寮の正面玄関を一枚隔てた先の空気は驚くほど冷たく、ロッシュは反射的に、体温を逃さぬようにと首を竦めた。隣ではマルコも、同じような姿勢になり、小さな身体を丸く縮めている。
「あー、よく晴れたな」
しかしいつまでもそうしていてるわけにはいかない、ロッシュは意を決して息を吸い込むと、大きく伸びをした。見上げた空は、新年一日目の朝に相応しく、抜けるような深い青だ。温度が低いが故に澄んだ大気が、淀んだ男子寮の空気に満たされた肺を心地よく洗い流してくれる。
「ほんとですね、お正月からこんな良い天気なんて、気持ちいいなあ」
マルコもまた、縮こまっていた筋肉を解して、空に向かって手を伸ばしていた。小さな身体を精一杯大きくする姿には、男子高校生とは思えない、小動物めいた可愛らしさがある。ここに居るのはロッシュとマルコの二人だけだが、もし傍で見ている女子が居れば、黄色い声で騒ぎ立てていたかもしれない。
「んー……さっぱりするなあ。他の皆も起きてくればいいのに」
「はは、そりゃ無理ってもんだろ。あいつら随分遅くまで騒いでたからなあ」
新年明けて第一日目、本来ならば家族と共に過ごすべき時間だが、彼らにはそれを果たしてくれる血縁者が居ない。帰るべき実家を持たない少年達は、同じような境遇の学友達と共に、アリステル高校の寮に残って時間を過ごしていたのだった。男ばかりが集まって騒ぐ年の瀬などむさくるしいこと極まりないが、三年目ともなればさすがに諦めもついてくる。それどころか、今年を最後に二度と味わえないものだと思えば、感慨深さすら沸くというものだ。去年と今年、二回の年を共に越した仲間であるマルコを、ロッシュは笑いながら見下した。
「お前も、こんな時間まで寝てるなんて珍しいんじゃねえか?」
「それはロッシュさんも同じでしょう。部活があるからって、いつも朝早いじゃないですか」
「前はな、引退してからはそうでもねえよ」
喋りながらもロッシュは大きく欠伸をして、冷たく澄んだ空気を身体に取り込んでいる。体内を巡り始めた新鮮な酸素に、眠気の残滓も吹き飛んだのか、ぼやけていた顔つきは次第にはっきりしたものになってきていた。
「ロッシュさん、今日はバイト何時からなんですか?」
「いや、今年は入れてねえ。最後の年だし、ちっとはのんびりしようと思ってな」
「ああ、良いですね! そうですよね、もう三月で卒業ですもんね……」
一瞬、マルコの瞳に寂しげな色が滲んだが、直ぐに明るい笑顔がそれを覆い隠した。
「ロッシュさん、卒業したら就職するんでしたっけ」
「おうよ、だからもう、そんなに必死に金稼ぐ必要もないんだよな。お前は午後からか?」
「夕方からです、初詣に行ってから支度するくらいで丁度良い時間ですね」
奨学金で学費を、バイト代で生活費を賄っている苦学生の彼らにとって、本来の時給に特別手当が上乗せされる正月は重要な稼ぎ時だ。ロッシュはもうすぐ卒業だから落ち着いたものだが、マルコなどは年末から三が日まで、しっかりと全日に予定が入っていた。小柄な体躯に潜んだ逞しさを垣間見て、ロッシュの口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
「そうか、そんなら折角だ、一緒に初詣にでも行くか? お好み焼きくらいだったら奢ってやるぜ」
そしてふと思いついた勢いのまま、そんな提案をしてみる。ロッシュも、いつも連んでいる親友が実家に帰っているために、行動を共にする相手が居ないのだ。一人で過ごすよりはと、気軽にそんな誘いをかけてみたのだが、思った以上の勢いでマルコの表情が輝いた。
「良いんですか!? うわあ、嬉しいなあ……!」
「何だ、そんなにお好み焼き好きだったか? そんなら奢り甲斐もあるってもんだが」
「そういうわけじゃなくて、誰かと一緒に初詣なんて、久し振りですから」
恐らくは意識してではなく言葉が零れる。普段は他の生徒と何ら変わりなく日常を過ごしている彼だが、それでもこうした行事の時は、家族が居ないという現実を否応無く意識させられてしまうのだろう。明るく笑う姿に家庭環境を思わせる陰りは無い、しかしロッシュの提案に心から喜んでいるというその事実自体が、秘された悲しみを想起させるものだ。ロッシュの厳つい顔に憂いの陰が過った、マルコはそれを見て取ると、気にするなとでも言いたげに明るい声をあげる。
「じゃあ、これから行っちゃいましょうか? 早めに行った方がいいですよ、お昼過ぎたら混むでしょうし」
「そうだな、確かに静かなうちのが良いな。他の奴らが起きてくる前に、行っちまおうぜ」
「それじゃあ、準備してきますね! 支度が出来たら、ここで待ち合わせしましょう」
嬉しげに声を上げ、跳ねるように室内に戻ろうとするマルコの足が、しかし突然ぴたりと止まった。その視界の中では、彼の同級にして親友の少女が、手を振りながら彼らに向かって駆け寄ってきている。
「マル! それに、ロッシュさんも、あけましておめでとうございます!」
「レイニー! え、どうしたの突然、男子寮なんかに」
「おう、おめでとさん。どうした? 誰かに用事でもあるのか?」
男子二人を前にして、冬の空にも負けぬ明るい笑いを振りまいているレイニーも、帰る家を持たず寮で学友と共に年を越した者のひとりだ。ただし当然ながら彼女が住むのは女子寮で、本来ならば男子寮にやってくる必要は特に無い筈なのである。
「別に何ってわけじゃないんですけど、マルが居るかなあと思って。女子寮、あんまり人が残ってないからつまらなくて、誘いにきたんですよ」
「誘いにって、初詣?」
「あ、それも良いね! ううん、本当は一緒にトランプでもして遊ばないかと思ってたんだけど」
朗らかに笑うレイニーは、マルコが男子寮の人間であって本来女子寮には立ち入り厳禁の立場であることなど、すっかり忘れているらしい。男扱いをされないのはいつものことなので、マルコは一々指摘することもせず、ただ黙って苦笑いを浮かべるばかりだ。
「初詣か、俺達も今行くかって話をしてたとこなんだよ。何ならレイニーも一緒にどうだ?」
「そうなんですか、行きます行きます! 人数多い方が楽しいですしね!」
「レイニー、あんまりはしゃいで、ロッシュさんに迷惑かけたら駄目だよ」
ロッシュの誘いに対するレイニーの喜びようがあまりにも無邪気で、マルコはさすがに見逃せず静止をかけた。子供へ向けるようにしてたしなめる同級生の態度に、レイニーは不満そうに口を尖らせている。
「マルったら、子供じゃないんだから、そんなこと分かってるよ。大丈夫、奢ってくれなんて言わないから」
「レイニーってば、そういうこと言うのが駄目なんだったら」
「はは、まあ気にすんな、一人が二人だって同じことだ。何か一個くらいなら奢ってやるよ」
笑いながらロッシュが請け合うと、レイニーの顔がさらに輝き、マルコが申し訳なさそうな表情を浮かべた。その対比に笑いながら、ロッシュは外出の支度に入るため、部屋に戻ろうと玄関に足を向けて。
「よし、それじゃあ一度解散すっか。三十分後にここで集合で――」
しかし今度もその試みは叶わずに終わった、発せられかけたロッシュの言葉に被さるように、元気な叫び声が聞こえてきたのだ。
「部長っ! あけましておめでとうございます!」
冬の冷えた空気の中響きわたるそれに、ロッシュは反射的に振り返った。そしてその瞬間驚いて目を向く、声の主であるキールが歩いてきているのは当然として、何故かその手に巨大と言っても良い大きさの鍋を抱えていたからだ。さらに言うなら、彼の隣にはロッシュの恋人であるソニアが歩いており、状況のややこしさに拍車をかけてくれている。
「ソニア、キール! 何だお前ら、揃ってこんなとこに」
「たまたまそこで一緒になったんですよ。あけましておめでとうございます、今年も一年宜しくお願いいたします」
優雅な所作で一礼するソニアに、場の全員がつられて礼を返す。同じく頭を下げようとしたキールだが、腰を折った瞬間鍋の蓋が外れそうになり、落とさぬよう慌ててバランスを直した。
