執務棟の廊下を歩きながら、ソラスは何やら考え込んでいるようだった。普段は優しげな顔に厳しい色を湛え、時折抱えた紙束に視線を落としては、その度眉間の皺を深くしている。彼を知る者でも、いや知り合いであればこそ声をかけるのを躊躇うような様子だったが、しかしそんな彼に気にせず話しかける者があった。

「ソラス大尉」
「……おや、ビオラ少佐」

一兵卒からその才能によって昇進を重ね、今ではアリステルの戦女神と呼ばれ軍内では知らぬ者の居ない女性士官。美麗な外見に不思議と似合う無骨な鎧を身に纏った彼女が、ソラスに向かって手を挙げている。ソラスはふっと表情を緩め、それに応えた。

「どうも。珍しいですね、あなたが城にいらっしゃるとは」
「ああ、丁度出陣から戻ったところでね、今報告を終えたところだ。貴官こそ、執務棟で会うのは久々では無いかな?」
「そうですか? 少佐が忙しくていらっしゃるから、お会いする機会自体が無いだけでしょう」

人を怠惰なように言わないでください、とソラスが主張すれば、ビオラも笑顔で応える。彼ら2人は年が近く、研究所と軍で場所は違えど、若い頃から大きな評価と責を背負って働き続けていた者同士だ。友人というほど親しい仲では無いが、似た立場として意識し合う関係ではあった。明示的に設けた席でなくとも行き会えば言葉は交わすし、その際巡りが悪ければ軽い皮肉の応酬になることもある。しかし今は双方、そこまでの攻撃性は持っていないようで、それ以上に雰囲気が悪くなる気配は無かった。

「そんなつもりは無かったのだがな、失礼した。今日は、ラウル中将のところへ?」
「ええ。少し相談したいことがありましてね」
「おや、それこそ珍しい話だな。隊の中で問題でも?」
「いえ……今度参加する、作戦行動についての話なんですが」
「作戦というと、ヒューゴ大将が発案なさったという、あの? 砂の砦を攻めるという……」
「少佐の耳にも入っていましたか、それなら話は早い。そう、それについてなのですが、少し気になることがありまして」

そこまで言って、ふとソラスが考えるような表情を見せた。

「……ビオラ少佐、今はお急ぎですか?」
「ん、いや事後処理は終わっているし、急ぐということは無いが。何か私に用事でも?」
「ええ。もしよろしければ、少佐の意見も伺いたくて」
「ふむ、それは……」

発しかけた言葉が中途で止まり、次いでビオラの視線がソラスの背後へと向けられる。つられて振り向くと、元来の訪問目的であるソラスの上官が、昇降機を降りてこちらに向かっているところだった。ビオラが一礼し、ソラスが手を振って存在を主張すると、向こうも軽く手を挙げて返してくる。

「おやおや、珍しい顔が二つ揃っているなあ」
「ラウル中将。お久しぶりです」
「やあビオラ少佐、出兵お疲れ様。今回も見事な結果だったようだね」
「有り難う御座います、部下達が力を尽くしてくれたおかげです」

高まる評判に似合わぬ謙虚な姿勢でビオラが応える、それは単なる社交的な謙遜ではなく、真に彼女が感じていることのようだった。恐らくそんな態度こそ、彼女が現場の兵士に絶大な人気を誇る所以なのだろう、彼女の横顔を見ながらソラスはそんなことを考える。ラウルも同じことを感じているのか、真摯な表情のビオラを微笑して見守っていた。

「そう、しかしその力を纏めるのも、指揮官の才というものだよ」
「お褒め頂き、光栄です。……ラウル中将も、今度また大きな作戦行動があるようですが」

そう言ってちらりと、ビオラがソラスに視線を投げた。ソラスが小さく礼をし、2人の間に割って入る。

「話の途中失礼します、中将。その作戦について、ちょっと中将に相談したいことがありまして」

傍らにビオラが居るからか、珍しく上官に対しての口調で語りかけるソラスに、ラウルは一瞬驚いたような様子を見せる。しかし直ぐに表情を引き締め、纏う空気を一軍の将としてのそれに切り替えた。

