アリステル城において将校用の執務室は、密偵や暗殺者が潜り込む危険を減らすために、城の上階に集められている。その区画に入るためには昇降機か階段を使う必要があるが、当然どちらの前にも見張りが立てられており、部外者や一兵卒が入り込めないようになっていた。今日も今日とて昇降機の両側に立ち、通行者に視線を投げる兵の間を、ラウルはロッシュを伴って通り抜ける。

「このあたりに来るのは初めてかい?」
「はい」
「そう。まあ、普通じゃ用事も無いだろうしね」

乗り込んで、ボタンを押して、扉が閉じてから待つこと数秒。軽やかな鐘の音と共に扉が開くと、そこは既に上階だった。ラウルなどは慣れているからどうとも思わないが、初めて利用するロッシュにとっては、中々物珍しいもののようだ。興味深げに箱の中や扉を見回しているのを、ラウルは微笑ましく見守る。

「今後は、報告やら伝令やらで出入りしてもらうことになると思うから。場所は覚えておいてくれよ」
「あ、はい。分かりました」
「迷いやすい造りじゃないから、大丈夫だと思うけどね。ただ上層部の中には気難しい人も居るから、部屋を間違えると面倒な場合もある」
「……気を付けます」
「まあ、よほどの相手でなければ、問題になるようなことはないよ。それこそ2階と3階を間違えたりしなければ」

はは、とラウルが笑い声を上げても、後ろに付き従うロッシュは生真面目な気配を崩さない。言葉数も少なく、先程からラウル1人で話し続けるような姿になっていた。しかしラウルは気にすることもなく歩き続ける、将校を前にした一兵卒は黙り込むか、そうでなければ極端に言葉を増やすか、どちらかに偏るのが普通だ。ロッシュの態度も別段不自然なものではないし、そもそもその程度のことに目くじらを立てていては人の上に立つなど出来はしない。

「さ、着いた。ここが僕の執務室だ」

そしてたどり着いた扉の前で一度立ち止まり、ロッシュを振り返る。彼の顔を眺めると、そこにあるのはぴしりと背筋の伸びた真顔だけで、過度の緊張は見られなかった。思ったよりも自然な様子のロッシュに、ラウルはひとつ頷くと、改めて扉を開く。

「……はい、戻りましたよ」
「おかえりなさいませ、中将。長いご用事でしたね」

途端に浴びせられる辛辣な言葉に、ラウルは反射的に身を縮めた。

「別に寄り道をしていた訳じゃないよ。真っ直ぐソラスのところに行って、そのまま帰ってきたところさ」

仕事以外の話はしていないし、と肩を竦めるラウルを、秘書の鋭い視線が射抜く。一応ラウルの方が彼女の上司に当たるはずなのだが、常に業務を助けてくれる優秀な秘書の前では、立場が弱い。
とはいえ実際に怠けていたわけでもないのに睨まれては敵わない、早めに誤解を解いてしまおうとラウルは部屋に入り、背後のロッシュを招いた。

「ロッシュ、入っておいで」
「はっ、失礼します」

一礼してから入室したロッシュの姿に、秘書の視線が問いかけの意味を込めてラウルに注がれる。そんな彼女に対して、ラウル証拠品を示すように、改めてロッシュを腕で指してみせた。

「前から話をしていた、新小隊長だよ」
「ああ、ソラス大尉がご推薦なさったという?」
「そうそう。彼へ任命を通達するのに立ち会っていたから、ちょっと遅くなったんだ」

間違ったことは言っていないのに何故か言い訳じみた物言いになってしまうのは、普段の行動にやましいところがあるためか。とはいえ秘書も一応は納得してくれたらしい、失礼しました、と素直に謝意を告げてくる。

「で、彼と少し話をしようと思って、そのまま連れてきたんだよ」
「左様ですか。それでは、紅茶をお淹れしましょうか?」
「ああ、頼む。ロッシュ、適当に座って」
「いえ、俺はこのままで」
「そんなに畏まらなくていいよ、楽にしてくれ」

