扉を叩く鈍い音が執務室の中に響く。それを耳にしたラウルは、向かっていた書類から顔を上げた。

「どうぞ、鍵は開いているよ」

言葉が終わるかどうかという間に、扉が開かれる。入ってきたのはラウルの部下であり、同時に研究部に所属する魔動工学者であり、さらに言えば歳の離れた友人でもある男だった。今回は数有る立場の中から軍属の部下として訪れたらしく、机の前でやや崩れた敬礼をすることでその意思を示している。

「やあ、ソラス大尉。どうしたんだい、突然」
「突然でも無いんだけどね。前から伝えていた小隊新設の件、正式に書類が出来たからお願いしようと思って」

しかし上官を前にしているというのに、彼の口から出る言葉に、敬語の気配はほぼ存在しない。ラウルと2人の時、彼は大抵そんな態度を取っていた。上下の関係を完全に無視した言動は、例え彼らが友人同士といえど、本来ならば公務の最中に取って良いものではない。ことに規律に厳しい軍の中であれば尚更のことだ。
だがラウルは規則に煩い方ではないし、他の者が居る時にはそれなりの振る舞いが出来ることは分かっているから、今更それについて言及することは無かった。またソラスも、そんなラウルが相手だからこそ、安心して地を見せられるのだろう。上官の執務室に居るとは思えないような緩やかな表情で、手にした紙を弄っている。

「新兵の中に良いのが居るから、常設の小隊を作りたい……っていうあれのことかい?」
「そう、それ。はい、これが申請書」

そう言ってソラスは、書類をラウルの前に置いた。研究者らしい癖字で書かれたそれにラウルはさっと目を通し、中身が彼が以前に告げてきた内容と相違無いことを確認すると、ぱさりと机の上に戻す。精査は必要無い、目の前の男は天才と称される頭脳の持ち主だ。まして今回の小隊設立には相当の力を入れて準備を重ねており、その最後の仕上げとなる申請書類に、落ち度を残すはずもなかった。

「……うん、確かに。じゃ、受け取っておくよ」
「頼んだよ。出来れば今月中には設立して、運用に入りたいんだ」

言われてラウルは、ちらりと暦に視線を走らせる。

「急ぐね。何か事情でも?」
「いや、特には無いけど、次の出陣に間に合わせられるかと思って。実戦経験は多いほど良いだろう?」
「成る程、本当に気に入っているようだね、その新兵君を」
「ロッシュだ。覚えてくれよ、君の部下でもあるんだからね」

ロッシュ、それがソラスが推薦している新小隊長の名だった。ラウルの前に投げ出された書類にも、同じ名が書き込まれている。

「ふむ。新小隊を設立させてまで育てたいなんて、余程入れ込んでいるんだねえ」
「そうかな、別に珍しいことじゃないと思うけど」
「普通ならね。でも君が率先して、となると話は別だよ」

ソラスという男は、凡人とは一線を画した、とてつもない頭脳の持ち主である。アリステル一、つまりは世界一の魔動工学者であるフェンネル技師に好敵手と認められているという事実ひとつ取っても、その才を類推する十分な材料となるだろう。そして才能ある者の多くがそうであるように、相手の力を計る時にも自分のそれを基準にする傾向があり、結果として他人への評価は酷く厳しいものとなる。その彼が特に気に入って引き立てる兵が居るとなれば、ラウルとしても気にならないわけがなかった。

「今まで誰かを推薦するなんて、言い出したこと無かっただろう?」
「まあ、ね」
「だから、余程のことだよ。一体どんなところが気に入ったんだい?」
「ゆっくり話して良いのかな? 忙しい君の邪魔をしては悪いと思ったんだけど」
「大丈夫、我が優秀なる秘書殿は現在外出中だ。多少の息抜きは許されるさ」

ソラスをソファに促し、秘書が淹れておいてくれたティーポットから紅茶を注いで手渡した。自分は執務用の椅子に座り、向きだけを変えてソラスと向かい合う。

「どんな兵だったかな……そう、大槍を使うのは覚えているんだけど」
「お、知っているんだ。さすがラウル」

ラウルも頭脳にはそれなりの自信があるが、さすがに相当数居る新兵の、全ての顔と名前を記憶できる程ではない。それでも今話題に上っている男のが記憶に残っていたのは、彼が新兵の中では突出した戦闘能力を持っていたからだった。脳の頁を捲り、模擬戦闘訓練で見た姿を探しだす。長大な突撃槍と支給の鎧が些か不釣り合いな兵、それが確かロッシュという名だったはずだ。

「それに、随分大柄だった気がするな。アリステルでは珍しい類の兵だと思ったんだ」
「そうそう。何だ、説明するまでもないじゃないか」
「あのね、それだけじゃ君が気に入った説明にならないだろう。それとも、槍の腕だけで推挙したとでも言うのかい?」
「さすがにそれは無いけどね。でも、うーん……説明が難しいんだよ」

