周囲に満ちるのは、悲鳴と怒号。あちこちに散らばる戦いの気配は交戦中ならば当然のことだが、不味いのはそれの多くに敗色が濃厚なことだった。いやそれ以前に、ラウルが居る本陣近くで、これほど多くの戦いが起こってしまっているのが既に問題なのだ。元々の作戦では奇襲に近い形で砂の砦に攻め込み、最低限の被害でこれを奪取する予定だったのだが、その計画は今や大きく崩れてしまっていた。
「報告します、裁きの断崖守備隊、現在敵部隊と交戦中! 形勢は我が軍に不利、至急援軍を……!」
「分かっている、今左翼攻撃隊を下がらせている。援護に向かわせるから、到着したら合流して撤退を図れ」
「了解しました!」
「報告します、潜入部隊、ほぼ壊滅!」
「くっ、生存者は! 1人も居ないのか!」
「いえ、2人が離脱とのこと。現在右翼攻撃隊に合流し、共に撤退中です!」
「そうか……」
飛び込んでくるのは自軍の不利を知らせる情報ばかりだ。それに加えて本陣周囲まで戦闘が迫っているという惨状、もはや勝敗が決したことは明白だった。ラウルの知略を持ってしても形勢を立て直す余地は無い、可能なのは如何に被害を少なく抑えるかの努力、それのみだ。
ラウルは歯噛みしつつ、必死で戦場の様子を探り、一つでも多くの部隊を逃がす方法を模索する。しかし敵軍はこちらの懐深くまで入り込んでおり、退避の道筋が中々見付からないのだ。急激な撤退は大きな隙を生む、そこを伏兵に襲われてしまえば、全軍の壊滅を招きかねない。しかし戦線は既に圧され始めており、時間をかければやはり待っているのは甚大な被害だ。焦りが脳を侵すを感じる、それが思考を鈍らせぬようにと、ラウルは必死で理性を働かせた。
「……とにかく、離脱の道筋を作らないと」
常勝を誇っていた彼にとって、これが初めての大きな敗戦だ。勝利を目指して戦うのとは全く違う、全身を浸すような恐怖が、彼の手足を冷たくさせる。周囲の兵全てが自分に救いを求めている、そんな感覚を覚えてラウルは拳を握りしめた。恐らくそれは錯覚ではない、今この危機を乗り切って一人でも多くの兵を生きて祖国に帰すのが、総指揮官たる自分の役目なのだ。
吐き気がするほどの緊張感に、ラウルは大きく息を吸った。そこに、待ち望んでいた希望の光をもたらす報告が飛び込んでくる。
「報告します、ビオラ隊、敵部隊を撃破! 引き続き伏兵部隊と交戦開始しています!」
伝令の言葉に、兵達の喉から歓喜の声が沸き上がる。ラウルの顔にも安堵の色が浮かんだ、緊急時の備えとして後方に配備されたビオラ隊、それが今まさしく軍を救うために機能しようとしている。本来ならば存在しないはずの舞台で、しかしビオラは見事に役割を果たしているようだった。ラウルも気合いを入れ直す、これで彼女の隊までに被害を及ぼしてしまえば、自分に指揮官たる資格など無い。可能な限りビオラ隊の動きを助け、効率的に敵の伏兵を排除して本隊の帰還する道筋を作る手順を、瞬時に頭の中で組み立てる。
「よし、守備隊のうち半分を出撃させてくれ。ビオラ隊に付き、複数の部隊に囲まれるのを防ぐんだ」
「なっ!? し、しかしそれではここの守りが……」
「本隊が帰還できないというのに、陣だけを確保しても意味が無い。今はまず彼らが無事戻るための道程を確保するのが先決だ」
厳しい表情でラウルが言い放つと、守護兵も気圧された様子で首を縦に振る。伝令の兵が走り去り、本陣を固めていた部隊が出撃するのを確認すると、ラウルは改めて周囲の気配を探った。相変わらず濃く立ち込める死と恐怖の暗雲、しかしその中に一本走る細い光が見える。それはビオラ隊の働きであり、同時に彼女に勇気を与えられた兵達が奮起した力の証でもあった。この作戦が失敗なのは間違いない、しかし壊滅的な被害だけは避けられそうな気配が、ようやく兆し始めている。
「報告します、右翼攻撃隊、帰還しました!……いえ、訂正します、一部隊が先に到着しました!」
「っ! よし……何処の部隊だ」
「ソラス隊です!」
