敗軍の将として帰還したラウルを待っていたのは、人々の悲哀と同情、そして表だっては向けられないが確かに存在する、憤怒と侮蔑の視線だった。常勝と言われ、もてはやされていた彼が敗戦の憂き目をみたのだから、当然のものと言えるだろう。兵の、民衆の、そして彼に肩入れしていた権力者達の期待を裏切った結果の嘲笑……しかしラウルにとって、それは気にする必要もない些細な問題に過ぎなかった。兵士も含めた国民は所詮、自分の都合の良い英雄像を誰かの上に投影しているに過ぎない。権力者など論外である、彼らが行う政治抗争の駒になるためにラウルは戦っているわけではないのだ。だから、そんな者達からの評価など、地に落ちたところで何ほどの痛みもない。
ただ辛いのは、自らの指揮の元で戦い、命を落としていった部下達の存在だった。

「……中将」
「君か。珍しいね、ホールまで出向いてくれるなんて」

ラウルがアリステル城に足を踏み入れると、真っ先に彼の忠実な秘書が姿を現す。いつもは部屋で待っているのだが、こんな時は流石の彼女も、常の調子を保っては居られないのだろうか。急ぎの書類でもあるのかと言ってやろうとしたが、結局声には出さずに口を噤む。彼女の表情があまりに沈鬱だったからであり、同時に彼自身も冗談など言える気分では無かったからだ。

「はい。……お怪我は」
「無いよ、僕はね」

言葉の含む意味を察した秘書が目を伏せる、ラウルはそれを溜息でも吐きたい心持ちで見詰めた。余程自分は酷い顔をしているらしい、常日頃から傍に居る彼女は、まるで鏡のようにラウルの心情を写し取ってくれる。暗く沈んだ彼女の様子は今のラウルの姿そのものであり、それがどれほど惨めたらしく見えるか、誰に何を言われるよりはっきりとラウル自身に見せつけてくれるのだ。
しっかりしなければ、一度大きな敗戦をしたとはいえ、まだ戦争が終わったわけではない。むしろこれから、今回受けた損害を回復するため、さらなる戦いを仕掛ける必要すらある。

「すまないね、心配をかけて。まあこの通り、何とか戻ってきたから大丈夫さ」
「はい、ご無事で何よりです」
「これからの事後処理を考えると、頭が痛いけどね」

ようやく少しばかりの軽口を叩くラウルの瞳には、仄かな光が宿っている。それを見て取ったのか、秘書もまた少しばかり表情を明るくし……しかしそれは一瞬のことで、直ぐに真剣な色が取って代わった。

「中将、その前にお耳に入れたいことがあります」
「……何だい?」

彼女の表情を伺うまでもなく、このタイミングで切り出される話が、朗報なはずがない。ラウルは与えられる衝撃に備えて身構える、秘書はそれを確認すると、改めて口を開いた。

「ソラス隊の、ロッシュ小隊長のことなのですが」
「ああ」
「彼が大怪我を負って、本隊の撤退より先に城に戻されたことはご存知ですね?」
「……勿論。戦場で彼の姿を見たからね」

ソラス隊の隊員たちによって陣に運び込まれた彼は、死体と見紛うばかりの酷い怪我を負っていた。命の色を失い、ぴくりとも動かずに輸送前の応急手当を受けている姿を思いだし、ラウルの口元が歪む。炎魔法を受けたのだろう、重度の火傷を負った左腕――生きているのが不思議なほどの重傷だった、いや、そもそもアリステル城までの移動をあの身体で耐えられたかどうか。

「彼は今、まだ、生きて?」
「はい、一命は取り留めた、と聞きました」
「そうか……」

その言葉に、ラウルは短く息を吐いた。しかし命が助かったところで、あの左腕はもはやまともに動くことはないだろう。小隊長に就任して以来、戦果を上げ続ける彼の才能をラウルも注目していただけに、こうしてそれが失われてしまったのは辛い。そしてそれ以上に、彼に思い入れていた友人の存在が、ラウルの心に重く伸し掛かっていた。表情を暗くするラウルの様子を伺いつつ、秘書がさらに言葉を続ける。

