室内に至る前の廊下で、ストックはラウルと鉢合った。焦った様子の彼も、恐らくはストックと同じ理由で、この地下研究所に駆けつけたのだろう。目線で意志を確認し、無言のまま頷き合うと、指定された部屋へと向かう。彼らがここにやってきたのは、つい先程もたらされた伝言が理由だ。研究員が直接執務棟へとやってきて、火急と強調されて伝えられた、ソニアからの知らせ。
「一体、何が起こったんだい?」
「いや……俺も、何も知らない」
 ラウルの問いかけに、ストックは厳しい顔で首を振って応える。言伝られた知らせはとても端的で、情報量も極少ない。ほんの一文で事足りるそれが、ストックの脳裏に再生される。
「ロッシュが大変だ、直ぐに来てくれと。それしか分からない」
「そうか……それじゃ、僕と一緒だね」
 ラウルもまた、ストックと同様の渋面を浮かべている。ロッシュは今日、遠征も演習も無く、平穏に城の中で仕事をしている予定だ。戦いで怪我をする機会など無い筈で、かといって誰かが大怪我を負うほどの事故があったとも聞かない。そもそもいくら大きいとはいえ、怪我をして直ぐの段階で、内密に首相を呼び出すなど有り得ない話だ。ならば一体何が起こっているのか、状況の見えない不安さに、ストックは小さく舌打ちをした。
 ともかくまずは何が起こったか確かめることだと、そう考えたところで、ソニアが指定した部屋に辿り着く。普段彼女が使っている研究室よりも、随分と下層の場所だ。周囲に人の気配が感じられないのは、既に人払いがされているのか、それとも元々訪れる者も少ないのか。考えながらストックは扉を叩き、中の様子を伺った。
「……ソニア、居るか」
 直ぐに応えが返り、数秒の後に扉が開かれる。顔を出した親友は、しかし常よりも明らかに青ざめた顔色をしていた。彼女が大きく扉を開くと、ストック達の目にも、中の様子が明らかになる。研究所らしく雑然と置かれた装置の中で、一際目立つ大きな一つが、何故か明らかに壊れた様子で黒煙を立ち上らせていた。一体何の装置なのか、一瞬だけ思考を逸らしたストックの腕をソニアが掴み、室内へと引き入れる。
「ストック、首相、こちらへ。あなたたちはすいませんが、外で見張りをお願いします」
 入れ替わりのように、数人の研究員達が外に出ていく。装置に気を取られていたが、部屋の中には随分と大勢の人間が居たようだ。多くは研究員の服装をしているが、どうやら軍属の者も混じっているらしい。一体何があったものか、兵達は研究員らしき男を一人、きつく押さえつけている。
「ソニア先生、こいつはどうしましょう」
「そうですね、まずは牢に。落ち着いたら、情報を聞き出さないといけません」
「分かりました。ソニア先生も、その……お気をつけて」
「有り難う、でも私は大丈夫です」
 毅然と言い切る口調は、彼女が意識して気を落ち着かせている時のものだと、ストックは知っている。心配そうなストックの視線にも気付かない様子で、ソニアは連れ出される男を凝視していた。
 やがて、立ち動いていた者達が全て出ていき、部屋に静寂が訪れる。重い沈黙の中、ストックは改めて室内を見回した。ここで何かがあったのだろう、非常事態に類する何かが起きて、ソニアはストックとラウルを呼びだした。そして伝言によれば、起こったのはロッシュに関することだ。
「すいません、突然呼びつけてしまって」
 ソニアの声が響き、ストックは視線を彼女へと戻す。だがその一瞬で、視界に気になるものを捕らえていた。装置の脇に置かれた、布に包まれた塊。
「構わないよ、それより一体何があったんだい? ロッシュに何かあったとしか聞いていないんだけど……それに、この部屋は一体」
「そうなんです、ロッシュが大変なことになって」
 ラウルの言葉に、ソニアが肩を震わせる。無意識に組み合わされた手には、指の関節が白くなるまで、力が篭められてしまっている。混乱し、そしてそれを抑えようと必死になっているのだろう。落ち着け、とストックが声を掛ける。
「大変なこと、とは一体何だ? 何か大きな怪我でもしたのか」
