- 1 -

 金属の弾ける音が響く。
 間近で発生したそれだけではない、周囲のそこかしこで、武具がぶつかり合う音が鳴り響いている。さらにそれに重なる、何人もの叫び、怒号、悲鳴。それら全てが、狭い坑道内に反響し、正気であれば耐え難い狂騒となっていた。
 ロッシュ隊の初陣、アルマ鉱山。主には偵察、悪くとも小競り合いで済むはずだった任務は、最悪の巡り合わせによって激戦の舞台となってしまっていた。敵の精鋭部隊とはち合わせただけなら、まだ報告をして増援を待つ余裕があっただろう。だが相手が工作部隊であり、今まさに爆弾を仕掛けようとしている最中とあらば、それを止めないわけにはいかない。
 咄嗟の決断により、相手の爆弾を使って奇襲をしかけたが、戦力はそれでも五分に満たない。訓練も禄に出来ていない隊員の中には、竦んで動けなくなってしまっている者も多く居るのだ。彼らの分を埋めるために、隊長であるロッシュは、戦場の中央で敵の注意を引き続けることを余儀なくされていた。その役割に激しい危険が伴うことなど、考える余裕は無い。
 また、金属がぶつかる音が響く。ガントレットに痛覚は無いが、生身の根本に、痺れるような感覚が走った。そろそろ危ない、と経験から察する。ガントレットは強力無比の武器だが、機械というものが全てそうであるように、損壊すれば動かなくなってしまう。左腕の動きが鈍くなりつつあることに、ロッシュは気付いていた。だが完全に止まったわけではない、まだ動かすことはできる。祈るようにして、武器を振るう。戦場を見渡す目には、傷つき倒れる隊員達の姿が映っている。部下を、そしてアリステルを守るために、ここで動きを止めるわけにはいかない。緩慢に動く左腕に意識を送り、強引に振り回し、敵兵を殴り付けた。鉄の塊で薙ぎ倒され、相手は為すすべもなく吹き飛ばされる。また、根本に痺れが走った。鉄が擦れるような、嫌な軋みも聞こえる気がする。
 後どれくらい保つ。ロッシュは左腕に問いかけた。ガントレットが動かなくなってしまえば、戦い続ける意思があっても、戦力は格段に落ちる。ロッシュが倒れれば、戦いの雌雄は決するだろう。隊員は全員、軍人とも言えない素人の集まりだ。ロッシュの援護と指示によってかろうじて戦えているにすぎない、そして恐らく、相手もそれを理解している。止まるわけにはいかない、例え身体が動かなくなっても。
 悲鳴が聞こえるのは、一体どちらのものだろうか。それを理解する余裕すら失われた耳に、ふいに。
「退却だ、一時退却しろ! 本国に報告を――」
 待ち望んだ叫びが聞こえて、ロッシュは大きく息を呑んだ。意識をやれば、各所で交戦していた敵兵が、出口の方向へと下がり始めている。戦いは終わりだ、彼らは生き延びたのだ。
「止めろ、深追いはするな!」
 戦いの興奮に目を血走らせていた隊員達も、ロッシュの声に足を止め、互いに顔を見合わせる。ロッシュは、敵の足音が遠ざかるのを確認して、改めて周囲を見渡した。多数の負傷者が地に伏せ、呻いている。立っている者達も、気力と体力を使い果たし、虚脱したまま動けない状態だ。
 満身創痍の有様だった。だが、死者は少ない。精鋭と戦った新兵部隊としては、考えられない程の戦果だ。
「か……勝ったのか?」
 呆然としたまま、誰かが呟いく。完全に自失した声音に、ロッシュは片頬を持ち上げ、声を張り上げた。
「ぼさっとするな、直ぐに怪我人を後方に輸送、手当してやれ!」
「は、はいっ!」
「キール、怪我が軽い奴から十人ばかり選んで残らせろ。入り口を塞ぐぞ!」
「了解しました!」
 敵国への抜け道を塞いでしまうことへの抵抗はあったが、今はそれよりも、体勢を立て直した敵が再度向かってくることの方が恐ろしい。声をかけられた青年も、反論することなく勢いよく敬礼し、人員を選ぶために仲間の様子を確認した。ロッシュも改めて隊員たちを見回す、動ける者はロッシュの指示通り、怪我人の周りに集まっていた。大きな混乱が起こっていないのを確かめると、ロッシュも救護に加わろうと一歩を踏み出す。と、そこで初めて、己が受けた怪我の酷さを意識した。血を随分と失ったようで、立ちくらみに似た目眩がする。痛みは麻痺し、歩くことも走ることも出来そうだが、何故か左腕が妙に重い。
「勝った……俺たち、勝ったんだよな」
「ああ、そうだ、勝ったんだ! 凄いぞ、俺たちグランオルグの部隊に勝っちまった!」
 無邪気に喜ぶ隊員たちを見て、ロッシュは密かに息を吐く。大変なのはこれからだが、今くらいは素直に勝利を祝わせてやっても良い。直ぐにあの笑顔も消えるだろうが――アリステルに帰還したら、いやその途上からでも、厳しい特訓を彼らに強いらねばならないだろう。下手に初戦を制してしまったのだから、上から続けての出撃命令が下ることは目に見えている。
 身体の重さを堪えながら、ロッシュは息を吐き出した。戦闘の高揚は既に去り、鈍い痛みと重さ取って変わっている。左腕が全く動かないことに、ふと気付いた。酷い戦いだったから、何処かが壊れてしまったのかもしれない。ソニアに何と言われるか、そのことを考えて、ロッシュはまた肩を落とした。



