ヴィーグリース平原での戦いは、これまでにない乱戦となった。
 巨神の王フリムがその場に居ることはわかってはいたものの、それを阻もうとする巨神たちの軍勢は凄まじく、フリムの姿を覆い隠してしまうほどだ。それでもフレイ、フレイヤの双子神を先頭に、ブリュンヒルデと人間達の連合軍は善戦していった。巨神たちの軍勢を徐々に減らし、フリムの姿が見えたところで兄妹神が前へ出て、フリムに攻撃を仕掛けていく。
「フレイ! 巨神族は任せろ!」
 周りの巨神族を引き付ける役割を持ったシグムンド達の戦いは困難を極めたが、神たちが隙を狙っては加勢してくれたおかげで、徐々にその数が減っていく。自身達もフリム相手でそれどころではないだろうに、さすがは神と言うべきだろうか。
 気の緩みなどは当然無い。そんなものがあれば戦場ではすぐに死に結びつく。全員が最大限の警戒をし、それでも敵の猛攻に仲間達は倒れていく。
 シグムンドは小巨神とリンドブルムたちの相手をしていた。リンドブルムは複数の炎を吐いてくる飛竜だ。じっとその場に留まっていれば炎に焼かれてしまい、常に動き続ける必要がある。小巨神の攻撃を避け、リンドブルムの炎を避け、隙を見ては剣で斬り付ける。横を見れば、向かって右側の小巨神が棍棒を振りかぶっていた。巨神の攻撃は大振りだから、その間に素早さを活かして巨神の足を攻撃し、怯んだところにさらに攻撃を加えた。小巨神が転ぶ。そこを仲間たちと集中攻撃をかけ、一体を仕留めた。
 次は少し離れたところに居るリンドブルムだ。動いている獲物を捕らえるのは難しいが、それも狩人のスキルの一つだ。その場に留まることは危険だが、そうも言っていられない状況だ。周りを見回して、一瞬の安全を確認するとシグムンドは素早く弓を構えた。狙いを絞って矢を放つ。だがその矢は命中しなかった。リンドブルムは横に羽ばたき回避する。
 シグムンドは舌を打ち、もう一度構えた。今度は外しはしない。
「馬鹿、後ろ!」
 誰かの怒鳴り声が聞こえて咄嗟に後ろを振り返ると、すぐ目の前に小巨神の姿があった。背筋に冷やりとしたものが走る。いくら小巨神と言えど、一撃をまともに受ければ無事では済まない。小巨神が棍棒を振り下ろす様がやけにゆっくりと見えた。それでも剣を抜こうとした瞬間、小巨神の頭に矢が一本突き刺さる。誰の矢だろうか、確認する前に目の前の小巨神を始末しなければならない。怯んだ巨神に剣を突き刺した。
 その時、背後でいやな音を聞いた。今までに何度も聞いたことのある、巨神族の攻撃が味方の誰かに命中する音だ。何かの鈍器で人間の身体が破壊される音。
 振り返れば、中巨神の一撃をその身体にまともに受け、吹き飛ばされているヴェルンドの姿が見えた。
「ヴェルンド!」
 シグムンドは叫び、急いで小巨神から剣を抜き取った。巨神には再生能力があるが、この巨神は致命傷には至らないまでもすぐには動けないはずだ。今はとりあえずそれで良い。
 中巨神は飛ばされたヴェルンドの方には見向きもせず己の身近な人間たちに続けて襲いかかっていったが、次の瞬間には腕が弾け飛んでいた。血飛沫の向こう側にフレイの姿が見えた。フレイは一瞬こちらに目を向けたかと思うとすぐにまた敵の陣へと飛び込んで行き、シグムンドの視界からは消えた。ただ、中巨神の頭が吹き飛ぶところだけは見えた。
 戦士たるもの、仲間の死に動揺してはならない。戦場で死を悲しむ暇などない。ただ目の前の敵と戦うのみだ。
 それでもシグムンドは走った。ヴェルンドが落ちた方向は幸いと言って良いのか悪いのか、戦場から少し離れたところのようだ。
 剣を振りながら走った。恐らくは己の命を救ってくれた友人の元へ。



