最初に、掌が肩に触れた。普段より僅かに高い体温がロッシュの身体に伝わってくる、それを追うようにして、今度は唇が唇に押し付けられた。ロッシュも生身の右手をストックの背に回し、触れ合う面積を増やす。しばらくそうして、体内に入り込むまでは至らない穏やかな接触を続けた後、どちらからともなく身体を離して視線を絡めた。
互いに着衣を始め、外せるものは全て取り去った姿だ。抱き合う前、高まる熱が感覚を侵し始める直前の、奇妙な緊張感が2人の間にわだかまっている。見詰め合う姿勢はそのままに、ロッシュの肩に置かれていた手がするりと滑った。左手は胸元に添えられ、右手は金属部品の合間に露出した皮膚を縫うようにして辿っていく。ロッシュもストックの背を大きく撫で、さらりとした髪をかき分けるようにして首と背の境目に触れた。擽ったいのか目元を歪めたストックは、対抗するようにしてロッシュを撫でる手の動きを強める……と。

「……?」

視界の中央に位置していたストックの瞳、深く美しい緑色のそれが、ふとロッシュの目から逸らされた。向かい合った身体の左下あたりに向けられたそれにつられて、ロッシュも同じ方向を見遣る。何があるわけでもない、身体に触れるうちにいつの間にか肌を外れてガントレットに乗り上げていた、ストックの右手が存在するくらいのものだ。

「どうした?」
「いや……」

しかしストックは、そこに目線を置いたまま、何やら考え込んでいる様子だった。ロッシュが問いかけても曖昧な声が返るばかりで、肌をまさぐる動きも止まってしまっている。
とはいえ完全に停止していたのは僅かな間で、直ぐにストックの両手は動作を取り戻し、ロッシュの身体への接触を再開した。

「な、なんだよ?」

しかしそれは先程までの性感を煽る目的のそれとは異なる、ぺたぺたと単純に肌に掌を押し付けるだけの、幼稚とも言える触れ方で。あまりに唐突な変化に、ロッシュは戸惑いと疑問の意を込めてストックに視線を投げた。だがストックはそれに答えず、ただロッシュの肌に接触することを続けている。胸板から肩口に、肩口から首にと掌を移動させ、首筋を辿って顔に辿り着いたところでようやく静止した。両手で頬を包み、そのまましばらくロッシュの顔を見詰めていたが、やがて再び右手を左腕……正しくは左腕に取り付けられた、肘までしかないガントレットの上に置く。

「何だってんだよおい、ストック!」

訳が分からないまま置いていかれているロッシュが、些か苛立たしげに再度の問いをぶつけた。ストックは一瞬驚いたような表情を見せ、改めてロッシュの顔に視線を戻すと、すまない、と呟く。

「どうしたんだよ、いきなり」
「……考えていた」
「は、何をだ?」
「お前の身体に触れられない、と」

ストックが発した言葉に、ロッシュは盛大に眉を顰めた。

「……あのな、お前が今べたべた触ってんのは一体なんだ? 木か石だとでも思ってんのか」
「いや、そうではなく」

その反応を見て自分の言葉の不足に気づいたのか、ストックは一瞬考えを巡らせ、再度口を開いて説明を重ねる。

「触れられない場所がある、と思ったんだ」
「俺の身体に?」
「ああ」
「……いつも全身好き勝手触られてるような気がするんだが」
「そうでもない。……どう頑張っても、触れられないところはある」

そう言うと、ストックは右手を滑らせ、ロッシュに取り付いた無骨な鋼鉄を撫でた。そしてそのまま、肘から先の、ガントレットが取り外された虚ろな空間へ指を投げ出す。その行為でロッシュもストックの言わんとすることを悟った、確かにそこに触れることは絶対に出来ない、何せもはや存在しない部位なのだから。言うべき言葉が見付からず黙り込むロッシュを余所に、ストックはかつて左腕が存在したはずの場所で、撫でるように掌を遊ばせる。顔は常より変わらぬ無表情を保っているが、長い付き合いの間彼を見続けてきたロッシュの目には、そこに寂しげな色が浮かんでいるのが分かった。

