それから何度かオットーは、ウィルを通じてエルンストに呼び出され、行動を共にしていた。頻度はそれほど高くない。エルンストの側でも、王子としての教育と責務を果たした上で街に出てくるのだから、頻繁に時間が取れるわけではないのだろう。その分、現れた時には精力的に、あちこちと連れ回されるのが常だった。
 オットーに要求されていることは、主として他者への仲介だ。地区の顔役や主たる商店の元締め、酒場の主人、時にはごろつきまがいの傭兵団に引き合わされたこともあった。そうして紹介した誰もが、一見でエルンストが王子だと信じることが無かったのだが、それはある意味当然と言える。オットーもそうだったが、唐突に現れた少年が王族だと名乗ったところで、詐欺師と思われるのが関の山だ。証拠となる王家の紋章を示し、オットーが責任を負う形で確約して、ようやく話半分までこぎ着けるのである。
 それを考えれば、顔の広いオットーを最初に取り込んだのは、正しい策だったのだろう。話さえ聞かせれば、人々は大抵、エルンストに好印象を抱くようになる。彼はまだ少年だが、人心を見極めてこれを把握する術に関しては、年経た老人すら凌駕しているようだった。勿論それは彼の人間的魅力だけでなく、彼と近しくなることで期待できる利益に因るものも大きい。オットーのような下層の国民にとって、国政に関わる者達に話を聞かせる機会など、皆無に等しいのだ。王子を名乗る人間に対する、最初の不審が晴れた後は、皆一様に己の不満と要望を並べ立てるのが常だ。だがそれも含めて、エルンストの意図した通りの反応なのだろう。会見に持ち込んだ相手が、エルンストの言うことも聞かずにひたすら自らの愚痴を並べ立てていた場合であっても、彼は目的を果たした満足げな表情を浮かべていた。
 エルンストが会った人々にとって、彼が本物の王子であろうと無かろうと、大した違いは無かったのかもしれない。仲間同士のつまらぬ会話とは違う場所で、自らの意見をぶつけるということは、それなりの緊張と恍惚を伴う。エルンストが王子で、自分の意見が国の中央に届いたと思い込めれば、それは尚更効果的だ。そうして日頃の鬱憤を吐き出して満足感を得た、その好印象を、エルンストへの好感と錯覚しているのかもしれなかった。実際、エルンストに述べたことが本当に叶うなどと、オットーが見た限りでは誰も信じていないように思える。皆、それだけ王家などを信用しなくなっているのだ。その上で茶番のように意見を交換し、政治に参加した気になっている。エルンストもきっとそれを承知で、一時の満足感で人を操った気になっているのだろうと、傍で見ているオットーは皮肉げに笑っていた。――数日前までは。
 この日もオットーは、エルンストに呼び出され、集合場所へと足を運んでいた。表情は、いつも通りの斜に構えたものだが、よく観察すればそこに常以上の強張りがあるのが見て取れる。壁に背を預け、街並みを見渡すその視線は、談笑する商人たちを捉えていた。舌打ちでもしそうな形に、唇が歪められる。だが結局は何の音も発せられることはなく、低い息だけが吐き出された。と、その表情が、ふと怪訝なものに変わる。視線は町人達から離れ、自分の元に向かってくる二人組へと向けられた。
 エルンストとウィルだ。歩み寄る待ち人に対して、オットーが訝しげな目を向けているのは、エルンストが今までとはあまりに異なる格好をしていたからだ。これまで、オットーを連れる時は常に、高級な仕立ての服を身につけていた。勿論それは、王宮で着用するものとは程遠いものだっただろう。だが今彼が着ている服装は、明らかに一般市民、しかもけして豊かではない層の子供が身につける衣服だった。
「何だその、妙な格好は」
 開口一番、オットーが発した台詞に、エルンストは目を瞬かせる。確認するように自らの身体に視線を走らせ、首を傾げた。
「妙、か?」
「妙だよ。そりゃもう、びっくりするくらいな」
