



――――――



 幸いなことに、その後は襲撃を受けることはなく、オットー達は無事コルネ村へ辿り着くことが出来た。エルンストは、怪我の手当を終えると直ぐに、村長との会談に臨んでいる。ここコルネ村は、質の良い作物やその加工品を産出することで、グランオルグ内外で名を知られている。コルネ村産と頭に付けば、どんなものでも値が三倍になると言われている程だ。そして高級品を輸出しているということは、豊富な経済力を有しているということでもある。この村の有力者となれば、貴族と大差ない発言力を持っていると、オットーも噂で聞いたことがあった。
 そんな立場の人間を相手にしているのだから、ごろつき上がりの護衛風情が同席できる訳もない。オットーとウィルは、会談に使われている集会所の表で待機し、見張りとして任務を果たしていた。といっても村の中のこと、首都と違って不心得者がうろついているわけでもなく、まして魔物が現れる筈もない。護衛というより、人払いに近い役目だ。
 麗らかな日差しが暖かく、オットーは欠伸をかみ殺す。それに気付いたのか、横に立つウィルが、咎めるような視線を送ってきた。
「気を緩めすぎた。護衛の最中だぞ」
「クソ真面目な奴だな。こんな暢気な村の中で気を張ってたってしょうがないだろうよ」
「暢気なのはそなただ。先程の平原での失態もある、何かあってから悔いては遅いのだぞ」
「妙な気配を感じたら、ちゃんと気合いを入れるさ。これでも傭兵だぜ」
 苦笑しながら肩を竦めるが、オットーの側でも、エルンストに怪我をさせたのは失敗だとわかっている。エルンストの態度で失念しそうになるが、彼は王子で、オットーは護衛だ。例えエルンスト自身の行動に因るものだとしても、彼の肌に傷一つでも付ければ、首をはねられても文句は言えない立場なのである。その事実は理解しているし、己の失態を恥じるだけの矜持も持っている。態度こそ不真面目に見えるが、彼の神経は、周囲に向けて警戒網を張り巡らせていた。目を眇めて片頬を持ち上げるオットーに、ウィルが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「お前も、ずっとそんな調子じゃ、いざって時に力が出せないだろ。もう少し気を抜いたらどうだ」
「馬鹿を言うな、それで護衛の役目が果たせるか」
「ホントにクソ真面目だな。――ああ、そういえば」
 背筋を伸ばして周囲を睥睨するウィルを、オットーは横目でちらりと見た。
「口調。ちょっと前から思ってたんだが、あのとんでもない口調、随分まともになったじゃねえか」
「……そうか?」
「ああ。よく直したもんだな」
 多少は堅苦しく、多少は古臭い。だが、意味を取ることも困難だった以前と比べれば、格段に一般的な言葉に近付いたと言える。オットーの賛辞に、ウィルは前を見据えたままで、ほんの少しだけ口元を緩めてみせた。
「臣下の勤めだ。王子の害となるのであれば、直さざるを得まい」
「ふうん。大した忠義だよ、ほんとに」
 実際彼の忠誠は、軍人であってさえ国よりも権力の方に愛情を抱く昨今では、希有だとも言える。一体何故彼は、そこまで忠実にエルンストに仕えているのか。ウィルについては、情報を何も知らないという事実に、ふとオットーは思い至った。
「お前、確かシグナスの出身だって言ったよな」
「急にどうした。ああ、確かにその通りだが」
「いや、不思議に思ってな。シグナスの人間が、どうしてグランオルグの王子の手飼いになってるんだ」
 オットーの唐突な問いに、ウィルは数度瞼を瞬かせて、訝しげに首を傾げた。
「不思議なことは無いだろう、シグナスはグランオルグと違って長い歴史もない。愛国心と呼ばれるものを持たない者も、数多く居るというだけだ」
