ラズヴィル丘陵西端、本来ならば柔らかな緑が広がる長閑な場所であるはずのそこに、広がっているのは惨憺たる光景だった。踏み荒らされた草原には、アリステルとグランオルグ、両軍の兵士の亡骸が散らばっている。そしてそれらの合間に転がるのは、動くことの出来ぬ負傷兵達だった。負った傷が比較的浅く、自力で動くことが出来る者は既に陣へと引き上げているから、今ここに残されているのは死と生の狭間にあるような重傷者達ばかりだ。血臭と呻き声が渦巻く凄惨な戦場跡、そこを回復隊が走り回り、横たわる生存者達に薬や回復魔法を施していく。それである程度回復すれば陣に戻らせるが、しなければアリステルの城へ輸送し、本格的な治療を施さなくてはならない。
(慣れたつもりでも、嫌なもんだ)
その中を歩きながら、ロッシュは溜息を吐いた。兵の輸送には加わらずに一人付近を探索しているのは、勿論任務を放棄しているからではなく、片腕が義手では怪我人が運べないというだけの理由である。右腕のみで成人男性一人程度運ぶことも、ロッシュの筋力ならば十分可能だが、そこに「怪我に障らないように」という条件が付いてくれば話は別だ。歩けないほどの重傷者には大抵の場合、荷袋のように肩に担ぎ上げられた状態に耐える余裕など残っていない。持ち上げた時点で耳に痛い叫び声を上げてくれることだろう、勿論、痛みを感じるだけの意識が残っていない場合は別としてだが。
道を挟んだ向こうでは隊の仲間達が負傷兵を陣に運んでいる、時折響く悲鳴がこちらに届くほど大きいから、きっとあの兵は助かるだろう。意識があるのみならず、叫ぶことができるということは、まだ生命力に余裕があるということだ。死の間際に居る人間には、声を出す余力すらない、そしてロッシュの近くに転がっているのは概ねその『叫ぶ力すら無い』者たちだった。身動きはおろか助けを呼ぶ力も無い重傷者、または既に呼吸すら行っていない死体。グランオルグ兵の姿が多いのは、今回がアリステルの勝ち戦だったからだ。それでもアリステル軍の兵装もいくらかはある、ロッシュはその中に息のある者が残っていないか、一体ずつ様子を確かめていった。
「……ぅぅ」
誰が発しているのか、地を這うような苦悶の声が響いている。助けを請うているのか、怨嗟を訴えているのか、それとも意識などなく単に呼吸が声帯を震わせただけなのか。ロッシュは声の主を探したが、それがグランオルグの兵装であることを確かめると、そのまま視線を素通りさせた。当たり前だが助けることはしない、探しているのはアリステル兵の生存者であり、敵兵に用は無いのだ。そもそも先ほどまで彼らと戦い、死を与えてきたのは、他ならぬロッシュ自身である。それを今更助けるような矛盾は、ロッシュにもアリステル軍にも存在しない。
外した視線を追いかけるように響くうめき声は、確かに気持ちのいいものではなかった。だがそれだけだ、声は所詮声であり、物理的な効力など何ひとつ持ちはしない。殊に軍人であるロッシュにとっては、少しの切り替えで思考の外に弾き飛ばせる、その程度のものである。
しかし、彼にとってはそうで無いのかもしれない。遠くから見えてきた赤い衣が、色だけでなくその様子まで伴って見えるほどに近づいた時、ロッシュはそう考えた。彼もまた生存者を捜していると思っていたが、どうやら違っていたようだ。彼が跪き覗き込んでいる相手は、自軍の兵装を着けていない。
「ストック」
ロッシュの呼びかけに、ストックが顔を上げる。いつでも大して動くことのない無表情は今もやはり彼の顔に張り付いていたが、ここしばらくの付き合いで、ロッシュには少しだけ彼の感情の動きが分かるようになっていた。今あるのは、悲しみと悩みと――後は良く分からない、ロッシュには無いような複雑な想いかもしれない。だが想いが読めずとも、彼今何をしていたのかは、横たわるグランオルグ兵を見れば直ぐに分かる。荒い呼吸を繰り返すその兵の傷跡には、回復魔法が施された痕跡があった。