がら、執務室の隅に作られた応接のためのソファセットにロッシュを誘導する。それでも彼は座ろうとせず、背筋を伸ばして直立したままだ。

「それじゃ話しづらいだろう、君は背が高いんだから、僕の首が痛くなってしまう」

ラウルがソファに腰掛け、目線で着席を強要すると、それでようやくロッシュも腰を下ろした。

「律儀だねえ、全く」
「いえ……そんなことは」
「謙遜する必要は無いよ、あのソラスの下に付いてその真面目さを保てるというのは、実に立派なことだ」
「はあ……」

ラウルが笑っても、ロッシュは困ったような顔になるばかりだ。直属の上官に対する揶揄に対して、さすがに同意はしかねるといったところだろうか。

「君の目から見て、ソラスはどうだい?」
「どう、とは?」
「どんな隊長か……頼りがいが無いとか厳しすぎるとか、後は煩いとか面倒くさいとか」
「そんなことは、ありません」
「そうかい? 何か問題があったら遠慮なく言ってくれよ。一応僕は彼の上司だからね、部隊内での問題は知っておかないと」
「いえ、本当に何もないです。俺以外の奴ら……隊員も皆、隊長には世話になってますし」
「ふむ、それなら良いんだけどね」

表情を伺う限り、彼の言葉に嘘は無いように感じられた。彼にとってソラスは、小隊長に取り立ててくれた恩義ある上司だ――もっとも彼は昇進に対してさほど乗り気でないようだったが、ともかくそれを考えれば、悪印象を抱くような関係性で無いのは当然だろう。しかしロッシュの口ごもるような言い方は少々気にかかる、と、そこまで考えたラウルの脳裏に、ふと閃くものがあった。

「ひょっとして君、敬語が苦手なのかい?」
「……へ? え、何でそんな……急に」
「いや、さっきソラスの部屋では、もう少し普通に喋っていた気がしてね。緊張しているのかと思ったけど、口調以外は堅い感じがしないから」
「…………」
「もしそうなら、気にする必要は無いよ。元傭兵ということは聞いているし、言葉遣い程度で気分を害するほど狭量では無いつもりさ」

しばらくきょとんとしてラウルを見詰めていたロッシュだが、やがてふっと息を吐くと、有り難うございます、と呟いた。

「やっぱり、それでさっきからあまり話してなかったのかい」
「はい、どうも丁寧に話すのは難しくて。隊長はああいう人だから、気にするなと言ってくれるんですが」
「そうだろうね、何しろ彼本人からして、上官相手にも対等な口調で話してくれるんだから」
「そういえば、さっきもそんな感じでしたね」
「ああ、2人の時ならともかく、他に人が居るっていうのにね。全く好き勝手やってくれるよ」

言いながらラウルは、別の可能性も考えていた。あるいはソラスは、ロッシュに対して、ラウルも口調に煩い人間ではないと伝えたかったのではないかと……あの頭の回る男ならば、それくらいの考慮を以て挙動を決めていても不思議ではない。もっとも暗に示すような行動は、ロッシュに対してあまり効果を及ぼさなかったようだが。

「まあ、ともかくそんなわけで、君もあまり堅苦しく考えなくて良いからね。ソラスと違って、ちゃんと敬意を持ってくれていることは分かっているし」
「はい。有り難うございます」

嘆息するラウルにロッシュは苦笑を浮かべる、そこには微かに安堵の表情が浮かんでいるように感じられた。これで多少は緊張も解れ、口数を増やしてくれるだろうか。
と、そこへ折り良く、秘書が紅茶を携えてやってきた。

「失礼します」
「ああ、有り難う」

双方しばし言葉を切り、香り高い液体が互いの前に注がれるのを待つ。やがて準備を終えた秘書が一礼して立ち去ると、ラウルは居住まいを正した。それを見たロッシュの視線にも、すっと真剣な色が宿る。

