移植手術が無事終了し、2日が経った。
ロッシュの意識は戻らない、何度か目覚めたことはあったのだが、明確な受け答えが出来るまでには到らずに眠りの中へと戻ってしまった。しかし経過は順調で、拒絶反応も合併症も出る気配は無いようだ。補佐してくれている研究員が作成した報告書に目を通し、そこに問題が無いことを確認すると、改めてソラスは安堵の息を吐いた。ずっと傍に付いて推移を見守れれば良いのだが、未だ軍属の身にそれは許されない。特に今は成すべき業務が山積みになっている、出兵後の書類処理や隊員達の統率、そして今回の戦いで命を落とした者達の弔い……どれもソラスに負担を強き、精神を削る仕事だ。
今日も夕刻過ぎにようやく全ての義務を果たし、疲労困憊の態で自分の研究室に戻ってきたところだった。報告書を読み終わったところで、ふと室内を見渡す。ここしばらく掃除のひとつもする余裕が無い、資料と工具があちこちに散らばり、中央にはガントレットを納めていた箱が出されたままという乱雑な光景に、ソラスは眉を顰めた。几帳面で綺麗好きなソラスがここまで部屋を汚すのは、かなり珍しいことだ。自らの行動の結果とはいえ、整頓とは程遠い様相に、軽い嫌悪感を覚えてしまう。今は余裕があるのだからその間に片づけでも、と思わぬでもないが、動き出す気力がどうしても湧いてこない。
意識せず溜息が零れる、先日の戦いからこちら、酷い疲労を引き起こす出来事が多い。とはいえ初めて経験する大規模な敗戦だ、慣れぬソラスが心身の均衡を崩しても仕方がないのかもしれなかった。手にしたままの報告書をついと撫でる、ぼんやりしているくらいならロッシュの様子でも見にいこうかと、重い腰を上げる。

「……失礼します、ソラス研究員!」

その時を見計らったかのように扉を叩いたのは、ロッシュの件で補佐に入っている研究員だった。慌てた様子の呼びかけに、ソラスは急いで扉に向かう。しかし開くのを待ちきれなかったのか、研究員がその前で叫んだ。

「被験体の意識が戻りました! 至急実験室にお越しください!」

ひゅう、とソラスの喉が鳴る。震える手で鍵を外し、扉を開くと、緊張した表情の研究員がそこに立ち尽くしていた。ソラス自身は一体どんな顔をしていたものか、姿を現した部屋の主を目にした瞬間、研究員はびくりと身を震わせる。

「あ、あの……」
「覚醒したか。状態は、異常は出ていないだろうな?」
「っ、はい。数値は安定しております、意識レベルも高いところにあるようです」
「状況説明は」
「いえ、まだ行っていません。信頼する相手から告げられたほうが、精神状態の乱れが少ないと判断しましたので」
「そうか……そうだな。分かった、直ぐに行く」

ソラスは頷くと、そのまま実験室へと足を向ける。走ると行って良い程の勢いで廊下の奥へと向かうソラスに、未だ若い研究員が慌てて追い縋っていった。




 ――――――




実験室の扉を開けると、音と気配に反応したのか、ロッシュがゆるりと視線を向けてくる。一瞬の間を置いて焦点が合う、そこに在るのが見慣れた上官の姿であることに気付くと、瞳に微かな安堵の色が浮かんだ。ソラスは彼の安心が深まるように、出来るだけ常と変わらぬ穏やかな表情となるように意識しながら、そっと寝台の横に歩み寄る。

「ロッシュ。気分はどうだい?」
「隊長、ここは。俺は、あの時、一体」
「大丈夫だよ、ここはアリステル城だ。もう敵は居ない」
「…………城。それじゃあ、戦いは」

朦朧とした気配を残すロッシュの視線を受けながら、ソラスは寝台の横に腰掛けた。意識が戻ったといっても、未だその身体には大きなダメージが残っている。検査と治療の計器をいくつも身に繋げた姿を、ソラスは痛々しく見詰めた。

「……戦いはもう、終わった。けどそんなことは考えなくていい、今は身体を治すことを第一に」
「隊長、隊の、他の奴らは。逃げた奴らは、見付かりましたか」

苦しげに吐き出されるロッシュの問いかけに、しかしソラスは直ぐに答えることが出来なかった。正直に言えば、今はその話題に触れて欲しくはない。残酷な現実を知らせるには、今のロッシュは心身共に余りに不安定に過ぎる。
声を失って黙り込むソラスに、ロッシュはぎこちなく身体を起こそうとしながら、問いを重ねる。

「まだ、何人か生きていたんです」
「ロッシュ、落ち着くんだ。君は大きな手術を終えたばかりなんだよ、身体を動かしちゃいけない」
「森に、森に逃げ込むのが見えたんだ。あいつらはどうなったんですか」
「ロッシュ……そのことは、今は」