 実際その格好は、エルンストの持つ高貴な雰囲気に、全くといって良い程合っていなかった。目の前に立つ少年をとっくりと眺め、オットーは軽く溜息を吐く。エルンストの側でも、その台詞が単なる嫌がらせではなく、本気のものであると察したのだろう。エルンストは考え込みながら自らの身体を見下ろし、肘に当てられた継に触れる。
「今日は町中を歩き回るつもりできた。貴族が着るような服装では目立つと思ったんだが」
「ふん、成る程な。だが目算違いもいいとこだ、普段通りの格好でいるよりよっぽど目立ってるぜ」
 ことさら馬鹿にする調子で、オットーが鼻を鳴らした。挑発的な言動に、しかしエルンストは動揺の欠片も見せず、じっとオットーを見詰め返してくる。
「何故だ? こういった服を着ている者は、城壁の中でも珍しくは無い筈だ」
 彼の、奇妙な力を持つ視線を真っ直ぐに向けられ、オットーは居心地悪げに目をそらした。怒らせる目的でオットーが揶揄しても、エルンストは全く意に介さない。今この時に限らず、それはいつも、オットーとエルンストが会う度繰り返されていることだった。だから、護衛である筈のウィルも、何も反応を示していないのだ。無表情のままの男は、また始まった、程度の感慨で彼らを見ているのだろう。
「そりゃまあ、確かにな。だが、それがあんたに似合うかっていうと、話は別だ」
 動揺させるつもりが、むしろオットーの側が落ち着きを無くしている。その事実には意識を向けないようにして、オットーは言葉を続けた。もう一度、改めてエルンストの姿を確認する。彼が言うように、襤褸服を着た子供というのも、グランオルグでは決して珍しいものではない。王都といえど、富める者ばかりが住んでいるわけではないのだ。特に最近、軍備増強のための増税を受けて、暮らし向きを苦しくしている者が多いのだから、尚更である。だがそういった、貧しい家で育った子供は、得てしてもっと痩せこけているものだ。
「お前みたいに肌艶が良いガキがそんな服を着てたら、逆に悪目立ちするんだよ。お坊っちゃんがお忍びで出歩いてます、って喧伝してるようなもんだぜ」
「これでもまだ、身綺麗に過ぎる、ということか?」
「服だけ変えりゃ良いってもんじゃ無いんだよ。食うに困ってない顔で汚い格好してる奴なんざ、逆に不自然だろうが」
 エルンストは王子だ、飢えることも知らなければ、入浴も出来ずに垢まみれになることもない。その恵まれた境遇は、間違いなく彼自身の姿形に現れていた。満たされた栄養で育ち、高価な石鹸で磨かれているであろう艶やかな頬を、オットーは呆れながら眺める。
「一週間まともな飯を食わないで、一ヶ月風呂に入らなかった後なら、その服も似合うだろうがな」
 そう言われて、エルンストもオットーの言わんとすることを理解したようだった。真剣な様子で、深く頷いている。
「お前の言いたいことは分かった。見る目のある者に対しては、この姿は不自然なのだな」
「ああ。そんな態とらしい格好をするくらいなら、頭からローブでも被ってた方がまだマシだな」
 大きなフードで顔を隠した姿は、一見怪しく感じられるが、町中で見かけないものではなかった。多少の注意は引くかもしれないが、少なくとも一見して素性を察せられることは無いし、顔を見られないという利点もある。
「成る程な、私の考えが浅かった。有り難う、次からはそうしよう」
 オットーの主張を、エルンストは素直に受け止めて頷いている。その態度は、オットーにとって意外なものだった。何しろ彼は王族、しかも世継ぎの王子だ。彼よりも位の高い人間は、王である実父しか居ないような立場である。そんな彼が、オットーのような傭兵風情に頭から否定されて、積極的に自らの非を認めることまでしている。金と身分がある者など皆傲慢で身勝手だと、そんな偏見を抱いていたオットーにとって、エルンストの反応は驚くべきものに感じられた。そんな感慨に気づいてのことか、エルンストはふと皮肉げな笑みを浮かべた。
