闇の中を、漂っていた気がした。
深い闇。伸ばした手の先すら分からないほどに。
もしくは、最初から手など無かったのかもしれない。無いから見えない、何も見えない。自分に手があったのか、足はどうか、体は、顔は。

……そもそも、自分とは何だ。

拡散する。『自分』が分からない、見えない、感じられないから全てが闇に溶ける。
何も無い、深い闇に、溶けて、消えて、『自分』は。
……『自分は』


「ストック」


ストック。
ストック。


「次、ストック!」


そうだ、『お前はストック』。
『自分』は、ストック。
与えられた名を核として、拡散していた『自分』が収束に転じる。
自分はストック。
ストック。

「ストック、居ないのか!」
「……はい」

名を呼ばれ、立ち上がった。その時始めて自分に脚があることに気付く。『ストック』を呼んでいた者を見る、そこで耳と目があることにも気付く。
自分はストック。闇が消えていく。自分はストック。

「居眠りでもしていたか? 大物だな」

周囲から笑いが上がった、気づけば周りには十数人の人間が居た。見回してそこが何処か大きな部屋であることを知る。

「それでは、従軍を希望した動機からだ」

軍。そうだ、『ストックは軍に入る』。これは軍に入るための面接だ、ストックは……自分は、これに答えなくてはいけない。

「それは……『故郷の村が、戦争で焼かれて』」

考えてもいないのに言葉が出てきた、予め記録されていた内容を読み上げるかのように。自ら語るそのことが事実かどうかも、彼には、ストックには分からない。『故郷の村』など欠片すらも思い出せないというのに、何故こんなことを語っているのだろうか。その疑問にも、勿論答えることはできなかった。

「ふむ、それで軍に、か。大変だったな」
「……」

自分はストック、自分は軍に入る。漠とした思考の中で、数少ないはっきりとした情報を、何度も頭の中で転がす。自分はストック。

「では、次に装備に関してだが……見たところ剣を持っているようだが、それを持ち込みで良いんだな?」

問われて始めて、自分の腰に剣が佩かれているのに気付いた。柄に手を添えてみると、馴染んだ感触が手のひらに感じられる。それは先ほど語った『過去』とは異なる、確かな実感として存在する感覚だった。

「……」
「ん、どうした」
「いや……」
「もし剣で不都合があるなら、装備を支給することもできるぞ」
「……いや、俺はこれでいい」

その手応えに、何かが蘇りそうになる。確かに自分は剣を振るっていたことがあった。以前に……しかし以前とはいつのことだ? 自分はストック、ストックは軍に入る。以前とはつまり『それより前』のこと、自分にそんなものが存在するのだろうか。消えたはずの闇がぞろりと蠢くのを感じた。収束したはずの自分が再びばらけていきそうになるのを、必死で堪える。

「そうか。それならどの程度使えるか、腕を見せてくれ」

言葉と共に、面接官の横にいた男が立ち上がった。武具一式を身につけた彼は、部屋の中央に広く取られた空間に立ち、手振りでストックを呼び寄せる。促されるままに向かい合って立つと、その男の構えた槍が、ストックに向けられた。

「……」

思考以外の何かが導くままに、ストックもまた剣を抜いて構える。考えることなどせずとも身体は動いた、闇の中からまたひとつ確かなものが浮かび上がる。その感覚をストックは身体の中で転がした。

「よし、始め!」

面接官が合図を出す、それと同時にストックは動いた。まずは間合いを詰めて斜めに切り上げる、捻りのない愚直な軌跡は、極当然のように槍によって防がれる。返しを避けようと横に飛ぶが、男は動かない。これはあくまで面接の一環で、本気の立ち会いとは違うということだろう。それはそれで構わないとストックは考え、身体に巡る感覚を追い求めることに集中した。
間を置かず今度は低く、滑るように駆け、槍の間合いを通り越した至近距離まで入り込む。狭い空間で剣を閃かせるように一閃、二閃。胸当てを軽く掠める程度に刃を当てると、耳障りな金属音が響き渡った。

「……むっ」

男はストックの速さに、僅かに焦りを覚えたようだった。飛び退って距離を取り、深く槍を構え直す。しかしストックは敢えてそれに追随せず、自らも下がって距離を取ると、改めて剣を構えた。
一瞬の対峙。先に動いたのはまたもストックで、芸も捻りも無く真っ直ぐに相手に向かって飛び込んでいく。男は当然迎撃を考え、ストックの走り込む軌跡に合わせて槍を繰り出した……と、その瞬間ストックの姿が消えた。いや、勿論消えて失せたわけではない、ただ一瞬のうちに横に跳び、突き出される槍の穂先から自らの身体を外しただけだ。それがあまりにも速く、前動作無く行われたからから、まるで消えたように見えただけで。