 意識が戻ったのは奇跡だ。だが同じ奇跡ならもっと大きな、例えば巨神族やムスペルたちが滅んで元の生活に戻れるような、そんな奇跡の方が良かったなと思う。
 そもそもこの状況がおかしい。何故、意識があるのか。確かにヴェルンドは中巨神の一撃をまともに受け吹っ飛ばされた。その傷は致命傷に間違いはなく、攻撃を喰らった瞬間には意識を失っていて即死状態だったはずだ。ヴェルンドが居る場所はアスガルドでも当然ミズガルドでもなく、ニブルヘイムのはずなのだ。
 なのに今、ヴェルンドの目にはアスガルドの空が映っている。
 首を動かすのも大変だが少しだけ視線をずらせば、横にシグムンドが居るのがわかった。それで漸く少しだけ状況を整理できた。と同時に、シグムンドに言いたいことも山ほど出てきた。
 お前が間違って足を踏み付けてくれたおかげで、こうやって激痛と共に目が覚めてしまった。そもそも、お前が目の前の敵に夢中になりすぎるから、あんなに簡単に背後を取られるんだ。おかげで俺がこうして死ぬ羽目になった。
 だがそれを口に出すことができない。気が付けば口の中は唾液だか血だかで一杯だ。気持ち悪いことこの上無いが頭を動かすのも億劫な状態では、横を向いて吐くことすらままならない。
 それでも浅い呼吸をするために喉が少し動く。すると口の中の血が邪魔でむせた。苦しかった。大げさかもしれないが、このまま呼吸困難になって死ぬんじゃないかと思うほどだ。
 さすがにシグムンドが気づいた。
「ヴェルンド!」
 この言い方っぷりを見るに、さすがに死んだと思われていたようだ。と言うかそれで良かったのに、一体誰のせいでこんな苦しい思いをしなければならないのか。
 どうやら今いるここは敵の陣とは少し離れているようだ。シグムンドは弓を使って応戦している。暢気なものだ、弓を使うなら背後を気にしないで良いように、ある程度敵から距離を取るのが基本だと言うのに。最初からそうしていれば、自分が死ぬこともなかった。
 そういうことじゃないのはわかっている。シグムンドより先に死ぬことが出来るおかげで、こうして最期まで余裕を持っていられるのだ。
 シグムンドが弓を放ちながら、さっきの矢はお前だな、と聞いてくる。応えてやりたかったが、ヴェルンドは口を動かすことができない。
 何本かの弓を放ち終えたシグムンドが横たわるヴェルンドの顔を見下ろしている。シグムンドにはどのように映っているのかわからないが、ヴェルンドはただ目を逸らすことなく瞬きをしてみせた。瞼が重くて敵わない。あと何度か瞼を閉じてしまったら、二度と開けられないのではないだろうか。限界だ。
 戦いは当然のように未だ続いている。大地に立っている者たちの怒号と悲鳴と、武器の奏でる戦の音がアスガルドを震わせている。普段は美しい平原なのだろう。今はあらゆる者の血で汚れてしまっている。
 そういえば、アスガルドに来てからは余り考えたことはなかったが、ミズガルドの故郷の森も焼けてしまった。故郷で死にたいという願いは叶わなかった、しかしその代わりアスガルドで死ぬことができるのだ。末代まで誇れる名誉だろう。もっとも、自分の後継ぎなどいないわけだが。
 そんなことを考えているうちに戦の中心地が少しずつ遠ざかっているようだ。全ての感覚が曖昧でぼやけているというのに、何故だかそれはわかった。シグムンドは変わらず弓矢で応戦している。今気づいたが、幾人かの仲間もいるようだ。皆で矢を放っている。
 ヴェルンドは右腕を動かそうとした。九十度動かせば、シグムンドの足に触れることができる。鉛のように重い腕を動かすために、最後の力を振り絞った。
「うおっ」