伝令の告げた名に、ラウルの心臓が大きく動いた。戦場に私情を持ち込むのは愚の骨頂というものだが、それでもあの男は、アリステルにとって宝と言って良い才能を持っている。こんなところで命を落として良い人間ではない、そう感じているだけに、隊の帰還報告には安堵の念を覚えずには居られなかった。
「現在、負傷兵を後方に輸送中……」
「ラウル!」
伝令の言葉を遮って声が響く、視線を向ければ今まさに名を挙げられたばかりの男が、ラウルへ向かって駆け寄ってくるところだった。激しい戦いの中で負ったのだろう、額と左腕には大きな傷跡が開いている。回復魔法で塞いではあるが、出血量は多かったようで、普段より青ざめた顔色が彼の表情に悲壮な気配を添えていた。
「戦況はどうなっている、帰還できた兵はどれくらいだ!」
「……極めて悪い、と言わざるを得ないね。帰還は君たちの隊が最初だ。本陣から砂の砦までの間に、かなりの数の敵部隊が配置されていて、撤退に至る道筋が作れないでいる」
アリステル軍が攻め込み、また引き払うための道に伏せられた敵部隊――解せないのは、その点だった。敵側の領地深くに多くの兵を待機させても、相手の作戦開始を待つ間に哨戒の兵に発見され、無為に戦力を減らす可能性が高い。さらに言えば、実際にその道が使われず、その戦力が完全に無駄になることすらある。
危険ばかり多い行為、普通の戦略ではまず考えられない配置だ――それこそ、攻め込まれる時期と経路が確実に分かっているのでなければ。
「どうにかならないのか、取り残された兵はどうなる!」
「分かっている! 現在ビオラ隊を中心に、隊が抜けるための道を作っている最中だ!」
声を荒げるソラスにつられ、ラウルも大声で叫ぶような口調になってしまった。落ち着け、と自分に言い聞かせる……上の動揺は、そのまま兵達に伝わってしまう。平静を失った部隊ほど脆いものはない、彼らの命を守るためにも、将であるラウルが己を失うわけにはいかないのだ。
「とにかく、今焦るのは逆に危険だ。確実に……とはいかないだろうけど、少なくとも挟撃を受けない程度まで敵の数を減らしながら、徐々に戦線を後退させる」
「……分かった。無事な兵を率いて、僕も出る」
「何を言っているんだ、その怪我で。これ以上損害を増やすわけにはいかない、後方で負傷者の手当を……」
「駄目だ、ロッシュの小隊が残っているんだ!」
ソラスの叫びに、ラウルの目が大きく見開かれた。握り締めた拳に、力が込められる。
「撤退の時に本隊と分断された、結果的に囮のような形になってしまって……恐らく敵兵の中に孤立してしまっているはずだ」
吐き出すようにソラスが言う、その瞳にぎらつく激情と恐怖が映し出されているのが、ラウルの目にははっきりと見て取れた。思考が迷いに揺れる、怪我の具合や精神状態を考えれば、後方に待機させるべきなのは確かだ。しかしソラス自身がそれを肯定するかと言えば、間違いなく否だろう。部下を案ずるあまり完全に我を失っている彼に命を下したところで、大人しく聞き入れるとは思えない。ラウルは覚悟を決め、ソラスを見据えた。
「……場所は、どのあたりだい」
「分断されたのは、裁きの断崖東南。そこからさらに東に走るのが見えた」
「よし、その辺りは既にビオラ隊が通っている、ある程度の安全は確保されているはずだ。君たちの隊は、生存者の捜索と負傷者の保護を主として出撃してくれ」
「……分かった!」
ソラスの目に光が宿る、踵を返して駆け出す後ろ姿は、何者にも止められぬ強硬な意志で満ちている。
ラウルは、アリステルという国に生まれ育ちながら、さほど熱心にノアを信じているわけではない。特に救いを求めて縋ったことなど一度もない、望むことは全て自分の手で実現すべきと考え、実際にそれを貫き通して……しかしそんな彼ですら、今この時は、何かに祈らずにはいられなかった。ノアでも良い、他の何かでもいい、絶望の中に一筋の光を与えたまえと。ソラスが走る先に、彼の望むものが有ってくれるようにと、無意味と知りつつ祈らずにはいられなかったのだ。
