研究室に帰り着くと、ソラスは大きく息を吐き、椅子に身を沈めた。自分の領域に戻ったからか、身に溜まった疲れが一気に吹き出してくる。全身を包む倦怠が、物理的な重みを伴って伸し掛かってきていた。直ぐに動く気も起こらず、ソラスはぼんやりと視線を泳がせ、取り留めもなく思考を遊ばせる。
感覚に残る戦場の風、成さねばらぬ事後処理、妹の心配そうな表情、戦勝に酔った部下達の嬉しげな顔、腹の底が冷えるようなヒューゴの視線、先ほど見たばかりのロッシュの傷跡。考えとも言えぬ切れ切れの情報と感情が、ソラスの脳をくるくると回る。緩く頭を振れば、視界の端に、机の上に積まれた書類が入り込んできた。出陣中に運び込まれたのだろう、適当な所作で積み重ねられたそれは、気付いてしまえば鬱陶しいほどの強さでその存在を主張してくる。上に置かれた一枚を手に取り、読むでもなく視線を走らせると、どうやら備品の購入申請の戻りらしかった。しかも隊のものではなく、研究室で使う品……どうも研究所と軍の書類が混ざって置かれているようで、その乱雑さにソラスは溜息を吐く。研究室の容相が示す通り、彼は几帳面で整頓好きな性情だ。整えられた部屋の中で唯一ごちゃりと置かれた書類に、溜まった疲れがいや増すのを感じる。
勿論それらを処理するのはソラスの仕事だ、さらに言えばここに積まれている分だけでなく、新たに作成しなければならない文書もある。しかし今はまだ取りかかる気になれない、ソラスは書類を揃えるだけ揃えて未処理文書用の紙入れに放り込むと、椅子から立ち上がった。そして壁際に置かれた巨大な物体、ソラスの身長の半分以上に達しようかという鉄製の箱に手をかける。
「よっ……と」
持ち上げるためには複数人が必要な重量物だが、底面に車輪が取り付けられているため、高さを変えず移動するだけならソラス一人でも十分可能だ。そうして中央の作業台近くまで持ってきてから箱を開くと、そこにはやはり巨大な鉄製の、武器のような何かが収められていた。ソラスはそれを取り出して作業台に乗せ、横の椅子に腰を下ろす。
台の上に横たえられたものは、酷く歪な円筒を二つ、組み合わせた形状をしていた。ただの鉄塊ではなく魔動機械の一種であることを示すように、片側の端から幾本もの導線が飛び出している。もう片側には鋭利な爪のようなものが5本取り付けられており、そこだけであれば熊か何かの手にも見えないことは無い。円筒部は片方……導線の側がもう片方の半分ほどの長さで、二つが繋がれた場所は、どうやら可動式の継ぎ手になっているらしかった。関節とも言えるその部分で全体が分けられているが、実際はもっと細かい部品で構成されているようで、よく見れば接合箇所と思われる線が表面を走っている。
ソラスは慣れた様子で手をかけると、複雑に組み合わされた部品を、器用に外していった。いくつかの操作で外殻が取り外されると、中にはさらに細かい可動部品が配置され、それらに繋がれた太い繊維が無数に走っている。専門外の人間には総体で『機械』と認識するのが精々の代物だが、当然ながらソラスにとってはそれらの部品ひとつひとつ、配置の全てに意味がある。彼は広げられた中身を見詰めたまま身じろぎもせず硬直していたが、やがて傍らに置かれた画帳を取り上げると、徐にペンを走らせ始めた。
「…………」
何やらぶつぶつと呟きながら線を重ねられていくそれは、見る間に何かの図面と思われる姿を成していく。器具も何も使わず描かれるそれは、にもかかわらず驚くほど正確で精密だ。一見で目の前に置かれた機械と似た形をしているのが判別できるが、さらによく見れば細部が大分異なっていることが分かっただろう。しばらくソラスは、素描のような図面を描き続けていたが、やがて呻き声を上げてその手を止めた。
「あー……駄目だ駄目だ駄目だ」
図面はその時点でかなり細かい部分まで書き込まれていたのだが、ソラスは迷いなく画帳から破り取り、細かく裂いて屑入れに流し込む。
