砂が零れる音が聞こえる。

さらさらと、静かに、だが絶え間無く。周囲全てを取り巻くようにして、砂が零れる音が響いている。
昔、ここは森だった。
いや、昔というほど時間を遡る必要はない。ほんの1年か2年前までここは、そしてこの大陸の半ば以上は、豊かな緑を有して人の営みを育む肥沃な大地だったのだ。
しかし今、その面影を残しているのは、今彼らが居る場所の周囲のみだ。大陸に残された最後の緑、孤独にそびえ立つ巨木を中心としたほんの僅かな面積の中にのみ、植物とそれが護るほんの少しの命が存在していた。
だが――それももうすぐ、消えてしまうのだろう。
「静かだな」
背を合わせて座り込んだ親友に向かい、ストックは声をかける。視界の中に彼の姿は入らない、しかし服越しに触れ合わせた背中からは、確かな体温と鼓動が感じられた。ロッシュから低い肯定の言葉が返される、同時に体内で響く振動が皮膚から伝わり、その心地よさにストックは目を細めた。
「皆、無事だと良いんだがな」
「大丈夫だ。きっと元気に、航海を続けているさ」
滅びゆく大陸を脱し、一縷の希望をかけて、存在するとも分からぬ別の大地を目指して旅立った者達。その中には2人の仲間や恋人の姿もあった、彼らが無事新天地に辿り着いていることを、ストックもただひたすらに願うばかりだ。

砂の音は、止むことなく続いている。

木々の重なりがまた薄くなり、差し込む陽光が強くなった気がした。セレスティアを護っていた結界樹、それが生み出すマナに支えられた最後の生命も、こうして砂に消えつつある。もうすぐこの大陸から全ての命が消え、砂だけが静寂を聞く、鳥すら通わぬ死の大地と化すのだろう。それがストックが成した選択の結果、たったひとつ選びとった歴史の帰結なのだ。
失われ続ける生命の音を聞きながら、ストックはただ、背中越しの暖かさを感じている。
これが、彼の選んだ世界。彼が願った終わり。
「ストック、覚えてるか」
「……何をだ?」
「前にも、同じことがあったな。こうやって、お前と背中をあわせて座って」
一瞬、ストックの思考が記憶の底に沈み、そして直ぐにロッシュが言う光景を思い出した。それはもうずっと前、彼らが出会った直後の話だ。無謀に飛び出したロッシュを補佐し、2人で敵の中を駆け抜け、走り疲れたところで背を合わせて座り込んだ記憶。夜気に冷えた鎧の感触、戦いで乱れた息づかい、離れているのに感じられる体温と鼓動は今まさに感じているそれと全く同一のものだった。
あの時は星が見えていた。今はどうだろう、ストックが上を見上げると、後頭部がロッシュのそれと触れ合う。こつり、と硬い二つが合わさる感覚に、ストックは低い笑いを零した。
「どうした?」
「いや……何でも、ない」
思い出す。自らの使命も、親友を襲う死の影も、何も知らぬまま戦場を駆けていた頃を。あの瞬間はもはや遙かに遠い、何度も歴史を繰り返したストックには、それがどれくらいの昔のことなのかも定かには分からなくなっていた。ただ一つ分かるのは、今でもあの頃と同じに、ロッシュが隣に居てくれるという事実だけだ。
「覚えている。あの時からずっと、お前は傍に居てくれたな」
記憶を持たず、己を持たず、何を目指して良いかも分からず。ただ時間を重ねるしか知らなかったストックに、一人の人間としての意味を与えてくれたのは、共に歩んだこの男だったのだ。背後から苦笑が響いた、その顔は見えずとも、伝わる振動と声が教えてくれる。
「ずっと、ってことも無いけどな。一緒の隊だったのは一年だけで、その後お前は情報部に移動しちまったし」
「だが、また同じ隊で戦った」
「そうだな、だがそれも途中までだ。お前は戦い続けていたが、俺は」
「ロッシュ」
ストックは、下生えの上に投げ出されたロッシュの手に、己の手を重ねた。生身の右手は外気に触れていたため、背から感じる体温より少しだけ冷たく感じる。戦いの中で武器を握り続けた硬く大きな手、ストックは労るように優しくそれを握りしめた。
「俺は、お前を護りたかった」
鼓動と、体温。止まらずに動き続ける心臓、それが生み出す冷えることのないぬくもり。護りたかった、歴史の中で何度となく消えていった命を手の内に留めておきたい、それだけがストックの願いだった。
そして抱き続けた想いは、今この歴史でようやく叶おうとしている。振るわれる刃にも、絡め取る陰謀にも彼を奪われぬまま、共に世界の終わりを迎えるという形で。
世界は滅びる、だがそれでもロッシュは今、生きている。
願った未来は、違うことなくここに存在している。
「……ストック」
重ねた手が一瞬離れ、指を絡める形で再び繋ぎ直された。ロッシュの指に込められた強い力、それに応えてストックも彼の手を握りしめる。ロッシュが生きている、その歓喜がストックの心臓の奥まで染み込み、穏やかな鼓動に乗って全身を巡っていく。
砂の音は止まない。差し込む光は強くなり、吹き付ける風の熱は増し続けている。大陸からマナは失われ続け、広がる砂漠は、もう彼らの足下まで近づいてきていた。後ほんの僅かの時間を過ごせば、彼らが座る柔らかな草までも、暑く無慈悲な砂に変わってしまうだろう。そして恐らくは、彼ら自身も、また。
それでも構わない、滅亡を避けるために親友の命を奪って、そうして紡がれる歴史など何の意味も持たない。それならば、抗うことなく運命に身を委ね、彼と共に平和な終末を迎えよう。
「ロッシュ」
何度も繰り返した名を、新たな喜びを込めて、噛み締めるように発音する。重ねた手を強く握り、存在を確かめた。顔は見えない、だがその必要すらもう無い。彼が確かにここに居てくれる、誰に奪われることもなく共に時間を過ごしてくれる、それだけで十分だ。
「お前と出会えて、良かった」
心から。魂の芯から喉を通り、口から零れ落ちた、心からの感謝。戦いの中失われる多くの命の元、醜く歪みながら長らえてきた不格好な世界で、ただ一つだけ心の底から感謝したいこと。
彼に出会えて、良かった。
共に歩むことが出来て、良かった。
最後まで護ることが出来て、良かった。
全ての思いを込めて発せられた言葉に、ロッシュの身が震えるのが伝わってくる。
「……ああ」
低く、低く、囁かれる言葉。ともすれば砂の流れる音に消されてしまいそうな、微かな声音で紡がれる言葉を、ストックはその全身で受け止める。
「俺も。お前と出会えて、良かったよ」
さらりと、傍らの木々が崩れ落ちた。体重を預けた草が、端から砂になっていく。終わりが近い、大陸全てが砂に飲まれる瞬間は、もう直ぐそこまで来てしまっている。
ストックは天を仰いだ。日差しを遮る木々はもう殆ど残っておらず、失われた命の代わりのように、幻想的な緑の光が漂っている。瞼を閉じ、手のひらと背に与えられたぬくもりを、ひたすら追い続けた。護り続けた親友の命と最後まで寄り添ったまま、終わりを迎えるために。


そして訪れた、最後の瞬間。

ストックは、伏せられ、覆われたはずの視界の中で、

2人の身体から抜け出る緑の光を、視た気がした。


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セキゲツ作
2011.10.30 初出

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