 部屋の中に、血の痕は無い。争いでもあったのか物品は壊れて散乱しているが、少なくとも大きな怪我人が転がっていた痕跡は見られない。上階の医療部を通り過ぎた時も、特に騒ぎが起きている気配は感じられなかった。怪我という可能性には違和感を覚えると、そこまでを考えたストックの目の端で、装置脇の塊が微かに動く。よく見れば、包まれた布の端から零れるのは、薄い金色の毛髪だ。
「違います……いえ、そうかも。正直、何が起こったかよく分からないんです」
「分からない? どういうことだい」
 ラウルが発した当然の疑問に、ソニアは途方に暮れた様子で首を振った。これ程狼狽えている彼女を見るのは、かつての歴史で、ロッシュが死に瀕する怪我を負った時以来だ。ストックの背に冷たい汗が流れ、最悪の想像が過っては打ち消された。
「ロッシュが、その、信じてもらえないかもしれないんですが」
 ソニアがちらりと、布をかけられた塊を見た。ラウルもその存在には気付いていたのだろう、ソニアにつられてそれを見る。端から見える金色は、ロッシュの髪と似ているが、塊の大きさは彼の身体に対して相当に小さい。いや、普通の人間に対しても、小さいもののように感じられた。
「……端的に言います。ロッシュの姿が変わってしまったんです」
「変わった? って、どんな風に」
「それは、その……信じていただけるか分かりませんが」
 塊は転がったまま動かない。いや、よくよく見れば、かけられた布の上辺がほんの僅かに上下している。ゆっくりとしたその動きを、ストックは凝視した。動作の感覚と振幅は、人間の呼吸によく似ている。布の下に誰かが居て、横たわったままゆっくりと息をしているような動きだ。その動きと、ソニアの言葉。ストックの頭にひとつの連想が浮かぶ。
「ソニア。あれは、ひょっとして」
 その発想は、あまりに突飛なものだ。だがストックは、それを笑い飛ばしてしまうことが出来なかった。いや、正しくは、笑い飛ばすに至るまで思考を巡らせることができなかった。浮かんだ連想は、考えの膜を通すことなく、口から滑り落ちてしまう。
「ロッシュか? あれは……ロッシュなのか?」
 ラウルの顔に、疑問の色が浮かぶ。ストックも、自分で言葉を発していながら、同じような疑問符を顔に張り付かせている。
 そんな男二人を前にして、ソニアだけは、疑問も迷いも無い表情を保っていた。困惑に彩られた、だが決然とした様子で、その頭が縦に振られる。
 その様子をストックは、呆然と見詰めていた。



――――――



「――何から話したものか、迷うんですが」
 まずは落ち着いて話を聞こう、というラウルの提案の元、三人は椅子に座って額を突き合わせていた。乱雑な部屋だが、取り敢えず一通りの備品はある。寝かされたロッシュの脇に椅子を移動させ、腰を下ろしたソニアの口からは、深い溜息が零れていた。その次の息から紡がれ始めた言葉に、男二人は耳を傾ける。
「出来る限り最初から頼む。俺達は、本当に何も知らされていないんだ」
「そう……そうですね、分かりました」
 ストックの要請に、ソニアも頷いて応えた。数秒、沈黙と共に思考を巡らせた後、改めて口を開く。
「事の始まりは、研究所で、無許可の研究が続いているのが発覚したことです。ご存じかと思いますが、研究所では今、扱える事柄を厳しく制限されています。戦中に行われていた研究も、不要とされたものは全て続行を禁止され、特に戦いに関するものはこれまでの結果すらも破棄されました」
「ああ、把握しているよ。同盟締結直後に行われている筈だね」
 アリステルで行われていた魔動工学の研究は、グランオルグと恒常的な緊張状態にある都合から、その多くが戦争に関わるものだった。しかし戦争が終わった今、それらの続行は限りあるマナを浪費し、さらには他国の感情を逆撫でる悪因ともなる。そのため、不要な研究は全て中止され、設備も人員も『平和的』な研究へと移行されている筈だった。
「はい、ですがその処理を逃れて、ヒューゴが私的に行わせていた研究が残っていたのです。軍を通さず、秘密利に進められていたため、今まで気付かれずに続いていたものが」
「そんなものが……一体、どうやって予算を都合していたやら」
「他の研究予算の一部がそこに渡るように、予め手配されていました。経理部が気付いて調査を始め、今回その存在が発覚したんです」