「っとと、危ない……」
「危ないのは良いけど、どうしたのさその鍋。何が入ってるの?」
「これは、うちの母から皆さんに差し入れです」
興味津々といった態で鍋の様子を伺うレイニーに答えながら、キールはロッシュに向かって鍋を差し出してみせる。
「普段お世話になっておりますので、少しでもお返し出来ないかと思いまして。お正月っぽいものということで、お雑煮にさせて頂きました」
「ええ、本当に! うわ、有り難いけど申し訳ないなあ」
マルコが蓋をずらして覗き込む。中には大量の具が煮込まれた雑煮、というより具沢山過ぎて鍋に近くなったものが、たっぷりと入っていた。重たそうな鍋を抱えたまま、キールが器用に胸を張り、背に背負ったリュックを動作で示す。
「お餅もちゃんと持ってきましたよ、四角い奴で良いですよね。よろしければ、お夕飯にでも食べてください」
「本当かよ、悪いなあ、こんなに沢山貰っちまって」
「気になさらないでください、母も、いつも部長にお世話になっているお礼と言っていましたから」
笑いながら言うキールだが、さすがにそれをそのまま受け取って、好意に甘えるわけにはいかない。鍋を返すついでに礼のひとつでもしなくては、と頭の隅に刻みつけておく。
「そうか、ありがとよ……皆、正月料理なんてもう何年も縁の無い奴らばかりだからな。おふくろさんに、物凄く喜んでいたと伝えてくれ」
「はいっ!」
「で、ソニア、お前はどうしたんだ? お兄さんと一緒じゃねえのか」
ソニアも普段は女子寮の住人だが、この年末年始は海外で働いている彼女の兄が帰国しており、家に戻って家族二人で過ごしていたはずなのだが。ロッシュの素直な問いに、ソニアは瞬間不満げな表情を浮かべて、首を横に振る。
「兄ですか? 年末にフェンネル先生に連れ出されたっきり、戻りもしませんよ」
「あー……成程。大変だな、あの人も」
「知りません、折角帰ってきたのに、付き合いだとかで外出してばかりで」
不機嫌にむくれるソニアだが、彼女の兄とて妹と過ごせる貴重極まりない時間を、老人の我が儘で浪費したいわけではない筈だ。大人のしがらみから呼び出しを断ることもできず、大切な妹にはこうしてむくれられ、その苦痛はいかばかりだろうか。彼から妹へかける愛情をよく知るロッシュからしてみば、今頃どれほどの不満が蓄積されていることやら、考えると薄ら寒いものを感じてしまう。
「先程、夜には帰るという連絡がありましたから、今夜にはあなたも呼ばれると思いますよ。覚悟しておいてくださいね」
「……おう」
複雑そうな表情でロッシュが頷くと、話が一段落ついた気配を察して、レイニーが会話に入り込んできた。
「ね、あたし達これから、初詣に行くところだったんです。もしよかったら、ソニアさんも一緒にどうですか?」
「あら、そんな楽しそうなことを計画していたんですか」
ちらりと投げられた恋人の視線に、ロッシュは慌てて首を振る。
「今たまたま、そういう話になっただけだって。で、どうすんだ? お前も一緒にくるか?」
「勿論です、どうせ兄さんは帰ってこないんだし。私だって、待ってるばかりじゃなくて遊びたいんですから」
「そ、そうか……。まあ、んじゃ一緒に行くか」
一瞬だけ、色の白い頬に血を上らせて、ロッシュはちらりと視線を宙に浮かせた。そして照れ隠しにか、ふいとキールに目を遣る。
「んで、キールはどうする?」
先程からずっと、話に混じりたそうな顔をして様子を伺っていたキールが、ロッシュからの言葉にびしりと背を伸ばした。
「えーっとその、自分は……」
「つってもまあ、お前は実家だからな。行くんなら家族とか」
しかし続けられた残酷な言葉によって、その元気は実に分かりやすく、しおしおと萎れてしまった。あまりにもあからさまな反応に、レイニーとマルコは一瞬言葉を切り、揃って苦笑を浮かべる。
「でも、折角だからキール君も一緒にどうかな? 夜には解散するし、ご家族には連絡を入れておけば大丈夫だよね」
「高一にもなって、親と初詣もないだろうしね。勿論、予定が無かったらの話だけどさ」
「は、はいっ! 是非、ご一緒させてください!」
フォローを入れてくれた先輩二人に感謝の視線を送りながら、キールは深々と頭を下げ――ようとしたが、やはり鍋が邪魔になり、うまく目的を果たすことができない。恨めしげに抱えた荷物を見る彼に、年上の者達から遠慮のない笑いが沸き上がった。気まずい顔で視線を彷徨わせる本人も、皆の明るい笑い声に、やがてつられて自らも照れ笑いを浮かべる。
「――やあ、なんだい随分賑やかだね」
と、そこへ掛けられた声に、全員がぱっと視線を向けた。
「ラウル先生、ビオラ先生!」
「明けましておめでとう、皆。風邪など引いていないか」
生徒達の視線を浴びる中、アリステル高校の教諭二人が、揃って手を上げて彼らの元へと歩み寄ってきていた。生徒達の挨拶が、三々五々寒空の下に木霊する。
「明けましておめでとうございます、見回りですか?」
「そういう言い方は人聞きが悪いなあ、僕が君たちを信用していないみたいじゃないか」
「別に構いませんよ、どいつもこいつも、信用されるような生活態度じゃありませんし」
さらりと寮生達をこき下ろすロッシュに、ラウルが苦笑を浮かべる。
「先生達も大変ですね、折角のお正月なのに、仕事しなくちゃいけないなんて」
「まあね、師走が終わって直ぐだというのに、我ながらよく働くものだと思うよ」
「ラウル先生、それをご自分で言ってはいけませんよ」
ビオラの的確な指摘に、生徒達も一斉に苦笑を零す。そんな彼らを見渡し、ビオラが不思議そうな表情を浮かべた。
「しかし君達、外で集まって何をしていたんだ? それに君は、確か寮生では無かったな」
「あ、その、自分は皆さんに差し入れをと思いまして……」
「集まってきたのは偶然なんですよ、それで今、皆で初詣に行こうって話してたんです」
「これから出発するんですけど、よろしければ先生方もご一緒に、如何ですか?」
ソニアの誘いに、キールが顔を赤くしてビオラに視線を走らせる。この純朴な少年にとって、強く美しい教師が憧れの的であることは、彼を知る者達には周知の事実だった――というか本人が隠すことなく吹聴しているのだから、嫌でも耳に入ってくることだった。しかしビオラ本人はそんな情報を知るはずもない、ただ元副会長からの親しみを込めた誘いが嬉しかったのか、整った美しい笑顔を綻ばせている。
「おや、良いのかな? 折角盛り上がっていたのに、教師が居ては、堅苦しくなってしまうだろう」
「先生だったらそんなことありませんよ! むしろ皆に自慢できますから」
「そうですよ、だからラウル先生も一緒に、どうですか?」
「何か誘われ方が、ビオラ先生のついでという気がするんだけどねえ……」
無意識に正直な反応を示してしまっている生徒達に、ラウルが呆れて息を吐いた。といっても本気で怒っているわけでは勿論無い、全校生徒の憧れと並んで勝てると思う程、彼は身の程を弁えぬ人間ではなかった。
「まあ、誘ってくれるのなら有り難く乗らせてもらうよ。羽目を外さないように見張るのも、教師の務めだしね」
笑いながら言うラウルに、ロッシュが苦笑して頭を掻いた。
「ご心配頂いているようで、申し訳ないです。でも良いんですか? 先生と一緒だと、こいつら絶対何か奢れとか言い出しますよ」
「あ、ロッシュさんてば酷い!」
横で膨れるレイニーの可愛らしい表情に、教師二人が思わず笑いを零す。
「それくらいは別に構わないさ、これでも社会人なんだ、君のバイト代よりはマシな給料を貰ってるんだよ」
「そういうことだ、まだ卒業もしていないのに、くだらない心配をするのは止めたまえ」
「はあ……すいません」
口々に説教じみた言葉を頂き、恐縮して身を縮めるロッシュの姿が妙に情けなく見えて、一同がまた盛大な笑い声を上げた。
「――あら」
