アリステル城地下に作られた、魔動研究所。アリステルという国家を軍事面、生活面共に支えている場所を、その日ラウルは訪れていた。隣接する医療フロアを抜けて研究フロアに入ると、真っ直ぐにソラスの研究室を目指す。彼の部屋は、軍人と兼任であるという特殊な立場から、一般兵でも立ち入りが許されるエリアに配置されていた。入り口からは極近く、訪問者にとっては有り難い立地条件である。機密エリアの中は妙に階層深くまで作られている上に構造が入り組んでおり、慣れていない者はまず間違いなく迷ってしまうのだ。
ともあれ、無事研究室の前にたどり着いたラウルは、その扉を軽く叩いた。
「…………はい」
「ラウルだけど。良いかい?」
「ラウル? ちょっと待ってくれ」
数瞬の間を置いて、声と共に鍵が開けられる音が響く。そして扉が開き、中からソラスが顔を出した。
「やあ、邪魔しても良いかな?」
「ああ……分かった。とりあえず入ってくれ」
何やら研究に没頭していたのか、汚れた作業服を着用したソラスは、少々青ざめた顔に疲れた色を浮かべている。それでも追い返す意思は無いようで、扉から身を引いて迎え入れる仕草を見せた。
ソラスが退いたことで室内が露わになる、研究室という単語から連想される乱雑さは、この部屋には存在しない。研究に使う器具や部品、そして資料の束が整然と並べられている中に置かれた椅子に、ラウルは腰を下ろした。
「すまないね、作業中だったかな」
「まあね、でも別に構わないよ。ちょっと行き詰まってたところだったし」
「大変だね。フェンネル技師の手伝いかい?」
「いや、これは自分の研究。完成に近いところまでは行ってるんだけどね、重量が問題になるからもっと減らせないかと……や、まあそれは置いといて」
話しながらソラスは体を伸ばし、自分もまたラウルの向かいに腰を下ろした。ひとつ大きな欠伸をすると、机に置かれたポットから紅茶を注ぎ、ラウルに手渡す。有り難く受け取って口を付けるが、口に含んだ途端妙な味が舌を刺した――眠気覚ましも兼ねているのか、かなり濃く淹れられている。紅茶の名を冠して良いのか迷うようなえぐみと苦みに、ラウルはこっそり眉を顰めた。
「珍しいじゃないか、君がこっちに顔を出すなんて。何かあったのか?」
「ああ、先日の」
その言葉を受け、ラウルは紙入れから書類を取り出してソラスに手渡す。
「君から預かった小隊設立申請書が受理されたんだ。それを伝えようと思ってさ」
「本当に!? 随分早いじゃないか」
「君にあれだけ熱心に頼まれちゃね。希望通り、次の出撃には間に合ったよ」
「そうか……有り難う、感謝するよ」
差し出された紙を嬉しげに受け取り、ソラスは中身を確認した。複数枚の紙にざっと視線を走らせ、安心した様子で微笑む。
「うん、良かった。これで、今日にでも通達ができる」
「今日かい! そこはさすがに、明日でも良いだろう」
「はは、まあ勿論、今日中に行う必然性は全く無いんだけどね。ただ偶々、これからここにロッシュが来るんだよ」
「ロッシュ……新小隊長の彼が、か」
「だからついでに、彼にだけでも知らせてしまおうかと思ってさ。正式には明日、隊の皆を集めて行うよ」
にこりと笑って、ソラスは受け取ったばかりの書類を、机の上の物入れに仕舞い込む。そして天板を指で叩き、ラウルに向き直った。
「ラウル、まだ少し時間はあるかな」
「今日これからってことかな?」
「うん。どうせなら君にもロッシュを紹介したいんだ、都合が良ければでいいんだけど」
「成る程、確かに噂の彼には会ってみたいな。後どれくらいで来そうなんだい?」
「そろそろ訓練が終わるだろうから、後15分ってとこだろうね」
「そうだね……それなら待たせて貰おうかな。休憩も兼ねてってことで」
「秘書殿に怒られやしないかい?」
「別に構わないよ、ソラス隊長に引き留められた、と言えば良いし」
「あはは、間違ってはいないしね。じゃあすまないけど、少し待っててくれ」