「別に、んなとこ触ったって何もねえぞ」
「そうかもしれない」

困惑してロッシュが言うが、ストックは微かに笑みを浮かべるばかりで、ガントレットの先を撫で回す動作を止めようとしない。

「だが、出来ないと思うと惜しくなるのが心情というものだ」
「そんなもんかね」
「ああ」

ストックの言う心理は、一般的な論として理解できぬでもなかった。だが軍人として実際的な思考を繰り返してきたロッシュにとっては、不可能なことを求めるなど、愚考に属する類のものである。普通の相手であれば馬鹿を言うなと切り捨てて終わりの話だ、しかし困ったことに相手はストック――ロッシュにとって唯一無二の、大切な親友なのだ。その想いを無碍にしたくはない、しかし無いものを求められたところで応えようがないのも、残念ながら事実だった。

「……贅沢言うなって」

暫しの間考え込むが、それで名案が浮かぶはずもない。結局ロッシュは、そんな捻りのない台詞を口にして、誤魔化すようにストックの頭に手を乗せた。

「他のとこは散々弄り回してんだから、それで我慢しろよ」

さらりとした髪に指を絡め、形の良い輪郭を辿って後頭部に掌を落ち着かせる。その感触と温度が心地よいのか、ストックは猫のように目を細めた。

「そうだな」

少し笑ってそう応えたストックを、ロッシュは腕に力を込めて引き寄せる。ストックもそれに逆らわず、顔を寄せてそっと唇を触れさせた。今度の接触は先程よりも深い、舌を絡めて体温と唾液を分け合うものだ。そして互いの感覚を煽るための動きも同時に再開する、ストックの片手が胸元に回され、筋肉の流れを辿るようにして表面をなぞった。

「……ふ、」

熱い舌を味わううちに呼吸を継ぐのが苦しくなり、一度唇を離す。混じり合い溢れた体液が口の端から伝い落ちる、それをぺろりと舐めてやると、ストックの身体が少しだけ震えた。
そうして口付けを交わす間もストックの手は止まらず、片手で首から胸を、もう片手で背を撫で回している。しかし、その動きが普段と違う気がして、ロッシュは内心首を傾げた。肌の感触を確かめるような、大きく表面的に掌を滑らせる触れ方は、常のストックであれば選ばない類のものだ。何故ならロッシュはあまり皮膚感覚が鋭敏な方ではない、むしろ鈍いと言って構わない程度のものだ。それは彼の身体を覆っている無数の傷跡が原因なのかもしれないし、生来の特性なのかもしれないが、とにかく皮膚を撫でるように触れられたところで快感を煽られるわけではない。射精に至った後の戯れに行うことはあっても、これから身体を重ねる準備段階でこんな触れ方をすることは無かったはずなのだが。
ロッシュの疑問を知ってか知らずか、ストックは身体全体を辿るように掌を滑らせ続け、そして勢いのまま首筋に唇を寄せた。

「っ……」

生暖かく柔らかな体組織を、多少は敏感な部分に押し付けられ、ロッシュが低く息を吐く。うなじのあたりを弄っていた右手を後頭部に乗せるが、ストックはそれに構わず頭を動かし、首から胸元へと濡れた感触を広げていった。手は堅い筋肉を纏った太股に乗せられ、呼吸の度に緩く上下する胸を唇と舌先が擽る。

「代償行為、だな」
「……あ?」

その姿勢から、ぽつりと声が零された。皮膚に向けて発せられるためにくぐもって聞こえるそれの意味が取れず、ロッシュは問いかけの意を込めてストックの髪を軽く引く。それに促されたのか、ストックが顔を上げ、ロッシュと視線を合わせた。透明な緑が、ロッシュをひたりと見据える。

「何かが得られない時、他の物を代わりとして精神の充足を図る行為のことだ」
「…………」

そして与えられた言を、ロッシュは頭の中で転がした。つまりストックは、失われた左腕に触れられない代わりとして、他の部分を撫で回していると言いたいのだろう。文意は理解できる、しかし彼が何故そこまで左腕に固執するのか、やはりそれが分からない。真剣な無表情でロッシュを見据え、何かを求めるような強さで皮膚を探るストックに何と言って良いか分からず、ロッシュも無言のまま緩やかにストックの肌を辿った。
しばらく互いに黙ったまま、体温だけを感じ合う時間が続く。そして唐突に、絡んでいた視線をストックが外し、唇でロッシュの身体に触れた。舌を這わされ、痕を残さぬ程度の強さで食むように歯を当てられるという常事では有り得ない感触に、ロッシュの背筋を微弱な電流に似た何かが流れる。ストックは唇を離さぬまま、胸の中央から鳩尾へ下がり、そのまま横にずれて脇腹を刺激していった。

