オットーは殺気を感じて振り向いた。物取りではない。確かに最近のグランオルグは治安が悪化しており、物取りの数も、以前に比べて遙かに多い。だが界隈の悪漢達の殆どは、裏通りの顔であるオットーの顔を見知っている。新参の流れ者が顕れたとしても、帯刀している上に明らかに金の無さそうな彼を、好んで狙う愚者がそう居るとは思えなかった。あるいは困窮を極め、まともな判断力を失ってでもいるのだろうか。しかしそう考えるには、発せられた殺気があまりに鋭かった。鋭く研がれた刀に等しい、一流の戦士が発する殺気だ。
オットーの手が、腰に穿いた剣に伸びる。大通りは人も多く、立ち回りに適した場所では無いが、相手が仕掛けてくるなら剣を抜かざるを得ない。神経を張り巡らせ、相手の出方を待つ。距離はおよそ二十歩分、オットーが歩くのと同じ速度で相手も歩を進めており、近づくことも遠ざかることもしない。僅かな逡巡の後、オットーは少しだけ足を緩めた。相手の速度は変わらず、一歩、また一歩、相手の距離が近づいてくる。緩やかな逃走劇を続けるうち、感じる気配が五歩分の距離まで近づいた。オットーは振り向き、気配の方向を真っ直ぐに見る。相手は誤魔化すこともなく、オットーを見ていた。無言のまま視線が絡む。
その男は、オットーと同じ程の年格好だった。髪の色は同じ枯れ藁色で、向かい合う顔立ちもどこか似ている。服装だけが明らかに違っており、相手のそれは、近頃随分と増えたシグナス出身者のものだった。しばらくの間、互いに動かず向かい合っていたが、やがて相手が歩みを再開した。先程と同じ速度で歩を進め、一歩半分の間を距離を置いてまた止まる。オットーは剣の柄を握った。
「貴殿が、オットー殿か?」
投げられた問いにオットーが即答しなかったのは、別段勿体ぶったわけではない。警戒ならば確かに存在したが、その時黙っていたのは、また別の問題だ。単純に、相手の言っていることが理解できなかったのである。
「……あん? 何だって?」
「聞いた人相と一致する、貴殿がオットー殿だとお見受けしたが。それとも別人か?」
「あ、ああいや……俺はオットーだ、うん。あんたは?」
「拙者はウィルと申す。貴殿を、さるお方の元へとお連れしたく参上した」
貴殿、だの拙者、などという古めかしい言葉を知る人間は、労働者階級にはまず存在しない。オットーもその例に漏れず、男の言うこと全てを理解することはできなかった。それでも、辛うじて聞き取れた単語を繋ぎ合わせ、発言の趣旨を解しようと考え込む。
「えーっと、ちょっと待て……要するに、あんたはウィルっていうんだな。んで、俺を……何だ、連れてくって?」
「うむ」
間の抜けたオットーの台詞に、ウィルと名乗る青年は生真面目に頷く。その、馬鹿馬鹿しい程素直な仕草に、オットーも気が抜けて息を吐いた。それでも剣の柄を離さないのは、相手が尋常で無い使い手であることを、本能で察しているのだ。ウィルの側は、それに気付いているのか否か、武器に意識を遣る様子も無くオットーのことをじっと見詰めている。
「そのお方が何者であるか、ここで申すことは出来ない。拙者に説明できるのは、高貴なお方が貴殿の力を必要としているということのみだ」
「あ、ああ、まあ分からんけど何となく分かった。とにかく、誰かが俺を呼んでるんだな?」
「うむ」
とにかく奇妙な男だった。オットーも少なからぬ人数のシグナス人と出会ってきたが、彼のように妙な言い回しをする人間は居ない。その上で、オットーを警戒させる程の腕を持ちつつ、その所作は無防備な程に自然体だ。彼我に生じた構えの差が気に食わず、オットーは自らの得物から手を離す。ウィルの意識がちらりと向けられたのを感じたが、それ以上は言葉も行動も出て来ず、真面目な表情で直立したままである。
