ノックの音に続いて扉が開き、同時に部屋の中をすうと風が通り抜けた。空気の動きを扉の前のロッシュも感じたのか、僅かに表情を動かしている。

「おう、来たか」
「ええ、まあ、呼ばれましたから」

素っ気ない言葉と共に一礼し、ロッシュが室内に入り込んでくる。ガーランドの私室で飲むようになって何度目になるか、詳細に数えているわけではないが、彼の態度から無用の遠慮が消え失せる程度に回数を重ねているのは確かだ。将軍としての顔はすっかり剥がれ落ち、年長者への礼儀こそ保っているものの、そこに気遣いや愛想などは跡形も無い。公式の場より遙かに素に近いであろうその姿に、ガーランドは機嫌よく笑みを浮かべた。

「まあ、座れや。今茶を入れてやる」
「有り難うございます。……今日は、窓を開けているんですか」

定位置となった椅子に腰を下ろしたロッシュだが、その場所が普段と違うことに、違和感を覚えたようだった。いつもはガーランドの座る椅子と向かい合うように配置されているのだが、今日は真向かいではなく角度を付けられ、どちらの椅子からも窓が視界に入るように置かれている。大きく開かれたそれから流れ込む外気の冷たさに、ロッシュは一瞬目を眇めた。

「ああ、見事な月だからな」

ガーランドも窓に目を向け、空に浮かぶ大きく丸い月を見遣る。曲がりなりにも一国の首都であるシグナスでは、夜でも明かりが絶えないのだが、真円に近い月の輝きが地上の光程度に減じられる様子はない。煌々と冷たい光を放ち続けるそれは、武人であるガーランドにすらも雅の心を呼び起こす程の魅力を持っている。

「月見酒というのも、たまには良いだろう」
「王も意外と、風流なのが好きなんですねえ」
「意外とは余計だ。どうだ、お前も久々に付き合わんか?」
「遠慮しておきます」

冗談半分に酒瓶を掲げてみたが、にべもなく拒否されてしまった。見事なまでに予想通りの反応を笑いつつ、いつも通り酒精の一滴も混じらない、ただの茶を入れてやる。ロッシュは暖かいそれを受け取り、代わりにガーランドに酒を注いでいたが、ふと。

「それに」

意志から外れたところで、唇から零れ落ちたと。そんな気のない風情で、小さな呟きを吐き出した。

「月は、嫌いなんですよ」
「……月が?」

その、奇妙に静かな表情と声音に違和感を感じて、ガーランドは首を傾げる。説明を求めてロッシュに視線を注ぐが、彼の目は王から外れ、窓の方向へと向けられていた。瞳の奥にちらりと、何かの光が揺れたように感じられ、ロッシュを見る目に力を込める。

「ええ。…………」

王の問いかけに、ロッシュは短い肯定を返したままで、それ以上の言葉を発しようとしない。彼を探るガーランドの視線も、横顔をするりと滑るだけだ。

「初耳だな」
「大声で言って回ることじゃありませんからね」
「そりゃ確かにその通りだ。何か理由があるのか?」
「……さあ」

会話を交わしながらも、ロッシュの視線は、天空に浮かぶ月に注がれたままだった。無意識なのかどうか、茶碗を握る右手に力が込められる。

「よく、分かりませんや」
「何だそりゃ。訳も分からず嫌いだってのか」
「そうですね。ただ、何となく」

同時に、その横顔が歪んだ。苦痛を堪えるような、悲哀に震えるような、心の奥底に沈んだ痛みを曝け出すような。そんな表情、ガーランドの前では一度たりとて浮かべたことのない顔だった。

「嫌なことを、思い出しそうになるんです」

将軍である間の姿は勿論、この部屋で2人になった時に見せる、無愛想なそれとも違う。隣に座る存在を忘れたかのように、ただひたすらに月を睨み付けるロッシュを、ガーランドは静かに観察する。

「……そうか。だが、それにしちゃあえらく熱心に見詰めてるが」
「…………」

低く、彼の思索を遮らない程度の声音でガーランドが囁いた。それを耳に入れたロッシュは、ふ、と息を吐き、首を振る。

「思い出したいんですよ」
「あん?」
「忘れちまったんです。……月を見ると、思い出しそうになる」
「……」
「でも、どうしても出てこない。思い出せないんです」

そう言いながらロッシュは、また月を見た。その視線は月そのものではなく、月と通じる何かに注がれているように、ガーランドには感じられる。彼が見るそれは、ロッシュの言う忘れてしまった出来事なのだろう。朧に消えた辛い記憶、辛いはずなのに思い出したいというそれを求めて、彼は苦痛に耐えて月を見詰めているというのか。

「忘れちまったそれが、嫌なこと、か」
「ええ。何かがあった筈なんですよ、こんな月の夜に。嫌な……嫌な、ことが」
「嫌なのに、思い出したいのか」
「ええ」

月光を浴びて青白く染まる顔、表情は深い苦悩に満ちているのに、それでもロッシュは目を逸らそうとしない。堅固に据えられた彼の瞳の奥に、ちらちらと揺れる光を見て、ガーランドはふと寒気を覚えた。ふいに思い出したのだ、彼が浮かべる光に似た色を、かつて見たことがあると。

「忘れちゃいけない、ことだったんです」
「どうしてそんなことがわかる? 覚えちゃいないってのに」
「……さあ、分かりません。でも」

揺らぐことなく背筋を伸ばして、月を――欠けた記憶の象徴を睨み付けるロッシュの目には、強いはずなのに暗く沈んだ光が浮かんでいる。
それが示すのは、深い悔恨と、絶望。