「……っこら、くすぐってえよ」

そのまま腰骨のあたりまで移動されそうになり、慌ててストックを制止す。ストックはまた微かに笑みを浮かべると、強引に行為を続けることはせず、一旦身体を離してロッシュと向かい合った。

「ロッシュ」

目が合い、名を呼ばれて、左手がロッシュの肩に置かれる。掌に力が込められる、それに応じて、ロッシュは身体を寝台の上に横たえた。投げ出された上半身の上にストックが覆い被さり、ロッシュの視界をその身体で塞ぐ。ゆらりと揺れるランプの灯りが、ストックの白い裸身を浮き上がらせた。

「ロッシュ」
「……ああ」

ストックは静かに呟きながら、肩に置いた左手はそのままに、空いた右手をふと移動させる。目線だけで行く先を確認すると、それはロッシュの脇、途切れた左腕の先に置かれていた。身体を重ねる際、そうして手を押さえられるのはよくあることだ――勿論普段そうされているのは、現在とは逆側、肉を持つ右手なのだが。今ストックが手を置いている位置に生身の左手は存在しない、代わりとなる義手すら取り外され、何も無い空間が広がっているだけである。だから彼が行っているのは寝台に手を突くという行為に過ぎないのだが、そのあまりに真摯な表情を見てしまえば、滑稽と笑うことなど出来るはずもなかった。ロッシュの心臓にじくりと痛みが生じる、これほどまでに求められているのに、応えることの出来ない苦しさが胸を焼いていた。そこに何かがあれば、乞うように這わされた指を絡め取って握り返すものがあったとしたら、きっと彼は満たされるのに。だがロッシュの左腕は遙か昔に切断され、今はもう肩から僅かに伸びた上腕が残されているだけなのだ。
右手を下に置いたままの不安定な姿勢で、ストックが上半身をロッシュに近付ける。ロッシュもそれを迎えるように半身を持ち上げ、寄せられた唇を受け入れた。

「……、……」

浅い口付けを数度繰り返してから身体を離す、そしてどちらからともなく、開いた空間に手を差し入れて相手の中心に触れた。ストックのしなやかな指が、芯を持ち始めているロッシュの熱に巻き付く。しかし右手はロッシュの左に置かれているから、使われるのは空いた左手だ。利き手ではない側で与えられる刺激は、やはりどうしてもぎこちなさが残り、奇妙に新鮮な感覚をロッシュの身に生じさせる。
ロッシュもまた、無骨な太い指でストックの中心を包み、熱を煽るために動き始めた。

「……ストック」
「ああ」

低い、吐息に近い声が、ストックの唇から零れた。男の身体は単純なもので、技巧に乏しい直接的な接触であっても、刺激さえ与えればそれなりの快感を作り出してくれる。ロッシュの腰に鈍い熱が溜まっていく、同時にストックの中心もロッシュの手の中で質量を増し、角度を持って立ち上がっていた。ストックの瞳に宿る情欲が濃さを増す、それに気付いたロッシュは、今更ながらも生じる微妙な気恥ずかしさに微かな苦笑を浮かべた。

「ストック。今日はどうする」
「……?」
「先に一回出しとくか?」

男同士の交わりというのは、自然に逆らう行為なだけあり、男女のそれに比べて必要な手順が多い。欲が高まった状態を耐えつつそれを行うのは、男として中々辛いものがある。それ故先に一度射精して、身体を落ち着かせてから繋がるための準備に入るのも、2人が抱き合う時にはよくあることだった。しかし今はその流れに従うつもりは無いらしく、ストックは首を振って、ロッシュの言葉に否定の意を返した。

「いや。……このまま、進みたい」
「……ああ、分かった」

微笑んで頷いたロッシュに、ストックはもう一度軽く口付けを落とす。そして、さすがにこの先の作業を片手で行うのは難しいと判断したのか、ずっと寝台に押し付けていた右手をようやく離した。ロッシュの左にすうと空気が通り、不思議な寒さを覚える。それに気付いたわけでもないだろうが、ストックは軽く左腕、今度は根本に近い、未だ肉を残した部分を撫でた。
そして傍らに準備しておいた小瓶を手に取り、蓋を開けて中の香油を指に伝わせる。

