埃と、鉄と、錆の臭いがする。
半ば以上が朽ちて崩れた天井からは、傾き始めた光が差し込んで、飛び交う埃の粒を奇妙なほど幻想的に浮かび上がらせていた。
もうずっと前に廃墟になり、何故か今でも取り壊されることなく佇んでいる工場は、アリステル高校から寮へ抜ける近道だ。壊れされた柵から敷地内に進入し、反対側の柵まで真っ直ぐに突っ切れば、大通りを行くより数分速く寮へと辿り着くことが出来る。
勿論、危険な上に不法侵入であることは間違いなく、学校側からは堅く禁止されている行為だ。しかしそれでもこの道を使う生徒は後を絶たない、そしてストックも、そんな学生の中の一人だった。生徒会長という役職にも関わらず堂々と禁則を破る行為は、一部の教師や生徒に知られればそれなりに問題になる筈なのだが、本人そんなことは気になどしていない。危険の高い建物内を敢えて通過しているのも、人目を避けるというよりは、単に内部の雰囲気が好ましいというだけである。
学生靴の下で、瓦礫がじゃり、と音を立てた。そもそもストックが廃工場を通路として使っているのは、通学時間を短縮するのが目的ではない。早起きを厭わず、帰りも急いで帰る必要など無い彼にとって、ほんの数分移動時間が短くなったところでさほどの有り難みは感じられないのだ。では何故、不法侵入の危険を冒してまで禁じられた道を通るのかといえば、それはここに満ちる静けさを目的としてのことだった。学校でも寮でも周囲に騒ぎが満ちている日常の中で、静寂の中に身を置きたくなった時、この場所を訪れるのだ。通学路代わりに使われている屋外はともかく、崩壊の危険がある建物の中に入り込む者は多くない。たまに不良の集団がたまり場にしていることも無いではないが、それも春か秋に限られることだった。外気と変わらぬ温度の上日差しが直に差し込むという厳しい環境とあっては、気候の良い季節でなければ長居したいとは思わないのだろう。夏が終わったばかりの今、工場の中に人気は感じられず、ストックは存分に一人の時間を楽しんでいた。

――その、はずだったが。

誰も居ない、人っ子一人どころか猫の子の気配すらしない空間から、ふいに。

「ストック」

彼の名を呼ぶ声が、響いた。

「…………!?」

一筋の前触れすらないその呼びかけに、ストックは驚いて周囲を見回す。一瞬前まで確かに誰も居なかったはずだ、しかし巡らせた視線の中に現れたのは、紛れもない人間の姿だった。

「久し振りですね、ストック」

鈴を鳴らすような可愛らしい声が、不釣り合いな廃墟に響きわたる。まだ幼いと形容しても不自然ではない少女と少年が、そこに佇んでいた。いつの間に現れたのかという当然の疑問がストックの中に生じる、しかし同時にそれよりも遥かに苛烈な感覚が、突如として彼の思考を切り裂いた。

それは、凄まじいまでの、既視感。

林立したコンクリートの柱、打ち捨てられた場所らしく中途で折れたその断面に、どうやって登ったものか彼らはちょこんと腰掛けている。少女と少年がそれぞれ座る柱、その丁度中心あたりから、長い鉄の階段が伸びていた。それは途中で途切れることなく続き、先にはふたつの扉があり――しかし、それだけだった。上階にあたる部分は年月の侵食を受けて崩れ落ちてしまったのだろう、扉の先にある空間を囲うための壁も、床も、何処にも存在しなくなっていた。
見る者が見れば情緒を感じぬでもない、うら寂しい空間。しかしストックに対しては、それだけで済まぬ奇妙な力を持つ光景だった。
自分は、この光景を、見たことがある。
思考の混乱が生みだした悪戯だったのか、それとも記憶に残らない何処かで本当に似た光景を目にしたことがあるのか。真実は分からない、だが目の前に居る子供達とその間にそびえる階段、林立する柱。全ての要素が、強く強く、ストックの心に訴えかけてきていた。

「……久し振り?」

しかしその思いは、どうしても実在の記憶に結びつかない。少女が発したその言葉にも思い当たることはなく、ストックは眉を顰めて、投げかけられた語をそのまま繰り返す。戸惑いを隠さないストックの態度に、少年が妙に大人びた仕草で肩を竦めた。

「ああ、やっぱり君も覚えていないんだね」
「そのようですね。全く見覚えがない、ということもないようですが」

少女は、整った顔に静謐な無表情を浮かべ、柱の上からストックを見下ろしている。年長者に対して不遜とも思える態度だが、それを感じさせない威厳にも似た何かが、彼らからは感じられた。