「……報告します!」
しかしやはり、祈りはただの祈りであって、何の効力も持たぬ思考の流れに過ぎない。今ラウルがすべきは、可能な限り多くの兵が生き延びるため、指揮を取り続けることだ。ラウルは一つ首を振って雑念を振り払うと、新たな報を受けるために、駆け寄ってきた伝令に顔を向けた。
――――――
本隊から分断されてから、どれくらい時間が経っただろうか。体感は完全に当てにならないが、さりとて太陽を仰いでその角度を確認する余裕すらない。ただひとつ確かなのは、時が過ぎるに従って徐々に小隊の人数が減っているという事実だった。
「っ……」
ロッシュが足を踏み出す動きに従い、下生えを抉る湿った音が響く。それをかき消すのは、ほぼ同時に鳴らされた、肉を貫く鈍い音だ。命の炎を叩き消された相手は槍が抜かれると同時に大地に崩れ落ちる、それを見届ける間もなく、ロッシュは身を翻して新たな敵と向かい合った。
「小隊長っ……」
「分かってる、逆方向へ走れ! 森に紛れれば、まだ逃げ切る可能性はある!」
叫びながら、行く手を遮る敵兵を打ち倒すべく槍を振るう。相手も当然それをかわそうと身を捩るが、年齢からは考えられぬほど見事に操られる槍が、その動きにすら追随して攻撃を叩き込んだ。鋭い先端から深く広がる突撃槍が、敵兵の身体に致命的な穴を穿つ。しかしまだ命が途切れた訳ではない、最後の逆襲を恐れて、ロッシュは槍に乗った体重を大きく振り飛ばした。周囲を囲んだ敵兵はそれで全て居なくなる、しかし代わりに直ぐ近くまで新たな敵部隊が迫ってきていた。交戦の気配を感じて付近の部隊が彼らに向かってきてしまっているのだろう、先程から襲撃が繰り返され、それを凌ぐのに精一杯で逃げに集中することができない。こちらに矛先が向く分、陣へと待避する本隊の安全は高まっている筈だが、ロッシュの小隊にとっては致命的に近い状況だった。辛うじて全滅だけは免れているが、生き残った兵の数は既に10を下回り、もはや小隊としての動きを取るのも難しくなっている。
しかしそれでも、まだ生きている者は居るのだ。幸いにして新手が現れたのと逆方向に目指していた森がある、そこに逃げ込んで身を隠せば生き延びる希望は繋げられる。
「走れっ!」
残った者達を追い立てるように声を上げながら、己もしんがりとなって走り出す。敵は直ぐ近くまで迫っている、弓矢か魔法であれば届かぬこともない距離だ。背を向けるのは致命的な隙を見せることになりかねない、しかし正面切っての戦いで生き残るだけの余力は、もはやロッシュ小隊に残っていなかった。今は僅かな可能性にかけ、森へと走る他無い。
近接する死の予感に背筋が冷たくなる。ロッシュ1人ならば、囮となって死を迎えたところで、何も構うことはない。しかし隊員達の命は、ロッシュに預けられたいくつもの命は、絶対に守り抜かねばならない。もはや数えるほどに減ってしまってはいるが、それでも残った者達だけでも、生きてアリステルへと帰してやるのが彼の役目なのだ。ロッシュは、動き続けて限界が近い右腕に握った槍を、それでも過たず振り回す。彼らに向けて放たれた矢が、それによって叩き落とされた。敵部隊はもうそこまで迫っている、連続する戦いが蓄積させた疲労により、ロッシュ達の走る速度が落ちているのだ。森まではまだもう少しの距離がある、このまま走り続けても、そこに辿り着く前に追いつかれてしまいそうであった。身を隠すものの無い平原で交戦に入れば――待っているのは、全員の死だ。
そこまで考えが至ったところで、ロッシュの瞳がすうっと細められた。
「…………そのまま、逃げろっ!」
叫ぶ。全身の力を込め、可能な限りの大きさで。振り向かずとも、止まらずとも聞こえるように、そしてそれに逆らおうなどという気の起こらぬように。ロッシュは己の足に力を込め、走るために乗せられていた勢いを地面に向けて叩き付けた。音にならぬ音と共に体重を受け止めた土が抉れる、その反力を借りて、ロッシュはそれまでと真逆の方向へ身体を振り向かせた。
