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白い病室で、ソニアが無言で診断書の頁を繰っていた。その前ではロッシュが、寝台に座った状態で、厳つい顔に神妙な表情を浮かべている。普段よりも一回り以上小さい印象を受けるのは、常に、城の中でも身につけている鎧を脱いでいるからだ。医療部から支給された患者用の衣服を着ている姿は、逞しい筋肉があるにも関わらず、普段よりも縮んでいるように感じられる。
そんなロッシュに対して、やはり神妙な顔でひとつ頷くと、ソニアは唇を開いた。
「身体の検査ですが、大きな異常はありませんでした」
その言葉に、少しだけロッシュの緊張が緩む。アルマ鉱山から戻った直後に医療部に放り込まれ、治療と検査を行われる数日の間、絶対安静を申し渡されていたのだ。酷い戦闘だった自覚もあり、症状が無くとも致命的な怪我を負ってはいないかと、ロッシュ自身不安に思っていた。実際に検査をしてそれが否定されれば、安心も出来る。勿論、ソニアの側ではまた別の意見があるだろうが――真正面から鋭く睨み付けられて、ロッシュはまた身を縮めた。
「運が良かっただけです。一歩間違えれば酷い結果になっていた傷も、沢山あったんですよ。これが当たり前だなんて思わないでください」
「ああ、分かってるよ。悪かったって」
ソニアに言われずとも、ロッシュもそれは自覚している。素人同然の部下を率いて精鋭部隊と当たるなど、改めて考えれば正気の沙汰ではない。部隊に大きな被害もなく、自分も死なずに帰れたのは殆ど奇跡だと、ロッシュ自身でも思っている。
勿論、被害が皆無というわけではない。大きな怪我をした隊員も居るし、残念ながら戦死してしまった者も、少ないながら存在する。ロッシュにしても、怪我こそ大きなものにならなかったが、その左腕に大きな損傷を受けていた。戦いの半ばから動きを鈍くしていたガントレットは、気付けば完全に動作を停止してしまい、今はロッシュの身体から離れている。根本部分を含めてが取り外され、肩から少しだけ伸びた生身の左腕のみが存在する姿は、見る者に奇妙な喪失感を抱かせた。ロッシュ自身も落ち着かないようで、習慣で左腕に触れようとしては、空間に気付いて手を止めている。そんなロッシュの動きを見て、ソニアは苦笑に似た表情を浮かべた。
「それで、ガントレットですが――こちらも、大きな損壊はありませんでした」
「何だって? 本当にか」
「ええ、勿論修理は必要です、特に外殻は酷い状態でしたから。ただ、内部のコアパーツに関しては、殆ど無傷で残っていたんです」
コアパーツはガントレットの根幹を成す部品、装着者の意思でガントレットを動かす為の制御部品だ。魔動で動く義手といっても、コアパーツが無ければあの圧倒的な力を出すことはできない。ロッシュも以前に、開発者である元上司から、その説明は受けていた。負荷があまりに大きいと、発する力に耐えきれず砕けてしまう。そう聞いたことを、今更ながらに思い出した。
「てっきり、壊れちまったかと思ったんだが」
「ええ、私も驚いています。外殻が殆ど壊されていたのに、コアパーツだけは完全な形で残っているなんて、奇跡的と言っても良いくらいです」
「本当に無傷だったのか? 戦ってる途中、どんどん動かなくなっていった気がするんだが」
アルマ鉱山の戦いは、確かに普段よりも数段激しいものだった。途中、段々とガントレットの反応が鈍くなっていった覚えがある。焦燥と共に失われていった左腕の感覚は、たった今起こったことのように思い出せた。
「細かく検査をしました、コアパーツの働きに以上はありません。微細に付いた傷はありますが、修復できる範囲です。動かなくなっていたのは、接合部に破損が至って、制御系の伝達経路が破断していたためでしょう」
「そうか、あれで壊れなかったのか。改めて、凄いもんだな、こいつは」
つくづくと感心して頷くロッシュだが、ソニアは怒った様子でロッシュを睨みつける。
「だから、これは奇跡的なことです。先に伝達系が壊れたからコアパーツに応力が反映されず、破損を免れただけで――普通だったら、コアパーツが砕けてもおかしくなかったんですよ」
「あ、ああ。分かってる、無茶するなって言いたいんだろう」
「本当に分かっているんですか?」
鋭いソニアの視線に首を竦めながら、ロッシュは何も繋がっていない左肩を、落ち着かなげに動かした。
「で、どれくらいで直りそうなんだ」
「外殻部分ですが、魔動兵の部品を作り直さないといけませんから、直ぐには難しいです。一週間か、場合によっては二週間程度かかるかもしれません」
「最短でも一週間か。長いな」
コアパーツが無事でも、外部の部品が無ければ、腕としての形を成さない。この頼りない状態が一週間、ことによってはそれ以上も続くのかと、ロッシュが渋い顔になる。ソニアはまた厳しい表情を浮かべたが、左腕の不在がロッシュに与える影響も理解しているのだろう、責める言葉は発されなかった。