「その、実際にご覧になったのならお分かりでしょうが、彼の左腕は」
「ああ……酷いものだった」
「はい。聞いた話では、殆どを切り落とすことになったそうです」
「……だろうね。あれほどの怪我だ、もう彼は戦場には……」
「それが、ですね」

珍しく、秘書の声がラウルの言葉を遮る。潜めるようなその声音に、ラウルは一瞬不思議そうな色を浮かべた。

「研究所で噂が立っているんです。ソラス大尉が、自らの研究の実験台に、彼を使うのだと」
「何だって?」
「私にも詳しくは分かりません。ですが、ソラス大尉の研究というと」
「……そうか、そうだ、あいつの研究は」

ガントレット、義手に魔動機械を仕込み、欠損した腕に装着する兵器。その存在を思い出したラウルの顔から、すっと血の気が引く。そうだ、忘れていた、彼には部下が失った戦闘能力を取り戻してやる手段があるのだ。しかしあれは確か未だ研究途中だと聞いている、いや、完成していない研究だからこそ実験台などという単語が出てくるのだろうが。

「それは、ただの噂なのかい? それとも」
「手術や実験設備の使用許可が出されているのは事実です。もっともソラス大尉ではなく、フェンネル技師の名義でしたが」
「そうだろうな、あいつも僕らと一緒に、つい先程戻ってきたばかりのはずだ。伝令を出して、先に準備を頼んでいたんだろう」

常日頃からソラスを好敵手と公言し、彼の魔動工学の才能を誰より認めていたフェンネルのことだ。彼が手こずっていた研究の実験となれば一も二も無く協力することだろう、その善悪など考えもせずに。

「くっ……一体何だって、そんなことを」
「ソラス大尉から、何か話は?」
「聞いていたらこんなに驚きはしないさ。さっき分かれるまでの間、全く何の話もなかった」

勿論それは不自然なことではない、ラウルはソラスの上官ではあるが、それはあくまで軍という組織においての話だ。研究に関する事項を一々ラウルに報告する義務は無い、しかし内容が内容なだけに、明確な意図を持って告げることを拒んだのではないかという勘ぐりも出来てしまう。

「何を考えているんだ、あいつは……」
「あれほど可愛がっていらっしゃった部下ですから、助けたいと思うのは自然でしょうが」
「ああ、それは分かるよ。だが本人の同意も無いうちから、実験段階の兵器を身体に埋め込むなんて、とんでもない話だ」
「……同意を得てから直ぐに手術に取りかかれるように、先に設備を押さえておいた、という可能性もあります」
「そうだな……勿論それなら構わない。だがそうでなければ」
「…………」
「すまないが、事後処理より先にやることが出来た。君は先に戻ってくれ、業務の整理を頼む」
「かしこまりました」

普段は仕事を後回しにするなどけして許さない秘書だが、この時ばかりは大人しく頭を下げ、ラウルの言葉に従う姿勢を示した。それを見届けるとラウルは踵を返し、城の地下へと続く廊下を歩いていく。

「…………」

秘書はそんなラウルの背を、気遣わしげに見守っていたが。やがてその姿が見えなくなると、密やかな溜息だけを残し、上司の帰りを待つべく執務室へと戻っていった。




 ――――――




「――あれは、素晴らしい素材じゃぞ!」

階下に降り、ソラスの部屋に向かうラウルの耳に飛び込んできたのは、興奮した男の放つ叫び声だった。嗄れたそれは、研究所の長であるフェンネル技師のものだ。身体の大部分を魔動機械に置き換え、声帯ももはや生身のものではない彼の声は、独特の奇妙な響きを持つ。それが今日は妙に耳障りに聞こえ、ラウルは眉を顰めた。