「知り合いか?」
「……いや」
ストックの応えは、よく考えずとも奇妙なものだ。普通に考えれば今まで殺し合っていた相手を治療することなど有り得ない、それこそ以前からの知り合いだったという理由でもなければ。しかしロッシュの目から見て、問いかけを否定する言葉に嘘はないようだった。道理に合わない行動だが、それ以上追及することをせず、黙ってストックの隣に立つ。
横たわる男の傷は、言わずもがなだが深い。肩口に刀傷、だがそれ以上に重傷なのは潰れた脚だ。恐らく乱戦の中で倒れこんだところを重装歩兵にでも踏みにじられたのだろう、砕けた骨が肉を破って突き出し、止まらない血が装備と下生えを赤く染め上げている。酷い状態だ、ロッシュは漠然と考える。この傷では直ぐに死ぬことはできなかっただろう、しかしこれほど深ければ自然治癒も見込めない。かといって脚が潰れていては退却に付いていくこともままならなず、さらに言えば正気を失うほどの激痛が生じる程の傷でもない。希望も持てずにただ漫然と失われる体力を感じながら、身を苛む苦痛に耐えるしかないという、酷い、状態だ。
ストックが施した回復魔法は、与えられた傷を多少は塞いだようだが、出血を止めるまでには至っていなかった。いや、例え今完全に傷を塞いだとしても、命を永らえる体力が残っていたかどうか。
「…………たす、け……」
微かな、風の音にも紛れてしまいそうな声で、横たわる男が呻く。濁りかけた目は、悲しいことにまだ正気を宿しているようだった。それでももう視覚はまともに働いていないのだろう、こちらが何者か認識できれば、助けを求めるなど無駄なことはしないはずだから。
ロッシュはストックを見たが、その表情に変化はない。共に過ごした時間のうちに多少は感情の動きが分かるようになってきた、しかし多少はあくまで多少だ。言葉も無く、死にかけの男を見下ろすその胸中に、一体何があるのか。ロッシュに読み取ることはできなかった、だからそれ以上は何も聞かずに、無言でその場に膝をつく。
「おい、聞こえるか?」
そして男の耳元に顔を近づき、声をかけた。それが届くかどうかは不安だったが、どうやら辛うじて耳は聞こえていたらしい。虚ろだった目に、微かな光が灯る。
「あ……」
「俺はアリステルのもんだ。分かるか?」
だがロッシュが告げるのは、芽生えた希望を砕くための言葉だ。それが理解できているのかいないのか、男はただ漫然と、止まる間際の浅い呼吸を繰り返している。ロッシュはそれに対しても何の感慨も覚えることなく。
「だから、お前を助けるのは無理だ」
きっぱりと、男に死の宣告をくだす。
男は僅かに視線を動かしたが、それ以上の反応は見られない。横に立つストックの気配は動かないままだ。
「俺にできるのは、このまま立ち去るか」
わずかな望みにかけて、苦しみを耐え続けるか。
「それとも今、お前に止めを刺すか」
命を諦めて、苦痛から解放されるか。
「どっちかだ。……選べ」
突き付けられた残酷な二択が、男の霞んだ脳裏に染み込むまで。沈黙が流れる間、ロッシュもストックも言葉を発さなかった。ただ遠くから聞こえてくる自軍の声だけが、丘陵に響いている。
やがて、男の眼球がゆるゆると動き。一瞬だけ、はっきりと像を結んだ。
「…………こ、ろし」
それだけを聞くと、ロッシュは相手に見えないのを承知で頷きを返し。
そして、懐剣を取り出すと、男の首に突き立てた。
切断された動脈から血が溢れだす、噴出すほどの勢いが無いのは、大した量の血が身体に残っていなかったということだ。放っておいたところでもう長くなかったのは明らかである、といって命を奪ったのがロッシュという事実が消えるわけでもないが。