そして彼自身も妙なら言っていることも妙だ。高貴な人間と聞こえた気がしたが、当然ながらオットーには、高貴と形容できる知り合いは一人も居ない。質の悪い詐欺か、あるいは頭のねじが緩んでいるのか、判断し切れずオットーは首をひねる。
「共に来て頂けるだろうか」
「あ、ああ……ちょっと待て」
だが詐欺師だとすれば、ウィルの態度はあまりに不自然過ぎる。普通であれば、これほどあからさまに怪しい男の誘いなど、全て聞くまでもなく逃げ出してしまうに違いない。勿論この男は事情も知らぬ疑似餌で、裏で糸を引く黒幕が居ないとも限らないのだが。そうなると、怪しんで逃げ出すところまでが相手の策略で、この後さらに周到な罠が待っている可能性もある。疑い出せば、どこまでもキリは無い。
「申し訳ないが、時間は少ない。今直ぐここで、どうするかを決して頂きたい」
「そりゃ、丸一日考えさせろとは言わねえが……もう少し情報を貰えんと、判断のし様が無いってもんだぜ」
「先程も申したが、我が主については、今ここで語ることは出来んのだ。何処に間者が潜んでいるか分からぬ故にな」
「かん……?」
「ともかく、共に来て頂きたい。オットー殿にとっても、けして悪い話ではない筈だ」
真剣な様子で言い募るウィルに対して、オットーは敢えて視線を外して、不遜な様子で鼻を鳴らしてみせた。
「イヤだって言ったらどうする気だ? その腰のもんで話をする気かい」
ウィルが反応を返さなかったのは、分かりやすい挑発と判断した為か、あるいは本当に何も感じていなかったのか。ちらりと自らの剣に視線を遣り、生真面目に首を横に振る。
「そのような命は受けていない。自分が命じられたのは、貴殿をお連れすることのみだ」
その言葉からは、オットーが拒絶した際の反応を伺い知ることはできない。事によれば、断ったとしても、承諾するまで延々とつきまとわれる可能性もある。訳の分からぬ言葉を吐かれながら一日中着いて回られる光景を、オットーは想像した。さすがに行きすぎた警戒だろうが、それを冗談と感じさせない気配が、この青年からは感じられる。
仕方がない、オットーは息を吐いた。今日も今日とて働き口は見付からず、手持ちの少ない金でどうやって時間を潰すかを考えていたところだ。騙し取られるような財産など、逆さに振っても出てくる訳が無い。ならば、この奇妙な男の誘いに乗ってみるのも一興。オットーの口元に、皮肉のたっぷり籠もった笑いが浮かぶ。
「分かった、分かった。俺があんたと一緒に行く、それで高貴なお方とやらに会う。それで良いんだな?」
「うむ、話が早くて助かる。では、付いてきてくれ」
ウィルはひとつ大きく頷くと、踵を返して大股に歩き出した。
「お、おい!?」
「どうした。早速言を翻す気か」
「いや、そうじゃなくてな。ちょっと心の準備ってやつが」
「案ずるな、しばらく歩く。心構えならば、移動の間にすれば良い」
唐突な行動についていけず、棒立ちになって目を瞬かせる仕草を、一体どう解釈したものか。ウィルは少しだけ首を傾げると、再び前を向いて歩き始めた。
「ああ、おい! ったく……何て奴だ」
オットーは溜息を吐き、ウィルの後を追って歩き出す。その足音を聞いてのことか、ウィルは振り向きもせず、真っ直ぐにオットーを導いて歩いていった。
+++
――元居た通りから、かなりの時間を歩いた。何度も角を曲がり、時に同じ場所を重ねて通っているのは、向かう先を分かりづらくするためだろう。だがグランオルグ育ちのオットーには、その程度の小細工は通用しない。複雑に移動しながらも、次第に貴族の家が建ち並ぶ高級住宅街に近付いていることに、彼は気づいていた。先導するウィルは言葉一つ発さぬまま歩き続け、やがてオットーの予想していた通り、一つの屋敷に辿り着くと、高い塀に設けられた通用門を開く。
「こちらだ」
