「折角のお申し出ですが」
ロッシュがそう口にした瞬間、目に見えて隊長の顔がしかめられた。その横に座る少将も、表情に出しこそしないが、内心では隊長と同じ感想を抱いているはずだ。上官二人に厳しい視線を向けられたロッシュは、しかし彼らの様子に頓着することもなく、淡々と言葉を続ける。
「俺には、過ぎた役目です」
「そんなことはない」
ラズヴィル丘陵での勝利から数日後、無事アリステルに帰還して作戦行動を終えたロッシュに伝えられたのは、上官による呼び出しの命令だった。しかも直属の上司となる隊長ではなく、その上に立つ少将からの呼び出しである。将校から直接の召喚を受けるなど、一兵卒にとってはあまり経験する機会の無い事態だ。
「先の戦いでも、君が中心となって戦局を切り開いていた」
「そんなことはありません、隊の奴ら皆の働きで得た戦果です」
「それは確かにそうかもしれない。しかしそれを引き出しているのが、君の力だと言っているんだよ」
だがロッシュにとってはそんな状況も、さしたる動揺を引き起こすものではない。少将の執務室に趣き、二人の上官を前にしている今も、ロッシュは普段の態度を崩していなかった。媚びることも臆することもしない毅然とした態度を保っている、しかしそれは呼び出した側にとって望ましい態度では無いのだろう。ロッシュを見る上官達の目には、隠そうとしても隠しきれない不愉快が浮かんでいた。軍というのは部下が上官に従うことで秩序を保つ組織だから、「従う」などとはとても言えない頑なさを持つロッシュの姿勢が、それに属する者に悪感情を呼び起こすとは当然ともいえる。
「分不相応なことです。俺は、単なる一兵士ですよ」
「そう、今まではそうだった。しかしこれからは、もっと力を振るえる役目を担うべきだ」
重ねられる言葉にも一切影響されないロッシュの答えに、隊長の表情が険しくなっていく。振るわれる弁は熱く、少将の前でなかったら怒鳴り声が飛び出していてもおかしくはない程の情熱を孕んでいた。例えそうされたところで、ロッシュの首は動かなかっただろうが。
「もう一度言おう、君を小隊長に任命したい」
言い渡された要求は、先程告げられた同じ内容のそれよりもより厳しい、命令に近い口調で発せられていた。しかしそれでもロッシュの答えは変わらない、軍人らしい直立不動のまま真面目な表情を緩めることなく、きっぱりとした否定の意を誇示して翻そうとしない。
「これは少将の意向だ。若い兵を集めた分隊を作り、特に経験を積ませることで熟練兵を育成すると……君にはその中心、小隊長となって働いてもらいたいのだよ」
「そんな重要な役目、俺には荷が勝ちます」
「君なら務まる、というのが私の考えだ。今は一隊員として所属しているが、階級は軍曹だったな。小隊長を務めるには十分だ、勿論実力も含めてだが」
「評価していただけるのは有り難いことです。ですが、それだけの能力が無いのに引き受けては、小隊全体を危険を晒すことに」
「……まだ、そんなことを言うのか!」
ついに隊長が声を荒げる、直後上官の前であることを思い出して怒気を飲み込むが、その表情は険しく固まったままだ。息を吸い込み、抑えた声で何かを言い募ろうとするが、それが意味ある言葉を紡ぐ前に少将に制された。直属の将官の意思を無視するわけにはいかないのだろう、厳しい顔はそのままだがそれでも口は噤み、びしりと背筋を伸ばして待機の態勢に戻る。
「ロッシュ軍曹」
「はっ」
少将が口を開く、そして話し始める前ににひとつ溜息を吐いた。頑なな部下を嘆いているような、状況に諦めを感じているような、何ともいえない気配が寄せられた眉間に漂っている。
「君は以前にも、小隊長への任命を辞退しているね」
「はい」
こともなげに肯定するロッシュに、少将の口からまたも溜息が漏れる。
「何故だ? 年齢のことを気にしているのか?」
「それもあります。ですが、何度も申し上げていますが、俺の実力が伴わないというのが一番の理由です」
「先の戦いが終わった後、君以外の隊員にも話を聞いているのだがね。全員、君であれば任せられる、君にはその力があると、そう答えてくれたよ」
「……買い被りでしょう」
「ロッシュ軍曹、君は」
組み合わされた少将の指が、こつり、と机の天板を叩いた。
「二年前の敗戦のことを、考えているのか?」
「…………」