- 2 -

 白い病室で、ソニアが無言で診断書の頁を繰っていた。その前ではロッシュが、寝台に座った状態で、厳つい顔に神妙な表情を浮かべている。普段よりも一回り以上小さい印象を受けるのは、常に、城の中でも身につけている鎧を脱いでいるからだ。医療部から支給された患者用の衣服を着ている姿は、逞しい筋肉があるにも関わらず、普段よりも縮んでいるように感じられる。
 そんなロッシュに対して、やはり神妙な顔でひとつ頷くと、ソニアは唇を開いた。
「身体の検査ですが、大きな異常はありませんでした」
 その言葉に、少しだけロッシュの緊張が緩む。アルマ鉱山から戻った直後に医療部に放り込まれ、治療と検査を行われる数日の間、絶対安静を申し渡されていたのだ。酷い戦闘だった自覚もあり、症状が無くとも致命的な怪我を負ってはいないかと、ロッシュ自身不安に思っていた。実際に検査をしてそれが否定されれば、安心も出来る。勿論、ソニアの側ではまた別の意見があるだろうが――真正面から鋭く睨み付けられて、ロッシュはまた身を縮めた。
「運が良かっただけです。一歩間違えれば酷い結果になっていた傷も、沢山あったんですよ。これが当たり前だなんて思わないでください」
「ああ、分かってるよ。悪かったって」
 ソニアに言われずとも、ロッシュもそれは自覚している。素人同然の部下を率いて精鋭部隊と当たるなど、改めて考えれば正気の沙汰ではない。部隊に大きな被害もなく、自分も死なずに帰れたのは殆ど奇跡だと、ロッシュ自身でも思っている。
 勿論、被害が皆無というわけではない。大きな怪我をした隊員も居るし、残念ながら戦死してしまった者も、少ないながら存在する。ロッシュにしても、怪我こそ大きなものにならなかったが、その左腕に大きな損傷を受けていた。戦いの半ばから動きを鈍くしていたガントレットは、気付けば完全に動作を停止してしまい、今はロッシュの身体から離れている。根本部分を含めてが取り外され、肩から少しだけ伸びた生身の左腕のみが存在する姿は、見る者に奇妙な喪失感を抱かせた。ロッシュ自身も落ち着かないようで、習慣で左腕に触れようとしては、空間に気付いて手を止めている。そんなロッシュの動きを見て、ソニアは痛ましげな表情を浮かべた。
「それで、ガントレットですが――こちらの方は、残念ながら完全に壊れてしまっています」
「完全に?」
「ええ。外殻だけでなく、コアパーツが砕けてしまっていました。完全に、修理もできないくらいに」
 コアパーツはガントレットの根幹を成す部品、装着者の意思でガントレットを動かす為の制御部品だ。魔動で動く義手といっても、コアパーツが無ければあの圧倒的な力を出すことはできない。ロッシュも以前に、開発者である元上司から、その説明は受けていた。負荷があまりに大きいと、発する力に耐えきれず砕けてしまう。そう聞いたことを、今更ながらに思い出した。
「予備は無いのか」
「量産品ではありませんし、普通の戦い程度では壊れないように作ってありますから、予備品は準備されていないんです。今から新しく作り直す必要があります」
 アルマ鉱山の戦いは、確かに普段よりも数段激しいものだった。途中、段々とガントレットの反応がにぶくなっていった覚えもある。無茶な戦いをした自覚はあるから、ロッシュは反論も不満も述べず、黙って小さく頷く。
「どれくらいかかる?」
「精密な部品ですから、少なく見積もっても一ヶ月は」
「……長いな」
 コアパーツが無ければガントレットは動かせない、その状態が一ヶ月も続くのだ。さすがに渋い顔になったロッシュに、ソニアは申し訳なさそうな顔を浮かべ、視線を逸らす。
「出来るだけ急がせるようにはします。軍からも急かされるでしょうし」
「ああ、そうだな……いや、だが考えてみれば、良い機会かもしれんな」
 ガントレットが無ければ、ロッシュの戦力は大きく落ちる。アリステル最強の兵士とまで言われた彼だが、さすがに左腕が無い状態で戦場に出ることは出来ない。だがそれは、今この状況においては利点ともなり得た。戦えないということは、出撃を要請されても断れるということなのだ。不思議そうな顔になったソニアに説明しようと、ロッシュが口を開く。
 と、それを遮るようにして、扉を叩く音がした。次いで、ロッシュの上司、ラウル中将の声がかけられる。
「――失礼、邪魔するよ。ロッシュ、調子はどうだい」
 ロッシュが応答すると、扉が開かれ、ラウルが室内に姿を見せた。上司の訪問に、ロッシュがあわてて背筋を伸ばす。
「ああ、そのままで良いよ。怪我の具合はどうかな?」
「はい、有り難うございます。怪我は大したことないらしいんですが、その……」
「中将、私から」
 ロッシュを遮り、ソニアが先程と同様の説明を繰り返した。怪我の度合いに関しては安堵を見せたラウルだが、ガントレットの故障を聞かされ、表情が思案げなものに変わる。
「コアパーツ、か。それが出来るまでは、怪我が直っても戦えないということだね」
「はい。部隊の出撃も出来なくなります」
 ロッシュ隊は新兵を集めた部隊だ、足りない訓練の代わりを、指揮官の腕に因って補っている状態である。要であるロッシュが戦えない状態では、出撃させたところで足手まといにしかならない。ラウルも頷き、同意を示す。
「そうだね、代わりの指揮官を立てるという手もあるが……人材は不足しているし、何より君以外に彼らを率いられる者は居ないだろう」
 ラウルの賛辞に、ロッシュは少しばかり困ったような表情を浮かべた。大きな戦果を立ててはいるが、この男は何故か、自分自身に向けられる評価を素直に受け取ろうとしない。