塀の内は、やはり何処かの屋敷であったらしい。整えられた美しい庭を、オットーは物珍しげに見遣る。下町で庭といえば、家と家の間に僅かだけ存在する隙間の土地のことだが、この世界では全く基準が異なっているらしい。建物すら覆い隠す程大きな木々、そしてその間を流れる小川は、これが街壁の外だと言われても信じられるような光景だ。街の外と違っているのは、木々の装いが整いすぎていることくらいだろうか。一見自然のままに伸ばされているようにも見えるが、よく観察すれば、見苦しく伸びた若枝が無いことに気づく。そして川縁にはさりげなく美しい花が植えられ、白い石で小径が敷かれていた。ウィルは迷う様子も無く、その小径を辿って歩いていく。オットーも慌てて彼に従い、庭の奥へと進んでいった。曲がりくねった川に沿ってしばらく歩くと、急に彼らの目の前が開けた。
ある程度の広さを持つその空間には、真白く滑らかな石で出来た、東屋が建っていた。木々に遮られない陽光がそれに当たり、ほんのりとした光を宿しているようにも見える。東屋の中には席があるようで、そこに誰かが座っているのに、オットーは気づいた。ウィルが振り向き、オットーに頷いてみせる。どうやらそこに居るのが、彼の言うところの『高貴なお方』であるらしい。ウィルの後に付き、東屋に近付くと、人影が彼らに気づいて視線を向けた。
「王子。この通り、件の者をお連れしました」
「有り難う、ウィル。随分時間がかかったな、探すのに手間取ったのか?」
「いえ、道に迷いました故」
場所を特定されないようにのことと思っていた蛇行は、単に地理を把握できていないためであったらしい。普段であれば声を上げて追求していた点だが、オットーの口は開かれようとしなかった。その意識が全て、目の前の人物に向けあれていたためだ。
その人物は、まだ少年と言って良い年格好だった。年齢で言うなら十二か十三、大人になり切らぬ細い体躯を、仕立ての良い服が包んでいる。透き通る金色をした髪が、整った色の白い顔を縁取っていた。見るからに、育ちの良さそうな少年である。そして、ウィルが発したその呼称。
「王子?」
このグランオルグでそう呼ばれる人間は、今のところたった一人のみだ。王子エルンスト、現王ヴィクトールの長子にして跡継ぎとなる存在である。目の前の少年は確かに、エルンスト王子と同じ年頃のようだった。さらりとした金色の髪、整った顔立ち、深い緑色をした瞳、どれも全て噂が語る特徴と一致している。
だが勿論、オットーはエルンスト王子と会ったことなどない。この少年が本当に王子なのか、それとも王子を名乗る詐欺師なのかを、見た目だけで判断することは難しかった。
「エルンストだ。お前はオットー、だな?」
「ああ、そりゃ間違いないが。あんたが王子だって?」
真っ当に考えて、一国の王子がこんなところで裏通りのごろつきに会いたがるわけがないのだ。オットーは、自分を見詰める少年の視線を、鼻で笑って弾き飛ばした。
「馬鹿ばかしい、吐くんならもっと信じられる嘘を吐いてくれ。グランオルグで二十年がとこ生きてきたが、王子様に呼びたてられるようなご立派な身分になんぞ、一度たりとて成ったことは無いぜ」
「信じられないというお前の意見は理解できる。だが事実だ」
オットーの反応は、相手の側でも予想していたのだろう。気分を害した様子も無く、少年は淡々とした様子で頷き、自らの手から指輪を抜き取ってオットーに投げ渡した。受け取った指輪を見ると、確かにそこには、王家の紋章が彫金されている。その細工の細かさに関心しつつ、オットーは手にしたそれを指先でくるりと回した。
「成る程。これが、あんたが王子だって証明かい?」
「この国でその意匠を身につけられるのは、私とその家族だけだ」
「それはこの指輪が本物だったらの話だ。勝手に作って勝手に持つんなら、それこそ俺にだってできる」
