気付いたのは、ほんの些細な反応の変化だった。
 触れた指に対する反応が、以前と異なる。例えば、剥き出しの肌に触れた時の身体の震え。緩やかに撫でた肉の、上昇する温度。吐息の間隔、上気した頬の色味、そしてソニアを抱く強さ。見慣れた筈の動作に、ほんの少しの違和感が加えられ、ソニアの感覚に訴えてくる。それは些細な、注意していても見逃しかねない、僅かばかりの差異だ。少しだけ反応が鋭い、少しだけ温度が高い。そんな変化が加えられた姿は、記憶にある同じ姿と、重なるようで完全には重ならなくなっていた。
 気のせいだと言われても反論できない程度の、本当に小さな誤差である。小さな、それが故に意識に訴える、表面の浅い場所にちくりと刺さる棘。しかしそれが最初の一度だけなら、そのまま忘れてしまっていただろう。新たな刺激と感覚に違和感は埋もれて、やがてそれがあったことすら、記憶の片隅に埋没してしまったに違いない。だが残念ながら、そうはならなかった。彼らが抱き合う度、生じる棘はソニアの心を掻き続けた。明確な痛みを伴う程ではない、だけど気になって仕方がない、そんな曖昧な疑念が常に居座っている。
 意識して、普段触れない部分に触れる。返ってくるのは過敏な反応だ。元からこうだったのか、それとも何かが、いや『誰か』がここに触れて、この反応を育てていたのか。ロッシュに触れる、身体が反応する。そこには確かに、夫婦以外の者の気配が感じられる。それは、ソニアにとって看過できない出来事だった。
 この日も同じだった。触れた部分から感じる他者の影を、ロッシュに抱き締められたまま、ソニアは漠然と感じている。
「ソニア」
 ロッシュが声を零す。飢えた眼差しで妻を見詰める、その瞳の中にあるのは、間違いなくソニアただ一人だ。夫が嘘の付けない人間であることを、ソニアはよく知っている。良くも悪くも、酷く不器用な人間なのだ。心の中に他者を宿して、それを悟らせずにいるような、器用な真似が出来るはずもない。彼の誠実な愛情は、疑いようもない確かな現実だ。しかしその身体に漂う影も、幻想などではないと訴えかけてきて、奇妙な齟齬が心を逆撫でる。
 それともこれは、全てがソニアの思い過ごしで、実際には何も変わってなどいないのだろうか。子供が産まれて以来、必然的に夫婦の時間は大きく目減りしていた。寄り添って眠るのは毎晩のことだが、抱き合って身体を重ねるとなると、頻繁に出来るわけではない。空白の時間によって溜まった欲が、反応に影響を与えたというのは、十分に頷ける話だ。人体というのは弱いもので、どれだけ鍛えようとも、様々な要因によって変化するのを抑えることはできない。忙しさと疲れ、気の昂り、ソニア自身の変化――原因となり得る要素ならば、いくらも挙げることが出来る。
 理性ではそう考えていたが、しかしどうしても、ソニアの中には納得できない心情が残っていた。それは冷静な論理では説明し切れない、有り体に言ってしまえば女の直感とでも表現できるものだ。ロッシュの反応に、ソニアは、他人の影を感じている。一度生じた疑いの火は、冷静な思考で塗りつぶそうとしたところで、容易に消えるものではない。信じることはできる、だがそれは、疑念を押し殺しての信頼だ。もしかしたらと疑う気持ちが残ったままでは、これまでのように無心に寄り添うことはできない。
 熱を帯びたロッシュの身体を、ソニアは抱き返す。調べてみようか、そんな考えがふと頭に浮かんだ。疑わしいままが耐えられなければ、真実を知るために動けば良い。その結果として何もないと納得出来れば、今感じている疑念も、単なる気のせいと片付けることが出来る。そうしたら、全てを忘れてしまうか、あるいは何年後かにでも笑い話にしてしまえば良いのだ。曖昧な嫉妬に身を焼き続けるよりは、そちらの方が余程心身に良いだろう。
「ソニア?」