「そうじゃないんだよなあ、細部を弄ったところで大した効果は出ない、所詮微調整の範囲でしか改善できない。もっと根本的なシステムを変えたほうが良いのか? だけど……」
考えがそのまま口に出てしまっているのだろう、呟くというには大きすぎる声で独り言を発しながら、ソラスはぐしゃりと頭をかき回した。歪めた顔のまま再び紙にペンを走らせる、しかし今度は先程のような整然とした図になる様子がない。
「結局、コアパーツの保護外殻が大きさを決めちゃってるんだよな。厚みを減らして耐衝撃力を保てる設計を追求するか……それともコアパーツの拡張スロットシステムを諦めるか? しかしなあ、それじゃあ単なる……」
誰に言うでもなく話し続けながらソラスはペンを動かすが、それはもはや作図ではなく、単なる手遊びになってしまっているようだった。線が重ねられる度に明らかになる形は、何やら動物の姿をしているのが見て取れる。そしてさほどの時間を置かず、意識を向けられていない割には妙な躍動感を持つ鶏らしき絵が完成した。と、ソラスはそこでペンを置き、片手で傍らを探る様子を見せる。何かを掴もうとする仕草を数回繰り返してからその動きを止め、そこでようやく視線を上げて手の先を見詰めた。
「……あー、そうか。まだ淹れてなかったっけ」
ぼそりと呟くと画帳を放り出し、大儀そうに立ち上がる。普段はそこに紅茶を置いているのだが、遠征から帰った直後の今は、当然ながら何も準備されていない。それをすっかり忘れていたソラスは、望んだ味が口に入らなかった空虚に眉をしかめながら、改めて紅茶を淹れるため竈の前に立った。着火した竈の上に水をかけると、そのまま椅子に戻ることはせず、揺れる炎をぼんやりと見つめている。集中から解き放たれた直後だからか、その表情は未だ現実に帰りきらないそれのままで、視線も見るとも言えぬ脆弱なものだ。
と、そんなソラスの意識を引き戻すように、扉を叩く音が室内に響いた。
「ソラス隊長、いらっしゃいますか」
続いて聞こえてきた声は、少し前に医療フロアで別れた部下のものだった。治療が終わり、言い置かれた通りに報告に訪れたのだろう。
「はいはい、今開けるよ!」
大声で応えを返しながら、ソラスは竈から離れて扉に向かい、施錠を外す。
「やあ、ロッシュ。治療は終わったのかい?」
「……はい」
ロッシュの表情が僅かに歪む、応えを発するまでに些かの間を有したのは、思い切りぶつけられたソニアの怒りが脳に浮かびでもしたのだろう。しかし取り敢えずきちんと手当は受けてきたようで、剥き出しになっていた額の傷は無事分厚い布と包帯で覆われている。その様子を確かめると、ソラスは安堵の笑みを浮かべた。
「良かった。これからも放置したりせず、ちゃんと医療部で治療してもらうようにね」
「はあ……気をつけます」
微妙に頼りないロッシュの返答に苦笑しつつ、彼を室内に招き入れる。
「適当に座って。丁度茶を淹れるところだったんだ、ついでに飲んでいってくれよ」
言いながら茶器を出し、沸いた湯を火から下ろす。ポットに適当な量の茶葉を放り込み、湯を注ぐと、二人分のカップと共に机に戻った。
「いえっ、そんな、申し訳ないです……」
「自分で飲む用に淹れてただけで、別に態々用意したってわけじゃないから、気にすることないよ。ほら、座って」
立ったままのロッシュを強引に椅子に押し込めると、自分も執務机の椅子に座った。相変わらず背筋の伸びたロッシュに呆れ交じりの感嘆を覚えながら、紅茶が出るのを待つ。
「ソニアの治療はどうだった?」
「はっ……その、えーと」
「はは、随分手荒くやられたみたいだね。一応庇っておくけど、普段はもっと丁寧なんだよ」
「そうなんですか?」
「勿論、専門に学んでいるんだから腕は確かさ。ただ今回は随分怒っていたからね……本当は、感情が仕事に影響するようじゃ、まだまだなんだけど」