その言葉にロッシュの左腕、魔導仕掛けの義手が、きちりと微かな音を立てた。しかしそれ以外は身体も表情も僅かにすら動かず、言葉を返すこともしない。ただ一筋の揺ぎも無く立ち尽くし、じっと少将の視線を受け止めるのみである。反応が無いのに焦れたのか、それ以上を待たずして少将がさらに言を重ねた。
「あれは、確かに酷い戦だった。多くの兵が死んだ、私もよく覚えている」
痛ましい、といった様子で首を振る、それは必ずしも説得のためのポーズだけでもなかったのだろう、その目に過去を思い返す色が浮かんでいるのがロッシュからも見て取れた。二年前にこの将は一体どこに配属されていたのか、あの戦に僅かでも関わっていたのか。ロッシュは考えようとして、直ぐに今更意味のないことだと気付いて思考を止める。
「君が指揮していた小隊も、壊滅に近い被害だったな」
ちらと少将がロッシュを見た、ロッシュの表情は動かない。
「だがそれは、もっと上の、戦略上の失敗に原因があったことだ。君に問題があったわけではない」
「……有り難うございます」
「あの時で17歳だったか。当時も優秀な戦果を残していたんだ、今実力が足りないなどということは」
「それは」
少将の言葉に被せるように、ロッシュが声を発する。上官の話を遮るなど軍人として許されない行為だ、しかしそれを云々させない圧力が、彼には有った。ロッシュの静かな重みに気圧されたのか、少将も、隊長ですらもその行為を咎めることをしない。
「運が良かっただけです。今も同じことができるとは思えません」
「――だから、お前はいつまでそんなことを」
「隊長。やめたまえ」
また声を荒げかけた隊長を少将が止める、怒りを抑えきれていない隊長に対して、少将はあくまで冷静だ。さすがに将軍位を持つ立場として、一々感情を表に出さない術くらいは心得ているのだろう。その分内心で何を思っているかは分からない、少将は感情の読めぬ曖昧な表情のまま、改めてロッシュに向き直る。
「任命を、受けるつもりは無いということか?」
「はい」
そうして発せられた問に対して、迷いも躊躇いもせずに返されたロッシュの答えに、少将はまたひとつ溜息を吐いた。組み合わされていた指をするりとほどき、机に置かれていた書類をつまみあげ、そして何もせずそのままひらりと落とす。
「まだ、正式な人事決定までは間がある」
「…………」
「また後日に、正式な返答を聞かせてもらうおう」
「いえ、俺は」
「返答は後日。これは、上官命令だ」
強い口調で言われてしまえば、軍人であるロッシュにそれを覆す術は無い。しかし時間を置いたところで答えは変わらない、そう言いたげなロッシュの気配に少将は気づいていただろうがそれに対する言及はされなかった。
「もう一度、ゆっくり考えてみてくれ」
「……はっ」
少将の言葉に、おとなしくロッシュは敬礼を返す。少将の表情は読めず、隊長の怒りは収まっていないようだが、それでもとりあえず今日の話は終わったらしかった。それ以上話が続かないことを確認すると、ロッシュは再度の敬礼と共に、部屋を退出する。
――しかし、考える時間があったところで結論を変えるつもりなど無かった。それこそ決定事項として通達されるなら、軍人として従わざるを得ない。だがその気の無い人間を責任ある役職に就ける危険性くらいは彼らも分かっているだろうし、ロッシュの態度がはっきりしている以上、あまり強引な決定はされないはずだという目算があった。
だからロッシュは、扉を閉めた時点で、その話を脳の片隅へと追いやり。そして変わらぬ日常へと戻るため、一般兵士の集まる一階へと下りていった。



 ――――――



少将の執務室にロッシュが呼び出された、その翌日。
ロッシュは呼び出しも任命の話も、何も無かったかのようにいつも通りの時間を過ごしていた。実際彼の中では答えは既に確定している、例え考慮期間があったとしても、その間に成すべき何かなどはない。日課の鍛錬をこなすその間も、昨日の話のことなど、考えるどころか思い出すことすらされなかった。そしてその日は何の邪魔も入らぬまま一日の終わりを向かえ、訓練室を引き上げて部屋に戻ろうとした、その時。
平穏を破り、ロッシュを捕まえた男がいた。
「ロッシュ」
軍人には珍しい赤い服、細身だが鍛えられた身のこなし、そして決定的に愛想に欠けた顔付き。いつもと変わらず表情の変化に乏しい友人は、しかしロッシュの目には常より少々機嫌が悪く、苛立たしげな様子をしているように感じられる。
