「trick or treat」

妙に流暢な発音で発せられた言葉に、ロッシュは即座に反応出来ず、表情を固まらせた。視界の中央には、顔とノートの間に差し込まれた、ストックの手。男らしく骨ばってはいるが細長い、見た目の印象通り器用な指は、今は何をするでもなく真っ直ぐに伸ばされて、ロッシュの目の前に差し出されている。

「トリック、オア、トリートだ、ロッシュ」

聞き取れなかったと思われたのか、今度はもう少し片仮名に近い発音で、同じ内容が繰り返される。顔を上げればそこには、当たり前だが発言者であり差し出された手の持ち主である、親友の顔があった。寮の同室として毎日突き合わせており、見飽きたと言って良いほど見尽くしたそれだが、しかし今は見慣れぬ形に変化を遂げている――といっても別段大したことではなく、ゴム製らしき牙が、口に装着されているというだけなのだが。
顔を見ても反応の無い相手に焦れたのか、ストックは僅かに眉を顰め、様子を伺うようにしてロッシュの目を覗き込んでいる。

「……まさか、お前ひょっとしてハロウィンを」
「いやそれは知ってるが」

古来よりの風習というわけではないが、ここ数年間各企業が繰り広げてきたイベント商戦の煽りにより、由来も知られぬこの祭りも随分と広く知られるようになってきていた。かく言うロッシュも、2週間程前にバイト先で、カボチャの形をした飾りを固定しまくったばかりだ。ガソリンスタンドとハロウィンに何の関係があるのかは恐らく店長にもわかっていないだろうが、イベント事には乗っておくのが、商店の基本である。
まあ、それは構わない。雇われ人であるロッシュに拒否権などないし、あったとしてもそんな程度のことに目くじらを立てる理由など何ひとつとして存在しない。だから普段の仕事に、飾り付けとその撤去が加わったところで全く気になどしない、だがそれはそれとして、だ。

「取り敢えず、何処からつっこんだものか迷っているんだ」
「……何処に、つっこむべき要素があるんだ?」
「…………」

彼なりの冗談なのか、それとも天然なのか。全く読めない涼しげな無表情の親友を、ロッシュは冷たい目で睨み付けた。それでもストックの顔は揺るがない、ひょっとしたらやってしまった以上、後に引けなくなってしまっているのかもしれない。この男、生徒会長を務める程頭が良いくせに、極簡単な想像も出来ず突っ走る傾向にある。

「そうだな、まず……その牙、どっから持ってきた」

半眼で見据えながら、真っ先に浮かんだ疑問をそのまま投げつけると、相手も特に考える様子を見せずさらりと答えてくれた。

「演劇部の部室から借りた。これもな」

言いながらストックが、肩にかけた黒い布をひらりと翻す。牙とマントで吸血鬼の仮装と言いたいのだろう、暗幕でも引きはがしてきたのかと思っていた布だが、どうやらちゃんとマントとして作られた代物らしい。ばさばさと黒衣を見せつけ、妙に楽しげな顔をしているストックに対して、ロッシュの表情は険しいままだ。

「借りた、の上に勝手に、とか黙って、とかが付くんじゃねえだろうな?」
「失礼なことを言うな、ちゃんと言ってきた」

言った、というのは実に微妙な物言いで、誰も居ない部室に向かって言葉だけ発してきたという可能性も考えられるのだが。しかしそこを追求したところで話が停滞するだけである、取り敢えず演劇部に迷惑がかからないことを密かに祈りながら、納得の意を込めて頷きを返してやった。

「まあ、じゃあそれは分かった。で、何でこんなことやってんだ」
「何でもなにも。今日はハロウィンだろう」
「…………」
「因みにハロウィンというのは、子供が仮装をして家々を巡り、菓子を貰い歩くという祭りだ」
「ああ、それは知ってる」

同じことを先程も言った気がするが、この際仕方がない。知っているなら話が早い、とばかりに突き出された手をべしりと叩く。

「『子供』が仮装する祭り、だよな。『子供』が菓子をねだるんだよな」
「ああ」
「よし、認識に間違はねえようだな。ところでお前の年齢を言ってみろ」
「17だが」
「…………」
「まだ未成年だぞ」
「未成年なら、同級生に菓子をねだってもいいと?」
「ハロウィンだからな」

自信満々に胸を張るストックに、ロッシュの口から深い息が漏れる。細かいつっこみ所は探せばいくらでもある、例えばその適当な仮装はどうなのだとか、自分はキリスト教徒でないから従う必要は無いとかだ。しかしこの親友にそんな些事を指摘したところで、蛙の顔になんとやらだ。彼の無表情は、作り物のように整っているのみならず、分厚さの方も丈夫な仮面並なのである。
だからロッシュは、それ以上文句を言うことはせず、徐に手を伸ばすと、放り出してある鞄を引き寄せた。

