扉を叩く直前、マルコは大きく息を吸い込み、そして吐き出した。彼が立つのは、同じ寮に住む先輩にして友人、ストックの部屋の前である。さしたる用事があるわけではない、明日学校で聞いても良いような、些末な用事を携えての訪問だ。既に夕飯も終った夜間に、親しくしているとはいえ先輩の部屋を訪れるのだから、ある程度の緊張はある。だがマルコが心の準備を整えているのには、それ以外の理由があった。
ひとつは彼の持つ秘密故のことだ。マルコとストックは、表向き、生徒会の活動を通じて親しくなった。だが実際のところマルコは、とある人物に雇われて意図的にストックに近付いた、言わば密偵なのだ。雇い主はグランオルグ学園を牛耳るストックの叔父、ハイス。マルコはストックの日常を見張り、逐一報告するのが、彼に与えられた役目である。こうして夜にストックの部屋を訪れるのも、任務の一環だった。校内だけでなく、私生活も可能な限り監視しろというのが、雇い主の意向なのだ。その是非はともかくとして、ハイスから与えられる報酬を必要とするマルコは、与えられた命を果たすため忠実に侵入を試みているのである。自ら選んだ道であり、納得して行動してはいるが、倫理的には問題のある行為であることもまた十分に理解していた。最近ではストックとの友情が篤くなっていることもあり、マルコの心には少なからぬ重圧が生じている。それがこうして、行動までに一拍の空白を生じさせるのだ。
そしてもうひとつ、それとは全く別の理由もある。マルコは心を整えると、扉を叩き、返事を確認した後ノブを回した。扉を開く。
そこにはストックと、同室であるロッシュが居た。何故か、二人羽織の姿で。
「おう、マルコか」
ロッシュは、大きな体にジャージを着て、炬燵に少しだけ足を入れていた。少しだけなのは、彼の前面にストックが陣取り、炬燵からの距離を広げているからだ。炬燵とロッシュの間に潜り込んだストックは、それだけでは飽きたらず、ロッシュの服の中にも潜り込んでいる。ロッシュの着たジャージの上着にストックが入り、少しだけ下げたジッパーの間から首を出している、といった惨状だった。
マルコが息を吸い、そして吐き出す。偶にこういった事態が発生するから、ストック達の部屋に入るのには心の準備が必要なのだ。マルコの経験からすれば、十回のうち八回までは、彼らも普通の時間を過ごしている。しかし十回のうち二回、確率にして二十パーセント程度は、奇行に行き当たってしまうのだ。ジャージから顔だけ出したストックが、マルコを見て首を傾げる。マルコはもう一度大きく息を吸うと、ようやくのことで言葉を絞り出した。
「何、してるんですか?」
「……暖を取っている」
直ぐに明確な答えが返ってくる。立ち尽くしたままのマルコを、ストックはじっと見詰めた。扉、と短い言葉が続く。言われて、扉を大きく開いたまま立ち尽くしていたことに、マルコは気付いた。部屋に入り込んで扉を閉め、しかし座る気にはなれず、立ったまま彼らを眺める。
「ストックが、寒いって言っちゃ潜り込んでくるんだよ。まあ確かに、普通にしてるよりは暖かいんだがな」
「……中々良いぞ。暖かい」
成る程、彼らの言う通り、部屋の中はかなり冷え込んでいる。古い社員寮を買い取って改装したというこの建物は、鉄筋造りで、冬はかなり底冷えがするのだ。さすがに外と同程度とは言わないが、対策せずに居られる程でないのも確かだった。
「なら、暖房を付ければいいじゃないですか」
「駄目だ、電気代が高い」
「……と、ロッシュが言うからな。責任を取って貰っている」
ロッシュの主張に関してはは、マルコも理解できた。多数の奨学生を抱え、常に裕福とは程遠い状態にあるアリステル学園では、寮であっても生活の責任は各々にかかってくる。各部屋の光熱費はしっかりと管理され、必要以上に使用した部屋は、その分を自分で払わなければならないのだ。無計画にエアコンや電気ストーブを使ってしまえば、あっという間に臨時の出費が発生することとなる。因みに石油暖房機器は、火事の危険性があるため使用禁止だ。
彼らが暖房を付けずに耐えている理由は分かった。それを踏まえると、今の彼らの姿勢も、合理的なものに思えないこともないような気がしなくもない。両腕まで含めて、すっぽりとロッシュの懐に入っているストックは、幸せそうに目を細めていた。筋肉質なロッシュの体は、暖房と同等に暖かいのだろう。納得はできる、できるが感情的に受け入れられるかといえば、また別の話だ。親友同士とはいえ何をやっているのだろう、と呆れ半分にマルコは思う。
「でもそれ、ジャージが伸びませんか?」
しかし脳内の感情をそのまま吐き出すには躊躇われ、出切るだけ理論的な指摘を試みてみたが、効果の程は知れたものだ。
「XLサイズっていうのか? でかい奴なんだよ、ストックが買ってきた」
「……態々?」
「ああ。探せば、あるものだな」
言われてみれば、ロッシュとストックの体を同時に包んでいるにしては、服の伸びが少ない。ロッシュは元々大柄なのだから、それこそ関取が着るような、巨大なサイズの服を用意したのだろう。それ程の手間をかけても暖を取りたいとは、恐るべき意思の強さと言えた。
「だが、袖が四本有る服は見付からなかった」
「当たり前だよ!?」