眉を顰めて考え込むソラスに、ラウルは目を丸くする。とにかく頭の回るこの男が、何かを言い淀むというのは滅多に無いことだった。

「単純に言えば、指揮能力がある、ってことになるんだけど」
「ふむ、それだけでもまあ、十分ではあるけどね。うちは常時の指揮官不足だし」

長く戦争が続いた結果として、アリステルには指揮官を務められる人材が少ない。軍部を中心に国家を運営しているため、優先的に人が集められてはいるのだが、何しろ事が戦争だ。優秀であればあるほど激戦に赴くこととなり、結果集まった人数に対して、生き残る数は大きく下回ることになる。元々戦争相手であるグランオルグより、国力はかなり劣っているのだ。それでも何とか持ちこたえられているのは、グランオルグにはない魔動技術……それこそ目の前に居るソラスのような研究者によって作り出される、強力な魔動兵器の存在に因るところが大きかった。
そんな事情があるから、例え一介の兵であっても、指揮能力が認められれば昇進は速い。ロッシュという新兵の力がどれほどのものか、実戦での戦いぶりを知らないラウルには判断が付かないが、ソラスがそれを認めて小隊長に任じようと画策するのは別段不自然な行動では無かった。

「けど、それだけじゃない?」
「まあね。……いや、それだけと言えばそれだけなのかな、彼は優秀だよ」
「何だい、歯切れが悪いな」
「何て表現したら良いのか、と思ってね。うん、指揮能力はある、僕はそう感じた」
「新兵でありながら君にそう思わせるんだから、優秀なのは間違いないんだろうね。まだ入隊して3ヶ月くらいだったっけ?」
「そうだね。でもロッシュ自身はもっと長く戦場をに立っているはずだよ、元傭兵だと聞いたから」
「だからあの槍の腕か。ということは、そこで指揮経験も?」
「それは無いはずだ、指揮経験のある者の言動では無いと思うし。ただ……何というかな、広域を見る力があるんだよ、彼には」
「ふむ、それは戦場で、だよね」
「ああ。一兵卒のはずなのに、驚くほど戦場の状態を把握している」

言葉を選びながらソラスが語る、その内容をラウルは注意深く追った。部下の力を把握するのは上官としての勤めであり、同時に自らの身と地位を守る手段でもある。ロッシュという男が本当に有能ならば、是非とも駒として手元に備えておきたい。戦いが続き、戦死者の数が増え続ける国において、手駒の確保は重要事項だ。
そんなラウルの思惑を見透かすかのように、ふとソラスが笑みを浮かべる。

「今度、ちゃんと引き合わせるよ。君ならきっと、分かってくれると思うからね」
「そうだね、是非お願いしたいな。それに戦いぶりも見てみたい……次の作戦では、僕も少し前に出ようか」
「ラウルが? 止めておいた方が良い、最後に武器を取って戦ったのは何時だと思ってるんだい。前線は若い僕らに任せて、君は後方に引っ込んでいてくれよ」
「酷い言い方だね、少しばかり年下だと思って」
「ん、少しだって?」
「少しだろう、ほんの10歳程度だ」

平然とラウルが言い放つ言葉に、ソラスはそれ以上の言及を避けて、苦笑しつつ紅茶を口に運んだ。

「まあ、でも態々前に出る必要は無いよ。戦う姿なんていつでも見られるし、それに……本当に見て欲しいのは、戦闘に関してじゃない」
「……?」
「いや、勿論戦闘能力も見事なんだけどね」

ソラスの物言いは、やはり何ともはっきりしないものだった。彼自身も表現を迷っている様子で、カップを手にしたまま眉を顰め、じっと濃茶の水面を見詰めている。

「……彼はひょっとしたら、アリステル出身じゃ無いかもしれないな」
「そうなのかい? まあ、元傭兵ならそれも有るだろうけど」
「うん。何というか、ロッシュは……」

発せられた言葉は、しかし最後まで続くことなく、中途で口を閉じられてしまった。

「いや、やっぱり前情報はこれくらいにしておこうかな。先入観無しで評価して欲しいし」
「焦らすね。まあ構わないけど、後でちゃんと紹介してくれれば」
「勿論、それはこちらからお願いしたいくらいだ。今はまだ小隊長だけど、いずれ僕の副官……もっと言えば、僕の代わりに隊長になってもらうつもりだからね」
「君の代わりに? ということは君、隊長を降りるのかい」
「ああ」

驚きの色を隠さないラウルに向かって、ソラスはにこりと微笑んでみせた。

「僕も、そろそろ研究に専念する時期かと思ってさ。ロッシュに後を任せられれば、安心して退任できる」
「……ソラス、君は軍を辞めるつもりなのか」
「研究一本に絞るだけだよ。軍属であることは変わらない」

元々魔動工学者であるソラスが武器を取り戦いに加わっているのは、現場の実状をその目で確認し、本当に有用なものを作り出すという目的があってのことだと聞いた。だから、それが十分果たされたと彼自身が思ったのなら、前線を退いて兵器開発に専念するというのは自然なことである。そしてアリステルのためにも、そちらの方が有用だ――ソラスは指揮官としても優秀だが、数十年に一人と言われる程の魔動工学の才を活かした方が、結果的にはより大きな戦果に繋がることだろう。
別段反対すべき決断ではない、ただそれがあまりに唐突な話なのもまた事実だった。