「それは分かりませんが、出撃は控えられたら良いですね。今は実戦を重ねるよりも、訓練で地力を付けてやりたい」
「真っ当な訓練は一度もしないまま、初戦に挑んでしまったからね。それでも、アルマ鉱山では大勝利だったわけだけれど」
「たまたまです、運が良かったんだ。あいつらも勘違いして気が緩んでる、今また出撃なんかしたら、今度こそ壊滅しかねません」
「……その通りだ」
 アルマ鉱山での勝利は、大きく運に左右されていたと、ロッシュは考えている。初戦の緊張感、相手の油断、奇襲に有利な地形と爆薬――様々な要因が重なって、たまたま拾えた勝ちだ。あれが実力だと思っているかは分からないが、隊員たちが少しでも自信を持ってしまったとしたら、それは逆に敗北へと繋がる。幸運が何度も続く程、戦争というのは甘いものではない。訓練を重ねて地力を付け、離れた運を自ら引き寄せられるまでになってから次の戦いに出たいと、ロッシュは考えていた。
 ラウルも、それに対して反対する気は無いのだろう。端的な同意を返し、少しの間考え込み、納得した様子で頷いた。
「実は君たちに、再度の出撃が要請されているんだよ」
「……何時です?」
「三週間後だ。君は……」
「ロッシュは怪我人です。三週間での全快はむずかしいでしょう」
 そこで耐えきれなくなったのか、ソニアが口を挟んでくる。医者としてなのか、それともロッシュと親しい者としてなのか、判断の付きづらい剣幕だ。けしてまくし立てるわけではないが、遙か年上のラウルにも遠慮することなく、厳しい目付きで睨み付けている。
「そうでなくとも、ガントレットの修理には最低一ヶ月かかります。それが完成するまで、医者として出撃を許可するわけにはいきません」
「勿論、分かっているよ」
 ラウルもさすがに苦笑を浮かべ、ソニアに向かって頷く。
「ロッシュ、君も君の隊も、アリステルにとっては貴重な戦力だ。無駄に死なせるわけにはいかない」
「……はい。有り難うございます」
「ガントレットのことは良い口実だ。君の象徴のようなものだからね、それが壊れたとあっては、無茶な要請も出せないだろう」
 ロッシュと、そしてソニアが、同時に同意を示した。ソニアの顔には、隠すこともなく安堵の表情が広がっている。
「遠征には他の部隊を出そう。ロッシュ、君はその間、しっかり自分の隊を鍛えておいてくれ」
「分かってます。アルマ鉱山で生き残ったのを後悔するくらい、厳しくしごいてやりますよ」
「はは、頼もしいと言うべきか……逃げ出されない程度にしてくれよ」
 ロッシュはけして理不尽に乱暴な男ではないが、激戦をくぐり抜けてきただけのことはあり、必要とあらば恐怖すら感じさせる程厳しくなれる。獰猛に笑うロッシュを見て、ラウルは苦笑を浮かべた。
「まあ、ともかくそんなわけだ。君に対して直接言ってくる者があるかもしれないが、断ってしまって構わないから」
「有り難うございます。中将も、お気をつけて」
「まだ出発は先だけどね。今から気が重いよ」
 妙に深い溜息を吐き出すラウルに、ロッシュはふと首を傾げる。ラウルが戦いを好む性情で無いのは知っているが、こうして忌避感を口に出すのは珍しいことのように思われた。あるいは、ここに居るのが、遠征に参加しない者のみだからなのだろうか。そう言うことで士気が下がる心配が不要だからこそ、遠慮なく本音を口にしているのかもしれない。
 だがラウルの表情には、それだけでは無い重さが感じられる気もする。追求しようとロッシュが口を開く前に、ラウルが表情を改め、退席する気配を示した。
「それじゃあ、君はゆっくり休んで傷を治してくれ。ロッシュ隊には、これからも活躍してもらわないといけないからね」
「いえ、そんな」
「まあその前に、君の特訓に彼らが逃げ出さないことを祈らないといけないかな。ともかく、よろしく頼むよ」
 そう言い置いて、笑いながら出ていったラウルの背を、ロッシュは見詰めた。普段通りの上司に見えるが、同時に何処か違和感も感じさせる。無理にいつも通りを演じているような。
「良かったですね、出撃せずに済んで」
 ソニアはそれに気付かないのか、純粋にロッシュの無事を喜んでいるようだった。ガントレットの破損に対する悲しみは、今は見受けられない。ロッシュの身の安全が第一と考えてくれているのだろう、それは有り難いことだと、ロッシュも思う。ロッシュ自身にも部下の隊員たちにも、今は時間が必要なのだ。
「……そうだな」
 ロッシュもそれを、幸運だと思おうとする。彼らの生存率は、これで飛躍的に上昇したのだ。ラウルは苦労するかもしれないが、今するべきはそれに謝ることではなく、報いるために次に備えることである。
 ロッシュは思考を、部下に課す訓練へと切り替えた。今回は免れたが、遠からず次の要請は来る。生じた時間を幸運として、一人前とはいかずとも、半人前程度にまでは鍛え上げなければならない。それがロッシュの役割であり、成すべきことだ。
「時間がかけられるようですから、ガントレットの方も、きっちり調整しておきます。以前から開発中だった技術も、組み込めるかもしれません」
「ああ……」
「ロッシュ?」
 生返事しか返そうとしないロッシュを、ソニアが不思議そうに見遣る。ソニアに向けられていない視線は、軍人としてどこか遠くを見ていた。ソニアがもう一度ロッシュの名を呼ぶが、やはり帰ってくるのはお座なりな返事のみだ。
 ――考え込んだまま意識を戻そうとしないロッシュに、ソニアは小さく息を吐く。そして、小さく苦笑を浮かべると、邪魔とならぬようにそっと病室を出ていった。




