一晩一人で考えて、ソニアが出した結論は、考えていてもなにも分からないという真理だった。真実に辿り着くため、思考は必要な行程だ。しかし思考のみで得られる結果など無い、研究者であるソニアは、それをよく知っている。考えても分からないことならば、実践にて学ぶ他にない。
問題は、どうやって行動を起こすかだった。ロッシュに聞くのが最も早いのだろうが、何もなかった場合を考えると、それは少々躊躇われる。単なる浮気疑惑ならばまだしも、親友との仲を疑われていたなど、妻相手とはいえ気持ちのいいものではあるまい。ソニアはロッシュを愛している、今後の夫婦生活に影響が出そうなことは、可能な限り避けたかった。
となると、取れる手段は限られてくる。確実に事情を知っているのは、ロッシュの他には後一人しかいない。そうして呼び出されたストックは、ソニアの意図が分からず、戸惑っているように思えた。そういえば、こうして二人で話すのはとても久し振りだと、ソニアはふと気付く。戦争中、特にロッシュとストックが別部署に居る間は、二人で話す機会もそれなりにあった。だが平和が訪れ、彼らがそれぞれに家庭を持ってからは、常にどちらかの家族が傍らに居た気がする。完全に二人だけで、それも雑談ではない話し合いをするなど、もうどれくらい振りか分からない。
そんな相手に呼び出され、しかも深刻な表情で迎えられたとあっては、さすがのストックも戸惑わずには居られないのだろう。場所が研究所の一室だというのも、彼の不安を煽っている一因の筈だ。この場所は、ソニアが担当しているマナの研究、あるいはロッシュのガントレットという話題を、容易に想起させる。そのどちらも、ストックにとっては重要事だ。身構えるのも当然と言える。
「……話とは、何だ」
端的な問いかけは、状況を見定めようとしてのことだろうか。ストックの性格上、問題が発生しているのなら、逃げずに立ち向かうことを選ぶのは間違いない。実際のところ、ソニアが提示する話題は、ストックが予想しているであろうものとは、大きくかけ離れている。だがそうであっても、彼の示した態度を前にして、回りくどい攻め方をすべきではない。そう判断したソニアは、誤魔化すことなくはっきりと、ストックの目を見詰めてみせた。
「ロッシュが浮気をしているようなんです」
そうして発せられた言葉に、ストックの目が丸くなる。意味をかみ砕いているのか、数秒、口を開かずにソニアを見返した。何度か瞬きをした後に、秀麗な眉が訝しげに顰められる。
「何かの間違いだろう。ロッシュがそんなことをする筈が無い」
そこにあるのは純粋な驚きであるように、ソニアには思われた。だが表面上の感情だけを信じることはできない、ストックが情報部員として優秀なことは、畑違いの部署に居ても伝わってくる。彼の能力からすれば、内心の焦りを隠すことは容易だろう。
「何か疑うようなことでもあったのか。ロッシュが、誰か他の女を囲っていたとか」
「そこまで酷かったら、疑うなんてものじゃないでしょう。相談する前に本人を問いつめます」
真剣な顔で言われた内容に、溜まらず苦笑する。逆にそこまであからさまであれば、まだ動きやすかったのかもしれない。ソニアが抱えてる疑惑はあまりに曖昧で、他人に話すことが難しい性質のものだ。夫の寝室での反応など、滅多な相手に言えるものではない。
「理由はあります、ただ、言葉では説明しづらいことですが」
「女の勘、とやらか」
「少し違いますが……いえ、似たようなものかもしれませんね。ロッシュの様子がおかしいと、そう思ったんです」
ソニアの説明に、案の定ストックは不満げな表情を浮かべた。勘だの気がしただの、論理的とはとても言えない理由である。気のせいじゃないのか、と呟いた声は、ソニアを気遣ってか小さなものだ。ソニアは首を傾げて、少しだけ考える様子を見せた。
「気のせいならばそれで構いません。ただ事実だった場合のことを考えてしまうと、気づかなかったことにはできないんです」
「お前の気持ちは、分からなくもないが」
困惑した声音で、ストックが呟く。
「それなら、どうする気だ。今ロッシュに話していないということは、あいつに直接聞く気はないんだろう」
「ええ。だからストック、あなたに聞いているんです。何か心当たりはありませんか」
「無いな」
ソニアの問いに対して、答えが返ったのは即座のことだ。嘘の気配を感じさせない真剣な表情で、ソニアを見詰めてくる。
「あいつの性格はお前が一番分かっているだろう、一時の迷いでお前と子供を裏切るような男じゃない。ましてお前以外の女に目を向けるなんて」
「ええ、それは分かっています」
だがソニアも、それで怯む程気弱な女性ではない。怯むことなく、ぴたりとストックの目に視線を合わせる。嘘や動揺があれば、直ぐにでも察せられるように。その強さに、ストックは少しばかり気圧されているようだった。如何なる時でも揺らがない瞳が、意識せずにか僅かに泳ぐ。
「何をそんなに疑っている? 一体、ロッシュと何があったんだ」
ストックとロッシュが親友であるように、ストックとソニアもまた親友だ。狼狽の混じるストックの声には、ソニアを気遣う気配が色濃く生じていた。それは嘘ではないのだろう、ソニアはそう考える。あるいはやはり、本当に全てがソニアの気のせいなのかもしれない。疑心に囚われてありもしない関係を妄想する、愚かな行為だったのかもしれない。
「ずっと色々、考えてきたんです」