「じゃあ改めて、今回の小隊設立についてだけど」
「はい」
「設立に至る経緯について、君はソラスから何か聞いているかい?」
「……いえ、詳しい話は何も。ただ、新兵の一部を常設の小隊にして、集中して経験を積ませる意図だとは聞きましたが」

ロッシュの言葉にラウルは頷いた、彼の語る内容は、ラウルが把握しているものと重なる。
アリステル軍では基本的に、中隊か大隊単位で作戦行動を行う。小隊はそれらの隊の中で、作戦内容に応じて配置を行う際に作られる単位だ。恒常的に存在する組分けではなく、小隊長もその都度任命されるのが普通だが、時折その仕組みから外れたところで作られる小隊も存在する。作戦行動ごとの組み直しは行われず、小隊長も常任のこの小隊は、所属する者達を特に育てたい場合に作られるのが常だった。

「そう。ただ小隊に、というよりは君にだね。君に指揮官としての経験を積ませるため、彼はこの小隊を設立させたんだよ」

常設小隊を纏める小隊長は士官候補として扱われ、戦果が認められれば中隊、大隊の指揮を任されることになる。アリステルには士官を育てる兵学校も存在するが、軍内では志願兵や元傭兵など、叩き上げの兵が圧倒的な割合を占めていた。常設の小隊を作るのは、その中から優秀な者を指揮官として育て上げるために、よく使われている手段なのだ。
その意を込めて語られたラウルの言葉に、しかしロッシュは微かに表情を曇らせた。

「それが、よく分からんのですが」
「何がだい?」
「俺を指揮官に、というのがです。確かに隊長も言っていましたが……どうしてそんなことを考えられたのかが分かりません」
「ふむ、成る程。君は傭兵時代も、人を率いる立場には無かったんだよね」
「はい。下っ端でしたから」

ラウルは顎に手をやり、目の前の男を改めて眺める。17歳の元傭兵、指揮経験無し……それが突然小隊長に取り立てられたとあっては、戸惑うのも無理は無いかもしれない。むしろ妙な自信を示されるよりも、遙かに真っ当な反応と言える。

「この決定は周囲の隊員、特に君の下に付く予定の者達にも伝えられているのかな」
「はい、正式な辞令ではありませんが、隊長から説明がありました」
「そのことに対して、周囲の反応は?」

ソラスがどのような説明の仕方をしたのかは分からないが、同じ新兵の中から1人を特に出世させようとするのだから、他の隊員から反発が出てもおかしくはない。しかしロッシュは気負う様子も無く、さらりと答えを発した。

「特にこれといっては。皆、自分が常任の小隊に選ばれたということで張り切っていました。それくらいですかね」
「君が小隊長を勤めるということに対しても、かい?」
「ああ、はい。特に何か意見があった覚えはありません」
「そうか……他の隊員も、君が上に立つのは認めている、ということになるね」

その台詞に、ロッシュは驚いた様子で目を丸くする。その表情が妙に幼く見えて、ラウルは苦笑を浮かべた。

「そうなんですか?」
「当たり前だろう。何か不満があれば、明にしろ暗にしろ反応が出るものさ。そして君はともかく、ソラスがそれに気づかないわけがない」
「……」
「ソラスは君に指揮能力があると太鼓判を押してくれたが、どうやらそう考えているのは彼だけでは無いようだね」

ラウルが納得して頷くと、ロッシュはまた困ったような顔をした。先程から、言葉よりよほど雄弁に内心を語る表情に、ラウルは真剣な場であるのにどうにも愉快な心持ちになってしまう。表に出そうな笑いを咳払いで誤魔化し、真面目な表情を作ると口を開いた。

「ロッシュ、君自身はどうなんだい。小隊を指揮する自信はあるのかな?」
「……正直言えば、あまり無いです」

本当に正直に答えるロッシュに、ラウルの苦笑が深くなる。その表情を受けてかどうか、ロッシュがさらに言葉を続けた。

「ですが、命じられた以上は全力で勤めます。……俺を信頼してくれた隊長のためにも」
「ふむ」

考え込むラウルの視線を、ロッシュは臆することなく真っ直ぐに受け止めている。その態度に謙遜の気配は無く、また言葉を飾っている様子も感じられない、彼はただ淡々と己の感じたままを語っているのみなのだろう。しかし自信が無いと言いつつ、そこに恐れや怯えは存在しない。不思議な男だ、ラウルは漠然とそんなことを思う。