- 3 -

 ラウルが遠征に出立してから、一週間ほどが経った。
 ロッシュの怪我も完治に近づき、制作中のコアパーツも、さほど時間を置かずに完成するとの連絡を受けている。隊員達の訓練も、厳しすぎるとの嘆きを浴びながらも、順調に進んでいた。
 気にかかることは何もない――はずだ。いや、何もなければいけないはずだった。だがロッシュの中には、どうしても消えない不安がある。自分のことでも、隊員達のことでもない。それは、アリステル全体を包む、異様な雰囲気に起因するものだ。人々の、ノアとヒューゴへの盲信。以前から存在していた筈だ、しかし最近はそれがあまりに酷く、盲目さが増しているように思えたのだ。
 午前の訓練を終え、ロッシュは食堂に向かう。日によっては部下と食卓を共にすることもあるが、今日は少し訓練を厳しくしたため、物を腹に入れる余裕が無くなったらしい。吐いても良いから食えといつも言っているから、いずれはやってくるだろうが、今は体を動かす体力も無いのだろう。
 昼時の食堂は混雑していた。ロッシュは、その巨体を並んだ席の隅に押し込み、何とか居場所を確保する。同じ卓となった者達が挨拶をしてくるのに返し、特に話しかけてくる者が居ないのを確認して、自分の食事を頬張った。目立つ鎧を着用している彼だが、さすがに普段から出入りしている場所では、極端に注目を集めることはない。皆、ロッシュの存在など関係なく、自分の時間を過ごしている。黙々と飯を食べる者も居るが、仲間内で集まり、無駄話に興じている者も多い。そしてそこで交わされるのは、けして無責任な噂ばかりでは無かった。
「そういえば、この間出た遠征部隊のことなんだけどな」
「ヒューゴ大将が率いられた奴か? 魔動兵の部隊が投入されたっていう」
 総大将の名前が耳に飛び込み、ロッシュは反射的に意識を向ける。彼らが話しているのは、ラウルも参加している任務のことだろう。彼の斜め後ろに座っている集団は、直ぐ近くで聞き耳を立てられていることなど気づかぬようで、遠慮もない音量で話を続けている。
「そう、それだ。あの部隊、行く先が前線じゃないって言われてただろ」
「そういえばそうだったな。戻られたのか?」
「いや、まだだ。だが伝令だけ先に戻ったようでな、そいつが報告しているのを聞いたんだが」
 彼らが話しているのは単なる世間話だが、それが純粋な噂の域に留まらないのは、ここが軍の本拠地だからだ。重要な機密は隠匿されているはずだが、その切れ端が漏れるのを防ぎきることはできず、彼らのような一兵卒でも重大時の一端を知ることが出来てしまう。行く先が発表されずに出立した部隊など、隠密行動以外の何ものでもないのに、こうしてその目的は流れ出してしまっているのだ。ロッシュも実働部隊の一人に過ぎないが、親友が情報部などという部署に居ることもあり、多少は機密に対する認識が出来ていた。
 だが今回に限っては、眉を顰めるよりも耳をそばだてる方が先だ。ラウルが病室に訪ねてきた日以来、詳しい話を聞く時間も無いまま、出発を迎えてしまった。あの日感じた無形の不安は、形にもならず解消もされぬまま、ロッシュの腹にわだかまっている。勿論、ラウルが戻れば、また話す機会もあるだろう。だがそれを待つのに平静で居られるのは、要らぬ不安が無い時だけだ。得られる情報ならば得ておきたい、と期待せぬまま耳を傾ける。
「驚くなよ。相手はグランオルグじゃ無かったらしい」
「何だって? どういうことだよ」
 語られているのは、驚くなと言われても無理のある内容だ。アリステルはグランオルグと交戦を続けているのだから、出撃があったならば、相手はグランオルグだと思うのが普通である。
「それじゃ一体、何のために出撃したっていうんだ。魔動兵まで持ち出してるんだぞ」