とはいえ、指輪の持つ繊細な美しさは、それが一流の細工士によるものだと主張していた。たとえ偽物であれ、ケチな詐欺師が簡単に入手できるようなものではない。
「お主、自国の王族の顔も知らんのか」
呆れた様子でウィルが零す。オットーはそちらにちらりと視線を走らせ、口元を持ち上げた。
「俺みたいなちんぴらが顔を見られるような相手じゃないからな。式典だの祭典だのの時だって、王家の顔が見られるくらい近づけるのは、もっと金がある奴らの権利だ」
「それは道理だな。私達は、あまりに民と離れすぎてしまった」
エルンストを名乗る少年が、何故か少しばかり苦しげに呟いた。演技であるならばそれは見事なものだ、オットーも皮肉を紡ぐ口を閉じて、改めて少年を見詰める。実のところを言えば、彼が本物の王子であると、内心では少しずつ信じ初めてきていた。指輪はとても偽物に見えないし、態々王族を名乗るのも、詐欺程度で侵すには大きすぎる危険だ。しかもこの少年はまだ幼い、こんな年の子供に詐欺の要を任せるなど、オットーの常識から言えば有り得ないことだった。
だが王族が自分に声をかけるというのは、それよりもさらに有り得ない。国家の頂点に認められるような功績も、逆に国を揺るがす重大な犯罪にも、オットーは縁遠い人間なのである。その確信が、半ばまで少年のことを信じかけている印象を、否の心に留めてしまっていた。長大な城壁に隔てられた王族の一員が、自分ごときに目を留める筈は無いと。
「だからこそ私は、お前の力を借りたいと思っている。グランオルグの民――それも貴族位から遠い民衆達に、お前は信望が篤い。若く優秀で、求心力にも長けている」
「……そりゃどうも」
眉一つ動かさずに浴びせられる賛辞は、奇妙にむずがゆい思いを生んだ。単純に光栄を喜べるような状況ではないのに、不思議と疑念は強くない。真剣すぎる程に真剣な、少年の様子が理由なのだろうか。いや、詐欺師であっても仕事中には真剣になるはずだ、とオットーは自らを戒める。
だが、そう言い聞かせることが、既に心を傾けかけていることの証だ。オットー自身、それを自覚しているのかどうか。
「私には目的がある。王宮に閉じこもる今の王家のままであっては、それを成すことはできない」
「だから俺に声をかけたって?」
「ああ。上級市民の中には、既に協力者を作ってある。後は労働者、傭兵、移民――だが、彼らに対して私だけで接触しても、まずまともに取り合っては貰えないだろう」
少年の目が、ふっと伏せられた。途端に力強い印象が失せ、年相応の頼りない姿に見えてくる。
「オットー、お前には彼らへの取り次ぎを頼みたい。顔が広いことは聞いている、お前の口を介せば、少なくとも話は聞いてもらえるだろう」
「いや、まあちょっと待てよ」
しかしそれも一瞬の話だ、直ぐにその目は光を取り戻し、オットーをまっすぐに見据えてきた。その迫力に飲まれそうになり、オットーは僅かに視線を逸らす。誤魔化すように肩を竦め、指輪を軽く少年に放った。少年の視線が指輪に向いた隙に、断りも入れぬまま、東屋に設えられた椅子に腰を落とす。
「俺はまだ協力するとは言ってない。そもそもお前が王子だなんて与他を信じてるわけでもない」
王家に対する不遜に、ウィルの眉が不愉快げに顰められたが、王子の手前を気にしてか話を遮る様子は無い。少年の側は、これは最初から気にした風も無く、当然のようにオットーの向かいに座ってくる。そうして近い位置で向かい合うと分かる視線の高さの違いは、一層相手の小柄さが意識された。
「では、どうすれば私を信じる」
「さてねえ」
「金か?」
「そりゃまあ、貰えるもんなら貰っておくが」
実際のところ、少年のそれは大した胆力であった。自分の倍ほどもある男を前にして一歩も引こうとしない姿は、驚嘆に値する。だがオットーとて幾度も修羅場を潜った戦士だ、王子であろうと無かろうと、まだ子供と言える年齢の相手に押し負けるわけにはいかない。