「ああ。君は作業に戻らなくて良いのかい? 僕は構わないよ、適当にしているから」
「いや、僕も丁度休憩を取るところだったから。取り敢えずロッシュが来るまで――」
と、ソラスの言葉を遮るように、ノックの音が響きわたった。
「噂をすれば、かな?」
「でも、まだ訓練中のはずなんだけど。早めに切り上げたのかな……はいはい、今開けますよ」
首を傾げつつソラスが立ち上がり、扉を開く。果たしてそこに立っていたのは、話題の主であるロッシュ……ではなく、それより遙かに小柄な少女だった。その姿を見て、ソラスが目を丸くする。
「お仕事お疲れ様、兄さん」
「ソニア! どうしたんだい、一体」
「兄さんてば、家に資料を忘れていったでしょう? だから届けに来たの……あら、ラウル中将」
軽やかな声と共に室内をのぞき込んだ、その可愛らしい顔に驚いた色が浮かぶ。
「御免なさい。お仕事のお話中でしたか?」
「いや良いよ、大した話はしてなかったし」
「ソラス、どうして君が答えるんだ」
2人のやり取りを驚いた顔で眺めるソニアは、ソラスの妹だ。年の離れた兄妹で、まだ14歳だと聞いた覚えがある。成長期を終えたばかりのすんなりと伸びた細い手足を、丈の長い白衣が覆い隠していた。
「久しぶりだね。しばらく見ないうちに、随分綺麗になったなあ」
「まあ……そんなこと、ありません」
「ちょっと、ラウル」
ラウルの言葉はあながち社交辞令とも言えない、以前に会ったのは1ヶ月程前だったが、この年頃は成長……もしくは変化するのが早い。ソニアも蕾が綻ぶように、子供の可愛らしさから女性の美しさへと変化を遂げつつあるのが、一目見て感じ取れた。男性に誉められることに慣れていないのか、ラウルの言葉に恥じらい紅潮する白い頬は、男であれば誰でも見惚れずにはいられない健康的な魅力を有している。しかしそんな美しい存在の前には、宝を護る番人として、険しい顔をした兄が立ちはだかっているのだ。数分前とは一変した気配に、ラウルは堪らず苦笑した。
「君のことを信頼しているつもりだけど……まさかソニアのこと、妙な目で見ちゃ居ないだろうね?」
「あのね、信頼してるのなら、そんなこと聞く必要は無いだろう?」
「信頼したいんだから、変なこと言うのは止めてくれないかな」
「変じゃないだろう、実際素敵な女性に成長しているんだから」
「何を言っているんだ、ソニアは前から綺麗だし素晴らしい女性だろう!」
「兄さん……恥ずかしいことを言うのは止めて」
ソラスの後ろから、ソニアの嘆息が聞こえてくる。そしてひょこりと兄の影から出て室内に入り、勝手知ったる様子で机の上に資料を乗せた。
「はい、ここに置いておくから」
「ああ、うん、有り難う。すまないね、態々」
「いいの、実習のついでだもの。でも次からは気をつけてね、いつも来られるとは限らないし」
「ソニア君、今は休み時間かい? 良かったら一緒に紅茶をいかがかな」
「こらラウル、勝手に妹を誘わないでくれ。というかそもそも、ここを誰の部屋だと思ってるんだい」
眉を顰めるソラスだが、ソニアは意を得たようで、にこりと微笑んだ。
「分かりました、それなら新しく淹れ直しましょう。少し待っていてくださいね」
「ああソニア、さっき僕が淹れた分があるから大丈夫だよ」
「駄目よ、兄さんが淹れると変に濃いんだもの。ね、中将?」
「はは、その通り。分かってくれて嬉しいよ」
「だって、濃い方が目が覚めるじゃないか……」
「でも香りが台無しになるし、苦みも出るの」
「いや、でも紅茶に変わりはないし」
「変わります、あんな味じゃあ紅茶とは言えないわ。もう、良いから座っていて」
きっぱりと言い張ったソニアは兄を押し退け、きびきびした足取りで備え付けの竈の前に立つ。ソラスは不満そうな表情を浮かべていたが、魔動工学では右に出る者の居ない彼も、妹には敵わない。ひとつ溜息を吐くと、諦めたように椅子に身体を預けた。
「今日の実習は、医療部の方かな?」