「ストックか。何だ、どうかしたのか?」
「お前が、小隊長に任命されると聞いたが」
ストックが発した言葉に、ロッシュの眉間に微妙な皺が寄る。昨日の今日でもう噂が広がったのか、そう考えたところで、他の隊員にも話を聞いたという少将の発言を思い出した。その時ストックにも話がされたのだろう、だがそれにしてもこの男、階級だの昇進だのと言った話に興味が無いように思っていたのだが。普段の印象に対する持ち出された話題の違和感に、ロッシュは内心首を捻る。
「ああ、話はあったが」
「受けたのか?」
「いや、断った」
ロッシュが答えた途端、ストックの不機嫌な気配が一気に強まった。その反応もまたロッシュの予想を超えたもので、彼の意図は依然読めないままだ。しかしそんな戸惑いなどにストックが頓着する様子は無い、不穏当な表情と共に睨むに近い視線を寄越してくる。
「……何故だ?」
「んな、何でっつっても」
ロッシュにとってみれば、こちらこそ何故と問いかけたい気分だった。ストックがこんな話を持ち掛ける理由も、挙句返答に機嫌を損ねた原因も、さっぱり不明なのである。普段から何を考えているかよく分からない友人ではあるが、今はさらに目的が分からない。しかし正面から問いただしてさらに不機嫌になられても敵わず、ロッシュは嘆息を堪えながら、話を続けて様子を見ることにする。
「無理だろう、俺じゃあ」
「何故、無理と言える」
「そりゃまあ、こんな若造が上になるなんてな。他の奴もやり辛いだろうし」
「そんなこと……お前なら、関係ない」
「いや、どういう意味だそりゃ」
ストックの発言にやや表情を引きつらせたロッシュの顔を、当の本人は不思議そうに眺めている。その表情を見るに、言葉以上の意味は全く無かったのだろう。普段から実年齢よりも大分上に見られることが多いロッシュとしては、例え悪気が無くとも反応せずにはいられない発言だったわけだが、そんな微妙な心理を理解する程繊細な相手ではない。何ともいえぬロッシュの反応を、ストックは取り敢えず気にしないことに決めたようだった。
「お前は、確かに歳は若いが、実力も実績も上官に昇進するに不足ないものだ」
「……どうだかな」
「どうしてそういう言い方をする? お前が隊の主軸になっているのは皆も認めるところだ、先日の戦いだってお前の力で」
「いや、それは違う」
ストックが言いかけた台詞が終わるより先に、ロッシュはそれをきっぱりと否定する。
「お前や、隊の他の奴等や……全員が命を賭けて戦ったから、得られた勝利だ。俺だけがどうこう言われるもんじゃねえよ」
「……お前は」
一瞬ストックの声が途切れ、瞼がすうっと細められた。眩しげにも見えるその形は、珍しく長い間いつもの無表情に変わって居座ったが、やがて鋭く刺す目付きへと変えられる。
「それが言えるお前だから、上に立つ必要があるんだ」
そして真っ直ぐにロッシュを見ながらストックが言う、しかしロッシュは聞かぬふりで荷物を背負った。視界の端にストックの顔が歪むのが見えるが、それを無言で振り切り、踵を返して歩き出す。もうこの話は終わり、そう態度で示したにも関わらず、ストックは横に付いて離れようとしない。
「ロッシュ。話を聞け」
「んなこと言ってもな。もう決めたことだし、返事もしてあるんだよ」
「しかし」
「しつこいな。大体何でお前が、んなこと気にするんだ?」
呆れた口調で発せられた台詞は、掛け値なしにロッシュの本音である。彼からすれば、自分が昇進しようが何だろうが、ストックにとってはどうでも良いことだろうと思うのだが。確かに兵の中には、自分の地位を確保するために士官位に昇りそうな相手に取り入る者も居る、しかしストックは確実にそんな性質ではない。さして長い付き合いというわけではないが彼の性情についてはそれなりに理解してきたつもりだ、むしろ誰に対しても貫いている無愛想な態度は保身の対局に位置するもので、友人としては多少世渡りを覚えたほうが良いのではないかと心配になる程である。
――だからこそ、分からない。
「俺が受けようが断ろうが、お前に関係あることか?」
そう言われたストックは、驚いたように目を見開いた。脚が止まり、歩き続けるロッシュとの間に僅かな距離が生じる。
「……それは」