「私には知らないことが多すぎる。城の外については特にそうだ。それを学ぶために下げる頭ならば、少しも惜しくは無い」
 その姿勢は、単純な言葉で表せば、勤勉だと言えるのだろう。しかし彼の様子には、単なる向学心では説明し切れないような、強い切迫が感じられるように思えた。オットーはエルンストを見る、彼が何故こうして城下に降りて人々と交わっているのか、その目的をオットーは知らない。見聞を広げるという理由だけではないことは、何となく察してはいるのだが。
 エルンストの、まだ幼さの残る頬を、オットーは見詰めた。この少年は、オットーを頼っているようにも思えるが、その実大切なことはなにも説明しようとしなかった。それは付き合いの長さが足りないためか、もしくは未だに信頼に足る人物だと思われていないのか。彼の真の目的は何なのだろうと、オットーは考える。
「ふむ。拙者ももっと、目立たぬようすべきだろうか」
 その思考は、ウィルの間の抜けた――口調ばかりは生真面目な言葉に、あっさりと打ち消された。真剣に自らの体を見下ろすウィルを、オットーはぎろりと睨みつける。 
「お前の場合は格好とかじゃなく、その言動が問題だよ」
「言動? 失敬だな、確かにシグナスの民などグランオルグ人から見れば田舎者と思えるだろうが」
「そうじゃなくて、護衛付きの一般市民が居るか。こいつを相手にするときも、そこらへんのガキにでもするみたいに普通にしていないと、不自然なんてもんじゃ無いぜ」
 実際のところ、今のエルンストに感じる違和感のうち半分は、ウィルの存在に由来しているとも言えた。護衛、しかもそこらのごろつきではなく一流の剣士が護衛に付く少年が、ただの子供と見られる筈が無い。振り向いたエルンストに見詰められ、ウィルの顔に珍しく困惑が浮かぶ。
「……難しいな。主君相手に無礼を働くわけには」
「ああ、後はその、冗談みたいな口調も何とかしてくれ。あんた一体いつの時代の人間だ? 拙者だのなんだの、裏通りで一番年食ったジジイだって、そんな言葉は使ったことが無いって言ってたぜ」
 オットーが調べた限りでは、ウィルの使う言葉は、ずっと昔に廃れたものであるようだった。ずっと、それこそグランオルグという国が出来る前、旧帝国時代の言葉に近いという。もっともオットーにそれを説明したのは、それこそ本人が化石のようになった老人であり、オットー自身話半分にしか信じていないのだが。
「そんなことまで気にするのか。オットー、お主も以外と狭量な男だな」
「俺がどうこうじゃなくて、単に目立つって言ってるんだよ。シグナスじゃどうかは知らないが、グランオルグじゃそんな話し方をしてる奴は、一人だって居やしないぜ」
「確かに、シグナスでもこの口調は奇妙だと言われた。拙者の故郷では珍しくも無いものだが」
 数秒考え込んだウィルは、しかし存外あっさりと、その首を縦に振った。
「だが、王子に迷惑をお掛けするわけにはいかない。良いだろう、試みてみよう」
「ああ、後お忍びだってんなら、王子って呼び方も止めとけ。名前も出来るだけ呼ばない方が良いな」
「……承知した」
 どこまで分かっているのかよく分からないウィルの返事に、オットーはさらに何事かを言い募ろうとしたが、開きかけた唇を中途で閉じる。そしてそのまま、諦念を交えた息を吐くと、エルンストへと視線を移した。
「とにかく、さっさとあんたの用事を済ませちまうべきだな。んで、今日は何処に連れていけってんだ? ウィルからは何も聞いてないが」
「ああ、歩きながら話そう。観光区に行きたいんだ」
 エルンストも頷き、ウィルを促して歩き出す。オットーもその傍らに、さりげない様子で従った。人通りの少ない箇所で待ち合わせているが、ずっと人目を避けて移動できるわけでもない。注意を引きたくないというのなら、オットー自身も、目立つ行動は避けなければならなかった。