 ――気付くとロッシュが、探るような目で覗き込んできている。思考の端で巡らせている疑惑に気付いたのだろうか、いやそうではなく、単に気を散らせていた妻を不思議に思ったのだ。それが証拠に、瞳の底にあるのは、相手を気遣う優しい心配だ。
「大丈夫か。疲れてるなら、無理するな」
 日々忙しいソニアの体調を、こんな時――欲に身を支配される時にも、気にしてくれている。欲望を抱えたまま留まっているのは、きっと辛いだろう。それでも妻に無理をさせまいとする、そんな優しい夫の頬を、ソニアはそっと撫でた。
「すみません、大丈夫です、あなた」
 表面だけ唇を合わせると、熱い吐息と共に舌が割入ってくる。動きを合わせながら、ロッシュの頭を柔らかく辿り、その形を掌に刻んだ。
「それなら良いが……相変わらず、忙しいんだろう」
「大丈夫です、無理ならちゃんと言いますから。それより、急がないと、あの子が起きてしまいますよ」
「……そうだな」
 ロッシュもソニアの身体を探り、互いの熱を高め合っていく。伝わる体温は、そこにあるのが間違いのない愛情だと、ソニアに教えてくれていた。疑う心が、熱さで溶けていく。彼らの運命がもはやひとつで、同じ未来を描いているのだと、交わす愛で確かめ合った。荒い息、震える身体、向けられる欲と受け止める欲。次第に熱が膨れ上がり、思考の端までもが塗りつぶされていく。吐息に混じった音で、ソニアがロッシュの名を呼んだ。強く抱き締められる。心音が混じり、身体の全てで相手を感じる。
 ソニアの中が、互いの想いで埋まり――そして、眩しさに似た明滅が、彼女の意識を焼いた。

 結局のところソニアは、ロッシュのことを信じているのだ。彼が自分を愛し、誰よりも大切に想ってくれていることを、心の奥底では疑い無く確信している。それは、身体に他者の気配を感じてすら確固として残る、強い想いだ。彼女はロッシュが裏切る可能性というのを、理性で理解していたが、本能の側では僅かにも実感していなかったのだ。
 だからこそ迷うことなく、彼のことを調べる道を選べる。掘り下げたところで何も恐ろしいものなど存在しないと、意識から遠い深層で信じているのだ。調べた結果として夫婦関係が壊れてしまうと思っていたなら、その先に進むことは、如何な彼女でも難しかっただろう。真実を知る恐怖に負けて、一歩も踏み出すことが出来なかったに違いない。
 だがソニアはロッシュを信じていて、だからこそ逃げずに疑いを晴らそうと思った。真実を知るために、行動を開始してしまった。

 それがどんな結末を引き起こすか、知りもせずに。



――――――



 そういったわけで夫を調べると決めたソニアだが、始めてみて、その容易さに拍子抜けすることとなった。調査を決めてはみたが、一人の人間の行動全てを調べるなどとても不可能だと、心のどこかで考えていたのだ。本来そういった情報の調査には訓練を受けた専門の人員が必要で、実際アリステルにも、戦中はその為の部署が存在した程なのである。だがロッシュに関して言えば、特別な技術も知識も必要なく、行動の大部分を調べることが出来た。戦争が終わったためか、それともロッシュ個人の性格に因るものか、彼の行動に秘密とされる部分は殆ど存在しないようなのだ。
 そもそもロッシュはアリステル軍を支える将軍なのだから、その顔を知らない軍人は誰も居ない。例え変装しても、左腕という最大の特徴は残るわけで、隠密行動をするのにこれ程向かない人間は居ないのである。ソニアが軍医としても働いており、軍人たちに慕われているということも、調査を進めるのに有利な点だった。世間話のついでを装い、少し水を向けるだけで、彼らは簡単にロッシュの行状を話してくれる。勿論将軍の予定を全て把握している者などは居ないが、断片的な情報であっても、数さえ集められれば有用なものとなった。数日かけて聞き込んだ情報を整理すれば、ここ最近のロッシュの行動は、かなりの精度で把握できる。そしてそれを信じるならば、愛人との逢瀬に使うような時間は、明らかに存在しないようだった。