「出来るだけ急がせるようにはします。軍の予定もあるでしょうから」
「ああ、まあ……だが、そういう意味じゃあ、あまり急ぐ状況になっても困るんだがな」
ガントレットが無ければ、ロッシュの戦力は大きく落ちる。アリステル最強の兵士とまで言われた彼だが、さすがに左腕が無い状態で戦場に出ることは出来ない。左腕の修理を急がされるということは、緊急で出撃を命じられるということになり、それはあまり有り難いことではなかった。顔を顰めたロッシュの反応が不思議なのか、ソニアは怪訝そうに首を傾げる。だが、彼女の口が開くのを遮るようにして、扉を叩く音がした。
「――失礼、邪魔するよ。ロッシュ、調子はどうだい」
かけられたのは、ロッシュの上司、ラウル中将の声だ。ロッシュが応答すると、扉が開かれ、室内に入ってくる。ロッシュが慌てて背筋を伸ばし、ラウルはそれを押さえるように手を振った。
「ああ、そのままで良いよ。怪我の具合はどうかな?」
「はい、有り難うございます。おかげさまで、大したことは無いようです」
「それは良かった。酷い状況で運び込まれたと聞いたから、心配していたんだよ」
「いや――酷かったのは確かですがね。幸い、後に残る怪我が少なかったようで」
ソニアの視線を感じつつ、慌てて言葉を続けるロッシュに、ラウルが愉快そうな笑みを浮かべた。だがその笑いも、空虚な左上を確認すると、真剣なものに変わる。
「ガントレットはどうしたんだい。修理中かな」
「ああ、それは……」
「中将、私から」
ロッシュを遮り、ソニアが先程と同様の説明を繰り返す。破損の度合いに対しては安堵したようだが、修理にかかる期間に関しては、やはりロッシュと同じような表情を浮かべた。
「一週間から二週間、か。それくらいで済んで良かったと言うべきかな」
「そうですね、実際、完全に壊れてしまってもおかしくない状態でしたから」
「怪我のことも含めて、ロッシュ、君は本当に運が良いようだね」
「……そうですね」
同意するまでに一拍の間が空いたのは、ラウルの様子が、無事を喜ぶのとはかけ離れたものに見えたからだ。真剣な表情の上司に、ロッシュは嫌な予感を覚えて身構える。
「だが、残念ながら今回は、それが悪い方に向かってしまうかもしれない。また、ロッシュ隊に出撃命令が出ているんだ」
「いつです。作戦内容は?」
「まず、出撃は三週間後を予定している」
そういった命令が下されるのは、ロッシュも予想はしていたことだ。ロッシュ隊の挙げた戦果は大きい。さらにそれを志願兵で形成された新兵部隊が果たしたという事実が、英雄的な逸話として人々の心を動かしてしまっている。だが、その評価を手放しで喜べる程、ロッシュにも隊の人間にも余裕があるわけではない。
「早すぎます。今は実践を重ねるよりも、訓練で地力を付けてやるべき時です」
「真っ当な訓練は一度もしないまま、初戦に挑んでしまったからね。それでも、アルマ鉱山では大勝利だったわけだけれど」
「たまたまです、運が良かったんだ。あいつらも勘違いして気が緩んでる、今また出撃なんかしたら、今度こそ壊滅しかねません」
アルマ鉱山での勝利は、大きく運に左右されていたと、ロッシュは考えている。初戦の緊張感、相手の油断、奇襲に有利な地形と爆薬――様々な要因が重なって、たまたま拾えた勝ちだ。あれが実力だと思っているかは分からないが、隊員たちが少しでも自信を持ってしまったとしたら、それは逆に敗北へと繋がる。幸運が何度も続く程、戦争というのは甘いものではない。訓練を重ねて本当の実力を付け、離れた運を自ら引き寄せられるまでになってから次の戦いに出たいと、ロッシュは考えていた。
「……その通りだ」
ラウルとしても、それに反対する気は無いのだろう。彼の反応を見るに、実際に命令を下したのは、もっと上の者なのだと推測できた。厳しい表情で考え込むラウルに、ロッシュもまた思考を巡らせる。隊員たちの現状、訓練に取れる時間。三週間という限られた期間で、彼らを一人前の、いやそうでなくとも戦場から生還出来るだけの実力を持つ兵士に育てられるかどうか。
「彼らの訓練には、本来ならどれくらいの期間が必要かな」
「出来れば二ヶ月。どんなに短くとも、一ヶ月は掛かります」
「妥当なところだね。だが、実際にその時間は与えられそうにない」
「待ってください、ロッシュは怪我人です。三週間での全快はむずかしいでしょう」
そこで耐えきれなくなったのか、ソニアが口を挟んでくる。医者としてなのか、それともロッシュと親しい者としてなのか、判断の付きづらい剣幕だ。けしてまくし立てるわけではないが、遙か年上のラウルにも遠慮することなく、厳しい目付きで睨み付けている。
「ガントレットも、修理が終わったばかりになると考えられます。医者として、出撃を許可するわけにはいきません」