「観光区か。あそこはお高い地域だからな、俺じゃ顔は利かないぜ」
「それは分かっている。今日は街の者に会うつもりは無い」
「ふうん? なんだ、てっきり功績を誇りにでも来たと思ったんだがな」
「……グラン平原の街道のことか」
 ちらりと、エルンストの口の端に笑みが浮かんだ。それは数日前に公布され、商人達の間で大きな話題になっている知らせだった。これまでもグラン平原には街道が存在したが、それはコルネ村やシグナス方面など、主要な交易地とを結ぶものに限られていた。それを今回、今まで辺境とされていた村とも交易路を繋ぐことが、城からのふれとして発表されたのだ。
「この間から、商人どもは大騒ぎだ。これで、大商人どもに利益を独占されないで済むってね」
「それは何よりだ。自由交易が活発になれば、我が国ももっと豊かになるだろう」
「ほんとにあんたがやったのかい?」
 オットーの何気ない問いに、エルンストは瞼を瞬かせた。商人達の歓喜を呼んだこの計画は、しばらく前にこの王子が、当の商人から訴えを受けていこ案件でもある。
「皆大騒ぎしてるよ、王子様が俺たちの言うことをきいてくれたってな。今顔を出せば、感謝の言葉の雨霰だろうさ」
「そうか。だがまだ、それと同じくらい、私が詐欺師だと思う者も多い筈だ」
 皮肉げに呟かれたエルンストの言葉を、オットーは否定しなかった。彼の言う通りのことを主張する人間も、実際多く居たのだ。街道の整備は以前から決まっており、タイミングを合わせてその要求を持つ者に接触することで、あたかも訴えが叶ったかに見せかける。詐欺の手口としては、むしろ単純なものだ。オットーですら、それが十分に有り得る説だと考えている。
「実際どうなんだ。あんたの仕業なのか?」
「公共事業の話は、以前から存在した。私はただ、貴族共の利権を食い合わせ、誰も得をしないところに落とし込んだだけだ」
「……何だかよく分からんが、つまり、あんたの手が入ってるってことに間違いは無いんだな」
「直接では無いが、こうなるように誘導したのは確かだな」
 何の気無く言っているが、一部の者にとって、それは十分な偉業だ。しかもそれを成したのがまだ十二歳の少年だというのだから、事が明確になれば、街の者達が騒ぎ立てるのは間違いない。だが当のエルンストは、いたって平静な様子だ。
「だが、これだけではまだ足りないだろう。得た情報を元に行動していたのだと糾弾されても、否定する術は無いのだからな」
「そりゃ確かにそうだが。ならどうするつもりだい?」
「民から聞いた要求は多くある。少しずつそれを実現していけば、彼らの心も移るだろう」
「ふん。で、そうやって俺達の心を掴んで、我らが王子様は何がしたいんだ」
 自分が禁じられた呼称でエルンストを呼んだことに不満を覚えたのか、ウィルの表情が剣呑なものに変わった。オットーは当然のようにそれを無視する。
「せっせと民衆の人気取りなんてしなくても、世継ぎはあんた以外にいないだろう。それを態々城下に降りて、俺みたいなごろつきまで従えて――あんたの目的は、一体何だ?」
 エルンストがオットーを見た。オットーはその、透き通った緑の瞳を見返すが、そんなことで考えを見通せる筈も無い。
「目的があるって言ってたな。あんたの目的ってのは一体何だ? この国のことで、あんたが動かせないものは無い」
「それは違うな、この国の王はヴィクトールだ。私にできることなど、道楽の簑で隠れられる範囲に限られる」
「あんたがやりたいのはそれ以上のこと、ってか」
 エルンストは答えない。いや、否定を返さないことが、すなわち回答なのだろう。物言いたげなオットーに向け、エルンストは考えた末唇を開いた。
「今はまだ、時期ではない。その時が来たら、お前達にも話すつもりでいる」
 達、という言葉尻を取れば、ウィルもまた彼の目的を知らないということになる。影の如く付き従っている男だが、案外その距離は近いものでは無いらしい。エルンストの小さな体の中に潜められた秘密を思い、オットーは唇の端を持ち上げた。