言葉を濁し続けるソラスの態度に、ロッシュは真実を察したのだろう。白い顔が、すうっと絶望に染まる。

「あいつら、生きては、いなかったんですか」
「…………ああ」
「全員? 一人、も?」
「…………」
「そんな、くそっ……誰一人、生き残れなかったって……畜生!」

ロッシュの、残されたひとつだけの拳が震える。彼はそれを額に押しつけ、低く呻いた。

「信じて付いてきてくれたのに、あいつら……俺の、俺のせいで」
「それは違う!」

耐えきれずにソラスが叫んだ、半ばから切り落とされた左腕の根本に触れ、痛みを与えぬ程度の力で握り締める。

「戦いの帰趨は、指揮官の力で決まる。君は……君の小隊は不幸にして敗戦に巻き込まれたというだけだ、断じて君が悪いわけじゃあない」
「ですが、俺がもっと上手くやれれば」
「君は十分にやってくれた。君でなければ今以上に酷い結果になっていた、他の小隊も含めて誰も陣に戻ることは出来なかっただろう。君は本当によくやってくれたんだ」
「……それでも、俺の小隊が全滅したことに変わりはないんです」

肺腑から絞り出すかのような、ロッシュの声。静かな悲鳴にも聞こえるそれは、ソラスの心臓を真っ直ぐに刺し抉る。彼をそんな状況に追い込んだのは、間違いなくその上の者……隊長であるソラスや、総指揮官であるラウルの責なのだ。それをロッシュは理解しようとしない、そして自らが作り出した罪に押し潰されようとしている。深い淵に落ちる彼の精神を引き留めたくて、ソラスは必死で言葉を紡いだ。

「全滅じゃない。ロッシュ、君がまだ生きている」

それはソラスの、心の底からの叫びだ。ロッシュが生きている、失われたと思っていた命が、どんな形であれこの手の中に残ってくれている。ソラスは、ロッシュの額に置かれた拳を手に取り、そっと引き寄せた。苦痛に揺れるロッシュの目と、ソラスの視線が絡み合う。

「君が生きて、ここに居てくれる。ロッシュ小隊は全滅していない、全滅してもおかしくない状況の中で、君は生き残ってくれたんだ」
「隊長。ですが」
「多くの兵が命を落としたことは、僕だって悲しい。けれどそれに引きずられて、今生きている君がこれからの戦いを放り出すことは、許されないことだ」
「……ですが! 俺の、俺の腕は、もう……!」

悲痛な叫びが、ソラスの耳朶を打った。大部分が切り落とされた左腕をロッシュが降り上げる――ソラスはそれを、慌てて押さえ付けた。

「駄目だ、まだ動かしては!」
「無いんです、腕が無いんですよ! 俺は戦えない、生き残ってたって何の意味も無い……」
「そんなことを言うな!」

震えるロッシュの身体を押さえ、その顔を上から覗き込む。血の気が感じられない白い顔の中で、薄青い瞳だけが炯々と光っていた。悲しみと、苦痛と、悔恨と……様々な感情が混ざったその目に向けて、ソラスは必死に語りかける。

「意味ならある。君が生きている意味は、まだある」
「そんな、気休めを」
「気休めなんかじゃない、君はまだ戦えるんだ。君の失われた腕は、これから取り戻すことができる」
「……?」
「以前に一度、話したことがあったね。ガントレット、僕が研究している、魔動機械で動く義手の話を」
「…………」

ソラスの言葉に、ロッシュは呆然と、左腕の痕――切り落とされ、新たに作り出された肉の先端に視線を遣った。そこは不必要な刺激を防ぐために柔らかな布で覆われており、今は様子を伺うことはできない。しかし確かにそこには、彼の神経と結びつけられた、魔動機械の礎が存在するのだ。

「覚えているかい? 腕の殆どを欠損した者でも、前と同じように……いや、以前よりも大きな力を持って、戦場に戻るための装置だ」
「……はい。覚えて、います」
「それを、君の身体に取り付けた。正確に言えば、まだ本体を取り付けるための接続部品を移植しただけだけれど」
「…………」

ソラスの説明を、ロッシュはどこまで理解していたものか。呆然としているようにも、真剣に聞き入っているようにも見えるその表情を読み兼ねて、ソラスは歯噛みする。

「君の同意もないうちに乱暴なことをして、すまなかったと思っている。けど、時間が無かったんだ」

彼はどう感じたのだろうか、知らぬ間に自らの身体に埋め込まれた異物の存在を。ソラスがそっと、触れるか触れないかの強さで、左腕の断面を撫でる。そこにあるのは鍛えられた筋肉より尚固い鉄の感触だ、自らの手で植え付けた、失った部位に代わるための機械。ロッシュの顔に許しの色を求めて、ソラスは彼の瞳を覗き込んだ。