「そうだね、だが長期の療養が必要な程大きな怪我でないことは、既に診断されてしまっている。その結果を見てしまえば、他は納得しづらいだろう」
しかしラウルは表情を変えない、ソニアの必死さにほだされることが出来る程、容易な状況では無いということだろう。 ラウルは軍の中では高い地位に居る人間だが、それにしたところで、個人的な横車を押せるというわけではないのだ。軍として決まった出撃計画であれば、よほどの理由が無い限り、それを覆すことはできない。
「まあ、仕方がないでしょう。何とか三週間で、使いものになるくらいまでは育ててみせます」
「出来るかい?」
「正直、厳しくはありますがね。何処までいけるかは分かりませんが、あいつらも覚悟して軍に入ってきたんだ。地獄のひとつも見させてやることにしますよ」
冗談なのかも分からないような真面目くさった顔で呟くロッシュに、ラウルの頬が微かに引き攣る。
「はは、頼もしいと言うべきかな。……彼らが逃げ出さない程度にしてくれよ」
「では、ガントレットの調整も急がせます。ロッシュ、あなたも、まずは身体を治すことを優先させてください」
結局は止められないことを悟ったのか、ソニアもそれ以上の反対を止め、ロッシュを見た。ラウルも表情を改め、そんなソニアに頷いてみせる。
「出撃するのは確実だろうが、怪我やガントレットのことで不安が残るのも確かだ。今回、ロッシュ隊には後衛に回ってもらうように手配するよ」
「そうしてもらえると、助かります」
「礼を言われることでもないさ。ロッシュ、君も君の隊も、アリステルにとっては貴重な戦力だ。無駄に死なせるわけにはいかない」
「……はい。有り難うございます」
神妙に頭を下げるロッシュに、ソニアもようやく少しだけ安堵の気配を浮かべる。だがラウルは何故か、そんな彼女とは対照的に、ふと浮かぬ表情となった。
「中将?」
「いや。まあ、そうは言っても今回は、心配する程の戦いにはならないだろうけどね」
それが本当ならばむしろ良い話の筈だが、語っているラウルの様子は、喜ばしさとは真逆のものだ。ロッシュが疑問符を浮かべているのに気付き、ふ、と口元が皮肉げに持ち上げられる。
「作戦に参加することが決まったら、正式に情報が与えられるだろうけど、今回の遠征は少し特殊なんだ。ヒューゴ大将自ら魔動兵部隊を率いて指揮する上、相手がグランオルグじゃない」
「……グランオルグじゃない?」
予想外の発言に、ロッシュの目が丸くなる。それも当然のことだ、現在アリステルが交戦しているのはグランオルグなのだ。
「じゃあ一体、何処が相手なんです」
「一応機密だから、ここだけの話にしておいてくれ。今回は、セレスティアに攻め込むのが任務だ」
言われて、直ぐにその国を思い出せなかったのは、ロッシュが無知なためとも言えないだろう。アリステルに対して真南、地理的には極近くにある国だが、その実国交は完全に途絶えている。彼らの存在を伝えるのは時折訪れる旅芸人や商人程度のもので、普通に暮らしている分には全く意識することのない国なのだ。
「それはひょっとして、マナの確保が目的の作戦ですか? フェンネル技師が提案した」
だが研究所に勤めているソニアは、セレスティアについても遠征の目的についても、容易に察することができたらしい。あるいは研究所の中でも、同様の話題が出ていたのかもしれない。
「さすがに鋭いね、その通りだ。魔動歩兵の量産化に向けてマナ結晶を確保し、さらに魔動歩兵のデータ収集を行うのが、今回の目的だ」
「マナ結晶?」
「ああ、セレスティアはサテュロス族の国なんだけど、あの土地は非常にマナが豊富らしいんだ。市場の隅で、サテュロス族がマナ結晶を売っているのを見たことが無いかい?」
「そういえば、見た覚えがありますね。やたらと高いし、宝石みたいなもんかと思ってましたよ」
「そう、マナ結晶は非常に高価なんだ。今までは外部から購入して賄っていたから、魔動兵を製造するにも稼働するにも、驚くほど金がかかっていた。ヒューゴ大将はそれを解決するため、強引にマナ結晶を奪い取ろうと考えたわけだ」
「戦争をしているわけでもない国に攻め込んで? 無茶苦茶だ」
「そうだね、僕もそう思うよ。だが、今の僕らにそれを止めることはできない」
そう言って、ラウルは疲れたような息を吐き出した。今のアリステルで最も権力を持つのは、ノアその人を除けばヒューゴだ。いや、ヒューゴがノアの代弁者である以上、ノアの持つ権力ですら彼が所有しているのと同様である。ラウルも優れた政治家だが、この国に居る限り、ヒューゴの意思を覆すのは難しい。
「出来るのは精々、被害が少なくなるように動くことくらいだ。魔動兵は小回りが利かないから、逃げる相手を追うのには向かない――被害が軽いうちに、セレスティアが逃げに回ってくれればいいんだが」
「……はい」