「まあ良い、金は貰ってるんだ、それだけの働きはするさ。例えあんたの目的とやらが何だろうと、な」
「……この国にとって、いや、大陸にとっても害になることではない。それだけは明言できる」
「大陸か。そりゃまた、随分吹いたもんだが」
 オットーの皮肉げな笑みを、エルンストも気付いてはいるのだろう。だがそれを指摘するでもなく、あるいは誤魔化す様子も見せず、彼はただ目の前だけを見据えているように思えた。
「それより、そろそろ観光区だぜ。どのあたりに行くつもりなんだ?」
 エルンストはこれ以上、口を動かそうとしないだろう。ならばこれ以上の追求は無意味だと、オットーは話を変える。
「もっと先だ。観光区を通り過ぎたあたりに、酒場が集まっている通りがあるだろう」
「ああ、確かにあるが」
 エルンストが返してきた言葉に、オットーは頷き、そして首を傾げた。彼の言う裏通りはごろつきか素行不良の兵士しか近寄らないような、治安の悪い場所だ。オットーにこそ馴染みがあるが、王子が態々訪れたがる理由など無いように思える。
「あんなところに行ってどうする気だ? 酔っぱらいのゲロくらいしか無いような場所だぜ」
「だろうな。だが、調べた情報では、そこに地下水路への入り口があるというんだ」
「……地下水路?」
 エルンストが言い出した目的地は、オットーにとって完全に予想から外れたものであった。純粋な驚きを面に出しているオットーを見て、今日初めて、エルンストが微笑を浮かべる。
「そうだ。グランオルグの地下には排水路が走っていると、知らないか」
「いや、そりゃ勿論知ってるが」
 グランオルグは石造りの都だ、そこで出る汚物をたれ流すような川も森も無い。その代わりとして利用されているのが、遙か昔に作られたという、地下水道である。街中を流れて壁の外まで繋がっているその水路は、街のあちこちにその投入口を持っていた。
「水路に繋がる口は多くあるが、その殆どがさほど大きなものではないし、格子などで封鎖されている。当然だな、目的は汚物を廃棄するためなのだから。……だが、都の中心地から外れた箇所には、人が入れる程の入り口がある筈なんだ」
「どうしてそう言い切れる? ってかおい、まさかあんた」
「そうでなければ、手入れも修繕も行えないからな。その入り口を探して、地下水路に潜り込む」
「おいおいおい、ちょっと待てよ」
 予想をしていたものとは大きく異なる彼の目的に、オットーは先ず呆れ、次いでその先に思考を巡らせる。何度か行動を共にする間に学んでいたが、エルンストは賢い。王子である立場がそうさせるのだろうか、十二という年齢を忘れそうな程、様々なことを考えて行動を決めている。その彼が言うのだから、無意味な探検では無い筈だ。
「お前、何をやらかす気だ?」
「噂を聞いた。地下水路は、街から城に通じていると」
 その部分だけ声が低く潜められたのは、さすがに聞かれてはまずい内容だと判断したのだろう。はたして彼が語った今回の目的は、オットーが予想していたことを遙かに越えて重要な代物だった。それが本当ならば、警備の網をかい潜り、街から城へと自由に進入できてしまうことになる。厳しい顔になったオットーを、表情を変えぬエルンストがちらりと見遣る。
「城に駐在する兵の間で、囁かれている噂だ。真偽を確かめておきたい」
「確かに、それが本当だったら大事だからな。だが、それにしたってあんたが自ら動くことは無いだろう? そんな目的だったら、兵だって何だって動かせるだろうが」
 城の警備に関わる重大事とあれば、普段の道楽まがいの行動とは違い、公に散策を行うことができる。断じて、世継ぎの王子自らが行うような調査ではない。だがエルンストは、曖昧な笑みを口の端に浮かべるのみだ。
「思うところがあってな。どうせもう少しの間は、民と直接会うのは控えておこうと考えていたところだ」