「手術は成功した。術後安定するまでもう少し時間はかかるだろうけど、いずれ君の腕は戻ってくる……いや、新しい腕を取り付けることができるようになる」
「……」
「勿論、それを使いこなすのは簡単じゃない。僕の部屋で見ただろう? 普通の人間じゃあ抱えるのが精一杯な重量物、あれを身体にぶら下げるんだ。筋力も体力も、今のままじゃあとても足りない。相当きつい鍛錬が必要になる」

ふ、とソラスの表情が泣きそうに歪んだ。言葉にして初めて、自分が彼に与えたものが、どれほどの苦痛を伴う道か自覚する。身体に過大な負担をかけ、軍事機密の実験台となることで命ごと国に縛り付けて。それほど辛い思いをさせて、得るものと行ったら終わりの見えない戦いの道なのだ。罪悪感が胸を侵食する、だが、それでも。

「それでも……ガントレットさえあれば、また君は戦えるんだ」

彼の苦難を知り、己の罪を自覚し、それでも。
それでも、後悔だけはしていなかった。
例え歴史を変える手段を与えられ、過去に戻ることが出来たとしても、必ず同じ道を選ぶ。苦悩し、煩悶し、暗く閉ざされた先に僅かでも希望を見出そうと足掻き、そして今の未来に繋がる決断をする。
それが、自らの理を折り、狂気に魂を譲り渡す選択だとしても。
唇を噛みしめ、今にも崩れ落ちそうな表情で語るソラスを、ロッシュは半ば呆然と見上げていたが――やがてその瞳に、静かな光が宿った。

「隊長」
「…………」
「この腕に、力は戻ってきますか」
「……ああ」
「俺はまた、戦場に戻ることができますか」
「ああ」
「そうしたら」

ふ、とロッシュの視線がぶれる。網膜に写らない、何処か遠いところを眺める目付き。

「死んだ奴らも、少しは浮かばれますか」
「…………ああ。勿論だ」

彼は過去を見ている、もうけして取り戻せない命に囲まれていた過去を。その目は再び未来を見据えられるのだろうか、彼を絡め取る罪の意識を解き放ち、彼自身の意志と望みで未来を選び取る日はやってくるのか。ソラスには分からない、彼に出来るのは、今この時でロッシュの道が途切れぬように支え続けることだけなのだ。

「君は生きて、そして戦うべきだ。死んでいった者達の分まで」

その言葉がどれだけ重く彼を縛るか知っていて尚、ソラスはロッシュに向けてそれを投げつける。今だけは、それが必要だった。彼が崩れ落ち、ここで歩みを終えてしまわないために。
ロッシュはしばらく、黙って左腕を、やがてその身に途方もない苦難を運んでくるその部分を見詰めていたが。ふと視線を上げ、真っ正面からソラスを見据えた。

「なら、俺は戦います。あいつらのために……そして、隊長のために」
「……僕の?」
「はい。あなたが、俺に新しい腕をくれた。全部無くした俺に、戦う力をくれた……その恩に、必ず報いてみせます」

僅かな曇りもなく言い放たれたその言葉の強さに、ソラスは叫び出したくなるのを堪えた。胸郭の内側がじくじくと痛む、しかしそれは彼が受けるべき罰だ。理を曲げ、死に向かう命を戦いの場に引き戻した罪の報いとして、一生感じ続ける痛みなのだ。
心臓を蝕む苦痛が表情に出ていないことを祈りつつ、ソラスは出来るだけ優しく見えるように、顔を笑みの形に変えた。

「それは、ガントレットの移植が完全に終わってから言ってくれ」

冗談のような声音で、冗談のような内容の言葉を語る。ロッシュがそれを、冗談と受け取ってくれれば良いと思いながら。

「それに、そんな感謝はきっと直ぐに吹っ飛んでしまうよ? リハビリと動作訓練の苦労を味わえば、あの時そのまま退役していた方が良かったと思うようになるさ」
「…………」

しかしソラスの軽口を受けても、ロッシュはやはり静かに微笑むだけだ。
――その表情からは、どこまでも真摯な彼の想いが伝わってくるようで、ソラスはまた泣きたくなって目を伏せた。
いつか、彼のこの真っ直ぐな視線が、ソラスから外れるときが来たら。
呪われた過去を過去にし、未来を見詰めることができたら。
その時こそ本当に、彼を救ったと言えるのだろう。
それがいつ訪れるのか、そもそも本当に可能なことなのかは、今はまだ分からないが。