「確かに、まだお若そうなのに、手際は見事なものでした。隊長の妹さんということは、お年は」
「言ってなかったっけ、まだ14だよ。君より年下だね」
「へ、14歳……!」
ソラスの言葉に、ロッシュの目が丸くなる。
「14歳……その歳で医療部に、って」
「勿論正式に働いているわけじゃないよ、大学で医療を専攻しているんだけど、人が少ないから手伝いに駆り出されているんだ」
「大学……ですか。14歳で……」
「うん。魔動学も同時に専攻してるから、授業との両立で随分大変そうなんだよな」
「…………」
身内のことでつい失念しがちだが、考えてみれば14歳で医者と同等の仕事に従事できるというのは、普通の範疇ではない。ロッシュの反応にそれを思い出し、兄馬鹿がちらりと顔を出してしまう。驚きに言葉を失ったロッシュの様子に満足しつつ、ソラスは今度こそ仕事の顔に戻り、話題を切り替えた。
「それはともかく、報告を聞かないとね。君の小隊の分は報告をもらってるから、今度は隊全体の動きについて頼むよ」
「ああ、前にも聞かれた、あれですか」
「そうそう、それ。それぞれの小隊がどんな動きをしていたか、ちょっと描いてみてくれ」
勿論、各小隊の長からはそれぞれ報告を受けており、報告書に纏めるだけならば態々ロッシュから話を聞く必要はない。ソラスが知りたいのは、ロッシュがどれだけ周囲の様子を把握しているのかだ。ソラスは彼を小隊長で終わらせることなく、士官としてさらに大規模な指揮を行わせたいと思っている。そのために他の小隊の状態までを把握する癖を付けさせたいと考えて、少し前の出陣から、戦いが終わる度に同様の質問を投げかけているのだ。
目の前のロッシュは、ソラスのそんな思惑など知る様子もなく、与えられた問題に応えるため素直に記憶を呼び起こしているようだった。ソラスは先程まで研究に使っていた画帳に、先日の戦場を簡略化した地形図を描いてみせる。
「最初の陣型がこれだね」
「はい。で、まずうちと第三、第四小隊が前に出て……」
考え込みながら、ロッシュが図に各小隊の動きを書き込んでいく。時系列に沿ったそれらの情報は、ソラスの記憶や各小隊長からの報告と、かなりの部分で一致していた。時折ソラスが補足を入れる必要はあったが、それも頻繁に起こるわけではない。その正確さにソラスは内心舌を巻いた、贔屓目でなく、彼の戦況を捕らえる能力は小隊長の域を越えている。
「……うん、良いね。良い記憶力をしている」
「有り難うございます」
「内容も殆ど正しいし……僕の代わりに報告書を作って欲しいくらいだよ」
「それは勘弁してください、難しいことを考えるのは苦手なんですから」
慌てて首を振るロッシュに、苦笑が零れる。彼にはソラスの目的は伝えず、ただ報告書作成のために意見を聞きたいとだけ言ってあった。ロッシュは能力が高いにも関わらず自意識が低いところがあるから、いずれの話しとはいえ上士官に取り立てたいなどと言えば、萎縮させてしまうことは間違いない。小隊長に就任させることすら苦労したのを考えれば、事がソラスの野望で留まっているうちは、ロッシュ自身に伝えるのは避けたほうが良いだろう。
だからそれ以上は何も言わず、ソラスはずっと置いてあった紅茶のポットを手にとり、二つのカップに注いだ。
「あ、そういえば紅茶がありましたね。すいません、忘れてました」
「いや、良いんだよ。僕は濃い方が好きだし」
カップを満たす液体は明らかに通常の紅茶の色をしていないが、ソラスは平然とそれを口に運ぶ。ソニアが居たら怒鳴られそうな苦みを有する液体が、舌の上に広がった。ロッシュも供されたそれを、恐るおそるといった様子で口にした……途端、表情が渋いものへと変化する。
「ああ、御免よ。苦かったかい」
「いえ……大丈夫です」