そう、相手は子供だ。椅子に座った相手の足が、地面に着くか着かないかの位置にあるのを見て、オットーは改めてその事実を思い出した。
「だが、ちょっとした金なら、ケチな詐欺師だって稼げる。王子様だってことを証明するとなったら、それなりの額が必要だ」
「……私も父に従えられている身だ、そう大きな額は動かせない。しかし一応聞いておこう、いくら欲しい?」
「さあて、どうしようか」
眉ひとつ動かさないその表情は、オットーの内心を見透かしているかのようだった。この先オットーが吐く台詞も、この少年は予測しているのかもしれない。だがオットーは敢えて、用意していた言葉を変えることはせず、皮肉げに唇を持ち上げた。
「いや、やっぱり金じゃ証明できないな。金は金だ、それが国の金庫から出てきたもんか、そこらの商人を殺して奪ったもんかは区別が付かない」
「成る程。それで?」
「そうだな、お前の本気を見せてもらおうか。こっちの方で、な」
言いながら、腰に穿いた剣を叩いてみせる。
「エルンスト王子は、武芸の方も大層な腕だって聞くぜ。俺程度のちんぴら、簡単にあしらってくれるだろうさ」
あからさまな挑発の文句に、さすがにウィルの容相が険しくなる。オットーはそれを無視して席を立ち、東屋の前に広がる空間の中心に立った。
「勿論そこの兄さんの手助けは無しだ。真剣勝負で俺に勝てたら――いや、一撃でも入れられたら、お前らに全面的に協力してやるよ」
ただし負ければ、命の保証は無い。付け加えられた言葉にも、少年は顔色一つ変えなかった。オットーに向けて殺気を飛ばすウィルを押し留め、静かに椅子から立ち上がる。
「その言葉、二言は無いな」
「ああ、俺も男だ。一度口にした言葉を違える程、腐っちゃいないさ」
「いいだろう」
そしてオットーから視線を逸らさぬまま、己の剣を抜き放った。彼の体格に合わせてか、普通の剣より細身のそれは、僅かにもぶれることなくぴたりと宙に据えられている。向けられた刀身を観察すれば、それもまた一流の品であることが見て取れた。オットーの持つ数打ちの剣とは比較にならぬ名刀だが、戦いは剣の値段で決まるものではない。
「はっ、良い度胸じゃねえか!」
勝負を決めるのは、使い手の力だ。オットーは棒立ちの姿勢から一転、殆ど予備動作を交えぬ急激な加速で、少年へと飛びかかる。剣はまだ鞘に納められたまま、いや、そう見えた一瞬には銀の軌跡が空に閃いていた。
「ウィル、手を出すな!」
鋭い金属音。間一髪反応した少年の剣が、オットーの初撃を受け止めていた。重心を落として衝撃を地に逃がす、体格に劣る相手が攻撃を受ける際に、避けるに次いで有効な体勢だ。押し返す力も、見た目より余程強い。あの一瞬でこれだけの反応が返ったことに感心し、オットーは軽く口笛を吹いた。
「悪くねえな、王子様よ」
刀身に沿ってオットーの剣が滑り落ち、柄で受け止められる。一瞬の間も置かず、柄を起点として捻る力が加えられた。角度が付いて不安定になった身体を完全に転ばせるのに、大きな力は必要ない。オットーの身体が無様に傾ぎ、地面に叩きつけられる――そう見えた瞬間、傾く姿勢はそのままに、オットーがくるりと跳躍した。
「だがちょいとばかり、素直すぎる」
軽業のように回転し、その勢いで脚を振り抜く。鈍い音がして、少年の脇腹にオットーの蹴りが激突した。紙屑のように少年が吹っ飛ぶ、いや、その動きには、自ら地を蹴った勢いが半ば以上含まれていた。向けられる蹴りと同じ方向への跳躍は、肉体へ与えられる衝撃を大きく軽減させる。脚に伝わった力が軽いものであることに、オットーは気づいていた。
「へぇ!」
飛んだ勢いを転がることで殺し、少年は体勢を立て直した。彼の身体の下で、美しく整えられていた花々が、無惨に散らされる。オットーは敢えて深追いはせず、剣を構えて少年を見据えた。