そうかもしれない。そうでないかもしれない。どちらも可能性の話でしかなく、確証は何もない。そして確証を得るまで、どちらの可能性にも納得できないと、ソニアは自分で理解していた。だが確証とは何なのだろうか、ここでストックが否定して、それで心を治めることができるのか。結局のところ疑いなど、一度芽生えてしまえば最後なのかもしれないと、ソニアは思う。
「ストック、ロッシュはたまに、あなたと泊まりに行っていますね」
「俺が共犯で、その間にロッシュが浮気をしていると思っているのか? それならお門違いだ、あれは本当に」
「ストック、あなたが相手なんじゃないですか」
それでも問うのは、完全に自己満足のためだ。――そして、その問いによって、ストックの動きがぴたりと止まる。
一拍の間が開いたのは、意味を解するのに時間がかかったためだろう。その間もソニアは、目を逸らすことなくストックを見ていた。だから、彼の顔に驚愕が浮かび、血の気が引くのを、はっきりと見ることができた。
「……何故、そう思う」
絞り出すように発せられたのが、直接的な否定の言葉でないのは、どういう意図でのことだったのだろうか。自然な応答を装いたかったのか、あるいは否定するつもりが無いのか。どちらにしろ彼の反応が、全く無実の人間のものではないことは、言葉を発する前から明らかだった。
「あなたの、ロッシュに対する態度で。証拠があるわけではありませんから、否定されてしまえば反論はできませんが」
「それも女の勘、という奴か」
ストックの唇の端が、引き攣るように持ち上がった。ソニアはそれを妙に落ち着いた気持ちで眺める。否定を紡がないストックの態度は、即ち肯定なのだろう。ソニアが感じた疑念は、見事に正しかったことになる。それが分かって、それでもソニアの中には、怒りも悲しみも湧いてこない。ずっと考えていたにも関わらず、そして半ばまで肯定された今となっても、夫と親友が抱き合っているという事象が現実味を帯びないからかもしれない。
「本当なんですね」
ソニアの言葉に、ストックしばし沈黙した。どう応えたものか、そんな気配が、整った顔に漂っている。
「どうして、そんなことに。私と結婚する前から、そうだったんですか」
「いや、それは違う。……最近の、ことだ」
ソニアがロッシュの異常に気付いたのは数ヶ月前。最近と言っても、それより以前なのは間違いないだろう。言われてソニアも思い出す、二人が仮眠用の部屋を借りたのは、半年と少し前のことだ。あの時点で既に始まっていたのか、それとも部屋で時間を過ごすうちにそうなったのか。どちらにしても、始まりはその時期だった可能性は高い。
「どうしてですか」
以前彼らが軍に、あるいは情報部に居た間は、本当にただの親友同士だった。それが唐突に、彼らのどちらもが結婚した後にこんな関係になるには、何か理由があるに違いない。ソニアの、あるいは願望にも似た問いに、ストックはまた数秒黙り込む。
「ロッシュは悪くない」
そして滑り出たのは、酷く苦しげな、呻きにも似た言葉だった。ソニアが目を瞬かせる前で、噛みしめるようにもう一度、同じことを繰り返す。
「頼んだのは俺で、ロッシュはそれに付き合ってくれているだけだ。ロッシュは何も悪くない、だからロッシュのことは責めないで――いや、出来れば気付いたことも知らせないでやって欲しい」
「ストック、あなた……ロッシュのこと? それは前から、いえそれならレイニーさんは」
「違う、お前が思っているような理由じゃない。俺にとってロッシュは親友だ、以前も今も、これからも」
ストックの説明は、ソニアにさらなる困惑を呼ぶばかりだ。ソニアの意識からすれば、親友だからといって寝台を共にするわけではない。少なくともソニアは、いくら親友でも、ストックと寝ることなど有り得ないと断言できた。それとも、それはソニアが女性だからで、男であるストックとロッシュはまた別の論理で動くのだろうか。親友同士であれば、欲情することもあるというのか。
疑問と混乱による沈黙が、ストックに向けて注がれる。ストックはそれを、正しく理解しているのだろう。しばらくの間考える気配があり、溜息に似た息が滑り出た。
「長い話になる――いや、言葉にしてしまえば短いかもしれないな。だが、俺にとっては長い話だ」
その姿には、深い披露の気配が漂っている。ソニアから外した視線を地面に落とし、彼は一体何を考えているのだろう。その心が穏やかで無いことだけは分かるが、理解できるのはそれだけだ。
「話してください。私には、聞く権利があります」
「……そうだな」
ふ、とストックが笑った。
「俺は、ロッシュを殺した」
笑って、笑った形のまま、何気ないことのようにそう呟いた。
ソニアが息を吸い込み、吐き出す。沈黙の間表情を変えなかったのは、ストックが言っている意味が理解できなかったためだ。何を言っているのだろうと思い、見慣れたロッシュの姿を思い出す。今朝も一緒に食事を摂り、職場に向かう彼を送り出した。あれが死人だなどと、そんな訳はない。ロッシュは生きている、それは絶対に間違いのない真実だ。
ソニアがそう反論するよりも前に、ストックが素早く言葉を重ねた。
「今、この歴史の話じゃない。かつて在った別の時間、別の歴史での話だ」
だがそう言われて尚、ソニアは動けない。ソニアの明晰な頭脳を以てしても、人の常識を越える事柄を受け止めるのは難しい。ましてそれを、全く意識していなかった外から思い出すのは、即座には不可能だ。ストックの語る意味を考え、考えてようやく、記憶の中からひとつの情報を引き出した。
