彼らは、見詰め合っていた――いや、睨み合っているといったほうが正しいだろうか。その視線に込められた闘志はあまりに強く、見るなどという生易しい言葉では到底追い付かないものなのだから。
日も傾き始めた夕暮れ時、昼間の明るさから夜の闇へと移ろう僅かな時間。誰そ彼時と称される刻限に、ロッシュはストックと向かい合い、鋭い視線をぶつけ合っていた。自他共に認める親友同士である彼らだが、普段の親しげな気配など消えて失せ、代わりに今にも爆ぜんばかりの緊張が2人の間を満たしている。己の尊厳を賭けての勝負、そう言われても納得できる程の真剣さで、彼らは対峙していた。
夕刻の冷たい風が2人に吹き付ける。そのまま、いつまでも続くのではないかとすら思われた沈黙が、ふいに破られた。口火を切ったのは――ストックだ。

「部屋掃除2回」
「高いっ! コロッケ1つにそれは高過ぎだ!」

刃物のように鋭利な気配を崩しもせず発せられた言葉に、すかさずロッシュが反応を返す。彼の目もまた、強靱な槍のような重さと強さを持って、ストックの上に投げつけられていた。
――彼らは真剣だ。例え周囲から向けられる視線がどうあろうと、この上なく真剣に駆け引きを行っていた。
これは取引なのだ、夕飯までの空腹を満たすためのコロッケ、苦学生であり金銭的な余裕の無いロッシュがそれを得るための手段。対価としての労働力をストックに提供し、代わりにコロッケを奢ってもらうこの取引は、彼らの間でよく行われていることだった。肉屋のおばちゃんも、笑いながら学生達のやり取りを見守っている。

「お前な、よく考えろよ。コロッケ1個で部屋掃除2回? ぼったくりもいいとこじゃねえか」

大真面目にロッシュが語るその内容に、耐えきれず主婦らしき婦人が噴き出すが、彼らが気付いた様子は無い。

「文句があるのか?」
「当たり前だ。つーか前は1回だっただろ、何無断で値上げしてんだよ」
「金を出すのは俺だ、ならば当然代価を決めるのも俺であってしかるべきだ。お前に了承を得る必要はない」

動かぬ顔で器用に嘲笑を表現するストックを、ロッシュは剣呑さを増した目で睨みつけた。普通の生徒なら、いや大人であっても度胸の足りぬ者なら震え上がりかねない凶悪な目付きだが、ストックに対して効果を得られるものではない。常から変わらぬ無表情が、この時ばかりは憎たらしく見える。

「俺は条件を提示しているだけだ。受けるかどうかは、お前が決めれば良い」
「くっ……」

ロッシュは苦悩の眼差しを、肉屋の店先に積まれたコロッケに注いだ。この店のコロッケは量が多く、且つ味がしっかり付いてソース無しで食べられるため、近隣でも五指に入る買い食いスポットとしてアリステル高校男子の間で広く知られている。勿論味も良く、粗く潰されほくほく感を増したしたジャガイモと、たっぷり混ぜられた挽き肉の肉汁は、絶妙ともいえる旋律を舌の上で奏でてくれるのだ。加えて今積まれているコロッケは、夕方の買い物客に向けて作られたものであり、つい先ほど揚げ上がったばかり。油の香りをまき散らす、出来立ての熱いコロッケは、一語で言うなら――魅惑。
周囲には微細に飛散した揚げ油が発する蠱惑的な気配が満ちており、空に近い胃袋を切なく刺激してきていた。2人の前でコロッケは次々と売られていく、愛想の良いおばちゃんによって惜しげもなく引き渡されていくそれらを、ロッシュは恨めしげに眺めた。

「どうする?」
「……いや、やっぱ2回は納得できねえ。ぼりすぎだ、1回が良いとこだろ」
「駄目だな、2回だ」
「それなら取引は無しだ、1回に戻せ」
「甘いことを言うな。2回」
「1回!」
「……仕方ないな」