だが、例えどれほど慎重に行ったところで、それが侵略行為であることに変わりはない。ラウルもそれは十分に理解できているのだろう、笑いに似た表情を浮かべてはいるが、その目はやはり疲れたような色をしていた。
「ともかく、そんなわけだから、三週間後に向けて体制を整えておいてくれ。細かい情報は追って連絡するよ」
「分かりました」
それで話は終わったようで、ラウルはひらりと手を振って踵を返し、病室を出ていく。残されたロッシュとソニアは、何とはなしに顔を見合わせた。
「また、戦いですね」
そう言って笑うソニアの目に、怒りや嘆きの色は無い。ロッシュが戦うことを望んでいるわけではない、だが反対したところで仕方がないのだと、彼女も分かっているのだろう。
「ガントレットは、最長でも十日で渡せるように手配します。それだけあれば、十分に身体に馴染ませることが出来るでしょう」
「ああ、助かる」
「それと、外殻の部品を揃えている間に、コアパーツの方も調整しておきたいんです。細かい傷もありますし、それに、上手くすれば以前から開発していた機能が追加できるかもしれません」
「ん、そんなもんがあるのか?」
「ええ、ガントレットの戦闘能力を一時的に向上させるための機能です。それがあれば、この先の戦いも、少しは楽になるかもしれませんから」
「そんなことをやっててくれたのか。すまんな、全く」
「何を言っているんですか、これが私の仕事ですよ」
ソニアはそう言うが、仕事という以上の手間と心を、彼女はロッシュに注いでくれている。ロッシュは鈍い男だ、だがソニアの気遣いと、そこに込められた無事を祈る心に気づかぬほど愚かな男ではない。
「それなら、無事勝って帰るのが、俺の仕事だな」
国のため、人のため、そしてソニアと自分のために。今回の戦いも、絶対に勝って帰らなくてはならないと、ロッシュは改めて気合いを入れる。
「よし。そのためにも精々、あいつらを鍛えてやらんとな」
にやりと獰猛に笑うロッシュに、ソニアは苦笑を浮かべる。軍人としてのロッシュは、アリステル最強とも言われる男なのだ。彼の部下に与えられるであろう苦難は、門外漢であっても想像に難くない。
とはいえ、それも全て彼らが生き残るためなのだから、外野に制止できる筈もない。ソニアもまた、困ったように笑いはするが、それ以上のことは言おうとせず、ロッシュを見守るだけであった。
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森が燃えている。
いや、本当に燃えているわけではない。響きわたる怒号と金属音、武器と血が発する鉄の臭いが混じるそれは、戦火と呼ばれる概念としての炎だ。だがそれは、実際の炎と遜色無く、森とその住人を蹂躙していく。ロッシュ隊が配置されているのは、前線から離れた後詰めの箇所だ。道を塞ぎ、誰であろうと通さぬようにと命じられているが、役目を果たすことがあるかは分からない。包囲をすり抜けて大将を狙うような、戦術的な行動が取れる程の余裕は、セレスティア側には無さそうだった。唐突に襲撃されたセレスティアは大混乱に陥り、組織立った抵抗などとても不可能な状態と見える。
前線で戦っている魔動兵の駆動音が、この場所まで聞こえるように感じられた。気のせいかもしれない、だが風の方向によって、本当に音が届けられているのかもしれない。だとすれば、混じって聞こえる悲鳴の、戦士のものとは思えない甲高い声音も本当のものなのだろうか。
「隊長……これは一体」
そう問いかけるキールの声は震えている。他の隊員たちの様子も、彼と似たようなものだ。それを弱気と責めることは出来ない、彼らが軍に入ったのは戦うためであり、虐殺に荷担することなど考えてすらいなかっただろう。彼らの敵はグランオルグ軍であって、戦う力を持たない異種族の民ではない。置されたのが後衛で良かったと、ロッシュは思う。もし先発隊に組み込まれ、自らの手で非戦闘員を殺すように命じられていたら、彼らの精神は保たなかっただろう。
「落ち着け。とにかく隊列を乱すな」
そう命じるロッシュの声も、さすがに常の力強さを失っていた。隊員たちが不安げに顔を見合わせているのには気付いているが、彼らの動揺を治めるだけの言葉を、ロッシュは持っていない。それに、治めて良いものかどうかも分からなかった――少なくともロッシュにとって、彼らがこの状況を異常に思うのは、当然のことだと思われたからだ。
そういった意味で、何より異常なのは、このような任務を平然と遂行できる兵たちが少なからず居ることだった。前衛に選ばれた部隊には、個々の内心はともかく、少なくとも表面上の戸惑いや反抗は見られなかった彼らは、これがヒューゴ、ひいてはノアの意思だという理由のみで、この任務を当然と受け止め遂行していた。その迷いのない姿勢こそが、これだけ戦局を激化させている最大の要因なのだろう。
「ここまで来るでしょうか、その、敵は」
