その鍵入れには、2本の鍵がある。

ひとつは家の鍵。
家庭に属する彼が使う鍵。
持っているのは彼と、彼の家族。

ひとつは執務室の鍵。
軍に属する彼が使う鍵。
持っているのは彼と、彼の秘書。


それが、彼の持つ空間の全て。





鍵とは、空間を閉じるものである。扉を閉じれば空間が区切られるが、それを確たるものにするのは一揃いの錠と鍵だ。閉鎖を固定することにより扉の中は密閉され、共有される場から排他された私的な空間に変化する。
また同時に鍵とは、空間を開くものでもある。固定された閉鎖は、同じ鍵によってのみ解除される。鍵を持つことの意味は、閉ざされ区切られた空間へ立ち入る権利を有するに他ならない。それはつまり時間と空間の共有が許されているということで、鍵を与えるとは言い換えれば、自らの秘を明け渡すに等しいと言えるだろう。
それを考えれば、鍵というのは衆目に曝すものではない。秘められた空間を守る存在なのだから、所持していることすら悟られず、ただ同じそれを共有する相手だけが知るのが理想の姿だ。
目の前に鍵をぶらさげられたロッシュが、虚を突かれた様子でぽかんと口を開けたのも、それが理由だろうか。執務室という公に属する場で、秘されるべき存在を堂々と提示する行為に、さすがの鉄腕将軍も驚きを隠せなかったのかもしれない。

「……何だそりゃ?」

いや、やはり単に、ストックが展開した話の流れに付いてこられないだけという可能性もあるが。というか間違いなくそうだろう、驚きの中に呆れの混じった表情は、ストックが唐突に(といってもストック本人は普通の会話のつもりなのだが)話を飛ばした時に見られるものだ。
しかしストックも、親友として何年も付き合っているだけあり、ロッシュのそんな態度には慣れている。動じる様子もなく、鍵だ、と分かりきった答えを返してみせた。

「見りゃ分かる。聞きたいのは、何でいきなり鍵が出てきたかだ」
「言っただろう? 遅くなると家に帰るのが大変だ、と」

それは鍵が出てくる直前に2人が話していた内容だった。戦後のアリステルはとにかく人手不足で、軍部と政務という違いはあるが、ストックもロッシュも常に仕事に追われた生活をしている。業務が終了すると定められている時刻を過ぎても仕事が終わらないことはほぼ毎日であり、下手をすれば夜が更けるまで……本当に忙しい時は深夜と呼ばれる時間帯になるまで家に帰れない日もあった。2人がそれぞれ住む家は閑静な住宅街にあり、城からさほど遠いわけではないのだが、それでも歩いて20分はかかる。普段はともかく、大量の業務をこなして疲弊した身体で移動するには少々面倒な距離だ。あまりに遅くなった日はそのまま城に泊まり込むこともあるが、国の要職が使う執務室と言えど、就寝のための設備が整っているわけではない。仮眠程度ならともかく一晩泊まってしまった時は、疲れが抜けるとはとても言えなかった。仕方がないことだが、仕事が詰まると身体が辛くなる――というのが、今までの話の流れだったのだが。

「それは言ったが、何で鍵だよ」
「部屋を借りた」
「は、部屋ぁ?」
「ああ。……歩いて直ぐのところだ」

ストックの言葉に、ロッシュは数瞬考え込み。その間に頭の中で展開を組み立てたのか、確かめるように言葉を紡ぐ。

「つまり、遅くなった時に家まで帰らなくても休めるように、城の傍に部屋を借りたってことか」
「ああ」
「端折りすぎだ、分かんねえだろうがそれじゃあ!」
「そうか? 通じているようだが」
「今ようやくな……ったく、これで分かるのは俺くらいだぞ。他の奴にはやってやるなよ」

特に仕事関係は、と睨みつけられ、ストックは仏頂面で鍵を揺らした。その子供じみた表情に、ロッシュは呆れた様子で溜め息を吐く。

「まあ、それはともかくとしてだ。随分太っ腹だな」
「……そうか?」
「お前の個人用だろ? それとも部署で共有なのか」
「いや、俺が使うためのものだ」
「だろ。たまに泊まる用に一部屋用意するってんだから、太っ腹じゃねえか」
「たまに、という程頻度が低いわけじゃない。週に1、2度はあることだ。……ロッシュ、お前もそうだろう?」
「……ああ、まあな」