「君は、ソラスを信じているのかい」
「……はい」

ラウルの問いに、ロッシュは僅かに躊躇いを見せたが、それでもはっきりと肯定の意を返す。

「戦線を共にしていますから。背を預けて良い相手かどうかは、分かります」
「その彼が下した判断だから、信じて従うというわけか」
「ええ、その通りです」
「しかし小隊長に就任すれば、結果として君の肩に、君が率いる小隊の隊員全ての命がかかってくるわけだ。その覚悟はあるのかな?」
「はい」

殆ど瞬時の遅延も無く答えが返される、そのことにラウルは驚きを覚えた。返答の早さからは考えなく発せられたようにも聞こえるが、それが誤りであるのは彼の表情から伝わってくる。極真剣な色を湛えたそれは、本当に複数の命を背負う覚悟を決めた者の顔だ……将校として様々な軍人を見てきたラウルだから、その色が真か偽かは、見れば判断がつく。それは考え方によっては、指揮能力よりも何よりも、軍隊で上に立つ者として重要な素質だ。

「……成る程ね」

人の命を預けられるなど、中々受け入れられる感覚ではない。単にその重みを分かっていないだけというのか、いや傭兵として以前から戦場に立っているのであれば、そこで命を守る難しさを実感できていないわけがないだろう。
ロッシュの器を測りかね、ラウルは小さく息を吐いた。既に小隊の設立は決定されたのだから、根本で信じる信じないの段階は通り越してしまっている。後の情報は心構えの材料に過ぎない、どちらにしろ最初から全てを信じて任せるなど、軍を統率する立場として出来るはずもないのだから。
ともかく、ロッシュが持つ才の片鱗は見えた。今のところはこれで満足しておくべきだろう、それ以上のことは結果が教えてくれる。

「まあどちらにしろ、次の出撃から、早速君と君の小隊に働いてもらうことになる。よろしく頼むよ」
「はっ」
「武功を立てようなどと焦る必要は無い。まずは生き残ることを第一に考えてくれ、生きていれば結果は自然と付いてくる。戦争とはそういうものさ」

ラウルの言葉に、ロッシュは一瞬驚いたような表情を浮かべた。そして座ったまま、深く頭を下げる。

「ん、どうしたんだい、急に」
「いえ……有り難うございます」

再度顔を上げたそこには、酷く神妙な色が宿っていた。その真剣さに、ラウルは珍しく戸惑いに似た感覚を覚える。それが表に出ていたわけではないだろうが、ロッシュの顔に、ふと微笑みが浮かんだ。

「隊長が、中将は信頼できる方だと言っていましたが、分かる気がします」
「そうなのかい? そんなこと、ソラスから言われた覚えは無いけどな」
「けど、確かに言っていましたよ。尊敬している、とも」
「……それこそ、初耳だ」

普段は憎まれ口ばかり叩いているくせに、自分の耳のないところで何を言っているやら。普通の相手が言ったのであれば間接的な追従と判断するところだが、目の前の男にそんな技量があるとも思えない。
ラウルが呆れ混じりの嘆息を零すと、それをどう思ったのか、ロッシュの浮かべた笑みが深くなった。窘めるように、ラウルがひとつ咳払いをする。

「ソラスも、君にはよく話をしているようだね」
「はい、色々聞かせてもらっています。隊長は物をよく知っていらっしゃいますから」
「そうだね、確かにあの頭脳だけは尊敬に値するよ」

ラウルもその知略で現在の地位を築いただけはあり、頭を使うことはそれなり以上に得意としているが、それでもソラスのそれには敵う気がしない。ラウルとしては最上級に近い賛辞を送ったつもりなのだが、しかし若いロッシュにとっては、些か迂遠に過ぎたようだった。