しかし文句も言わず飲み下すのは、上官に対する遠慮故か、それともあまりに普通に飲んでいるソラスを前に言い出せなくなってしまったのか。とにかく一口だけ口を付けた紅茶を机の上に戻すと、ロッシュはふと、作業台の上に目を向けた。
「……そういえば、さっきから気になってたんですが。これは一体何なんですか」
彼の視線が注がれているのは、先程までソラスが向き合っていた『機械』だった。中身を露わにしたままで台の上に残されているそれの姿は、確かに通常では見られない光景であり、しかも置かれているのは目立つ作業台の上だ。気にするなという方が無理というものだが、真面目なロッシュのことだ、報告を行うまではと話題に出すのを控えていたのだろう。仕事の話が途切れたところで、抑えていた好奇心が戻ってきたのかもしれない。
「ああ、それかい」
「研究ってやつですか? 何だか……よく分からないもんですが」
「そうだよ、今の僕の研究テーマ。ガントレット、魔動機械で動く義手なんだ」
「義手?」
不思議そうにロッシュが首を傾げる、外殻を外され、複雑な部品を曝した今の姿と、「手」という言葉を結びつけるのが難しかったのだろうか。それに気づくとソラスは、外してあった部品を取り付けてやろうと、傍らに置かれたそれを手にとった。
「研究に関係しているのに、こんなところに置いちまって良いんですかね? 研究所は相当警備が厳しいって話を聞きますけど」
「まあ、本当は見えるところに出したままで人を入れちゃ駄目なんだけどね。相手が君だし、鍵はかけてあるから他に人は入ってこないし、ばらしてあるのを元に戻すのも面倒だし構わないかなあと」
「構わないことはないでしょう、面倒の一言で横着しないでくださいよ」
ロッシュは苦笑しつつも興味深げに、ソラスの手元を眺めている。分解されているといっても、内部を見るために外側の部品を外しただけの状態だ、さほど時間を取らず組み付けることが出来た。直ぐに完全な形に戻ったガントレットをロッシュが眺める、しかしその表情から疑問の色が払拭されることはない。
「……義手、ですか」
「ああ、これは肘から上を切断した時に使うものなんだ。上腕中程から切断したと想定して、ここが腕との接続部分、ここが肘。こっち側が手にあたる部分で、武器にもなるように爪が取り付けてある」
丁寧に説明してやると、ようやく少し納得した様子で首肯を返してくる。
「肘まである義手なんて、初めて見ましたよ。手首や肘までが……って奴は、たまに見ますが」
「肘を含む義手の作成は技術的に難しいし、身体に負担もかかるからね。今まではこの形状の義手は、殆ど作成されていなかったんだ」
「ああ、成る程。でも、隊長はそれを研究しているんですよね」
「そうだね、補う手段が無いくせに、上腕部を切断する事例が少ないわけじゃない。そういった怪我を負ってしまった兵は、義手を使うことも出来ずに戦場を去り、その後の働く場所にも日常生活にも困ることになる……だから、この形の義手を研究してみようと思ってさ」
肘の部分に手を置きながらソラスが語る、ロッシュはその姿を真剣な眼差しで見詰めている。強い視線に些か照れを覚えながら、ソラスは言葉を続けた。
「義手の割合が大きければ、身体に負担がかかるのも確かだけど、その分魔動機械を多く仕込めるという利点もある。単に身体の動きを模倣させるだけじゃなく、生身じゃ出来ない力を発揮させられるんだ。実用化すれば、今までなら退役せざるを得なかった欠損を得ても、現役であり続けることが出来るようになる」
「……凄い技術ですね」
「でもまだ、完成にはもう少し届かないんだけどね。理論通りの働きはするんだけど、重大な問題が解決しなくて」
「問題ですか。それは……いや、聞いても俺じゃ分からんでしょうが」
「いや、そんなにややこしい話じゃないんだよ。まあつまり、その……重過ぎるんだ」
実に単純な、魔動工学など欠片も理解しない男でも分かる単語に、ロッシュは目を丸くした。きょとんとした顔のまま、交互にソラスとガントレットに視線を送る。