しかしそんな中で、ソニアがふと笑いを途切れさせ、瞼をぱちくりと瞬かせる。その変化にいち早く気づいたのは、当然ながら恋人であるロッシュであった。彼はさしたる意識もせずに彼女の視線の先を辿って顔を向けたが、そしてそこに居た人物に気づいた途端、ソニアと同じように目を丸くする。
「…………」
「おい、ストック! 何やってんだ、お前」
無言のまま一同へと近づいてくるストックは、年末も年始も冬も寒さも一切関係のない無表情に、親しい者のみ気付くことができる程度の困惑と疲れを浮かべていた。その理由は言われずとも想像がつく、彼の両腕にぶら下がっている二人の少女による無言の攻防が、新年早々大きな消耗を強いているのだろう。左腕を組んでいるは実の妹であるエルーカ、そしてもう片方の腕を組む、というよりしがみついているのは、可愛らしい外出着に身を包んだアトだ。そしてもう一人、これは別段ストックにくっついている訳ではないが、見事な体格をした男性が三人の後ろに歩いていた。アスリート顔負けの大男、セレスティア学院の教師であるガフカは、一同の視線が向けられたのに気づくと大きな身体を折って一礼する。視界には映らぬものの気配でそれに気付いたのだろう、促されるようにして、少女二人もぺこりと揃って頭を下げた。腕を解放されぬまま拘束者二人が頭を下げた結果として、ストックも必然的に腰を折る形となる。
「あけましておめでとうございます、皆様」
「おめでとうなの!」
「…………」
「おう、おめでとさん。ストックも、今年もよろしくな」
「お兄様、皆さんにご挨拶しては如何ですか?」
ロッシュに声をかけられた上エルーカに促されたストックは、不承不承と言った様子で自ら頭を下げ、口の中でぼそぼそと新年の挨拶を呟いた。
「……今年も、宜しく頼む」
「うん、こっちこそよろしくね。ストックは、初詣?」
「ああ」
レイニーの問いに頷くストックの横で、エルーカも同様に首肯を返しながら、麗しい顔に僅かな曇りを浮かべて小さな息を吐く。
「ええ、これから神社に行くところだったのですけど」
そしてちらりと、兄を挟んで反対側の少女に視線を遣った。それの意味するところは明白すぎる程明白で、事情を解する者達の表情に、微妙な色が浮かんでは消える。ストックの顔に現れた疲れが、また少し濃くなった気がして、ロッシュは口元を苦笑の形に歪めた。
「アトも、ガフカとに初詣だったの。そしたらストックに会ったの、ね、ストック!」
「……ああ、そうだな」
きらきらと、豊かな感情を惜しむことなく押し出しているアトに対して、ストックの表情はあくまで淡々としたものだ。それでも、纏わりつくアトを拒絶せず受け入れているあたりは、妙なところで優しいこの男の本領が発揮されていると言っていいだろう。
「アトもストックと一緒に初詣って言ったら、ストックが、それならもっと大勢で行こうって」
「あー、成る程ねえ」
諸々の思惑を察した様子で、マルコがちらりと笑いを零した。確かに、妹と少女の火花を単独で受けるよりは、集団行動に持ち込んで自分に向けられる意識を反らしてしまう方が楽ではあるだろう。
「新年早々大変だな、色男」
からかうような言葉をロッシュが投げてやれば、ストックからは剣呑極まりない視線が返されてきた。しかしそんな程度のじゃれあいは、親友間で日常茶飯事に行われているものであり、諍いにまで発展することはまず有り得ない。現に今も、言い合う端から、隣で挨拶を交わす教師同士の会話に注意を奪われてしまっていた。
「セレスティア学院の先生でしたか、これはどうも、うちの生徒がお世話になっておりますようで」
「む、こちらこそ。ストック殿には、いつもアトの面倒を見て頂いております」
双方に頭を下げ会う大人のやりとりを横目で見ていたロッシュが、睨みつけるのを止めてストックに近づき、その耳元に低めた声で囁きかける。
「なあ、ストック。ガフカさんがラウル先生になんてあだ名付けたか、賭けねえか?」
「……却下だな、双方同じものに賭けるのでは、勝負にならない」
「あー、こら君たち。聞こえてるからね」
苦笑混じりのラウルに一声をかけられ、親友二人はひょいと首を竦めて、笑いを含んだ視線を見交わした。そんな彼らの斜め下では、置いてきぼりにされたアトが、可愛らしい顔をむくれさせてストックの腕をぐいぐいと引っ張っている。
「ストック、初詣行かないの? 早く行くの、行かないと混んじゃうの」
「こら、アトよ。ストック殿を困らせてはいかんぞ」
一応の保護者であるガフカが窘めるが、アトは知らぬ振りだ。
「アトちゃん、お兄様は困っていらっしゃるんですよ。我が儘ばかり言うものではありませんわ」
言いながらアトの肩に手をかけ、兄から引き剥がそうとするエルーカは、気付けばストックの傍らから身を引いていた。彼女が先程まで居た位置には、いつの間にやらレイニーが収まっている、どうやらエルーカによってその場所に引き込まれたようだ。恋人の隣で、何やら照れたような表情を浮かべるレイニーに、マルコが微笑ましげな視線を向けている。
「聞き分けなさい、いくらお兄様がお優しいと言っても、甘えてはいけない時というのはあるのですよ。ほら、腕を離して」
「うー……アトは認めないもん」
実の妹より余程頑固にストックにしがみつく少女に、一同から苦笑が零れた。小学生と言えども女は女、恋する女性程扱いづらいものはない。
「ほらアトちゃん、アトちゃんもおうちに帰らないと、お爺さんが心配するよ? お爺さん、アトちゃんが居なかったら寂しいと思うなあ」
そんな口実でこの場から去らせようというマルコの企みを、しかし、アトとガフカはあっさりと却下した。
「おじいちゃまは居ないの。ガルヴァおじいちゃまと、ゴライオンを見に行っちゃったの」
「ご来光、だな。富士に登ってご来光を見なさるということで、アトをわしに預けて、年末から出かけていらっしゃるのだ」
「バノッサおじちゃまはアイラちゃんと一緒だし、リーズおねえちゃまもカレシと一緒だって言ってたの。だからアトもストックと一緒が良いの」
二人の説明に、一瞬、説得の声が止まる。どうやら彼女は、親しくしている者達から、見事に置いてきぼりをくらってしまったらしい。自分も実の両親を亡くしている身として、彼女の境遇を不憫に感じてか、エルーカの整った眉が優雅に寄せられた。
「……だが、一人ではない。ガフカが居る」
「ガフカはあんまりおしゃべりしてくれないの。つまんないの」
「それを言うなら、ストックだって大して話しゃしねえだろ」
「ストックはいいの!」
「うわあ、凄い贔屓! まあ、そう言ってくれるとは思ったけどさ」
「とにかく、アトはストックと一緒が良いの。一緒に初詣に行ってお節食べるの!」
「駄目です、皆さんと一緒なのだから、それで良いでしょう!」
しかし、他の者の意見など聞きもせずひたすらストックに縋るその姿勢は、やはり許しがたいものがあったのだろう。再び彼女を退けようと眦を決するエルーカに、レイニーが遠慮がちに微笑する。
「いいよエルーカちゃん、ちっちゃい子のすることだし。ちょっとくらい構わないって」
「アト、子供じゃないもん!」
「駄目ですわ、折角お二人でご一緒しているのに」
「そうですよ、私はエルーカちゃんに賛成です。恋人と二人の時に邪魔されるなんて、悲しいじゃないですか」
「あー、ソニア、何でそこで俺を見るんだ?」
「いやあ、生徒達は元気ですねえ、寒いのに」
「全くですな、若いというのは素晴らしいもんです」
「二人とも、年寄り臭いことをおっしゃらないでください……」
女性陣に囲まれたストックを中心に、騒ぎは収束する気配もなく広がっていく。わいわいと、寝ている寮生達が起き出しかねない程の喧噪が辺りを満たしていたが、突然それを切り裂く音があった。
「――おーい、お前ら、何やってんだ!」
冷たい空に響くクラクションの音、それを発した軽トラの運転席から、シグナス組社長がひょいと顔を覗かせた。冬だというのに日に焼けたガーランドの顔には、寮の前という奇妙な場所で騒ぐ人々に対する、呆れるような面白がるような微妙な色が浮かんでいる。