「可能性は低いが、無いわけじゃない。気を抜くな」
だがあるいは、彼らの行動こそ、軍人として正しいのかもしれない。国のために戦う槍に、意思は不要だ。個々が勝手に戦いの是非を決めてしまっては、軍は成り立たない。相手がグランオルグ兵だろうと、軍人ですらないサテュロス族であろうと、平等にその力は発揮されるべきなのかもしれなかった。直ったばかりのガントレットで、ロッシュは拳を握る。この鉄の腕は、国を守るために与えられたものだ。そのためには――
――突然、道の傍に生えた木が揺れた。
「……っ! 誰だっ!」
反射的に叫び、ロッシュは槍をその箇所に向ける。隊員達も顔色を変え、物音がしたあたりを取り囲んだ。よく見れば木々の奥に、複数人のサテュロス族が通り過ぎようとしている。包囲を抜け、アリステル軍が去るまで森に隠れようとしたところを、ロッシュが発見してしまったのだ。
「止まれ。武器を下ろして、ゆっくりそこから出てこい」
視界を塞ぐ枝を透かし、相手の様子を伺う。勧告してはみたが、彼らは実際、大した武装はしていないようだった。一人が弓を手にして、ロッシュ達を狙っている。ロッシュは部下を庇い、射線を遮るようにして立ちはだかった。
「……見逃してくれ、ここに居るのは女子供だけだ」
その言葉通り、そこに居る殆どが子供や女性であることに、ロッシュも気付く。獣の下半身を持つ少女が、母親と思しき女性にしがみついていた。何人かは怪我をしているようで、血のにじんだ布が身体に巻き付けられている。皆、恐怖と憎しみを込めて、ロッシュ達を睨みつけていた。
森の中の遠くから、アリステル軍のものと思われる声が聞こえた。逃げ出した相手を捜し、追い立てる声だ。彼らが探しているのは、今ロッシュ達の前に居る一団だろう。一人の女性が体を震わせ、子供を抱き締めた。
「隊長……」
彼らはアリステルを憎むだろう。憎しみを持つ相手を生き残らせては、今後に禍根を残すことになる。戦争とは非常なもので、殺さなければこちらが殺されるのだ。背後から刺される危険を防ぐため、今彼らを見逃すわけにはいかない。
「……誰が来ても通すな、と命令されている」
それはきっと、奇襲を警戒するのではなく、今のような状況を想定しての命令だったのだろう。アリステルを守るため、必要なことだと、頭では理解出来ていた。サテュロス族の男が、顔を強張らせて武器を構える。弓が引き絞られる気配。その後ろで、子供の一人が泣き出した。
国のため。だがそれは一体、どういうことなのだろうか。今彼らを殺せば、確かにアリステルは安全になる。だがそもそも、アリステルの軍勢が攻め込むことが無ければ、恨みなど生まれなかったのだ。何かが決定的に間違っている気がした。部下達の視線を感じる。それが、縋るようなものであることに、ロッシュは気付いていた。
ロッシュは、一歩後ろに下がった。そして、手にした武器を下げる。
「行け」
サテュロス族の男が、驚いた表情になる。ロッシュはまた一歩、背後に下がる。部下達も、躊躇いがちに包囲を広げ、武器を向ける角度を緩めた。
「良いのか。お前達もアリステル軍だろう」
「ああ、だが……いや、良いから早く行け。他の奴らに見付かる前に」
「……感謝する」
構えた武器を下ろすことは無かったが、男は少しだけ頭を下げたように見えた。そして、仲間に合図を送り、共に走り出す。森の中とは思えない速度で消えていくその姿を、ロッシュは不動の姿勢で見守った。そして、彼らの背が完全に見えなくなったのを確認すると、振り返り、居並んだ部下達と向き合う。不安と恐怖と、そして安堵が、彼らの顔には浮かんでいた。ロッシュは彼らの顔を、一つひとつ、順に見詰めていった。
「この中で、今回の任務に納得している奴は居るか」
ロッシュが語りかける。誰も答えない。
「この任務はアリステルのためのもので、今俺がしたことは間違いだと思っている奴が居たら、言ってくれ。このままここを去って、別の隊と合流しても良い」
ある者はロッシュを見詰め、ある者は落ち着かなげに視線を彷徨わせ、ある者達は互いに視線を交わして俯いている。だが誰も動こうとはしない。皆、縫い止められたように、その場に立ち尽くしている。
「責めたりはしない、勿論処罰なんぞもしない。俺はお前達の隊長だが、何が正しいかを決めるのはお前達自身だ。俺と違う結論を出した奴が居たら、遠慮なんてせずにその通り行動すればいい」
その言葉は、部下に言い聞かせているようであり、ロッシュ自身が納得するための言葉でもあった。託された意志を継ぐため、国を守らなくてはと思っていた。しかしその為に、己の中の良心すら消しても良いものなのだろうか。そうして人形のように軍に従い、ただ戦い続けることは、本当に正しいのか。
「だが、もし俺と同じことを考えた奴が居たら――俺と共に来てくれ」