 シグムンドが情けないような声を上げる。ひょっとしたらもう自分は死んだものだと思っていたのかもしれない。相変わらず正直で失礼なヤツだ。そう思ったら、何だか無性に腹が立ってきた。
「行け」
 信じられないことに声が出せた。ついでに腕も動いたから、ヴェルンドは巨神族が群がっている方を指差してやった。
「行って……助けになってやれ」
「ああ。わかってる」
 シグムンドはヴェルンドの側に屈みこむ。ヴェルンドは腕を持ち上げ続ける体力も残っておらず、重力に任せて腕を地面に下ろした。
「おまえは最後まで勇士だった」
「……言われるまでもない」
 軽口を叩いてやったら、シグムンドは口の端で笑いながら先ほどヴェルンドが下ろした手を取った。それを己の両手で挟みこむようにして、勢い良く叩く。互いに素手ではないから、くぐもった音が聞こえただけだったが、素手であれば気持ちの良い破裂音がしたことだろう。
 それからシグムンドはヴェルンドの手を静かに下ろした。周りに居る仲間達に声を掛けている。
「行くぞ、剣でやる! 一体でも多くの巨神族を倒すのだ!」
「おお!」
 幾人かの仲間の掛け声と共に、シグムンドは再び戦の中心地へと走り去って行く。ヴェルンドは目の端でそれを追った。



*        *         *



 ヴェルンドは瞼の裏に光を感じて目を覚ました。アスガルドの朝日が眩しい。数回伸びをして、周囲を見渡した。
 野営地となっているのはヴィーグリース平原の入口だ。ここまで来たのだから夜のうちに戦地に近づこうと言うブリュンヒルデと、少しは休養が必要だと主張する人間たちとの間で少しだけ揉めた。結局は、少し休んだ上で行った方が良い、いうフレイの言葉により休めることになった。ブリュンヒルデは不服そうだったが、フレイの進言には口を挟めないようで受け入れてくれた。ブリュンヒルデとてずっと戦いっぱなしだったのだ、休息は必要だろう。
 そんなわけでフリムと戦う前に一日野営することになり、その夜は珍しく豪華な食事となった。豪華と言っても、酒が多めに振舞われたり肉が一種類追加されたくらいであったが、戦士たちはお互いの健闘を称え、際どい冗談を言い合った。南の民も北の民もアスガルドに来てからは恐怖は既に忘れ去った様子で一心不乱に戦った。当然のように戦死者も増えたがその数を意識することもなく、それぞれがただ戦士としてやるべきことを行っているだけだ。
 巨神の王フリムとの戦いではさらなる死者が出るだろう。フリムとの戦いが終わったとき果たして神と人間たちの中に、大地に立っている者がいるのか。それは誰にもわからない。
「ヴェルンド」
 声を掛けられて振り返ると、シグムンドとヘルギが立っていた。まだぽつぽつとしか立ち上がっている者はいないが、二人はとうに起き出していたらしい。
「良く眠れたか」
 ヘルギに向かって言ってやると、「ああ、ばっちりだぜ」と元気の良い答えが返って来る。ちょっと前までは巨神の足音にびくついていたヘルギだが、今ではどうだろう。果たして慣れたのか吹っ切れたのか。
「今日は朝からまた肉が出るらしいぞ。酒は出ないだろうがな」
「それは有り難い」
「今日は倍食うからな!」
「確か昨日も同じこと言っていたな」
「そう言えば」
 シグムンドが一瞬ヘルギの方を見て、にやっと笑った。
「昔のことだが、面白いことを思い出した」
「な、なんだよ」
 嫌な予感がしたのか、ヘルギの声が少し震えている。
「覚えているか、まだ狩りにも出られない子供だった頃の話だ。一度だけ大人達に混じって狩りに同行したことがあっただろう」
「お、俺は覚えてねえぞ、そんな昔の話……」
 腰を引き、逃げ出そうとするヘルギの腕を掴んでヴェルンドはその場に留まらせた。