しかし硬直したは一瞬だけのこと、直ぐに歩みを再開させ、つかつかとロッシュとの空間を詰めた。瞳は先刻までよりもさらに鋭い光を宿しており、それは真直ぐにロッシュの横顔に注がれている。
「自分の所属する隊のことだ。関係無いわけがないだろう」
「まあ、そりゃそうか。だが、今の隊長に不満があるわけでもないだろ?」
「そうだな、しかしより適任な者が居るなら、そちらの方が良いと思うのは当たり前だ」
「適任……ねえ」
ロッシュが溜息を吐いた、それを横でストックが睨み付けるように見詰めている。ストックの主張は、多少の引っ掛かりに目を瞑れば納得できないことではない。戦いの中で兵士一人が出来る働きには限界がある、圧倒的不利な戦局に放り込まれれば単身それを逆転させることは不可能だ。戦争において一兵卒は所詮駒でしかなく、戦略、戦術を担当する士官の能力は、兵個人にとっての生命線とも言える。それを考えればストックが語る内容は妥当なものだが、ロッシュの疑問を全て払拭するにはまだ足りない。
「お前が、んなこと気にするとは思わなかったな」
「どういう意味だ」
「いつも、上も何も関係なくやってるだろ。上官が誰とか、そこまで気にしているようには見えないぜ」
「……俺だって、無駄死にしたいわけじゃない。付くなら、信頼できる相手が良いに決まっている」
ぼそりと溢された声に、首を回してストックを見る。憮然とした表情、そこに嘘の色があるか、ロッシュには判断が付かなかった。全くの欺瞞ではないだろうが、心底からの本音とも思えない、語っていないことがあるというあたりが妥当だろうか。もっとも、それが当たっているとしても、別段意識してのことでは無いだろう。ストックという男は、言葉が足りないのが常のことなのだから。
「信頼、か」
「ああ」
「ってことは、やっぱ今の隊長に不満があるのか?」
「……そういうことじゃない」
ストックの視線は鋭くロッシュに投げられているが、ロッシュは気にかけることもせず、淡々とそれを受け流している。その様子は昨日、少将の前で見せていたのと同じものだったが、そのことにロッシュ自身気付いていたのかどうか。ただ少なくともストックには、ロッシュの姿勢が普段のそれと違うと感じられたのだろう。不機嫌な気配はいっそ怒りに近いものになり、大きくは動かない表情の中に、それでも内面の苛立ちが現れているのがはっきりと見て取れる。
「話を逸らすな、ロッシュ」
「逸らしたつもりは無いが……いや、むしろ最初から何の話だったよ」
「何故お前が小隊長にならない、という話だ」
叩きつけるように言われ、ロッシュの眉間に皺が寄った。ロッシュとしては何故そこを追求されるかがそもそも分からないのだ、それをまるで逃げているように言われては、さすがに気分が悪い。
「さっき言わなかったか? 俺には無理だって」
「だから! どうして無理だと、言っているんだ!」
珍しい、というより殆ど初めて聞くストックの大声に、ロッシュの目が丸くなる。
「何だ、そんな声も出せるんだな」
「――ロッシュ!」
だん、と音を立ててストックの拳が壁に叩きつけられた。城の廊下だというのに目立つ事をする、人事のように、ロッシュは考える。
「話をしろ」
「してるだろ」
「していない。ロッシュ……お前は、一体何を隠している?」
「何もねえって」
「ならば避けている」
「……避けているつもりも、ねえよ」
「俺にはそうは見えない」
ストックの視線は恐ろしいほどに真剣だ。研がれた刃のように鋭いそれが突き刺さる、その感覚はいっそ物理的な重みを伴ってすら感じられた。
本当に、どうしてここまで心を動かす理由があるのか。無表情に隠れた感情は意外と熱いものだと最近知ったが、それにしてもこれほどの強烈な思いをぶつけられるとは。
――それはけして、嫌なわけではない。ただ純粋に不思議で、そして少しだけ申し訳ない心がある。彼の言う通り、自分は真剣に向き合うことができていないのかもしれない。避けているつもりなど無かった、だがしかし、もしかしたら。
「……ところでお前、どこまで着いてくる気だ?」
ロッシュが言うと、ストックがふと気づいた様子で立ち止まる。歩きながら話していた二人は気づけば城門に辿り着いてしまっていた。外はもう暗く、歩く者もすっかり少なくなっている。見張りの兵以外に見えるのは、家路を急ぐ姿ばかりだ。その中で二人連れ立ちながら、険しい顔で睨み合っている彼らは、随分浮いた存在だっただろう。