「何だよ、なんかやったら人が多いんだけど、なんかあんの?」
そしてその脇から顔を出した小さな頭は、当然ながらリッキー少年だ。常日頃からガーランドに妙に懐いており、彼の周囲で姿を見かけることの多い少年だが、一応今は正月。彼の年齢であれば家族で過ごすべき時期まで、赤の他人に纏わりついていていいのだろうか。大人達の脳裏にふと過る疑問など、リッキー本人は一切気にせず窓枠に手をかけ、外へと身を乗り出している。
「社長! え、何でこんなとこに?」
「……正月早々、何をふらふらしているんだ。そんなに暇なのか」
「おいおい、年賀の台詞もすっとばして嫌味たあ、随分ご挨拶じゃねえか」
バイト先がシグナス組の経営する店であるロッシュとマルコは雇い主の登場に背筋を伸ばすが、彼らに比してストックは自由なものだ。年の差も立場の差も考えない減らず口は怒りすら通り越してしまうものなのか、いっそ楽しげな様子で、ガーランドが呵呵と笑い声を上げた。
「明けましておめでとうございます、ガーランド社長。お仕事でいらっしゃるのですか?」
そして、兄とは対照的な丁寧さで頭を下げるエルーカには、にこりと優しい笑みを向けてやる。
「おう、正月でもやってる店はやってるからな、その見回りだ。今は事務所に戻るとこだったんだが、ちと届け物を拾ってな」
「届け物?」
「ああ。そこのちっこい坊主が喜ぶ荷物さ」
そう言ってガーランドは人の悪い笑みを浮かべると、ドアを開けて軽トラの運転席から降り立った。一緒にリッキーが降りるのは当たり前だが、さらに続いてその後ろから現れた者がある。小柄な、しかしリッキーやアト程ではない華奢な姿を見た途端、マルコの表情が初日の出よりも明るく輝いた。
「――ミメル! ミメルじゃないか!」
「マルコ、おはよう! 社長、有り難うございました」
「どうせ行く道だったからな、良いってことよ」
マルコのバイト仲間であり、想いを寄せる相手でもある少女は、車から降り立つと、ガーランドへと頭を下げる。そして駆け寄ってきたマルコの手を取りにこりと微笑んだ、それを受けてマルコの相好も、へにょりと溶けるように崩れる。
「ほう、態々送ってきたのか」
「偶々見かけたからな。進行方向だし、乗せてきたんだよ」
「一従業員の顔まで覚えていらっしゃるんですか、社長というのは、随分マメなものですね。いやあ、僕には真似できませんよ」
「そうですか? ラウル先生も、お気遣いが細かくていらっしゃると思いますが」
「おや、それは有り難い評価ですね。ビオラ先生にそう言って頂けるとは、嬉しい限りです」
「げ、アトじゃねえか。お前、正月だってのにこんなとこで何してんだよ」
「それはこっちの台詞なの、リッキー、何しに来たの!」
常から角を突き合わせている少年の登場に、アトが頬を膨らませて敵意を示す。威嚇するように仁王立ちになると、片手を腰にあて、もう片方の人差し指を少年に向かって突きつけ――となると必然的に、今まで梃子でも動こうとしなかったストックの隣から離れてしまうことになるのだが、少年との言い合いに夢中なアトはその事実に気づいていないようだ。今のうちとばかりに、エルーカが兄の身体を引き、アトとの距離を空けてしまった。
「エルーカちゃん、ごめんね、何だか気にしてもらっちゃって」
「良いんです、本当は私がご一緒するのもよくないのかもしれませんが……」
「そんなことないよ! 二人だけの家族なんだから、一緒に過ごさないと」
「レイニーさん……有り難うございます」
「ストック、良かったですね、お二人の仲が良くて」
「…………」
「何だよ、照れなくてもいいだろ。妹と恋人で諍い合ってた方が良いってのか?」
「……そんなことは言っていないだろう」
「ところでお前ら、ほんとにこりゃ何の騒ぎなんだ? 随分頭数が集まってるみたいだが、これからどっかに繰り出しでもするのか」
「一応初詣に行くとこだったんですよ。つっても別に示し合わせてってわけじゃなくて、偶然人が集まったからって感じだったんですが」
「ふむ、成る程な。それじゃあ、ひょっとして」
代表してロッシュが述べた説明に、ガーランドは納得した様子で頷く。その視線がふいっと、一同から離れた建物の角へと投げられた。
「あいつらも、その一員だったりするのか? さっきからそこで、覗いてる奴らが居るんだが」
――その言葉に、ざわめきが止まった。停止した喧噪が戻るより早く、ガフカとビオラの二人が、示された箇所へと走る。
「何奴っ!」
「君達、ここで何をしている!」
鋭い怒号を発しながら二人が建物の陰へと駆け込む、沸き上がる戦いの気配から他の者を守るため、ストックとロッシュが少女達の前へと進み出た。素早く視線を見交わし、言葉に出さぬまま意思を交感する親友二人を、未だに鍋を抱えたままのキールがおろおろと見守っている。張り詰める空気、一同が注視する中、やがて駆け込んだ先から教師二人が姿を現した。その後ろには、逃げきれずに捕えられてしまった不審者が、とぼとぼと付き従っている。三人の少年と一人の少女、彼らの顔を見た瞬間、一部の者の表情に大きな変化が生じた。
「まあ、皆さん……!」
「……お前達、どうしてここに!」
最も顕著な反応を示したのは、ストックとエルーカの兄妹だ。特にストックは、常の無表情を忘れて大きく目を見開き、驚きを真っ直ぐ表に出してしまっている。そんな彼に、逃げられぬようガフカの手に捕らえられたオットーは、ちらりと気まずそうな笑みを浮かべた。
「よ、エル……じゃなかった、ストック」
「何をしているんだ、一体……クレアまで連れて」
「どうしたのです、何かあったのですか? まさか学園で何かが」
「いや、そういうわけじゃないんですがね」
「単にオットーが暴走しただけだ。エルーカ会長が初詣に行かれると聞いて、男と落ち合うのではないかと勘違いしたようでな」
「実際は、男は男でもストックさんだったわけですけどね。全く、新年早々呼び出された僕達は良い迷惑ですよ」
オットーとは真逆に、自らは被害者であるとでも言いたげな顔をしたウィルとピエールが、揃って溜息を吐く。そのやり取りに、不審者達に睨みを利かせていたガフカが、きょとりと目を丸くした。
「なんだお主等、知り合いか?」
「ああ……まあな」
「私の仲間です。学園で、共に生徒会を運営していた方々なのですが……」
ストックは呆れ、エルーカは戸惑い、どちらにしてもあまり良い方向性ではない表情をそれぞれに浮かべて、グランオルグ学園レジスタンスの面々を眺める。その視線にオットーは肩を落とし、ウィルはそ知らぬ顔で明後日の方向を向き、そしてピエールは彼自身も呆れた様子で溜息を吐いた。
「ほら、だから止めておいた方が良いって言ったじゃないですか」
「う、まあそりゃ、でもなあ……」
「オットーさんは過保護すぎるんですよ、エルーカ会長だって今年は二年生ですし、そろそろ恋人だって作りたい年頃でしょう」
「……そうなのか、エルーカ?」
「ストック、お前が反応してどうするよ」
ピエールの台詞によって秀麗な眉をつり上げたストックを、親友が半眼で見詰める。そのやり取りに、レイニーとソニアが顔を見合わせ、同時に苦笑を零した。
「エルーカちゃんも大変だね、周りがこんなのばっかりでさ」
「何処の家も、兄というのは口煩いものなんですね。よく分かります」
「お二人とも、分かってくださって有り難うございます……いえ、気にかけていただくのが不満というわけでは、無いのですが」
「でもちょっと、鬱陶しいのは鬱陶しいよねえ」
マルコによってずばりと確信を付かれ、オットーの肩がさらに二段階ほど落ちる。ついでにストックの肩もぴくりと揺れたが、それに気づいたロッシュが深い追求をしなかったのは、親友の情けというものだろうか。
「いや、俺は別に……ただ、ストックから預かった大事な妹さんに、変な虫が付いちゃあ不味いって思っただけで」
「それが過保護だって言うんですよ、会長も子供じゃないんですから、自分で自分の身くらい守れるでしょう。全く、大体オットーさんはいつも……」