「…………」
ついでに言えば、今更殺した数が1人増えたことなど、気にするような繊細さをロッシュは持ち合わせていない。戦場で殺した相手と、今手に掛けた男との間に、大きな差などあるはずもないのだ。ただ、意識に残る理由があるとしたら。
ロッシュは振り返り、ストックを見た。
「……ロッシュ」
無表情な男の言いたいことは、まだ多少しか分からない。だがそれでも多少は分かることがある、例えば今言おうとしていることが、誰かに聞かれたらまずいことだとか。ロッシュはふいと手を伸ばすと、ストックの口に覆いかぶせた。
「おおーい、ロッシュ! ……と、ストックも!」
呼び掛ける声と共に、近づく気配。向こうの救護が一段落ついたのだろう、何人かのアリステル兵が連れ立って、ロッシュ達の居る方にやって来ていた。
「どうだ、生存者は!」
「こっちは駄目だ! 死体が三つ四つ、俺とストックで戻してやるからお前らは他に回ってくれ!」
「分かった!」
距離を挟んで声を交わし合い、やってきた仲間達はまた他の怪我人を探しに去っていく。残されたストックにロッシュは向き直ると、ふと気付いてストックの顔から手を離した。ストックはまた元の無表情に戻り、その口は閉ざされてしまっている。頬に残った血の跡を見て、ロッシュは苦笑した。
「悪い、血がついた」
「……気にするな」
袖口で無造作に血を拭うストックに、ロッシュはしばし考えて。
「……今日は、戦勝の酒が振舞われるだろうな」
「それがどうした」
「今回の行軍はこれで終わりだし、皆騒ぐだろうなあ」
無言で問いかけるストックの視線には応えず、ロッシュは槍を手に歩き出した。そして、転がる死体を避けながら、一人ごとのようにつぶやく。
「張り番の奴、変わってやったら喜ぶぜ」
一番近くに横たわっていた自軍兵の死体を見つけると、ロッシュは「それ」を肩に担ぎ上げた。死体であれば、荷袋のように運ばれたところで文句は言わない。少しばかり鎧が血に汚れるが、そんなことを気にする繊細さをロッシュは持ち合わせていなかった。
「…………そうだな」
ストックもそれだけ言うと、ロッシュの後に続いて死体を運ぼうと蹲る。持ち上げようとして、体勢が整わずよろけるストックに、ロッシュは無遠慮な笑いを浴びせた。
「お前は1人じゃ無理だな」
「……煩い」
不機嫌にむくれる顔に、先ほどまでの沈鬱な空気は微塵も感じられない。ロッシュもまた、何も無かったかのように明るく笑っている。
しかしそこにはどこか、消し難い陰りが漂っているようにも感じられた。
――――――――――――――――――――
闇の帳の中でその周囲だけは明るく照らし出されている、アリステル軍本陣。そこは昨日までの緊張に満ちた様子は無く、戦勝の明るい空気で満たされていた。かがり火も普段より明るく灯され、料理の良い匂いが、先ほどまで戦場だった周囲に流れ出している。敵を退けたおかげで声や物音を抑える必要がなくなり、その反動で陣内の話し声は騒がしくすらあった。翌朝の出立に備えて荷物を整理する物音が重なり、さらに振舞われた酒に酔ったのか、調子の外れた歌声もまで響いている。賑やかな空間、しかしそこが戦争の中心地であることが忘れられているわけではない。浮かれきったところを襲撃される可能性も無いではなく、それを警戒するための見張りの兵は、いつもと変わらず配置されている。彼らは楽しげな宴の気配を背にして、自らの不運を呪いつつ、交替の時間が来るのをひたすらに待っているのだ。その不満と倦怠を隠そうともしない背中に、ロッシュは明るく声をかけた。
「よう」
接近に気付いて居なかった筈は無いのだが、自分達のところに向かっているとは思っていなかったのだろう。面白いほど驚いて振り向いた見張りの兵達は、ロッシュの姿を認めると、安堵した様子で構えた腕に込めた力を抜いた。