ロッシュには分からない。だが、一度下ろしてしまった槍を振り上げることは、どうしても出来そうになかった。間違っているのかもしれない、だが今は間違っていても良い、そう思いながらロッシュは武器を握りしめる。
「俺は命令に背く。逃げだそうとしている奴らが他にも居るかもしれない、それを助ける」
それは義理を、誇りを、居場所を――全てを捨てる選択肢なのかもしれない。だがそれでも、この場で罪もないサテュロス族を殺戮するくらいなら、そしてそれを己の部下に強要するくらいならば。軍人としての誇りなど捨てても構わない、そう思ったのだ。
沈黙が落ちる。そして数秒の後、意を決した様子で、キールが一歩前に出た。
「お手伝いさせてください、隊長。自分も、こんなこと、間違っていると思います」
「じ、自分もお供します! 俺、いや自分は、こんなことをするために軍に入ったんじゃありません」
一人が動けば、均衡は破れ、雪崩るようにして皆が前に出た。戸惑いが残るものは多い、周囲に流されている者も居るようだ。だがやはり彼らは、この任務に疑問を持ち、納得出来ぬ心持ちでこの場に立っていたのだろう。逃げ出す者は一人も居らず、揃ってロッシュの前に整列している。
「隊長、ご指示をお願いします」
「……ああ」
ロッシュは彼らを見て、ひとつ頷いた。そして表情を引き締め、唇を開く。
「半分はここに残って警戒にあたれ、全員が居なくなったら、他の隊が来た時に騒ぎになる。さっきのように誰かが来たら、そのまま逃がすんだ」
「はい!」
「残りは五人ずつの組に分かれろ。周囲を散策して、サテュロス族が居たら手を貸してやれ。他の隊に会ったら、魔物が居たとでも言って誤魔化しておけ」
「分かりました」
「よし、直ぐに組分けと役割決めを実行。三分後に作戦を開始するぞ」
「はいっ!」
声を抑えた返事と共に、隊員達はきびきびと動き出す。迷いのないその様子に、本当にこれで良かったのかという強烈な恐怖感が、今更ながらに沸き上がった。だが何度考え直しても、他の道を選ぶことは出来ないだろうとも、はっきりと感じている。時を戻し、他の選択肢を与えられたとしても、自分は今の道を選んでしまうだろう――ロッシュは何故か、そう確信していた。
道は一つしかない、ならば今は、出来ることをするしかない。決意したロッシュは、何度目かの覚悟を決め、頭の中で詳細な命令を組み立てていった。
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セレスティアでの任務を終え、アリステルに帰還してから数日後、ロッシュはラウルに呼び出されて執務室に向かっていた。用件については、極秘としか伝えられていない。セレスティアでの服務違反が発覚したのかもしれない、と廊下を歩きつつ考える。ロッシュ隊はあの時、作戦が終わるまで森を駆け回り、何組かのサテュロス族を助けていた。真っ向から他のアリステル兵と戦うことはしなかったが、その行動に異常を覚えた者も居ただろう。処罰を下されるのかもしれない、そう考えつつも、ロッシュの心は何故か淡々と凪いだままだった。あの時取った行動を悔いる気持ちは無い。部下を巻き込んだことだけは少しだけ後悔していたが、彼らの表情を思い出せば、やはりそれも避けられない道だったのだろうとも思う。追求されたら、自分が強引に命じて行わせたことだと、そう申し開くつもりだった。
ラウルの執務室に辿り着き、重厚な扉の前で、ロッシュは一端足を止め、呼吸と表情を整える。
「ラウル中将。ロッシュです」
声を発した彼の顔は、感情を抑えて引き締められた、軍人のそれだ。そして室内から応えた声もまた。
「開いているよ、入ってくれ」
「失礼します」
扉を開き、一礼する。上げた視線の先に居たラウルは、感情の読めない無表情を保っていた。依然として飄々としているようにも見える、だが決定的に何かが異なっているようにも見える。ロッシュの目では、その差違を判別することは出来ない。
「ロッシュ、中へ。扉は、締めておいてくれよ」
抑えた声量。万が一にも話が外に漏れぬようにということだろう。ロッシュも心得、扉をぴたりと締め、普段よりも近くラウルの傍らに寄る。
「中将。お話があると伺いましたが」
「ああ、そうだね……いや、まずは、遠征から無事に帰れたことを祝おうか。君たちも、ご苦労だったね」
「いえ。うちの隊は、ずっと後衛に居ましたから」
やはりあの時の行動に言及されるのかと、ロッシュは身構える。その硬直に気づいたのか、ラウルが宥めるような笑みを浮かべた。
「そう身構えないでくれ、罰を言い渡すために呼んだんじゃない」
「……はっ」
「君の隊が持ち場から移動していたことは、報告を受けている。だがそれに関しては、僕が言い渡した任務を遂行するためということで、上の方でも決着がついているよ」
予想外の言葉に、ロッシュは目を丸くした。どうやらこの上司は、ロッシュ達の命令違反を知った上で、それを庇ってくれていたらしい。遠征に出る前のラウルの様子を思い出す、確かに彼もまた、この遠征に対して肯定的な意見を持ってはいないようだった。