 グランオルグと南西で接するシグナスは、数年前に傭兵王ガーランドが立国を宣言した、大陸の中でも目立って新しい国家だ。ガーランド王はシグナス国民に支持されていると聞くが、さすがにそんな意見が全てというわけでもないらしい。それまでの自治地域を武力で纏め上げているのだあら、当然のことだろう。
「まあ、それは分かる。だから国を出て傭兵としてやってく、ってのも分かるがな、それで一足飛びに王子様に辿り着けるってわけでもなかろうに」
「そうだな、だから自分は幸運だったと言えるだろう」
 幸運によって出会ったとは、また何とも曖昧な言葉だ。続きを促すオットーの視線に、ウィルは僅かに笑ってみせる。
「語る程の話があるわけではない。幸運な偶然、本当にそれだけの話だ」
「街中を歩いてたら、道で王子様にぶつかりましたって?」
「似たようなものだな。そなたが考えるような劇的な物語や、まして出世のための方策など、何処にも無い」
 そう語るウィルの言葉が全て真実かどうか、オットーには分からない。だがそれ以上を語るつもりが無いのは明らかで、オットーは不機嫌げに鼻を鳴らし、視線を正面に戻した。その態度に何を感じたものか、数秒の空白の後、ウィルは再び唇を開く。
「自分の故郷は、シグナスでも北方――旧帝国遺跡に近い土地にある」
「は? 何だって、遺跡?」
「旧帝国、グランオルグの前身であり、遙か昔に滅んだ国の遺跡だ。グランオルグの王族は、旧帝国の皇帝から連なる血筋。その帝国の首都であったという土地が、故郷の北方に存在する」
 突如始まった歴史語りに、オットーは唖然とする。グランオルグの前身となる国が存在したことなど、オットーは今まで全く知らなかった。一般的な知識では無いのか、あるいは禄な教育を受けずに育った、オットー自身の知識程度が問題なのかもしれない。ともかく、オットーの反応が無いことは気にせず、ウィルは淡々と言葉を続ける。
「我が一族は、帝国時代よりその土地を統べていたらしい。首都に近い領地を所持している、位の高い貴族だったと」
「おいおい、一気に話が大きくなったな。本当なのか?」
「さあな。一族に伝えられた文書ならあったが、真贋は分からん。父は本気で信じていたようだったが」
 ウィル自身がどうだったのか、それに言及されることは無かった。感情の込められない淡々とした口調は、彼の内心を推し量らせようとしない。
「どのみちもう、意味のない話だ。ガーランドがシグナスを統一する際、故郷は一度滅ぼされ、父母も没した。一族で残ったのは自分のみ、もはや血統を云々できるものではない」
「……そうか」
「暗い顔をするな。珍しい話というわけではない」
 そう語る彼の口調は、確かに感情の揺らぎを感じさせないものだった。だが、気にするなと言われて無視できるようなものでもなく、オットーは困惑して黙り込む。シグナスとは事情が異なるが、グランオルグもアリステルと小競り合いを繰り返す立場だ、戦火に焼かれての孤児というのも当然存在する。しかし彼らが王都に流れ込むことはまず無く、ウィルが語る身の上は、オットーにとって実感の薄い存在だった。悪い、と謝ろうとして、それも違うと思い直す。オットーが語るように促したわけではなく、これはウィルから口火を切った話だ。
 突然身の上を語りだしたウィルの意図を考え、失念していたそれまでの話題を、何とか思い出した。
「で、その……自分が元貴族の家柄だったから、グランオルグの王族に仕えてるってのか?」
「いいや、そのようなつもりは無い」
 きっぱりと、ウィルが言い切る。へ、と間抜けな声が、オットーの口から漏れた。
「剣を捧げる相手は、自分自身で決める。あの方は我が命を賭すに相応しい、それは王族であるか否かにに関係ない」
「お、おう、そうかよ。そりゃ立派なことで」
 ならば何故唐突にそんなことを語ったのかと、内心で不平を立ち上らせる。相変わらず分からない男だと睨み付けてやるが、当のウィルは涼しい顔だ。オットーは出来るだけあからさまになるように溜息を吐き、警備へと意識を戻した。