「やはりあの世界の記憶を残しているのは、私たちだけということでしょう」
「何の、話だ」

子供達が交わす会話の意味が分からず、ストックは不快げに顔を歪めた。沈着で知られる彼がここまで感情を表に出すのは珍しい、だが彼らは動じた様子も無く、淡々とストックを見下ろしている。

「君が忘れた世界の話さ。僕らと君がかつて居た、あの世界の、ね」
「あるいは最初から、そんな世界など存在しないのかもしれませんが。全てが私たちの作り出した空想だという可能性も、未だ消えてはいません」
「だが、確かに僕たちは覚えている。ストック……君や、君の仲間達が生きて、そして君が救った世界のことを」

世界を救った。ゲームか小説の中でしか聞かないような単語の並びだ、彼ら自身が言っているように、子供のたわいもない想像遊びで使われていると言われてたところで何の不自然もない。いや、その解釈こそが納得出来る唯一のものだろう。

「……何故、俺の名前を知っている」

だがストックは何故か、それを笑い飛ばすことが出来なかった。子供には付き合えないと立ち去るか、あるいは危険な場所に立ち入ったことを大人として注意し、安全な街まで送り届けるか。真っ当な選択肢はいくつもある、しかし彼はそのどれも選ばず、敢えて子供達に問いかけを投げるという道を選んだ。
それがどうしてかは、彼自身にも分からない。

「君のことを知っているからだよ、ストック。君だけじゃない、ロッシュやレイニー、マルコ……君の周りの人間も、君が知らないような相手さえ、僕らは知っている」

少年の口から発せられた学友達の名に、ストックの目付きが鋭くなった。それに構わず、少女が後を引き取る。

「知っている理由を問うというならば、それは私たちにも分かりません。何故私たちだけがあの世界の記憶を残しているのか、そして何故あの世界の住人達が、この世界に揃っているのか。しかも、それぞれの関係性を保ったままで」
「お前達は、何を言っているんだ? 」
「分からないか、そうだろうね。僕たちだって分からない、どうしてこんな世界が存在するのか。そしてどうして、この世界に僕たちが存在するのか」
「そう、それも何の力も持たぬ、ただ一介の子供として」

そう言う少女の表情は、寂しげでもあり、どこか安心しているようにも見えた。見た目の幼さからは考えられない程複雑な色を宿したその顔に、ストックは一瞬言葉を失う。少女、名も知らぬ筈なのに何故か懐かしさに似た心臓の痛みを喚起する彼女は、そんなストックにふと暖かな視線を向けた。

「けれどひとつだけ、確かなことがあります」

子供達の表情は、ストックにも負けぬほど起伏が無く、表情と呼ばれるものを読みとるのに苦労する程だ。しかしそれでも何故か、彼らの思いは、正しくストックには理解できた。

「君はもう、世界を救う必要は無い」

理屈ではなく、心に直接届くようにして、彼らがストックに対して抱く親愛と感謝が伝わってくるのだ。世界を救う、またしても発せられた現代の社会にそぐわぬ語句を、だからストックは笑うことが出来ない。

「歴史をあるべき姿に戻すことも、ニエとしてその命を捧げることも、この世界は必要としていない。君は何の責務も持たない、ただの住人でしかないんだ」
「ただ自らのためにのみ生きて、そして死ぬことが、この世界では許されているのです」
「…………」

年に全く似合わぬ、厳然たる口調で語られる、その真実。それは当然のことを語っているというのに、不思議とストックの心を揺さぶってくる。

「ストック。あなたは、自由です」

託宣のように告げられた言葉に、ストックの心臓がどくりと動き。そして、衝動に突き動かされるようにして、意識せぬまま彼の口が開いた。

「それは」

ストックは彼らを知らない、心の何処かで蠢く何かを感じてはいるが、記憶の中に彼らの姿は存在しない。空想の世界を広げて、訳の分からぬことを勝手に語り続ける子供に付き合う理由など無い、まして返す言葉など何も有りはしないのだ。
なのに、何処か遠くの世界から、彼の身体を通じて響いてくるように。

「お前達も同じ、なのか」

声が、勝手に喉から発せられた。
どうしてそんなことを言ったのか、ストック自身には分からない、分からないのに何故かその言葉に違和感を感じない。少女と少年を真っ直ぐに見据える、視線の先で彼らは、驚いたように目を見開いて。
そして、双子のように揃った動きで、柔らかな笑みを浮かべた。