「だけ、ですか」
「不満かい?」
「いえっ、そんなことは……」
「君は随分、ソラスを尊敬しているようだね」
「はい、勿論」

問いに対して迷い無く肯定が返される、見方によっては愚直とも取れる言動だったが、ラウルはどうしても否定的な感情を抱くことができなかった。あるいは、政治の世界に生きる彼にとって、それが滅多に触れることのできない性情だからか――そして、ソラスもまた同様に感じたのだろうか。彼らが所属するのは、軍部にしろ研究部にしろ、一国を左右する利権が動く場所だ。そこでは誰もが笑顔の裏に刃物を潜ませている、そんな中で彼のように真っ直ぐな視線を見てしまえば、評価せずにはいられないのかもしれない。
揺るぎの無い真剣な表情を浮かべた相手が子供のように感じられて、ラウルはふっと笑みを零した。

「言い切るねえ。彼の何処がそんなに良いのかな」
「何処、と言われましても。……部下を大事にしてくれますし、面倒見は良いですし」

ラウルの問いに、ロッシュは素直に指を折って数え上げる。大きな体格に似合わぬ幼げなその所作を、ラウルは笑いながら眺めた。

「それに、魔動工学の研究者でもあります」
「へえ、そこも評価する点なのかい」
「はい」

厳つい表情に浮かべた笑顔は全く曇りが無く、いっそ無邪気にも感じられるものだったが、しかし。

「戦う以外の手段を持っているのは、凄いことですから」

明るい笑顔から発せられた言葉は思うよりずっと深く、ラウルに心臓を引っかかくような関心を与える。

「ふうん? 面白い考え方だね」
「そうですか?」
「ああ。大体軍人なんて、自分のやっていること……つまり戦争、戦うことが一番正しくて立派だ、と思っているものさ」
「はあ、そんなものですか」

よく分からない、そんな曖昧な表情を浮かべたロッシュの視線は、相変わらず真っ直ぐにラウルに注がれている。その中に一体どんな光景が映っているのか、ふと気になってラウルはじっとロッシュを見詰め返してみた……だがそこにあるのは、当たり前だが彼の持つ薄青い光彩だけで、距離がある今では実際映っているはずのラウルの姿すら見ることはできない。

「変わっているねえ、君は」
「……隊長にも、同じことを言われました」

照れているのか困っているのか、そんな様子でこめかみを掻くロッシュに、ラウルは改めて笑いかけた。

「うん、成る程ね。何となく分かった気がするよ」
「へ? ……何がでしょうか」
「ソラスが君を気に入っている理由がね」
「はあ」

うんうん、と頷くラウルを前に、ロッシュは展開についていけていないのか、どうにも微妙な表情を浮かべている。しかしラウルがそれに構わず立ち上がると、ロッシュも慌てて席を立ち、またぴしりと背筋を伸ばした姿勢に戻った。

「じゃあ、僕の話はこれで終わり。君の方では、他に何か無いかな?」
「え、ああ……いえ、大丈夫です」
「そう。何かあったら遠慮なく言ってくれて良いからね、勿論これからも。ソラスを通しても良いし、直接伝えてくれても構わない」
「はい。有り難うございます」

席を閉じる気配を感じ取ったのだろう、ロッシュはひとつ頭を下げると、無言の指示に従って扉へと向かう。

「時間を取らせてすまなかったね。若い君には退屈な話だっただろう」
「いえ、そんなことは無いです」
「有り難う、そう言ってくれると嬉しいよ。……じゃあ、ソラスによろしく言っておいてくれ」
「はい。それでは、失礼します」

最後に一度、開いた扉の前で礼をして、ロッシュは部屋から退出した。後には装備が発した僅かな金臭さと、口を付けられていない紅茶だけが残っている。

「……中々、感じの良い若者ですね」

扉を見詰めたままのラウルの背に、秘書の声がかけられた。その声に呼ばれたわけではないだろうが、ラウルはふいと振り返り、自らの席に戻る。勢い良く腰を下ろすと、執務用の椅子がぎしりと鳴った。