 ロッシュの疑問は、当然、他の者が抱く疑問でもある。話者となった男は、恐らくは思惑通りに投げられた問いに対して、数秒焦らすような沈黙を置いた。
「……セレスティアだよ」
「セレスティア?」
 言われて、直ぐにその国を思い出せなかったのは、ロッシュが無知なためとも言えないだろう。アリステルに対して真南、地理的には極近くにある国だが、その実国交は完全に途絶えている。彼らの存在を伝えるのは時折訪れる旅芸人や商人程度のもので、普通に暮らしている分には全く意識することのない国なのだ。
「ああ、獣人の国か。一体なんでそんなとこに? 属国にして、獣人野郎を徴兵するつもりなのか」
「いずれはそうなるかもしれないが、今回の目的は違うらしい。何でもセレスティアには、上質のマナ結晶が溢れてるって話なんだよ。そいつを回収して、魔動兵を量産に回そうって作戦らしい」
「そういうことか! 成る程、魔動兵があればグランオルグの奴らなど恐るるに足らんからな。さすがヒューゴ大将」
 兵士達は機嫌良く語っているようだが、ロッシュの内心は酷い憂鬱に覆われていた。無関係な第三国への、事実上の侵略行為――それが事実ならば、ラウルのあの様子も納得できた。確かに今のアリステルは、戦争を中心に全てが回っているといっても過言ではない状態だ。グランオルグを打ち倒し、戦争を終わらせることが至上命題、しかしだからといって無関係な国を蹂躙するとは。戦略のことはロッシュには分からないが、ロッシュ自身の感覚で言えば、胸を張って遂行できる任務で無いことは確かである。
「獣人の国にマナ結晶など、宝を溝に捨てるようなものだからな。我々が活用してこそ相応しい」
「ああ、さすがヒューゴ大将。素晴らしい采配をなさるうものだ」
 そんなロッシュの思いとは裏腹に、兵達から疑問の声が発せられる気配は無い。彼らの態度は、そのまま今のアリステルの異常を示していた。ノアの教えに異常な程忠実となり、その代弁者であるヒューゴの行うことは、どんなものであろうとも支持される。それは本当に正しいのかと、そう主張することすら許されない。異常としか言えない、恐ろしい状態だった。
「早く、本隊も戻ると良いな」
「ああ、魔動兵の量産が始まれば、また一歩勝利に近づく」
 彼らの目的自体は間違ってはいない。この国を守り、戦争を終わらせるのだと、それはアリステル軍すべての目標だ。だからこそ、表だって反対することも出来ない。
 いや、あるいは彼らが何もかも全て間違っているとして、ロッシュにそれを指摘することが出来ただろうか。彼らに、いやアリステル国民の意思に対立して、道を説くことなど出来るのだろうか。
「ヒューゴ大将がいらっしゃる限り、アリステルは安泰だな」
「ああ、さすがノア様の代弁者。我らの行く先は、ノア様のご威光に照らされている」
 ロッシュは政治家でも革命家でもない、ただの戦士だ。出来るのは、ただ戦うことだけ。戦って、敵を倒して、そしてこの国を守ることだけだ。
 そうしなければ、全てを託して死んでいった者たちが、救われない――
「ノア様のために!」
「ノア様のために!」
 兵達は、昼間からまるで酒でも飲んだかのように盛り上がっている。狂騒と言って良いその様子は、アリステルのの現状そのものだ。
 この国は一体、どうなってしまうのだろう。無形の不安は、確かな恐怖に形を移している。だが、だからといってロッシュには、どうすることもできない。ロッシュはただの部隊長だ、人の心を動かすことも、まして国を動かすこともできない。
 苦い気持ちで、ロッシュは席を立った。このままではいけない、だが動くこともできない、そんな煩悶を胸に抱えたままで。