「よし、シグムンド続けてくれ」
「ああ」
「止めろって!」
 止めようとするヘルギの大声で何事かと仲間の何人かが起き上がり、興味深そうにこちらを見ている。
「何やったんだ、ヘルギ」
「早く続きを聞かせてくれよ」
「ひょっとしてあの話か」
「何だおまえ知ってんのかよ」
「多分だけどな」
 皆こぞってシグムンドの話の続きを待っている。中には同じ村の出身なのだろう、話を知っている者もいるようだ。場が一気に賑やかになった。
「とにかくシグムンド続きを早く話せ」
「わかった。とにかく、俺たちが初めて狩りに同行させてもらったときの話だ。俺もヘルギもとにかく張り切ってな、その夜は日暮れ前に寝る始末だった」
「よほど楽しみだったんだな」
「ああ。獲物を捕らえることを夢見てな。一匹でかい雄鹿でも捕まえれば、大人に仲間入りができると思ってな。そりゃあ楽しみにしてたんだ」
「わかるぜ、その気持ち。俺もそんなだったな、親父とお袋を吃驚させてやるんだ、ってな」
「俺もだ」
 どの仲間も似たような思いのようだ。シグムンドは頷きながら横目でヘルギを見た。
「それが……気合が入りすぎてな。やらかしてしまったんだ」
「何を」
 ヴェルンドが面白そうに聞くと、ヘルギが「やめろって!」猛抗議してきた。だが時既に遅しだ、今やヘルギはヴェルンドと他の仲間たちにがっちり捕まえられている。
「張り切って、朝食をいつもの倍……いや三倍くらい食ったのか。とにかく腹に物を入れすぎてな。最初は大丈夫だったんだが、次第に腹が痛くなってきたらしくて」
 後のことは言わずもがなだ。ヘルギはどうやら腹を下し、大人の一人に背負われて村へ強制送還されてしまったらしい。ヘルギの初狩りは途中棄権で終わってしまったのだ。
 それを聞いた北の仲間達は笑い転げた。ヘルギが「ちょ、ちょっと笑いすぎじゃねえか!?」と本気で怒るほどに笑った。



「全く、今日は朝から散々だぜ。シグムンドのせいで」
 なお爆笑する仲間たちを置き、見回りという名の言い訳をして三人は散歩を始めた。眠っている者はもういないようだ。朝日が目に入れば必然と目が覚めるのだろう。そこは北も南も同じようだ。
 ブルグントやゴートの兵士たちは少し離れたところで固まっている。今日の焚き出しは彼らが担当することになっている。
 ヘルギはまだ先ほどの件から回復していないようで、ぶつぶつと文句を言っている。
「昔のことだ、そんな気に病むな」
「ああ。おまえらしくて良いさ」
「全然嬉しくねえよ……」
「気にするな。おまえの働きは皆わかっている」
「さすがに今も同じことはしないだろう」
 シグムンドがヘルギの肩を叩いて慰める。ヴェルンドも同じようにもう片側から、背中を叩いてやった。
「慰めになってんのかなってねぇのか、わかんねえこと言うなよ、ったく」
 ヘルギは困ったような表情をしながらも笑った。
「ヘルギよ、今日もいつもの倍食うんだろう? 南の奴らが怠けないように見に行くか」
「そうだな。あいつらの飯は基本的に味が薄いんだ、もっと濃くしてくれるように言わんとな」
「ったく、好き勝手言ってくれるぜ」
「なんだ、ヘルギはヤツらの飯が美味いとでも思ってるのか」
「そうじゃねえけど!」
 三人はくだらないことを話しながら、ゆっくりした足取りで南の兵士たちが集まる陣地へ歩き始めた。彼らもそれぞれ動き出しているようだ。既に炊き出しを開始したのか、湯気が見える。
 運命の一日は、こうして始まった。



平上作
2012.11.14 掲載

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