「あああああっ!」
気合いを声に乗せ、今の今まで逃げていた相手に対して、真っ向から突っ込んでいく。時間を稼がなければならない、少しでも彼らが生き延びる確率を上げるために。一分一秒でも長く、向けられる追撃の手を食い止めなければ、小隊全員がここで命を落として終わりだ。守らなければ、自身の命に代えても。彼に寄せられた信に応え、報いるために。
突如単身で向かってきたロッシュに、敵部隊は一瞬警戒に怯む気配を見せた。しかしそれは瞬きするほどの間に過ぎず、直ぐに勢いを取り戻し、追撃を再開する。半個小隊ほどの人数とはいえ相手となるのはロッシュ一人、部隊の進撃を止めることなく打ち倒し駆け抜けられる、そう判断したのだろう。
勿論ロッシュとてそんなことは分かっている、二桁に上る人数をたった一人、しかも連続した戦闘と逃亡で体力を削られた身体で食い止めることなど不可能だ。しかしそれでも、ほんの僅かなものであっても、光が大きくなるならばその可能性に縋らざるを得ない。敵部隊が近づく、交戦範囲に入る直前に放たれた矢は、しかし動きながら発射されたためかロッシュを狙い撃つには到らない。唯一身に届きかけた一本を僅かに進路を変えて避けると、ロッシュは大きく一歩を踏み出し、最も接近した一人に向けて槍を突きだした。
「……ふっ!」
無為無策に振るわれたようにも思えるその一突きは、しかし空中で舞うように向きを変え、避けるための動きを見せた敵の手元から武器を弾きとばす。耳に痛いほどの金属音、驚きに歪んだ敵兵の顔は、しかし次の瞬間与えられた衝撃によってさらに醜く引き歪むことになった。ロッシュはそれを見ることもせず、ただ相手の身に食い込んだ槍を引き抜いて、それをそのまま他の兵に向かって振り抜く。
「がっ……」
「落ち着け、抜けられる者は抜けろ、相手は一人だ!」
「…………」
そう、いくらロッシュの腕が立つとはいえ、ここに居るのは一人のみなのだ。それも目的は敵のせん滅ではなく、彼らの足を止めること……その無謀さに、今更ながら笑い出したくなってしまう。だが、それでも成さねばならない。ロッシュは左に構えていた盾を手放し、倒した一人の剣を空いた手で奪って、やや離れた位置を走り抜けようとしていた者に投擲してやった。遠くはない距離のこと、速度を乗せた刃は狙い過たず敵兵の一人に突き刺ささり、濁った悲鳴が上がる。しかしその時にはすでにロッシュは走り出している、彼らの接近を許すわけにはいかない、全員は無理でも一人でも多くの動きを止めなければ。森に近づこうとしていた一人を背後から追撃し、勢いのままその背に槍を食らいつかせる。
(ああ、先程までとは逆の立場にあるな)
ふと、頭の片隅にそんな戯れ言が浮かんだ。それは断じて余裕ではない、むしろ極限に追い込まれた故の、思考の逃避だ。酷使された全身は随分前から悲鳴を上げており、無視して動かし続けた結末としての強制的な停止は、恐らくもう目前までやってきている。それでも休める状況ではないのだから、この袋小路ときたらどうにも逃げる道が見付からない。それにきっと、見付かったとしても、ロッシュ自身がそれを選ばない。
目の前の敵が苦鳴を上げて崩れ落ちる。ロッシュはやはりそれを見届けることはせず、瞬時に次の獲物を定め、駆け寄るために脚に力を込めた。
「引け、一旦引け! 間を空けろ!」
何処かで叫びが聞こえる、その意味を理解する余裕などない、ただ今は戦わなければ。戦って、戦って、彼らの動きを止めるのだ。ロッシュが走り出す、しかしそれは僅かに遅い、逃げに転じた相手は直ぐに追いつき交戦に入れる距離から外れてしまっている。一瞬ロッシュに迷いが生じた、別の獲物を探すべきか、それとも脚に任せて追い続けるべきか。脳の一部で周囲の気配を探る、その動きがほんの少しの隙を生んで。
それが、致命的だった。