「お兄ちゃん、もういいでしょ。折角皆で一緒に居るんだから、うるさいこと言わないの!」
落ち込むオットーに尚も追い打ちをかけようとするピエールだが、それを止めたのは、誰あろう妹のクレアだった。可愛らしい顔立ちに大人びた表情を浮かべた少女は、兄に向けて容赦なく指を突きつける。味方である筈の妹から受けた攻撃に、ピエールの表情が一気に悲壮なものへと変わった。
「でもクレア、折角二人でのんびりしているところだったのに、こんな寒い中引っ張り出されて」
「私は、皆と一緒の方が楽しいもん。オットーさんが呼んでくれて、嬉しかったんだから」
「そんな、クレア……」
「くそっ、ありがとよ、クレア。お前も、エルーカ会長みたいに良い女になるぜ」
「そうして、過保護な兄や友人に、外出を監視されるわけか。成る程な」
少女の思いやりによって取り戻された笑顔を、直後に発せられたウィルの皮肉が直撃する。再び地に付く程落ち込んだオットーの肩を、さすがに不憫に思ったのか、ガーランドが大きく叩いた。
「まあまあ、気持ちも分からんでもないぜ。こんな美人だ、そりゃ心配にもなるよな」
「社長、分かってくれますか!」
「さすがに後をつけるなんてのはやりすぎだがな。適当にしとかねえと、本人にうざがられて、話もしてもらえんなんてことになっちまうぜ」
「だとよ、ストック」
「……だから、何故俺に言う」
「クレア、お前雑煮食った?」
「食べたよ、私が作ったんだから」
「ええっ、クレアちゃんお雑煮作ったの!? 凄いの!」
「なんだよ、アトには話してないだろ。割り込んで来んなよ」
「リッキー、そんな意地悪言わないの。折角アトちゃんと仲良くなれたんだから、ねー」
「ねー、なの」
高校生達のやり取りを余所に、小学生の女子同士で友情を深め始めたクレアとアトを、弾き飛ばされたリッキーが不服げに睨み付ける。しかし少女二人は一切頓着せず、楽しげに二人の世界を作り上げることに夢中だ。
「……なんだよー、女ばっかりでくっつきやがって!」
「まあまあ、女の子同士が話してるところに割って入っても、大変なばっかりだよ?」
頬を膨らませるリッキーの肩を、マルコが優しく叩く。その可愛らしさから、マスコット的な立場として女子に混じらされることの多い彼が言うその言葉には、実に深い実感が感じられた。
「しかし、随分と人が増えましたね。今、何人居るんでしょう?」
「んー、そうだな……いや、数えるのも面倒くせえくらいだ」
「うむむ、これだけ居ると、どう見分けたら良いか」
「ガフカ殿は、人の顔を覚えるのが苦手なのですかな?」
「ええ、まあ、恥ずかしながら。自分の生徒はさすがに覚えられますが、他の学校の生徒となると中々難しくて」
「ところで初詣はどうしましょう。ここに居る全員で行くことになるのでしょうか」
「あ、そういえばそうだね。ミメルちゃんはどうするの?」
「私は、元々マルコと行こうと思って、誘いに来るところだったから……」
「え、そうだったんだ! へへ、嬉しいなあ」
「マルコったら、メール入れたのに返してくれないんだもの」
ミメルに睨まれ、マルコは慌てて自分の携帯を確認した。歩いている間にでも受信したのだろう、ミメルから誘いのメールが来ていたのを見付けると、慌てて彼女に頭を下げた。
「わわ、ごめん! 気付いてなかった!」
「いいよ、ちゃんと合流できたし。社長に感謝しないとね」
「もう、マルったら、ミメルちゃんから誘わせてどうするの。こういうのは男の方から、ちゃんと誘ってあげないと」
「そういうものですか……勉強になります!」
「ほーう、そんなことにには勉強熱心だな。で、使う当てはあるのか?」
「それは……いえ、その、いつか使う時のためにということで」
「良い心がけじゃありませんか。ロッシュ、ストック、あなた方も見習ってみてはいかがですか?」
「いやっ……まあ、今年は、お兄さんと一緒だと思ってたしよ」
「…………誘うつもりはあった。ただ、メールより、直接誘いに行った方が良いかと」
言い訳じみた言葉をもそもそと呟く親友二人を、その恋人達が呆れて見詰めている。助ける者は当然居らず、針のむしろと言える状態に、ロッシュとストックは視線を交わしてため息を吐いた。
「じゃあ、初詣に行こうか? これだけ人数が多いと、誰かはぐれちゃいそうだけど」
「それはそれで仕方ないんじゃない、その時は適当に帰れば良いしさ。 アトちゃん達だけ、迷子にならないように見てあげるとして」
「そうだな、それじゃあとにかく支度を――」
「……こほん」
「ガーランド、どうする? 俺は皆と行くけど」
「ああ、俺も行くぜ、折角だからな」
「アトちゃん、一緒にお参りしようねー」
「ねー。甘酒も飲むの、美味しいの」
「その、そこな者達」
「子供達は、すっかり仲良くなったみたいですね」
「先程まではあんなにストックストックと言っていたのにねえ。女の子は切り替えが速いな」
「ピエール、妹を取られて寂しいのではないか?」
「良いんですよ、女の子相手なら」
「うわ、揺るぎねえな」
「そこな者達、こっちを向くが良い」
「お前、そんなんで良く俺のこと過保護だの何だのって言えるよなあ」
「僕は事情が違いますよ、実の兄ですから」
「まあ、別に構わんがな。クレアが思春期になった時は、覚悟しておいた方が良いぞ」
「……そんな、大丈夫ですよねえ、ストックさん」
「ちょっと、少しこっちを見るのじゃ」
「……俺に聞くな」
「エルーカちゃん、どう思う?」
「え、私ですか? その……私の口からは、何とも」
「ええい、いい加減にせい!」
好き勝手に続く会話を遮るヒステリックな叫び声、さすがにそれを無視することは出来ず、一同は一斉に背後を振り向いた。
「――お義母様!」
エルーカが驚きを露わにして叫ぶ、彼らの視線の先に居たのは、豪華な留め袖に身を包んだ女性とその後ろに付き従う二人の男性。
「誰なの? なんだかピカピカな人なの」
「ぬう、わしも知らん。さすがにこれだけ派手な者なら、忘れぬと思うのだが」
「グランオルグ学園の学園長ですよ。一緒に居るのは同じくグランオルグ学園の教師、セルバンとディアス」
首を傾げるアトとガフカに、ラウルが説明を加える。突如現れたライバル校の幹部に、さすがの彼も困惑を隠せぬ様子だ。そしてそれはラウル以外の者にとっても同じことで、彼らと対立しているグランオルグ生徒会の面々も、険しい表情でプロテアを睨み付けている。
「ふん。全く、なんと貧乏くさい建物じゃ。このような場所にわらわが足を運ぶなど、勿体なくて涙が出る」
しかしプロテアの側では、彼らなど意識する必要も無いと判断しているらしい。敵意の籠もった視線を向けられても、我関せずといった態度で、優雅に辺りを見回している。
「……ならば、何処にも行かず大人しくしていれば良いものを」
「何か言ったか、セルバン」
「いいえ、何も。学園長に態々お越し頂くなど、ここの住人はもとより創設者であっても、考えもしなかったであろうと思っていたところです」
「おお、それは全くその通りじゃろうな。わらわのような高貴な人間が訪問するなど、予想するなど難しいじゃろう」
棒読みに近い、感情をひたすら削った物言いであったが、プロテア相手であればそれで十分だったらしい。あっと言う間に機嫌を直した彼女を、お付きの二人を含めたその場の全員が、呆れた顔で眺めた。
「それで、一体どうして、あんたがここに居るんだ? しかもそいつらを連れて」
一応、義理とはいえ息子の立場であるストックが、そこに居る全員の疑問を代表して訪ねる。寮が建っているのは、中心部は基より初詣のルートからも離れた土地で、偶然通りかかったと考えるのは難しい場所なのだ。当然発生する問いだが、プロテアはそれに答えようとせず、ぷいと横を向いてしまった。
「どうしても何も無い、わらわが何処に行こうが、わらわの勝手じゃろう」
「……まあ、確かにそんなことはどうでもいい話だな」