 他国に比べて圧倒的に不足した国力を補うため、各部署で進められている徹底した合理化が、思わぬ秘密を探り当ててくれたらしい。かの部署とは常から厳しくやり合っている二人は、微妙に複雑な感情を浮かべつつ、頷いて先を促す。
「厳重に秘された研究だったらしく、資料を当たっても、一切詳細が分かりません。ただ、備品の流れから使われている場所だけは判明したため、私達が直接乗り込んで調査することになりました」
「君達、とは?」
「研究員とその補佐で構成された調査チーム、それに軍に要請した護衛です。内容が分からなくとも、ヒューゴが命じた研究ですから、危険なものである可能性は高いと判断しまして」
「ああ、それはその通りだ。……その中に、ロッシュが居たんだな」
「はい。まさか、あの人が来るとは思っていなかったんですけど」
 ソニアの困惑ももっともである、彼は今やアリステル軍の片翼を担う将軍なのだ。城内における研究者の護衛任務など、言ってしまえば小規模な作戦に、態々出てくると考える筈も無い。公私混同かな、とラウルが笑うが、それもあながち間違ってはいないだろう。彼はヒューゴの危険性をよく理解している、ストックがロッシュ隊に居た歴史では、彼が作らせた装置に何度も苦渋を舐めさせられてきた。恐らくこちらの歴史でも似たようなことは起こっていただろう、そのヒューゴが残した研究を妻が調査すると聞き、じっとしていられなかったに違いない。
「ともかく私達は調査のため、その研究が進められている部屋を訪れました」
「それがここか」
「はい。……私達が訪れた時、この部屋には丁度研究員が一人残っていて」
 改めて部屋を見渡さずとも、部屋全体が荒れているのは分かる。何かしらの争いがここで起こり、そしてその結果。
「その人は、私達の目的を察しているようでした。最初から抵抗し、そして――その装置を、作動させたんです」
 ソニアが指し示したのは勿論、破損した大きな装置だ。魔動工学に詳しくないストックでは、それが何を起こすものなのか、見ただけで分かる筈も無い。それよりも、装置に目を向けたことで否応無く視界に入る、小さなロッシュの姿の方が胸に刺さる。
「それで、ロッシュが……」
「はい。恐らく実際に使うつもりはなく、威嚇だけのつもりだったのでしょう。でも、装置は未完成で、まともに制御することが出来なかった」
 得体の知れない力を持った装置が暴走し、周囲の者達が危険に晒されている。そんな状況で前に出ないロッシュではない、その中に大切な妻が居るのであれば、特に。
「光で目が眩んでしまったから、その時実際に何が起こったのかは分かりません。ロッシュは皆を庇う位置に居たから、装置の力に直撃されてしまったんだと思います。視力が戻った時、ロッシュの姿が無くて」
 その時の恐怖を思い出したのか、ソニアの声が震えた。膝の上で組まれた指が白くなるほど、力が篭められている。ストックはまた、ロッシュの姿を見た。髪だけ零して彼を包んでいる布が、僅かに揺れている。
「ロッシュが立っていた場所に、子供が一人、倒れていました。ロッシュと、よく似た子供が」
「成る程、それが、そこに寝ている彼か」
 長い話を終えたソニアは、深い溜息を吐き出した。彼女は強い女性だ、だがそれでも、唐突に起こった異常事態に心身共に疲弊してしまっているのだろう。無意識にロッシュを見て、また逸らす。
「彼がロッシュである確信は、どこで得たんだい? 僕はまだ顔を見ていないけど、あるいは全く関係のない、顔が似ているだけの子供と入れ替わった可能性もあるんじゃないか」
「いえ、首相がいらっしゃるのを待つ間に、研究の概要を調べました。資料をざっと読んで、研究員から話を聞いただけですから、詳しいところまでは分かりませんが」
 言われてみれば、壁際の棚の前には、抜き出されたであろう文書や書類が乱雑に積み上げられている。部屋全体が荒れているから気付かなかったが、あれは争いの影響ではなく、ソニア達が急遽調査を行った痕跡だったのだ。
「ヒューゴが命じていたのは、時を操る研究だったようなんです」
「時を?」
「はい。自分自身の時を操り、永遠の時を生きる。それが、研究の最終目標だったと思われます」
「……ああ。成る程な」
