唐突に、ノックの音も無く、執務室の扉が開いた。その音にロッシュは素早く視線を走らせる、しかしそれ以上の動きは見せずに席に留まったままだったのは、そこに居るのが見慣れた親友の姿だったからだ。

「忙しねえな。どうした?」

妙に険しい表情で佇むストックに、訪ねるような視線を向ける。しかしストックはその問いを無視して大股に執務机に近付くと、横をすり抜けるようにしてロッシュの後ろへと回り込んだ。

「何だよ一体。緊急の問題、ってわけでもなさそうだが」

行動は些か乱暴だが、彼の纏う気配に危機めいたものは感じられない。何も語らぬ親友に首を傾げつつ、ロッシュは真後ろに行ってしまった親友を視線で追うため体ごと頭を回した……と。

「…………」
「ん、おい何だよ」

ストックの両手ががしりと頭を掴み、その動きを阻害してきた。半ばまで振り返っていた身体が、それによって強引に正面に向けられる。痛みを覚えるほどの強さではないが、明確な意志を持って成されたその行為に、ロッシュは眉を顰めた。

「……じっとしていろ」

視界に入らぬ相手からそんなことを呟かれ、真意を尋ねようとロッシュが口を開くより一瞬早く、ストックが再びその手を動かした。

「……?」

側頭部を押さえていた手が、位置を変えぬままわしゃりとロッシュの髪を乱す。男にしては長めのそれをかき回し、と思うと梳くように指を潜らせて。目的も定かでないそれらの動きに、ロッシュの頭上に疑問符が踊る。

「ストック、お前何やってんだ?」
「お前の髪を触っている」
「そりゃ分かる。質問を変えるぞ、何でんなことやってんだ?」
「……気にするな」

仕事中にいきなりやってきて髪を弄り回す行為に対し、その答えはどう考えても正しくない気がする。しかしストックの言動が理解の範囲外に飛び出すのはさほど珍しいことではないので、ロッシュは取り敢えずそれに関しての追求は諦めることにした。付き合いが長いだけあり、ストックが繰り出す訳の分からない行動についての耐性は高いのだ。

「何かすることあるか?」
「無い。じっとしていてくれればそれで良い」
「あー、そうかよ。んじゃ、仕事に戻らせてもらうぜ」
「ああ」

せめてもの抗議にため息をひとつ吐くと、ロッシュは目の前の書類に意識を戻した。今は期末で、さらに先日突発で行われた遠征の事後処理が重なり、片づけなければいけない書類が山積みになってしまっているのだ。少しでも業務量を減らすために、秘書であるキールもあちこち飛び回ってくれているが、その努力にも限界があった。今仕事を中断すれば、今日は家に帰れなくなる公算が高い――愛妻家の彼としては、出来る限り避けたい事態である。そのため、背後の存在はとりあえず無視して、書類を片づけることに専念しようとしたのだが。
しかし急所である頭部に与えられる刺激を、完全に意識から外すのは中々難しいものだ。頭部全体を撫で回す動きに続いて、奥まで差し込まれた指先と爪の感触を頭皮が受け取る。他人に頭を弄られるというのは妙にむずむずするもので、只でさえ苦手な書き物から逃げたがる脳は、これ幸いと与えられた感覚を追いたがった。それをロッシュは理性の力で押さえつけて、何とか仕事に集中しようと試みる。
だがそんな努力も、頭頂部近くに押しつけられた生暖かいものに、たまらず吹き飛ばされてしまった。

「っ……こら、何やってんだ!」
「……気にするな」

もごもごと篭もった応えが返ってくる、それに伴い頭部に震動と吐息を感じて、ロッシュは表情を険しくした。どうやら頭のどこか、位置から考えてつむじのあたりに、ストックが唇を押し当てているらしい。髪の毛が口に入らないのだろうか、とロッシュの脳裏に的外れな感想が浮かぶ。

「気にするな、つってもな」
「……嫌か?」
「嫌とかじゃなくて、何つったらいいかな……」
「…………」

どうやったらこの微妙な感情を伝えられるのかと頭を捻るが、表現力などロッシュの専門から完全に外れた位置にあるものだ。結局諦めて、嘆息することで意思表示としたが、それでストックに伝わるわけはないだろう。現にストックはロッシュの頭から離れる様子を見せず、触れていた唇を離したかと思うと、今度は自分の顎をロッシュの頭頂に乗せてきた。

「…………」

そしてそれが気に入ったのか、姿勢を固定したまま体重を預け、両手をロッシュの首に巻き付けてくる。上半身にずしりとした重みを乗せられ、ロッシュが低く呻いた。

「……ストック」
「何だ」
「お前ひょっとして、暇か?」

なら手伝え、という意図を言外に滲ませた発言に、しかし返ってきたのは否定の意思表示である。乗せられた顎が左右に振られる感覚を、ロッシュの頭部が感じ取った。

「逆だ。……物凄く、忙しい」
「……そうか」
「期末なんだ」
「まあ、そりゃそうだな」
「…………」

そうは言いつつ、頭上から全く離れようとしないストックに、ロッシュは諦めて何度目かの嘆息を零した。

「探される前に戻れよ」
「ああ」
「俺も忙しいんだからな、仕事してるぞ」
「勿論だ」
「そっちが先に片付いたら、手伝えよ?」
「…………」
「そこは黙るのかよ……」

背と頭は体温を受けて熱かったが、それでも伝わってくる気配はとても幸せそうだったので、諦念に似た満足の気持ちがロッシュの心に沸き上がってくる。それを察しているのかどうか、動く様子のない親友に苦笑しつつ、ロッシュは今度こそ仕事を進めようと手にした書類を睨みつけた。



セキゲツ作
2011.08.06 初出

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