「歴史……ひょっとして、グランオルグの、あなたが持っていたという」
白示録、という名称を、戦争が終わってからソニアは知った。この世界が抱えていた大きな崩壊の種、そしてそれを抑えてきた人々の存在を知ったのと同じ時の話だ。グランオルグ王家に伝わる秘術、それは二つの書をそれぞれに持ち、歴史を移動する二人によって行われてきたのだという。荒唐無稽にも感じられる逸話は、だが間違いなく彼女の親友が辿ってきた道なのだと、ソニアも頭では理解していた。その理解と今の状況が結びつかなかったのは、知識に実感が追いついていなかったためだろう。自分が今存在するのとは別の、もっと悲劇的な歴史が存在する。そしてストックは、いくつもそれを経験してきた。そのことを、逸話として聞いてはいても、実際の出来事として捉えたことは無かったのだ。
「どうして」
だがそれにしても、ロッシュを殺したとは。やはりどうしても信じきれぬ心地で、ソニアは呟く。ソニアが知っている二人は、本当に互いを大切に思っていた。戦いと、それ以外の時間を通して築いた絆は、同じく親友と呼ばれた――そして後に恋人となったソニアですら、割って入れぬものだった。ロッシュはストックの死を何より恐れていたし、それはストックも同じことだっただろう。なのに、ストックがロッシュを殺したとは、何故。
投げられた問いに、ストックは息を吸い、唇の片端を引き上げる。
「あの時ロッシュは、お前を人質に取られていた」
――ひゅ、と息を飲む音が響いた。
「俺がグランオルグに向かった後、軍を離反したのは知っているか」
「……聞いています。私たちがセレスティアに亡命したのと同じ頃でしたね」
「ああ、そして、ロッシュが俺を追ってきた。この歴史ではラウルの命令だったが、他の歴史では、あいつは」
ストックが瞳を閉じ、何もない天井を見上げる。それは、祈りを捧げる姿勢にも似ていた。
「軍は、俺を殺したかったらしい。その時、その歴史ではまだ軍に在籍していたロッシュに、任が回ってきたようだ」
「だからって、ロッシュが。いくら任務でも、ロッシュがあなたを殺そうとするなんて有り得ません」
反射的に否定し、そして直ぐに、脳内で二つの情報が結びつく。
「そう、そんなことは有り得ない……だから、私を?」
「そうだな。いや、あいつは軍人だ、人質なんてものがなくても俺と戦ったのかもしれない。あるいはやはり戦うつもりは無くて、最初から自分が死ぬつもりだったのかもしれない。あの時のあいつの気持ちは、俺には分からない。少なくともひとつだけ分かっているのは」
「ストック」
「俺が、あいつを殺した。その事実は、間違いなく確かなことだ」
呆然とするソニアを見遣り、ストックは疲れたような笑みを浮かべてみせた。
「それに、その時だけじゃない。あいつはよく死ぬ男だった」
口調はいっそ、冗談めかしてすらいる。実際、冗談にでもしなければ耐えられないのかもしれない。笑わずに語れるほど軽い話なら、ストックがここまで苦しむことは無かっただろう。
「俺が殺さなくても、ロッシュは何度も命を落とした。戦場でも、それ以外でも、あいつは何度も死んでいる」
「そんな」
「何度もだ、俺はそれを止められなかった。例え今の歴史には残らなくても、その事実は消えない。だから不安なんだ、いつかこの歴史でも」
切った言葉の先は、ソニアでも容易に想像できる。ストックは何処か遠くを見て、息を吐き出した。目の前に焦点を合わせない視界の中では、かつて見たというロッシュの死に顔が浮かんでいるのだろうか。握りしめた拳には、ロッシュを手に掛けた感触が。ソニアの背筋に、寒気が走り降りる。
「今でも夢を見る。夢の中であいつが死ぬ度、それがまた現実になるんじゃないかと怖くなる」
「不吉なことを言わないでください。ロッシュはちゃんと生きています」
「ああ、今は」
叫びに近いソニアの声は、ストックの静かな声に、たやすく掻き消されてしまう。音量こそ囁きに近いそれは、全ての反論を叩き伏せるだけの強さを、何故か感じさせた。
「今はまだ生きていても、次の遠征で死んでしまうんじゃないか。あるいは――何かがあって、また俺と敵対してしまうんじゃないか」
それは、込められた絶望の深さだったのか。震えもしない確かな声で、むしろ落ち着いて淡々と発せられる台詞は、相対する者の言を封じ込める。ストックが小さく息を吐き、首を振った。
「不安というのは際限の無いものだな。いつの間にか、まともに眠れる日の方が少なくなってしまった」
「それで、あなたは」
「生きていることを確かめたくなって、抱き締めた。触れれば少し、安心できた」
「――抱き締めるだけじゃ、駄目だったんですか」
反射的なソニアの言葉に、ストックは顔を上げ、少し微笑んだ。
「俺も、そう思う。抱き締めるだけで止まっていれば良かった」
だが実際は、触れただけでは満たされず、もっと深い繋がりを望んでしまった。ソニアはようやくそれを理解し、深い溜息を吐く。
「ロッシュは、何と」
「仕方がないと、言っていたな。……あいつは、優しい奴だから」
その通りだ、ロッシュは優しい。軍人としていくつもの死をくぐり抜けてきたから、今傍らに居る者達を大切にするべきだと、理性よりも深い部分で分かっているのだ。愛ではない、だがたった一人の親友に望まれて拒むことができなかったのだろうと、ソニアは納得する。お互い納得して、彼らは抱き合っていた。恐らくは、何度も。