「ロッシュ……と、ストックか」
「おう、お疲れさん」
「どうした? 中で何かあったか?」
「いや、そういうわけじゃあ無くてな。交替に来たんだ」
向かい合った表情に疑問の色が浮かぶ、それもそうだろう。交替の時刻はまだ先だし、そもそもストックもロッシュも今日の当番ではない。無言で説明を求める彼らに、ロッシュはひょいと肩を竦めてみせた。
「ちと、こいつに話があってな」
説明は一言だけ、後は察しろと言わんばかりに苦笑を溢す。横でストックは不満げな表情を浮かべているが、普段から無愛想な男が少しばかり表情を険しくしたところで、その真意が伝わるものではない。むしろ相手の想像を煽るばかりの態度なのだが、ストックがそれを分かっているのかどうか。
現に今の相手も、詳しい説明を聞かないままに、何となく事情は察したつもりになっているようだ。それでもまだ躊躇う様子を見せるのは、一応敵襲に対する警戒の意が残っているのか。それを揺らすために、ロッシュはもう少しだけ言葉を重ねる。
「そうか、しかし……」
「隊長に話は通してあるから、お前らは戻って荷造りを手伝ってくれ」
「……うーむ、それならまあ、分かった」
最終的に彼らが頷いたのは、ロッシュとストックへの信頼故というより、単に宴に加わりたい欲望が大きかったのだろうが。それでもともかく交替を承諾した彼らは、連れ立って陣へと戻っていった。見送ったその背が浮き立っているように感じられたのは、おそらく気のせいではない。
「……あんな言い方をしなくても」
その反面、隣の男は随分と不機嫌な様子になってしまっていたのだが。言葉よりも雄弁に不満を告げる視線をさらりと流し、ロッシュはその場に座りこむ。
「気にすんな、居なくなってくれりゃそれで良いだろ」
「しかし、妙な誤解を受けたらどうするんだ」
「んなもん、酒飲んで騒いでるうちに忘れちまうさ。それより座ったらどうだ?」
見上げるロッシュに促され、ストックも腰を下ろす。未だ仏頂面は消えていなかったが、ここまでやってきて見張り番まで買って出た目的を思い出したのか、それ以上は追求を続けようとはしなかった。険しい視線の発信源が真横に来たのを確認すると、ロッシュは荷物から杯を二つ取り出し、片方をストックに渡す。続いて、こっそり宴の席から持ち出しておいた酒瓶を出すと、その蓋を開けた。安いアルコールの香りが、夜気にまじってふわりと流れる。
「良いのか? 見張りが酒を飲んで」
「一本だけだ、酔う程の量はねえさ」
「……不真面目な軍人だな」
そう言いつつ、ストックも注がれる酒を拒みはしない。杯が満たされれば今度はストックに瓶が渡り、ロッシュの持つ杯へと酒が注がれていく。酒杯が揃うと2人は無言でそれを掲げ、僅かな躊躇いの後、そっと触れ合わせた。
「…………」
何かに捧げるものでもなく、乾杯という言葉もない。愛想のない、しかし単なる習慣というにはもう少し深いところにある、曖昧な音が微かに響く。
互いに、黙ったまま酒を口に運んだ。陣からは相変わらず賑やかな声が響いているが、それ以外の場所は墓場のように静かだ。いや、大量の死がばらまかれた昼間の戦いを考えれば、墓場という比喩は適切すぎてそぐわないかもしれない。そんな沈黙に耐えられなくなったというわけでもないだろうが、とにかく先に口を開いたのは、ストックのほうだった。
「……ロッシュ」
「何だ?」
呼びかけてから一度口を噤み、少しだけ考えるような様子を見せ。そして改めて顔を上げて、ロッシュのことをひたりと見据える。その視線の強さを、しかしロッシュは臆さずに受け止めた。
「聞きたい事がある」
「ああ」
「お前は、何のために軍に入ったんだ?」