しかしストックもさるもので、プロテアの反応を見るやそれ以上追求することを拒否し、そのまま視線を逸らす。若い後妻と思春期の息子の多くがそうであるように、彼らの仲はけして良くない。関わりたくない、このまま放置して去ってしまいたいという本音が、言動にしっかりと出てしまっていた。
「皆、そろそろ出発するぞ。遅くなると人が多くなる、早めに行った方が」
「ちょっと待て、何故そう結論を急ぐのじゃ!」
義母を抜きにして話を進めようとする、そんな義理の息子の態度に、プロテアは抗議の声を上げて手にした扇子を振り回した。焚きしめられた香の香る風が、周囲の者達の顔に当たる。義母と兄の犬猿ぶりに、一人残されたエルーカが、疲れたような顔で小さくため息を吐いた。
「お兄様、そう意固地になられることはないでしょう。お義母様も、何かご用がお有りなのですよね? 言って頂かないと、他の者が分かりませんわ」
「……ふん、まあ、用という程のものではないがの」
「やはり無いのか。ならば行っても構わないな」
「お兄様!」
「また、そのような小癪なことを申す! 全く可愛げのない子供じゃ、顔ばかりはヴィクトール様に似ておるくせに……!」
「で、結局あの人何しに来たんだろう?」
「さあ。……暇つぶし?」
「……学園長。彼らのような者達に、学園長の深遠な考えを理解しろというのは、あまりに難しいのですよ。ここはひとつ、はっきりと言って聞かせてやってはいかがでしょう」
「む……そ、そうじゃな」
混ぜ返されてばかりで進む気配の無い会話に嫌気がさしたのか、セルバンが遠回しにプロテアを宥める。プロテアも再度気を取り直し、鷹揚な笑みを浮かべて一同を見渡した。中々見事な操縦ぶりだが、それが生むのは勿論感心ばかりではない、見ている者達の目には呆れやら同情やら実に様々なものが浮かんでいる。セルバンも、自分の姿がどのように写っているのかくらいは分かっているのだろう、顔に浮かんだ苛立ちを隠しもしていない。プロテアは当然ながらそれに気付くことなく、僅かに躊躇うような様子を示した後、ようやくその口を開いた。
「まあ、その、あれじゃ。要するに折角の正月、親子水入らずで過ごしてやってもよいぞと」
「…………え?」
そこから発せられた言葉に、しかし当然ながら捗々しい反応は返らず、誰もがきょとんとした表情を浮かべるばかりだった。ストックなどはあからさまに眉を顰め、不快感を表にしてしまっている。
「……そんなことをしたいと、頼んだ覚えは一度たりとてないが」
「また、そのように可愛げのないことを言う! 大体そなたらはいつもそうじゃ、ヴィクトール様が亡くなった途端に家に寄りつかなくなりおって……薄情にも程があろう!」
「そう言われてもな。あんたとは血の繋がりも何も無い、母親のような顔をされても困るんだが」
睨み合う義理の親子によって、周囲に居たたまれない雰囲気が広がっていく。正直、公共の場で晒される家庭の事情程、反応に困るものも無い。口を出すには躊躇われ、といって見て見ぬ振りをして自分の行動に戻るにはあまりに存在感が強すぎて、誰もが戸惑いを隠せず顔を見合わせている。唯一の肉親であるエルーカも、どうしたら良いか分からない様子で、兄と義母を交互に見遣るばかりだ。
「プロテア様、そのあたりで許してやっては」
「煩い、黙りや! 今はわらわが話しておるのじゃぞ!」
黒幕としての責任感を振るってか、セルバンがプロテアを止めに入るが、勿論欠片ほどの効果ももたらさない。ディアスなどは端から諦めているのか、退屈そうな顔を隠そうともせず、横を向いてぼんやりとしてしまっている。
ロッシュが止めるべきかと額を押さえ、レイニーがどうしたものかとおろおろし、アトは訳が分からず大人たちの様子を伺い、レジスタンス三人はプロテアに敵意を向けているが見事に無視され。様々な感情が噛み合わずに硬直した空間で、その均衡を破ったのは、ストックでもプロテアでもエルーカでもなく。
「ふはははははははっ!!!」
やたらとけたたましい笑い声と共に、空から降ってきた――否、そう見えるかのような凄まじい跳躍で場のど真ん中に飛び込んできた、一匹のゴブリン。もとい小柄な老人が、鮮やかな着地を決め、見事なキメ顔で一同を見渡した。得意げに人々を眺める老人だが、誰一人、プロテアでさえもそれに反応することは出来ず、欠けることなくきょとんとした表情を浮かべて老人を見返している。
「天道地壊の拳! 万物千式の技! 在らざるも無双の流派!!!」
続けて述べられた口上にも、当然ながら応答が返ることはない。一瞬、ほんの一瞬だけ老人の顔に焦りが浮かんだが、それに気づいた者は居ただろうか。周囲に沈黙が落ちる、老人以外の者の心は、先程までとはうって変わってたったひとつに纏まっていた、すなわち――『なんか変なのが来たぞ』、と。
「……えーっと、じゃな」
老人が視線を泳がせる、皆がそれを見詰める。一度は吹き飛ばされた戸惑いと困惑が、再び空気を濃く占め始める。
その、嫌な具合に硬直しかけた場に、再び音が響いた。
「「……はぁ」」
今度のそれは、先のものほど大きなものではない。むしろ囁くような、辺りが冷たい沈黙に支配されていなければ聞き取ることが出来ない程の微かな溜息が、空間に零れ落ちる。
そしてそれに続いて静寂を乱したのは、動きだった。トコトコ、と擬音を入れたくなるような動作で、着物姿の少年と少女が彼らの視界へと入り込んでくる。
「やはりこうなりましたね、マスターヴァンクール」
「まあ、そうだろうと思っていたけどね。満足したかい?」
神秘的とすら形容出来る整った相貌の二人は、動きづらそうに着物の裾を捌きながら、ポーズを取ったまま固まっている老人へと歩み寄った。そして少女が右肩を、少年が左肩を、慰めるように軽く叩く。
「リプティ、ティオ! どうしたの、何してるの、そのお爺ちゃんと知り合いなの、お着物可愛いの!」
「アト……質問は、ひとつずつにしてください。答えきれません」
謎の美少女、改めリプティは、喜色を満面にして駆け寄ってきたアトをそっと窘めた。その後ろからのそりとガフカが歩み寄り、子供達三人を護るように傍らに立つ。
「むう、二人とも、妙なところで会うな。マスター殿と初詣か?」
「当たらずといえど遠からず、かな。年始の挨拶と言った方が近いかもしれないね、彼の一方的な押しつけだけど」
アトガフカが親しげにしているのを見て、他の者達の中でも、三人の印象が『正体不明』から『知り合いの知り合い』へと変化してゆく。不審者への警戒から身を堅くしていたビオラが力を抜き、ラウルと顔を合わせてふわりと笑顔を見せた。呆然としていたプロテアも、はっと我に返って取り澄ました顔を繕い直す。ソニアと後輩たちを背に庇っていたロッシュとストックが同時に肩を竦めると、ピエールの後ろに押し込められていたクレアが、興味津々といった様子で少女達の元へと駆け寄ってきた。
「ね、アトちゃん、友達?」
「それは」
「そうなの! 同じクラスのお友達なの、ね?」
リプティが何か言うより先に、アトがリプティの手を握ってぶんぶんと振り回す。体格に似合わぬ腕力に身体ごと揺さぶられたリプティは、さすがにそれ以上言葉を続けることも出来ず、すました顔を保つことすら難しい様子で目をくるくると回してしまっている。
「いや、セレスティア学院の生徒さんでしたか。こちらは、ご父兄の方で?」
「うむ、こ奴らの保護者をしておる。偶々担任殿の姿を見かけての、年始の挨拶にと思ってやって来たんじゃ」
「偶々、ね。面白いことがあると言って、真っ直ぐここに連れてこられたと思ったけど」
「ふふん、面白い状況じゃろう? これだけの面々が揃うなど、あの世界で有り得るもんじゃないわい」
マスター・ヴァンクールの言葉に、ティオはちらりと一同を見回し、そして子供に似合わぬ皮肉な笑みを、整った口元に刻んだ。
「……まあ、確かにそう見られない光景では、あるけどね」
少年にそう称された人々は、騒ぎが収まったと見て取るや、てんでに動き回って会話を始めていた。少し前に倍したとも感じられる喧噪が、周囲を包む。