「頼む、ロッシュを責めないでくれ。あいつは本当に悪くない、巻き込まれただけなんだ」
苦しげに歪んだ顔は、彼にしては珍しく、地を向けて伏せられたままだ。どんな時も真っ直ぐに前を見ていた瞳も、今は陰になって見ることができない。
「もう二度とあいつには触れない。近くに居るのが不愉快なら――何処か、別の国にでも移住しよう。あいつがお前を失わずに済むなら、俺は何でもするし、何処へでも消える」
吐き出すように綴られる言葉は、ソニアに向けての懇願であると同時に、謝罪で懺悔なのだろう。例え恋愛という感情が無くても、行っていることは間違いなく不貞に分類される行為なのだ。少しの理性があれば、知った時にどう思われるかなど予想がつく筈だった。
それでも、止められなかったのだろうか。ソニアの心に、漠とした寂寥が広がった。
「私は」
ストックを見る。普段の強さなど見る影も無い程、沈んでしまっている親友。ソニアが一言言えば、彼は本当に姿を消して、二度とロッシュとソニアの前に姿を現さなくなるだろう。そうすればロッシュに触れる人間は居なくなる。再び、ソニアだけの夫になってくれる。
「私は――」
去ってくれと。二度とロッシュに触れるなと、そう告げさえすれば。自分にはその権利があるのだと、ソニアは自分に言い聞かせる。ストックは顔を上げようとしない。視線を落として、握りしめた己の拳を見詰めている。いや、見ているのは違うものかもしれない。ここではない、今ではない、いつかの光景。
「――少し、考えさせてください」
耐えきれず席を立ち、部屋を飛び出した。背にかけられる言葉は無い。ストックもソニアと同じように、今はこれ以上何も話すことができないのだろう。それに少しだけ安心しながら、それでも彼の傍に居たくなくて、ソニアはひたすら歩き続けた。
自分はどうしたら良いのか、答えの出ない問いを繰り返しながら。
――――――
灯りを落として寝台に滑り込むと、先に横になっていたロッシュが、ソニアを抱き寄せた。ソニアも逆らわず、夫の存在感のある肉体に身を寄せ、望むままに体温を分け合う。
ストックとソニアが話してから、一週間程が経った。ストックもソニアも何も言わず、いつも通りの顔で振る舞っている。いや、完全に以前と同じでは無い。意識して常と変わらぬ態度を取ってはいるが、どうしても隠し切れぬ変化は、随所に顕れてしまっていた。ストックがロッシュに対して、決して一定以上に近寄ろうとしていないのに、ソニアは気付いている。肉体的な近さだけではない、視線を合わせることも、これまでに比べれば遙かに少なくなっていると感じられた。
もう二度とロッシュには触れないと、そう言っていた。今のストックの態度は、それを真意として表すためのものなのだろう。
「最近、どうした?」
ふと、ロッシュがそんなことを言う。瞬きをしてソニアが顔を上げると、心配そうな顔をしたロッシュと目が合った。悲しげにも見える光が、薄青い瞳に宿っている。
「仕事で何かあったのか? たまに、思い詰めてるみたいな顔してるぜ」
ストックだけではない、ソニアの側も、やはり変化が出てしまっていたのだろう。ロッシュは気遣わしげな顔で、ソニアの背をそっと撫でる。心配させたことへの申し訳なさが、ソニアの心を満たした。ストックと抱き合っていた事実を知ってから、ロッシュのことを恨むべきではないかと、ソニアは考えていた。妻である自分を裏切っていたのだから、憎み、恨み、嫌悪して当然のことだ。だがそう考えるのは思考の皮相だけで、何度己に言い聞かせても、期待していた感情は何一つ発生してこない。触れる感触の優しさが、気遣いを伝えるぬくもりが、ソニアをじわりと満たしている。
「あなた。私を、愛してくれていますか」
「へ?」
唐突な問いかけに、ロッシュの目が丸くなった。一拍後にそれが、怪訝そうな表情に変わる。
「あ、ああ。愛してるが、何だよ急に」
「聞きたくなったんです。……いけませんか」
「いけないってことは無いが」
言葉や態度を惜しむ人間ではない。ロッシュは常にソニアを気遣い、愛を語り、その気持ちを信じさせてくれていた。それはストックを相手にしても行われていたことなのだろうか。抱き締める強さは、親友を抱くのと同じものなのか。注がれる体温は、愛の囁きは。全て、ストックにも捧げられたのだろうか。
いや――きっと違う、そうソニアは思う。盲信なのかもしれない、だがソニアにはどうしても、ロッシュがそれほどに器用な人間だとは思えなかった。触れられた身体の記憶を隠せなかったように、他の誰かに愛を囁いたのなら、その気配を無くせる筈が無い。事情を何も知らなかった頃から、ソニアはロッシュの愛情だけは疑っていなかった。それが真実なのだ、そうソニアは考える。ほんとうの真実を知ることは出来ないかもしれない、だが自分に向けられる愛は、間違いなく嘘では無かったと。
「気になることがあるんです。ストックが」
その名を出すと、ロッシュの身体が反応するのが分かった。表情も、真剣なものへと変わる。
「最近、ストックの様子がおかしいように思えて」
言葉自体は、何も嘘を語ってはいない。おそらくロッシュも、ストックの異常には気付いているだろう。ロッシュに伝えていないのは、ソニアがその理由を知っているという事実だけだ。
「ああ……そうだな」
ソニアの予想を裏付けるかのように、ロッシュが頷く。
「俺もそう思っていた。最近、妙によそよそしい気がするんだ」