「だからついでに地下水路に潜ろうってか? ちっ、付き合わされるこっちの身にもなってくれよ」
「そう言うな。ああ、このあたりだな」
 歩みを止めたエルンストにつられて、オットーもその場に立ち止まった。歩き続けるうちに、彼らの居場所は観光区を外れ、ずっと治安の悪い裏通りに入り込んでいた。目的としていた場所の様子を、エルンストは無遠慮に見回す。変装をしていても目立つ彼らの姿に、昼間から酒気を帯びた酔漢の視線が注がれているのを感じ、オットーは油断無くエルンストの傍らに立った。
「どうだよ」
「見て分かるような入り口は無さそうだが……オットー、お前はどうだ、心当たりはあるか?」
「そう言われても、俺だってドブの入り口なんぞ、好んで探しゃしないからなあ」
 実際、いくら裏通りに精通しているとはいえ、廃棄口の場所など知っている筈もない。オットーは渋い顔で、無目的にあたりを眺める。
「そうか。そこらの石を剥がして回るわけにもいかないだろうし」
 エルンストも、さすがにそれ以上の下調べはしていないようで、オットーと似たような表情を浮かべている。手詰まり感の漂う彼らの空気だが、相変わらずウィルだけは、生真面目な無表情を保ったままだった。
「その水路というのは、汚水の廃棄に使われているのだったな」
「ああ」
「ならば、周辺の住人か店の主なら、所在を知っているのではないか」
 表情を変えぬままぽつりと零された発言に、オットーとエルンストは、思わず顔を見合わせた。ウィルは、二人の反応など気にした風も無く、これまでと同じ、淡々とした容相である。気負いなどどこにも感じられない表情に、オットーは僅かに顔を顰めた。
「どうした。妙なことを言っただろうか」
「いや。悪くない読みだな」
 エルンストは、素直に感心した様子で頷く。ウィルですら気付くような事実を失念していた自己嫌悪に、オットーは低く嘆息した。
「オットー、このあたりの住人に知り合いはいないか? 聞き取りを頼む」
「……了解」
 自分ではペースを保っているつもりだったが、知らず知らずのうちに、この王子の調子に巻き込まれていたのかもしれない。戒める気持ちを強くしつつ、オットーはエルンストに命じられた通り、情報を集めるために周囲の店へと足を向けた。



――――――



 結論から言えば、エルンストの目算は見事に当たっていたことになる。体中から下水の臭気をまき散らしながら、オットーは地上へと這い出した。同じ口からエルンストが顔を出し、次いでウィルが続く。小一時間も地下水路に潜っていたため、全員の体には、すっかり臭いが染み着いてしまっていた。今ばかりは、さすがのエルンストも、王子らしさなど欠片も感じられない姿だ。不愉快極まり無い格好だったが、オットーの口からは文句のひとつも漏れることはない。
「まさか本当に」
 中途で止められた言葉の意図を察し、エルンストが頷きを返す。酒場の主人から聞き出した入り口から地下水道に潜り、探索を続けた彼らの目の前に現れたのは、まさしく王宮の一部に繋がる出口であった。見付からぬようにと僅かな間で切り上げはしたが、壁に掲げられた王家の紋章は、そこが単なる貴族の屋敷で無いことを示していた。エルンストが考えていた通り、噂は真実であり、地下水道は本当に王宮へと続いていたことになる。
「簡単には辿りつけないだろうが、それにしたって」
 長年放置された為か、地下水路には魔物が住み着いていた。普通の人間であれば先へ進むことは難しいだろうが、明確な意思を以て赴いた相手を阻む程のものではない。その気になれば、誰であっても王宮の奥へと入り込めることに気付き、オットーの顔には厳しいものが浮かんでいた。そしてそれはウィルも同じだ、常の落ち着いた態度を一変させて、険しい容相となっている。
「悪用されれば危険なことには変わりはないな。あそこは、恐らく地下の何処か――それこそ、牢獄か何かといったところか」