「ロッシュ」

何かの約束のように名を呼び、身体をロッシュの上に伸し掛からせて。欲を纏った、しかしどこまでも真摯で真剣な目でロッシュを見据えつつ、そっと奥へと指を潜らせていく。

「っ、」

油で摩擦を軽減させているから、押し込む方向に生じる抵抗は比較的少ない。それでも、肉を広げられることで与えられる負担は消しようがなく、ロッシュは息を吐いて異物感を散らすよう努めた。こうして身体を探られるのはもう何度目になるかも分からないが、不自然な刺激に対して身体は中々慣れようとしない……まあ、慣れてしまうのもそれはそれで複雑なものがあるので、ロッシュとしては別段今のままでも構わないと思っているのだが。しかしロッシュの苦痛を可能な限り軽減しようと、己の熱を堪えて指を蠢かせているストックを見ると、申し訳なさを覚えるのも確かである。返礼にというわけでもないが、ストックの中心に添えたまま止まっていた手の動作を再開し、緩やかな刺激をそこに送り込んだ。その動きに、ストックの端正な眉がついと顰められる。

「ロッシュ。……止めろ」
「ん、何でだよ」
「持たない」

端的且つ直截に訴えられ、ロッシュは思わず苦笑を浮かべた。

「だから、一回出しとけってのに」
「……煩い」

からかいの言葉を止めるためか、唇を押し付けられた。その感触に紛れるようにして、身に埋められた指が増やされる。圧迫感から息を詰めると、宥めるように唇を舐められ、同時に萎えかけた中心を刺激された。ロッシュもやり返してやりたい衝動に駆られるが、直前の制止を早速無視するのも躊躇われ、結局肩口から首を撫で回すことで妥協する。太い指で擽るように首に触れると、ストックが微かに目元を歪め、体内を広げる動きを強めてきた。

「ロッシュ」
「……ああ、」

生じる痛みと違和感を越えるべく、深い呼吸を繰り返す。名を呼ばれても満足に答えることは難しい、しかし何某かの反応を返したくて、声を発する代わりに右手を伸ばしてストックの頬に指を添えた。ストックの表情が笑みに似た形に変わり、再度ロッシュの名がその唇から零れ落ちる。
と、押し込まれていた2本の指が、一度引き抜かれた。急激に変化した体感にロッシュの身が震える、しかしそれは一瞬のことで、直ぐに香油を足した指が差し込まれた。1本ずつ順に増やされ、今度は3本の指がロッシュの中へと潜り込む。体温で暖められ、粘度を減じた油が指の間でかき混ぜられて、微かな水音を立てた。

「……どうだ?」
「何で、一々……聞くんだ、よ」

暢気な……などと言っては本人に怒られるだろうが、ロッシュにとってはそうとしか思えない問いを投げられ、知らず眉間に皺を作ってしまう。ストックも苦笑を返し、寄せられた眉根に軽く唇を触れさせた。体内を満たした指がじわりと動かされ、これから先への心構えを促してくる。知らず手に力を籠めると、それを感じ取ったのか、ストックが顔を離してロッシュの目を覗き込んできた。

「大丈夫なら、そろそろ……良いか」
「……ああ」

大きく息を吐いて首肯すると、ストックもまた頷きを返して、ロッシュの身体から指を引き抜く。そして、張り詰めた状態で耐え続けていた自身に油を纏わせると、数瞬前まで指が入り込んでいた箇所に侵入させていった。

「っぐ……」

時間をかけて慣らされたとはいえ、やはりこの瞬間の負担は重い。内臓を圧される感覚に誘発された、避け難い吐き気がこみ上げ、ロッシュの喉が低く鳴る。見ればストックも息を荒げ、局所を強く締め付けられる痛みに耐えているようだった。その部分に力を掛けられるのは男性に共通する恐怖だ、自分が受けている労を一瞬忘れて、ロッシュはストックに同情を覚えてしまう。男同士の行為というのは、本当に苦労が多いものだ。
とはいえ走り出してしまった身体は止まらないのだから、ぼんやりしていては双方の苦痛が長く続くばかりである。ロッシュは、異物に反応して発生する筋肉の硬直を解くため、意識して身体から力を抜くよう努めた。ストックもまた、感覚を散らすためかロッシュの前を刺激しながら、ゆっくりと少しずつ身体を進めてくる。強い抵抗を克して身を埋め、やがてストックの中心が全て収められた時には、2人とも酷く息を乱していた。