- 4 -

 さらに時が経ち、新兵達が武器を持つ手つきがようやく様になってきた頃、ラウル率いる遠征部隊がアリステルに帰還した。戻って後もその目的地は公にされなかったが、どういった経路をたどったものか、アリステル軍に事の経緯を知らぬ者は誰もいなくなっていた。恐らく、ロッシュが聞いたような噂が広まってのことだったのだろう。それが本当に、意図せぬ情報漏洩であったのかどうか、一左官の身に分かるものではなかたが。
 ロッシュは、将校の執務室が集まる棟の廊下を、一人歩いていた。遠征から戻って直ぐのラウルに、極秘に呼び出されたためだ。噂通りだとすれば、セレスティアを攻めるという任務に就いていた上司が、一体どのような用件でロッシュを呼んだものか。同行しなかったことを責められるのか、いやラウルに限ってそのようなことは無いだろうが、とロッシュの脳裏を答えのない思考が巡っている。
 だがそれは、昇降機を降りてからラウルの執務室に辿り着くまでの、ほんの僅かな間のことだ。重厚な扉の前で、ロッシュは一端足を止め、呼吸と表情を整える。
「ラウル中将。ロッシュです」
 声を発した彼の顔は、感情を抑えて引き締められた、軍人のそれだ。そして室内から応えた声もまた。
「開いているよ、入ってくれ」
「……失礼します」
 扉を開き、一礼する。上げた視線の先に居たラウルは、感情の読めない無表情を保っていた。依然として飄々としているようにも見える、だが決定的に何かが異なっているようにも見える。ロッシュの目では、その差違を判別することは出来ない。
「ロッシュ、中へ。扉は、締めておいてくれよ」
 抑えた声量。万が一にも話が外に漏れぬようにということだろう。ロッシュも心得、扉をぴたりと締め、普段よりも近くラウルの傍らに寄る。
「中将。遠征、お疲れ様でした」
「ああ、いや……僕は何も。戦い自体は、難しいものではなかったからね」
 溜息が吐き出された。無表情と感じられた顔に、深い疲労の色が浮かぶ。それを見れば、彼の抱えるものが一ヶ月前と同じだとは、とても言えるものではない。
「ロッシュ。君は、僕が遠征した目的を聞いているかい」
「噂では、ですが。……軍に流れている噂では」
「ラウル中将率いる部隊がセレスティアを強襲し、魔動研究のために、マナ結晶を強奪したと」
 また、溜息。目が伏せられ、何かを思い起こしているような気配が発せられる。何か、いや間違いなく、彼が経験した戦場の光景だろう。
「それは事実だ。誰が流した情報か分からないけれど、僕たちの行き先は、皆に知らしめたいようなものだったようだね」
「……はい。」
 それが一体どんなものだったのか、ロッシュには想像もできない。ロッシュは軍人だが、戦ってきたのは同じく武器を持ち、こちらを敵と認識して襲いかかる軍人のみだ。昨日までは戦場の存在すら意識していなかった一般市民を打ち殺すなど、想像できる筈も無い。
「酷い戦いだったよ。いや、戦いと言えるかどうかもわからない、本当に――酷いものだった」
 だが、あるいはそれも、国を守るものの仕事なのだろうか。戦う力を増すために他国を責めることも、軍の役目と言えるのか。軍というのは戦うものだ、その相手がグランオルグであろうとそれ以外の国であろうと、変わらないということなのだろうか。ロッシュにはわからない、だが恐らく今のアリステル軍には、それを肯定する人間の方が多いだろう。
「ロッシュ、君はどう思う? 国のため、無関係な他国を攻めることなど、許されると思うかい?」
「……ならやはり、中将はあの作戦に反対なさっていたんですね」
「当たり前だよ」
 投げられた問いに、ロッシュは答えることを避けた。それは奇妙な心理だった、彼自身は確かに、軍の行動が間違っていたと思っている。だが軍人としてのロッシュは、それを罪だと断じることが出来ない。軍人は国に従うものだ、その意識が口を閉ざしてしまう。
