場所は場末の安酒場。客は貧しい労働者。その上国の情勢が不安定となれば、喧嘩が起こらないわけがない。
 グランオルグ観光地区の片隅にある酒場は、それらの条件を全て満たした店だった。元々あまり治安の良い区画ではなく、金のない客達は安酒で酩酊しているのが常だ。そして現在この国は、間違っても平和などとは言えない状態である。漠然とした不安や不快感を抱えている客が、誰かの不用意な一言によって、火種を放り込まれた火薬のように爆発する。そんなことが、ここ最近では日常のようになっていた。
 この日もそうだった。別々の卓で飲んでいた筈の者達が、いつの間にか額を突き合わせてにらみ合っている。店の主人はうんざりとした顔でそれを見ているが、止めに入るでもない。止めれば今度は自分が標的となることを、経験として知っているからだ。やがて、誰もが予想したとおりに怒号が上がり、テーブルと椅子を蹴倒しての殴り合いが始まった。けたたましい騒音と共にテーブルが転がり、上に乗っていた飲み物や料理が散乱する。こうなることを見越して、皿や杯には木製のものが使われていたが、それでも数個は酔漢達に踏み砕かれて使いものにならなくなっていた。ふざけるなだの取り消せだの、殴打の間に切れ切れの言葉が飛び交う。理性の飛んだ様子で客同士が殴り合うのを見て、店主は諦め顔で溜息を吐いた。
「――やれやれ」
 そう零したのは、店主ではない。勿論、殴り合っている男達でもない。唐突に始まった喧嘩から逃れ、壁際に待避していた客のうち一人が、肩を竦める芝居がかった仕草と共に一歩前に出た。
 酔漢二人は、始めのうち彼に気付かなかった。当然だ、殴り合っている最中に周囲に気を配る余裕はない。だが双方の肩に手をかけられ、力任せに引き倒されれば話は別だ。予想もしていなかった方向からの力に、二人は揃ってバランスを崩し、互いに向かい合ったまま尻と背を床に打ちつける。下敷きになった皿がまた一枚、哀れな音を立てて砕けた。
「な、なんだよ」
 一人が毒気を抜かれた様子でごちる。だがもう一人は、一度倒された程度では、上った血を抜くことができなかったらしい。訳のわからないことをわめきながら、男に向けて殴りかかってきた。つられたように、落ち着いた筈の側も、立ち上がって顔を赤くしている。馬鹿にしやがって、というだみ声と共に、男の顔面へ向けて拳が繰り出された。
「酔いすぎだ。少し頭を冷やしな」
 だが男は、こともなげにそれを避け、遅れて降りおろされたもう一人の拳も綺麗に避けてみせた。そして接近した二人に、軽く手を押し出す。それは一瞬のことだった。壁際の客の一人が、不思議そうに首を傾げ、瞼を瞬かせる。何が起こったかも分かっていない客達の前で、酔漢二人は唐突に身体の均衡を崩し、玩具のように床にへたりこんだ。
 あるいは彼らも、自分達が何をされたか理解できていなかったかもしれない。顎を強打すると、頭が強く揺さぶられ、僅かな間身体の制御を失う。男達もよろけながら立ち上がろうとし、しかし脚に力が入らず崩れ落ちる、という動作を繰り返していた。何度か試しては尻を付き、やがて憮然としつつもあきらめた様子で床に腰を落ち着け、オットーを見上げる。乱入した男は、そんな男達ににやりと笑いかけると、手を貸して立たせてやった。
「助かったよ、オットー。相変わらず見事なもんだな」
 感嘆の声を上げる店主ににやりと笑みを向けると、オットーは、避難させておいた自分の杯を親指で指す。
「例ならこっちで頼むぜ、マスター」
「はは、やっぱりそれが目的か。それじゃあその一杯は奢りってことにしてやる」
「一杯だけか? ケチくせえなあ、店が壊れるのを未然に防いでやったんだぜ」
「どの口が言うかね。そこらにちらばった皿の弁償をしてもらってもいいんだぞ?」