 その説明を聞いたストックは、かつての戦いで見た魔人の姿を思い出す。魔剣の力を取り込んだヒューゴは、確かにそれと似た力を操っていた。あれを魔動工学の力で安定して再現するための研究が、ここで行われていたのだろう。
「永遠の命か。権力者なら誰もが辿り着く夢かもしれないけど、まさか本当に研究させるとはね」
「何か、きっかけがあったようですね。資料によれば、大きな力を持つ道具が手に入り、それを解析するうちにこの目的に辿り着いたとあります」
「だがそれは結局完成しなかった」
「はい、完全には」
 ストックの発言に、態々条件を付け加えたソニアが何を言いたいのか、他の二人にも理解はできる。不完全ながらも作り上げられた機械の暴走で、ロッシュは本来の姿を奪われてしまっているのだ。ラウルなどは、まだ少し疑わしげな表情をしているが、ストックは既にあれがロッシュだと信じている。ヒューゴが用いていた恐るべき力、あの時は僅かに時を戻して傷を消す程度だったが、それが暴走したとなれば何が起こっても不思議ではない。
「……戻す方法は、あるのか?」
 そして核心に切り込んだその言葉に、ソニアがまたぶるりと震えた。その反応だけで、口に出さずとも答えは分かる。
「研究は、不完全なものでした。装置も壊れてしまって」
「あれは、君達が壊したわけじゃないんだね」
「はい。大きすぎるマナの圧力に耐えきれなかったのでしょう、力が収まった時には、もう今の状態になっていました」
「もう一度作ることは、出来ないのか」
「まだ分かりません。あの研究者と、他に関わっていたものも拘束して、詳しく聞き出さないと」
「可能だとしても、直ぐには無理か。その間、ロッシュはあのまま――」
 ラウルが視線を遣る。嫌な静寂が、室内に満ちた。
「彼、記憶はどうなんだろうね」
 それを嫌ってか、ぽつりとラウルが呟いた言葉に、ソニアが顔を上げる。痛々しい程に青ざめているが、それでも瞳の力は消えていない。
「まだ分かりません。ずっと、意識が戻らないままですから」
「そうか……」
「ロッシュが起きたら、そこから調べていかないと。……忙しく、なります」
 ふ、と浮かべた笑みは、ぎこなく固まったものだったが、それでも彼女の決意だ。妻であり母でもある彼女は、男達が思うよりも、ずっと強い。親友の笑顔を前に、ストックは無言で瞼を瞬かせた。ラウルは、ソニアに合わせるようにして表情を動かし、笑みを作ってみせる。
「分かった、大体状況は把握したよ。僕達を呼んでくれて良かった、後手にならずに対応が取れる」
 さすがに政治家だけあり、その笑顔は一見自然に見えた。そして、追いつめられた状況では、形だけでも笑顔を浮かべるのは、有効なことだ。ラウルの笑みに、ソニアも少しは落ち着いたのか、肩から力が抜けるのが見て取れる。
「それじゃあまずは、ロッシュを移動させないと。目が覚めないにしても、もう少しちゃんとしたところで寝かせてやった方が良い」
「そうですね。医療部に部屋を借りましょう」
「ああ。研究所に近い部屋が良いだろうね」
 いっそ研究所の中でも、と呟いたラウルが考えているのは、情報漏洩の危険だろう。アリステル軍の片翼を担う将軍が子供に戻っているなど、他の誰かに知られるわけにはいかない、研究所ならば立ち入りの制限は容易だ。ソニアも同意して頷く、しかしストックは、難しい表情で首を横に振った。
「その必要は無い」
 視線は真っ直ぐ、布に覆われた小さな身体へと注がれている。かぶせられた僅か程にも動いていないが、かえってそれは不自然だった。先程までは見られた呼吸の上下や、眠っていても生じる身じろぎすら、そこには存在しないのだから。つまりそれは、意識して動きを制限していることに他ならず。
「起きているんだろう、ロッシュ」
 ラウルとソニアが、驚きを顔に浮かべる。三人分、六本の視線を受けたロッシュは、しかしまだ動かない。ラウルが疑問符を浮かべて、ストックを横目で見た。ストックはひょいと肩を竦めると、ロッシュ、ともう一度声をかける。それでも布が動かないのを確認すると、今度は言葉でなく、がたりと椅子を動かした。
 ――瞬間、ロッシュが跳ね起きる。
 ソニアが息を呑み、ラウルが音を立てて立ち上がるその隙に、ロッシュは跳んだ勢いのまま大きく後退する。彼を包んでいた布が翻り、一瞬大人達の視線を遮った。