「あの体格、体力、精神力……そしてあれだけの損傷を受けて尚揺らがぬ生命力! いやいやソラスよ、お主本当に素晴らしい被験体を見付けたもんじゃのう」

老人特有の身勝手な上機嫌で話を続けるフェンネルだが、それに相対しているであろうソラスの声は聞こえてこない。ラウルは部屋の直ぐ傍まで近づくと、歩みを止めた。

「ふふん、勿論そりゃあそうじゃろ。しかしな、それにしてもあの男、研究のために用意されたと言っても過言ではないような逸材じゃぞ。正直、お主が先に申請しておらなんだら、ワシの研究に使いたいくらいじゃ」

部屋の中で、誰かが低く囁いているような気配がする。ラウルの耳には届かないそれに応えてか、フェンネルの大きな笑い声が響いた。

「分かっとる、分かっとる! あれはお主のもんじゃ、手を出すつもりなんぞ無いから安心せい」

室内に入り込もうかどうか、ラウルは僅かに思考を巡らせたが、結局その場に踏み留まることにした。別段立ち聞きする意図は無い、というか老人の戯れ言など聞いたところで何の利をもたらすものでもない。ただ、機嫌良くわめき散らすフェンネルの邪魔をすることで、余計な面倒を背負いたくはなかった。
そんな聴衆の存在など当然知ることもないフェンネルは、相変わらず廊下まで響く大声で喋り続けており、ソラスの存在は気配ばかりが感じられるのみだ。

「ワシは神も何も信じん、信じるのはただ技術とデータのみじゃ。しかしの、それでも敢えてこう言うぞ、これは運命じゃよ! あの男がお主の部隊に配属されていたこと、負け戦に参加していたこと、そして左腕が切断さたこと……全てお主の研究のために用意された材料と言って過言ではあるまい!」
「…………」
「なんじゃどうした、緊張しとるのか? まあそれも無理は無かろう、いくら生命力の強い個体と言えども、あれだけの怪我じゃとな。体力の回復具合を見極めるのも中々難しいじゃろう」

フェンネルの声音がやや落ち着いた、宥めるようなものへと変わる。この老人は本当に、どこまでも己の信じるものしか見ていないのだろう。ソラスが部屋の中でどんな顔をしているのかは分からない、しかしラウルには想像が付く気がした。

「安心せい、そのあたりはワシがちゃんとサポートしてやる。お主もいずれ、術式に耐えるだけの体力が戻ったかどうか見極める目くらいは持たんとな。損壊のある素材で実験を行うなど、これから先いくらもあるぞ」
「…………」
「ああ分かっとる、先のことはともかく今は目の前移植手術じゃ。そろそろ部屋の準備は出来た頃じゃろ、一旦様子を見てこようかの」

金属が擦れ、機械が駆動する音が部屋の中から響いた。と思うとラウルの前で扉が開き、やはり上機嫌な表情を浮かべたフェンネルが、異形の姿を現す。廊下に立ち竦んでいたラウルに、フェンネルはちらりと視線を向けた……しかし彼にとってラウルなど、城の柱ほどの意味も持たない背景に過ぎないようだった。直ぐに視線を進行方向に向けると、身体の代わりとする魔動機械を操り、さらなる地下に向かう扉へと姿を消す。
ラウルは数瞬、迷ったままそこに立っていたが、やがて。

「……ラウルかい?」

開いたままの扉から、ソラスが彼に呼びかける声が聞こえる。それを耳にしたラウルは、ひとつ息を吐き、室内へと足を踏み入れた。
部屋に入り、後ろ手に扉を閉めるラウルを、執務椅子に座ったソラスは冷えた無表情でじっと見つめている。その顔に相変わらず血の気は薄い、しかし戦場で見た激情の色は、今は消えているように思われた。少しの間で痩けた目元には、常の理知的な光が戻ってきている……しかしやはり、どこか追いつめられたような気配も共に有った。