「ああ、私も行ったことは殆ど無いが、少しだけ見覚えがあった。地下にある牢獄、その一室だろうな」
 しかし、最も深刻になってしかるべきエルンストの表情は、他の二人と少しばかり異なっていた。その態度にはさしたる動揺も感じられない。真剣であることは間違いないが、それ以上の深刻さを、少年の様子から見て取ることは出来なかった。いや、それどころかよく観察すれば、口元にあるか無しかの笑みすら浮かんでいるようである。
「あそこからの侵入は難しいだろうが、手引きがあれば不可能ではない。思った以上の収穫だ」
「収穫?」
「ああ。これで、いざという時に、城への出入りが自由になる」
 そう呟くエルンストを見て、オットーは嫌な戦慄を覚えた。彼の表情は、十二歳の少年が持つにしては、あまりに老獪に感じられる。言葉だけを取れば、子供らしい前後を考えぬ発想とも思えただろう。だが漂う気配は、無謀とも幼稚ともかけ離れたものだった。
「私が外に出ることも、お前達を城に招き入れることも可能だ。良い手段を手に入れられた、保険ならば、いくらあっても足りないからな」
「だが、このままにしといたら、他の奴らが侵入しちまうかもしれないぜ。それこそあんたやヴィクトール王を暗殺しようって輩が利用するかもしれん」
「城にも警備兵は居る。そう簡単に、王族の生活範囲にまで入り込めるわけではない」
 何事もないように言い張るエルンストを見ていると、命を狙われているのが彼自身だと分かっているのか、疑わしくすら感じられる。だが彼は理解しているのだろう、それを承知の上で、己の利益のために危険を放置しようとしているのだ。オットーは低く溜息を吐いた。この少年は賢く、強い意志を持っているが、それでも彼の歩みは酷く危うく見える。強いが故にその道は狭く、一歩間違えれば奈落に落ちてしまう。そんな恐怖が、オットーの中に湧き上がっていた。
 オットーはウィルを見た。彼もまた、オットーと同じ危惧を抱いているのだろうか。しかしそうだとしても、彼には何も出来ない。彼の主はエルンストであり、その道を変えられる立場には居ないのだ。
 そしてそれは勿論、オットーも同じことだ。喉に支えた固まりを飲み下し、オットーは小さく首を振った。
「あんたがそう判断するなら、俺は別に構わんがな」
「ああ。いざという時はお前達にもここを使って貰うかもしれない、よく覚えておいてくれ」
「また、この臭い通路を歩き回れってか。ぞっとしねえな」
 引き攣った笑いを浮かべながら、オットーは歩き出した。
「で、今日のところはこれで終わりかい」
「そうだな。十分な収穫を得られた、まずはこれで十分だ」
 エルンストもそれに逆らわず、オットーと並んで歩き出す。観光地区に戻り、人通りのある場所に出ると、すれ違った者が顔を顰め、距離を取ろうとしていることに気付いた。地下道の臭気が染み込んでしまっているのだろう。
「……戻る前に、体を清めないとな」
「そうだな、そんな格好で戻ったら、秘密もへったくれもありゃしねえや」
 汚れきった姿で公の場に姿を現しては、単なるお忍びで無かったことが容易に推察されてしまう。目端の利くものであれば、地下水路という目的地、さらにはそこに隠された秘密にまで気付いてしまいかねない。
「知人の家に寄ってから帰ろう。オットー、お前はどうする」
「お上品な貴族様のお屋敷で、落ち着いて風呂なんて入ってられるかよ」
 エルンストの言う知人が何者は分からないが、要求されて即座に風呂が出てくるような財力があるとなれば、貴族か富豪だろう。少なくとも、オットーと縁が生まれるような層で無いことは間違いない。もっともそれを言うならば、まぎれもない王族であるエルンストと共に歩いていること自体が、有り得ないことなのだが。
 オットーの言葉に、エルンストは少しばかり物言いたげな表情を浮かべたが、結局は何も言わずに頷きを返した。