「中々やるじゃねえか。今ので仕舞かと思ったがな」
「……冗談を。まさかこの程度が、話に聞こえたオットーの全力だとでも言うつもりか?」
「ふん。口の方も、達者なもんだ!」
再びオットーが地を蹴る。加速の勢いに乗せて、直線的な突きを繰り出した。速くはあるが単調な動きのそれを、少年は拳ひとつ分の間を開けて交わす。が、横にずれた彼の動きを追うようにして、オットーの剣もほぼ直角に動きを変えた。迫る刃を、少年は己の剣で受ける。体勢は悪い、受けきれる程の力は込められていない。だがオットーの側でも全ての力を乗せられる動き方ではない、軌跡を変えるだけならば、僅かな力で十分だ。真横に薙ぐ動きに力が加えられ、切っ先の方向へ進むようにと転換される。それを感じた瞬間、オットーは動きを引き留め、僅かに引いた後再度剣を突き出した。少年はまたも避けようとするが、僅かに動きが足りない。滑らかな頬が浅く裂け、赤い血が流れた。
オットーは期を逃さず、連続で剣を繰り出す。退避する隙を与えぬような鋭い突きが、幾度も放たれた。少年は剣で以て捌き、あるいは軌道を見切って避けてはいるが、その全てを避けきることは出来ていない。数度に一度はオットーの刃が少年の身体を裂き、高価なものであろう布地に血を散らしている。
「どうした? 避けるばかりじゃ勝てないぜ」
明白な劣勢だが、勝敗を決する一撃は、中々発されなかった。オットーが本気を出さずにいるからと、それだけが理由ではない。少年は確かに見事な腕を持っていた。肉体の未熟さと経験不足は隠しようもなかったが、逆に言えば明確な欠点はその程度だ。技の鋭さはオットーですら越えていたかもしれない。打ち倒すための攻撃を数度目に弾かれた時点で、オットーは密かな焦りを覚えた。彼我の実力を考えればまず負けることはない、だが思う通りにあしらえる相手では無いことは、交えた刃から伝わってくる。こういった感覚を覚える時は、何が起こっても不思議ではないのだ。
挑発は止めて、片を付ける。オットーは鋭く息を吐き出し、大きく剣を突き出した。動きの大げさなそれを避けることは、けして難しくない。だがその攻撃は本命では無かった、僅かな動きで切っ先を避けた少年へと、オットーは身体を突進させ、素早く脚を払う。剣に集中していたところに放たれる、予想外の一撃だ。まともに脚が絡まり、踏みしめる力を暴走させた少年の身体が、地に倒れる。悲鳴にも聞こえる鋭い呼吸音が響いた。
「そら、これで終わりだ!」
オットーが剣を突き下ろすが、一瞬速く少年が横に転がっていた。人工の小川へと身体が落ち、水音と共に塗れた土が飛び散る。それでも少年は止まらなかった、オットーが追撃するよりも速く身体を起こし、息を乱しながらも剣を構えている。
「終わらない」
血と水と泥にまみれた顔の中で、緑の虹彩が炯々と輝いている。優勢なのは、間違いなくオットーだ。あとほんの少し追いつめる力を強くし、途中で止めることなく剣を降り下ろしてしまえば、この少年を殺すことができる。だが同時に、気圧されているのもまた、オットーの側だった。
「終わるわけには、いかない。私は」
燃えているようだ、とふと思った。瞳が、いやいっそ彼自身の身体が、白い炎として燃え上がっている。戯れ言めいた考えを、オットーは振り払った。こんな子供に自分が圧倒されているなど、矜持にかけて認めるわけにはいかない。相手が何と言おうと、これで終わりにする。握った柄に込められた力を強くした。
「ごちゃごちゃ言ってねえで、来いよ!」
「私には!」
地を蹴る。少年もまた一歩を踏み出し、オットーへ向けて剣を突き出そうとしていた。向けられる剥き出しの凶器を、オットーは意識する。しかし実際に見ているのは、相手の目だ。強い、誰にも止められぬ程強い、意志の炎。緑に燃えるそれが突然、オットーの視界から消えた。――瞼を閉じたのだ。その事実にオットーが気づくよりも前に、意識すら焼き尽くす強烈な白色が、彼の目を塗り潰した。