「やあ。隊の統率を放り出して、何をやっているんだい」
「それは君こそ。敗戦処理は終わっていないだろう? 秘書殿が何と言うかな」

交わされる内容だけ聞けば常の軽口を言い合っているようにも見えただろう、しかし双方の目は欠片たりとも笑っていない。口元だけは笑いに見えぬこともない形を作っていたが、交わされる視線はむしろ死者めいた冷気を感じさせた。

「ちゃんと断ってあるよ。むしろ、ここに来ることを促してくれたのは彼女さ」
「ふうん? 珍しいね、あの人が君のサボリを公認するなんて」
「そうだね。それだけ、君の行動が心配だったんだろう」

ラウルの言葉に、ソラスはちらりと片眉を上げた。

「心配? それは光栄だけど……一体何に対しての心配なのかな」

本当に分かっていないのか、いやそんなはずはない。彼は全て理解していて、そしてそれをラウルが気付いていることも承知の上で、茶番めいた会話を仕掛けているのだ。ラウルの口が引き結ばれる、普段から素直な男ではない、しかし今の態度は奇妙に捩くれたものを感じさせた。

「……研究所で交わされている噂について、だよ。ソラス、君が実験を行う、という」
「へえ、そんな噂が立っているのか」
「知らないと言うのかい?」
「当たり前だろう、ラウル。僕は君と共につい先程城に着いたばかりなんだよ、噂なんて知る暇のあるわけがない」
「そうだね、それはそうかもしれない、だけど」

口角を上げて笑いに似た表情を作るソラスを、ラウルは正面から見据える。

「心当たりは、あるんだろう?」
「…………」
「少なくとも戻るに先駆けて伝令を飛ばし、フェンネル技師に設備の確保を依頼しているのは確かだ」
「……ああ、そうだね」

ふ、とソラスが顔を歪めた。笑い出すのかと思った、しかしその口から発せられるのは、低く沈んだ囁きだけだ。

「さっきの話、聞いていたんだろう?」
「フェンネル技師の、かい」
「ああ。随分な大声だったからね、廊下に居て聞こえないわけがない」
「…………」
「別に、立ち聞きを責めるつもりは無いよ。それに、説明の手間も省ける」

ひょいとソラスが肩を竦めた、勿論室内に居た彼が廊下の気配に気付いたはずもなく、これは単なるはったりだろう。だがラウルも別段否定はしない、扉の傍らで足を止めていたのは事実だし、それは今話したい内容の主軸ではなかった。確かめたいのは彼の真意、それのみだ。

「ソラス、君は本当に、彼を」
「ロッシュの左腕は失われる。いや、既にその手術は終わっているから過去形かな、上腕中程から切断されたそうだよ」

大切にしている部下の悲劇を、薄く笑いすらしながら語るソラスに、ラウルの背筋が冷たくなる。何処かが壊れてしまったのではないかという危惧を抱き、その瞳をじっと覗き込んだ――そこにあるのは完全に正気の色、確固たる考えと理性で道を選び取る強い光だ。しかしラウルは知っている、人間は狂気の力に頼ることなく、自らの意志のみで真っ直ぐに道を踏み外せることを。今の彼に良く似た光を宿す者を、政治の現場で、軍で、そして研究所で……ラウルは数多く目にしてきた。

「……それは、悲しいことだ。だけど」
「悲しい? そんな言葉で収まるものじゃないだろう」

ぎら、とソラスの目が光った。激昂に襲われかけたのか、肘掛けを掴んだ指が震えている。爆発しかけたそれはしかし寸前で止まり、叫びにならなかった息を、ソラスは大きく吐き出した。

「悲しいなんてものじゃない……許されない、ことだ。あれだけ才能に溢れていた彼が、戦う力を失ってしまうだなんて」
「そうだね……だが、残念だけど、こうして起こってしまった」
「ああ。でも、まだ取り返しがつく」
「ソラス」
「当たり前だろう? 僕には手段があるんだ、失われた彼の腕を取り戻す手段が」