ロッシュの身の直ぐ近くで、爆発的な熱量の高まりが生じる。理論ではなく本能が理解した、自然では有り得ない形で生じたそれは、開いた空間を狙って発せられた魔法によるものだ。ロッシュの命を奪うという純粋な意図によって生み出された熱は、凄まじい速度で育ち、今にも形を得てロッシュに向かって牙を剥こうとしている。
逃げるか、否、それは不可能だ。間近で発生した炎は、物理的な動作で避けられるほどの時間をロッシュに与えてくれない。見る間に大きくなっているそれの、恐らくは瞬きをする間にも満たないであろう変化は、何故か奇妙にゆっくりと感じられた。死を前にして感じる時が引き延ばされているのだろうか、魔法の動きも周囲の声も、どろりと遅い。これで自分だけが普通に動けるのなら避けることも出来たのだが、当たり前にロッシュ自身も泥濘のもどかしさに囚われてしまっている。だから、逃れられない。この先に起こる事実から、ロッシュはけして逃げることができない。
(だから、選べ)
頭の隅から声がする、道を選べ、と。熱い死の牙を何処で受けるか、それが最後に与えられた選択肢。
盾。盾はもう無い、先程攻撃手段を得る代償に手放してしまった。
槍。槍で受けたところで、全ての熱量を受け止めきれるはずもない。金属の持つ冷酷なまでの比熱の低さ、それに従って届けられた熱を受けて、彼の利き手は焼き落とされる。
胴。論外だ、自らの命を死神の元に差し出す趣味は、ロッシュには無い。例えそれが、時間にしてほんの少しの違いしかなくても。
だから、選べる道はひとつだけだ。
その選択に従い、ロッシュは、何も持つものの無い手を差し出し。
左腕一本で、生じた熱塊を押さえ込んだ。
「っ…………!!!」
間を置かず完全に魔法が発動し、形を得た炎がロッシュの左腕に食らいつく。餌を与えられた歓喜に咽ぶ緋色の舌が、指先を、甲を、腕を、肩口を、嘗めるように駆け上がった。視覚でそれを認識してしまった一瞬後、凄まじい衝撃が脳を揺らす。
「が、……っ!」
熱い、とも違う。痛い、でもない。あまりにも大きすぎるが故に純粋な衝撃としか認識されないその感覚が、ロッシュの思考全てを奪い去る勢いで脳の中身をかき回した。与えられた苦痛に反応して瞳孔が収縮しているのか、視界が急激に暗く染まる。意識の制御を失って震える唇からは、堪えきれない苦鳴が洩れた。
許容の限界を超える痛みをロッシュに与え、それでも熱の勢いは止まらない。身を守るはずであった手甲は、篭手は、圧倒的な熱量を得て腕を焼く凶器となった。炎そのものが薄れて消えた後も、押し当てた焼き鏝のようにロッシュの肉に食い込み、生命が通っていた肉を淡々と炭化させてゆく。身の含む水分が蒸発する音を聞いた気がして、ロッシュの目元が大きく歪んだ。
「あ、ぐ、っ」
それでも未だ折れぬ心が、現状の認識を求めて身体の状態を探る。感覚を働かせれば必然として送り込まれる激痛を必死で堪え、身を動かそうと試みるが、混乱した神経系統はそれを正常に伝えてくれない。踏みだそうとした脚はもつれ、ロッシュは下生えの上に倒れ込んだ。
「よし、残りを追うぞ! まだ間に合う、一人も逃がすな!」
ざあざあという大雨のような雑音が、耳元で鳴っている。脳内をでたらめに走る電気信号、それを縫ってどこか遠くから聞こえてくる会話が、ロッシュの思考に届いた。その意味に理解が及んだ途端、ロッシュはそれでも離さなかった槍の柄を、強く握りしめる。止めなければ、あれを止めなければ。もはや思考を通り越した本能に近い想いが、ロッシュの心を支配していた。立ち上がろうと腕に、脚に力を送り込む、しかしそれは意図した通りに働いてくれず、無為な痙攣に近い動きで発散されるばかりだ。止めなければ、立ち上がらなければ、戦わなければ、しかし身体は動いてくれない。筋肉を制御しようと意識を動かしても、送り込まれるのは酷い苦痛ばかりで、ロッシュは顔を歪ませた。痛みの源たる左腕を切断してやりたい衝動に駆られる、動きを阻害するばかりの部位なら要らない、切り離して走り出せるものならいくらでも捨ててやる。