 砕けた木皿に目をやって、オットーは肩を竦める。
「俺じゃないだろ、やったのはこいつらだぜ。なあ?」
「あ、ああ?」
 殴られたばかりの相手から声をかけられ、相手は驚いて身構える。もう一人の男、こちらは顔見知りの様子で、苦笑しながら首を回していた。
「相変わらず容赦が無いな、お前が居たって知ってたら仕掛けなかったんだがなあ」
「居ても居なくても止めてくださいよ、商売あがったりだ。ほら、卓を戻してください、続きが飲めないでしょう」
 店主に言われ、男達は自ら弾きとばした卓を持ち上げ、元の場所に戻し始めた。散らばった破片や食事の残骸を、店主が簡単に片付ける。待避していた人々も席を戻し、また何事も無かったかのように飲み始めていた。
「ったく、首が痛くてたまらん。おいオットー、止めるにしたってもうちょっと手加減できんのか」
「顎をぶっ叩いたからなあ、痛くて当たり前だ。加減ならちゃんとしてるぜ、首も折れてないし頭だって無事だろ?」
「これを無事と言えるならな」
「いや、まあ実際大したもんだとは思うよ」
 割って入ったのは、殴り合っていたうちの一方だ。未だに警戒を解いた様子は無いが、殴られたのは自分に非があることは理解しているのだろう、オットーを責める言葉は発せられない。むしろ賛美に近い視線を、オットーへと向けている。
「あの乱戦の中でこれだけ綺麗に急所を決められるんだ。あんた、大層な使い手だな」
「そりゃどうも」
「シグナスにも、あんた程の使い手はそう居ないぜ。軍じゃ、かなりの地位なんじゃないのか?」
「軍? まさか。単なる傭兵さ」
「しかも、食い詰めて知り合いにタダ酒をせびるような」
 混ぜっ返す店の主人を、オットーが睨みつける。客の中から、どっと笑いが上がった。
「まあしかし、腕が立つのは確かだよ。このへんじゃ一番じゃないか」
「お褒めいただき光栄だよ。腕があったって、雇い主が見付からなきゃ意味無いんだがな」
「あんたみたいな奴でも、雇われ先が無いのか。先走って出てきて失敗だったな」
 そう言う男の格好は、確かにグランオルグの周辺では珍しいものだ。店の隅に転がっていた武器を手に取り、酒と食べかすにまみれた様相に眉を顰めている。
「シグナスの傭兵かい?」
「ああ、近頃じゃシグナスは景気が悪くてな。新王が立って、国が安定してきたのは良いが、おかげで傭兵の出番は随分と減っちまってる」
「ふん、因果なもんだな」
「ああ。グランオルグの方が口があるだろうかってんで出てきたんだが、さっぱり見付からなくてこの有様さ」
 すっかり汚れた鎧と武器を示され、オットーは苦笑した。
「そいつは災難だったな、最近はアリステルとの小競り合いも落ち着いてるから、中々傭兵の口も無いんだよ。マスター、この店はどうだい?」
「うちは間に合ってるよ、勝手に戦っちゃあ酒を要求する押し掛け用心棒が居るからね」
「ちっ、手厳しいな」
「まあ仕方がないさ、またシグナスに戻って地道に働くとするよ。あんたも、八つ当たりして悪かったな」
 傭兵が、殴り合った相手に頭を下げる。男は、戻した椅子でいつの間にか飲み直し始めていたが、その仕草に杯を上げて応えた。
「気にすんな、武器を持ち出さんでくれてありがとよ」
 新しい酒に、怒りはすっかり収まっていたらしい。機嫌良さげに酒を干し、店主に新たな一杯を要求している。
「それに腐ってんのはお互い様さ。グランオルグだって景気が悪いからな、あんたみたいな移民を見るとついけんつく食らわしたくなっちまう」
「おい、これ以上の騒ぎは止めてくれよ。店から皿が無くなっちまう」
「それに、オットーが店の酒を飲み尽くす口実を作っちまうな」