「……確かに、でかいですね」
「この大きさで鋼鉄製だからね、僕でも両手で抱えないと持てない」
そしてそれを身体に取り付け、且つ動いて戦うとなると、常人以上の体格と筋力が必須となる。兵器として考えるならまだしも、傷痍軍人を救うという目的からすれば、欠陥品と言っていい品だ。
ガントレットの研究でソラスと競っているフェンネルも同様の問題を抱えているのだが、彼は使用者の全身を魔動機械で覆うことで、肉体が耐えきれない重量を支えようとしているらしい。それは確かに一つの選択肢だろう、だがそうなると人と機械で主従が逆転してしまう。ソラスはガントレットが、人に使われる道具であるという体裁を崩したくなかった。
主となるは使い手である人間であり、魔動機械はあくまでその力を補佐するもの、それがソラスの理念である。人が機械を使うのであり、機械に使われてはならない……それはフェンネルを始めとした多くの研究者達と立場を異にするものだったが、研究という分野は、多数決で正当性が決まるものではない。己の正しさを証明したければただ研究結果でのみ語るべきであり、だからこそソラスはガントレットの研究に打ち込んでいるのだ。
「これを取り付けられる人間となると、相当に限られてくる。もっと万人に向けるための改良が必要なんだ」
「そうですね、こんなデカブツ、普通の奴じゃあきついでしょうや」
「ああ、だから現物が完成していても、まだ実際に動かしたことはないんだよ。丁度良い被験者が居なくてね」
ソラスは嘆息を零し、ガントレットに視線を落とす。この機械を装備するには、恵まれた体格を持ち、尚且つ片腕を上腕から切断している必要がある。ソラスも、退役軍人を中心として適合者を探してはいるが、今のところ条件に合う者は見付かっていなかった。意識から外れたところで、自らの研究品を掴む指に力が篭もる。焦りがあるのは事実だ、実際に使用したデータが取れなければ、どんなに研究を進めたところで机上の空論に過ぎない。逆に言えば、使用者を見付けて実戦でデータを集められれば、詰まっていた部分の解決策を探る糸口にもなるかもしれないのだ。
被験者を「作る」、その選択肢に惹かれたことが無いと言えば嘘になる。身寄りが無く社会的地位も低い、居なくなっても問題の無い人間の身体を条件に合うように作り替える、それは研究を進めるためにに研究所――主にフェンネルが取ってきた手段のひとつだ。表に出れば非人道を罵られるに違いない行為だったが、研究所の、いやアリステルの暗部として、誰も止める者無く続けられている。
だが、ソラスはそれをしなかった……できなかった。研究者の持つ人を人とも思わぬ狂気は、ソラスの中にも確かに存在する。しかし彼にはまだ墜ちきらない何かが残っていた。それはおそらく妹を慈しみ育てる中で形成され、同時に国民を守る軍人としての経験が確固とした、人としての心なのだろう。それがソラスの理性を強く奮い立たせ、踏み越えてはならぬ領域に向かう彼の精神を引き留めているのだ。
……揺らぎかけた思考を自覚して、ソラスは首を振った。焦ってはいけない、根気強く探せばきっと被験者と成り得る人間は見付かるし、そうでなくとも地道な理論構築から改良を重ねていけば今より良い結果には到達出来るはずだ。研究者の業に牽かれて人の道から外れることだけは避けなければならない、愛する妹のためにも。
そんなソラスの葛藤は、きっと少なからず表に出ていたのだろう。向かい合うロッシュの表情が一瞬気遣わしげなものに変わり、次いでそこにはっきりした笑顔が浮かんだ。
「やっぱり、隊長は凄いですね」
「ん、何だい突然」
「こんな立派な研究をして、同時に軍人としても働いて。凄い人です」
「……そんなことはないよ、研究員といっても今はこれ一本しか関わっていないし。大体完成しても、兵器としての威力は微妙なところだと、上層部には睨まれているんだから」