「お前は、どこに行くつもりだ」
「や、単に部屋に帰るつもりだったんだが」
「なら、そこまでだ」
当然といいたげに断言するストックに、ロッシュは密かに嘆息する。
(逃げられない、か)
反射的に浮かんだ思考に、ああやはり自分は逃げていたのか、と。気付いてしまえばもうそれ以上、ストックを拒むことは出来ない。
そこまで追い詰められて初めて、自分に向かってくる友人を受け止める覚悟を、ロッシュは決めたのだった。



 ――――――――――――――――――――



居住している部屋に戻ると、ロッシュは先ず水瓶を置き、次いでランプを手にとった。アリステル城の直ぐ近くに建てられた兵宿舎は、城で焚かれる灯りのおかげで多少の光が入ってくるが、それでも夜証明無しで居られる程ではない。少し煤で汚れた火屋を拭い、片手で器用に火を入れる。使い古した無骨なランプからは、それでも狭い部屋を照らすのに十分な光が溢れだした。
「……一人部屋なのか」
ロッシュに続いて入ってきたストックが、室内を見回しながら呟く。基本的に兵宿舎にあるのは四人か六人用の大部屋であり、個室は僅かにしか用意されていない。限られたそれらの部屋には上士官などの特権を持つ者が入るのが普通だ、階級は軍曹、しかも実際は隊も持たない一平卒のロッシュが個室を使っているのは、確かに不思議に感じられるだろう。
もしくは、単純に個室が珍しかっただけかもしれないが。ストックもまた兵宿舎を利用している、実際に部屋を訪れたことは無いが、ならば大部屋で複数人と暮らしているはずだ。自分の住まいとは異なる造りの部屋は興味掻き立てるものなのかもしれない、視線と気配で部屋の中を探る彼の様子は、どことなく知らないところに連れてこられた猫の姿を連想させる。
「ガントレットの整備とか、色々あるからな。相部屋だと、都合が悪いんだよ」
「……そうか」
肩を竦めてロッシュが言うと、ストックもそれで納得したらしかった。部屋の観察も一段落が着いたのか、勧められた椅子に大人しく腰を下ろし、そのまま部屋の主の動きを目で追っている。ロッシュはそれを意識の端に感じながら、とりあえず荷物を片付けると、棚を漁って二つのカップを取り出す。
「悪いが、茶なんて気の利いたもんは無いぞ」
「ああ、構わない」
来客用の茶などはこの部屋のどこを探しても存在しない、そもそもこのカップ自体を最後に使ったのも、一体いつのことだったか。それくらいに人の出入りしない部屋った。
そもそもロッシュ自身に関しても、この部屋で過ごす時間など殆ど無い。食事は城の食堂で済ませているし、鍛錬は訓練室で行うのが普通である。ガントレットの整備も、ストックにはああ言ったが、実際は研究所で行うことの方が多かった。するといったら寝ることくらいという場所は、それを表してか生活感というものが全く感じられない。家具も最低限しか置いておらず、寝台と棚と机、あとは椅子が一脚あるだけだ。そのたった一つの椅子をストックに譲ったロッシュは、唯一頻繁に使われている寝台へと腰掛ける。そしてランプの明かりを挟み、改めてストックと向かい合った。
「……すまない、突然」
「おいおい、今更それを言うか?」
唐突に殊勝な言葉を吐くストックに苦笑しながら、水を注いだカップを手渡す。大人しげな台詞の割に視線は鋭いままだから、話を引くつもりは毛頭無いのだろうが。しかしそれでも、先程の激昂は一旦形を潜めたようで、ロッシュは一つ息を吐いた。そのままカップを口に運ぶ、含んだ水は文字通り味も素っ気もないが、それでも喉を潤す役には立つ。
「水ですまんな、茶は」
「それは、さっきも言った」
ロッシュの言葉に今度はストックが苦笑する、だがその笑いはどこかぎこちない。おそらく自分も同じような顔をしているのだろう、そうロッシュは創造した。お互いに話し始めの入り口を探している、道を間違えればまた言い合いの迷路に入り込む、そんな気配を感じているから尚更慎重だ。
「まず、謝っておくが」
そして、先に口を開いたのはロッシュだった。ストックの視線は鋭いものだったが、その中に攻撃性は無いように感じられる。それならば多少進んだところで直ぐに話がこじれることは無い、そう考えて一歩を踏み込んだのだが、今のところそれは外れていないようだった。目前の友人の様子に、多少の戸惑いはあるが揺らいだ様子はない。