「ロッシュ!」
 叫んだのはソニアだ、突然の動きに恐慌を起こし掛けた彼女を、ストックの腕が制する。片手で布を掴み、床に投げ捨てながら、目線でロッシュの姿を探した。
「……ああ」
 果たして彼は、そこに留まっていた。いや、それは望んでのことではなく、単に逃げた方向が部屋の奥だっただけに過ぎないのかもしれないが。壁を背にして立つロッシュを、ストックは見詰める。その身体は、ソニアが言った通りに、酷く小さくなっていた。年の頃は九つか十か、背は高いが手足は細く、骨ばった身体を襤褸のような汚れた服が覆っている。鋭い目付きと引き結ばれた唇は、今のロッシュと同じもので、かえってそれが違和感の元になっていた。
 ロッシュのようだが、ロッシュでない。少なくとも、彼らの知っている獅子将軍の姿は、そこに無かった。だが同時に、彼は間違いなくロッシュなのだという、本能めいた確信も沸き上がってくる。
「ロッシュ。あなた」
 躊躇いがちに、ソニアが声をかけた。ロッシュは応えない、薄青い目だけを動かして、周囲を眺めている。ソニアが唾液を飲み下す音が、微かに響いた。
「……私のことが、分かりますか」
 問われてもやはり、ロッシュに動きはない。全く何の反応も見せない表情は、それ自身で今の彼がどんな状態にあるか、雄弁に語っていた。例え身体に何が起こっていようと、愛妻家の彼が、妻が発する必死の訴えかけに応えないわけがない。それが無反応ということは、彼の中に今、ソニアの記憶は無いのだ。ソニアの表情に、痛々しい程の悲哀が浮かんだ。
「僕のことも分からないかな。一応、君の上司なんだけど」
 それを慮ってか、庇うように前に出たラウルが、殊更親しげに話しかける。やはり応えは無い。一言も、表情すらも動かさずに、小さなロッシュは大人達を見詰めている。小さな子供が作るには、落ち着きすぎた無表情は、彼のそれが仮面なのではないかという奇妙な錯覚を抱かせた。捕まえて表面を剥がしてしまえば、そこからよく知ったロッシュが出てくるのではないかと。
「ロッシュ」
 戯れ言だ。触れて確認する間でもなく、そんなことは有り得ないと分かっている。ストックの中に親友の存在を求める心があり、同時に目の前の子供がロッシュであるという感覚があるから、そんな埒もない思考が発生してしまうのだろう。ぐるりと回る思考を振り飛ばし、ストックはロッシュに声をかける。
「自分のことは分かるか。自分が、誰なのか」
 ロッシュはやはり反応せず、唇を引き結んで鋭い視線を飛ばすだけだ。しかしその目は、先程までとは違い、動かされることなく真っ直ぐにストックに注がれていた。それに気付いたソニアが、ストックとロッシュの顔を、交互に見遣る。
 沈黙が落ちた。四人の発する僅かな呼吸音だけが、部屋の中に響いている。やがて、無反応を無視と判断してか、ス再度呼びかけようとストックが口を開き。
「さっきから」
 だが、それを塞ぐように、声が響く。高く、細い、子供だけが持てる声。
「あんた達が呼んでるだろ。散々」
 聞き慣れぬ声で喋るロッシュは、やはり無表情だ。見慣れた親しい色の、だが全く見覚えのない瞳に見据えられ、ストックは密かに心臓を震わせた。だが動揺は表に出ない、それは情報部員としての経歴よりも、彼自身の性質が故のことだ。外見から彼の内心は推し量れず、傍から見れば、二人は無感動に向き合っているのみに見えただろう。
「ロッシュ」
「そう」
「……それが自分の名だと、分かっているか」
 問いかけられたロッシュは、ようやく少しだけ顔を動かし、不思議そうな表情を作った。ストックが何を言っているのか分からないのだろう、つまり彼の記憶は、間違いなく確かだということだ。ただ、彼が持つそれは、ストック達と同じ時間を持っていない。
「なら、ここが何処かは、分かるか」
 重ねての問いには、再び警戒の無表情が返る。その意味を取りかねて、ストックはロッシュを見詰めた。言葉で説明してくれる気は、どうやらロッシュの側には無いらしい。強い警戒は感じられるのだが、それが応と否のどちらを示すのか、ストックには分からなかった。
「あんた、何もんだよ」
 凝視に焦れたのか、唐突にロッシュが口を開いた。発せられた言葉に、ストックは一瞬息を呑む。投げられた問いに、返す言葉はひとつだ。だがそれを今のロッシュが信じるか。