「走れ、まだ遠くへはいっていないはずだ!」
兵達が倒れ込んだままのロッシュの横を通り過ぎていく、もはや戦う力は無いと判断されたのか、ロッシュに止めの刃を向ける者は居なかった。
金属音が煩い、だがそれより煩いのは、ロッシュ自身の心音だ。耳障りにどくどくと動き、無意味に生命を主張し続ける。声にならない声でロッシュが叫ぶ、無為な生を続ける力があるなら、何故それで腕を、脚を動かさない。無駄に動く心臓など今すぐ止めて、そして全てを戦う力に換えて、一人でも多くの敵を倒さなくては。そうしないと、彼の隊が。守るべき命が。
動け、動いてくれ、それが最後でもう二度と動かなくても構わないから。
「……、……」
しかし、ロッシュの祈るような願いに、彼の身体は応えてくれず。
最後まで槍を握りしめたまま、しかし立ち上がることはついに出来ずに、ロッシュの意識は闇に落ちた。
――――――
――ロッシュの小隊と分断された付近までやってくると、戦いの痕跡は直ぐに見付かった。交戦しながら逃げたのだろう、その跡は森に向かって長く伸び、途中にいくつもの死体が散らばっている。追い詰められながらも彼らはかなり善戦したようで、転がる死体にはグランオルグの兵装が多かった。しかし合間には確実にアリステル軍の兵が混じっており、その姿を視認する度、ソラスの背に冷たい汗が伝う。
「……どうやら、森に逃げ込んだようだな。生き残りが居るとしたらそこだろう、半分は先に森の捜索に入ってくれ」
「はっ」
「ここはもうビオラ隊が通った後だが、何処に生き残りの兵が居るか分からない。特に森では視界が悪くなる、必ず二人以上で行動し、十分に周囲に気を配るんだ。何かあったら直ぐに叫んで知らせること」
「了解致しました!」
ソラスの命を受け、連れてきた兵のうち半分が森へと走る。ソラスはそれを確認すると、残りの兵と共に周囲の散策に移った。道から逸れたところに逃げ込んだ者が居ないか、倒れている中に息がある者がないか確かめていく。
「…………」
ソラスと共に確認を行っている隊員達の表情は険しい、同じ隊で戦ってきた仲間達の死を目の前に突きつけられているのだから当然だろう。しかも彼らは、ある意味ソラス達本隊を逃がすための囮にされたようなものなのだ。意図して行ったわけではない、しかし結果として彼らに敵部隊の攻撃が集中し、一方で狙いが薄くなった本隊は無事本陣に辿り着くことが出来た。血と泥にまみれて絶命した彼らの身体に触れ、そこに命の気配が残されていないことを確認するたび、心臓の中心に鈍い痛みが走る。
「……生存者は」
「今のところ……居りません」
暗い声で返される答えに顔を歪めながら、ソラスは必死で捜索を続けた。軍人として何度も戦いに参加しているのだから、部下の死に立ち会うのもこれが初めてのことではない。しかし一つの小隊全てを失ってしまう程の被害を受けたことは、今まで無かった。転がる死体の中に見覚えのある顔を見付ける度、胃の腑が冷たくなっていく……そして同時に、それが「彼」で無かったことに僅かな安堵を覚えてしまう。自らの身勝手さには吐き気を催す程の自己嫌悪を感じるが、それでも彼には、ロッシュだけには生きていて欲しかった。彼の才能を見出し、育て続けたソラスにとって、その未来がこんなところで途切れてしまうのは耐えられなかったのだ。
――しかし、その願いを残酷に裏切る光景が、さほどの時間を置かずして彼らの前に姿を現してしまう。
森の少し手前に転がっていた、数体のグランオルグ兵と、一人のアリステル兵。彼が握りしめた見覚えのある突撃槍を見た瞬間、ソラスはひゅうと息を飲んだ。
「……あ、」
気のせいだ、と感情が主張する。似た武器を持っている誰かが居たのだ、それだけだ、あれが彼であるはずがない。
だが、冷静さを捨てられない理性がそれに反論する。部隊の中に突撃槍を使っていたのは彼一人だ、他の隊の者が戦いの中突然現れるはずもない。だからあの槍を握っているのは間違いなく。