「そうだね。あのソラスの部下とは思えないくらい、真面目で実直だ」
「ええ。中将の部下とは思えません」
「…………」

こほん、と咳払いをするラウルの前に、秘書が紅茶を移動させる。

「淹れ直しましょうか?」
「いいよ、そのままで」
「はい、かしこまりました」
「……どう思う?」
「彼のことですか?」
「ああ。真面目で実直、ついでに素直。他に何があるかな」
「年齢の割に、落ち着きがありましたね」
「そうだね、将校の執務室に呼ばれているというのに、動じた風でも無かった」
「受け答えもしっかりしたものでしたよ」
「うん。経歴から思われるほど、粗野なばかりでは無いようだね」

ラウルの視線が宙をさまよう、考え込む主の邪魔にならぬように秘書はひそりと口を閉じて、彼の次の言葉を待った。

「ソラスがね。本当に見て欲しいのは戦闘以外だ、と言っていたんだよ」
「……性格や人間性、ということですか」
「そうかもしれないし、もっと他のことかもしれない。あいつも、物事をややこしくするのが得意だからなあ」

はあ、とラウルは息を吐く。そして思い出したようにカップを手に取ると、口元に運んだ。

「でも、ロッシュのことを相当気に入っているのは確かだよ。何しろ彼、ロッシュに妹を紹介していたんだから」
「ソニアさんをですか!」

よほど驚いたのだろう冷静沈着を持ってする彼女にしては珍しく、感情がそのまま表情と声音に出てしまっている。しかしそれも無理は無い、ラウルにしても自分の目で見たのでなければ、とても信じられないような出来事だ。

「だから、よほどの何かがあると思ったんだけどね。分かるような分からないような、だなあ」
「そうですね。確かに良い若者ではありますが……」
「そこまで強烈な魅力があるかというと、ね。まあ、あれだけの会話じゃあ、大したことは分からないけど」

これ以上は、もっと多くの情報が無ければ判断が付かない。仕方がないことだが、結局はそこに戻ってきてしまう。

「やれやれ。気になったんだけどなあ」
「焦っても仕方がありませんよ。少なくとも次の出撃になれば、戦場での評価は出てきます」
「ああ、そうだね」

秘書の言葉にラウルは頷く、そしてカップを机に戻すと、軽く伸びをした。秘書はその様子を見守っている、と思いきや立ち上がって、ラウルの前に移動し。

「では、納得して頂いたところで、仕事の残りをお願いします」

どさりと、書類の束を机に乗せた。結構な厚みのあるそれに、ラウルの顔がひきつる。

「……多くないかい?」
「出撃の準備がありますから」
「いや、それは分かるけどさあ」
「口を動かす前に手を動かしていただければ、その分早く終わりますよ」
「そりゃそうだけどね、でも少し休息してから……」
「ソラス大尉のところで、十分お休みなさったでしょう?」
「ちょっと、それは仕事の話しかしていないと言ったじゃないか!」
「とにかく、仕事にお戻りください。始めるのが遅くなる分、終わるのも遅くなりますよ」
「はいはい、分かりましたよ。やれば良いんでしょう、やれば」
「当たり前です。誰の仕事だと思っていらっしゃるんですか」

鋭く睨みつけられ、ラウルは身を縮めつつ、書類の山に手を伸ばす。一番上に乗せられた、補給物資の購入申請に目を通し始めると、厳しい秘書もようやく矛先を緩めて自らの席に戻ろうとする……と、その前にもう一度視線を強めて。

「それと、はい、は一度で結構。二度も言う必要はありません」
「……はい」

何処までも厳しい秘書の前では、常勝を誇るラウル中将も、教師に叱られる少年と大差ない。諦めた様子で息を吐くと、ラウルは改めて書類の山と向かい合うのだった。



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セキゲツ作
2011.07.01 初出

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