心地よく晴れた日、開かれた窓からは麗らかな陽光が差し込み、風が柔らかく吹き込んでいる。散歩でもしたならさぞかし良い気分であろうが、残念ながらストックは、アリステル城の執務室で書類を片付けている最中だった。もっとも彼自身は、その事をさほど悔しいとも思っていないようで、いつもと変わらぬ様子で淡々と仕事を進めている。この部屋では日常的に見られる風景であったが、今日はその中に、普段と決定的に異なっている点があった。

「なー、ストック」

日常との大きな相違点、それは彼の膝の上に乗せられている小さな身体。奇妙な経緯で10歳ほどの少年に若返ってしまったロッシュが、声と共にストックを振り返る。ストックはペンを走らせる手を止め、ロッシュと目を合わせた。

「オレ、そんなにガキじゃないからさあ」
「……子供だろう」
「そりゃ、ストックから見たらそうだろうけど。でも赤ん坊じゃないんだぜ、そんなにずっと抱えてなきゃいけないってことないよ」

ストックを見詰める表情には、不当に拘束されることへの不満が如実に表れている。元々活発な性質を持つ彼にとって、よく晴れた昼間に室内――どころかストックの膝の上という極狭い箇所に閉じこめられている状況は、退屈極まりないものがあるのだろう。見慣れたそれとは違う幼い形の、しかし輝きだけは大人の頃と変わらない薄青い瞳に睨み付けられて、しかしストックは怯んだ様子もなく首を横に振った。

「外は危ない、怖い奴がお前を狙っている」

何処かの歴史で彼自身が言われたような台詞だが、これは別段子供を大人しくさせるための脅し文句ではなく、かなり本気で思っていることだ。将軍であるロッシュが少年になったという事件は、当然だが国家機密に類するものとして、極限られた者のみにしか知らされていない。だが秘されているからといって、それが実際誰にも知られていないかといえば、そんなことは有り得ないのが世の常である。
今回ロッシュに起こった異常は、発見者であるソニアの機転により、真っ先にラウルとストックに知らせがきていた。彼らは勿論他の誰にも事件を告げていないから、普通の騒ぎよりよほど少ない人数にしか知られていないはずなのだが、それでも知らせの伝達やその後の説明で多少の騒ぎは起こってしまっている。直後に情報統制をとってはいても、目撃した者が皆無であるとは言い切れなかった。
そして、この状況が悪意を持った者たちの耳に入れば、ロッシュの命を奪うために動くのは必定だ。普段であれば暗殺者の一人や二人、比喩でなく片手で凌げるロッシュだが、今の彼にその戦闘能力は無い。確定の事実ではないが、不安要素がある限り外に出すわけにはいかないと、臨時の保護者としてそう判断したのだが。

「ここに居れば安全だ。大人しくしていろ」
「何だよそれ、ガキ扱いし過ぎだろ」

当然ながら、ロッシュ本人にその心配が伝わっている筈もない。元々子供というのは大人の心配を解さないものだが、今のロッシュは特にその傾向が強かった。周囲全てが見知らぬ人間という状況を考えれば当然なのかもしれないが、何より彼の身を案じるストックからすれば、中々もどかしいものがある。

「なあ、ちょっとくらい外に出たって良いだろ。ちゃんと戻ってくるからさ」

だから、いくら大人しげな様子でロッシュが頼んだところで、それに首を振るわけにはいかないのだ。至近距離から放たれる不機嫌な気配を完全に無視して、視線を書類に戻した、その時。
部屋の中に、ノックの音が響いた。

「――よう、ストック」

中からの返事を待たずして扉が開かれる、その先に居るのは、本来アリステルには居ないはずの人物だった。

「久し振りだな」
「……ガーランド!」

シグナス王ガーランド、一国の王ではあるが、ストックにとっては同時に年の離れた友人でもある男だ。前触れもない突然の来訪にストックは驚きを隠せぬまま、取り敢えず彼を迎えるために立ち上がろうと椅子を引く。
――しかしその動きは、ずっと腕の中に囚われていた少年にとって、待ち望んでいた好機となってしまった。生じた隙を逃さず、机と腕の僅かな隙間を潜るようにして、ロッシュは執務室の床に降り立つ。

「こら、ロッ――」

呼び止めようと発しかけた名を言い切る直前、正面に立つ訪問者の存在が頭をよぎり、ストックは慌ててそれを喉の奥に押し込める。しかし見慣れぬ少年を興味津々に眺めるガーランドからは、その配慮も直ぐに無にされそうな予感が、ひしひしと感じられた。

「お、何だこいつ」
「…………」
「随分生意気そうなガキだな。それに」

じっ、とガーランドがロッシュの顔に視線を注ぐ。ロッシュも負けじと睨み返してはいるが、さすがに砂漠の虎とも呼ばれる武王が相手とあっては、やや分が悪いようだった。誰に対しても不敵な彼だが、今は珍しく気圧され、幼さの残る顔を険しく歪めている。ガーランドはそんなロッシュを、じろじろと無遠慮に眺めて。