 ロッシュの反応から何を読みとったものか、ラウルは沈黙し、またひとつ溜息を吐く。
「ヒューゴは、魔動兵の量産化を進めたがっている。今回の作戦は、その一環だ」
「はい」
「ロッシュ、もう一度聞くよ。これは許される事だと思うか? 今のアリステルが辿っている道は、本当に正しいものだと思うか?」
 ラウルがロッシュを見る。ロッシュは上司の視線に晒され、それを受け止めた。
「今のアリステルは、ヒューゴの思うまま動かされている。このままいけば、本当にこの国は壊れてしまうだろう。誰かが止めなければならないんだ」
 不思議と目を逸らしたくはならなかった。自分の中には何もないというのに――いや、むしろだからこそ、ラウルの視線を受け止められたのだろうか。ロッシュには捨てられない道がある、国と部下を守ることは、鉄の腕と共に彼に受け継がれた義務だ。彼とガントレットが一つであるように、それとロッシュを分かつことはできない。
「例え、僕が反逆者になったとしても」
 言い切ったラウルの目は、翻せぬ意思を宿していた。彼は本当に、全てを捨てて戦うだろう。アリステルのため、立場も名声も部下も、全てを捨てて。
「近く僕は、アリステルを抜ける。国内の権力は全てヒューゴに集まってしまっている、彼を止めるには国を出るしかない」
「その後、どうするつもりなんです。ヒューゴと敵対するってのは、アリステル全体を敵に回すのと同じだ。勝てるわけがない」
「亡命先はいくつか考えてある、その先に打つ手も。成功率は低いかもしれない、だがやらなくちゃいけない。アリステルを立て直すためには、これしか方法が無い」
「中将」
「ロッシュ、君も共に来て欲しい。君の力が必要なんだ」
 無意識に右手が動き、左腕に触れる。アリステルを守る、それがロッシュが生かされた意味だった。指に伝わる金属の感触が、それを思い出させる。この腕は鎖だ、ロッシュをこの世に繋ぎ、同時にこの国に繋いでいる。アリステルを、ロッシュは捨てられない。ガントレットが彼の身にある限り。
「中将、俺は」
「ロッシュ。頼む」
「俺は。俺は――」
 ラウルが、ロッシュを見ている。ロッシュはそれを、真っ直ぐに見返した。この人ならばアリステルを変えられるだろう、ふとロッシュはそう確信する。正しい道を歩むのならば手をとるべきなのだと、ロッシュの理性が言っていた。ロッシュは息を吐き、唇を引き締める。僅かな沈黙が流れ、ロッシュは心を決めて、唇を開いた。
「――俺は、何も聞きませんでした」
 ラウルの表情は変わらない。変わらないが、その瞳に、すうっと諦めの色が宿ったように見えた。視線が僅かに逸れ、そして戻される。ロッシュは、自分が左腕に触れたままであることに気づいて、その手を下に下ろした。
「そうか……残念だ。本当に、残念だよ」
 感情の篭もらない声音で、ラウルはそう呟く。ロッシュも、表情を殺したままラウルを見ている。ラウルは、口元に皮肉げな笑みをうかべ、ひらりと手を振った。
「話は以上だ。君の方から何もないなら、戻って良い」
「……はい。失礼致します」
 ロッシュもまた平坦な声でそれに応えると、深く一礼する。そしてそのまま、ラウルの顔を見ずに踵を返すと、真っ直ぐに部屋を退出した。外に出て、扉を閉める。ラウルの姿が細い隙間に消え、そして、小さな音と共に完全に見えなくなった。
 ロッシュはしばらくの間、身動きすらせずそこに立ち尽くしていた。扉が塞がる音が、耳の奥で木霊する。瞳を閉じ、その音に耳を傾け――だが、再び扉を開くことはせず、ロッシュはその場から立ち去った。
 己の生きる道を、全うするために。