「分かった、僕の執務室で良いかな?」
「勿論です。ビオラ少佐……」

ソラスがちらりと視線を走らせると、ビオラもまた真剣な面持ちに変わる。

「中将、よろしければ少佐にもご一緒して頂こうと思うのですが」
「ビオラ少佐に? それは勿論構わないけど……少佐、自分の予定は大丈夫かい?」
「ええ、今日これから成さねばならない用事は、特にありませんので。中将が宜しければ同席させて頂きます」
「それならお願いするよ、戦女神と呼ばれる君の意見を聞けるのなら、これほど心強いことはない」

ラウルの言葉にビオラは苦笑に近い表情を浮かべた。しかし謙遜と否定を交わすだけの会話には倦んでいるのだろう、特段話を混ぜ返すことはせず、ただ曖昧な肯定の意を示すに留める。ビオラのそんな反応を確認すると、ラウルはすっと廊下の先を示した。

「決まりだね、じゃあ2人とも、部屋に来てくれ」

ビオラとソラスがちらりと視線を交わし、同時に頷きを返し。そして3人は、揃ってラウルの執務室へと移動することになった。



 ――――――



――扉を開き、ソラスが中をのぞき込むと、そこには無人の沈黙が満ちていた。

「秘書殿は、外出中ですか?」
「そのようだね。紅茶は……」
「ああ、構いません。世間話ではなく、相談に伺ったんですから」

言いながらソラスが、手に持った紙束を机の上に広げる。ラウルとビオラの視線が向けられるのを意識しつつ、ソラスは改めてそれを指し示した。

「今度行われる作戦の、概要です」
「先日、口頭で説明したものだね。書き起こしたのかい?」
「作戦を文書で残すなど、危険なことをするな」

咎めるような口調で眉を顰めるビオラに、ソラスはひょいと肩を竦めてみせた。

「ここから戻りましたら、間違いなく焼き捨てますよ。形にすることで見えてくるものもあるかと思いまして」
「ふむ、まあじゃあそれに関しては不問とするよ。で、これに何か問題でもあるのかい?」
「……問題が、あるかどうか。それを見てもらいたいんです」

ソラスの言葉に、ラウルとビオラは揃って不審げな表情を浮かべた。

「どういう意味かな?」
「実はね、ロッシュが……ああ、ロッシュというのは僕の部下で、小隊長を任せている者なんですが」

ロッシュを知らないビオラに向けて、簡単な説明を述べる。ビオラもそれで納得したようで、視線と言葉で先を促してきた。

「ああ。その者がどうかしたのか?」
「そう、彼にね、作戦の内容を説明したんです。そうしたら、何か嫌な予感がする、と言い出しまして」

厳しい顔でソラスが語る、しかしその内容があまりに曖昧だったためか、ラウルとビオラはどうにも納得できない様子で首を傾げている。一瞬思考を巡らせた後、ラウルがゆっくりと口を開いた。

「嫌な予感、か。何とも漠然としているね」
「ええ」
「具体的に、作戦のどの部分が不味い……という意見は出なかったのかな?」
「聞いてみたんですがね、そこまでは見当が付かないようなんです。ただ何となく、嫌な感じだと」
「ふむ……そのロッシュという兵、従軍後どれくらいだ? 単に大きな作戦を前に、無形の不安に駆られているということも考えられるが」
「それは、有り得ないとは言えませんが、可能性は低いでしょう。軍に入ってからはまだ半年経たない程度ですが、その前から傭兵として戦場には立っていると聞きますから」
「何よりロッシュの性情を考えれば、戦いへの恐怖で上官に不安を訴えるような行動を取るなど、とても考えられないね」

ラウルの言葉に、ソラスは首を振って同意を示す。他の者が言い出したのなら戦場を前にして精神が不安定になっている、ということで片付けられただろう。しかし相手はロッシュなのだ、彼の勇猛さと歳に似合わぬ落ち着いた指揮ぶりを良く知る身としては、新兵の戯れ言で終わらせることはとてもできない。
ロッシュ本人を知らぬビオラは意見を共有することこそ出来なかったが、しかしラウルの言葉は無視できなかったのだろう。それ以上は反論もせず、黙ってソラスが広げた紙片に目を通している。ラウルも彼女にに倣い、机の上へと視線を落とした――もっとも彼の場合、既に作戦内容は詳細な部分まで頭に入っているはずだから、確認に過ぎない動きだっただろうが。