「何だ、アトの知り合いか。不審者かと思ったぜ」
「本当ですよ、私、もう少しで通報してしまうところでした」
「あ、ソニアさん冷静! 私もうびっくりしちゃって、それどころじゃ無かったですよ」
「……自分の身を守るのが一番大切だ、気にするな」
「そうだよ、何かあったら大変だもんね。ミメルも、何もなくて良かったよ」
「うん、マルコが庇ってくれたから。ありがとね」
「やれやれ、彼女持ちは良いねえ。独り身にゃあ目の毒だぜ」
「そう思うなら、エルーカ会長の護衛を控えて、相手の女性でも探したらどうだ?」
「同じことが、ウィルさんにも言えると思いますけどねえ」
「自分は剣の道を極める途上、色恋など不要だ」
「ふむ、さすが我が校剣道部の元エース、中々良いことを言う。そう思わんか、セルバン?」
「そうだな、生徒会側でなければ良い駒……いや、味方になってくれたものを」
「こら、セルバン、ディアス! 生徒会と言えばわらわの方針に楯突く小童共、それを誉めるなどなんとしたことか!」
「はっ……これは、申し訳在りません」
「ふん、学校といえど動かすのは人か。会社経営と大差無えな、生臭いったらありゃしねえ。先生、あんたんとこもそんなもんかい?」
「さあ、どうでしょうね。ご想像にお任せしますよ」
「リプティちゃんの髪の毛サラサラで良いなあ、お着物もとっても可愛いし」
「アトはお着物嫌いなの、走れなくなっちゃうの」
「……あなたは、落ち着きが無さすぎます。動きを阻害されるくらいで、丁度良いのではありませんか」
好き勝手なことを喋りまくる人々を前に、マスター・ヴァンクールは満足げに頷いている。
「うむ、何と愉快な光景よ。態々やってきた甲斐があったというものがあるじゃろう、なあ?」
「そうだね、君の憂さ晴らしに付き合わされたにしては、悪くないものが見られたかな」
「む、なんじゃその棘のある言い方は」
「別に。友人二人に置いていかれて暇を持て余した老人に、着たくもない着物を押しつけられて連れ回された件に関しては、彼らを見られたことで帳消しにしてあげても良いってだけさ」
ひょいと肩を竦めるティオの声に、アトとクレアに弄りまわされていたリプティも、動けない身体から首だけを回して弟と保護者の方を見遣る。
「ベロニカからもガルヴァからも、結局何の連絡も無かったのですか?」
「そうみたいだね、今朝電話を睨みつけて唸っていたよ。流浪を気取って、普段から連絡の一つも入れないからこうなるのさ」
双子は口々に言い合い、保護者に対するものと思えない冷えた視線を、マスター・ヴァンクールへと向けた。被保護者からの容赦ない責めに、老人は低い唸り声を上げ、ぷいと顔を逸らす。
「ええい、ワシは悪くないぞ。前世以来の付き合いのくせに、ワシに声をかけ忘れるあ奴らが悪いんじゃ」
「忘れたというより、連絡が取れなかったのではありませんか?」
「だから、いい加減諦めて携帯を持てば良いじゃないか。僕たちも、用がある時に困らない」
「その通りです、マスター・ヴァンクール。学校の行事がある度に連絡を待つのは、あなたが思う以上に手間なのですよ」
「ぬぬぬ……お主ら、すっかり馴染みおって。こちらではたった十年しか生きておらんくせに、あちらの三百年はどうしたというんじゃ」
「郷に入りては郷に従え、というからね」
「あなたは、こちらで何十年生きても、未だに変わらないようですが」
数百年を生きた威厳も何処へやら、唸りながらそっぽを向く老人に対して、双子は揃って首を竦めた。
「わあ、おんなじなの! ぴったり同じだったの!」
「すごいね、さすが双子!」
横で見ていたアトとクレアが、妙なところに感動して、ぱちぱちと手を叩く。完全に蚊帳の外に置かれてしまったリッキーは、楽しげな女子達の様子に口を尖らせつつ、ぼやくように声を上げた。
「それは良いけどさあ、初詣どうすんの? 早く行かないと混むって、何度も言ってんじゃん」
八つ当たりめいたその発言に、大人達ははたと我に返り、互いに顔を見合わせる。
「そういやそうだ、結局どうする? 誰と誰が行くんだ、初詣」
「私は行きますよ、そのつもりで来たんですし」
「部長と副会長が行かれるなら、僕も行きます!」
「僕達も行きますよ、ね、ミメル」
「うん、レイニーちゃん達も行くでしょう?」
「勿論! エルーカちゃんも一緒に、ね?」
「……有り難うございます、レイニーさん」
「会長が行かれるなら、当然お前も行くんだろうな」
「うるせ、正月に初詣に行って、何が悪い」
「初詣が主目的じゃないから悪いんでしょう。クレア、どうする? 寒いし、無理にオットーさん達に付き合わなくても……」
「私も初詣に行く! 寒くても、みんなと一緒が良い!」
「そうなの、クレアも一緒なの! リプティと三人でお参りするの、ねー」
「……仕方がありませんね。どうせ、この格好では逃げても無駄でしょう」
「姉さん、無理して嫌そうに言わなくても良いと思うけど?」
「…………」
「うむ、リプティにも友人が出来たようだな、良いことだ。……そこの子供、どうせならお主もティオの友人になってやってくれぬか?」
「子供って呼ぶなよ、俺にはリッキーって立派な名前があんの! てかいきなり友人とか言われてもなあ」
「……彼にも、教師としての立場があるんだ。言わなくてはいけない発言というものがある、気にしなくて構わないよ」
「何だよ、その言い方! 生意気な奴だなあ」
「生意気か。君に言われたくはないけどね」
「やれやれ、生徒達で慣れているつもりだけど、小学生の元気はまた別格だなあ。小学校の教員にはなれそうに無いね」
「それで困ることがありますか、今更職を変える必要も無いでしょう。で、ラウル先生はどうなさいますか?」
「初詣かい? 勿論行くよ、これだけ人数が集まったら、引率者がいないと危ないだろう」
「そうですね、私もお供させて頂きます。ガフカ先生も、行かれますよね?」
「うむ、子供達の面倒を見ねばなりませんからな。そちらの……む、その」
「ああ、これは自己紹介が遅れた、私はディアスという。こちらはセルバン、共にグランオルグ学園で教師をしている」
「う、む……その、先生方は如何なさる」
「我々も行かねばならないでしょうな。何しろ――」
「ふむ、庶民に混じってみるのも、たまには良いかの。のう、セルバン?」
「――あの女の面倒を見なければならないからな」
「やれやれ、先生も大変なもんだな。ガキだけじゃなく、大人のお守りもしないとならんとは」
「ガーランドはどうすんの、仕事に戻るのか?」
「いや、俺も行くぜ。こんな面白え状況、途中で降りてたまるか」
「……ということは、結局全員行くことになるのか」
ストックが言うと、隣のレイニーが、うわあと感嘆の声を零す。
「すっごい大人数になっちゃったね! 結局何人?」
「さっきも数えたけど……えーっと、何人だろ?」
「二十四人になります!」
「キール、お前よく数えられたな。俺は諦めちまったぜ」
「部活や生徒会で、大人数には慣れていますから!」
「それよりレイニーちゃん、出掛けるなら着替えて来た方が良いんじゃないですか? ロッシュとマルコ君もですけど」
「あ、そうだ、忘れてた……じゃあどうしよう、寒い中で待ってて貰うのも申し訳ないし、後から追いかけた方がいいかな」
「いや、寮の中で待たせておけば良いだろう」
「良いですね、お兄さまの生活なさっているところを見てみたいです」
「や、さすがに男子寮に入れるわけにゃいきませんが……」
「申し訳ないですけど、女子寮で我慢してください。他の人も、男の人は男子寮、女の人は女子寮で待ってもらっていれば良いですね……先生、構いませんよね?」
「本当は、部外者を入れちゃいけないんだけどねえ」
「そう堅いことをおっしゃらず、めでたい日ではありませんか。特例として、許可してしまいましょう」
「では決まりですね、僕、お茶を入れます!」