ラウルがソニアに声をかける、彼女は14歳だが特例で大学に入学しており、しかも医療と魔動学を同時に専攻していた。兄のソラスも天才と呼ばれているが、妹であるソニアもまた、見た目の可憐さからは思いもつかない頭脳の持ち主なのだ。これほど優秀な兄妹を産んだ親の顔を見てみたいものだが、残念ながら両親共にソニアが産まれた直後に亡くなっていると聞く。ソラスが妹に対して極端に過保護なのも、それが原因の一つなのかもしれなかった。
しかし両親不在の影は、少なくともソニアからは感じられない。今も花が開くように明るく朗らかな笑顔を、ラウルに向けてくれている。
「はい、治療の手伝いです。職員の方々が遠征に付いていっているから、手が足りないらしくて」
「そうか、なら今日治療に訪れた兵は幸運だね」
「…………」
「ソラス、僕を睨んでも仕方ないだろう」
何故かソラスから剣呑な視線を向けられ、ラウルは苦笑した。確かにソニアは美しく魅力的な少女だが、ラウルとは親子程にも歳の差があるのだ。愛らしさに心癒されこそすれ、異性として捉えるなどは有り得ない。
しかしそれはラウルだから言えることで、軍の大部分を占める若い兵には全く当てはまらない話ではあった。専攻が医学と魔動学であれば、まず間違いなく軍に関係した部署で働くことになるはずだが、そうなればソニアに魅了される兵が多く出てくることだろう。心配なのは分からぬでもないが、敵意を表すなら兵達当人にして欲しい、とラウルは苦笑を浮かべる。
「それはそうだけど……ねえソニア、やっぱり仕事に就くのは止めないか? 家に残るのが嫌なら僕の助手として働いてくれれば、勉強したことも活かせるし」
「何言ってるの、兄さん。何度も話したでしょう、私は戦っている皆さんの役に立ちたいんです」
「ソニアが優しいのは素晴らしいことだけど、せめて軍関係は止めてくれよ。男ばかりの中にお前を放り込むことになる僕の気持ちも考えて欲しいんだけどな」
「もう、兄さんたら心配しすぎよ。今だって同じ環境で手伝いをしているけど、皆さんとても良くしてくれているもの」
「そりゃ、乱暴なんてする奴が居たら僕が許さないし……いやそうじゃなくて、優しい顔して近づく奴こそ危ないんだからね」
「大丈夫だってば、医療セクションには女性も多いんだから」
こんなやり取りは兄妹の間で何度も行われてきたのだろう、呆れて溜息を吐くソニアだが、受け流すその態度は妙に慣れたものを感じさせた。時ならぬ家族会議を面白そうに眺めるラウルに、ソニアは困ったように微笑む。
「御免なさい、みっともないところをお見せしてしまって」
「いや、気にしないで構わないよ。ソニア君も苦労するね」
「ちょっとラウル、それはどういう意味だよ」
「君のその素晴らしい頭脳をもってすれば、直ぐ分かることだと思うけど?」
「……何かトゲのある言い方だなあ。言いたいことがあるならはっきり言ってくれないかな」
「2人とも、喧嘩しないでください! 中将、紅茶が入りましたよ。どうぞ」
火花を散らして睨み合う2人は、けして本気で気分を害しているわけではなく、ただ互いにからかい合っているだけだったのだが、それでも娘のような歳の少女に制されれば否やを唱えるわけにはいかない。ラウルは大人しく口を閉じ、供された紅茶に口を付けた――今度こそ真っ当な紅茶の香りが、ラウルの鼻をくすぐる。
「うん、美味しいね。有り難う、ソニア君」
「お口に合って何よりです。兄さん、たまには普通の紅茶も良いでしょう?」
「そうだね、やっぱりソニアが淹れてくれると美味しいよ」
「もう……そうやって誤魔化さないの!」
愛らしい唇を尖らせて兄を睨みつける仕草は、まだまだ子供らしさも残したもので、ラウルもソラスも眦を緩めてそれを見守っている。そんな視線に居心地の悪さを感じたのか、ソニアは使い終わった茶器を片付けると、扉へと向かう素振りを見せた。
「じゃあ、私は戻りますね。ラウル中将、お話の邪魔をしてしまって御免なさい」