「ロッシュに似てるな」

そして当然のように発せられた言葉に、ストックは嘆息したくなる衝動を堪えた。その洞察は全く間違っていない、何しろ本人なのだから似ていないわけがないのである。しかし出来れば気付いて欲しくはなかった、そのことを引き金として、目の前の子供と将軍であるロッシュが同一人物だと察せられてはたまらない。似ている、という事実のみから真実に辿り着くのは相当に難しいだろうが、困ったことに相手はガーランドなのである。一国の王を務めるだけあって彼の洞察力と直感は凡人と一線を画している、あるいは彼であれば、少ない手がかりから秘された真相に達してしまうかもしれないのだ。

「ひょっとして、こいつ」

何事にか思い至った様子のガーランドに、ストックは気付かれぬ程度に身構えた。一瞬にも満たない間に、脳内を思考がぐるりと巡る。どうする、どう誤魔化す。いや、まだ察せられたと決まったわけでは――

「ロッシュの隠し子か?」
「――そんなわけがあるか!!」

それらの気負いを全て無にされ、行き場を失った力のままに、ストックは常なら絶対に有り得ない勢いでツッコミを入れてしまう。その形相にガーランドも少々怯むが、しかし強すぎる否定に秘密の気配を感じたのか、鋭い目がきらりと光った。

「何だ、随分と焦ってるな」
「……常識的に考えろ。年齢が合わない」

ストックは慌てて平静を取り繕い、言わずもがなの事項を指摘する。

「こいつは、……10歳かそのあたりだ。ロッシュが12の時に子を作ったとでも言うつもりか?」
「不可能って程でもねえぜ、成長が早けりゃ十分出来る」
「馬鹿な。いくらなんでも無理がある」

ガーランドもそこまで自説に固執しているわけではないようで、ストックの冷たい視線を浴びせられ、苦笑して意見を引っ込めた。しかしそれで話を終えられる筈もなく、むしろ解決されない疑問が新たな展開を生みだしてしまうだけなのだが。

「それじゃあ何だ? これだけ似てて関係無いってのはないだろ」
「……親戚の子、だそうだ」

全く無関係と言い張るのも不自然と考え、そう言ってしまうことにする。一瞬、ロッシュ本人から否定の言葉が飛ぶのではないかと思ったが、彼も目の前の不審者を警戒するのに忙しいらしい。大人達の会話を聞いているのかどうか、ストックには目も遣らず、ひたすらガーランドを睨み付けている。

「ふ、ん……成る程な。で、ロッシュの親戚が何でお前の執務室に居るんだ、当人が面倒見りゃいいだろうが」
「あいつは今、軍の仕事でアリステルを離れている」

これは予めラウルと相談し、対外的に使う言い訳として決めておいた内容を、ストックは説明した。部隊が全く動いていない現状を考えればかなり強引な論ではあるのだが、詳細を告げられない以上、これ以上のことを言うわけにはいかない。事実を公表できないのであれば、出す情報は出来る限り曖昧にしておいた方が、突かれる矛盾を減らせるというのがラウルの理論であった。

「だから、代わりに俺が預かっているんだ」
「そりゃ大変だな、こんな悪ガキの世話しつつ仕事とは」

その説明に納得したのか、それともストックの手前一旦追求を諦めたか。真意の読めないガーランドだが、取り敢えずストックの言葉に反駁することはせず、つまらなさそうな顔でロッシュに視線を遣る。先程から硬直したままの少年は、警戒対象の動きを敏感に察知し、身構える力を強めた。その過敏な反応は明らかに王の興味をそそることになっているのだが、それはロッシュ本人に分かることではなのだろう。ガーランドの目に、リッキーを相手にしているのと同じ光が宿っているのを見て、ストックは今度こそ堪えることはせず大きく溜息を吐いた。

「おい、お前。名前は何ていうんだ?」
「…………」
「ちっ、きっちり無視か。見たまんまの悪ガキだな」
「……ストック。こいつ、誰」

ようやく口を開いたと思ったら、そこから発せられた言葉はやはりガーランドに向けられておらず、その頑なさにさすがの武王も苦笑を零す。ストックは彼らの様子を伺いつつ、ロッシュに向き直って、その問いに答えた。

「彼はガーランド。シグナスの王だ」
「そういうことだ、よろしくな」
「…………」
「で、お前の名前は?」
「…………」
「ストック、こいつの名前は何だ?」

やはりガーランド本人には一切口を利こうとしないロッシュに、ガーランドも質問の矛先をストックに切り替える。ストックは答えを一瞬躊躇う、そのまま教えてしまって良いものか――しかしロッシュ本人に事情を説明する暇が無い以上、ここで偽名を使っても事態が悪化する可能性が高い。大人の彼であればストックの意図を汲んで話を合わせてくれるかもしれないが、10歳かそこらの子供にそれだけの機転を望むのは酷というものだろう。