「ふむ、成る程。大した調査能力だ」
 ソニアの説明を聞いたミースが、感心した様子で頷く。淡々と語られた調査内容に、彼は少しばかり驚いたようだった。僅かに上げた眉を普段の位置に戻し、皮肉げな形に口元を歪める。
 ソニアにとっての同僚であるこの男は、研究員の割に妙に人の心に聡いところがあり、秘した感情を見抜くのが得意だ。ずっと以前、まだソニアとロッシュの想いが通じ合う前にも、彼はその事実に気付いている節があった。今回も同じで、ソニアが密かに動いているのをあっさりと見抜き、さりげなく説明を求めてきたのである。彼は、口は悪いが信用できる人間だ。秘密を得たところでそれを吹聴する軽挙に走ることは無いと、これまでの付き合いによって確信できている。そう考えた末に、ソニアはこうして、求められるままに現状の説明を行っていた。
「からかわないでください。それとも、信憑性が無いと?」
「いいや、それだけの人数から収集した情報なら、それなりに信頼は出来るだろう。いくら軍の重鎮といえど、一軍人の一人ひとりにまで言論統制を行うのは難しいだろうからね」
 ミースの論に、ソニアも同意して頷いた。家庭内の問題を、同僚とはいえ他人に話してしまったのは、誰かに話して整理したいという理由もある。人並み外れた頭脳を持つソニアだったが、同時に彼女も一人の女性だ。夫の浮気疑惑を前にして、どれだけ冷静に判断を下せるか、自分自身でも自信が持てていなかった。
「だが、君はまだ納得していないように見える。何処かに穴があると思っているんじゃないかな?」
 ソニアの迷いを見抜いているのか、ミースがからかうような口調で指摘する。それは言葉を引き出すための言葉でもある、誘いに乗るため、ソニアは一瞬深く考え込んだ。
「――完全に疑惑が晴れた、と思えないのは事実です。本当に何処にも、時間を確保できる余裕は存在しないのかどうか」
「ふむ? 何処かに人目を誤魔化した穴がある、ってワケかい」
「可能性はまだ、否定できません」
 実際に一日張り付いていたわけではなく、あくまで人伝の、しかも複数人の証言を繋ぎ合わせての不在証明だ。どれほど密に感じられても、何処かに穴があるとも限らない。そう主張するソニアだが、既にその声からは自信の色が失われている。疑いを消しきることはできない、だが疑うべき穴も見付からない、そんな半端な状態だった。
「そうだね。遠征の時なんかは、人の目も少ないだろうしね」
「私もそう思いました。でも聞いた限りでは、遠征中こそ自由になる時間は殆ど無さそうなんです」
 軍の遠征にソニアが同行することは無いから、その内容に対して詳細にイメージが出来るわけではない。だが、参加した兵や外交官の話を聞くに、個人の時間など殆ど存在しない日程のようだった。一兵卒ならまだしも、将軍として一軍を率いているのだから、それも当然かもしれないが。
「よくそこまで調べられたものだね、軍の機密だってあるだろうに」
「あの人、一度倒れていますから。体調管理のためだと言って聞いたら、親切に教えてくれましたよ」
「……成る程」
 実際、ロッシュが極端に忙しいのは確かなのだろう。ソニアが話を聞いた兵は皆、口を揃えて彼の多忙を証言していた。そんな中で時間を作って誰かに会うのは、不可能と断じることは出来ないが、困難なことに違いない。会って話すだけではなく、抱き合おうと思うのであれば、短い時間では済まないのだ。
「個人相手に密会したんじゃなくて、娼館で用事だけ済ませたってのはどうだい? やるコトをやるだけなら、大した時間はかからないだろう」
 女性に対するにしてはあからさまに過ぎる物言いだが、ソニアは表情も変えずに首を横に振り、その説を否定してみせた。