「……ええ」
「また、妙なことに巻き込まれて無けりゃいいんだが。あいつは、何でも自分で抱え込もうとするからな」
しみじみとした物言いに、ソニアも反論はしない。ストックはずっと、かつて味わった絶望を、一人で抱え続けてきたのだろう。そして耐えきれなくなり、ロッシュに触れた。
「ストックは、大丈夫でしょうか」
ソニアとストックが話してから、彼らが二人で飲むということは無かった。それはつまり、ストックとロッシュが抱き合う機会も無かったということになる。何もない時ですら触れようとしないのだから当然だろう。きっとストックは、ソニアが何も言わずとも、このまま全てを終わらせるつもりなのだ。
だがそれで、彼の精神は保つのだろうか。抱き合うことは安定を維持する手段だった、それを奪われてしまって、彼が再び眠れる日はくるのだろうか。ストックは何も言わないが、無言のままであってもその様子は、明らかに以前と異なってきている。それとも時間を置けば不安を忘れ、以前と同じ関係に戻れるというのだろうか。
「大丈夫だ」
ロッシュの言葉に、ソニアは黙って俯く。大丈夫だと信じたい、だが頷くためには、ストックの痛みを知りすぎてしまっている。彼の記憶に残っている惨劇は、言葉で聞くだけでも、耐えがたい痛みを引き起こすものだ。ストックとロッシュがどれだけ互いを大切に思っているか、傍らで見てきたソニアはよく知っている。時に彼らは、恋人であるソニアよりもずっと深くで結びついていた。戦いの中で生きてきたからか、互いの存在を失うことを、どちらも酷く恐れている。その、ストックとロッシュが――
「大丈夫だ、あいつがそう簡単にどうにかなる程、弱い奴だと思うか」
ロッシュが笑う、だがその言葉が自分自身に言い聞かせるためのものだと、ソニアは気付いていた。
「私は――このままストックが、何処かに行ってしまうかもしれないって」
何処か別の国に行くと言っていた、彼はそれをも実行するつもりなのだろうか。ソニア達との付き合いを絶ち、二度と顔を見せないという宣言を実現させるとでもいうのか。今のストックを見てしまえば、杞憂と笑い飛ばすことはできない。
あるいは彼にとってそれは、現状を維持するよりは楽な選択なのかもしれなかった。アリステルに居ればロッシュは常に傍らに在るし、その予定も耳に入れざるを得ない。遠く、姿も声も伝わらない土地に移れば、過去が蘇る縁も無くなるだろう。悪夢に悩まされ続ける今の状態に比べれば、味気ない平穏を選ぶ方が、余程安定した生活を送れる。ソニアの目から見てもそう感じられるのだ、実際に苦しんでいるストックがどんな選択肢をとっても、何も不思議ではない。
だがそうしたら、残されたロッシュはどうなるのか。
「馬鹿なこと言うな。あいつが何処に行くっていうんだ」
ストックにとってそうであるように、ロッシュにとってもストックは、何ものにも代え難い親友だ。そのストックが突然居なくなってしまったら、ロッシュは一体どうなってしまうのか。
「ようやく戻ってきたんだ。あんなことがあって、それでも戻ってきてくれたんだ。今更どっかに行っちまうわけがない」
噛みしめるように、言い聞かせるように、ロッシュが呟く。それはストックが帰る前、必ず帰ってくると言い続けた時と、全く同じ口調だった。
昔からロッシュは、ストックのことになると、過剰に思える程の心配を示してきた。ストックが情報部に所属している時は、強引とも思える手段で、自分と同じ隊に戻そうとしたこともある。ストックも自分自身を蔑ろにする傾向があるから、ロッシュの心配も的外れなものではない。現にストックは、自らを犠牲にして世界を救おうとし、一度彼らの目の前から姿を消したのだ。
ロッシュも軍人だ、人々の前で取り乱したりなどはしていない。だがストックが帰るまでの彼の様子を、傍らに居たソニアは知っている。きっとストックは帰ると主張し続けた、あの背中。
「大丈夫だ。あいつは何処にも行かない」
世界のために魂を捧げたストックを、ロッシュはずっと待ち続けていた。論理的に考えれば、魂を使うという儀式に挑んだのだから、ストックが帰ってくるわけがない。世界を守る礎としてこの大陸の隅々に広がる、そんな存在が人として戻るなどと、少なくともソニアには考えられなかった。
ロッシュはそれに気付かなかったのか。あるいは気付いていて、敢えて目を逸らしていたのかもしれない。墓を作ることも拒み、親友の帰還を待ち続けた夫の背を、ソニアははっきりと覚えている。あのままストックが戻らなかったら、彼はいつまで希望を持ち続けただろう。いつかは現実を認め、喪失を受け入れて、待つことを止めてくれただろうか。それとも、ずっと永遠に、死ぬまで親友を待ち続けたのか。
「もう、二度と、何処にも……」
しかしそれ程大切にしていた親友に、ロッシュは槍を向けたという。彼らが殺し合ったというその光景を、ソニアは想像することすらできない。喪失を認めることすら出来なかったのに、自ら死を与えるために動くなど、ロッシュに出来るのだろうか。追いかけて追いつめ、武器を振り上げ、心臓を貫くために突き出して。その結果として永遠に親友を失うと、分かっていてそれでも。