 周囲を警戒しながらも、頭の一部では、先程のウィルの話を考えている。命を賭けて誰かに仕える、その感覚は、オットーには完全には理解できない。彼は金で雇われて命を売る傭兵だ、忠義で以て全ての命を捧げるなど、想像の範疇から遙かに外れる。エルンストにしたところで、それなりの好意を抱いてはいるが、あくまで雇い主に過ぎない。ウィルの道と自分の道は異なるのだと、改めてオットーは自覚する。
 あるいは、オットーに理解できないその想いこそが、エルンストがウィルに寄せる信頼の源なのかもしれない。金でも権利でもない、欲も得も関係のない純粋な忠義。王族であることは関係ないと言ったその精神は、王子としての立場に縛られたエルンストにとっては、信頼に値するものと思われたのだろうか。例えそれが、どのようなきっかけて始まったものであろうとも。
「立派なもんだよ、ほんとに」
 それは、オットーには存在しないものだ。だから自分は、未だにエルンストから信じられていないのだろうと、オットーは考える。手駒としての評価はかち得ている、だが本当の信頼となると、話はまったく別だ。
「なあ、ウィル。お前、王子様の目的を知ってるか」
「目的?」
「こうやってあっちこっち回ってるのは、お世継ぎ様の社会勉強ってだけじゃない。あいつにはもっと、具体的な目的がある――そう思わないか」
 周囲に人の気配は無い。建物の中からは、相変わらず密やかな会話が聞こえてくる。勿論、中身が聞き取れるわけではなく、風が囁くように空気が擦れているだけなのだが。
「この村に来たことだってそうだ。あいつはこの村で、一体何をする気なんだ? 非公式に単独でやってきて、村長と密談して、単なる表敬訪問じゃ通らん」
「……そうだな。そなたの言う通りだ」
 ウィルが深く頷く。
「だが、あの方に何らかの目的があるとして、自分がそれを知る必要は無い。自分はただ、あの方の駒として動くだけか」
「あー、そうかい。俺にゃとても無理な芸当だ、素直に感心するぜ」
 ウィルならばそれが出来るだろうと、オットーは思う。無私に近い忠誠を誓っている彼ならば、目的など知らずとも、全てを賭けてエルンストに仕えられるのだ。オットーにはそれが出来ない。エルンストを完全に信頼することが出来ない、だからエルンストからの信頼を得ることもできない――
 ウィルはそんなオットーをちらりと見ると、微かに口元を歪めた。ことによると、それは笑みだったのかもしれない。
「忠義も、信も、抱こうと思って抱くものではない。己の意図に関わらず、気付いた時には存在しているものだ」
 真意が何処にあるのか分からないウィルの言葉を、オットーは片耳で聞いていた。気のない様子を装い、遠くを眺める。
「そんなもんかね」
 返答にもならぬ言葉に、ウィルは応えを返さなかった。オットーも、それ以上言葉を重ねることはしない。二人の間に沈黙が流れる。手持ちぶさたに室内の気配を探れば、相変わらず話し合いの音が漏れ聞こえてきていた。といっても話し声が聞こえるわけではなく、誰かが何かを話しているという曖昧な物音が、空気の擦れとして頬を擽るだけなのだが。
 そしてしばしの時が流れ、流れていた音が唐突に止んだ。会談は終了したのだろうと、オットーとウィルは背筋を伸ばす。それから数分の間を開けて、彼らが護っていた扉が開いた。
「どうぞ、王子」
 コルネ村の長、デレクと名乗った老人の声だ。彼に促され、中からエルンストが出てきた。当たり前ではあるが、入ってきた時と同じ様子の主君に、オットーは密かな安堵を覚える。
「村の中を見ていかれますか? それとも、外までお送り致しますか」
「いや、大丈夫だ。ウィル、オットー、行くぞ」
 日の高さを確認すれば、会合が始まってから一時間以上が経過しているようだった。これから王都に戻ることを考えれば、余裕はあまり無い。帰途も強行軍になるだろうと、オットーは内心嘆息する。
「道中、お気をつけて」