 いや、この問いだけではない。これから語るべき全てのことを、ロッシュは信じてくれるのか。
「……俺は、俺が、何者か」
 今のロッシュには、彼らの記憶が無い。ここに居る三人だけでなく、大人になってから関わった多くの人たち、そして経験した事象についての記憶が、丸ごと消失してしまっている。そんな状態で、ストック達ですら信じ難かった事件を、信じられるものか。ストックは表情を動かさぬまま、小さく一歩前に出た。
「説明することができる。だが、恐らくお前は、それを信じない」
 接近に反応し、ロッシュもまた僅かに後退る。追い詰められた小動物のような動作だが、瞳の鋭さが、その印象を裏切っていた。
「にわかには信じ難い、突飛な話だ。今、俺が真実を話しても、お前はそれを笑い飛ばすだろう」
 ソニアとラウルは、もはや動くことも出来ずに、ストック達二人の動きを見守っていた。ソニアはぎゅっと手を握り、それを庇う位置のラウルは、何かがあれば動けるように身構えている。彼らに背を向けたまま、ストックはまた、一歩を踏み出した。
「だが、俺は嘘は言わない。話を始める前に、それをお前に信じてもらわなければいけない」
 ロッシュの視線が、ストックを深く刺していた。それお受け止めながら、ストックはさらにもう一歩進み、懐に手を入れる。そこから取り出されたもの、革張りの鞘に納められた短剣を目にした瞬間、ロッシュがまた大きく跳び退いた。
 だがストックは、それを無視して短剣を床に置き、ロッシュの方へと滑らせる。細い音を立てて床を移動した短剣は、過たずロッシュの方向へと進み、散らばった障害物に当たって停止した。警戒の目で睨み付けるロッシュに笑いかけると、ストックは一歩、後ろに下がった。
「ロッシュ、それをお前に渡しておく」
 ストックが完全に短剣から離れ、近寄る気配を見せないのを確認すると、ロッシュはじわりと短剣に身体を寄せる。ストックは動かない、その隙に素早く床の刃物を拾い上げると、獣のような素早さで再び距離を取った。
 少年となったロッシュの手の中に収まると、その小さな刃物は、本来の大きさよりも余程大きいもののように感じられる。大人に向けられて作られているために、今の彼には少々太すぎる柄を掴み、ロッシュは短剣を鞘から抜き放った。銀に光る刃は、戦いから離れても戦いを忘れぬストックによって、未だに鋭く研ぎあげられている。ロッシュは見た目でそれを悟り、険しかった表情をさらにきつく引き締めた。
「これから先、俺がお前を騙していると感じたら。俺が、お前の敵だと思ったなら」
 ストックが一歩、ロッシュに近づく。距離を取られるのは構わず、一歩、また一歩と。そうして数歩の距離だけ、元居た場所から離れると、その場に片膝を付いた。
「その剣で、俺を殺して構わない」
 高さを合わせた故に、より真っ直ぐと投げられるストックの視線に、ロッシュは微かに眉を顰める。ストック、とソニアが声を上げたが、その先はラウルによって制止された。とはいえラウルも、常には無い困惑と焦燥を、その顔に浮かべている。物問いたげな目線を感じながら、ストックは何も言うことはなく、ただロッシュだけを見ていた。
 ロッシュは、大人達の動揺をどう思ったものか。抜き身の短剣とストックの顔とを交互に見遣っていたが、やがて徐に刃の先端を己の指に押し当てた。ほんの僅か滑らせただけで滲んだ赤い滴を見て、そして己の身で確かに感じた痛みで、その刃物が本物だと確信したのだろう。柄を握り直すと、一度それを鞘に戻し、改めてストックを見る。ストックは膝を付いた低い姿勢のまま、静かにそこで待ち続けていた。沈黙が落ちる、だがふいに。
 床を叩く音が響いた――ロッシュが動く音だ。低く、子供とは思えぬ速度で飛び出し、滑るようにストックに近づく。瞬きの中で、銀色の光が閃いた、そして。
 ソニアの上げた短い悲鳴が、空間を裂く。ロッシュは、与えられたばかりの短剣を握り、その刃をストックの首筋に押し当てていた。ぴたりと、皮の外面に触れる刃に、しかしストックは動じることはしない。ロッシュと視線を合わせ、投げ出すような無抵抗のまま、子供の振るう刃を受け入れている。
「ロッシュ! あなたたち」