信じられない、だがそれは、確かにあった歴史なのだ。そして未だにストックを苦しめ、彼らを過ちに導いてしまっている。ソニアはロッシュに抱きつき、広い肩に額を押しつける。布越しに触れ合った身体から、静かな心音が伝わってきた。ソニアの頭を、ロッシュの大きな手が包んだ。ゆっくりと頭が撫でられる。無骨な、だが暖かい感触に、ソニアは涙が出る程の安堵を覚えた。体温を分け合うのは、最も確実な実在の確認手段だ。死者には決して存在しない温度と音。目を閉じれば、触れた部分から伝わるロッシュの感覚が、体中を満たしていく気がする。
ソニアがずっと、意識すらせぬまま享受していたそれは、確かに途方もない幸福の源だ。だから――
――ストックがそれに溺れるのも、理解できる気がした。
――――
「ストック」
以前と同じ、研究所の部屋に呼び出されたストックは、明らかに憔悴しているようだった。元から色の白い肌は、血の気を失ってさらに作りものめいて見え、瞳だけが炯々と輝いている。それも生命力を感じさせるものではなく、むしろ命自体を燃やしているかのような、見るものに落ち着かぬ不安を覚える光だ。
病気の罹患を疑う程の変化だが、ソニアは、その理由を知っている。だから明らかな消耗については触れず、ただ正面の椅子を勧めるに止めた。ストックも、短い返事の他は何も言葉を発さず、ソニアの誘導に従う。
――しばらく、どちらも言葉を発さなかった。ストックは無言のまま、ソニアの言葉を待っている。そのソニアも、強い視線でストックを見据えるばかりだ。もどかしい、だが破断するのも恐ろしい、そんな半端な無言が続く。
「……ですから」
それを破ったのは、やはりソニアだった。短く息を吸い、吐き出して、数秒考えた後に小さく囁く。全てを聞き取ることは出来なかったようで、ストックが首を傾げた。問いかける視線をソニアも理解して、ぐっと視線に力を込め、ストックを睨み付ける。
「貸すだけですから。忘れないでくださいね」
「……すまない、ソニア。何の話だ」
「だから、ロッシュと会うのは構いませんが、貸してあげているだけですから! ロッシュは私の夫なんですからね!」
叩きつけるように言い切って、それでもストックは理解が追いつかない様子で、丸くした目を瞬かせている。眦を険しくして睨み付けるソニアに、困ったような表情で、視線を周囲に泳がせた。
「それはつまり、俺とロッシュとのことか」
「当たり前です、そう言ったじゃないですか」
「……俺が、ロッシュと会っても構わない、と言うことか」
「だから、そう言ったじゃないですか!」
頭のいい彼にしては珍しい愚鈍な応答に、ソニアは呆れて唇を尖らせる。だがストックの側はそれに反応する余裕も無い、その態度は困惑を通り越して、途方に暮れたようなものになっていた。俯き、何かをかんがえこんだまま、動こうとしない。ソニアが突き刺す視線に対しても、目を伏せて逃れるばかりだ。
「だが、俺とロッシュが会うということは」
「ええ、分かっています」
「……それでも、良いというのか」
「分かりません。正直、受け入れられるかどうか、今でも分からないんです」
「なら何故」
「そうしなかったらストック、あなたが何処かに行ってしまう」
ソニアが言い放つと、ストックは鋭く息を飲み、顔を上げた。唇が開き、否定の言葉を半ばまで紡ぎかけて、しかし最後までは言えずにそれを閉じてしまう。そしてまた視線を落とし、そうだな、と呟いた。
「そうしたい気持ちは、確かにあった。何もできないままアリステルに居て、あいつが死地に赴くのを見ているだけなのは、もう耐えられない」
「だから、勝手に殺さないでください。遠征程度で死ぬ程弱い人じゃありません」
「そうだな、あいつは強い。だがいくら強くても人は死ぬ、人間なんて、どんなきっかけで死ぬか分からない」
そう言いながら、口元に浮かんでいたのは、一体どんな笑みなのだろうか。根拠もない楽観を語るソニアを笑っていたのか、あるいは過去から逃げられない自分を嘲笑っていたのか、あるいは――絶望に捕らわれて、笑うことしかできなかったのか。
「ロッシュが目の前から居なくなって、僅かな情報しか届かなくなれば、不安も少なくなるかと思った。実際に実行するつもりは無かったが」
「どうでしょう? 耐えきれなくなったら、あなたはアリステルを去っていったと思います」
「分からない。……だが、そうかもしれない」
疲れた様子で溜息を吐き出すストックを、ソニアはじっと見詰めた。
「あなたが居なくなったら、ロッシュが悲しみます」
「そうだろうか」
「ストック、あなたは、あなたが帰ってくるまでのロッシュを知らないから」
いつか帰ってくる、そう言って親友の帰りを待ち続けていた、ロッシュの背。ソニアが妻となってすら、そこに手を届かせることは出来なかった。
「ロッシュはずっと、あなたを待っていたんです。もう一度、あの人にあんな思いをさせるくらいなら」
ストックはもう帰らないと、ソニアは思っていた。自分の夫は、一生、親友の影を追って生き続けるのだと。だがストックは戻ってきた、だからロッシュも待つことを止めて、前を向いて歩けるようになった。ストックが居なくなればまた以前の繰り返しだ、その原因が死でなくとも、遠く離れた親友の背を見て日々を過ごすことになってしまう。
「ロッシュが、苦しまずにいられるなら」
そしてそれは、ロッシュだけのことではない。ストックが居なくなってどれだけ多くの者が悲しむか、ソニアにはよく分かる。いや、ソニア自身もその一人なのだ。彼ら親友だ、運命が歪み、悲しみの種を抱えても尚、相手を憎みきれない程に。