- Epilogue -


 滲んだ視界の中で、月が光っていた。
 こんな時なのに、美しいと思う。
 お前も見てみろ、そう親友に言おうとして、やはり止めた。
 空を見上げる余裕など、今のストックには無いということが、死にゆく身でも分かったからだ。

 あの時。
 あの時、ラウルの手を取りヒューゴと戦う道を選んでいたら。
 国を捨てる強さが、彼にあれば。
 こんな結末は、訪れなかったのだろう。
 親友と殺し合い、命を落とすような最期は――

「ロッシュ……俺は……」

 ストックは強かった。
 己に架せられた鎖を千切り、自らの意思で正しいと思うことを成した。
 それを、ロッシュは誇りに思う。
 最期のこの時において、ストックの存在は救いだった。
 自分もこの強さがあれば。
 死に瀕した思考は、同じ事を繰り返し思う。

「ロッシュ……」

 視界は闇に浸食され、ほんの僅かな光しか見えない。
 その中でストックが、苦しげな顔で見下ろしていた。
 すまない、そう言ったつもりだったが、果たしてストックに聞こえただろうか。
 確かめる力は、ロッシュには無い。
 もう、これ以上何をする力も、残されていない。
 ロッシュの人生は、ここで終わる。
 選んだ道の帰結として、ここでロッシュは死ぬ。
 それは、変えられない結末だ。

「……ロッシュ!」

 もう、ストックの顔も見えない。
 声も、音も、何も聞こえない。
 考えることも、できなくなって。
 そして――全てが、消えて失せた。






























「……俺は、こんな歴史は認めない」




「必ず、お前を救ってみせる」




「このガントレットに、誓おう――」







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セキゲツ作
2014.02.28 初出

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