「がっ……!?」
視界が眩む。咄嗟に瞼を閉じたが、既に遅く、視界は完全に効かなくなってしまっていた。現状を認識しようと、頭が全力で回転を始める。だがそれが何らかの答えを出すよりも速く、オットーの身体に鈍い衝撃が走った。少年が身体ごとぶつかってきたのだろうと、そう判断する間に地を踏みしめようとする。だが意識せぬ瞬間に受けた力だ、反応は普段よりも僅かに遅い。崩れた重心を立て直すことが出来ず、オットーは無様に尻もちを突いた。
すかさず立ち上がろうとする。だが少年の動きはそれよりも速い。体当たりをした勢いのまま、オットーの上に乗り上げ、容易には立ち上がれぬよう体重をかけてくる。眩んだままのオットーの視界に、陽光を切り抜く影が写った。そしてその中で強く光る、銀色の筋。
荒い息が、身体の上で響いている。首に感じる冷たさで、彼の持つ剣が押し当てられているのが分かった。オットーは動かない。いや、動けない。呆然としたまま目を瞬かせ、ぼやけた視界の中の、見えない少年を見詰めている。
「私の、勝ちだな」
息を継ぎながら発せられた言葉に、オットーは顔を歪ませた。
「冗談じゃねえ、閃光弾だと? 女子供か盗賊が使うもんだぜ、これで王子様なんぞとよく言えたもんだ」
「王族としての体面など、知ったことか。どうしても勝てない相手なら、勝てるように策を練る――そうだろう」
「だからって、こんなもんを。大体いつの間に準備したって言うんだ」
「最初から。お前は自らの腕に自信を持っている、私の提案をただ断るのではなく、剣での勝負を引き合いに出すだろうことは想像できた」
そしてその想像は、見事に当たったということになる。行動を言い当てらてられた羞恥と不快感に、オットーは顔を歪めた。
「あんた、なんのためにこんなことを?」
自ら血を流し、泥に汚れ、真っ当とは言えない手段を使ってまで。色彩を取り戻し始めた視界の中、陽光を浴びる少年の姿は、オットーの知る王族とはあまりにかけ離れたものだった。それほどまでして、彼は一体何を求めているのか。オットーの中に、純粋な興味が沸き上がる。
「私には目的がある。正義や王道では、もはや叶えられない目的が」
少年はじっと、オットーを見ているようだった。輪郭のぼやけたその顔からは、息苦しい程の気迫が感じられる。身体が動かせないのは、上に乗られているからではない。気づけば、物理的な拘束とは全く別個のところで、オットーは動くことができなくなっていた。
「勝負は私の勝ちだ」
突然、するりと目の前の像が焦点を結んだ。そこにあるのは、緑。恐ろしい程深い緑の瞳が、オットーのことを見下ろしている。支配する者が持つ、圧倒的な強さが、少年の瞳には存在した。
これが王か、オットーは呆然とそう考える。彼も下町に住む者の間では頭一つ抜き出る才能を持ち、ちょっとした指導者へと担がれた経験もあった。だが、そんなものでは歯も立たぬ程、この少年は強い。剣の腕ではなく、単なる頭の回転とも違う、根本的な部分で人を従える器を持っているのだ。
「私に協力しろ、オットー」
突きつけられた剣など、いくらでも覆せる。遙か年下の少年に従う不愉快も、彼の素性を疑う理性も、未だ彼の中に存在する。
だが、それでも、断れない。
確固とした強さでそう悟り、オットーに出来る最後の抵抗は、皮肉げに口元を歪ませることくらいだった。
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セキゲツ作
2014.04.20 初出
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