あまりにも直截な言い方に、反射的に微笑んでしまいそうになるのを、ロッシュは辛うじて堪えた。ストックの表情はどこまでも真剣で、昼間から、いやそれよりもずっと以前から心に溜めていたのだということが伝わってくる。あまりに真摯なその気持ちを退けるようなことは、したくなかった。
「……そうだな」
ロッシュも言葉を切り、少しだけ思考を巡らせる。何と答えるべきか、一瞬だけ最適の解を探してしまうが、直ぐにその試みは放棄された。自分などが少しくらい考えたところで何ほどの効果も無いだろう、それにストックは、思慮の末出された答えを求めているわけではないはずだ。そう考え、ただ感じたままを語ろうと心を決める。
「俺はそんな、立派な理想とかあったわけじゃないからなあ」
「それでも良い。聞かせてくれ」
「大した話じゃないぜ、本当に。単に働き口がなくて、志願兵の募集に飛びついたってだけの話だ」
「……そうなのか」
ストックの顔に驚きが浮ぶのを見て、ロッシュは苦笑した。
「な、期待してたようなもんじゃねえだろ」
「いや、そんなことは無い。……ただ、お前は軍人の家系なのだと思っていた」
至極真面目にそんなことを言われ、今度は耐え切れずに噴出してしまう。
「何だ、いきなり」
「いや、悪い悪い。つうか、まあ、アリステルに世襲の軍人なんてそんなに居ないぜ」
「……そうなのか」
「ああ、若い国だしな。将軍クラスならともかく、普通は志願兵出身の奴が殆どだ」
数十年前にグランオルグから独立したアリステルは、貴族や武官といった支配者層が世襲化するほどには、長い時を経ていない。編成されている軍隊も、経験の差こそあれ、元は志願兵の出身という者が殆どだ。そんなことは軍の中では常識、むしろ「知られる」という表現を使うのも躊躇われるほど普通に知られていることなのだが。ストックがそれを知らないというのは、軍に入って浅いためか、それとも出身がアリステルの外なのかもしれない。最近ではシグナスあたりからの移民も増えているようだし、そうだとしても別段珍しいことではないのだが。
「まあ、志願兵でも、ちゃんと信念持って入隊してくる奴は多いけどな」
「そうだな、見ていれば分かる」
「皆、自分の国を護ろうと思って武器を取った奴らさ。……立派なもんだよ」
「……お前は、違うのか?」
「ああ」
向けられるストックの眼差しから、意識せずロッシュの目が逸らされる。己の昔を語るというのは気恥ずかしいものだ、それが誇るべきものでないなら尚更に。
「さっきも言ったが、働き口が無くてな。親から継ぐような仕事も無かったし……食うに困ったんで、丁度軍が入隊者を募集してたのに潜りこんだのさ」
「……そうなのか」
「まあ、結果的にはそれなりに向いてたってことになるがな」
今まで生き延びられたわけだし、と豪快に笑いを飛ばすロッシュだが、ストックは真面目な顔を崩さないまま、さらに追求を重ねる。
「入隊の時は、そうだったとして」
「ああ」
「今はどうなんだ?」
「今、か」
またも直裁に質問を投げかけられる、繰り返される問答に、ロッシュ自身はそれほど面白みのある答えができているとは思わないのだが。しかしストックにとっては何がしか得るところがあるのかもしれない、そうであれば良いが、とロッシュは酒で口を湿らせる。
「ああ。今もまだ、前と同じ、飯の種としか思っていないのか?」
「そうだな、今は……今は、ちっとは変わってきてるかもな」
知らず、右手がガントレットをなぞっていた。手にした杯が金属の腕に触れ、硬質の音を奏でる。
「自分が食うためだけじゃなくて、国とか仲間とか何とか……まあそんなもんのために戦えるようにも、なってるかもしれん」
「……そうか」
「はは、改めて言うと、なんか大層なことみたいに聞こえちまうがなあ」