「一大隊以上の人数ですよ? 街に居る間は交代で休憩に入っているでしょうし、その中の何人かは間違いなく花街に向かっています。ロッシュが目撃されない理由はありませんし、そうなれば噂になるのは避けられません」
「確かに。将軍殿がいかがわしい場所に入り浸っているなんて噂は、聞いた覚えが無いよ」
 何しろ、ロッシュは愛妻家で知られている。そんな彼が夜の街で見かけられたのなら、ことの真偽はともかくとして、あらぬ噂を立てられる確率は高い。そしてそういった噂に気付かぬ程、ソニアは鈍感な女性でも無かった。
「娼館に行くにしろ誰かと会うにしろ、遠征先では人目が多すぎるでしょう。そんな中で態々浮気する程、あの人も鈍くない筈です――多分」
 付け加えたのは、夫が朴念仁であることに自覚があるためだろう。ソニアと気持ちを通じ合わせた際の逸話ひとつ取っても、恋愛事と女心に疎いのが、嫌になる程よく分かる。さらに言えば複雑な感情の駆け引きも、嘘を吐くことすら苦手な男だ。仕事で訪れた他国で定期的に逢い引きをし、それを誰にも気付かせないなど、到底出来るとは思えない。
 勿論それはソニアの評であり、実際は妻が思う程不器用なわけではなく、密かに目的を果たし続けてきた可能性も排除は出来ない。考え込むソニアの表情に、ミースが視線を注ぐ。
「ならやはり、アリステルに居る間に、ってワケかい? 城の中で無理なら、仕事が終わった後に待ち合わせて――なんてことになるのかな」
「……そうですね。それが、最も可能性が高いのかもしれません」
 ソニアは綺麗な形の眉を顰め、尚も考えを続けた。忙しく、帰宅する時間が定まらないのを逆手に取って、遅くなると嘘を吐いて誰かと密会する。緊急に呼び出された際のことを考えれば多少危険はあるが、人目を避けるには最も良い手段だろう。やはり娼館に行けば目立つから、何処かの宿で、あるいは相手の家で逢瀬を重ねていたのか。目立たぬようにガントレットを取り外し、夜のアリステルを密やかに歩くロッシュの姿を、ソニアは思い浮かべてみた。――やはり、似合わない。先入観に捕らわれてはいけないと、努めて主観を取り除いてみるが、それでもやはり強烈な違和感が残る。
 ソニアの内心は、そのまま表にでてしまっていたのだろう。ミースが苦笑して、首を捻る。
「得心した、って顔じゃあ無いね」
「いえ……ただ、あの人が忙しいのは、間違いなく確かです。それこそ、軍の方々が何人も証言してくれていますから」
 戦争は終わっても、城が重要施設であることに変わりはなく、城門の前には昼夜を問わず番兵が待機している。夜の番を行ったことのある者達は、揃ってロッシュの目撃証言を述べてくれた。
「それじゃあ、もう決まりじゃないか。浮気の可能性は無い、万々歳だね」
「……そう、ですね」
「何だい、やっぱり納得していないのかな」
 ソニアの様子を見れば瞭然であることを敢えて確認し、ミースは皮肉げに口元を持ち上げた。彼が言いたいことは、ソニアにも分かっている。どれだけ突き詰めたところで可能性を完全に消し去ることは出来ない。証言者が嘘を吐いていれば終わりだし、そもそもロッシュが彼らを完全に欺いていれば、どれほど聞き込んでも全てが無意味になる。確たる証拠が無い以上、真偽の決断は全て、ソニアの心に委ねられているのだ。夫を信じるか否か――厳しい顔で俯くソニアに、ミースは容赦もなく鼻を鳴らした。
「やれやれ、彼は君に惚れこんでいるように思えたんだけどね、男なんて分からないものだな」
「そんな言い方は止めてください。あの人は私達を裏切ったりなんてしていないんです」
「……訂正するよ。女心はもっと分からない」
 半ば呆れた、半ば感心した口調で言われてしまい、ソニアは微かに頬を赤らめた。
「まあ、そう思うのなら、君の夫君を信じたらどうだい。どの道、今これ以上考えたって、新しい情報が出てくるワケじゃないんだから」