「自分のことを話すのは苦手でな。くだらん話ならいくらでも出来るが、真面目に話すことなんざそう無いから、慣れてないんだ」
「……ああ」
「だからまあ、その、何だ。……うまく話せなかったら、すまん」
「分かった」
神妙な様子で返される返事は素直な肯定で、その殊勝さにふと笑いが漏れそうになる。
根は良い奴なのだ、ただ感情の表現方法に問題があるだけで。そんなことを考えるロッシュの内心は当然ストックには伝わっておらず、だからストックは憤ることもせなく、変わらない生真面目な表情を浮かべたままだ。
「ならば、俺も先に言っておく」
「おう」
「……俺は、話すことがあまり得意じゃない。気を悪くさせたら……すまん」
そして真面目な顔のまま至極真剣な様子でそんなことを言うものだから、ロッシュは堪え切れずに微かな笑みを漏らした。全く、何を言うかと思えば。怒らせまいと様子を伺っていた遠慮などぽかりと忘れて、浮かんだことをそのまま声に上らせる。
「んなことはもう、知ってるよ。大丈夫だ」
「……そうか」
ロッシュの笑いに、ストックは決まり悪そうに顔を歪めつつ、もう一度水で口を湿らせた。その行為が文字通り呼び水となったのか、瞳の色がすっと変わる。真剣な色味、勿論今までがそうでなかったわけではないが、しかし今のそれは明らかに異なる。つまり行動に移す意思が固まっているかどうか――ストックは一度息を吐くと、その口を開いた。
「それなら、話をしよう」
「……おう」
互いに意識しないまま居住いを正す。ロッシュが誰かに頼られることは多い、戦いに関しては勿論だが、それ以外についても仲間に相談を持ちかけられる機会がよく有った。目の前の友人とも、つい数日前に真剣に語り合ったばかりである。しかしその時とは、心持ちとは明らかに違っていた、それはロッシュ自身のことが主題であるかどうかによる差異に他ならない。
(苦手なんだが、な)
深い事を考えるのは。いや違う、他の誰かのことならいくらでも真剣になれるし、その質と結果はともあれ考えることは辛くない。だがそれが自分自身のことになると、途端に歯止めがかかるのだ。もっともストックは、そんなことを言っても解放してくれる気などは無いだろう、だからもう諦めて付き合う他は無いのだ。覚悟を決めたはずなのに、ともすれば逃げようとする心を、理性の力で慌てて押し留める。
「そうだな……まず、俺は怒っている」
「いきなりそれか」
思考を巡らせる間にストックが先制した、その内容に思わずロッシュは苦笑する。相変わらず妙なところで直裁な男は、別段虚を突く有利を狙ったわけでもなく、実に単純に思ったことを口にしただけなのだろう。ロッシュの笑いをどう受け取ったか、表情に憮然とした色が混じり、視線がまた睨み付ける形に変わる。
「笑うな、本気だ」
「分かった、分かってる、悪かったよ。で、怒ってる理由は何なんだ?」
「……直接は、お前が小隊長昇進の話を蹴ったことだ」
「さっきも言ってたな。だが、俺には分からねえんだが」
どこかで聞いたような話の流れ、このままでは先程と同じ堂々巡りになるのではないかと、ロッシュの心中にひやりとした危惧が流れた。暗闇の中を手さぐりで進むような心ともなさ、あるいは足元に転がる岩を避けながら歩むかのような不安定を感じながら、ロッシュは必死で言葉を選ぶ。
「何故、んなことに拘るんだ?」
「……関係ない、と言いたいのか?」
「いや、そういうわけじゃない……」
どう話せば己の中の疑問が伝わるのか、そしてストックの言わんとすることを受け止めることができるのか。大して回らぬ己の頭が呪わしい、こんな時は多少ばかり戦い方が上手かったとしても、何の役にも立ちはしない。
「お前は、俺が辞令を受けた方が良いと思っているのか?」
「ああ」
「そうか……」
迷いなく頷くストックの視線は、強い。それが何故かは分からない、だが彼はどうやら、ロッシュが隊を率いるべきだと強く思っているようだった。その理由は一体何なのか、先ほど城で語っていた内容だけでは不十分であるように、ロッシュには感じられるのだが。
「ロッシュ。……むしろ何故、辞令を拒む?」
ストックが問いかける、本当に不思議そうな様子で。ロッシュにはその真意が分からない、一体何処にそれほど強硬に主張するべき点があるというのか。