「……大丈夫か」

荒い息の下から、それでもストックはロッシュを気遣う声をかけてくる。ロッシュもまた、痛みと違和感を飲み込み、それに応えるべく首肯してみせた。そのまま、無言で視線を合わせ、互いの様子を窺う。しばらくの間姿勢を動かさず、双方の身体が落ち着き、苦痛の波が過ぎ去るのをじっと待った。

「…………」

その間にまた、ストックが右手を動かし、ロッシュの左に浮かせる。先程までと同じに、押さえる形で手を置くのかと思えば、今度は表面を辿るように指を滑らせた。何度も繰り返される意味を持たぬ動作、それを止めることも受け止めることもできず、ロッシュはただぼんやりとした視線を自分の左に送るばかりだ。しかしストックは構わず、今度は指を丸くし、例えるなら何かを掴む時に似た動きを見せる。そしてそのまま、右手を持ち上げ、掴んだものごと自分の顔へと引き寄せていった。
ロッシュが何度確認しても、ストックの手の中にあるのはただの空間だ。肉も無く、血も骨も神経の一本すら存在しない完全な虚ろは、勿論ロッシュの残された肉に繋がっているはずもない。ストックの動作がロッシュに与える物理的影響は何もないのだが、それでもロッシュは導かれるように、ストックの動きに従って左腕を差し伸べた――まるで、ストックが握り締めた部分に、腕と繋がる左手が存在するように。
ストックはそれを目にすると、一瞬驚きの表情を浮かべ。そして次の瞬間、目元を柔らかく緩め、口元には静かな微笑を形作った。
その姿がいっそ痛々しくも見えて、ロッシュはたまらずストックの名を呼ぶ。

「ストック」

呼びながら、一層強く左腕を差し出す。そしてふと、左手を他人に向けて差し伸べるなど、酷く久し振りなことに気付いた。もう何年もの間、そこにあるのは鋼鉄で造られた兵器であり、人に向けるようなものでは無かったのだ。動かす目的といえば人、もしくは魔物を殺めるのに他ならず、何かを辿るような優しい動きなどとは縁があるはずもない。ずっとそうだった、戦いの中で左腕を失い、再び戦うためにガントレットを身につけてから、ずっと。
ならば、それより以前はどうだったのだろうか。失われた腕が未だそこにあり、傷つけるためでなく相手に触れることが出来た時の記憶を、少しで良いから思い出してみようと試みる。無骨で巨大な爪ではなく、自らの肉を纏った指を脳裏に描き、それを動かす感覚を必死で追った。存在しない指をストックの頬に沿わせようとして、左腕に向けて動作を司る神経信号を送る。
勿論、それは上腕の断面で途切れ、何処にも行けぬまま消えてしまうだけのものである。そのはずだ、しかし。

「……ああ」

ストックはふと目を細めると、掴む形に丸めていた指を伸ばした。そして、自らの頬の少し上を押さえるように、そっと掌を空中に浮かせる。

「……」

もしそこに、ロッシュが夢想した通りの左手があったならば、ストックの右手がそれに重ねられていたことだろう。偶然なのかもしれない、偶々ストックの動きとロッシュの思考が重なった、ただそれだけとも考えられる。だが、頬に触れぬ位置に掌を浮かせたストックに、満たされた気配が漂っているのは紛れもない事実だった。
厳粛とも言える空気が流れ、お互い何も言わずに視線を交わし合う。そしてロッシュが見ている前で、ストックは空間を押さえていた右手を外し、再びロッシュの『左手』を掴んだ。それを顔の正面に持ってきて、そっと唇を寄せる仕草を見せる。

「……」

何かを言おうとしたのか僅かに口を開き、しかしやはり何も言わぬままそれを閉じて。揺らいだ目を伏せると、もう一度、手にしたものへと口付けを落とした。そしてそのまま掌に、手の甲に、指の先に……存在しない左手に、何度も何度も口付けを降らせる。彼が浮かべる表情は普段のそれと変わらなく見える、しかしロッシュの目にはそこに、真摯とも言えるひたむきな何かが宿っているように感じられた。ストックは繰り返し口付けを送る、その対象は何もない、ただの空間のはずである。しかし何故か、ロッシュは左半身に、むずがゆさを伴った暖かさを感じていた。それは単に視覚が与える錯覚だったのかもしれない、真実は何なのかなどロッシュには分からない。だが握りしめられたそこに生じた不思議な感覚は、遠くへ消え去った過去の記憶に似た姿をしているようにも思われた。
やがてストックは、握った『左手』を寝台に押し付け、ロッシュの身体に覆い被さった。自らの左手を伸ばしてロッシュの頬に触れ、情欲を蘇らせた瞳で見下ろしてくる。