「何か、研究所から圧力でも?」
「いいや。まあフェンネル技師は相変わらずだけどね、顔を合わせるたび、軍など辞めろと言ってくれるよ」

ソラスが苦笑する、魔動工学研究所の長であるフェンネルは、ソラスをライバルと称して憚らない。そのソラスが危険のある前線で指揮官をして、研究に全力を注ごうとしないのは、非常な不満の対象なのだろう。生粋の研究者であり、軍人とも政治家とも異なる思考原理を持つ老人は、常に自分の欲望に素直な言動を取る。

「だからまあ、何があったわけじゃなくてね。ただ、やっぱり僕は研究者だからさ……君や、それこそビオラ君のように、指揮能力に恵まれているわけじゃない」
「よく言うよ、戦場では負け知らずのくせに」
「それは、常勝の将たるラウル中将の下に居るからだよ。僕の力じゃあない」

面白くも無さそうに言い放つソラスの、その表情がふと真剣なそれに変わった。

「戦争を終わらせたかったら、才能の無い指揮官なんて辞めて、本気で研究に打ち込むべきだと思ったんだ」
「……それは、確かにそうかもしれない。でもやっぱり唐突じゃないかな?」

ソラスの言うことはもっともだが、それでも何故今突然、という驚きはどうしても拭えない。戦争を終わらせるため、というならもっと前に決断していても構わなかったはずだ。
勿論たまたま、それが今だったということはあるかもしれない。だが、同時に出された目の前の申請書、ソラスがこれまでになく評価する新兵の存在。関連性を見出すな、という方に無理があるだろう。

「まあ、それはもう良いじゃないか。大体今直ぐ辞めるなんてつもりは無いよ、まだしばらくは君の元で働かせてもらうからね」

しかしソラスの顔には、それ以上を語るつもりはないと明確に記されている。ならばどう言葉を尽くしたところで聞き出すことは不可能だろう、頭の良い頑固者を相手にするのは時に面倒なものだ。
諦めて肩を竦めるラウルに、ソラスはまた笑顔を浮かべてみせた。

「ともかくラウル、君にはロッシュの後ろ盾になって欲しいんだ。大丈夫、彼は必ず優秀な指揮官になる、君にも損は無いはずさ」
「勿論それは構わないけどね、僕の部下でもあるわけだし」
「うん、それだけお願いしたかったんだよ」

そう言ってソラスが勢い良く立ち上がる、これで話は終わり、ということだろう。

「じゃあ、そろそろ戻ろうかな。あまり仕事を妨害してもいけない」
「そうだね、僕もあまり休み過ぎると、秘書殿に怒られてしまう」
「おっと、それは避けないといけないな。じゃ、すまないけど書類は回しておいてくれよ」
「分かった、任せておいてくれ。月末までには動けるように、手配しておこう」
「さすがラウル中将。頼りにしてるよ」

ひらりと、入ってきた時と同じ崩れた敬礼をして、ソラスは扉へ向かう。そして部屋を退出しようとして、ふと振り返り。

「ラウル。一応聞いておきたいんだけど」
「ん、何だい?」
「君、戦争を終わらせるつもりはあるよね?」
「……何だい、突然」
「いや、ちょっと思っただけさ。で、どうなんだい」
「あるも何も、僕たちが一体何のために戦っていると思っているんだ、君は。この戦争を終わらせ、アリステルに平和をもたらすためじゃないか」
「うん……そうだね。その通りだ。妙なことを聞いて悪かったね」

安心したように、ソラスは微笑を零した。そしてもう一度敬礼すると、今度こそ扉を開き、外へと踏み出す。

「じゃあ、また。秘書殿に宜しく」
「ああ、サボっていたわけじゃないと言い訳させてもらうよ」
「ははは、何なら証言したって構わないからね」

気の抜けた笑い声を残してソラスが出て行くと、執務室に静寂が戻ってくる。ラウルは机の上に投げ出されたままの書類を手に取ると、見るともなしにぱらりと捲った――ロッシュ、何度も会話に出てきた名前が、そこにも当然記されている。

「一体、どんな人物なんだか」

ソラスは明言しなかったが、彼が軍を退くと決めたのは、まず間違いなく彼の影響だろう。一人の人間にそれだけの変化を与える何かが、この男にあるのか。
それに、ソラスが退任するとなれば、彼は優秀な部下を一人失うことになるのだ。この新小隊長が代わりになると、ソラスは断言していたが……本当に、それだけの力を持っているのかどうかも、気になるところだった。

「まあ……いずれ、分かることだけどね」

ただの一兵卒であれば動きを確認するのは難しいが、小隊単位ならばその働きは報告の対象になる。その時、ソラスの評価が正しいものであるかどうか、明らかにできるはずだ。あれほど熱烈なソラスの様子を思えば、本物であって欲しいと願うばかりだが。
ともかく、ラウルが今するべきは、次の出陣に小隊設立が間に合うように人事部を動かすことだ。それにに必要な手続きを行うため、ラウルは手にした書類にペンを走らせた。



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セキゲツ作
2011.06.20 初出

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