確かに、軍で昇格するということはつまり権力を得るということに繋がり、それを望むのは多くの人間が持つ本能に近い性質だ。だからストックの疑問もおかしいものではない、はずである。
しかし間を置かず口を開いたストックが発した、そんな当たり前の解釈とは全く異なる意味合いのことだった。
「お前は、護りたいと言っていただろう」
「…………?」
「戦うだけが目的では無いと。何かを護るために戦うことができると……そう、言っていただろう」
それはいつのことだったか、いや、思い返す必要がある程遠くにある話ではない、ほんの数日だけ遡れば直ぐに辿り付く出来事。確かに覚えている、あの時の酒の味も、目の前の男の苦しげな様子も。こちらを見据えるストックの目が、記憶の中のそれと一瞬、重なった。
「その言葉は、偽りか?」
「……いいや」
戦場に立つ自分の後ろにある、大切な者たち。それを護りたいと思う気持ちはロッシュの中に間違いなく存在する、何に誓ってもそれは断言できた。
「なら、何故上に立つことを拒む?」
「…………」
「一兵卒のままで出来ることなど、どれだけあると思うんだ。国や、そこに住む者たちを護るのに、今のままでは何も出来はしない。力を持つことは絶対に必要だ」
ストックの言うことは確かに正論だ、人一人の力に限界がある、そんなことはロッシュにも痛いほど分かっている。護りたければ。友人を、仲間を、恩人の遺した思いを――大切なもの全てを本当に護りたいと思えば、そこに必要なのは力だ。単純な戦闘能力とは違う、戦の行方を左右する、もっと大きな力。
小隊とはいえひとつの部隊を指揮する立場になれば、その一端を手にすることができる。それを拒むということは確かに、護りたいという心が偽りだと思われても仕方がないのかもしれない。
「ああ、そうだな」
「なら何故」
「ストック。お前の言う通りだ、一人の力で護れるもんは、たかが知れてる」
「…………」
「だから、だよ」
意味が分からない、そう言いたげにストックがロッシュを見た。
「俺一人の力で庇えるもんは、限りがある。だからそれ以上を持つ気は無い、それだけだ」
「……だが」
「隊を率いても、そいつらを護る自信は無い。それなら、最初から受け取らないほうが良いだろう」
「だがそれは、誰が隊長でも同じことだ。隊全員を完全に護れる者など居ない、お前が引き受けたから特に隊員が危険に晒されるなどということは無いんだ」
「ああ、そうさ。だから――逃げていると言われても、仕方ねえな」
ストックの目を直に見据えて言い切る、その声の重さに、ストックは僅かに動揺の色を見せた。瞳がどこか悲しげに揺らぐ、それをロッシュは淡々と眺めている。申し訳ない思いはあった、ストックがロッシュに抱いていた何某かの期待は、恐らくきっぱりと裏切られたことだろう。最初から大した人間では無かったんだ、そう言おうと思ったが声に出すのは躊躇われ、結局喉の奥に飲み込んでしまった。
「……同じ軍の兵も、お前にとっては護るべき相手、か」
「ああ。仲間なんだ、当たり前だろう」
「そうか。……それを、一人で」
「護れるわけがない。そんなことは分かってるさ。だから、戦場では一人の方が良い」
逃げている、自覚してしまえばそれは明確な真実だ。例えロッシュの傍に居なくても、同じ戦場のどこかで仲間が死んでいっているという事実は消えないのだから。
それでも。例え逃げているだけだとしても。
「……もう、自分の後ろで誰かが死ぬのは、沢山だ」
痛覚を持たないはずの左腕が痛む、錯覚だと分かっていても消えないそれは、かつて生身の腕が受けた最後の記憶だ。時折蘇ってロッシュを苛む、忘れるなと声を上げる。ふと、ロッシュは自分が笑っていることに気付いた。苦笑とも自嘲とも分からぬ笑みは、ストックの目にどのように移ったものか。それが知りたくてストックを見る、そこに失望の色があるのを覚悟して。だがしかし、予想に反して注がれていた強い光に、瞬間ロッシュは気圧されるような驚きを覚えた。
「それなら」
ストックが言う、その声は大きくもなく、勢いがある訳でもないのに、不思議と強い。それはただひたすら真剣にロッシュを見詰める、その視線に由来する力だろうか。
「それなら、ロッシュ……俺を、護るな」
「……何?」
「俺のことを、護るな。お前が護らなくても俺は死なない……だから、俺を護るな」