もつれそうになる脚で、ソラスはそこに近付き、倒れた兵の顔を確かめた。
「っ…………」
胃の内容物が逆流しそうになるのを、必死で堪える。瞼を閉じたまま横たわるロッシュの、血の気が完全に失われた面に、叫びだしたいような激情を覚えた。ソラスの様子に気付いて近づいてきた部下も、言葉を失い立ち竦んでいる。それはソラスが正気を失っているからではなく、ロッシュの身体に与えられた酷い損壊が故だろう――何しろ左腕一本が丸々炎で焼かれているのだ。見える部分の肉は黒く炭化し、熱によって凶器となったのであろう防具が、そこにしっかりと食い込んでいた。目に見える範囲で、他に大きな外傷は存在しないから、彼は生きたままこの責め苦を受けて倒れ伏したことになる。吐き気を催したのか、部下の喉がぐう、と鳴った。薄れかけてはいるが、周囲にはまだ肉と布と金属が焼かれた異臭が残っているから、それが原因かもしれない。
「か……確認を」
それでも彼は気丈に、職務を遂行しようとロッシュの身体に触れた。ソラスは未だ衝撃から立ち直れず、その動きを視線で追っている。動かなければ、まだ生き残りが居る可能性は残っているのだから、探索を続けなければ。分かってはいるが、身体がそれに従ってくれない。
「なっ」
そんなソラスの目を覚まさせるかのように、目の前の隊員が叫んだ。驚きに目を見開き、触れた掌でロッシュの首を大きく撫でると、弾かれたように顔を上げてソラスに視線を送ってくる。
「いっ、生きています!」
「…………なんだって?」
「まだ息があります、おい、誰か! 回復魔法を使える奴は居るか、手伝ってくれ!」
叫びを上げる部下を余所に、ふらりとロッシュの身体に近付き、恐るおそる首筋に指を押し当てた。伝わってくる体温、そして酷く弱くはあるが、確かに存在する鼓動。ソラスの脳裏が、一瞬白く染まった。
「い、きて」
震える手で、何度もその感覚を確かめる。生きている、彼はまだ生きている……だが、当たり前だが放っておけば、最後に残った力も尽きてしまうだろう。ソラスは殆ど考えることもせず、ロッシュの胴に手のひらを押し当て、全力で回復魔法を発動した。
「生存者が居たぞ、集まれ! 本陣に輸送するんだ!」
そして大声で隊員達を呼び集める、これほどの大怪我となると、回復魔法程度ではその場しのぎにもならない。一刻も早く陣に、そして本国に戻し、本格的な治療を受けさせなくては。ソラスの声に応じて隊員達が集まってくる、それを背にしたソラスは、伏せたまま倒れていたロッシュの身体を返して仰向けにさせた。動かした拍子に、完全に炭化していた指が数本、ぼろりと砕けて落ちる。その光景に誘発されたのか、いくつかの低い呻き声が聞こえてきたが、ソラスは構わずもう一度回復魔法を発動させた。本陣までの移動に足りる生命力を呼び起こすためには、どれくらいで足りるのだろうか、本職の医者ではないソラスには分からない。だから己が出来る限りの強さで、何度も何度も繰り返し魔法を発動させる。
「隊長、輸送の準備ができました!」
「ああ……分かった、頼む」
やがて部下の声に振り向くと、そこには簡易の担架が作られ、後は患者を乗せるばかりになっていた。滲む汗を拭い、ソラスはロッシュの身体を移動させようと、その身に手をかける。
――と。
「…………」
施された回復魔法で一時的に生命力が高まったのだろうか、ロッシュの目が、ゆっくりと開かれた。
驚きに声を無くすソラス達に気付かぬまま、しばらく視線は力弱く虚ろにさまよっていたが。やがてソラスの姿を認識すると、拡散していた焦点が一気に収束し、瞳に強い光が宿る。
「たい、ちょ」
「……! ロッシュ、喋るな! 大丈夫だ、今直ぐ陣に連れていくから……」
「も、りに」
「ロッシュ?」
「もり、に……しちにん」
掠れた声は酷く聞き取りづらかったが、それでも彼が何かを伝えようとしていることは明らかで、ソラスは口元に耳を近づけた。