「そうなんですか? 俺はそうは思いませんが」
暗く落ちかけた思考に引きずられ、自己卑下の色を濃くし始めたソラスのつ発言に、ロッシュはきっぱりと言葉を返した。
「そりゃ魔動機械のことはさっぱりですから、威力がどうとかは分かりません。でもそれで助かる人が居るんです、凄い研究じゃないですか」
「…………」
その声に込められた強さに、一瞬ソラスは声を失う。ふ、とその表情が柔らかなものに変わった。
「助かる人、か。そういう見方もあるかな」
「ええ。だって助かるでしょう、腕を失ったのにまた戦えるんですから」
「ははは……それは確かにそうだ」
ロッシュの言葉はあまりに直裁で、見方を変えれば愚かとすら思えるほど真っ直ぐなもので。しかし、だからこそソラスが望んで目指し続けた理想を違うことなく射抜いており、それによる歓喜に流されそうになるのを堪えねばならぬほどだった。
これこそが、ソラスが評価するロッシュの魅力なのだ。不思議な程に平らかな目線……偏見にも先入観にも惑わされぬ、水平で公平な視線を物事に注ぐことが出来る平衡感覚。それは、宗教国家であり一定の思想教育が行われているアリステルでは、中々見られないものだ。それを再度認識し、ソラスは低く息を吐いた。
「ともかく、そんなわけでもう少し軽量化できないかと、現在努力の真っ最中というわけさ」
「それで、戻ったばかりなのに早速研究を始めていたんですか」
「あー、うん。まあ……そんなとこかな」
本音を言えば、単に書類作成に取り掛かる気力が無く、現実逃避に利用していただけなのだが。ぎこちなく笑うソラスの様子に、ロッシュも薄ら真実を察したのか、真っ直ぐだった笑顔も微妙な苦笑に変わってしまう。
「ロッシュ、やっぱり報告書の作成、手伝ってくれないか?」
「無理ですって、俺で何の手伝いになるっていうんですか」
「大丈夫、さっき報告してもらった内容を、ちょっと文章にすればいい話だから」
「ちょっと、で済むことじゃないでしょう! 大体俺、字を書くのもやっとなんですよ。軍の書類なんて作れるわけ無いですって」
「だったら尚更今から練習しておかないと。な、頼むよ!」
「無茶言わないでください……!」
拝み倒す勢いで頭を下げる上官の姿に、ロッシュは慌てて逃げの体勢を取る。それを引き留めようとするソラスだったが、さすがに上下関係を尊重するロッシュと言えど、この理不尽な要求に応えてはくれないようだった。身体を捕まれないようにソラスから距離を取り、素早く部屋の入り口近くに対比する。
「で、では俺はこれで」
「でも今日は訓練は無いはずだろう? もう少し」
「いやその、装備や備品の手入れがありますから! 失礼します!」
後ろ手で器用に鍵を開け、殆ど逃げ出す勢いで部屋から退出したロッシュを、ソラスは大分本気で気落ちしつつ見送った。全部押しつけられるなどとはさすがに思っていなかったが、多少でも手伝ってもらうことができれば、ソラスの気分も上向くし彼の勉強にもなったというのに。
「まあ、でも仕方ないか」
一人ごちて、大きく伸びをする。ロッシュの真面目さに付け込んで無理を押しつけるのは、上司とはいえさすがに不味いだろう。文書作成の練習をさせられなかったのは残念だが、あまり焦っても良い結果は得られないものだ。これから徐々に書類に対する苦手意識を軽減して、少しずつ手伝いを任せていけば良い。
そう考えると、疲れと倦怠も少しは和らいだ気がする。ようやく山積みの仕事と向き合う気力を得たソラスは、先ずは放置されたままのガントレットを片づけるため、息を吐きつつ作業台に足を向けた。
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セキゲツ作
2011.07.18 初出
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