「……どうですか?」

しばしの沈黙の後、焦れたソラスが声をかける、ラウルがそれを受けて顔を上げると、難しい表情で首を振った。

「うーん……やっぱり、これといって妙な点は見当たらないね」
「……そうですか」

ソラスが嘆息する、とはいえラウルはこの作戦の責任者なのだから、少し見て分かる問題点があれば、もっと以前に指摘していただろう。望みを託してビオラに視線を投げるが、彼女もやはり厳しい表情で、書類を睨み付けている。

「そうだな、見たところ問題になりそうな箇所は無い。むしろ、よく組まれた作戦だと言えるが」
「ソラス大尉、君はどうなんだい? 何処か気になる点は無いのかな」
「あったら直ぐに伝えていますよ。それが無いから、困っているんです」

ソラスも、ロッシュから訴えを受けて直ぐに作戦の内容を確認した。しかし何度見直しても、これという点は見付からなかったのだ。勿論ロッシュにも書き起こした概要書を確かめさせたが、彼自身にも具体的な原因は分からないらしい。問題の所在すらはっきりしないが、事が軍事行動なだけに、気のせいと断じて放置するのも躊躇われる。困り果ててラウルに相談しようと、こうしてやってきたのだが。

「うーん……」

頼みの上官もソラスと同じ意見に達してしまったようで、困惑した様子で首を傾げるばかりだった。何度も概要書と、恐らくは脳裏に再生した作戦の詳細を見直しているようだが、答えが見付からないのかその表情は冴えないままである。ソラスは気落ちして息を吐いた、勿論ラウルを責めるのは完全にお門違いというものだが、抱いていた希望が砕かれたのは確かだ。自分より遙かに軍隊の運用に詳しいラウルであれば、あるいは何か新しい情報を見付けられるかもしれないと思っていたのだが、しかしそれは敵わないようである。
男2人が揃ってうめき声を上げる、しかしそれを余所にビオラは、未だ真剣な表情を崩さずにひたすらに作戦書を睨み付けていた。――と、その視線がふと上げられ、ソラスに向けられる。

「……その兵が、このように不安を訴えることは、今までにあったのか?」
「いえ、これが初めてです。だから気になってしまって」
「そうだね、単なる恐慌でなければ、何か理由があってそう感じていると考えるのが自然だろう。とはいえ、その源になりそうなこと見付からないんだよねえ」
「そうですね……」

戦いというのは勢いや運任せで行うものではない、大勢の者が関わる作戦であればあるほど、行動の詳細まで精密に煮詰められているものだ。特に今回は、軍のトップであるヒューゴの発案を受け、常勝で知られるラウルが組み立てたものであるから尚更である。勿論実際に動き始め多時には予想外の事態や問題が発生するのだろうが、説明を聞いた時点で分かるような穴は存在しないように思われた。
結局は、経験が浅いうちに責任ある立場に立たされた兵が、精神にかかった負荷によって有りもしない危険を創造してしまったというだけなのだろうか。険しい表情でソラスとラウルが考え込む、その横顔をビオラの強い眼差しが捉えた。

「……現在の作戦段階では、明確な問題は見当たりません。しかし実際の行軍時に何かが起こる可能性は、確かにあります」
「まあ、それはね。今回に限らず、どんな作戦行動でも有り得る話だけど」
「ならば、その時の備えとして、私の隊を配備しておくのは如何でしょう」

――その言葉の意味を理解したラウルとソラスの顔に、驚きの表情が浮かんだ。一瞬の間を置き、ラウルの口から困惑混じりの言葉が流れ出す。

「少佐、君の部隊は作戦行動を終えて戻ったばかりじゃないか。それ以前にも連戦が続いているし、ここでまた出陣というのは無理が無いかい?」
「それに、そんなことを少佐の一存で決めても良いものですか? 上官から制止がかけられてしまうのでは」
「いや、それについては僕の方から調整できるから構わない。大きな作戦だから、参加して名を立てる機会を与えられるのは、むしろ好まれるだろうしね。ただ兵達に無理をさせてしまわないかが……」
「作戦実行は一週間後でしょう、休息を取るには十分な時間です。それに私の隊は、連続しての出陣に慣れていますから」