ストックが居なくなったアリステルで、ロッシュを抱きしめて、幸福になれるのか。発せられた自問に対する答えは、はっきりと否だ。だから、誰も幸せにできない未来を導いて、揃って涙を流すくらいならば。
「少しくらいは、我慢します。あなたがロッシュに触れることを、許してあげます」
「ソニア」
「でも、本当に少しだけですよ! 私がロッシュの妻なんですから、それ以上に一緒に居るのは許しませんからね」
「……ああ、それは分かっている。ロッシュも、お前の傍らに居たいと思っている」
そう言って浮かべた、苦笑に近い表情は、少しだけ寂しげにも見えた。
「ロッシュにとって最も大切なのは、ソニア、お前だ。どんな状況であっても、あいつは最後にお前を選ぶ――それだけは、間違いない」
奇妙に思える程の強さで断言し、ストックは小さく息を吐き出す。ソニアはそれを、何も言えずに見詰める。かつて経験した歴史を、彼は思い出しているのだろうか。引き結んだ唇は堅く、これ以上語ることを拒んでいるようにも見えた。だからソニアも、言葉を重ねることは出来ず、視線を外して俯いてしまう。
「本当に、良いのか」
「何度も聞かないでください。否定して欲しいんですか」
視界の端で、ストックが大きく首を横に振るのが見える。その勢いが、普段の冷静な印象とはかけ離れたもので、ソニアは苦笑を浮かべた。
「すまない」
「謝らないでください。私が、決めたことです」
「だが、すまない。……有り難う、ソニア」
それは果たして、礼を言われるようなことなのだろうか。ソニアの疑問は、きっとそのまま、ストックが負ってきたものの重さを示している。潰される前に、誰かが支える必要が有ったのだ。そう、ソニアは自分に言い聞かせる。
「それと、もう一つ約束してください」
「ああ」
「どうしても我慢出来なくなったら、あなたのこと、殴らせてくださいね」
「…………あ、ああ。分かった、好きにしてくれ」
「話はそれだけです。呼び出してすいませんでした」
「いや」
顔を上げると、ストックと目があった。落ち着いたその表情に、ソニアの胸が軋む。ストックにとってそれは、痛みを抑える薬のようなものなのだ。それが有ると思うだけで、実際に接種する前から、恐怖に飲まれずに居られる。
「すまない、有り難う。……約束は、忘れない」
愛ではない。彼とロッシュの間にあるのは決して愛などではなく、もっと苦くて辛い何かだ。これから自分の夫と抱き合う相手を前にして、ソニアの心中にあるのは、何故か苦しい程の哀れみだった。自らを傷つける者を目にした時のような、強烈な哀れみが、彼女の胸の中を満たしていた。
ストックはそれに気づいているのかどうか、ソニアの顔を見て、悲しげな笑みを浮かべた。悲しげな、だがその中には確かに安堵が存在する。その手が伸びて、自分に短刀を握らせる――そんな幻想を、ソニアはふと思い浮かべた。
何かを言うべきだったのかもしれない。何を言っても、ストックはそれに従っただろう。だがソニアは何も言わず、立ち去るストックの背を見送った。胸が痛む。涙が零れそうな程強く、胸が痛む。
「可哀想に」
その言葉が相応しいのは、一体誰だったのだろうか。自分か、ストックか、それともロッシュなのか。分からないままソニアは目を閉じ、天井を見上げた。
そうしないと、本当に泣き出してしまいそうだったからだ。
――――――
「酷いですよねえ、二人だけで楽しんで」
そう言いながら、ソニアの作った料理を頬張るレイニーに、ソニアは苦笑を浮かべた。今日は久々に、夫二人が飲みに出掛けてしまっている。二人で飲むのだ、と念押しされたが、ソニアは何も言わずに彼らを見送った。勿論、その結果がどうなるかは、承知した上でのことだ。
ソニアとストックが話し合った日から、二週間程が経過していた。その間全く何も起こらなかったのは、ストックが遠慮してのことのことだったのだろうか。それとも単に、自由に触れて良いと思えば、多少の忍耐は効くという心理なのか。
「そりゃ、たまには男だけで楽しみたい、って気持ちは分かりますけど。こっちは置いてきぼりなんだから」
レイニーが拗ねているのは、勿論事情を知ってのことではなく、単純に置いていかれた寂しさ故だ。ソニアに真相を話していないのと同じように、ストックは自分の妻にも、親友を誘う本当の理由は隠しているようだった。それも当然のことだろうと、ソニアは内心で頷く。そこに憤りや不快感が無いのが、ソニア自身でも不思議だった。
「偶にのことですから、許してあげましょうよ。きっと、女が居ると出来ない話もあるんです」
そんな風に、庇うような発言すらしている。ストックの行為を許したわけではない、だがそれが必要ならば仕方がないと、内心では納得してしまっているらしかった。そんな自分に多少のわだかまりを感じつつ、レイニーが作ってきてくれた肉料理を取る。夫二人が出掛けてしまって、一人で夕飯を食べるのも味気ないということで、今日はレイニーがソニアの家に来てくれていた。それぞれに作った料理を持ち寄った結果、卓の上には、二人だけで食べるには多すぎるご馳走が並んでいる。
「まあ、確かに偶にではあるんですけど。でもほんとあの二人、びっくりするくらい仲が良いからなあ」
その発言に他意は無かっただろうが、それでもソニアの背に、ひやりとしたものが走る。ストックとロッシュの、男同士にしては異常な距離間に、レイニーも気付いているのかもしれない。関係を疑うまではいかずとも、疑惑の目を向ける材料になっている可能性はある。