「ちょっと待て」
「…………?」

そして怪訝そうに見詰めるストックの視線を受けながら、中身を漁る。教科書だのタオルだの、学用品がごちゃごちゃと突っ込まれた鞄の中は、他人が見たら魔窟と表現したくなるほど混沌としている。しかしそこは持ち主本人のこと、そんな中からも迷うことなく、目当ての品を見付けだした。

「……ああ、あったあった。ほれ」

そして取り出したものを、ストックの手に乗せる。片手で一握りに出来るそれは、ロッシュの非常食である和製のチョコレートバーだ。50円玉でお釣りがくる値段のくせにやたらとカロリーが高く、腹にも溜まるその菓子は、部活やバイトの後など空腹を耐えきれなくなった時用に鞄に常備してあるものだった。黒と黄色と菓子の写真が印刷された外袋を、ストックがじっと見詰める。

「…………」
「トリート、だ。これで良いんだろ?」

どうやら予想していた展開とは外れてしまったらしい、不満げな視線がロッシュに投げられるが、祭りの形式に則った行動である以上文句は言わせない。勝ち誇った気分でロッシュがストックを見返す、そしてふと思いついて、無造作に分厚い手を差し出した。

「……何だ?」
「トリック、オア、トリート」

そして全くの日本語、原語の気配など欠片も残さない片仮名丸出しの発音で、先程ストックが言ったのと同じ単語を羅列する。ストックは虚を突かれて目を瞬かせている、どうやらこの展開も、彼の考えの中には無かったようだ。

「何だよ、こうなるって考えなかったのか?」

からかうようなロッシュの声音に、ストックの眉が険しく寄せられる。

「…………」
「ハロウィンなんだし、お前がやったんなら俺がやったって良いだろ」
「……仮装が無い」
「あ? ああ……そうだな、じゃあちょっと待て」

そして発せられた、言われた側からすれば実にささやかな指摘を受けて、ロッシュはひとつ頷いた。巨躯から考えれば意外な程軽い物腰で立ち上がると、壁際のベッドに近づき、そこからタオルケットを剥がして頭から被る。その格好のままストックの前へと戻り、どすりと座り込んだ。

「何だ、その適当すぎる仮装は」
「おばけだ、基本だろ」
「……せめて、ゴーストと言え」
「同じもんだって。で、トリックオアトリート」

布の隙間からストックの渋い顔が見えるが、気にせず手を突き出す。ストックはじっとそれを見ていたが、そのまま動く気配も無い。買い置きの菓子くらいは持っているのだから、そこから取り出せば良いとロッシュなどは思うのだが、そこに考えが至らぬほど驚いているのだろうか。
厳しい顔で沈思黙考するストックを、ロッシュも黙って見守る。やがて結論が出たのか、真剣な顔でロッシュを見返し、口を開いた。

「……菓子は、無い」

相変わらず無駄に力強く告げられたその言葉に、ロッシュは目を細める――しかし、勝ち誇るのは少しばかり尚早だったようだ。

「だから、遠慮なく悪戯をしろ」

堂々と、本当に無意味としか言えない程堂々と言い切るストックは、男らしい輝きに溢れており。覚悟を決めた強い視線で見据えられれば、珍しく相手をやり込めた喜びに膨らんでいたロッシュの心も、呆れと脱力感で一気に萎んでしまう。

「さあ」
「いや、さあじゃなくてな」
「treatが無いんだから、trickだろう。遠慮は不要だ、さあ」
「…………」

強い視線で睨み付けられ、ロッシュは一気に息を吐くと。

「よし、これで勘弁してやる」

先程自分で手渡し、ずっとストックの手の上に置かれていたチョコバーに、素早く手を伸ばした。ストックが慌てて拳を握りしめるが、一瞬遅く、菓子はロッシュの右手に移っている。

「おい、それは俺が貰ったものだぞ」
「で、それを俺がまた貰うわけだ」
「……それは、アリなのか?」

憮然とするストックだが、ロッシュはそれに構わず、不要になったタオルケットを外してベッドに放り投げた。

「文句があるなら、これ手伝え。終わったら聞いてやるから」

そして、期限が明日に迫った宿題を終わらせるべく、一時離れていたノートに向かい合う。ストックはその後ろで、しばらく考え込んでいるようだったが、放置される寂しさはさすがの鉄面皮にも耐えがたかったのだろう。

「……分かった、手伝おう」

渋々、といった様子で頷き、うっそりとロッシュに近付いてきた。思いがけず、頭脳だけは間違いなく頼れる親友の手助けを得られることになったロッシュは、ストックに気づかれぬ程度に笑みを零す。

「さっさと終わらせるぞ」
「おう、ありがとよ」

日本古来の風習とは全く関係のない、商業主義に影響され尽くした祭りだが、今回ばかりは役に立つ出来事も引き起こしてくれたらしい。
カボチャのお化けに密かな感謝を捧げながら、ロッシュは頭痛を引き起こしそうな数式の羅列へと、改めて向かい合った。





セキゲツ作
2011.10.22 初出

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