きっぱりと言い切るビオラに、ラウルはしばらく考え込む様子を見せた。それに被せるように、ビオラは言葉を続ける。

「戦士の勘を侮ってはいけません、中将。彼らは論理とは全く別の経路を辿って答えを導き出します、頭で考えて分からなかったからといって、そこに真が無いとは限りません」
「……そうだね、それは確かに。僕もソラスも理詰めで考える人間だから、何処か同じ盲点を持っているとも限らない」
「しかし少佐、本当に構わないのですか? 何も無ければ、完全に無駄な出兵だったということになってしまうんですよ」

ソラスの言葉に、ビオラは苦みを含んだような、あるいは宥めるような笑みを浮かべた。

「何も無いなら、それは作戦が無事に成功するということだ。何処に問題がある?」
「……少佐に対して、利点が何もない」
「利点など」

く、と小さな音を立てて、ビオラの喉が鳴る。浮かべた笑みが僅かに深くなり、優美な瞳がすうと細められた。どんな貴婦人も敵わぬほど美しく優雅な佇まい、しかしそこに潜む強さは鍛えられた鋼より尚硬く鋭いものだ。一瞬、喉元に切っ先を突きつけられたような錯覚を覚え、ソラスの背に冷や汗が伝った。

「君たちが勝利を収め、アリステルとその民の生活が護られる。それ以外に何か求めるものがあると?」
「…………」
「……よし、少佐がそう言ってくれるなら、甘えさせてもらいたいな。予感云々を別にしても、君の隊が補佐に付いてくれるとあれば、兵達の士気が違ってくる」

黙り込んだソラスの代わりに、ラウルが言葉を紡ぐ。真剣なその表情に、ビオラもまた真顔に戻って頷いた。

「勿論です、中将。これから直ぐ、上官に掛け合いますので」
「ああ、僕からも手を回しておくよ。直接……は行かないほうが良いかな、誰か人を使って」
「……すまない、2人とも」

交わされる会話に、感じてきた重圧が軽減されたのだろうか。今まで保ってきた軍隊口調を崩したソラスに、ラウルが笑みを浮かべた。

「何を言ってるんだ、僕自身が指揮する作戦なんだよ? 正直、君のためじゃあ全く無い」
「その通りだな。この作戦が失敗すればアリステルにとって大きな痛手となる、それを防ぎたいだけだ」
「はは……これは、手厳しい」

からかうような口調で言われ、ソラスもまた表情を苦笑の形に変える。

「それなら有り難く、女神様のご加護を受けるとしましょうか。これで僕も心置きなく出撃できるというものです」
「ふん、安心した途端に軽口が戻ってきたか。君はもう少し不安なままで居た方が良いのではないかな?」
「はは、まあまあ少佐、勘弁してやってくれ。彼が大人しいと、周囲の人間の調子が狂ってしまうんだよ」
「やれやれ……随分な言われようですね」
「普段の行いが悪いのがいけない」

しれっと言い放つビオラに、ソラスはひょいと肩を竦めて応えた。不貞腐れたようにも見える仕草だが、その顔に信頼に裏付けられた安堵が浮かんでいるのを、ラウルは気付いたことだろう。

「ともあれ感謝します、本当に気になっていたのでね。ひとつ重荷が下りた気分です」
「ああ、そういう予感は放置してはいけないからな。まあ、何も起こらず無事に作戦が終了すれば、それで良いさ」
「戦女神を動かして何も無かったとなれば、思い切り非難されそうですけどね……まあ、その時は本人を連れてお詫びに向かいますよ」
「予感を感じた当人か、うむ、そうしてくれ。今度は要らぬ不安に惑わされないよう、軍人としての覚悟を叩き込んでやろう」
「そうだね、僕からも頼んでおくよ。無事終わったら、鍛え直してやってくれ」

ようやく緊張の解れた様子で、3人が笑い合う。無事作戦が終われば、こんなやりとりも全て笑い話に出来ることだろう。抱えてきた不安を払拭するように兆す希望を、ソラスはじわりと噛み締めた。





――だがしかし、その想いは、最悪の形で裏切られることになる。




一週間後、砂の砦攻略戦。

常勝を誇っていたラウル隊が、初めての大敗を喫した戦だった。







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セキゲツ作
2011.07.28 初出

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