「まだ、いき、のこり……しちにん……もり、に、にげ」
ふいにロッシュの右腕が動き、ソラスの腕を掴んだ。死を目前にした人間とも思えぬ、いや、だからこそ発揮されるのかもしれない強烈な力で指を食い込まされ、ソラスの表情が歪む。
「たい、ちょう……は、やく、たすけに……」
「……分かった、森だな。大丈夫だ、今捜索に行っている」
ソラスの言葉がロッシュの理解の淵に落ちるまで、しばらくの時間を要したようだった。数秒の間を置き、ロッシュの瞳に宿っていた光が、ふっと安堵の色を帯びる。
「大丈夫だ、後は任せるんだ。今はとにかく、自分が生きることを考えてくれ」
「…………」
その声がロッシュに届いたかどうか、それは分からない。ソラスの言葉が終わるか終わらないかといううちに。ロッシュの瞼は閉じられ、手からもすうと力が失われてしまった。それ以上はもう動く様子を見せない彼を担架に乗せるため、隊員達が駆け寄る。そして同時に、別動隊として動かしていた者達が、森から戻ってくるのが見えた。
「……生存者は?」
「残念ながら、一人も……」
「発見できた遺体は、何人だ?」
「全部で、7人になります」
「……そうか」
望みを打ち砕く報告に、ソラスは天を仰いだ、周囲には重い沈黙が漂っている。
「全滅……ですね」
「いや、まだだ。……ロッシュ軍曹は、まだ生きている」
ソラスの言葉に、部下は辛そうな表情を浮かべ、顔を俯かせた。視線の先には、転がされたままのロッシュの突撃槍がある。
「ええ、しかしあの怪我では、もう戦場に立つことは」
「…………」
その言葉には応えず、ソラスは拳を握りしめた。焼け焦げた左腕、半ばまで炭化し殆どの皮膚が焼け爛れたそれが機能することは、もはや有り得ないだろう。それどころか、良くて肘まで、悪くすれば左腕全てが切断される可能性も高い。片腕を丸ごと失ってしまえば、もう二度と戦場に立つことはできなくなる……あれほど、素晴らしい戦士だった彼が。その才能で必ずアリステルの未来を背負うことになると確信していた彼が、もはや日常生活もままならぬ姿で軍から放り出されるのだ。
ソラスは奥歯を噛み締め、顔を正面に向けた。そして周囲の部下のうちから、最も脚の速い一人を見付けると、その元に駆け寄る。
「今出発した輸送組を追いかけて、共に本陣に戻ってくれ。伝令を頼む」
「はっ、了解しました。何と?」
「本国の研究部に、こう伝令を出すように伝えてくれ。『ガントレット研究の被験者を確保した、フェンネル技師に応援を願う。移植手術の手配と準備を頼みたい』」
言われた部下は、その顔に驚きと一筋の恐怖を浮かべた……もっともそれは戦場にそぐわぬ内容よりも、ソラスの吐き捨てるような語調と、敵にでも向けるような険しい視線のためだっただろうが。
「書き付けが必要か?」
「い、いえっ……大丈夫です、了解しました。確かにお伝えします」
しかしソラスの重ねての確認に、上官に従う軍人の本能が蘇ったのか、表情を引き締めて敬礼を返した。そして踵を返し、先行した者達を追いかけて走り出す。
「……終わらせない。こんなところで、終わらせはしない」
その背を見ながら、ソラスは一人言葉を零す。ロッシュの才能は、未来は、こんなところで途切れるべきものではない。彼の道を終わらせはしない、どんな手を使ってでも救ってみせる……自分には、そのための手段があるのだから。
「ロッシュ……君はまだ、終わるべき人間じゃない」
呟き続けるソラスの目に、狂気にも似た光が宿っていたことを、彼自身が自覚していたかどうか。今はまだそれに気付くものもなく、ただ収束し切らぬ戦いの音が、遙か遠くから微かに聞こえてくるばかりであった。
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セキゲツ作
2011.08.03 初出
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