 言い聞かせる、というよりも場を閉めるためのものであろう言葉に、ソニアは殊勝に頷いてみせる。納得したわけでは無いが、それでも人に話すことで多少は気分が落ち着いていた。これ以上、自分の家庭の事情で、忙しい相手を拘束するわけにもいかない。
「ごめんなさい、妙な話に付き合わせてしまって」
「全くだ、研究に充てるべき時間を随分と使ってしまった。急いで取り返さないと」
 容赦のない物言いではあるが、ミースの表情は言葉ほど冷たいものではない。茶器を片づけようと立ち上がったソニアに向けて、ひょいと肩を竦めてみせる。
「君は本当に、ロッシュのこととなると平静ではいられないからね。問題があるならさっさと片付けて落ち着いてくれ、君の研究が滞ると、皆が困るんだから」
「そんな――いえ、すみません」
 怒るというよりは揶揄に近いのだろう、笑いを含んだ目で見られて、ソニアは苦笑を浮かべた。己に対する自嘲も混じったものだ、夫の浮気が重要時なのは確かだが、仕事に影響を出してしまってはいけない。気を引き締めるために軽く頷き、ミースに向かって微笑んでみせた。
「迷惑をかけてしまいましたね。でも、おかげですっきりしました」
「ふむ。本当にそうなら良いんだがねえ」
 それが虚勢であることは、ミースにも分かっていただろう。だが皮肉めいた一言の後には、特に何が付け加えられるでもない。少しだけ首を振ると、立ち上がって作業衣を羽織った。
「君の研究は、世界でも注目されているからね。余計なことに気を取られて手を止められたら、アリステル魔動研究の威信に関わるんだよ」
 言い回しは厳しいものだが、その実が純粋な気遣いであることは、間違いなく伝わってくる。ソニアは頷くと、自分も仕事に戻るため、白い上着を着直した。
「ええ、勿論です。大丈夫――あの人のことを、信じていますから」
 笑いながら言った言葉は、ソニア自身でも意外なことに、単なる強がりではなかった。抱えたままの疑心とは全く別の心で、ロッシュの愛情に対する信頼は確立している。それが伝わったのかどうか、ミースは何ともいえない表情を浮かべて、小さく鼻を鳴らした。
「やっぱり、女心は分からない」



――――――



 信頼と疑念は、それからも離れることなく、ソニアの心に宿り続けていた。他人に話すことで随分整理は付いたが、それだけで消える程容易な悩みではない。表だっての行動には移さずとも、ロッシュの行動に何かしらの隙が無いかを、無意識のうちに確認し続けていた。
 あるいは疑念が疑念だけであったのなら、もう少し違った行動を取っていたのかもしれない。だがロッシュを、優しい夫を疑いきるだけの根拠は、どれだけ慎重に監視しても見付けられずにいた。ミースと話した後も、引き続き軍の兵士達から話を聞き続けていたが、やはり怪しむべき行動は無いように感じられた。仕事と言う時は本当に仕事で忙しく、付き合いの飲みという言葉にも嘘はない。遠征の間は、事情を伏せてマルコに行動を教えてもらっていたが、やはり余計な行動を取っている様子は無いようだった。遠征の間は気を張り続けているようだから、家に帰ったらよく休ませてくれ、とはマルコの弁である。
 時間が無ければ、浮気は出来ない。ほんの少し顔を合わせるだけならともかく、気配が残るほど濃厚に身体を重ねるような真似は、僅かな隙で出来ることではない。繰り返しロッシュの行動を確かめ、疑っていたような時間が存在しないことを知るにつれ、ソニアも段々とその事実を受け止められるようになってきた。相変わらず、ロッシュと触れ合う瞬間に、他人の影を感じることはある。だが疑ったところで、明確に不可能を示す証拠が揃っているのだ。むしろこの疑念の方が間違いではないかと、そんな落ち着いた気持ちに傾きつつあった。