「なっ」

男がその事実に気付いた時、既にストックは間合いの中に居た。腹を薙ぐように一撃、それはやはり装備に阻まれて男の身体には届かないが、それでも衝撃だけは押さえられずに伝わる。僅かに体勢を崩した男の身体にもう一撃、今度は防具の継ぎ目を狙って、しかし致命傷は与えないように極浅く。男が呻いた、痛みにかそれとも自らの敗北を悟ってのことか。しかしストックはそれを気にかける様子も無く、ただひたすらに己の中に走る感覚を追い求める。確かに自分は知っている、剣の振るい方、人と対峙した時の戦い方。『ストックは』……いや、自分は剣を知っている。その感覚を確かめたくて、ひたすら剣を振るった。男からの反撃が無くなっても、まだ。

「そっ、それまで!」

そして面接官が上げた声に、ようやく我を取り戻して手を止める。気付けば目の前の男は、すっかり戦意を喪失したようで、槍すら取り落として立ち尽くすばかりだった。ストックの剣が止まると、ようやくといった様子でその場に腰を落とす。

「使えるどころじゃないな、凄い腕じゃないか。本当にただの難民なのか、傭兵でもやっていたんじゃないか?」

そう言われても答えることなどできない、『ストック』の過去も『自分』の過去も、彼の中には残っていないのだから。黙り込んでしまったストックの様子をどう判断したのか、面接官は慌てて言葉を続けた。

「あ、いや詮索するつもりは無いがな。ともかくそれだけの腕があれば、こちらとしても大歓迎だ」

つまり、試験には無事通ったのだろう。ということはこれからストックは、自分は軍に所属することになる。
……そこでふと、自分が入る『軍』が何処のものなのかも知らないことに気付いた。

「では、下がって良いぞ。退出して休んでいてもいいし、残って他の奴の試験を見ていても構わん」
「……」

その言葉にしばし考えを巡らせたが、結局ストックは部屋を出ることにした。扉を開くと、目の前には狭い、金属の壁で覆われた廊下。ここはどこだろう、見覚えの無い光景に呆然とする。
しかし恐らく、分からないのは今この場所に関してだけではないのだ。世界のどこに行ってもきっと見覚えなど無いのだろう、はっきり分かることなど自分は殆ど持っていない。過去も、現在も、未来も。自分はストック。何故かはっきりと覚えているそれさえも、明確な真実だとは限らないのだ。しかし今はそれに縋るしか無かった、不確かであっても、何も無いよりは遙かにましだ。
自分はストック。繰り返し、彼はそれを刻みつける。自分はストック。何故なら彼にはそれしか無い、それを否定する過去を持たない彼はストック以外ではありえない。自分はストック。
心の何処かでは、その言葉に違和感を感じていた。しかし証明する術を持たないそれはいつしか自然と薄れて消えて。

そして彼は、ストックになる。



 ――――――――――――――――――――



それから、彼は予定通り軍に入隊した。
基盤を持たない彼でも、戦う技術を持っていれば軍での生活には困らない。そこで時簡を過ごすうち、様々なことを学んだ。
ここがアリステルという国であること。グランオルグという国と戦っていること。自分はどうやら16歳であること……何も無かった彼は、それらひとつひとつの知識を吸収し、段々と普通の人間に近い生活ができるようになっていった。ただしその過程では随分と奇妙な言動を取っていたから、数ヶ月が過ぎる頃には、彼に近づくものは殆ど居なくなっていたが。
しかし、彼自身もそちらのほうが気が楽だった、誰も居なければ記憶が無いことを取り繕わずに済む。故郷のこと、家族のことを聞かれて答えられないのを、奇妙に思われることもない。出撃の度に剣を振るい、死を捲き散らしていればそれで生活できる。
それだけで精一杯だった。彼のそんな気持ちを周囲もどこか感じ取っていたのかもしれない、気付けばストックはいつも一人で時間を過ごすようになっていた。

その日、その時までは。


「ここ、いいかい?」


食事を摂っていたストックが顔を上げると、そこに居たのは赤い鎧の大男だった。彼の姿は見たことがある、鉄製の義手と目立つ鎧が酷く目立つ、関わったことが無いストックでも顔を知っている程の男だ。名前は、確か。

「……ああ」

断る理由も無いから頷いた、空いている席はいくらもあるのに、物好きなものだと思ったが。そういえば彼はストックと違い、いつも誰かと一緒に居る印象がある。恐らく面倒見の良い男なのだろう。
そう、名前を思い出した。

「俺も同じ隊でな。ロッシュってんだ」





そして、歴史は動き始める。





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セキゲツ作
2011.04.25 初出

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