「ロッシュ。……動くぞ」

熱を増した呼気で囁かれれば、それに否を唱えられるはずもない。ロッシュが黙って頷くと、ストックはするりと頬を撫で、そしてゆっくりと身体を動かし始めた。

「っ……」

内側を硬い肉で抉られ、苦しいような熱いような、曰く言い難い感覚が身を駆け巡る。様々なものが混じり合ったそれは、分類するなら不快に属する傾向が強いのだが、けしてそれだけで済まされるものではない。そして繰り返す交わりの中で、ストックはロッシュの身体の癖を徐々に学びつつあるようだった。快感に繋がる箇所を動きの中で刺激し、苦痛や異物感を別のもので塗り変えていく。

「は、」

同時に左手で中心を包まれ、耐えきれず大きく息を吐いた。体内で繋がっている性感を二つの経路から攻められ、当然の帰結として生じる感覚を表に出さぬよう堪える。ロッシュも何かを返してやりたいが、最大の性感帯である局部を身に埋められている状態では、出来ることなどたかが知れているのが残念だった。しかしそれでも、いつもは押さえられている右手が自由な分は行動の幅が広がっている。ロッシュは腕を伸ばしてストックの身体に触れた、さらりと伸びた髪に隠された耳をくすぐって首筋から背に手を回すと、ストックの顔が微かに引き攣る。次の瞬間お返しとばかりに動きを強められ、身体を走る電流に、噛み締めた唇から低い呻きが漏れた。

「っ、ぐ……」

しかしそのための動作によって、ストックもまた快感を高め、限界に向けて進みつつあることがその表情に浮かんだ色から見て取れる。ストックの背に回していた右手を戻し、胸元に押し当てると、激しい律動を刻む心音が伝わってきた。

「ロ、ッシュ」
「ああ、……」

次第に大きくなる身体の動きが、やがて頂の一点に近付いていく。そして最も深くに入り込んだ瞬間、ロッシュの体内に、ストックの情欲が吐き出された。それと同時に中心を強く刺激され、間を置かずにロッシュも精を解放する。

「……はっ、……」

射精後の鈍麻した五感の中、ストックが自身を引き抜き、身を寄せて抱きついてくるのを感じた。重い腕を上げて、ロッシュもストックの背に手を回す。先程まで掌で感じていた心音が押しつけられた胸板から直接伝わってきて、その心地よさにロッシュは目を細めた。

「……落ち着いたか?」
「ああ」

ロッシュの言葉に、ストックは目元を緩めて応える。そしてロッシュの唇に自らのそれを押しつけ、未だ収まらぬ呼吸ながら、舌を絡めて深い口付けを交わした。至近距離故表情を窺うことはできないが、纏う空気から身体を重ねる前の寂しげな色は消え失せているようだった。触れ合ったことで満たされたのか、それとも何処か他に満足できる要因があったのか、それは分からない。だが彼の飢えが、心に空いた不安の穴を満たすことが出来たのであれば、それは純粋に喜ぶべきことである。
ストックが抱えた虚ろが何に由来するのか、未だロッシュが知ることはできない。それを埋めるために必要とするのが己との交わりだという、その理由もまたよく分かっていなかった。ロッシュに出来るのは、求められるままに存在を与え、ストックの不安を鎮めることだけだ。それで構わない、そのこと自体に不満はない、親友のためなら魂だろうと何だろうと投げ出す覚悟は出来ている。しかし、いずれストックの持つ穴が、己の持つ全てを使っても埋めることが出来ぬほど大きくなってしまったら。そのことだけが、ロッシュに強い恐怖を与えてくるのだ。

「……ストック」
「何だ?」
「いや……」
「……どうした」
「…………」

好きなだけ唇を触れ合わせ、今度はじゃれるように顔のあちこちに口付け始めているストックの頭を、ロッシュは柔らかく撫でた。それでも今、ストックはとても幸せそうにしてくれている。取り敢えずはそれでいい、満たされた生活が続けば、彼の心に空いた穴もいつか塞がり、虚ろを何かで満たすことも出来るだろう。
それを心から願いながら、再び熱の籠もり始めたストックの接触を、ロッシュは苦笑して受け入れるのだった。




セキゲツ作
2011.08.29 初出

RHTOP / RH-URATOP / TOP