「だろ? ほらやっぱり、そんなもん何処にもねえって」
そんな親友の執念をあっさりと笑い飛ばすロッシュも、大概なものではあるが。不満そうなストックの気配を察したのか、ロッシュは傍らに広げられたスナック菓子を摘むと、ストックの口元へ持っていった。ぱり、とストックがそれを齧る。
「うわあ」
「ん、どうした?」
「いや、えっと……」
「……マルコ。何か、用事があったんじゃないのか」
「ああ、そういえば」
迫力の光景に圧倒されて忘れていたが、一応は口実を作ってこの部屋にやってきたのだった。だが、周到に用意したそれを持ち出すだけの気力は、完全に尽きてしまっている。
「ストックに、生徒会のことで、ちょっと話があったんですけどね。大した話じゃないから、明日でいいです」
忙しそうだし、と付け加えると、ストックは首を傾げた。ロッシュがまた、豪快に笑い声を上げる。
「忙しそうに見えるかよ、これが」
「まあ、うん、お取り込み中って感じかな……」
正直に言えば、積極的に触れたくない、というだけなのだが。じわりと扉に向けて後退するマルコを、ストックはじっと見詰めていたが、ふとその身体が揺れた。見れば、ジャージの裾が持ち上がり、そこから手招きが覗いている。
「――いや、入らないよ!?」
「ストック、お前なあ。無茶言うなよ」
いくら規格外に大きなサイズのジャージを持ち出したのだとしても、さすがに男三人が入るのは不可能だ。そしてそれ以前に、マルコの側で、一緒になって入る気が全くない。例えそれが任務だとしても、絶対に御免だ。ロッシュも同調し、ストックの頭の後ろで、うんうんと頷いている。
「マルコが入ったら首が出ないだろうが。苦しいだろ」
「それも結構失礼ですよね!?」
二人に比べて身体が小さいことは事実なのだが、そんな風にからかわれるのは、マルコとしては心外だ。特に、今のような体勢の二人には。
マルコの憤慨をどこまで理解しているのか、ロッシュは楽しげに笑うばかりだ。手を引っ込めたストックは、眠くなってでもいるのか、気怠げな表情で目を閉じかけている。
「ストック、んなとこで寝るなよ」
体温の上昇でそれを察したのか、ロッシュがストックの額を叩いた。不満げに呻くストックの口元に、またスナック菓子があてがわれる。ストックはそれをぱくりと食べると、次を求めるように口を開いた。ロッシュの位置からその様子は見えない筈だが、まるで分かっているかのように自然に、次の菓子をストックに与える。ストックが食いついた、丁度の瞬間を捕らえて、マルコの携帯端末がシャッター音を立てた。
「あ、こら、何撮ってんだよ」
「…………何をする」
「いや、だってさ……ねえ?」
狙い違わず手の中に収まった決定的瞬間は、改めて眺めると、やはり異様な光景だ。当人達があまりに平然としているので、うっかり納得してしまいそうになるが、異様なものは異様なのである。
「消せよ、そんなもん」
「嫌ですよ、折角撮ったんだから。何かあった時に使えるかもしれないじゃないですか」
「……脅しにでも使うか?」
楽しげに笑うストックは、例えこの写真をばらまかれると迫られたところで、気にしもないだろう予測できた。本当に、本人は全くおかしいと思っていないのだ。同性の親友同士とはそんなものなのだろうかと、親友と呼べる相手が異性であるマルコは、妙にしみじみと視線を遠くに彷徨わせる。
「それじゃ僕、自分の部屋に戻りますから。ストック、また明日学校でね」
「……ああ」
「悪かったな、二度手間にさせて」
挨拶を終えるが早々、再び寛ぐ体勢になった先輩二人にはそれ以上触れず、マルコはようやく部屋を脱した。深い溜息を吐きながら、携帯端末の中の写真を見下ろす。数秒迷ったが、データをメールに添付し、本文を作り始めた。送り先は、勿論同級生などではなく、彼の雇い主だ。
ストックの日常を探れと言われているのだ、この残念な写真も、重要な報告にはなるだろう。その結果として雇い主は烈火の如く怒り狂うかもしれないが、そこまではマルコの知ったところではない。もっともしばらくの間、不機嫌極まりない相手から指示を受けなければならなくなるが――
「面倒だなあ」
困るのは、こんな事態がさほど珍しくないということだ。ストックのちょっとした奇行も、それを見て怒りを募らせる雇い主も、何度も遭遇する羽目になっている。本来全く関係ない筈のマルコだが、密偵役である以上、双方からの影響を受けないわけにはいかない。実害は無いが、とにかくひたすら面倒なのである。仕事で得られる収入は貴重だが、それ以上の精神的疲労を与えられているように、マルコには感じられた。
もう、密偵など止めてしまおうか。相棒のような友人を思って痛む良心などではなく、単純にして重大な徒労感で、マルコはそんなことを考えた。端末が震える。画面を見ると、思った通り、雇い主からの着信だ。出たくない、非常に出たくは無いが、放置するわけにもいかない。
今日最も深い溜息を吐きつつ、通話のボタンを押す。電波を介しても全く衰えぬ怒気を受け止めながら、マルコは真剣に、この役目を辞することだけ考えていた。
セキゲツ作
2015.01.31 初出
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