「ご迷惑を、おかけしました」
「いやいや。むしろ助かったくらいだ、君がセレスティアの味方をしてくれたことで、次の行動への布石となったかもしれない」
ラウルの言うことが分からず、ロッシュは目を瞬かせる。ロッシュの理解が追いついていないことは分かった上でだろう、ラウルは言葉を切って手を組み直し、ロッシュを見詰めた。
「ロッシュ。君はあの任務をどう思う?」
「どう、とは」
「確かにセレスティアを攻め、マナ結晶を奪ったことで、アリステルの軍備は強化される。だが本来、セレスティアは敵国じゃない――今回のことで、こちらを敵と認識はしてしまっただろうけどね」
あの日向けられた、恐怖と憎しみの視線を思い出し、ロッシュは頷く。
「しかもヒューゴは、禍根を残さないためといって、セレスティア国民を全滅させるようにと指示していた。女性や子供も含めて、全て」
「生き残ったら、アリステルに牙をむけるかもしれないから、ですか」
「その通りだ。サテュロス族もそう簡単にはやられてくれなかったから、その任務は殆ど達成できていないけれどね」
幸いにも、とラウルは言い、ロッシュは躊躇いつつもそれに同意を示した。
「ロッシュ、君と君の部隊はあの時、持ち場を離れていたと聞いた。それだけじゃなく、サテュロス族達を助けていた、とも」
ロッシュは答えようとし、それがはっきりと命令違反を肯定する行為なのに気付き、動き止める。ラウルは既に真相を知っているだろう、だがそうだとしても、軍紀違反に胸を張れる程の覚悟はロッシュに無い。彼の精神は未だ軍人のそれであり、命令に従わなかったことを恥じている部分が、消し難く存在した。
ラウルもそれは分かっているのだろう、言葉を返さないロッシュには構わず、じっとその目を見据える。
「君も疑っているんだろう。あの任務は本当に正しいものだったのか――いや、今のアリステルが辿っている道は、本当に正しいものなのか」
強い視線だった。ロッシュは、目を逸らしたくなるのを必死で堪える。問いに対する答えは、ロッシュの中に存在する。だがそれは、殆ど衝動のみに支配されたもので、国の未来を憂えるような、立派な思想ではなかった。ただあの時、戦うはずでない者達を一方的に殺すことが、どうしても出来なかったというだけで。
「今のアリステルは、ヒューゴの思うまま動かされている。このままいけばこの国は壊れてしまう、誰かが止めなければならないんだ」
「それで、反逆者になったとしても?」
「ああ」
躊躇うことなく、ラウルは肯定の言葉を放つ。その態度には、ロッシュと違い、迷いなど微塵も感じられない。
「近く僕は、アリステルを脱出する。国内の権力は全てヒューゴに集まってしまっている、彼を止めるには国を出るしかない」
「その後、どうするつもりなんです。ヒューゴと敵対するってのは、アリステル全体を敵に回すのと同じだ。勝てるわけがない」
「亡命先はいくつか考えてある、その先に打つ手も。成功率は低いかもしれない、だがやらなくちゃいけない。アリステルを立て直すためには、これしか方法が無い」
目を伏せ、注がれる視線から逃れたかった。だがそれは出来ず、代わりのように右手が動き、ガントレットに触れる。この腕は鎖だ、ロッシュをこの世に繋ぎ、同時にこの国に繋いでいる。ガントレットを通じて、ロッシュに託された遺志によって――だが、本当にそうなのだろうか。
「ロッシュ、君も共に来て欲しい。君の力が必要なんだ」
セレスティアで向けられた、憎しみの目を思い出した。怯え、戸惑う部下の姿を思い出した。
彼らの心を踏みにじり、本当の機械のように戦う、それがロッシュに託されたことなのだろうか。鉄の義手を作ったかつての上司は、何を望んでロッシュを蘇らせたのだろう。
「中将、俺は」
「ロッシュ。頼む」
「俺は――」
あの時、ロッシュは軍の備品であることを否定し、命令に従いその力を振るうことを拒んだ。明確に、ロッシュ自身の判断と望みで、軍に逆らったのだ。あるいはそれは、恩義に対する裏切りなのかもしれない。だがそれでも、アリステルに従うべきでは無いと思ったのだ。国を守ることと、国に従うことは違う。行き先自体が間違っているならば、敢えて従わないことこそ、国を守ることに繋がるのではないかと。
ロッシュはガントレットから指を放し、右手を握り締めた。息を吸い、ラウルの視線を正面から見返す。
「――時間をください」
「ロッシュ」
「隊の奴らを説得する時間が欲しい。あいつらも、今のアリステルには疑問を持っています。半人前ですが頭数は多い、少しは戦力になると思うんです」
そう言ってロッシュが笑うと、ラウルの肩から力が抜け、頬が笑みの形に緩んだ。
「ああ、それは願ったりだ。戦力は一人でも多い方が良い」