「そうですね。私たちの責務もまた、この世界には必要の無いものです」
「歴史を繰り返す必要も、ニエたる君を導く必要も無い。僕たちは――自由だ」
「……そうか」

その言葉が何を意味しているのか、やはり理解することは出来なかったが。しかし奇妙に満ちた心で、ストックはそっと頷いた。

「だからストック、取り敢えずはさよならだ。僕たちと君の縁は、この世界では意味を持たない」
「いつかまた、この世界の何処かで会うこともあるかもしれません。ですが」

台詞を切った少女の表情に、一瞬だけ年に相応しい、悪戯っぽい色が浮かぶ。

「出会ったとしても、あなたは気づかないかもしれませんね。子供は、『成長』が速いものですから」
「…………」
「それじゃあね。お互い、自分の人生を精一杯生きよう」
「ええ……頑張ってください、ストック」

その言葉に、ストックが声を返そうとした、瞬間。
朽ちた壁から入る陽光が、直接ストックの目を射た。強烈な光が逆に暗転をもたらす、瞼を伏せてそれをやり過ごし、再び視界が戻った時。

「――……」

そこにもう、子供達は居なかった。何処に消えたものか、座っていた柱にもその下の床にも、小さな身体は見当たらない。ストックは呆然と、林立する柱と瓦礫、そしてこれはさすがに消えもせず伸びている階段と扉を見詰めた。
差し込む光が、埃を幻想的に浮かび上がらせている。脳の芯に痺れに似た何かを覚えて、ストックはただ立ち尽くしていた。

「……おい、ストック!」

その背後から、ふいに声がかけられる。びくりと身を震わせて振り向くと、そこには見慣れた親友の姿があった。

「先に帰ったって聞いたから、こっちかと思って来てみたんだが……どうした?」

怪訝な表情をしたロッシュの視線を、ぼんやりと見返す。急激に現れた日常に思考を対応させることが出来ないストックを、ロッシュは心配そうに見詰めた。

「随分ぼーっとしてるが、調子でも悪いのか? さっさと部屋に」
「……子供が、居たんだ」
「は、子供?」

唐突な単語に目を丸くするロッシュに、ストックは頷いてみせる。

「子供だ。男女一人ずつ」
「そりゃよくねえな、ガキにゃここは危なすぎる。怪我でもしたら大事だ」
「……そうだな。だが、もう出ていったようだ」
「そうか……そんなら良いが、また柵の補修が入るかな」
「……そうだな」

何処か焦点のずれた声のストックを、ロッシュはまた気遣わしげに見た。そして、今度は言葉よりも行動と思ったのかどうか、ストックを促して足を踏み出す。

「まあ、とにかく帰ろうぜ。そろそろ日も暮れる」
「……ああ」

ストックもそれに従い、ロッシュの横に並んで歩きだした。2人の靴の下で、瓦礫がじゃりじゃりと音を立てる。

「ロッシュ」
「ん、どうした?」

外に出るとロッシュの言葉通り、既に日が傾き始めていた。血を溶かしたような夕日が差し、全てのものを赤く染め抜いている。

「俺は、自由なんだそうだ」
「……は?」

あまりにも唐突なストックの発言に、ロッシュがまた目を丸くした。説明を促す視線を感じるが、ストックは敢えてそれに応えず、周囲を見渡す。
猥雑で騒がしい、悩みも問題も苦労も数限りなく存在する、生きるのに楽とはとても言えない世界。それでも確かに、この世界はストックが何ひとつ働きかけることをしなかったとしても、滅びることはなく続いていくのだ。黙り込んだストックに何を感じたのか、ロッシュも言葉を切って視線をさまよわせている。どちらからともなく足が止まり、2人は並んで立ち尽くした。ストックはロッシュを見る、そしてふと突き上げる衝動を感じて、親友の左手を握りしめた。

「……ストック?」

白いシャツを纏った親友は、夕日に照らされ、真紅の衣装を纏っているように見える。彼の目に映るストックも同様の姿をしていることだろう、ロッシュは何も言わず、されるがままにストックに左手を預けていた。ストックの手の中にある大きく分厚い手、そしてそれを身体に繋ぐ太い腕。右手と対になる肉体の一部、それがそこに存在することに、何故か泣きたくなるほど心が騒ぐのを感じる。

「…………」

どちらも言葉を発することが出来ず、赤く染まった姿で、ただ見詰め合っていた。心の何処かに存在する確かな懐かしさを感じながら、ただ互いがそこに存在することを確かめるように、触れ合った手で体温を分け合う。
日が完全に落ちて、辺りが闇に包まれるまで。
2人はじっと、そこに立ち尽くしていた。



セキゲツ作
2011.10.02 初出

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