「――ロッシュ、だ」

渋々ストックがその名を口にすると、やはりと言うべきか、ガーランドの目が見事に点になった。こんなことなら事前にロッシュに言い聞かせておけば良かったが、今となっては後の祭りだ。後はひたすら白を切り通すしかない。

「同じ名前だからややこしいがな」
「ややこしいって程度で済むか? 何で親戚の中で同じ名前の奴が居るんだよ」
「俺に聞くな」
「やっぱり、隠し子なんじゃねえか?」
「……だから、何故そうなる」

再び先程の話を蒸し返され、ストックは渋面を浮かべた。

「名乗り出られない状況で子供を産んで、せめて名前だけは父親と同じに――とかな。ありそうじゃねえか」
「ガーランド、あんたはいつから噂話に興じる婦人になったんだ」

その目に宿る冷たい軽蔑に、ガーランドが苦笑を零す。そして冗談だ、とでも言いたげに軽く手を振った。

「まあいいさ、大きい方のロッシュが戻ったら、直接事情を聞き出してやる」

にやりと笑って困った宣言をされてしまうが、今のところストックにそれを止める手だては無い。心の中で今は遠い親友に謝罪を送ると、取り敢えずは目の前の問題を片付けようと、現実に居る小さなロッシュをちらりと見遣った。

「そんなわけで、今は取り込んでいる。悪いが帰ってくれ」
「何だよ、つれねえな。折角顔を出したんだ、茶の一杯くらいは付き合えよ」
「子供を一人にするわけにいくか」
「それなら、ロッシュ……」

口にした名にどうしても不自然を感じてしまうのか、ガーランドは一瞬顔を顰める。

「ガキのロッシュも一緒に来れば良いだろ。なあ?」

言いながらロッシュに笑いかけるが、王の愛想という実に珍しいものを向けられているにも関わらず、ロッシュの表情は硬いままだ。頑固にも程がある態度だが、生意気な悪ガキにはグランオルグの少年で慣れているのだろう、ガーランドは気にすることなく一歩を踏み出す。しかし、同時にロッシュもまた一歩後ずさったため、彼らの距離は変わらぬまま保たれてしまった。

「お、逃げるか」

楽しげにガーランドが呟く、抵抗は相手の本能を刺激するだけなのだが、子供であるロッシュにそれを理解しろというのは無理がある――いや、大人のロッシュもいまいち分かっていない気はするが、それはともかく。
ガーランドが前に出れば、ロッシュは後ろに下がる。対となった動きは、しかしほんの数度を繰り返すだけで、ロッシュの背が窓際に突き当たることによって終わりを告げられてしまった。ガーランドが部屋の扉から現れた以上当然の帰結である、唯一の脱出口が塞がれてしまっている状態では、ロッシュに逃げる道は無い。

「さ、どうする。もう退く先はないぞ」
「…………」
「大人しく俺と一緒に――」

ガーランドが勝ち誇った様子でにやりと笑った、それを受けるロッシュの表情に、しかし焦りは見られない。冷静な、むしろ淡々とすら形容できるような平静さで、ガーランドを眺めている。王はそれを、追い詰められた子供の強がりと受け取ったのだろう、笑みを強めて手を伸ばす。
しかし、その腕が上がり切るより前に。

「っ――な、」
「ロッシュ!?」

開いた窓を背にしていたロッシュが、窓枠に手をかけて。そして、体重を感じさせない身軽な動きで、その上へと飛び乗った。

「何をしている!」
「ガキが、危ねえっ……」

危険を予想して慌てるストックと、差し出した手でそのまま安全を確保しようとするガーランドが窓際へと駆け寄るが、どちらの動きも一瞬遅い。ロッシュは微かに笑みを浮かべると、窓に填められた格子をするりとすり抜け、それを手がかりに上へと登り始めてしまった。

「馬鹿、危ないぞ! 降りてこい!」

ストックが呼びかけ、手を伸ばすが、それが触れるより速くロッシュの身体は窓枠の範囲内から姿を消してしまう。身を乗り出そうとしても、防犯のため窓に取り付けられた格子は、大人の身体を通すほど大きな間隔を持たない。ストックが大きく舌打ちをし、ガーランドはいっそ感心した様子で、ロッシュが消えた先を眺めた。

「猿みたいな奴だな、見事なもんだ。鍛えりゃ良い戦士になるぞ」
「言っている場合か! 直ぐに捕まえないと……」
「ああ、分かってるよ。3階に行くぞ、落ちてなけりゃそこに居るだろ」
「不吉なことを言うな!」

他人が見れば目を剥くような勢いのストックと、それに引き摺られるガーランドが、共に執務室を出ていく。

――しかし彼らが上階に辿り着き、部屋の主を驚かせている頃には、既に。


「………………」


3階を通り越して屋上に到達してしまったロッシュは、よく晴れた空を気持ちよさげに見上げて。
思いがけず手に入れた自由を喜びながら、野良猫のような軽やかさで、アリステル城の屋根を闊歩しているのであった。





セキゲツ作
2011.09.29 初出

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