「大層なことだ、それは。……きっと、お前が思っているよりは」
ふ、と一瞬だけストックの目つきが暖かく緩んだ。しかしそれは直ぐまた、真剣なものへと切り替わる。
「もうひとつ、聞いてもいいか」
「おう」
「お前は、戦場に立つのが怖くはないか?」
「ねえな」
ほとんど間を置かず、きっぱりとロッシュは答える。
「……迷わないんだな」
問いかけともつかぬストックの呟きに、無言で頷きを返す。戦うことを怖がる兵が居るのは知っている、それを否定することはしない。だがロッシュにとっては、戦場に立ち続ける覚悟を決めた時に、置いてきた感情だった。ロッシュの揺るぎない姿勢を、見詰めるストックの目が微かに揺れる。
「死ぬのは、怖くないのか」
「ああ」
「……お前らしいな」
「そうか? そういわれると、うーむ……」
「だが、それなら」
首を捻るロッシュを前に、ストックは少しだけ言葉を淀ませて。しかし結局止めることはなく、再び口を開いた。
「それなら……殺すことは、怖くないのか」
ロッシュがストックを見た。表情は変わっていない、だがその目の奥には微かな不安が見て取れる。自分でそれを分かっているのかいないのか、揺らぐ光を乗せた眼差しで、ストックはじっとロッシュをじっと見詰めていた。ロッシュが何も答えずにいると、さらに言葉が重ねられる。
「戦場に立っていて、考えたことはないか」
昼間の姿がロッシュの脳裏に浮んだ、死にかけた敵兵の横に立ち尽くしていた、その姿が。
言葉は止まらない、堰を切ったように語りは続く。こんなに多くを喋るストックは始めてかもしれない、とロッシュは片隅で考えた。
「戦う相手……グランオルグの兵士にも、護るべきものがあるのだと」
「…………」
「自分と同じように祖国や家族があって、それを護るために戦っているのだと、考えてみたことは」
「あるさ」
ロッシュの言葉に、ストックの指がひくりと動いた。僅かに残っていた杯の酒が揺れる、動かない表情のまま見据える視線をロッシュは受け止め、正面からそれを返す。
「俺や、他の奴が戦って――殺してきた相手にだって、きっと戦う理由があるだろう」
「…………」
「何もなくて殺し合いやろうって奴なんざ、そうは居ねえよ。グランオルグの奴らだってそうだろう」
「それでも、怖いとは思わないのか」
「ああ」
金属音が鳴った、生身の右手がまたガントレットに伸びている。空になった杯を下に置き、ロッシュは拳を握り締めた。
「例え相手が何でも、どんな奴でどんなことを考えていてどんな信念を持ってたとしても、関係ねえ。そいつが俺の前にいる限り、俺が退いたら、俺の後ろにあるもんが危なくなる」
「…………」
「だから、一々躊躇ったりはしねえよ。覚悟はもう、したからな」
「……そうか」
ストックの杯も空になっていた、それを彼の両手が包みこむ。折り曲げられた指は少しだけ、震えているようにも見えた。
「お前は、強いな」
「そうか?」
「ああ」
そうして少し息を吐いて、気付いて自分とロッシュの杯に酒を足す。杯の中で、濃い色の液体がゆらゆらと揺れているのを、ストックはじっと見詰めた。
「俺は、怖い」
そして呟く。闇の中へ吐き出されたそれは、ロッシュに対して語っているようにも、ただ虚空に向けて発したようにも受け取れる。
「軍に入って、最初は夢中だった。ただ命を繋ぐために、戦い続けて」
「ああ」
「だが、ふと思ってしまったんだ。今まで戦ってきた相手も、同じなのだと」
ロッシュに向けられていた目は、今は伏せられ、揺れる酒を見詰めるばかりだ。ロッシュは相槌だけを返しながら、そんなストックを見守っている。
「同じように死ぬことを恐れ、家庭と生活があり、きっと護りたいものもある。アリステルに住む人間と何も変わらない、同じ人間なのだと」