強情に主張するロッシュに、ストックは態とらしく溜息を吐きながら、肩を竦めた。

「便所掃除1回にまけてやろう。これでどうだ」

ストックの提案に、ロッシュの表情が険しくなった。便所掃除といっても部屋のそれではない、寮の共有スペースにある便所の掃除当番を替われと、ストックはそう言っているのだ。数日ごとに行われる共有便所の掃除は、その階層に居住する生徒達を対象に、部屋単位で順繰りに当番を回している。部屋の便所よりも当然数が多く、汚れの度合いも酷いそれらを掃除するのはそれなりの手間で、生徒の間では面倒な義務として筆頭に挙げられるものだった。
その当番を1回、1人で行えというのだ。部屋掃除2回と比べてどちらの労が大きいか、ロッシュは真剣に考え込む。拘束時間は恐らく部屋掃除2回の方が長いだろう、しかし便所掃除は部屋掃除よりも面倒な作業が多く、他人が汚した分を清掃するという事から精神的な疲労も大きい。どちらも一長一短が有り選ぶことは難しいが、しかし敢えてどちらかを選ぶとすれば。
思考を巡らせるロッシュを、ストックは意地悪く見守っている。整った造作であるが故に一層腹の立つその顔を、ロッシュはぎろりと睨み付けた。それでも崩れぬ涼しい無表情にひとつ舌打ちすると、ようやく、固く引き結んでいた口を開く。

「分かった、便所掃除1回。飲もうじゃねえか」
「……物分かりが良いな。よし、ならそれで」
「ただし」

ストックの言葉を抑え込むように、ロッシュが低く声を被せる。

「コロッケじゃなくてメンチカツだ」
「…………」

ストックが口を閉じ、考え込む様子をみせる。メンチカツ。言う間でもなく丸ごと挽き肉100%で作られた種に衣を付けて揚げた食べ物、いわば「ハンバーグのトンカツ」とでも言うべき存在だ。存分に油を吸い上げた衣、それが閉じこめた肉の汁は、食す者の歯によって解放されるのを待ち望んでいる。口の中に満ちる合い挽き肉と揚げ油の舞踏、それを敢えて一語で表すなら――至高。その肉感とカロリーを前にしては、魅惑と思われたコロッケですら霞んで見えた。
だが、至高の味を得るには、相応の代償が必要となる。コロッケ80円、対してメンチカツは120円。コロッケの1.5倍もの金銭を支払わなければ、その高みに触れることは許されないのだ。便所掃除と、メンチカツ。その妥当性について、ストックはしばし沈思黙考し。
そして、ふと唇の端を吊り上げ、笑みに似た表情を作った。

「……分かった、便所掃除1回で、メンチカツだな」
「本当かっ!?」
「ああ。親友の頼みとあらば、譲歩しないわけにはいかないだろう」
「どの口が言うんだよ、それを」

仏頂面で呟くロッシュだったが、兎にも角にも取引は締結されたのだ。納得したことを示してストックが頷き、ロッシュに引き渡す報酬を入手するため、肉屋のカウンターへと足を向ける。

「……コロッケ1つと、メンチカツ1つ」
「はいよ、ちょっと待ってね」

男子学生2人の真剣勝負を見守っていた肉屋のおばちゃんは、呆れ混じりの笑いを浮かべつつも大人の理性で口を噤み、ストックに指定の品物を引き渡した。
袋越しに伝わる暖かさに、ストックの目元が緩む。

「兄ちゃん、大きいの選んであげたからね。しっかり食べなよ」
「おう、ありがとよ、おばちゃん!」

おばちゃんの優しい言葉を受け、ロッシュの表情から、一瞬前までの厳しさが雪のように消えて失せる。その現金さにストックは苦笑しつつ、ロッシュに待望のメンチカツを手渡した。受け取ったロッシュは嬉しげに目を細め、ようやく入手した至高の一品に、早速一口かぶりつく。

「見たかストック、あれが人情ってもんだぞ。お前も見習え」
「人情で部屋は綺麗にならない。便所もな」

ストックもまた、自分のために購入したコロッケを頬張る。彼もまた空腹だったのだろう、口から食道を経由して胃袋へ落ちていく魅惑の味に、猫のように目を細めて満足を示している。

「ったく、親友甲斐の無い奴だぜ。たまには奢ってくれたっていいじゃねえか」
「……そのうちな」
「そのうちが来た覚えが無いんだがなあ。いつ来るんだよ、一体」
「さあな。気が向いたら、だ」

くだらぬ会話を交わす合間に、手にした間食をかじりつつ。肉屋のおばちゃんの暖かい視線を背に受け、学生達は夕日の中、彼らの住処へ帰っていくのだった。




セキゲツ作
2011.10.06 初出

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