強い声だった、ロッシュが圧倒される程に。愚かな程に一途で、笑ってしまうほどに真剣な言葉を、しかしロッシュは笑い飛ばすことは出来なかった。
「俺は、お前の後ろには行かない。お前の横に立って、一緒に戦う」
当たり前だ、これほど真直ぐに向けられる思いを、笑うことなど出来るものか。
その本気が、一筋の迷いも無く伸ばされる意思の強さが、場から余計な温度を奪っていく。
「それなら、一人で戦うよりも、護れるものは増えるだろう」
「……えらい自信だな」
「ああ」
「根拠があって言ってるんだろうな?」
「……それは、一緒に戦ったお前が、一番知っているだろう?」
ふ、と不敵な笑みを浮べ、ストックは腰に佩いた剣に触れた。その通りだ、彼の強さをロッシュは知っている。ストックと肩を並べて戦う時の安定感、それはどう表層を繕ったところで、既に戦士としての本能の奥に刻み込まれてしまっていた。
だから、否定出来るわけもない。まして今のストックを前にしては。
「ロッシュ。俺を、信じろ」
真正面から見据えられ、そんなことを言われてしまえば。もはや逃げ続けることなど、出来る筈もないのだ。
「ったく、お前は」
ロッシュの表情は、いつの間にか苦笑の形に歪んでいた。勿論笑いたいわけではない、しかし悔しさと申し訳なさと、認めたくは無いが嬉しさと。それらがない交ぜになった奇妙な心持が、自然と顔に浮かび上がってしまう。
「普段は大して話さねえくせに。たまに長く喋ったと思ったら、これか」
「…………」
「とんでもねえ殺し文句を言いやがる、ってことだよ!」
怒鳴るように言って肩をたたくそれは、言ってしまえば照れ隠し以外の何物でもない行為だ。だがそれでもロッシュが全力に近い勢いで叩けば、流石にそれなりどころではなく痛かったのだろう、何をすると迷惑そうにぼやきつつストックがロッシュを睨み付ける。しかし言葉と異なりその目に剣呑な色は見受けられない、敢えて何かを探すなら、気恥ずかしさを隠す不満とロッシュの反応を伺う気配が少し。
「……お前は、人が真剣に」
「分かってるよ。……心配かけて、すまんな」
先手を打って言ってしまえば、それ以上は文句も言えず、ただロッシュを見詰めるだけだ。その視線を受けながら、ロッシュが言うべき事はきっと山ほどある。しかし言いたいことは、まず伝えたいことは。
「ありがとよ。おかげで、迷いが晴れたぜ」
「……それなら」
「ああ、こんだけ言われてまだ逃げたら、男じゃねえや」
にい、と今度は苦笑などではない力強い笑みを見せてやれば、ストックの張り詰めた気配がふうっと緩む。そして、無表情な彼のことだからさほど大きなものではないが、こちらもまた力の篭った笑顔を浮かべた。
「やってやろうじゃねえか」
「ああ。お前なら、できる」
「こら、今自分が言ったことを忘れんなって。俺とお前、だろ?」
「……そうだな、勿論」
視線がかちりと合えば、それ以上の確認など必要なく、互いの本気を感じ取ることができる。本来これは笑って話せる事ではない、自分と相手だけではなく、何人もの隊員の命を賭けた重い決断なのだ。だが臆する気持ちはロッシュの中から消えていた、一人で背負わなくても良いと言ってくれた、友の言葉がロッシュを支えてくれている。
「頼りにしてるぜ?」
「ああ。任せておけ」
更けた夜の闇が、彼らの声を吸い取って広がる。
今この時は唯の言葉、何の実も伴わない約束事に過ぎない。しかしこの夜語られたことが、さほど時を置かぬうちに現実となり、そして歴史を変える大きなきっかけのひとつとなることを。
今はまだ、誰も知らない。




それからしばらくの後、アリステル軍の中に、ひとつの新しい小隊が編成された。
金色の髪の二人が率いるその小隊は、年若い兵を集めたにも関わらず、目覚しい戦果を挙げることとなる。
いつしか軍の内外で、彼らを指して『アリステルの若獅子』と呼ぶようになり、続く戦争の中で明るい話題として語られていた。


――数ヵ月後に、突然の解散命令が出されるまでは。




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セキゲツ作
2011.04.02 初出

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