 げらげらと笑う男に、オットーは無言でひょいと肩を竦めた。が、こっそりと男の前の皿からつまみをくすねているところを見ると、それなりに気分は害していたかもしれない。
「だが本当に、こいつがこんなところで管巻いてるようじゃいけないんだがな」
 しかし、ふと真面目な顔で男が続け、オットーは二個目に伸ばした指を止める。
「あんたも見ただろ、こいつは剣の腕だけは大したもんなんだ。正規兵にも負けやしない」
「だけ、は余計だ」
 オットーが混ぜ返すが、男は真剣な様子を崩そうとしない。あるいは、酔いすぎて周囲の声が聞こえていないだけかもしれないが。
「軍の偉いさんなんか、貴族の馬鹿どもで固められてて、俺達庶民はどれだけ頑張ったって出世の余地はありゃしない」
「軍だけじゃない、一時が万事同じことさ。俺達が必死になって働いてる間に、貴族どもはふんぞり返ってるだけだ」
「奴ら、良い飯食って酒飲みながら、ゲームでもするみたいに国を動かしてやがる。俺達がどれだけ苦しんでるかなんて、知ったこっちゃ無いんだ」
 気付けば、喧嘩に参加していなかった者達も含めて、客の間で国に対する不満が口々に交わされていた。そしてそれは何も今この時だけではない。最近のグランオルグではヴィクトール王の圧政が続いている。国の中央に労働力を集中させるその政策は、末端の国民に大きな負担を強いていた。王の目の届かぬところで貴族は私腹を肥やし、労働者階級の間には常に鬱屈した感情が溜まっている。酒の力を借りたそれが噴出するのは、最近の酒場で頻繁に見られる光景だった。
 そんな声など聞き慣れているオットーは、知らぬふりで店の隅に陣取り、残り少なくなった酒をちびちびと舐めている。
「シグナスにも問題は多いが……グランオルグの民も、安泰とはいかないようだな」
 一人唖然としていたシグナスの傭兵は、ふっと首を振ると、自ら戻した席へと腰を落とした。そして店主に声をかけ、新たな酒を注いでもらう。
「そりゃそうだ。こんな世の中、世界のどこでだって安泰な国は無い」
 その呟きを耳にしたオットーが、にやりと笑って杯を傾ける。その一口で空になった杯を、恨めしげに見遣った。
「ここから離れた田舎だって、いつ戦場になるかわからない。獣人共は国を閉ざして、いつ降り懸かるあもしれん戦禍から目を逸らしてる。そして麗しの王都グランオルグは、まあこの通りだ」
「酷い話だぜ、数え切れない国民が飢えてるってのに、俺達の王家は知らんぷりだ」
「もっと慈悲深い王様ならな! 貴族のご機嫌を伺ってるだけじゃなくて、俺たち労働者のことまで考えている王様が上に立っててくれりゃ、もっと安心して働けると思うんだがなあ」
「どんな世の中だって、お前が飲んだくれてることに代わりはないだろうよ!」
 店中に響きわたるような笑い声が響き、数杯の酒が開けられた。再開された酒宴に、店主は常の鉄面皮に戻り、求められるまま酒を注いでいる。
「全くだ。もっと、まともな王がこの国に居りゃあな……」
 店に満ちる喧噪の中で、オットーがぼそりと呟きを零す。それは王政を敷く国において、殆ど常に囁かれている言葉だ。しかし彼の持つ真剣さは、そういった通り一遍の愚痴を越えるものがあった。それは何も知らないが故の言葉であったが、だからこそ純粋な強さを持っていた。
「俺達の王、か」
 零される呟きは、騒ぎに紛れて小さく消えていく。あるいは気付いていたかもしれない店主は、何も言葉を発することなく、己の仕事へと戻っていった。






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セキゲツ作
2014.04.20 初出

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