「あ、待ってくれソニア。時間が大丈夫なら、もう少し休んでいかないか?」
ソニアを引き留めるソラスの言葉、それに違和感を感じて、ラウルは内心首を捻った。彼は妹を溺愛しているのだから、普通に考えれば別段おかしな発言ではない。しかしそれはあくまで通常時の話である、今の彼はこの後予定を……しかも本来ならば絶対にソニアを同席させたくない類の予定を、控えているはずなのだが。
「でも、お仕事の話があるんでしょう? 私が居たら良くないわ」
「いや、それは大丈夫だから。どうせだからお前にも――」
と、その時。室内に再び、訪問を知らせる音が響きわたった。
「ソラス隊長。いらっしゃいますか」
一瞬生じた沈黙の中で扉越しに声が響く、若い男性のそれは、恐らく今度こそ彼らが待っていた人物のものだろう。はいはい、と言葉を返しながらソラスが扉を開錠する。開かれたそこに立っていたのは、間違いなくラウルの記憶にある姿だった。
「ロッシュ。訓練は終わったのかい?」
「はい、だもんで報告に……っと、来客中でしたか」
室内に視線を走らせた彼は、戸惑った表情を浮かべて、踏み入れる途中の足を止める。ソラスはそんな彼の腕を掴むと、些か強引に部屋の中へと招き入れた。
「いや、構わないから入ってくれ。というか、君を待っていたんだよ」
「へ? えーっと……」
「やあ、君がロッシュかい」
ラウルがにこやかに話しかけると、一層ロッシュの当惑は深まったようだった。言葉を途切れさせ、ラウルとソラスの間で視線を往復させる彼を、ラウルは無遠慮に観察する。アリステルでは珍しい長身は、成長期を終えて間もないためか、高さに対して厚みが伴っていないように感じられた。ソラスとの会話から推察するに、隊の訓練直後なのだろう。軍支給の鎧を纏ったままの姿だったが、暑苦しさからか、兜は外して室内灯の下に素顔を晒していた。高い身長の上に乗った厳つい顔立ちはそれなりの年齢に見えるが、書類に書かれていた情報が正しいとするなら、未だ17を数えたところのはずだ。そのつもりで見れば、薄青い瞳に困惑の色を浮かべる様には、歳相応の若者らしさが感じられる。
「ロッシュ、以前に伝えた小隊長就任の件。覚えてるかい?」
「あ、はい。常設の小隊を作る、って話でしたよね」
「間違ってはいないけどね、その小隊長に君を任命したいって方だよ」
ロッシュの言葉をソラスが訂正する、部下に対して話しているのに常と変わらぬ口調の彼に、ラウルは内心苦笑した。本当に、上下に煩い軍の中に居るとは思えない態度である。そんな相手に対しても、向かい合うロッシュは上官に対するぴしりとした緊張感を失おうとしない……若干、口調が荒くなってはいるが。
「今日、正式に承認が下りたんだ。明日から、小隊長の任に就いてもらう」
「……本当に設立させたんですか」
「当たり前だろう、冗談だと思っていたのかい?」
「いえ、そういう訳ではありません。でも俺、まだ軍に入って3ヶ月なんですがね」
「だが十分な腕を持っている……少なくとも、僕はそう見ている。大丈夫だよロッシュ、例え足りない部分があっても、僕や他の隊員が補佐できるし」
「……有り難うございます」
力強く語るソラスに対して、ロッシュの方は乗り気とはとても言えない声色だった。ラウルを口説いたのと同じ、いやひょっとしたらそれ以上の情熱で、ソラスはロッシュに対して熱弁を振るっている。気合いを入れるのは良いが、まず当人を説得してから他に手を回して欲しい、とラウルは呆れて息を吐いた。
しかしロッシュも取り敢えず、正式に認可された命令に対して逆らう気は無いらしい。未だ戸惑いの色は消えていないが、それでもソラスに向かって頷きを返し、ぺこりと頭を下げてみせた。
「分かりました。俺の力でどこまで出来るか分かりませんが、全力で勤めさせてもらいます」
「本当かい! そう言ってくれて何よりだよ」
「全くだ、これだけ準備しておいて本人に断られたんじゃ浮かばれない」
「…………?」