「ソニアさん。ここは、ストックに任せよう」
 混乱で叫び声を上げるソニアを止めたおは、やはりラウルだ。彼自身も緊張した様子だが、それでも部下達を信じる気持ちは残っているのか、ソニアを制止して自らも動くことを耐えている。ストックに向ける視線は、意識してかどうか、縋るような色が混じっていた。
 だがそれを後目に、当の二人は身じろぎもせず、見詰め合って固まったままだ。いくらロッシュと言えど今は子供、大人の力に敵うはずもないのだから、取り押さえるのは容易な筈である。だがストックはそれをしない、鋭い刃に急所を晒したまま、柔らかな表情でロッシュを見ていた。
「殺せないと、思ってんの?」
 ロッシュが口を開く。挑発的という以上に攻撃的な、そして子供らしい無謀さを滲ませた台詞に、ストックは微笑みを深くした。
「いいや。必要ならお前は、このまま俺の喉を掻き斬るだろう」
 僅かだけ刃が動き、ストックの皮膚を斬り、肉に沈む。それは本当に浅いものだったが、熱い血が流れ出す口を作るには、それで十分だ。ぷくりと血の球が膨れ、刃を伝って柄に至る、それでもストックは退かない。彫像の如く動かず、命をなげうつに等しい態度のストックに、ロッシュの眉が顰められた。
「だが、俺はお前を信じる。お前が俺を殺さないと信じる、だから」
 声を発する旅に喉が動き、刃に触れた肉から新たな血が垂れる。ロッシュはそれを、じっと見詰めている。
「お前も、俺を信じて欲しい。あまりにも荒唐無稽で、とても信じられた話では無いかもしれないが、それでも信じて欲しい。俺はお前に嘘を吐かない、必ず、真実を語ると」
 ロッシュの手がまた動き、短剣が後ろに引かれた。首に食い込んでいた刃が離れ、白い皮膚に一筋、紅が垂れる。短剣の側にもまた、血の痕は残っていた。ストックはそれら全てを無視して、ただロッシュだけを見ている。ロッシュもまた真っ直ぐに、己に向けて命を投げ出した男を、見返した。
「ロッシュ」
 繰り返し呼ばれる己の名に何を感じたのか。ロッシュは数度目を瞬かせ、そして何を思ったか、唐突に短剣を振り上げた。ソニアの息が呑まれる。ストックの視線は動かない。ロッシュは眉ひとつ動かさぬまま、鋭い勢いで剣を振り下ろし。
 切っ先が、ストックの眉間でぴたりと止まった。ほんの僅かにも身じろがず、刃の下に止まっていた男を、ロッシュが見る。その口が微かに動き、少しの迷いの末に、皮肉げな笑みの形に変化した。
「あんた、おかしいな」
「そうか?」
「殺されるかもしれないのに。何がしたいんだよ、一体」
「言っただろう。お前に、俺のことを信じて欲しい」
 小さくはあるが、死をもたらすに足る刃を前にして、それは確かに不可思議な発言ではあった。いつでも状況を覆せる余裕というわけでもない。垂らされたまま力の入らなかった腕は、逃げるつもりも避けるつもりも無かったことを、ロッシュに伝えている。
「俺がお前のこと信じたら、どうなんのさ。俺は、ただのガキだぜ」
「俺にとってはそうじゃない」
 ただの子供でなど、ある筈が無い。例え身体が幼くなろうとも、戦う力が無くなろうとも、あるいは共に過ごした記憶を持たずとも。どんな状態になろうと、ストックにとって、ロッシュはロッシュだ。
「何だよ。……あんた、一体何者だよ」
 その思いが、ロッシュの側にも伝わったのかどうか。警戒とは違う、不思議と静かな口調で投げられた問いに、ストックの魂がざわめく。
「お前の、親友だ」
 そして提示された唯一の答えに、ロッシュは目を瞬かせた。数秒間の沈黙が流れる、その間もストックは、ロッシュを見詰め続けている。幼い顔に様々な感情が過り、それらに名を付ける前に、にやりと唇が歪められた。
「ワケわかんねえな」
 言葉と共に、短剣が下ろされる。服の端で刀身の血を拭うと、ロッシュはそれを鞘に納めた。緊張が解けたのか、ソニアがその場にへたりこむ。ストックはそれを、気遣わしげに見遣る。
「俺はあんたのこと全然知らないんだけど。つーか、あんたの方が全然年上なんだけど」
 何でそれで親友なんだよ。ぼやきながらも、ロッシュにはこれ以上刃物を振り回すつもりは無いようだった。服の端で血を拭うと、刃を鞘に納める。ストックが視線を前に戻すと、ロッシュの薄青い瞳が、ストックをじっと見ていた。その光が、記憶の内に残った親友のそれと重なり、ストックの顔に笑みが浮かぶ。