 デレク老の見送りを背に受けて、彼らは村の出口へと向かった。案内は固辞したが、見えぬ位置から彼らを伺っている気配が、付かず離れずの距離を保って移動している。お忍びとはいえ、王族をそのまま放り出すわけにはいかないということだろう。危害を加えるものではないから、オットーも無視して、エルンストの様子に意識を移す。
「どうだった、話し合いは。上手いこといったのか」
「ああ、申し分のない結果だ」
 機密事項として全く回答の無いことも想定していたが、返ってきたのは予想に反して簡潔な応えだった。良く見れば、口元も機嫌よく緩んでいる。
「この村の協力を取り付けて、私が使うための家を一棟用意させた。移動の時間はかかるが、行動の自由は確保できたな」
「家? 何だってまた、そんなもんを」
「使い道は色々とあるぞ。国外の人間と会うのに、危険を冒して城下までやって来させずに済む。それに、処分されかねない資料を持ち込んでおくことも出来るな」
 国外。予想もしていなかった単語に、オットーの足が一瞬止まる。
「どうした?」
「あ……いや」
 呼びかけられて正気に戻り、慌てて歩を早めた。だが、内心は混乱したままだ。一国の王子が、非公式に国外の人間と会合を行う。態々郊外の村に拠点を用意するのだから、秘密裏の行動なのは間違いない。不明確な不安感を覚えて、オットーは顔を顰めた。外交などオットーにとっては専門外もいいところだが。それでもエルンストの行動が不自然なのは分かる。
 ウィルに視線を遣ると、これは予想していた通りに、表情を動かさぬままエルンストに付き従っている。主の目的を知る必要は無いと、先ほど語った通りの態度だ。成る程、確かに立派なものだと、オットーは内心で溜息を吐く。
「これから、何度もこの村に来ることになる。オットー、ウィル、頼んだぞ」
 部下達の内心をどこまで察しているのか、エルンストは淡々と唇を持ち上げ、彼らを一瞥した。ウィルは短く肯定を返し、背筋を伸ばしている。オットーは、何事かを言おうと息を吸い、しかし言葉を見付けられずにそのまま吐き出した。感情はわだかまっているが、それを具体的な反論とする程の理は、彼の中に存在しない。
 オットーは代わりに、表情を厳めしく顰め、エルンストを睨み付けた。
「それならもう少し、剣の腕を上げて貰わねえとな。いくら俺らが護るったって、二人じゃ限界がある。ある程度は自分の身を守れるようにしといてくれや」
 そうオットーが言うと、エルンストは驚いた様子を見せる。目を丸くした表情は、やはり年相応の幼さを纏うものだ。その顔は、オットーの胸中に、複雑な思いを呼び起こさせた。ウィルのような忠義は彼の中に存在しない、だが彼自身のやり方で仕えることは出来る。
「俺が剣を教えてやるよ。王子様に教えたら怒られそうな剣技だが、実戦での威力は証明済みだぜ」
「……そうか」
 唖然とした顔が一瞬現れ、直ぐに朗らかな笑みに変わった。それもまた、子供のように無邪気な笑顔だ。
「有り難い。では、厳しく頼む」
「そんなこと言って、早々に根を上げても知らねえぜ? お城の剣術指南様とは訳が違うんだからな」
「それこそ、望むところだ」
 膨れ上がる感覚は、不安に似ていた。だがそれを表に出すことはできない、この幼く不安定な主君を支えられるのは、今のところ彼とウィルのみなのだから。
「ま、とにかく無事に帰ってからの話だな。さっさと行くぜ、日が暮れちまう」
 歩む道の不確かさを感じながら、それでも止まることはできない。それが今、彼が立つ道だ。オットーは息を吐き、奥歯を噛みしめる。その強さで、世界の悪意に立ち向かえるとでもいうように。




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セキゲツ作
2014.06.26 初出

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