「戦士としちゃ、まだまだ頼りない奴らですがね。それでも、連れていってやりたい。このままアリステルに置いておいたら、あいつらだってどうなるかわかりません」
「……その通りだ。ヒューゴの行動が全て正しいという風潮が、この国には広がり続けている。それに反対することも、疑問を持つことすら許されなくなってしまっているからね」
ロッシュは頷き、鎧の胸当てに手を当てた。
「ヒューゴの野郎を止めましょう」
ふと、ロッシュの脳裏に、今は居ない親友の姿が思い浮かぶ。軍を離れてはいるが、彼もまたアリステルのため、命を賭した任務に就いている最中だった。軍に逆らい反逆者となったロッシュのことを知ったら、彼はどんな反応をするだろうか。
「指示をお願いします、中将」
生じた想像の未来を、ロッシュはそっと振り払った。躊躇う時は過ぎた、今は信じて進むしかない。
左肩に繋がるガントレットの重みを感じながら、ロッシュは言葉に出さぬまま、ひっそりと己の心を覚悟で固めていった。
- 5 -
視界の中には、親友の姿があった。月明かりと炎に照らされ、白い顔が浮かび上がっている。
見慣れた、しかし久々に見るそれを、ロッシュはしみじみとした感慨と共に見詰めた。互いに国を離れ、こうしてストックと向かい合っているのは、不思議な夢でも見ているように感じられる。
「……まさか、お前がこんなに物わかりが良い男だとは思わなかったな」
ロッシュと同じように、ストックもまたアリステルを捨て、己の選択で以て戦いを続けている。ロッシュはそれを、情報をして得てはいたが、実際に見るまでは信じることが出来なかった。彼もまたロッシュと同じく、命を賭けるのも厭わず国に尽くしているように思えていたのに、人と言うのは分からないものである。
「俺がアリステルを捨てたなんて言ったら、敵になっちまうかと思ったぜ!」
国を捨てた自分のことを、ストックは許さないかもしれないと、ロッシュは漠然と考えていた。道を違えた二人が、敵として相対する。そんな想像は、何故か奇妙な現実感で、ロッシュの心に迫ってきた。誤魔化すように笑って、浮かんだ 光景を振り払う。だが脳の底に揺らぐ映像は、笑顔の裏で消えることなく横たわり続けてた。
「場合によっちゃ、お前とやり合うことになるのも覚悟していたんだがな……」
ストックはきっと、酷く苦しげに、ロッシュと相対するのだろう。だがけして、武器を置くことはしないだろう。ロッシュ自身は――きっと、逃げることも戦うことも出来ず、そのまま死んでしまうのだろう。
幻想だ。だがストックは、その幻想によく似た顔をしているように思えた。無表情に見える、だが彼の内側には感情が渦巻いていることを、ロッシュは知っている。
「馬鹿なことを言う」
瞳は、ロッシュに向けられていた。だが同時に、何処か遠くを見ているようにも思えた。悲しみと、安堵と、そして強い決意の光が、そこにはある。表情が、笑みに近い形になった。
「俺がお前と戦うわけがない」
その言葉が嘘であることを、ロッシュは悟っていた。そして同時に、間違いなくストックの本心であることもまた。
彼らが戦う未来は、道として確かに存在していた。何かが少しでも間違っていたら、ここに在るのは穏やかな時間ではなく、血に彩られた絶望だっただろう。だがストックは、それを否定している。何があっても、彼らが殺し合うことなど有り得なかったのだと。
「それもそうだな!」
ロッシュも笑顔を浮かべた。笑うべきだと思った、それも出来るだけ明るく。
「俺を説得役に選んだ、ラウル中将の作戦勝ちだ!」
ストックの表情が、苦笑を思わせる形に変わった。呆れたように片眉を上げて、だが口元は満足げに笑っている。それが示す意味を、ロッシュは知らない。きっと一生、知ることは無いだろう。
「――それじゃあ、俺は行くぜ。こっちが済んだらグランオルグに駆けつける」
ストックが頷いて、ロッシュを見詰めた。炎を映した緑色の瞳を、ロッシュは見返す。これから二人を待つのは、連続する戦いの日々だ。彼らがどれほど腕が立つ戦士でも、いつか命を落とす時が来てしまうかもしれない。だが何故かロッシュは、また必ず親友に会えると、そんな気がしていた。何があっても、この親友が歩みを止めることは無い。ロッシュさえ歩み続ければ、その先でストックに会えるのだと。
親友に頷き返して、ロッシュは踵を返した。歩むべき道は、目の前に続いている。それが正しいものであるかは分からない、だが今は信じて進むしか無い。
起こった悲劇は後ろに遺して、選んだ道を、ロッシュは進んでいく。
そんな彼を、ストックはじっと、強い瞳で見詰めていた。
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セキゲツ作
2014.02.28 初出
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