「……ああ」
「そう思ってしまったら、急に怖くなった。戦うことが……殺すことが」
こんな風に誰かに語ったのは初めてなのだろう、そして一度話し始めてしまえば言葉は流れ出て止まることがない。視線を落として喋り続けるストックを見ながら、それでいい、とロッシュは考える。感情を溜め込み続けても碌なことにはならない、感情表現が得意でない男であれば尚更に、こうして吐き出すことは必要なことだ。
「俺には、お前のような覚悟が無いんだろうな」
「……そうか」
「だから、怖い……」
「ストック」
新兵を諭すようにストックに語り掛ける、ロッシュの声はどこか柔らかく、落ち着いた響きを宿していた。
「怖いなら、無理に戦い続ける必要なんてねえんだぞ」
「……ロッシュ」
「生きてく場所は、手段は、戦いだけじゃない。戦場の他にも生きてく場所はいくらでもある、軍をやめて民間の生活に戻るのも、一つの立派な選択肢だ」
「…………」
「お前は器用な奴だからな、兵隊以外だって、普通に食ってけると思うぜ? まあ、何か事情はあるのかもしれんが……変に迷ったまま戦場に出たって、命を縮めるだけだ」
「……有難う」
ふ、とストックの表情が少しだけ穏やかになった。張り詰めていた精神が緩んだのを、空気で感じる。
「大丈夫だ、戦場に出れば、迷いは無いさ。殺さなければ、殺されるからな」
「それは、怖くはねえのか?」
「いや、やはり怖い。だが戦っている間は考えている暇など無い――追いつかないんだ」
「……そうか」
「怖い、だが……戦いから逃げてはいけない。そんな気がする」
零された言葉の真意は、ロッシュには分からない。ストックが一体何を思って戦場に立っているのかロッシュは知らない、いやストック自身にも分かっていないのかもしれない。ただ彼が、他の者とは違う何かを背負っているのは、何となくだが感じられる。それは根拠も何もない、ロッシュの勘でしかなかったが。
「だが、有難う。お前と話して、少し楽になった」
「そうか、大したことは言えてねえと思うがな。少しは役に立てたんなら、良かったぜ」
「ああ」
そしてまた、ストックが杯を口に運び、ロッシュも残った酒を干す。瓶を振れば残った酒はもう少なく、二つの杯を満たしきるには僅かに足りない。それでもあるだけを注ぎ切り、空になった瓶を放り出すと、二人はまた軽く杯を合わせた。
「……俺は、酔っているようだ」
そして合わせた杯を口にも運ばぬまま、ストックが呟く。酔うほどの酒ではないし、ロッシュが感じる気配も全く正気のものなのだがそれでも、ロッシュはストックの言葉を否定しなかった。
「ああ、そうだな」
「きっと、随分とわけの分からないことを話しているだろう」
「酔ってるんだから仕方ねえさ」
「……そうだな」
微かにストックが笑った、ロッシュもそれにつられてにやりと笑みを浮かべる。一度溢れた笑いは容易に止まることはなく、しばし2人で声を殺して笑い合った。そして笑いの中で、笑顔を消さぬまま、ストックが言う。
「どうも、随分と酔ってしまったようだ。……だから、今から言うことも、酔漢の戯言と思ってくれ」
「おう良いぞ、何でも言ってくれや」
「この世界は、酷いな」
顔は笑みの形のまま、いっそ朗らかとも思える口調で、ストックは言葉を紡ぐ。
「何かを護るために、殺し合わなくてはいけないんだ」
「……そうだな」
「他の誰かを犠牲にしないと、大切なものも護れない」
明るい声だった、もしかしたらロッシュが見てきた中で一番と言っていいかもしれない。明るく笑いながら、ストックはロッシュに問いかける。
「ロッシュ。お前は、どう思う?」
「どうって、何がだ?」
「何がだろうな……」
「そうだな、じゃあこんなのはどうだ」