「そうか。ならば今日は帰るといい、またお前の力が必要になったら、ウィルに伝えさせる」
「了解。じゃあ――っと」
 解散を示すために振ろうとした手を、オットーは直前で止めた。不思議そうに首を傾げるエルンストを後目に、道端に並ぶ露天の一つへと足を向ける。店主は、オットーの汚れた身形に不快そうな顔をうかべたが、そこはさすがに商売人だ。何も言わず、並んでいた数個の商品から二つを取り、オットーに手渡してくれる。
「ほら、やるよ」
 オットーはそのうちひとつをエルンストに投げ渡した。エルンストは瞬きをして、手の内に収まったそれとオットーの顔を、交互に見遣る。
「菓子だよ。最近有名らしいぜ」
 それは、角型に整形したパンの中に甘いクリームを詰めた菓子だ。小麦を生産している村の名をとって、コルネパンと名付けられている。最近、城下で話題になっているものだったが、王子という身分では逆にそんな話題には疎くなってしまうものだろう。初めて見知った、というのを隠さない表情で、手にしたパンを見ている。
「拙者には、無いのか」
「野郎に奢る趣味はねえっての。自分で買えよ」
「甲斐性の無い男だな」
 不満げな顔がどこまで本気だったかは分からないが、オットーに切り捨てられ、ウィルは大人しく屋台へと足を向けた。オットーは、そんな二人を後目に、自分の分のパンにかぶりつく。甘い味が、疲労した体に心地よい。
「おう、意外と美味いな」
 オットーも、名前こそ知っていたが、この菓子を食べるのは初めてだ。高級野菜で有名な村の名を冠したパンは、オットーのような底辺の住人が手に取るには、些か値段が張ったものである。だが今のオットーの懐は、エルンストから受け取っている報酬で、かなり潤っている。普段は食べられないような高級品でも手に取れるし、それを他人に奢ることすら出来た。
 エルンストは、しばらくパンを凝視していたが、やがて思い切った様子でそれを口に放り込む。途端、緑色の目が丸く見開かれた。
「……美味いな」
 その姿は、普段の彼からは考えられないほど年相応に、いやそれ以上に子供らしく見えた。オットーはそんなエルンストを、じっと見詰める。エルンストとて、年齢はまだ十二の少年なのだ。その知性と慧眼は大人と肩を並べる程だが、こうして甘い物に夢中になる感性もある。その不均衡が、オットーには酷く危ういものに感じられた。
「うむ、これは中々」
 自分で購入したパンを、暢気に頬張っているウィルは、この王子のことをどのように捉えているのだろうか。そんなことが気になるのは、オットー自身がエルンストをどう見るべきか、迷っている証左だ。子供の我が儘に付き合っているのか、頼るべき君主を仰いでいるのか。
「城下にも、美味い物はあるんだな。教えてくれたことを感謝する、オットー」
 真面目くさってそんなことを言う姿は、まるっきり王子ごっこの子供なのだが。しかしその目が鋭く光り、大の大人とも対等にやり合うことが出来るのを、オットーは知ってしまっている。彼の中にある極端な二面性は、オットーのような常人にとって、警戒すべき対象だ。
 彼は一体、どのような君主となるのだろうか。こうして民の心を知ることで、父王を凌駕する名君となることが出来るのか。あるいは――
「妹にも食べさせてやりたいな。店主、もう一つ貰えるか」
「申し訳ありませんね坊ちゃん、今日は品切れになっちまいまして」
「……そうか。残念だ」
 未来のことは分からない。今より遙かに先の未来であれば、特に。オットーは自分にそう言い聞かせ、嫌な予感に蓋をする。
 そしてエルンストを促し、彼を目的の地まで見送るため、歩きだしていった。




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セキゲツ作
2014.05.31 初出

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