「よし、それじゃあ話が纏まったところで、改めて紹介するよ。ラウル、分かってるだろうけど彼がロッシュ」
ロッシュと向き合っていたソラスが身を斜めにし、ラウルとロッシュの間から退く仕草を見せる。先ほどから向かい合ってはいたが、はっきりと視線を合わせる形になった新小隊長に、ラウルは笑顔を浮かべてみせた。
「初めまして、で良いかな。作戦と訓練で何度か一緒にはなっているけど、直接はこれが初めてだからね」
「はっ、ええと……」
「ロッシュ、彼はラウル中将。一応、僕の上官……だからまあ、君にとっても上官にあたる」
「おいおい、一応は無いだろう」
上司に対するにはあまりに礼を失した言葉に、さすがのラウルも声を上げるが、ソラスが気にかける様子は無い。頭が良く冷静な彼は、身内以外の人間が居るところでは軍人らしい振る舞いを取れるのだが、今は念願叶っての小隊設立に浮かれているのかもしれなかった。しかしそれにしても、未来ある新兵……特に彼が可愛がっており、これから人の上に立たせようという相手の前で見せる態度では無い。妙な影響を受けていないかと案じてロッシュに視線を走らせるが、特にその姿勢に動きは無いようだった。ラウルの目の動きを察したソラスが、ふいとラウルに向き直る。
「真面目だろう。仕事中以外でも、こんな感じなんだ」
「成る程ね、だから君が暴走してしまうわけだ」
「暴走は酷いな。ただ言葉を飾らないだけだよ」
「それについては評を控えさせてもらおうかな。ともかく、彼が君の悪い影響を受けていないようで良かったよ」
「ロッシュ、これからは君も彼と関わることが多くなるからね。今日は顔会わせってことで、承知しておいてくれ」
「はっ」
「ソラスから評判は聞いているよ、期待の新人だってね。宜しく頼むよ、新小隊長」
「はい。ええと……よろしく、お願いします」
ラウルの言葉に、ロッシュはぴしりと敬礼を返した。その態度を満足げに眺めていたソラスだが、ラウルが次の言葉を発する前に、ロッシュに向けて口を開く。
「で、丁度良いから、一緒に紹介してしまうよ」
言いながらソラスが示したのは、傍らに佇む彼の妹だった。退出する機会を逸したまま、邪魔にならぬように気配を消していた彼女を、己の近くへと引き寄せる。予想の範囲外に飛び出した行動に、ラウルは言葉を失った。
「彼女はソニア、僕の妹だ」
「へ、妹さん……ですか」
唐突に話題の中心に連れ出されたソニアは、一瞬だけ驚きを露わにする。しかし直ぐにそれは消え去り、少女らしいはにかむような微笑みを浮かべ、ロッシュに向かって礼儀正しく頭を下げた。
「初めまして、ソニアと申します。いつも兄がお世話になっています」
「あ、ええっと……こちらこそ、隊長……お兄さんには、お世話になって……」
ロッシュも相当驚いたのだろう、口籠もるのを通り越した、しどろもどろな返答になってしまっている。ラウルもそれに助け船を出すことも忘れて、彼らのやり取りを見守るばかりだ。他人が傍に居るという無意識の制御が無ければ、阿呆のように口を開けていたかもしれない。
「ソニアは大学で医療を専攻していて、たまに軍にも手伝いに来るんだ。顔を合わせたこともあるかもね」
「あ、いえ……多分俺は、会ったことないと思います」
「そうね、今回お会いしたのが初めてのはずです。でもこれから先、治療させて頂くこともあるかもしれません」
にこやかに妹を紹介するソラスを、ラウルは改めて観察した。纏う雰囲気は至極明るく、忍耐だのわだかまりだの不満だの、負の感情は全く見受けられない――あのソラスが、妹を男性に紹介しているというのに、だ。しかも相手はラウルのように歳の離れた相手ではない、ソニアとほぼ同年代の、言い換えれば双方恋愛対象と成り得る男なのである。それを、彼の宝とも言える妹と引き合わせるとは。
ソラスと知り合って以来初めて見る行動に、ラウルの関心が一気に増大してゆく。
「今はまだ学生の身だけど、いずれ医療部か研究所か……どちらにしろ、軍関係の部署で働くつもりらしいんだ。その時には、宜しく頼むよ」