「一つだけ。月を見ていると、浮かんでくる光景があるんです」

光も届かぬ水底にも通じるそれは、死に向かう者達が宿すものと、とてもよく似ていた。

「……ストック」
「ストック?」
「ええ。ストックが、俺のことを見下ろしている」

ぽつぽつと零れ落ちるロッシュの言葉は、恐らくガーランドに向けられたものではない。独白に近い台詞を紡ぐ若者を、王は静かに見守っている。

「――酷い、顔で。その後ろに、月が浮かんでいて」

その言葉につられ、ガーランドも月を見た。静謐な銀光を放つ、美しい天体。ロッシュの前にあるのもこれと同じなのに、彼が見ているものは、きっと違う色を纏っているのだろう。
酷い顔、それを言うなら今のロッシュこそあまりに酷い顔をしている。

「そんなこと、あった覚えは無いんですよ。いつ、どこで見たことなのかも分からないのに、あいつの顔だけはっきり見える」
「ストックには、聞いてみたのか」
「……一度だけ。何も答えちゃくれませんでしたがね」

諦めたようにロッシュが息を吐く、一瞬瞼を閉じ、右手が胸元に寄せられた。握りしめられたままの茶碗が震えている、それはそのまま彼の心の動きを表しているかのようだった。

「思い出さなきゃ、いけないのに」

ロッシュは月を見続けている、記憶の中に開いた虚ろを、ひたすら睨み付けている。狂気めいた真摯さで、己と向き合うロッシュを、ガーランドはただ黙って見詰めていた。
冷たい夜気が、2人の間を流れて。
――そうして、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

「……すいません」

すっと、ロッシュが目を伏せ、低く長い息を吐いた。ようやくガーランドに戻された視線は、酷く疲れた気配をはらんでいる。彼の茶碗が空であることに気付き、新しい茶を入れてやるため、ガーランドはそれを取り上げた。

「妙な話になっちまいましたね。折角招いて頂いてるのに」

こんな時でも律儀な一礼を忘れないロッシュに、ガーランドは耐えきれず苦笑を浮かべる。真面目なのは美徳だが、それで己に負担をかけてしまっては仕方ないだろうに。以前から思っていたがこの男、戦場で見せる強さの割に、何処か不安定なところがある。何かの拍子に精神の根幹がふいに揺らぎかねない、そんな致命的な弱さが、彼からは感じられていた。

「気にすんな。気持ちを溜め込んだって禄なことにならねえよ、適当に吐き出した方が良いに決まってる」
「……有り難う、ございます」
「だから気にすんなって。ったく、ちっと堂々としてきたと思ったら、直ぐ元に戻りやがる」

本当に、少し前までの無愛想な態度はどこへやら、である。困ったような笑みを浮かべるロッシュを、ガーランドは不機嫌に睨み付けてやった。

「遠慮は要らんと、何度も言ってるだろ。言いたいこと言ってすっきりすれば良いんだよ、俺がそれくらいで愚痴愚痴言う程、小さい男に見えるか?」

いっそ脅すのと大差ない、獰猛な顔付きで言ってやれば、ロッシュの表情が苦笑に近いものになる。そんな彼に向けて、ガーランドはにやりと笑って、手にした酒瓶を振った。

「よし、今日はこっちにしとけ。暗い気分は、飲んで吹き飛ばすのが一番だ」
「お断りします。酒は好きじゃないって、前言いましたよね?」
「普段はともかく、落ち込んでる時くらいは酒の力を借りたって良いだろうよ。遠慮すんな、一晩だって付き合うぜ」
「別に、忘れたいわけじゃないんですって。付き合って頂かなくても結構、俺はこっちで十分ですよ」

言いながら茶を啜るロッシュに、ガーランドは軽く舌打ちをし、断られてしまった酒を自らの杯に注ぐ。酔いに任せてでも、辛さから逃げてしまえば楽だろうに、彼はその道を選ぼうとしない。真正面から向き合い、ひたすら痛みを受け止めようとしている。
あるいはそれは、失われた記憶がストックに関わることだからかもしれない。浮かぶ光景に親友の姿があるからこそ、彼はその真実を求め続けているのかもしれなかった。彼らの絆を考えればそれも分からぬではない、しかしそれにしても、もう少し器用に痛みの少ない生き方をしても良いだろうに。

「ったく、面倒な奴だな」
「……遠慮するなと言ったのは、そちらでしょうが」
「そういう意味じゃねえよ。やれやれ……」

ようやく少しばかり、ロッシュにいつもの無愛想が戻ってきたようで、ガーランドは微かに安堵の息を零した。愛想が消えて安心するというのも妙なものだが、それが彼の平常なのだから仕方ない。最も、家族や友人の前ではもっと別の顔を持っているはずで、そういう意味では気を許した状態だとはとても言えないのだろうが。

「もう少し肩の力を抜いたって良いと思うんだがなあ」

ガーランドの言葉の意味が分かっていないのか、ロッシュは不審げな顔で首を傾げている。恐らく自分の不安定さなど、何ひとつとして自覚しては居ないのだろう。
ガーランドは零れかけた溜息を飲み込むため、ぐいと杯を干した。視線を上げれば、浮かぶ月は掛けられた思いなど知る由もなく、光を放ち続けている。

「……冷えてきたな。閉めるか」

狂気を呼ぶとも言われるそれが、これ以上彼の心を乱さぬように。ガーランドは窓を閉ざすため、うっそりと立ち上がった。



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セキゲツ作
2011.10.15 初出

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