常に無く陽気で饒舌なストックは、まるで本当に酔い切ってしまったかのようにも見えた。いや、実際に酔っているのかもしれない、人の思考を惑わすのはアルコールだけではない。それなら、とロッシュも共に酔うことを決める。
「きっと、争わなくても、護る方法はあるのさ」
そう、互いに酔っているのだ。それならどんなに馬鹿らしいことでもできるし、素面ではとても恥ずかしくて言えないようなことを語ったりもする。
「俺は戦うことしかできんが、もっと……違うやり方で、国や、家族や、大事なもんを護っている人だって居る」
「……そうかな」
「ああ、そうさ」
武器を持たない世界で戦うかつての上官や、命を救う技術を持った恩人の妹や。そんな人達の顔が、ロッシュの脳裏を過ぎる。
命を奪い合うだけの世界ではない、未来へ向けて何かを積み上げていく道も、確かに存在するのだ。
「そうか……それが本当なら、良いな」
「何だ、疑うのか?」
「いや、そんなことはない。ただ……良いな、と思っただけだ」
「んな、人事みたいに言うなよ。お前だってきっと、出来ることだ」
「……俺が、か?」
「おうよ。俺と違って頭も回るしな」
「どうだろうな……あまり、自信が無いが」
「そうか?」
「ああ。お前は俺を買い被りすぎだ」
「んなことねえと思うがな。まあ、大丈夫さ」
「大丈夫か?」
ふと、ストックが真顔になる。素面に戻った眼差しが、ロッシュを真直ぐに射抜いた。
「この世界は……大丈夫か?」
すう、と酔いに似せた高揚が引いていく。ひやりとした夜気が2人の頬を撫でる、一瞬、世界から音が消えたかのような深い静寂が、辺りを満たした。
「それは」
頭で考えたわけではない、気付いたら口から零れていた言葉。
「俺が……いや、人が決めることじゃない」
発してから内心、その大仰さに自嘲する。口にした端から笑い飛ばしてしまいたかったが、真剣なストックの様子にそれも適わない。
まあいいか、と口に出さずに呟く。まだ自分は酔っている、そういうことにしておこう、と。
「人に出来るのは、全力で生きて……時が来たら、死ぬことだけさ」
「……そうか」
「後はそうだな、他の奴に何かを渡せりゃ、それ以上のことは何もねえよ」
「そうだな……ああ、その通りだ」
「はは……何か勢いで、妙なこと言っちまったな」
「いや、妙なことはない」
ストックの真顔がするりと解け、穏やかなものへと変わる。先ほどまでの深い苦悩も、何かを誤魔化すような高揚も、何処かに下ろしたかのような柔らかな表情。
「そうか? だが結構何つーか、こっぱずかしいことを言ってた気がするがなあ」
「そんなことは無いさ。大体、最初に言い出したのは俺だろう」
「ははは、まあ、そりゃそうかもな」
「ああ。……有難う」
「ん、何がだ?」
ストックの持つ過去を、ロッシュは知らない。知ろうとも思わない。だが、自分1人で耐えられない程の重荷があるとしたら、友人としてそれを少しでも減らせればと願う。だから今、穏やかにストックが微笑んでいるのが、素直に嬉しいと思えるのだ。――勿論、態々そんなことを口に出しはしないが。
「ロッシュ」
「おう?」
「…………」
「だから、どうしたよ」
「いや、やはりやめておく」
「何だそりゃあ……」
静かに、あるかなしかの笑みを浮べながら。確かに何かが変わった様子で、ストックはそこに佇んでいる。暗闇に光は見えたのだろうか、それは余人に分かることではないが。
それからはもう、何か深い話をするわけでもなく。ただ戯言を話しながら、夜が更けるのを2人で見詰めていた。
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セキゲツ作
2011.03.13 初出
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