「大丈夫。僕がついている」

それでも、ソラスに許されるのは、もう前を向いて歩くことだけなのだ。
例えその先に、どれほどの苦痛が待っているとしても。




 ――――――




再び眠りについたロッシュを残し、ソラスは自らの研究室へと戻った。
扉を閉じたその足で、執務椅子へと倒れ込む。立っているのが辛いほどの倦怠が身を苛む、それは恐らく肉体的なものではなく、神経が疲弊しているが故のことだ。静かな室内に己の呼吸音が響くのを知覚する、ささくれだった心にはそれが酷く煩く感じて、ソラスはたまらず耳を塞いだ。

「っ……」

しかしそれにより、今度は体内の心音を強く意識してしまい、尚一層の苛立ちが引き起こされる。落ち着け、とソラスは自身に言い聞かせた。繰り返される負荷に精神が参りかけているのだ、落ち着いて間違えぬよう行動しなくては、何もかもを台無しにしてしまう。
だが、その負荷を己自身の行動と心が作り出している状態で、どうしたら鎮まることができるというのだろうか。道が見えずに頭を抱え込んだ、その時。

「……兄さん?」

控えめなノックの音と共に、扉の外で声がした。柔らかな、可愛らしい、ソラスにとっては光そのものを体現したかのような声。

「ソニア……?」
「良かった、兄さん、居たのね!」

よろりと立ち上がり、扉を開ける。それを待ちかねたかのように妹が飛び込み、ソラスの身体に抱きついてきた。

「兄さんの部隊が酷い敗戦に巻き込まれたって聞いたのよ。無事だとは教えてもらったけど、帰還したはずなのに家にも戻らないし……私、心配で心配で」
「ああ……すまなかった、すまなかったよ、ソニア」
「無事で良かった、でもお願いだから連絡くらいはして頂戴。兄さんに何かあったらと思うと、私」

半ばまで泣き出した声で訴えられ、ソラスは妹の頭をそっと撫でた。暖かい、彼女が産まれてからずっと触れ続けてきたはずの感触に、何故か今は泣き出したくなる程の痛みを覚える。
優しいソニア、こんな人間に育てられたのに、正しく美しく真っ直ぐに育ってくれた妹。ふいに強い衝動に駆られ、ソラスは彼女の身体を抱きしめた。

「ソニア、ソニア」
「……なあに? 兄さん、どうしたの?」
「お前は聞いたか。僕がロッシュにガントレットを移植したことを」

腕の中のソニアがどんな顔をしているかは、極近く寄り添った今の体勢では分からない。ただその気配が真剣になったことを、ソラスの全身が感じ取っている。

「……噂で聞いたわ。兄さん、それって」
「本当さ、全部本当のことだ。彼が左腕を失い、僕がそれを与えたんだ」

そして、彼は血塗られた苦難の道を歩むこととなる。ソラスの口元に嫌な笑みが浮かんだ。兄の様子に尋常ならざるものを感じたのか、ソニアが身を硬くして、ソラスに抱き付く腕の力を強める。

「兄さん」
「ソニア。僕は、間違っていると思うか」
「兄さん、何を言っているの」
「僕は、僕のしたことは、間違っていると思うか」

ソラスの身体が震える、救いを求めるように縋る彼の背に、ソニアもまた必死でしがみついている。まるで腕を離せば、兄が消えて失せでもするかのように。

「部下の不幸につけこんで、体よく研究の実験台に仕立て上げたと、お前もそう思うか」
「何を言っているの! 兄さん、兄さんはそんなこと……!」
「そうだ、そんなつもりなんてない。彼の腕を取り戻すためにはあれしかなかった……僕は、僕は間違ってなんていない」

ロッシュに与えた試作品、彼を実験体として進むであろう己の実験。
そこに、ほんの僅かであっても、喜ぶ気持ちは無いか。ラウルの言葉が思い出される、けして許さないと、断罪された記憶が蘇る。気付けばソラスの身体は、酷い病でも得たかのように冷たくなり始めていた。

「言ってくれ、ソニア、僕は正しかったと」
「兄さん……」
「僕のしたことは、彼にしたことは、正しかったと言ってくれ。僕は」

救いが、欲しかったのだ。誰かに、妹に、彼自身の良心そのものに、自分は間違っていないと断じて欲しかった。そうしなければきっと、罪の重さに潰されてしまう。
譫言のように繰り返すソラスの背を、ソニアが撫でる。その暖かさに、ついにソラスは耐えきれず、双眸から涙を溢れさせた。

「僕はただ、彼を助けたかったんだ……」

そう言って、震えるソラスが嗚咽を零すのを。ずっと親代わりに自分を守ってくれた兄が、子供のように泣きじゃくるのを、ソニアは呆然と受け止めていた。
その涙が枯れるまで、いつまでも。


いつまでも。




BACK / NEXT


セキゲツ作
2011.08.12 初出

RHTOP / TOP