「それも説明する。信じられなかったら」
「刺しても良いってんだろ。一回言えば分かるって」
 ひとつ歩を進め、ロッシュがストックに近寄る。小さな、だが子供にしては節の太い手が、ストックの首筋に伸ばされた。自らが付けた傷の上に指を這わせ、塞ぐようにして手を押しつける。
「良いよ、信じる。あんたの命の分だけ、俺はあんたを信じてやるよ」
 浅い傷だ、血は既に止まっていたが、拭われぬまま垂れていた血がロッシュの指を汚してしまう。ストックはふっとその手を取り、自らの掌で包み込んだ。大人の大きさで身体の一部を掴まれ、ロッシュが目を見開く。
「有り難う、ロッシュ」
「な、何だよ。別に俺、何もしてねえんだけど」
「いいや、信じてくれた」
 記憶が無くとも、共に過ごした時間が失われていても、それでもロッシュが信じてくれた。それは、ストックにとっては大きな出来事だが、それを今のロッシュが理解できる筈も無い。ばつの悪そうな表情で顔を背けるロッシュが、誤魔化すように短剣をストックに突き出した。勿論鞘には入ったままだ、持ち主に返却するつもりだったのだろうが、ストックはそれを受け取ることなく退けた。
「そのまま持っていろ。何か、役に立つこともあるかもしれない」
「へ? んでも、これ結構高そうだぜ」
 一体何を気にしているのかと、苦笑するストックが再度短剣を押すと、口を尖らせながら懐に収める。良いのかよ、とぶつぶつ呟くロッシュの手を握ったまま、ストックはすっと立ち上がった。
「……説明するにしても、この場所では落ち着かないな。ソニア、何処か人目に付かない部屋は用意できるか」
「あ、え、はい。そうですね、それでしたら研究所の会議室を使いましょう」
「ああ、それはいい、ついでに紅茶か何かを用意させよう。僕達も一息吐いた方が良い、というか一息吐かないと保たないよ」
 疲れた様子でラウルが溜息を吐く、その様子をロッシュはやはり無感動に眺めている。ストックに対して心を開いたとはいえ、周囲自体に対する警戒を解いたわけでもないらしい。
「私、部屋を用意してきます。少し待っていてください」
「ああ、すまないが頼む。ここに居るから」
 慌ただしく出ていったソニアを見送り、ラウルが大きく息を吐き出す。体力に自信のない彼が、再び椅子に腰を下ろすのを見て、ストックもロッシュを椅子に座らせた。反発するかと思ったが、存外素直に従ってくれて、ストックは内心で胸を撫で下ろす。どうなることかと思ったが、取り敢えず行動を共にはしてくれそうだ。その様子を前にしたラウルが、ふと苦笑を浮かべた。
「しかし、今のは驚いたな」
「……何がだ」
「何がも何も。実際に斬られたら、どうするつもりだったんだい」
 自分の行動を話題に出されたロッシュが、不愉快げに片眉を上げる。その頭を優しく撫でながら、ストックは肩を竦めてみせた。
「信じたからな。……信じて欲しければ、先に相手を信じるのが、当たり前だ」
「当たり前では無いと思うけど。少なくとも、僕にはできないよ」
「やれとは誰も言っていない」
 手を握られるのは構わなくとも、頭を撫でられるのは嫌だったようで、ロッシュがぱしりとストックの手を叩いた。眉を顰めるストックの顔を見もせず、直前の言葉に同意して首を縦に振る仕草は、可愛いというよりも明らかに小憎らしい。そんなやり取りを前に、ラウルが深く長い溜息を吐く。
「これから大変なことになりそうだな。全く、頭が痛い」
「仕方がない、なるようになるだろう」
 目の前で交わされるやり取りを、ロッシュは無言で眺めている。野良猫のような淡々とした表情、その頭にまた、ストックの手が置かれた。――当然、懲りずに叩き落とされる。
「なるようにねえ……一体、どうなるんだか」
 数々の難事を乗り越えてきた首相であっても、この事態は手に余るのらしい。情けなく呻くラウルの姿に、上司の気も知らぬロッシュは、ただ呆れた目を向けるばかりであった。





セキゲツ作
2013.02.11 初出

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