ストックも、外交関係と国内の雑務でかなり忙しくしているが、ロッシュの業務量はそれすら上回る。彼の階級は少将だが、先の解放戦争で上層部の多くが処分された今のアリステル軍では、それが第二位に当る地位だった。さらにトップのビオラは病気の療養中とあっては、どうしてもロッシュにかかる負担が大きくなってしまう。愛妻家で子煩悩な彼は、遅くなっても可能な限り帰宅しているのだが、それすらままならぬ日もけして少なくはなかった。

「そういう訳だ」

取り敢えず納得した様子のロッシュの前に、手にした鍵を置く。その行動は、しかしまたしても、ロッシュの理解を超えてしまったらしい。緩んでいたはずの眉根に再び皺が寄り、考え込む時の表情を形作る。

「……どういう訳だよ」
「これはお前の使う分……という訳だが」
「お前の部屋の鍵だろ、俺が持ってて良いのか?」
「……俺だけが使うと言ったか?」

ストックの言葉に、ロッシュはまた黙り込み。数呼吸の間そのままの姿勢で固まった後、ようやく考えが纏まったらしく、うっそりと口を開いた。

「お前と俺と、後は誰が使うんだ?」
「お前と俺だけだ。……そう何人も出入りしては、気が休まらない」
「ま、そりゃそうか。しかしそれなら、俺は良いのか」
「当たり前だろう」

言い放つストックの顔は、見たところでは単なる無表情にしか見えないが、ロッシュであればそこに不満の色が乗っているのに気付いたはずだ。言葉の外で語られる、何故態々そんなことを聞くのかという主張を受けてか、ロッシュが苦笑を浮かべる。
と、そこへやってきたのは、ロッシュの秘書を勤めるキールだった。話を聞いていたのか、幼げにも見える丸い目をきらきらと輝かせている。

「将軍、凄いじゃないですか!」
「あん、何がだ?」
「その部屋ですよ! 何か、秘密基地って感じです!」
「……秘密基地?」
「そうです、親友だけが知ってる秘密の場所とか、子供の頃作りませんでしたか? 思い出すなあ」

ティーカップをストックとロッシュの前に配膳し、淹れたての紅茶をティーポットから注ぐ。業務時間中に押し掛け、私事の話にかまけているにしては、随分な歓待だ。普通の相手であればこうはいかない、キールはストックに対して非常に好意的なのだ。勿論、仕事を邪魔されている本人であるロッシュが、何も言わずに受け入れているという事実もあるだろうが。ラウルあたりが見たら苦笑を禁じ得ない光景を、当の2人は特に疑問にも思わず、提供された紅茶を口に運んでいる。

「んなことしてた覚えは無いが……」
「何をおっしゃいますか将軍、秘密基地は男のロマンですよ!」
「……ストック、そうなのか?」
「……さあな」

しかしストックの持つ動機の中に、キールの言う浪漫を追求する意図は入っていなかったようだった。興味を示す気配も無いロッシュと同様に、ストックも気のない態度で否定を返している。だがキールも彼らとの温度差には慣れているようで、気にした風でもなく茶器を置き、熱い視線を鍵に注いでいる。

「当然、レイニーさんとソニアさんには内緒なんですよね?」
「……さすがにそれは無い」
「えー、でもそれじゃあ秘密基地にならないじゃないですか」
「そもそもお前に教えてる時点で、秘密でも何でもねえって。遅くなった時に泊まるんだから、教えておかないと連絡が取れなくなるだろう」
「そっか……それはそうですよね。でもじゃあせめて、鍵を持つのはお2人だけじゃないと!」
「……まあ、そうだな」
「おいおいストック、こいつの言うことを真に受ける必要はねえぞ?」
「ええ、酷いです将軍!」

発言に対してキールが抗議の声を上げたが、ロッシュが意に介した様子はない。言葉も返さず運ばれた紅茶を口に運んでいる、しかしその寛いだ表情は、キールの機嫌を直すに足るものであったらしい。しょうがないですねえ、と溜息を吐くと、自分の秘書机に足を向けた。