いつか彼女も、真実に気付くのだろうか。そう思うとソニアは、たまらなく申し訳ない気持ちになる。ソニアがしていることは、彼女の夫が浮気をする助けなのだ。相手であるロッシュのことはさておいても、この行為がレイニーに対する裏切りであることは確かである。
ソニアの葛藤に気付いたわけでは無いだろうが、レイニーがふと真顔になり、ソニアの顔を見詰めた。
「ごめんなさい、ソニアさん。ロッシュさんのこと、いつも付き合わせちゃって」
「何を言っているんですか。それは、こちらも同じことです」
「ううん、誘ってるのはストックの方だから。ロッシュさんは、家に居たいと思う」
「そんなことはありませんよ」
ソニアが否定しても、レイニーの表情は変わらない。真剣で、少しばかり陰りを帯びた眼差しが、そっと伏せられた。
「前にも言ったことがあるけど、ストック、たまに凄くうなされるんです」
悪夢を見るのだと、言っていた。何度も、ロッシュが死ぬ夢を見たのだと。そしてそれは、確かに以前、レイニーが訴えていたことでもあった。眠ることができず、強い酒を煽って意識を飛ばすのだと、辛そうににレイニーは語っていた。
「前よりは随分マシになってきたけど、それでもたまには酷い時があって。ロッシュさんと飲んだ後は、それがぴたって治まるから」
触れることで安心するのだろう、自然な心でソニアは納得する。体温を求めて抱きしめて、それを受け入れてもらうことで、精神を安定させる。異常を理解していないわけではない、だがストックにはそれが必要だったのだ。ロッシュも、それを分かっていたからこそ、拒まずに受け入れている。
「ロッシュさんと居ると、ストック、安心できるみたいなんです。だから、ロッシュさんに付き合ってもらって、ほんとに助かってます」
レイニーから向けられる素直な感謝に、ソニアはほろ苦い気持ちで笑みを還した。彼女は何も知らない、ストックもソニアも、彼女に真相を知らせるつもりはない。真実を知らずに笑っている、それが良いことだとは思えないが、かといって他にどうすれば良かったのだろうか。最善でも最良でも無い、だが今はこうするしか無いのだと、ソニアは密かに頭を下げる。
「お礼を言われるようなことじゃありません。ロッシュだって、ストックが苦しむのは嫌でしょうから」
ロッシュだけではない、レイニーも、そしてソニア自身も。皆、ストックのことを大切に思っている。だからソニアも、真実に目を瞑り、こうして微笑むことができるのだ。
「そんなことでストックが楽になるなら、あの人はいくらだって手伝いますよ。それに、ストックと一緒に居るのは、あの人にとっても楽しいことなんです」
「そうかなあ。そうだったら、嬉しいんですけど」
「当たり前です、あの二人がどんなに仲が良いか、レイニーさんだって知っているでしょう」
「……それは、確かに」
思い当たるところが多くあったのか、レイニーは納得した様子で頷く。
「だから、あの人のことは気にしないでください。こっちはこっちで、楽しくやれば良いんです」
「そうですね。そういえば、ソニアさんと二人で話せるのって、こんな時くらいだし」
「ええ、今日は女だけで、好きにさせてもらいますよ」
子供は既に寝かせたから、もう少し夜が更けるまでは自由の身だ。笑って、ソニアは席を立つ。
「秘蔵のお酒があるんです。今夜、空けてしまいましょう」
授乳をしている間は飲酒も出来なかったから、酒を飲むのは久し振りだ。笑顔を浮かべるソニアに、レイニーも悪戯っぽく笑ってみせた。
「良いんですか? ロッシュさんに怒られないかなあ」
「構いません、妻を置いて二人で飲んでいる方が悪いんです」
「そうかも」
実際、ロッシュは怒らないだろう。妻子を放っている罪悪感は、間違いなく彼の中にある筈だ。その中に、親友と身体を重ねることによるそれが、含まれているかは分からないが。ストックに触れている間、ロッシュはどんな風に自分のことを思い出すのか――浮かんできた考えを、ソニアは振り払う。責めないこと、隠し通すことを決めた。ストックとロッシュと、そしてソニア自身を含めた人々のため、その決意を覆すことはできない。
「氷、必要ですか?」
この辛さも、レイニーの無邪気な声に感じる罪悪感も、これからずっと付きまとうのだろう。覚悟ならば出来ている、守らなくてはいけないものがある。今の平和と幸せを、母として妻として、ソニアは守らなくてはいけない。そのためなら何だってすると決めたのだ。痛む胸を堪えるくらい、何程のことはない。そう心の中で呟いて、ソニアは微笑んだ
「お願いします。地下にありますから」
「はーい、それじゃ持ってきますね」
レイニーもいつか、知る時がくるのだろうか。その時が来たら、彼女は一体どんな表情をするのだろう。今はただ、皆でいる幸せが崩れないようにと、祈ることしか出来ない。
レイニーの姿が貯蔵庫に消え、一人残されたソニアは、深く息を吐いて胸を押さえた。瞳を閉じ、ここに居ない夫と親友を想う。
「信じて、いますから」
それが何に対しての呟きなのか知るものは、ソニア自身を含めても誰もいない。
だが確固たる意志で発せられた誓いは、けして消えることなく、いつまでも彼女の中に留まり続けていた。
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セキゲツ作
2014.01.25 初出
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