 徐々に疑いが小さくなる中で、しかしロッシュを観察する目は、習慣のようにして残ってしまっている。ロッシュが誰かに視線を向けていないか、逆にロッシュを見詰める誰かが居ないか、意識せぬうちに見渡すようになっていた。ロッシュにも周囲の人間にも気付かれぬよう、夫を見る妻として自然な範囲で、相手を見詰める。それはもはや疑念とは全く別のところで動いている、反射行動の一部のようなものだ。
 実際、そうして観察していても、ロッシュの態度に不自然は無かった。公私のどちらにおいても、ロッシュは常にソニアのよく知る夫でしかない。そのことに安心して、また疑念は遠いものになる。そんな日々を続けていけば、いずれはこんな時間も、全て過去のものに出来るだろう。ロッシュ本人には言えずとも、親しい友人達に笑い話として語れるようになるまで、さほどの時間はかからない筈だ。
 そのまま、何も起こらなければ。
 だがソニアはある日、それに気付いてしまった。
「ストック?」
 良く知った男だ。知り合って数年、親友として付き合っているのも数年、ここ一年ばかりは隣人として家族ぐるみの付き合いまでしている。だから彼については、ことによっては本人よりも良く知っていた。
 そのストックが、ロッシュを見ている。
 目元に、明らかな欲情の色を乗せて。
 ソニアが見ている前で、ふっとそれは現れ、僅かな時間を置いて姿を消した。あまりにも唐突で、さりげない発露は、単なる見間違いとも感じられる。実際ソニアはそう思った。もう一度見直しても、見慣れた顔の上に浮かぶのは、見る者が見れば分かる笑みだけだ。静かに笑いながら、彼にとっての親友に、親愛の籠もった視線を向けている。その姿に異常は見受けられない。笑いながら応えるロッシュも含めて、何度と無く繰り返してきた日常と、全く同じ光景だ。
 ――だが、そこにまた、違和感が入り込んでくる。
 また、数瞬、ストックの視線が色を変えた。親友を見るものではなく、欲の対象を捉えるように、気配が変わっている。言葉や行動に出るわけではない、表情にすら表れていないかもしれない、本当に僅かな変化だ。ささやかすぎるその変容に、何もない時ならば、ソニアも気付いていなかっただろう。こんな、ロッシュの浮気を疑って誰かの影を探し続けている状態でなければ、知らぬまま見過ごしてしまっていたに違いない。
 だが一度気付けばそれ以降、はっきりとした徴として、ソニアの意識に訴えかけてくる。会話に耽る横顔、笑み崩れる目元、そしてロッシュに触れる指先。表に出ない分、内側に淀む情欲の色が、そこには濃厚に溢れ出していた。
「ソニアさん? どうしたんですか」
 ソニアの様子に気付いたレイニーが、不思議そうに声をかけてくる。それでようやく、自分が硬直していることに気付いたソニアは、慌てて笑顔を取り繕った。
「すいません、少しぼんやりしてしまって」
「何だ、疲れてるのか。先に休んでたらどうだ」
 ロッシュとストックも、互いから視線を外して、ソニアの方を見る。顔色が悪いことに気付いたロッシュが、心配げな様子で眉を顰めた。ストックもその隣で、似たような表情を浮かべて頷いている。
「今日も仕事で忙しかったんでしょ? 私達もそろそろ帰るからさ」
「無理はするな、ソニア」
「有り難うございます、大丈夫、本当に少しぼうっとしていただけですから」
 仕事で遅くなったソニアに代わり、今日はレイニーが食事を作り、ロッシュとソニアの家に集まって食卓を共にしていた。今はまだ食事が終わったばかりで、本来ならば紅茶を飲みつつのんびりしていている時間である。忙しなく帰る必要は無い、とソニアが笑うと、ストック達はどうしたものかという様子で顔を見合わせた。友を気遣うその姿から、先ほど感じた気配はすっかり失せている。いつも通りの親友の姿に、ソニアは柔らかく微笑した。
「疲れたらちゃんと休ませてもらいます。だから二人とも、ゆっくりしていってください」