「は……はい」
ソラスがどれだけ彼を買っているか、言葉を尽くしてその優秀さを語られるより、そして実際に引き立てて地位を与えるよりも、遙かにはっきりと示している。あまりにも明示的、分かりやすいにも程がある行動だった。
そしてそこまでの価値を見出されるロッシュという男に対しての興味は、先程までとは比べ物にならぬほど増していた。この法外な栄誉に対して、当のロッシュはどんな反応を示しているのか、ラウルはちらりと視線を走らせる――と。
「…………」
目に入った彼の表情に、吹き出しそうになるのを慌てて堪える。こちらも実に分かりやすい、色素の薄い肌に血の気を上らせたその顔は、彼が今まさに恋に落ちたばかりだということを明確に表していた。考えるまでもない当然の帰結ではある、ソニアほど美しい少女を前にして、その魅力に抗える男などそう居るわけがないのだから。
もっとも、彼の初々しい恋心の対象であるソニアは、端から見ればあまりに明らかな感情にも気付いた様子はない。ただ無邪気に、兄に紹介してもらった新しい知人に対して、笑顔を振りまくばかりだったのだが。
「よし、これで一通り紹介は終わったけど」
「そうだね、じゃあ僕はそろそろ部屋に戻らせてもらうよ」
「ああ、分かった。長く引き留めてしまってすまなかったな」
「いやいや構わないよ、興味深いものも見られたし。……ところで、ロッシュ」
「はっ」
ラウルが視線を向けると、彼は先程までの生真面目な真剣さを取り戻し、ぴしりと姿勢を正す。それを好ましく感じながら、ラウルは彼に笑いかけた。
「君、これから時間はあるかい?」
「これから……はい、訓練の報告が終われば、今日は上がりですが」
「それなら良かった。じゃあソラス、今からちょっと彼を借りてもいいかな」
いずれ分かるなどという暢気な気持ちは既に消えていた、姫君に拝謁を許された騎士がどれほどの男なのか、直ぐにでも確かめたい。ソラスもそれを感じ取ったのか、嬉しげに微笑んで頷きを返す。
「ああ、勿論。ロッシュ、報告は明日で良いから、ちょっとラウルに付き合ってやってくれ」
「俺が、ですか?」
「うん、彼も君に興味が湧いたみたいでね。ちょっと弄られてやってくれよ」
「ソラス、君はまたそういう言い方をする……まあ良いけどね。じゃ、ロッシュ。ソラス隊長の許可も出たことだし、付いておいで」
「あ……はい」
直属の上司である隊長を通り越して、ただの新兵である自分が呼ばれたことを不思議に思っているのだろう。ロッシュは戸惑った表情を浮かべていたが、それでも軍に所属する者として、上官の命令は絶対だった。急いでソラスに敬礼すると、扉に向かうラウルの後に付き従う位置に移動する。
「では、隊長。すいませんが、報告は明日にさせてもらいます」
「ああ、分かった。また明日、宜しく頼むよ」
「はっ」
「ソニア君、紅茶をご馳走様。美味しかったよ」
「有り難う御座います、中将」
「今度はロッシュも一緒に飲めると良いね。ソニア君の紅茶の腕は中々のものだよ」
「へ……そっ、そうですか」
にっこりとソニアに笑いかけられ、またしてもロッシュの顔が上気する。その分かりやすい反応に、再度こみ上げる笑いを堪えながら、ラウルはソラスの研究室を辞した。背後には、鎧を鳴らしながらロッシュが付いてくる。
「じゃ、僕の執務室に行こうか」
「はい」
「心配しなくても、虐めたりはしないよ。少し話を聞かせてもらうだけだからね」
「……はい」
緊張しているのか、ロッシュの言葉数は少ない。しかしラウルは構わず適当な話を語りかけ、それに返される短い返事を聞き流しながら、上階にある自分の執務室へと戻っていった。
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セキゲツ作
2011.06.26 初出
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