「では、自分は書類を届けに行ってきます」
「おう、すまんな。何なら適当に休んでこいよ」
「そんなわけにはいきません! 直ぐに戻りますから、将軍こそ少しごゆっくりお休みください!」
「やれやれ、それが秘書の言葉かよ。首相が聞いたら涙を流しそうだぜ」
「将軍は普段からご無理をしすぎるんです、たまには息抜きなさらないと。ストック内政官も、よろしければゆっくりなさっていってください」
「ああ。そうさせてもらう」
「あ、でも休憩が終わったら、お仕事頑張りましょうね! 今日は早めに上がって、お2人で部屋の下見に行かないと」
「おいおい、何だそりゃあ」
「だって将軍、一度ストック内政官と一緒に入らないと、遠慮して使わないでしょう?」

秘書を勤めるだけあって実に的確な指摘に、ロッシュは渋い顔になり、ストックは納得した様子で頷いた。

「……成る程、一理あるな」
「ストック、お前も同意すんな! あーもう、良いからさっさと行ってこい」
「はいっ! ともかくお2人とも、ゆっくりお休みくださいね!」

ロッシュの声に押されるように、キールは机の上から書類の束を持ち上げ。そして片手で器用に敬礼し、執務室から退出した。騒がしい秘書が出ていき、途端に静かになった室内で、残された2人は顔を見合わせる。
そのまま何となく、双方の表情に苦笑が浮かんだ。ふとロッシュが、机の上に置かれたままだった鍵を手にとる。鈍い金色に光る金属片は、ロッシュの大きな手に収まると、酷く小さなものに見えた。

「で、何割くらいが下心だ?」
「……半分、といったところか」

無表情に戻って言い放つストックに対して、ロッシュの苦笑は変わらぬままだ。歓喜と直接的には繋がらないものだが、幸いなことに怒りの色ともまた遠い。

「正直だな」
「嘘を言ったところで仕方がないだろう」
「まあ、そりゃそうか」

くるりくるりとロッシュが鍵を回す、その姿をストックはささやかな満足と共に見詰めた。鍵を渡した理由の中に、ロッシュの言うところの『下心』も勿論ある、しかしそれは肉体的な欲求だけで構成されるものではない。だがそれを弁明したところで、ロッシュが理解するとは思えなかった。家族とも仕事とも違うところで、2人だけが共有する空間を作りたかったのだと、そんな気持ちを解するにはロッシュの我欲は淡泊に過ぎる。だからストックは何も言わずにロッシュを見据える、ロッシュもそれ以上は追求せず、指の動きを止めて鍵を握り込んだ。

「んじゃ、有り難く貰っとくか。実際助かるしな」
「ああ。遠慮なく使ってくれ」
「そうさせてもらうぜ、執務室のソファだと身体が痛えんだよなあ」
「……当たり前だ」

ぼやきながらロッシュは鍵入れを取り出し、そこにストックから渡された鍵を収める。先に取り付けてあった2本の鍵と、新しい鍵がぶつかり合い、微かな金属音を奏でた。2本のう1本は家の鍵、そしてもう1本は今居る執務室の鍵……その中に、ストックとロッシュが使う部屋の鍵が混じる。

「今日は、どれくらいで帰れそうなんだ?」
「微妙なとこだが、キールに追い出されそうな気もするな」
「……そういえば、妙に乗り気だったな。自分のことでも無いのに」
「うーむ、あいつはたまに分からん反応をするからなあ。まあ、突発の会議でも入らなけりゃ、適当に上がれると思うぜ」
「そうか。……遅くならなければ、帰宅前に一度寄っていこう」
「そうだな、見るだけでも見せてもらっとくか。使うのはソニアとレイニーに話してからだがな」
「ああ」

3本が収められた鍵入れを仕舞い込むロッシュの、その挙動が心なしか上機嫌に見えるのは、気のせいと思うべきなのか。ともあれ、無事2人の共有空間を手に入れたストックは、満足げに頷いて紅茶を口に運んだ。






その鍵入れには、3本の鍵がある。

ひとつは家の鍵。
家庭に属する彼が使う鍵。
持っているのは彼と、彼の家族。

ひとつは執務室の鍵。
軍に属する彼が使う鍵。
持っているのは彼と、彼の秘書。



最後のひとつは、どこに繋がる鍵か。
どんな彼が使うのか。
それを知るのは、同じ鍵を持つもうひとりだけ。



セキゲツ作
2011.07.04 初出

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