にこりと、ソラスが笑う。歪むことなく、狂うことなく、力強い意志の力を宿した瞳で。

「…………」
「間違っている、とでも言いたそうな顔だね」
「……手段自体が間違いだと、僕に断ずることはできない。彼が戦い続けるために、君の研究は唯一残された道だろう」
「ああ、その通りだ」
「しかしそれは、本人の意思も確かめずに押し付けていいものじゃない!」

吐き出すようなラウルの言葉に、しかしソラスは表情ひとつ動かさぬままで。じっと、心の奥底まで覗き込むようなその視線に、ラウルは知らず身震いした。

「……意識があれば、きっとロッシュも同じことを望むさ」
「どうしてそう言い切れる? 直接聞いたわけでもないのに」
「聞かなくたって分かる……彼は戦士だ、それも生粋の」
「言い訳にしか聞こえないよ、ソラス。手術の開始を、彼の意識が戻るまで待つことはできないのか?」
「駄目だ。時間がかかれば切断部の神経が死滅してしまう、移植に耐える体力を回復させるだけで精一杯なんだ」
「だからといって……」
「この手術で上手くいかなければ、今度は肩近くまでを改めて切断し、そこに取り付ける方法になる。それはできるだけ避けたい、残った腕は出来るだけ多いほうが、ガントレットの操作には有利なんだよ」
「……ソラス、君は」

目前に居る友人がまるで知らぬ人間に見えて、ラウルの目が一瞬揺らぐ。彼の表情に浮かんだ怯えを見て取ったのだろう、ソラスはいっそ愉快そうにも見える笑みを浮かべ、ラウルをじっと見詰めた。

「ロッシュはこんなところで終わる男じゃない。あいつの才能は、僕が誰より知っている」
「それは否定しない、だが君は」
「僕は間違ってなどいない、これが唯一の手段なんだ」
「ソラス、落ち着いて考えろ。君は彼を、自らの研究に利用しているだけじゃないのか……!」

必死でソラスに呼びかける、今の彼は明らかに異常だ。狂気の色は見えない、冷静を損なっているようにも思えない、それでも普段の彼であればけして選ばないであろう選択肢を迷いもせず掴み取ろうとしている。そんな状態で道を選べば、きっと誰より彼自身にとって辛い結末が待っている。全てが終わってから後悔に潰されてしまう、そんな予感がするのだ。
――ラウルの言葉に、ソラスは、ふっと口を閉じた。浮かんでいた笑いが消え去り、面のような無表情がその顔を覆う。凪に似たその静けさを危ぶみながら、それでもラウルは言葉を続けずにはいられなかった。

「君の言葉は、ガントレットの移植を前提にしか語られていない。もう一度考えてみてくれ、そこに君が研究の成果を確かめたいという意志は全く含まれていないのか?」
「…………」
「君は、フェンネルや他の研究員達とは違う、研究の外の世界も知っている。だから分かるだろう、それは本当に正しいことかい? 君の研究を進める道具として、ロッシュを使おうとしているんじゃないのか」

その言葉によってソラスの瞳が揺らぐ、凪いだ湖面に生じた波紋は一瞬にして大きく広がり、そこに生まれたのは――嘲笑。

「ラウル」

口元を笑みの形に変え、瞳に嘲りの色を浮かべ。今まで一度たりとて見たこともないような表情をしたソラスが、ぎらつく目でラウルを睨みつける。

「君が、それを、言うのか?」
「……どういう意味だい」
「どういう、って。はは、まさか分からないとでも?」

瞳にあった先ほどまでの落ち着きは、一瞬にして燃え上がるような感情に取って替わられていた。無言で立ち尽くすラウルに、ソラスは椅子から立ち上がり、じわりと詰め寄ってくる。