 その言葉に嘘は無いと感じたのか、完全に納得したようでは無かったが、取り敢えずストックとレイニーの姿勢が元に戻る。だが、会話を再開しながらも、彼らの意識には常にソニアが入っているようだった。友人達の優しさに、ソニアの心が軋む。こうしていると、数分前の驚愕が嘘だったかのように思えるのに。いや、本当に嘘だったのかもしれない。ストックがロッシュに欲情したなど、疑心が倦みだした錯覚にすぎない。あるいはロッシュに感じた他人の気配すら、自分の思いこみにすぎないのかもしれない。
 それは、十分に説得力のある考えだった。互いに家族を持つ男同士が、身体に痕を残すような関係になるなど、尋常なことでは起こらない。二人とも愛妻家で、素晴らしい家庭人なのだ。だから全ては勘違いなのだと、そう思おうとした。その一方で、探る視線をストックに送ることを、止められはしなかったのだが。

 だが実際、その夜はそれ以上何も起こらなかった。
 和やかな雰囲気の中で食事会は続き、これ以上は翌日に差し支えるという時刻になって、ようやく名残惜しい腰が上がった。ソニアも片づけを終えた後、子供の様子を見てから、ロッシュと共に夫婦の寝室に収まる。ソニアを抱き締める腕の強さも、寄り添った身体の体温も、いつもと何も変わるものではない。子供とソニアを見る優しい目も、家族を愛する夫の見慣れたものだった。何も変わらない。ソニアが必死で言い聞かせた通り、全ては勘違いなのかもしれない。
 だが、次の休みが来る前に、ロッシュは外泊をした――ストックと共に。
 二人が飲みにいくことは、以前から度々あった。親友なのだから、勿論それは不自然ではない。ある時ストックが部屋を借りた。仕事が遅いときの仮眠用だと説明されて、実際その用途で使われることも多かったのだが、それからは飲む時も泊まりがけで出かけるようになった。二人が一緒に居るのはソニアにとって自然だった、だから浮気を疑った時も、その予定だけは調べることを忘れていた。いや、調べたところで実際にストックと居るのが確かだと分かれば、やはり可能性は無いと断じていただろう。彼らは親友であって、身体を重ねるような仲ではない。ストックと共に居るならば、そこに裏切りは無い筈なのだ。本来は――だがソニアの瞼には、あの夜見たストックの姿が焼き付いている。ロッシュを見る目、触れる指、名を呼ぶ声。二人だけの時に、彼は今度こそ隠すことなく、ロッシュを見るのだろうか。触れて、名を呼び、それ以上の深さまで近づくのだろうか。ロッシュは一体、それに何と応えるのか。
 一人には広い寝台の中で、ソニアは自分の身体を抱き締めた。ロッシュにここに居て欲しいと、強く思う。強く抱いて、全てがソニアの杞憂に過ぎないと笑い飛ばしてくれたら。だがどれだけ願っても、今この時、ロッシュは居ない。ストックと二人で、彼らのために用意された部屋の中に居る。ソニアの目が届かないところに。
 ふいに、隣の部屋に寝かせていた子供が泣き出して、ソニアは飛び起きた。産まれたばかりの頃と比べて随分夜泣きは少なくなってきたが、時折こうして酷く泣くことがある。あるいは、一人が足りない家の寂しさを、幼いながらに感じているのだろうか。親の不在に慣れた育ちではあるが、そんな幼子でも分かる程に、今のこの家は虚ろなのか。
 埒もない思考を首を振って断ち切ると、ソニアは隣室へと急いだ。今夜は一緒に寝てあげた方が良いかもしれない。家族の暖かさが必要な時というのは、間違いなく存在する。それは、子供ではなくソニアにこそ必要とされているのかもしれないが。子供の暖かさを抱き締めていれば、虚ろに押し潰されることなく、静かに眠れる気がした。






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セキゲツ作
2014.01.25 初出

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