「ああ、悪いが頼んだぜ。鍋は……俺の部屋に置いとくか、台所に置いといたら他の奴に食い尽くされかねん」
「ストックも、キール君を手伝ってあげてね?」
「……ああ、分かった」
「じゃ、エルーカちゃんとミメルちゃんは女子寮だね。アトちゃん、クレアちゃん、リプティちゃんもおいでー!」
「はーいなの! それじゃあストック、また後でなの」
「リプティちゃん、お茶と紅茶とどっちが好き?」
「……どちらも、それなりに。敢えて言うなら、こぶ茶でしょうか」
「おい、何か今物凄く渋い小学生が居た気がするぞ」
「ティオっつったか、お前も一応男だから男子寮だぜ。姉ちゃんにくっついてくんじゃねえぞ」
「そんな素振りを見せたつもりはないけどね。君に言われるまでもなく、それくらいのことは分かっているつもりさ」
「ちぇ、何だよすましやがって。折角友達になってやろうと思ったのによ」
「……ああ、さっきガフカが言っていたことか。随分、素直に言うことを聞くじゃないか」
「ふうん、弟は弟で、随分ひねてやがるな。リッキー、お前の手には負えねえんじゃねえか?」
「うるせえよ、ガーランド。ってか別に、んなこと言われてまで友達になりたくなんかねえし」
「やれやれ……賑やかなことだな。ではセルバン、我々も行くか」
「……そうだな」
「何だ、不満そうに見えるが」
「不満なのさ。男子寮など、清潔なわけがないだろう」
「ふむ、相変わらず潔癖だな」
「中々失礼なことをおっしゃられていますが、我が校の寮は清掃員を入れていますからね。ご想像頂いている程不潔では無いと思いますよ」
「それは失敬、別段アリステル高校に特定して言ったつもりはなかったのですがね。一般的な男子寮についての話でして」
「はは、勿論それは承知しておりますよ」
「ディアス先生も、気になるようでしたら、外で待っていても構いませんが?」
「いや、私は大丈夫だ。これでも運動部の顧問でね……と、ビオラ殿は先刻ご承知だろうが」
「ええ、勿論。次の大会も、楽しみにしておりますよ」
「ビオラ先生は女子寮ですよー、こっちこっち!」
「ああ、分かった、今行こう。ではラウル先生、また後ほど」
「じゃ、俺達も邪魔すっかな。ピエールは、来たの始めてだっけか」
「そうですけど……ということは、オットーさんは以前来たことがあるんですか?」
「うむ、会長――ストックに、試験対策を授かるためにな」
「……他校に進学したっていうのに、そんなことさせていたんですか」
「う、まあ、はは……良いじゃねえか、別に」
「マスター殿も、参りましょう。ここは冷えますぞ」
「そうじゃな、暖かい茶でも貰おうかの。――いや、本当に、今日は随分と冷えるからのう」
そう言うと共にちらりと視線を走らせ、誰に向けるともなくにやりと笑い。そんな老人の動きは賑やかに騒ぎ立てる人々の目に留まることもなく、勿論本人もそれ以上を主張することもなく、流れに紛れて消えてしまう。老人はそのまま、男女それぞれの寮へと向かう人々について、満足げに身体を揺らしながら建物の中へと入っていった。
そして、あれほど騒がしかった空間には誰の姿も居なくなり。新春の静寂を取り戻した空気には、時折建物の中から漏れ聞こえる話し声だけが、微かに響いている。
「――やっと散ったか」
そんな中に、もぞりと現れた影が二つ。
「ふん……人の都合を考えない者どもめ。寒い中座り込む者のことも考えず、長話をしおって」
建物の影となった路地、人々の視線の届かないそこから、二人の人影が這いだしてきた。双方、寒空の下に寒々しい頭皮を晒した、それなりの年齢と見られる男達だ。身なりもそこそこに良い彼らは、土埃で汚れた服を手で払うと、大儀そうに寮の様子を伺う。
「そうは言ってもな、気付いていない相手のことなど、思い遣れる筈が無いだろう。そして気付かれぬように隠れていたのはハイス、お前の都合ではないか?」
「だから自業自得だと言うのか? ふん、そうかもしれんな」
開き直ったようなハイスの言葉に、ヒューゴは不機嫌そうに眉を顰めて、態とらしく手についた泥を払った。狭い路地の中、不自然な姿勢で座り込んでいたせいで、服にも身体にも酷く汚れが付いてしまっている。
「私は隠れる必要など無かったのだがな。全く……こんな冷えたところに押し込みおって、腰痛が悪化したらどうしてくれる」
「ならば出ていけば良かっただろう、大人しく隠れていたということは、見付かることを恐れていたということだ。まあ、それも無理は無いがな、貴様の顔を見たら態度を変えそうな者が、あれほど揃っておれば」
「ハイス」
ヒューゴに台詞を遮られ、ハイスは皮肉げな笑みを浮かべると、膨らんだ胸元をするりと撫でた。
「……ふん。まあいい、少なくとも奴らが再び出てくるまで、身体は伸ばせる」
「まだ続ける気なのか、元気なことだな」
「ほう、ではお前はこれで帰ると?」
「……まさか。我が校の生徒が不祥事を起こさぬか、見張っておかねばならん」
「仕事熱心なことだな、その年で寒さは堪えるだろうに」
「それはお前とて同じこと……ん?」
ヒューゴの視線が、ハイスの胸部へと注がれる。その部分は先程から奇妙に膨らんでいたのだが、見ればそれに加え、何やらもぞもぞと蠢いているではないか。そのあまりの不自然さに、ヒューゴはさすがに目を眇め、問題の箇所をじっと見詰める。
「ハイス、お前それは一体……」
「ちっ、目を覚ましおったか。……気にするな、大したことではない」
「何をいう、明らかにおかしいではないか。何が入っているのだ、見せてみろ」
「気にするなと言っているだろう、こら、勝手に触るな……ぬおっ」
中身を覗き込もうとするヒューゴの動きに、ハイスは当然抵抗するが、蠢く部分を押さえつけながらでは普段の俊敏さの半分も出すことはできない。伸ばされたヒューゴの手が僅かに服を掴み、それによって広がった隙間をさらに押し広げるようにして、中に押し込められていたものがするりと飛び出してきた。
「何をする!」
捕まえ直そうとするハイスの腕をかい潜り、素早く安全圏へと逃げ出したのは、一匹のぶち猫だ。ふぎゃあと愛想の無い鳴き声を上げた猫は、迷惑そうに乱れた毛並を直している。
「ハイス貴様、あのような暖かいものを独占していたのか! 何と卑怯な……!」
「ワシが捕まえたのだから当たり前であろう、お前のおかげで逃げられてしまったではないか、折角の暖房を……!」
「ふん、そうだな、お前が信用などできないのは今更だったな。では改めて私が捕まえよう、それならあれは私のものだ」
「ちっ、小物が。だがそれも捕まえられればの話だ、お前などに遅れは……ああっ」
男二人が騒いでいるのを、自由になった猫は、当然待つことなどするわけがなく。柔らかな身体をしならせ、人の手の届かない塀の上まで飛び上がると、危なげなく着地して彼らを見下ろした。
「ええい、この小癪な猫が! 下りてこい、手が届かぬではないか……!」
「猫に言葉が通じるとでも思っているのか、無駄な呼びかけなど止めて、他の猫を探せば良いだろう」
「お前こそ、野良猫が直ぐに見付かるとでも思っているのか? 現実を知らないにも程があるわ!」
「そのようなことを言っている場合か、このままでは寒すぎるぞ……!」
「ワシが知るか、勝手に防寒具でも何でも買ってくればよかろう!」
ぎゃあぎゃあと、この時ばかりは校長としても体面も何もかなぐり捨てて怒鳴りあう男達を、猫は煩そうに睨みつけている。
建物から響く笑い声と、男二人の罵る声と、北風に運ばれた落ち葉の乾いた音と。
それらが重なり合う混沌は、今年一年の姿を表しているようにも見えたが、それを読み解くものはここにはいない。
唯一全てを客観的に見ていた猫は、人間達の狂騒を、分かっていたのかいないのか。退屈そうに大きなあくびをひとつして、ふにゃあと、気の抜けた鳴き声を響かせていた。





セキゲツ作
2012.01.01 初出

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