「道具にしていたのは君の方だろう、ラウル」

そして、まるで呪詛でもかけるかのように。ラウルに向かって、呪わしい言葉を放った。

「ロッシュや僕を、君の政治のための道具にして。挙げ句に彼をあんなにしてしまったのは君の方だ」
「……何を言っているんだい、君は!」
「分からない? それとも分かりたくないのか?」

喉を引き攣らせるようにして、笑い声に似た音をソラスが発した。ラウルは動くことができない、だらりと垂らされた指が冷たくなるのが自分で分かる。

「ずっと、君は僕たちを駒として見てきたじゃないか。僕や、ロッシュや、他の兵達も」
「そんなわけが」
「無い? 全く一度も無いと言い切れるのかい、本当に?」

否を叫ぼうとした声は、しかしラウルの喉元で凍り付いたように止まってしまう。考えたことが無い、などと、言えるわけがない。ソラスのことを、ロッシュのことを、そして他の部下達のことを。手駒だと、自分の都合のために動かす存在だと、捉えていなかったはずがないのだ。

「……だが、それが戦争というものだ! 僕はそれを終わらせ、人が駒にならず済む国を作るため」
「その結果として、ロッシュはあの身体になったんだ!」
「…………!」
「いや、ロッシュだけじゃない。命を落とした大勢の兵士、彼らを殺したのも君だ」
「……戦争だ、命のやりとりがあるのは当たり前のことなんだ」
「だからどうした? それでも君が多くの兵を殺し、ロッシュの左腕を奪った事実は変わらない」

言葉を失い、蒼白な面で黙り込むラウルに、ソラスは痙攣めいた笑いを浴びせた。狂気をはらんだその音色に本能的な恐怖を感じ、ラウルは冷たい指先を握り込む。

「僕が助ける。僕がロッシュを助けるんだ、君に口出しする権利は無い」
「……ソラス!」
「何を言おうと言うんだ? 彼を利用して、そして左腕を奪った君が!」

叩きつけるように叫ぶ、それにラウルは答えることができず、ただ握りしめた拳を震わせるばかりだ。ソラスはそれを冷たい目で見ていたが、やがて表情を消すと、ラウルの横をすり抜けて扉へ向かった。

「僕は行くよ。手術の準備をしなくちゃならない」
「…………」
「大丈夫さ、必ず助けてみせる。彼は……ロッシュは、こんなところで終わる人間じゃない」
「ソラス」

名を呼ばれ、扉に手をかけたままソラスが振り向く。ラウルはそれを真っ直ぐに見据え、唇を開いた。

「確かに、彼の左腕を奪ったのは僕だ」
「…………」
「だから僕には君を止める権利はない、だけど」

彼は友人だ。部下だとか利用できるだとか、そんな都合は全て抜きにして、彼の気持ちの良い性格が好きだった。
だからこそ。だからこそ、彼には道を踏み外して欲しくなかったのに。

「もしほんの僅かでも、研究のために彼の怪我を利用する気持ちがあったら。……彼の腕が失われたことを喜ぶ気持ちがあったら」

まるでフェンネル技師のように、研究のために全てを踏みにじる価値観が、彼の中に僅かでも存在しているのであれば。

「僕は一生、君を許さない」

投げつけられた宣言に対して、ソラスは何も応えることなく。
そのままラウルに背を向け、扉を開けると、部屋を出ていった。

「…………」

一人残されたラウルは、耳に痛いほどの沈黙を感じながら、ゆっくりと部屋を見渡す。中央に引き出された鉄製の箱、蓋の開いたそれにはもう何も入っておらず、ぽかりと窪みが広がっているだけだ。ラウルはそれに近付き、そっと触れる。鋼鉄の機械を受け止めていた空間に手を置き、ふとその形を拳に変え。
そして、虚ろに開いたその箱を、殴り付けた。
何度も、何度も、皮膚が破けて血が流れるまで。
何度も、繰り返し、殴り続けていた。




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セキゲツ作
2011.08.08 初出

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